【第01話】リセット
俺は、どこで選択肢を間違ったのだろうか?
思い当たる節は、いくつもある。
始まりは何だと記憶を辿れば、間違いなく君から逃げたことだろう……。
足元からじわりじわりと、膝元まで登って来る氷を見つめ、俺の両足と地面を氷漬けにした元凶を見上げる。
風の精霊による力だろう。
身に纏う紺色のローブの裾を、流れ吹く風になびかせて、空中を浮遊する一人の女性。
精霊族の血を引いてるが故に、人には決して叶わない美貌は、俺の知る少女時代よりも遥かに美しく、見る者を全て魅了しただろう。
彼女がもし、混沌の魔女と呼ばれ、世界に恐れられるバケモノでなければ……。
「どうしたのですか? さっきから黙り込んで……。聖女の死が、そんなにショックでしたか?」
他人に語り掛けるような口調で、無表情で俺に語りかける彼女に、心がズキリと痛んだ。
幼馴染だった俺の顔すら、彼女はもう覚えていない……。
顔にかかった銀色の髪を指先でかきわけ、混沌の魔女が別の方向へ視線を上げる。
彼女が見つめる先へ俺もまた目を向けると、目を逸らしたくなる光景があった。
地面から生えた、長く巨大な氷の柱。
十メートルもある氷の魔法で作られた棘の先端に、一人の女性が貫かれていた。
背中から一刺しで、誰が見ても致命傷と分かる、痛々しい姿をした聖女。
つい先ほどまで、世界の終末を憂いながらも俺と語り合ってた彼女は、亡き者となってしまった。
聖女を貫いた氷の柱は、一つだけではない。
俺の周りに、何本もの氷の柱が作られ、その氷の中には羽を生やした、人影が氷漬けにされていた。
使徒の力を持つ、聖女の力で召喚された、強力な天使達だ。
だが、その天使達も混沌の魔女と、周囲で蠢く異形の魔物達によって敗北した。
丸みを帯びた黒い腹部を持ち、蟻のような長い四足を生やし、上半身が人間の女性の姿を真似た魔物。
蟻人と呼ばれる忌み嫌われた魔物達が、氷の柱に群れをなしてよじ登っている。
聖女を貫いた巨大な氷柱の先端に、一匹の蟻人が立っていた。
皆の視線を浴びた蟻人が、片腕を高々と挙げる。
彼女が何かを叫ぶと同時に、周囲にいた蟻人達が一斉に咆哮した。
それは、魔物達による勝利の雄叫び。
俺の周りいる、何千、何万……。
数えるのも億劫な魔物の群れが、一斉に勝利の咆哮を上げる。
軽い地震でも起きたと錯覚するくらい、大地が揺れた。
「大陸の半分を支配していた、帝国は滅亡しました。聖女も死に、最後の希望も消えました……。それで、あなたはどうするのですか?」
空に浮遊していた混沌の魔女が、気づけば地面に降りていた。
腰元まで氷が這い上がり、下半身の身動きが取れなくなった俺に、混沌の魔女が歩み寄って来る。
それを俺に聞いて、どうしろと言うのか。
魔女が言うように、最後の希望は失われたのだ。
幸運でたまたま聖女の付き人として、拾われただけの俺が……。
魔法の才能は無く、剣の才能も大して無かった俺に、どうやって世界を滅ぼした魔女達に抗えと言うのだ……。
「聖女が死んで、心が折れてしまったのですか? 弱い男ですね……。恋人のために、一矢報いるくらいの気持ちも無いのですか?」
先ほどまで、感情もなく淡々と語っていた彼女の言葉に、少しだけ苛立ちを感じた。
……恋人?
まさか、俺と聖女様の関係を言ってるのだろうか?
胸元まで這い上がって来た氷を見つめていた俺を、下から覗き込む銀色の瞳。
もともと美人だと思っていたが、大人になった彼女は、更に美しかった……。
こんな悲しい再会など、したくはなかった……。
でも、運命とは残酷なもので、俺達は敵同士になった。
君が魔物達と手を組み、――世界を敵に回した――混沌の魔女となった時から、もう俺達は昔のような関係に戻れなくなった。
「すまない。エリス」
「……どうして、私に謝るのですか?」
感情の無いガラス細工のような瞳で、俺をじっと見つめていた混沌の魔女が、不思議そうな顔で首を傾げる。
ずっと、後悔していた……。
あの時のこと、いつか必ず君に謝らないと、いけないと思っていた。
「俺は、あの時……。助けてくれた、君の前から……」
「過去は、もう戻せないのよ。トウマ」
俺はまさかと思い、顔を上げる。
俺を見下ろす、二つの銀色の瞳。
感情の映らないガラス細工だった瞳に、わずかな感情の色が宿っていた。
ただし、それは歓迎すべきような良き感情ではなく、明らかに静かな怒りを含んだ色。
――穢れたエルフの血が混じったと言い伝えられた、ダークエルフ特有の――褐色肌の細い腕が伸び、掌が俺の頬に触れる。
氷は首元まで覆い、芯まで冷え切った身体のせいか、彼女の掌がやけに暖かく感じた。
「返してもらうわね、トウマ。あなたに渡した、大切なモノ」
薄ピンク色の唇が近づき、目と鼻の先にまで近づく彼女の顔。
胸の鼓動が高鳴り、目が離せない。
感情の無い顔でも、やはり美しいモノは美しい。
俺……やっぱり、好きだったのかな?
相手の吐息を感じられる距離で、彼女が力強く、息を吸い始めた。
身体が芯まで冷え切ってるのに、ゾクリとした異様な感覚が身体に走る。
銀色に光る粒子がトウマの口内から溢れ出し、彼女の小さく開いた唇に吸い込まれていく。
眩暈がする。
力が抜けていく。
何が起きてるのか分からないが、これを止めないと、俺が死ぬということは理解できる。
しかし、氷漬けにされた身体は、指一本も動かすことはできない。
俺の中から、なにかをひとしきり吸い終わった魔女が、唇をペロリと舐める。
「時は残酷ね、トウマ。昔の私なら、あなたから命を奪うことに、躊躇していたわ……きっとね。さようなら。私の……初恋の人」
互いの頬が触れ合う距離で、氷の魔女が囁いた。
俺の知る彼女は、もうここには存在しない……。
伸ばした二本の腕が、俺の頭を優しく抱きしめる。
混沌の魔女に抱擁されながら、送られる死を受け入れたトウマは、静かに目を閉じた。
「ねえ、トウマ……。私と、もう一度……」
魔女の口から漏れた吐息が、俺の耳に触れる。
――やり直したい?
トウマの両目が、見開かれる。
覚悟していた死は……訪れなかった。
「……エリス?」
俺は不安になって、かつての幼馴染の名を呼んだ。
もしかしたら、彼女の気まぐれで、俺の寿命が僅かに伸びたのかと思った。
しかし、彼女の名を何度も呼んでも、エリスは答えてくれなかった。
彼女は俺に頬を触れた状態で静止しており、その横顔を伺うことはできない。
ただ、妙だった……。
俺を殺そうとした彼女が微動だにしないのも変だし、先ほどまで五月蠅かったモンスター達の雄叫びも聞こえない。
周りを見渡せば、騒がしくしていた全ての生きる者達が、石像のように固まっており、まるで時が止まったかのような光景が広がっている。
「記憶は戻りましたか? トウマ君」
耳元で囁く声に、背筋がゾクリとする。
その声は、エリスの口から発せられたモノだと分かったが、同時にエリスとは異なるモノであると、一瞬で俺は理解する。
記憶……?
エリスの身体を介して、発言した言葉の意味を理解しようとした時、凄まじい量の情報が頭に流れ込んでくる。
それは、この世界にトウマが孤児として産まれ、世界に忌み嫌われたダークエルフのエリスと出会い、混沌の魔女に堕ちた彼女と再開するまでの記憶だけではなかった。
俺は……。
この世界に産まれるよりも、前に……。
「そうですよ、トウマ君。あなたは、すでに一度。地球と呼ばれた星のある世界から、転生してるのです。ただし、あなたは私との契約を拒み、転生ではなく死を望んだ。だから私は、あなたから前世の記憶を奪い、この地に堕とした」
俺に流れ込んで来た記憶が作られたものでなければ、コイツの言ってることは本当だ……。
あの時の俺は、生きることよりも、死を望んでいた。
「でも、今のあなたは違いますよね? 強い後悔。やり直せるならば、やり直したい過去がある。違いますか?」
その通りだと、言いたかった。
だが、素直に頷けない。
コイツの甘言を、簡単に呑み込むのは危険だと、俺の本能が叫んでいた。
「他の転生者達の中で、あなただけが私との契約を結ばなかった……。トウマ君。これは、最後のチャンスですよ?」
相手の表情は伺えないのに、彼女の姿を真似たモノが、楽しそうな笑みを浮かべた姿が、容易に想像できた。
「君には、二つの選択肢があります。記憶を捨て、全く異なる世界へ転生する道。それともう一つが……他の転生者と同じく、世界を混沌へと導きながら、魔王となる道です。ただし、君が最も後悔したあの日から、幼馴染とやり直しを図る道でもあります。多少の制約はありますが、今までの記憶は引き継げますので、そこは安心して下さい」
俺が望む都合の良い条件が、彼女の口から滑るようにスラスラと出て来る。
やっぱりコイツは、危険な存在だ。
俺に選択肢など、初めから一つしかないのに……。
ふと俺の視線が、足元に映る。
彼女の足元にあった黒い影が広がり、その中から黒い触手が伸びて来る。
それは彼か彼女すら分からぬ、人ならざるモノの身体の一部であろう。
無数の黒い触手が、俺と彼女を覆い始める。
幼い頃のエリスは、俺に言った。
この世界の契約は、馬鹿にできないものだと。
魔術師の語る契約は、言葉に魔法の力が作用しており、軽はずみに交わすのは危険である。
高位の魔術師との契約は、魂を縛るような、呪いにも近い契約が成されることもあり、絶対に受けるなと。
そう、君は言ったけど……。
俺は……。
「やり直す。あの日から、もう一度。俺は、エリスとやり直したい」
己の中から沸き上がった強い意志を、はっきりと口に出す。
「了解しました。契約成立です。神々が作り、編み込んだ運命の糸を見事潜り抜け、ここまで騙し抜いた異界の者よ……。可能性を秘めた魔王に、混沌あれ!」
どんな、祝福の仕方だよ!
そう口にするよりも前に、突然の強風が襲い掛かる。
昼がいきなり夜に暗転し、視界が真っ黒な闇に閉ざされた。
つむじ風の中心にいるように、俺と彼女の周りで強風が吹き荒れる。
俺達を中心に、世界が激変している。
視界に映るモノ全てが暗闇で、何が起きてるのかは分からない。
俺は強風に飛ばされないよう、必死に彼女を抱きしめ、地に足を踏ん張った。
気づけば俺の身体に張り付いてた氷が砕け散り、俺の身体は自由になっていた。
エリスの足元から這い上がっていた、不気味な黒い触手も消えている。
再び強風が俺達に襲い掛かる。
彼女を抱きしめようとしたが、その身体が砕け散った。
「……エリス」
氷が砕け散るように、粉々になった銀色の小さな宝石達が、暗闇だけの世界を美しく彩る。
幻想的な光景に一瞬目が奪われるが、銀色の光を追うように黒い霧が宙を舞い、世界に色が戻った。
呆然とする俺の目に映ったのは、豊かな自然に満ち溢れた、辺境によくある田舎の風景。
つい先程まで、世界の終末を想わせる荒れ地にいたはずなのに、それとは真逆の平和でのどかな村を、俺はぼんやりと見下ろしていた。
……村?
俺は崖上から一望できる村を、食い入るように見つめる。
「村長……。ナミタおばさんも、生きてる? じゃあ……ここは、もしかして……クラウディア村?」
見覚えのある顔があった……。
己の生まれ故郷に、まだ厄災が降りかかる前の光景。
……戻ったのか?
本当に、何度も悪夢にうなされた、あの日に戻ったのか?
過去に戻るという、ありえない現象が起きたせいか、まだアイツに夢か幻を見せられてるじゃないかと疑ってしまう。
自分の身体に触れてみた。
今の俺は、十六歳に戻ってるのか?
記憶は……あるな。
彼女と最後に会った時の、記憶も――。
ガサガサッと、茂みをかき分ける音に、俺の身体が跳ねた。
俺は恐る恐る、後ろに振り返る。
樹々の間に生えた茂みから顔を出した人物が、俺から数メートル離れた先で足を止めた。
「見つけたわよ、トウマ」
世界に厄災をもたらし、世界を終末に導いた、混沌の魔女。
その面影が残る闇精霊族の少女が、口の端を吊り上げて、ニヤリと笑った。