【第02話】過去へ
「……ウマ。 ……ちょっと、トウマ。聞いてんのッ!」
鼓膜が破れたかと想うほどの爆音に、キーンと耳鳴りがした。
耳元で怒鳴り散らした犯人を探して、慌てて振り返る。
二つの目を大きく見開いて、俺を覗き込む銀色の瞳と目が合った。
「……エリス?」
感情の色を瞳だけでなく、顔にあるパーツを全て使った闇精霊族の少女が、いかにも怒ってますと言わんばかりの表情で、銀色の眉を吊り上げて俺を睨みつけてくる。
ついさっきまで一緒にいた混沌の魔女に比べたら、恐怖よりもどこか安心感さえ覚えるエリスの怒り顔を、トウマはぼんやりと見つめ返す。
「なによ、聞こえてるじゃない。さっきから話しかけても、私が見えてませんって感じで、ボーッと森ばっかり眺めて……」
俺の肩に置いていた手を離し、エリスが俺に背を向ける。
……革の手袋?
肩に触れていた人肌とは違う、ザラついた感触を思い出し、彼女が後ろで組んだ手袋をつい目で追った。
くるりと身体を一回転させ、銀色の瞳が再びこちらを見つめ返す。
「それで。私を、わざわざココに呼び出した用事は何?」
褐色肌の両腕を組んで、仁王立ちをしたエリスが、不機嫌顔で俺に問いかける。
「エリス……。髪、切った?」
「え? ……うん。さっき、ちょっと、切ったわね」
銀色のショートカットヘアの毛先を、エリスが指先で弄りながら、戸惑った態度で答える。
それは、ちょっとのレベルなのか?
まだ記憶に新しい、混沌の魔女と恐れられたエリスは、長い銀色の髪を腰まで垂らしていた。
でも、目の前にいる少女の姿をしたエリスは、ハサミを使ったのかも疑わしい乱雑な切り方で、顎のあたりで銀髪をバッサリと切っている。
ボーイッシュな髪型だが、もともとが美形種族の精霊族の血をひいてるため、少年と間違われることはなさそうだが……。
「トウマにしては、よく気づいたわね……。いいわ。さっき、私を無視したことは、それでチャラにしてあげる」
なにがチャラなのかはさっぱり分からんが、急に機嫌を良くしたエリスが、鼻歌混じりに歩き始める。
大人になったエリスは、感情というモノを失っていた。
思い出すだけで背筋が震えるほどに、氷の魔女の名にふさわしく、残虐な行為を無表情で淡々と行う。
幼馴染の俺から命を奪うことも、いっさい躊躇することなく実行するほど、冷酷な魔女になっていた。
今の彼女は、どうだろうか?
感情豊かで、表情や態度がコロコロと変化する。
何年も会ってなかったせいで、エリスってこんな子だっけか?
と、アイツが作り出した夢か幻で、俺に都合の良い彼女を見せられてるだけではないかと、つい疑ってしまう。
俺と別れた数年の間に、そこまで感情が抜け落ちる程のどんな出来事が、エリスに起きたのかと知りたくなる……。
だが、よくよく記憶を思い出してみれば、たしかに昔のエリスは俺が何かアクションを起こすたびに、一喜一憂してたような気もする。
んー……。
いきなり、いろんなことが起き過ぎて、俺も地に足がついてないというか、少しフワフワしてる気がする。
でも、アイツが言った通り、本当に俺が過去へ戻れたのなら……。
今の彼女を上手く俺が導けば、あの恐ろしい未来を回避できるかもしれない。
俺が、ここで……。
選択を、間違いさえ、しなければ。
「で、トウマ。私に話って、なに? 私ね。今日はとっても、大事な用事があるの。ゆっくりお喋りする時間は、無いからね?」
膝元までの高さにある岩の外側をぐるりと一周し、エリスが岩に腰を下ろした。
「用事?」
「ええ、そうよ。すっごく珍しいんだけど。エルフの長老に、用事を頼まれてね。王都まで出掛けるのよ。めんどくさいわね」
……嘘だ。
君はこの時、既にあの女と王都で会う約束をしていたのを知ってる。
君がエルフ達を裏切り、世界を裏切る予定だったことも……。
この頃の俺はまだ幼く、外の世界を知らなかった。
精霊族に忌み子として迫害された闇精霊族達が、どれほど精霊族に恨みを持ってるかを知らなかった。
だから、エルフの長老にお使いを頼まれたと言った、エリスの嘘を簡単に信じてしまった……。
「エリス、行かないでくれ」
そうだ、思い出した。
あの時の俺は、言葉にできない寂しさを覚えて、君にそう言ったんだ。
もしかしたら、これが今生の別れになるかもしれないと、そんな予感がしてたのかもしれない。
「フフッ。なによ、急に寂しくなっちゃったの?」
エリスに笑われてしまう。
あの時の俺は、恥ずかしさで顔を真っ赤にしていた気がする。
「んなわけねぇだろ!」だったかな?
恥ずかしさを誤魔化すように、乱暴な言葉を返したっけ?
「じゃあ、トウマ……。街に行くまでの間、私の護衛でもしてくれる?」
俺が……護衛?
今の俺は、どれくらい戦えるんだろうか?
多少の場数は、踏んだつもりだけど……。
まあ、無理だろうな。
少女の姿をしてるとはいえ、目の前にいるのは闇精霊族だ。
魔法をろくに扱えない俺では護衛どころか、エリスの足を引っ張る未来しか想像できない。
「冗談、冗談よ。トウマは弱いし、私ひとりで十分よ」
明らかに俺を馬鹿にした態度で、エリスがニヤニヤと笑う。
あの時の俺は馬鹿にされてへそを曲げ、そのままエリスとろくな会話もせず、別れた。
だったら今回は、彼女がこの地に留まるよう、説得するべきだが。
……どうやって、説得するのが正解なんだ?
「どうしたの、トウマ。私に、話があるんじゃなかったの?」
「えっと……。ちょっと、待ってくれ」
エリスは小首を傾げた後、爽やかに吹く風へ身を任せながら、眼下にある村を静かに見つめている。
たぶん正解は、エリスを王都に行かせず、彼女達とエリスを会わせないことだ。
エリスが彼女達に深く関わらなければ、エリスが混沌の魔女に堕ちる未来が、回避できる可能性が高い。
問題は、十六歳のガキへ戻った俺に、エリスを上手く説得できる材料が、全くないことだ……。
未来の君は世界を滅ぼす魔女になるから、俺と一緒にいてくれと素直に話したところで、俺の頭がおかしいと思われるだけだ。
「時間切れよ、トウマ」
上手い説得案が浮かばず、痺れを切らしたエリスが立ち上がる。
「しばらく会えなくなるけど……。またどこかで、会えたら良いわね」
すこし寂しそうな顔を見せながら、エリスが俺の横を通り過ぎようとした。
「エリス」
俺が声を掛けると、エリスの足がピタリと止まった。
「さよなら、トウマ」
こちらへ振り向きもせず、背中越しにエリスが別れを告げる。
離れて行くエリスの背中を、俺は無言で見送ることしかできない……。
君が未来で、どれだけ恐ろしい存在となったのか。
混沌の魔女となった君と出会って、君に俺がどれほど恐怖したのかを、伝えることができない。
これが最後のチャンスかもしれないのに、俺が君を止める手段が、何も思い浮かばない。
おもわず手を伸ばしたが、俺はやっぱり何も言えず、虚空を掴むことしかできなかった。
もっともっと君と沢山お喋りをして、距離を縮めとけば良かったな。
君の興味が湧く話を、君の口からもっと聞いておけば……。
やっぱり過去に戻っても、俺には未来を変える力は無いのかと、無力感を覚える。
――ねえ、トウマ。
誰かが、俺の名を呼んだ気がして、虚しく地面を見つめていた顔を上げた。
背を向けたまま、歩き続ける君を見つめる。
あの時、君が俺に囁いた言葉が、どうしても耳から離れない。
君と俺の頬が触れあった時、想像してたのとは違う、温もりを感じたのは、どうしてだろうか?
――私と、もう一度。
森に入ろうとする君の背を追いかけて、俺は走り出した。
今の俺に、言葉で君を説得することはできない。
駆け寄って来る俺の気配に気づいて、エリスが驚いた顔で振り返る。
革手袋をはめたエリスの手ではなく、褐色肌の腕を掴んだ。
――やり直したい?
だから、言葉以外のモノで証明するしかない。
君が世界に嫌われても、俺が君を嫌ってないことを――。
「ぐあぁッ」
言葉にならない、声が出た。
激痛と言うには生温い、掌を刃で貫かれたような痛みが走る。
想像以上の痛みだった。
焼けたフライパンを、素手で触る気持ちで覚悟していた、数秒前の自分を殴りたい。
「トウマ!」
エリスの悲鳴が、なぜか遠くから聞こえた。
明滅する世界が回転し、気づけば地面に尻餅を突いていた。
エリスに突き飛ばされたのか?
「ぐうっ……」
肉が焼けたような、嫌な臭いがする。
震える右腕に、視線を落とす。
掌が真っ黒に、焼け爛れていた。
今の俺は、君に触ることもできない。
闇精霊族は「他者の命を奪う」、そう説明しながら俺と常に距離を取っていた、君の言葉が証明された。
それでも俺は、君に伝えないといけない。
呆然とした顔で見下ろすエリスを、俺は見つめ返す。
「エリス、行かないでくれ」
君が、エルフや人間達を嫌っても良い。
世界を嫌っても、拒絶しても、かまわない。
エルフの森を去り、俺の村を見捨てる決断をしても、俺には君を止めれない。
でも、少しだけでいいから……。
俺に、時間をくれ。
俺に、もう一度、チャンスをくれ。
馬鹿で頭の悪い俺が、君と別れなくてすむ方法を、考える時間を……。
痛みからくるものなのか。
それとも、こんな馬鹿なやり方しか思いつかない、自分の情けなさからくるものなのか。
涙がボロボロと零れ落ち、目に映る景色が歪む。
「ばかトウマ。私、言ったわよね? 絶対に、私の肌に触るなって」
いつの間に近づいたのか、すぐ傍にエリスが立っていた。
喜怒哀楽が混じり合ったような、複雑な感情を浮かべたエリスが、俺を見下ろしている。
苦虫を噛み潰したような顔で、エリスが歯を食いしばった。
無言で革手袋を外し、腰元に提げたナイフを取り出す。
広げた掌に刃先を当て、躊躇なく肌を割いた。
「口、開けて」
「……え?」
「口を開けて。心配しなくても、トウマに触ったりしないから」
目に見えて不機嫌になったエリスに言われて、俺は素直に口を開く。
なんとなく嫌な予感を覚えたが、エリスの握り締めた拳が、俺の頭上に近づくのを見守る。
ギュッと力んだ拳の隙間から、赤い液体が零れ落ちた。
「飲んで……。拒絶しないで、私を受け入れるの……。飲まないと、指が腐って使えなくなるわよ」
恐ろしい言葉が耳に入り、必死にそれを飲み干そうとする。
鉄臭い味が口に広がったが、自分が思っていたほど嫌な気持ちは湧かず、素直に飲み込むことができた。
「まだ痛い?」
「……いや、痛くない」
握り締めようとしたら痛みは走るが、常に激痛が走ってたよりはマシだ。
ただ、掌は真っ黒で、使い物になるか不安になる。
褐色肌の両手が現れ、俺の手の下から包み込むように、そっと触れた。
覚えのある温もりだ。
ああ……。
やっぱり、君だったのか。
あの時、なぜ君が俺に触れることができたのか、疑問に感じてた。
やっぱり君は、俺と別れた後、瀕死だった俺を……。
「ボロボロじゃない。この手は、しばらく使い物にならないわね……。私の血を飲まなかったら、焼けて腐り落ちてたんだから、私に感謝しなさいよ。ばかトウマ」
症状を確認してくれたのか、俺の掌をひっくり返した後、エリスが俺のそばから離れる。
森の手前にある樹に背中を預け、エリスがボロい布蹴れを引き裂いた。
「予定変更ね。ばかトウマのせいで、ここから離れられなくなったじゃない。どうしてくれんのよ、ばかトウマ」
俺のことを何度も馬鹿呼ばわりしながら、自ら傷つけた手をボロ布で巻いて、止血をするエリス。
「私の血を何回か飲めば、多少はマシになると思うわ。でも、いきなり大量に飲むと、トウマの身体が壊れちゃう。だから、これから何日かに分けて、少しずつ飲むの……。分かった? ばかトウマ」
掌をグルグルに巻きながら、聞き分けの悪い幼子を諭すというよりは、呆れ顔に近い表情で、半目を閉じたエリスが俺を睨んでくる。
エリスの口から、ここに留まるという言葉を聞いて、俺は驚いた。
もしかして、変わったのか?
過去が、変わったのか……。
あの恐ろしい未来を、これで回避できるのか?
「聞こえなかったの、シラヌイ。予定変更よ。出て来なさい」
エリスが背を預けた樹の背後にある茂みが、ガサガサと激しく揺れた。
――ギチギチ、ギチギチ。
背筋がゾッとするような、嫌な音が聞こえる。
それは、あの戦場で嫌というほど聞いた音。
――ギチギチ、ギチギチ。
硬い物を擦り合わせたような、蟲を連想させる、あの音だ。
俺はゴクリと喉を鳴らし、唾を呑み込む。
エリス、まさか、君は……。
樹の影から、見覚えのある黒髪の少女が顔を出す。
目つきの悪い三白眼の童顔少女が、茂みをかきわけながら、顔色一つ変えないエリスの横に並んだ。
上半身は人の姿をしているが、少女の半身である腰から下は、丸みを帯びた黒い腹部に包まれた、異形の者。
黒光りする丸い腹部の横からは、細長い四本の黒い蟲足が生えており、つま先の鋭いかぎ爪を地面に突き立てる。
「エリスさん。誰ですか、このニンゲンは? もしかして……コイツが、私が最初に食べて良い、ニンゲンですか?」
このタイミングで……。
もう君は、コイツと知り合っていたのか?
三白眼の中にある濁った黒い瞳と目があった瞬間、過去の記憶が俺を包み、恐怖に身体が震え始める。
終末の世界で、混沌の魔女となったエリスと共に、万の大軍を率いて人々を恐怖に陥れた、黒蟻人達を束ねる者。
――黒蟻の女王――魔王シラヌイが、口元を三日月の形に歪め、嗜虐的な笑みを浮かべた。