ランランラン!
プロローグ
私は書いておきたいのです、「生きづらい人生をいかに生きていったらいいのか」ということを。それは、私が祖父から学んだこと。私の書いたものが苦しんでいる若い人たちの助けに少しでもなったらいいと思っています。
私は大迫弓と申します。
私は息子からよく言われます、「もう歳なんだから、走るの、やめたら?」と。しかし、やめられません。
私が長距離を走り始めたのは、中学二年生の時です。そして、それ以来ずっとランニングを続けております。
私は祖父からランニングの手ほどきを受けました。そして、学びました、「ランニングという苦しみを楽しみつつ乗り越えて行く方法」を。そして、「ランニングという苦しみを通して、大いなる風を感じることができること」を。
「生きることはランニングに似ている」と私は思っています。生きることも走ることも苦しいことだからです。苦しいことばかりなのに、なぜ今まで走り続けてこれたのか? それは、苦しみを乗り越えた時に大いなる風が吹いて来るからです。大いなる風について、今から書いていきたいと思います。
第一章 大当たり
「青山さんに決定です! クジの結果、校内マラソン大会に出場する最後の一人は、青山さんに決まりました」
クラス委員の小柳さんの声が高らかに教室中に響きわたった。体がブルッと震えた。
私は顔を上げた。そして、二年三組の教室の教壇を見た。赤いメガネをかけた小柳さんが右手で一枚の紙を持って、ヒラヒラと揺すっていた。
「うそでしょう? 私、絶対、いや」
私は立ち上がって、つぶやいた。
教室にいる女子たちは手を叩いて叫んだ。
「あー、よかった。三キロ走るなんて、私、絶対無理だから!」
私は手を挙げた。
「鈴木先生! 私、体が弱いんです。マラソン大会で走るなんてできません。選手を替えてください! お願いします!」
私は大声で叫び、頭を下げた。
担任の鈴木先生は右手で頭を押さえた。そして、顔を上げて、私を見た。
「青山さん。クジでマラソン選手を決めることは、あなたも了解したことでしょう? 長い時間、話し合って決めたでしょ?」
「でも、私がクジで当たるなんて・・・・・・」
鈴木先生は腕を組んだ。
「何度も言ったけど、このクラスからマラソン大会に出なければならないのは三人と決まっています。そして、三人のうち、二人は白川さんと赤司さんが立候補してくれました。あと残り一人を誰にするかで、この一週間話し合って来ました。その結果、クジで最後の一人を決めることに決まったでしょ。あなたも賛成したでしょ」
「でも、私、三キロなんて無理です。このクラスだけ、二名参加にしてもらえませんか!」
鈴木先生が目を閉じて、ため息をついた。そして目をカッと開いて、私の目を見据えて言った。
「そんなこと、許されません!」
「そんな・・・・・・」
「あのね。来年はマラソン大会はないの。三年生はマラソン大会には出ない。高校入試が控えているから。今回が中学校生活最後のマラソン大会なのよ。だから、頑張って走ってちょうだい」
男子が叫んだ。
「青山! いい加減にしろよ。諦めろ! もう決まったことだぞ」
「クジだから平等だろ。これ以上待たされるのは、もうイヤだ」
横に座っている白川さんが私の袖を引っ張った。
「弓。諦めなさいよ」
私は仕方なく椅子に座りこんだ。フーッと大きく息を吐き出した。
鈴木先生が教壇に立った。
「それじゃあ、帰りの会を始めましょう」
帰りの会が終わって、私は教室を出た。
廊下で私は後ろから呼び止められた。
「青山さん」
振り返ると、鈴木先生だった。
「ちょっとだけ話していいかしら?」
鈴木先生は私を生徒相談室に連れて行った。
先生は椅子に座るなり、コホンと咳をして、私の目を覗き込んだ。
「マラソン大会のことだけど、大丈夫?」
私はしばらく床を見た。そして、顔を上げた。
「先生。私、やっぱり無理です。だって、私、体重六十キロもあるんですよ。身長は百六十センチしかないのに・・・。先生も
知っている通り、私、運動神経ゼロなんです」
「だけどねえ・・・・・・」
「わかります。この下関市立城山中学校は昔から駅伝が盛んな学校で、マラソン大会がずっと行われてきたこと。そして、三学期が始まったら、すぐに大会があって、保護者もたくさん見に来るっていうこと。だから、うちのクラスだけ二人参加するというわけにはいかないということも・・・・・・。だけど・・・・・・」
鈴木先生は左手で頭のてっぺんをポリポリと掻いた。
「駅伝部の生徒が二人、このクラスにいたから、簡単に二人は決まったけどねえ。あともう一人がなかなか決まらなかったわねえ」
「先生。あの二人が走るから、最後の一人にもプレッシャーがかかるんです、速く走らなければいけないって・・・・・・。それに、誰だって三キロなんて走りたくないですよ。きつくてたまりませんから」
「そうなんだけどねえ・・・・・・」
「私、イラストを描くのは得意だから、マラソン大会の選手名簿のイラストを描きます。そのかわり、マラソン大会だけは勘弁して下さい。先生。クラスに私以外の人で走ってくれる女子はいないんですか?」
先生は頭を抱えた。
「無理よ。一週間も話し合いをしたのよ。その間こっそりと多くの女子にお願いしてみたの。でも、ダメだったのよ」
先生は私の目を覗き込んだ。
「青山さん。こうなった以上、あなたに頑張ってもらうしかないのよ。走りたくないでしょうけど、ゆっくりでいいから完走してちょうだい」
「は・・・・・・、はあ・・・・・・」
席を立ち、私は生徒相談室を出た。
それから、下足に履き替えて、校門に向かった。後ろからタッタッという靴音が聞こえてきた。
「弓!」
私は後ろを振り返った。白川さんと赤司さんが立っていた。二人ともジャージを着て、ランニングシューズを履いていた。駅伝部の練習がもうすぐ始まるようだった。
白川さんが両腕を胸の前で組んで、言った。
「弓。あんた、マラソン大会に出たくないんでしょ?」
私はうなずいた。
「うん。私、走るの、苦手だから」
赤司さんが人差し指を私の胸に押し付けた。
「弓。私達、本気なの。マラソン大会で優勝したいの。私と白川の二人で一位と二位を取るつもり。問題はあんたが何分で走るかよ。クラスの成績は三人の合計タイムで決まるんだから」
白川さんが私に詰め寄った。
「弓。今日は十月三十日。大会が一月十三日だから、あと二ヶ月ちょっとある。練習、頑張ってよ」
赤司さんが私の右腕をつかんだ。
「あんた、練習、頑張るつもりあるの? どうなの!」
私は思わずあとずさった。
「そんなこと、言われても・・・・・・」
赤司さんは私の右腕をつかんで、強く揺すった。
「とにかくあんたに言っときたかったのよ、私達は本気だって。優勝したら金メダルがもらえるんだよ。私、金メダルが絶対欲しい。それから、二年一組にだけは負けたくないんだ。あそこのクラスも駅伝部の生徒が出るんだ。だから、お願いよ。これから練習してよ。本番に棄権なんてしたら承知しないわよ。あんたがもし棄権したら、私たちのクラスは失格扱いになってしまうんだから。頼んだわよ!」
そう言うと、二人は走り去った。
ピューッと冷たい風が吹き抜けて行った。
第二章 最強のコーチ、登場
私はとぼとぼと歩いて家に帰り着いた。
「ただいま」
私はカバンを投げ出して、キッチンに入っていった。母さんがテーブルに座って、保育日誌を広げていた。母は近所の保育園で勤めている。黒縁メガネを下げて、顔を上げた。
「どうしたの? 元気ないわね」
私は母を見た。母は私と同じようにでっぷりと太っている。私は心の中で思った、「私が運動オンチなのは、母親譲りだ。仕方ないよな」と。
私は椅子に座って、今日の出来事を話した。
母はフーッと息を吐き出した。
「そりゃあ、大変だね」
「母さん。どうしたらいい?」
母さんは目を細めて、右手で額をボリボリと掻いた。
「そりゃ、仕方ないね。やるしかないだろうね」
「やるしかないって、三キロも走らなくちゃいけないんだよ。うちのクラスは駅伝部のエースがいて、優勝候補なんだよ。私が遅かったら、非難轟轟だよ」
母さんは目を閉じて腕を組んだ。そしてそのまま黙り込んでいた。
しばらくして、母さんは目を開いて、両手の手の平を合わせて、パチンと鳴らした。
「いい手があるよ」
「何?」
「じいちゃんだよ、じいちゃん!」
「じいちゃん?」
「私の父さんよ!」
「ああ。馬場のじいちゃん」
母さんの旧姓は馬場で、母さんの父親が近所に住んでいた。
「じいちゃんがどうかしたの?」
「お前、知ってた? じいちゃんは足が速いんだよ。じいちゃんにコーチをお願いするの」
「えーっ。じいちゃんって盆栽が得意なだけじゃないの?」
母さんは手を振った。
「じいちゃんは引退してからは盆栽しかしてこなかったけど、それまではずっと消防士で、足がものすごく速かったんだよ。大学生の時は箱根駅伝を走ったんだよ」
「そうなの?」
母さんは両手で机をバンと叩き、立ち上がった。
「明日、じいちゃんの家に行って頼んでくるよ。お前のランニングコーチを務めてくれって・・・・・・」
「えーっ。やっぱり私、イヤだ。マラソン大会は出ない。棄権する。棄権する。棄権する。本番当日の朝に棄権する。みんなから何と言われてもかまわない。とにかく、苦しいのはイヤだ、イヤだ、イヤだ」
私は泣いて、叫んだ。
翌日の土曜日、母さんは朝食を終えると、じいちゃんの家に出かけていった。
昼前、母さんが家に帰って来た。
「ただいま。じいちゃんも一緒だよ」
私と父さんは玄関まで出て、じいちゃんを迎えた。
じいちゃんは右手を上げて、私を見てニッコリと笑った。
「よっ! 弓ちゃん。元気?」
「うん。元気だよ」
父さんがじいちゃんに頭を下げて、丁寧に言った。
「お父さん。ご無沙汰しています」
「ああ、達彦君。こんにちは。仕事はどうだい?」
「はい。おかげさまで、頑張っています」
父さんの声は少し震えていた。父さんはタクシーの運転手をしている。普段はいつもニコニコしているが、じいちゃんの前に出ると、ソワソワと落ち着かない様子だ。
じいちゃんが靴を脱いで家に上がった。じいちゃんと父が並ぶと、父の方が背が低い。じいちゃんは身長は百七十五センチもあって圧倒される。
じいちゃんのあだ名は「軍曹」。このあだ名をつけたのは、父さんだ。「うまいあだ名をつけたものだ」といつも感心する。じいちゃんはとにかく眼光が鋭い。人を射るような目つきだ。歳はたしか七十八歳になるけれど、そんな歳にはとても見えない。頭もしっかりしていて、じいちゃんが認知症になるなんて考えられない。確かに頭髪は薄くなっている。だけど、肩幅は広く、筋肉質だ。
じいちゃんはキッチンのテーブルに座るなり、私を見た。
「弓ちゃん。マラソン大会に出るんだって?」
私はじいちゃんの顔を見た。じいちゃんはニコリと笑った。でも、私はじいちゃんをにらみつけた。
「母さんに頼まれたんでしょう、マラソンのコーチ・・・・・・」
じいちゃんは右手を顎に当てて、「うん」と答えた。
「だけど、じいちゃんがコーチをするかしないかは、弓ちゃん次第だよ。今日はとにかく、弓ちゃんの考えを聞きたいよ。ちょっと河川敷を歩かないかい?」
私は思った、「面倒くさいな。別にここで話してもいいじゃない」と。でも、じいちゃんにコーチを諦めてもらうためには仕方がない。私はじいちゃんと家を出てしばらく歩き、川沿いの道に到着した。
じいちゃんはベンチに座って、空を見上げた。
「お天気がいいなあ。空が真っ青だ」
私はじいちゃんの横に座った。地面の石を拾って、川に向かって投げた。
「じいちゃん。私、走るの、いやだ。走りたくない」
「ふーん。どうして?」
「どうしてって、マラソンなんて、ただキツイだけだよ。苦しいとわかっているのに、走るなんてイヤだよ。なんで走らないといけないの? 無意味だよ、無意味!」
じいちゃんはうなずいた。
「そうだねえ。走るのが好きな人なんていないかもなあ。きついもんなあ」
私はじいちゃんを見た。
「そうだよ、じいちゃん。私、やっぱり走りたくないよ。だから、コーチもしなくていいよ」
じいちゃんはうなずいた。
「よっぽど走りたくないんだな」
「うん。死んでもイヤだ」
「そうかあ。まあ、レースに出るかでないかはじいちゃんが決めることじゃないからな。最終的には弓ちゃんが決めること。だって、弓の人生なんだから」
私は内心、「へーっ」と思った。
「じいちゃんは若い時、長距離を走っていたって聞いたけど、なぜ走っていたの?」
じいちゃんは手の平を額に当てた。
「そうだなあ。そう聞かれると、答えるのに困るなあ。でも、じいちゃん思うけど、走るのって『クルタノシイ』よ」
「『クルタノシイ』? 何、それ?」
じいちゃんは私の目を見つめた。
『苦しいようで楽しい。だから、『クルタノシイ』だよ」
思わず笑った。
「でも、『クルタノシイ』っていうネーミング、ちょっとダサいよ」
じいちゃんは口角を上げた。
「弓ちゃん。じゃあ、どう言ったらいいんだい?」
私は右手の人差し指を頭に当てて、しばらく考えた。
「そうだ。『クルヤバイ』っていうのは?」
「『クルヤバイ』?」
「うん。『苦しいけどヤバい』っていうことだよ」
「ふーん。『クルヤバイ』かあ・・・・・・」
「あっ! じいちゃん。『クルオモ』の方がもっといいかもしれない」
「『クルオモ』? 苦しくて重い?」
私は手を叩いて笑ってしまった。涙が出そうだった。
「じいちゃん、違うよ。『苦しいけど、おもしろい』っていうことだよ」
「おっ、それ、いいね。でも・・・・・・」
「でも、何?」
「じいちゃんはやっぱり『クルタノシイ』の方がいいな。と言うより、もっといいのは『クルタノシム』だな」
「クルタノシム?」
じいちゃんは頭を上下に振った。
「うん。動詞だよ。『クルタノシイ』は形容詞だけど、『クルタノシム』は動詞だよ」
「動詞の方がなぜいいの?」
「弓ちゃん。『クルタノシム』は、『苦しいことを楽しむ』ということなんだ。動詞だと、人が自分から主体的に苦しみに取り組み、苦しみを楽しむという積極的な姿勢を表現できる」
「はあ?」
じいちゃんはフーッと息を吐いた。
「つまり、人は苦しみを楽しむことができるんだ。動物にはそんなこと、できないけれどね。だけど、コツがあるんだ。そのコツは、苦しみを楽しむことができるということをあらかじめわかっていること、そして、苦しみを楽しむ覚悟で取り組むこと」
「じいちゃん。『苦しみを楽しむ』なんて、できないよ。『苦しみを楽しむ』って一体、どういうことなの!」
「うん。苦しいことにチャレンジすると、体の中から喜びとパワーが湧いて来るっていうことさ」
「喜びとパワー?」
「うん。苦しみや困難を乗り越えた時に喜びを感じることができるんだ。苦しみがなければ、喜びも生まれない」
「ふーん」
「喜びだけじゃない。パワーも湧いてくる」
「パワー?」
「自分の中に眠っている力を目覚めさせるんだ。自分の中に潜在してる強さを自覚し、表現するんだ。自分とは本当は何者なのかということを理解するんだ」
私は頭を傾げた。
じいちゃんの目がギロリと光った。
「弓ちゃん。それは実際に走ってみれば、わかるよ。苦しむと同時に楽しむことができるし、苦しくなければ楽しくないんだ。とにかく、走るって『クルタノシメル』ことなんだよ。例えば、その一つに『ランナーズ・ハイ』がある。知ってるかい?」
私は頭を横に振った。
「ううん」
「『ハイ』というのは、『上機嫌』という意味なんだ。『ランナーズ・ハイ』って、ゆっくりと長時間走り続けているうちに気分が高揚してくること。苦しいと感じなくなり、呼吸も楽になり、走ることがひたすら楽しくなるんだ。脳内物質のエンドルフィンが出て、どこまでも走っていけるような気がしてくるんだ。とにかく気持ちいい」
「どうしたらランナーズ・ハイになれるの?」
「そうだな。歩くような速さで長い距離を走るんだ。弓ちゃんは普段、ほとんど運動してないだろうから、まず歩くことから始めたらいい」
「歩く?」
「そう。まず、三十分ゆっくり歩くんだ。次に、歩くような速さでゆっくりと走ってみる。そうすれば、幸せな気分になれる」
「幸せな気分?」
「そう。目に映る世界の全てが美しく見えてくる」
「歩くような速さで」という言葉と「目に映る世界が全てが美しく見えてくる」という言葉が私の中で木霊した。
「それならやってみようかなあ」
「やってみるかい? とりあえず今日は歩いてみよう」
「うん」
「それじゃあ、いざ、出発!」
私とじいちゃんはベンチから立ち上がり、川沿いの道を歩き始めた。腕を振って、黙ったまま歩き続けた。
私はフーッとため息をついた。
「歩くって退屈だね。マンガ本を読むか、イラスト描いてる方が楽しいよ」
「弓ちゃん。マンガが好きなんだ」
「うん」
「マンガとかイラストって、面白いんだ」
「うん」
「弓ちゃんはなぜマンガやイラストが好きなの?」
じいちゃんは私をじっと見ている。私はしばらく考えてみた、「私はなぜマンガが好きなんだろう?」って。
私は顔を上げた。
「じいちゃん。理由なんてわかんないよ。わかんないと言うか、理由なんてないよ。ただ面白いんだ」
「そうかあ。じゃあ、質問を変えるよ。『なぜ』じゃなくて、『何のために』、マンガを読んだりイラストを描いたりするの?」
「なんのために?」
「そう、マンガを読む目的。将来、マンガ家になりたいとか、そういう希望があるの?」
「いや、そんなんじゃないよ。ただ、今、面白ければいいんだよ。退屈なのはイヤだし・・・・・・」
「そうかあ。じいちゃんは思うよ、『何をするにしても、希望を持っておくって大事だ』と」
「希望?」
「将来に実現したいことを持っておくって、大事なんだよ」
「将来ねえ」
「今すぐ得られる満足感だけじゃなくて、未来に達成したい夢も持っておくって、大切なんだ。たとえ現状が苦しくても、未来に希望を抱いていれば乗り越えることができる」
じいちゃんは唾を飛ばしながらしゃべり続ける。
「今この瞬間に喜びや面白さを感じることも大事なことだと思うよ。それがないと、やっていけない。だけど、今さえ楽しければそれでいいというのでは、物足りないと思うんだ。将来に希望を持つんだ」
「どういうこと?」
「弓ちゃん。温泉、好きかい?」
「うん」
「温かい温泉につかっているって楽で、気持ちいいよね。でも、ずっと温泉につかっていられるかい?」
「うーん。ずっとは無理かもね」
「温泉につかるのって、楽で気持ちいいけど、ずっとは無理だろう? それに、温泉の気持ち良さよりももっと気持ちいいことを感じたいと思ったりしない?」
私は考えた、「温泉の気持ち良さよりももっと気持ちいいことって、何だろう?」と。
私は答えが見つからず、黙ってじいちゃんの顔を見た。
じいちゃんは私を見て、笑った。
「弓ちゃん。温泉の気持ちよさよりももっと気持ちいいものって何なのか・・・・・・本当の満足感、魂の充足感って何なのか・・・・・・自分で考えてみてよ。じいちゃん、明日の日曜日も来るから、おしゃべりしながらゆっくり走ろうよ。その時に弓ちゃんの考えを教えてよ」
「うん・・・・・・」
私とじいちゃんは方向転換をして、家に向かって歩き始めた。
第三章 どこまでも走っていける!
翌日の十一月一日、日曜日。午後三時。じいちゃんがやって来た。じいちゃんのいでたちは、まさしく「ランナー」だった。上下のジャージ。赤い帽子。そして、ピンクのランニングシューズ。
私も長袖長ズボンの体操服を着て、運動シューズを履いた。
じいちゃんが白い歯を見せてニコニコ笑った。
「かっこいいぞ、弓ちゃん」
「じいちゃんこそ!」
私とじいちゃんは冷たい風が吹く中をしばらく歩き、近所の河川敷の道に到着した。
そこで、私たちはラジオ体操をしたり、膝の屈伸をしたり、足首を回したりした。私はじいちゃんの背中を見て、おどろいた。ジャージを着ていても、じいちゃんの背筋がブリブリと盛り上がっているのがわかった。私は思った、「さすが軍曹!」と。
じいちゃんはつぶやいた。
「ケガしたら何にもならないからな」
「じいちゃん、体の調子はどう? 悪いところはないの?」
じいちゃんは顔をほころばせた。
「心配してくれて、ありがとう。もう歳だからなあ。でも今のところ、調子の悪いところはないんだ」
「そう。それは、よかった」
「弓ちゃんは、どう?」
「私? 私は完全な運動不足」
じいちゃんは急に真面目な顔になった。
「無理をしない! いきなり急激な運動をしてしまうと故障してしまう。何をするにせよ、少しずつレベルアップしていかなくちゃあ、うまく行かないからね。何かを成し遂げようと思ったら、スモールステップが最高の近道」
「そうだね」
「これで準備体操終了。それじゃあ、ランナーズ・ハイを感じるために出発。歩くよりも少し速いくらいのスピードでニ十分間。じいちゃんとおしゃべりしながら走るよ」
私とじいちゃんは走り始めた。じいちゃんは私の横を走る。
「スッスッ、ハッハッ、スッスッ、ハッハッ」
じいちゃんが呼吸を整えながら腕を振ってゆっくりと走る。私も同じように走ってみる。
じいちゃんの走るスピードは驚くほどゆっくりで、私は「もう少し速くてもいいな」と思ってしまう。
走っているうちに汗がジンワリと出て来た。心臓がドクドクと波打っている。「ちょっときつい」と思っていたら、急に足が軽くなって、気分が良くなった。「これがランナーズ・ハイなのか・・・・・・」って思った。
じいちゃんが腕時計を見た。
「オッケー。二十分以上走ったので、ちょっと休憩。どうだい、弓ちゃん? ランナーズ・ハイを感じた?」
私はニンマリした。
「来ました、来ました。何とも言えない爽快感。これが、ランナーズ・ハイなの?」
じいちゃんが笑った。
「その感覚を忘れないようにね」
私ははしゃぎながら言った。
「また『ランナーズ・ハイ』を味わうことができるかな?」
「もちろん」
「じゃあ、私。また少し走ってみようかな?」
じいちゃんが「ウン、ウン」と言ってうなずいた。
「あしたの放課後もじいちゃんと走ってみる?」
「うん」
私は思っていた、「マンガもいいけど、この気持ちよさもいいかも」と。
じいちゃんが私に向かって言った。
「弓ちゃん。じいちゃんが昨日言ったこと、考えてみた?」
「昨日言ったこと?」
「うん。温泉につかることなんかよりも、もっと気持ちのいいことは何か? 弓ちゃんの将来の希望・・・・・・」
「うーん。よくわからないよ」
じいちゃんはコホンと咳をした。
「弓ちゃん。人生って短いんだよ。一度きりで、いつ終わるか、わからない。だから、考えてみた方がいい、自分が本当に達成したいことは何なのか、自分が心の底から希望するものは何なのかを」
「うん」
私はじいちゃんと共に家に向かって歩き始めた。
次の日、十一月二日、月曜日。学校を終えて帰宅したら、じいちゃんが家に来ていた。
私はさっそくジャージに着替えて、外へ飛び出した。
「じいちゃん。今日もジョギングやろう」
私達は河川敷の道をゆっくりと長い時間走った。すると、またランナーズ・ハイを感じることができた。
私は言った。
「ランニングって一旦はきつくなるけれど、我慢して走っていると苦しさから解放されて楽になるから、不思議だよね」
じいちゃんは軽く息を吸ってから、言った。
「弓ちゃん。マラソン大会の参加はどうするつもり?」
「うん。まだ決めてない」
「そうか。大会に参加するかどうかを決めるポイントは何?」
「うーん。わからない。今はクジで当たったから『仕方なく出ないといけないかな』と思っているけれど」
じいちゃんは両手を合わせてポンと叩いた。
「そうだ、弓ちゃん。違う見方から考えてみたら?」
「違う見方から考える?」
「うん。マイナス思考ではなく、ポジティブに考えてみる見方もある。『クジで選ばれて仕方なくマラソンを走らされる』のではなくて、『マラソンを走れるチャンスをもらった』と考えてみるんだ」
私は手を横に振った。
「無理! 『マラソンを走れてラッキー』って捉えることなんて、できるわけない!」
じいちゃんは人差し指を立てて、言った。
「それじゃあ、マイナス思考でもなく、プラス思考でもない見方があるよ、弓ちゃん!」
私は叫んだ。
「えーっ!」
「それはね、こういう見方なんだ。マラソン大会に出ることは『良いことでもないし、悪いことでもない』と見るんだ」
「どういうこと?」
「一見すると良いように見えることも、悪いように見えることも、等価に見るんだ」
「『とうか』にみる?」
「ものの価値が同じであると見るのさ」
「はあ?」
「どのような体験に対しても公平に観察するんだ。自分に起こった出来事に対して、『これは良い』とか、『あれは悪い』とか、ラベルを貼ったりしないようにするんだ」
「評価しないっていうこと?」
「そうだよ。その通り!」
「じいちゃん。そんなこと、できないよ!」
「いいや、できるよ、弓ちゃん。マラソン大会に出場することに二つの点が必ずあるんだ。二つの点とは、『良い点』と『悪い点』だ。それを探して見つけるんだ」
「マラソン大会出場の良い点と悪い点?」
「うん。どんな点があると思う?」
私は手を額に当てて考えてみた。
「マラソン大会出場の悪い点は『きついこと』、『他人からのプレッシャーがかかること』というのはすぐわかるけど、マラソン大会出場の良い点なんてないと思うよ」
じいちゃんが首を横に振った。
「いや、そんなことない。一見すると悪いことばかりに見えることの中にも探せば必ず良い点が見つかる。マラソン大会出場の良い点として挙げられることは、例えば、体力も気力もアップするとか、気分転換できるとか、ストレス解消になるとか、クラスメートから信頼されるようになるとかいったことが挙げられるかもしれない」
私は思った、「そう言われれば、そうかもしれない」と。
じいちゃんはしゃべり続けた。
「真実は多面的なものだ。自分の見方で変化する。物事は黒か白のどちらか・・・なんて、単純なものじゃない。二面性があって、良い点もあれば、悪い点もある。例えば、ランニングに対しても、『苦しい』と決めつけないで、『ランニングって、クルタノシイものなんだ』と見るんだ」
私は口をとがらせた。
「ランニングに楽しさとか良い点なんてないよ!」
じいちゃんが右手の人差し指と中指を立てて、私の目の前に突き出した。
私は頭をかしげながら言った。
「ピース?」
「いいや、二つだ。ランニングの『クルタノシサ』には二つある」
「二つ?」
「一つは、成長だ。苦しい練習を通して人は速くなれるし、強くなれる。つまり、ランニングは苦しいけれど、体にもメンタルにも良い効果があるんだ。長距離走は短距離と違って、練習をすればするほど、その成果がすぐに現れて記録が伸びる。だれでもだ。おまけに、苦しみに打ち勝つことで自分に自信がついて、強い気持ちを持てるようになる」
「なるほどね。じいちゃん。もう一つの『クルタノシサ』は何?」
じいちゃんは大きく息を吸った。
「もう一つの『クルタノシサ』は、風を感じることができるっていうことだ」
「風?」
「走るという苦しみを突き抜けた時に吹いてくる、大いなる風だ」
私は思った、「それって一体、何?」と。私は黙ってじいちゃんを見た。
じいちゃんは舌を出して、ペロッと上唇を舐めた。
「苦しみを突き抜けた時に吹いてくる風、そいつは実際に走った人しか感じることができないものなんだ。そいつはとてつもなく素晴らしいものなんだ」
「それってどんな感じなの? 教えてよ、おじいちゃん!」
「うーん。さっき言ったように、それは言葉では伝えられないものなんだ。頭で理解するものじゃない。それは感じるものなんだ。だから、それを感じるためには、お前さんが実際に走ってみるしかないんだ」
「私が実際に走らないとダメなの?」
じいちゃんは大きくうなずいた。
「ああ、そうだ。走ることは確かに苦しいことだ。しかし、苦しみを突き抜けた時に風が吹いてくる。と言うか、苦しみを突き抜けた者にしか、その風を感じることはできないんだ。苦しみなしでは風もないんだ。弓。じいちゃんはお前さんに風を自分の肌で感じてほしい!」
じいちゃんがまぶたを上げて目玉を突き出した。
「弓ちゃん。マラソン大会に出てみないか? そのための練習を明日から始めないか?」
私はハッと気づいた、「このまま、じいちゃんの作戦に乗っちゃダメだ」と。
「じいちゃん。歩くようにゆっくり走ると『ランナーズ・ハイ』の状態になれて気持ちいいけれど、実際のマラソン大会や練習ではスピードを上げて走らなければいけないでしょう。そんなの、きつくてイヤだ!」
じいちゃんは目をつむった。そして、ゆっくりと息を吸い込み、ゆっくりと息を吐き出した。そして、それを何度か繰り返した。
じいちゃんは目をカッと開いた。そして、私の目を見た。
「弓ちゃん。お前さんが成長するためには、苦しみは欠かせないんだ。苦しみに向き合って苦しみに打ち勝つことでお前さんは心の強さを育むことができる。苦しみがなければ、お前さんは成長できない。それに・・・・・・」
「それに?」
「苦しみが大きければ大きいほど、大きな風が吹いて来るんだ」
私はため息をついた。
「マラソン大会以外にも苦しいことは多いんだよ。苦しみなんかもう十分。避けられる苦しみは避けたいの、じいちゃん」
じいちゃんは「うーん」と唸った。
「弓ちゃん。人生には苦しみが用意されているんだよ」
「え?」
私は自分の耳を疑った、「今、じいちゃん、なんて言った?」と。
じいちゃんは右手で鼻の頭をこすった。
「困難から解放されたいと願うだろうけど、人生はそんなふうには進まない。人生には苦しみが最初からセットされているんだ、必ず。と言うか、『人生は苦しいことだらけ』だよ」
「そんなあ! 生きることが苦しいことだらけなんてイヤだよ」
「確かに人生には苦しみがある。なぜなら、物事は自分の思い通りには行かないし、すべて変化していくからなあ。だけど、だからといって人生に対してイヤな気持ちや怒り・憎しみを持ってはいけないんだ。そんなことしても、苦しみは無くならない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
じいちゃんはスッと息を吸い込んで、しゃべり続けた。
「『生きることは苦しいことだ』と最初から諦めて受け入れるんだ。走ることも同じさ。『走ることには苦しみがあって、当たり前なんだ』とあらかじめ覚悟するんだ。そうすれば、苦しみに耐えられる。苦しみを突き抜けることもできる。もし、お前さんが苦しい事なんてあるべきじゃないと思っていたら、どうなる?」
私は考えてから答えた。
「苦しみなんてあるべきじゃないと思っていたら、私は苦しみに直面した時に負けてしまう。折れてしまう」
私は頭をゴリゴリ掻きながら言った。
「でも、じいちゃん。走るのも生きるのも苦しいことだらけなら、走るのもイヤだし、生きるのもイヤだ」
じいちゃんは白い歯を見せて、「フフフ」と笑った。
「いいや、ただ苦しむだけではないんだ。弓。お前さんは、苦しみを楽しむことができる。それから、苦しみを乗り越えて風を感じることもできる。さらに、苦しみからエネルギーを得ることもできる」
私は叫んでいた。
「苦しみは悪いものじゃないっていうの? ある方がいいとでも言うの?」
じいちゃんは「フフフ」と笑った。
「苦しみは適度にあるのがいいのさ。なさ過ぎてもいけないし、あり過ぎてもいけない。そして、必要なことは、苦しみを正しく理解すること、そして、苦しみに対していかに対応するかを見極めて、それを実行することだ」
私は両手を上げた。
「じいちゃんの言ってること、さっぱりわかんない!」
じいちゃんはニヤニヤしながら、右手で自分の頬をポリポリと掻いた。
「とりあえず、走り始める前に覚悟するんだ、『走ることも生きることも苦しいことだ』と。行く手に苦しみが待っている様子を見て、『待ってました。苦しみよ、さあ来い!』と叫ぶんだ。心待ちに待つんだ、苦しみを突き抜けた時に吹いてくる風を。そうすれば、お前さんは苦しみを一つ一つ突き抜けていける。そして、苦しみを突き抜けた時、苦しみはお前さんを自由にしてくれるんだ。おまけに、苦しみを突き抜けた時、お前さんは輝く光に進化することができる」
私は口をポカンと開けたままだった。
じいちゃんは歩き始めた。私は黙ったまま、じいちゃんの後ろを付いて歩いた。歩きながら、私はじいちゃんが言ったことについて考え続けた。私は考えた、「苦しみを突き抜けた時、自由になれるとか、輝く光に進化できるとじいちゃんは言ったけど、それってどういうことなんだろう」と・・・・・・。
私達は家にたどり着くまで一言もしゃべらなかった。
家に帰り着いてから、じいちゃんが振り返って言った。
「それじゃあ、弓ちゃん。じいちゃん、もう家に帰るから」
「じいちゃん。今日はどうもありがとう」
じいちゃんは目を細めた。
「いやあ、じいちゃんの方こそ楽しかったよ。それじゃあ、さようなら」
「じいちゃん・・・・・・」
私はじいちゃんの背中に向かって言った。
じいちゃんが振り返った。
私は下を向いたまま、言った。
「じいちゃん。今度、いつ来る?」
じいちゃんはしばらくしてつぶやいた。
「弓ちゃん、いつがいい?」
「じゃあ、今度の土曜日」
心臓がバクバクと脈打ち、こめかみを流れる血管がドクドクと音を立てていた。
心に引っかかっていた、「苦しみを突き抜けた時に吹いてくる、大いなる風」という言葉が。
「じいちゃん。苦しみを突き抜けた時に吹いてくる風って、本当にあるの?」
じいちゃんはゆっくりとうなずいた。
「もちろん」
「弓ちゃん。目を閉じてごらん。そして、想像してほしい」
私は目を閉じた。じいちゃんの声が遠くから聞こえてくる
「今、お前さんはのんびりと温泉につかっている。湯船から窓の外を見渡すと、高い山が見える。山頂には風が吹いている」
私は瞼の裏に高い山をイメージした。
じいちゃんの低い声が聞こえてくる。
「お前はこれからどうする? そのまま温かな温泉につかっていることもできる。あるいは、温泉から飛び出して、寒い山道を登り、山頂を目指すこともできる。山頂に昇れば、大いなる風を感じることができる。お前さんはどちらでも選ぶことができる。お前さんは選択できる。そして、選択しなければならないんだ。弓ちゃん、どうする?」
私は目を開けて、じいちゃんを見た。
じいちゃんは言った。
「このまま温泉につかっていれば、楽に過ごせるよ。でも・・・・・・」
「でも?」
私は息を飲んだ。
「でも、このままなら、ずっと温泉に閉じ込められたままだ。けっして風を感じることはできない」
じいちゃんはそう言うと、手を振って帰っていった
第四章 良い原因作りをする
十一月七日、土曜日。
昼過ぎにじいちゃんが私の家にやって来た。
私はじいちゃんに自分の部屋まで来てもらった。私は畳の上に正座して、じいちゃんに向かって言った。
「じいちゃん。私、この一週間、マラソン大会に参加するかどうか、ずっと考えて来たんだ」
「うん、うん。それで?」
私は大声でキッパリと言った。
「参加します! 私、苦しみをつけ抜けた時に吹いてくる風を自分の肌で感じてみたい。だから、じいちゃん。私のコーチ、よろしくお願いします」
私は両手を畳につけ、頭を深く下げた。
「弓ちゃん。じいちゃん、うれしいよ。コーチの仕事はまかせとけ」
じいちゃんが大声を出し、右手で私の肩をバンと叩いた。痛かった。
私は右肩をさすりながらじいちゃんに言った。
「じいちゃん。練習メニューはどうしたらいいの?」
じいちゃんはうなずいた。
「そいつはじいちゃんにまかせとけ。だけど、その前に言いたいことがある」
「言いたいこと?」
「うん。ランニングの練習を始めるに当たって、知っておいてほしいこと」
「何?」
じいちゃんは右手の指を三本立てて、私の目の前に突き出した。
「三つのことを知っておいてほしい。一つ目は、『良い原因作り』。二つ目は、『何をすべきか、わかっていること』。三つ目は、『継続』」
私は目を丸くして、じいちゃんを見た。
じいちゃんは人差し指を立てた。
「まず一つ目の『良い原因づくり』。これは、原因と結果の関係だ」
「原因と結果の関係? 何なの、それは?」
「良い結果を得たければ、良い原因作りをしなければならない。もし、良い原因作りをしなければ、良い結果を得ることできない」
「それはつまり、何の努力もしないで三キロ完走することは無理っていうことね。だけど、逆に言えば、きちんと練習を積み重ねれば、三キロ走れるようになるということ?」
じいちゃんはうなずいた。
「その通り。高校入試だって同じだろう? 何の準備をしないまま入学試験を受けたって合格できない。高校に合格したいのなら、それ相応の準備をしなければいけないっていうことさ」
私は「うん、うん」と言った。
じいちゃんは人差し指と中指を立てた。
「次に二つ目の『何をすべきか、わかっていること』というのは、マラソン大会に向けて、今自分が何をすればいいかをわかっているっていうこと。これから二ヶ月間で三キロ走れるようになるためには、何をすべきかが知っておかなくてはいけない」
「なるほど。『どんな練習が必要か』ということを理解しておかないといけないんだね」
「そうだ。良くないのは、『こんなことをやっていて、目標を達成できるのか』って不安になってしまうことだ。そうではなくて、『自分が今やっていることを続けていけば、目標を達成できる』と確信して練習することだ。ところで、具体的な練習メニューについては、じいちゃんが作るから、安心して」
「ありがとう」
じいちゃんは右手の指を三本立てた。
「最後に三つ目の『継続』。どんな練習をすべきかがわかっていたとしても継続的に練習しなければ、三キロ走り切ることはできない。どんな練習をすればよいかがわかっているだけじゃなく、その練習をコツコツと積み重ねる継続力も必要なんだ」
「そのためには、どうしたらいいの?」
「そうだな、適度な休みを取って、疲労感を残さないことが大切。それに、忙しくて練習ができなかったとしても、焦らないで・・・・・・計画を練り直して練習を再開するんだ」
「計画的に練習を続けて、良い原因を作っていくことが大切なんだ」
じいちゃんは「その通り」と相槌を打った。
そして、ポケットから一枚の紙を取り出した。
「とりあえず、これから一週間の練習メニューを考えてみたんだ」
私はメニューを見て、笑った。
「こんなメニューを作っていたということは、『私がマラソン大会に出る』と決めつけていたんだ」
「そうそう」
じいちゃんは満面の笑顔だった。
そして、練習メニューの書かれた紙を畳の上に広げた。
月:筋トレ、ジョギング(三キロ)
火:休み
水:筋トレ、ジョギング(四キロ)
木:休み
金:ジョギング(六キロ)
土:ジョギング(六キロ)
日:休み
メニュー表では、練習日は月曜と水曜と金曜と土曜で、あとは『休み』と書かれていた。
じいちゃんがプリントを指差した。
「弓ちゃん、長い間、走っていないだろうから、一日ごとに休みを取るよ」
「今週は四日間だけ練習だね」
「うん。そして、一週間後の日曜には三キロのタイムトライアルをしてみようと思うんだ」
「タイムトライアル?」
「三キロを何分で走れるか、計測してみるんだ。自分の力を知っておくって大事だからね」
「大丈夫かな?」
「大丈夫だよ。今週の練習を計画通りにやりきれば、日曜には三キロ走れるよ。今週の目標は『ランニングに体を慣らしていくこと』。普段、運動不足でも問題なくやれる練習だよ」
「うん、わかった。それで、具体的に何をやるの?」
「持久力をつけるために、ジョギングだけではなくて、筋トレもしよう。腕立てとか、腹筋とか、背筋とか、スクワットとか・・・・・・」
「筋トレ? きつそうだな」
「弓ちゃん。ただ走るだけの練習では長距離はうまく走れないよ。筋力を強化した体になると、楽に走れるんだ。おまけに、ケガ予防になる」
「ケガ予防?」
「ケガをしないことが一番大事。痛みや違和感がある時は無理して走らない方がいい」
私は練習メニューの紙をつかんで立ち上がった。
「よし。やるぞー」
じいちゃんが笑った。
「あわてない、あわてない。ゆっくり行きましょう」
それから、私とじいちゃんはジャージに着替え、まず筋トレに取り掛かった。
第五章 ライバル出現
十一月七日から一週間、一日おきに練習した。家で筋トレをしてから、河川敷に行ってジョギング。私は息が上がるのに、じいちゃんは軽快に走る。
「水のある所を走るというのは気持ちいいなあ、弓ちゃん」
私は喘ぎながら、答える。
「そうだね。それにしても、じいちゃん、軽く走るねえ。すごいねえ。時々走っているの?」
じいちゃんは私をチラリと見て、笑った。
「実は時々走ってるんだよ」
「へーっ。すごい! 盆栽ばかりしていると思ってたのに・・・・・・」
「体を動かさないと、ストレス溜まるだろう? 走ると、体も気分もスッキリする」
「走るのって、楽しい?」
「イライラした時や疲れた時に走ると、最高だ。気持ちを切り替えることができて、気分爽快! それだけじゃない。免疫力が高まって、体調を崩しにくくなるし、気力・忍耐力・集中力もアップして、仕事や勉強もはかどるようになる」
「へーっ。そうなんだ!」
「弓ちゃん。何か聞きたいことは?」
「じいちゃん。うまく走るコツは何なの?」
「第一のポイントは姿勢だよ」
「どうすればいいの?」
「背筋をピンと伸ばすんだ。前傾し過ぎてもダメ。かと言って、顎が上がって後ろに傾き過ぎてもダメ。とにかく、極端はダメ。無駄な体力を消耗してしまうからね」
「なるほど。それから?」
「腕と足をリズミカルに振るんだ。足に力を入れすぎてはダメだよ。自分の前に並べられた空き缶をポンポンと踏みつぶしていく感じで走るんだ」
「ふーん」
「弓ちゃん。それから、走るペースも大事だ」
「走るペース?」
「最初はペースを少し押さえるんだ。最初に飛ばしすぎると、体力を使い果たしてしまって、後半にスタミナが切れて走れなくなってしまう。最初から最後までイーブンペースで走るんだ。ゴールした時に全部のエネルギーを使い果たしてしまうのがベストだな」
「イーブンペース? それって、むずかしいなあ」
じいちゃんはうなずいた。
「だから、実際に走ってみるんだ。そして、ちょうどいいペースを体で覚えるんだ。頭で理解することじゃない。三千メートルを実際に走ってみて、自分の走るペースを体で覚えるんだ。そのために本番前に三千メートルのタイムトライアルを何度かやった方がいい」
じいちゃんと一緒に走りながら、いろいろなことを学び、一週間の練習が終わった。
この一週間の練習で、私は走ることに快感を感じるようになった。練習すればするほど、体が軽くなっていく。走るペースも日に日に速くなっていく。
そして、これまでの練習の成果を試す時が来た。初めてのタイムトライアルだ。十一月十五日、日曜。今までは河川敷の道を走っていたけれど、今日は違う。家から五分ほど走った所にある下川公園で走る。ここには一周五百メートルの広場がある。ここを六周回って、三千メートルを走ってみるのだ。
じいちゃんと私は下川公園に着くと、いつも通りアップを行った。そして、じいちゃんがストップウオッチを持ち、スタートラインの横に立った。
「弓ちゃん。とにかく、自分の力を全部だしきってほしい」
空を見上げた。灰色の雲が風に流されている。心臓がバクバク音と立てていた。
「じいちゃん。気を付けることは何?」
じいちゃんは腕を組んだ。
「そうだな。最初の三周はかなり抑え気味にゆっくりと走るんだ。最初にスピードを上げ過ぎると、エネルギー切れになるから」
じいちゃんがそう言った時、声が聞こえた。
「ちょっとすみません」
女性の声だった。聞き覚えのある、低い声。声が聞こえてきた方向を見た。髪の長い女の子がこちらに向かって走って来る。
その姿が大きくなるにつれて、私の体が硬くなっていく。こめかみの血管がトクトクと波打っている。目を凝らして見た。嫌な予感が的中した。豊田翔子だった。虫唾が走ってしまう奴。同じ中学校の二年一組の生徒。昨年度、一年生の時は同じクラスだった。
豊田はじいちゃんの前に立ち、じいちゃんに向かって頭をペコリと下げた。それから豊田はジロリと私を見やった。細くて吊り上った目で、私を睨みつけた。キツネのような顔をしている。痩せていて、身長が百七十センチある。
豊田はじいちゃんに向き直って、猫なで声で言った。
「こんにちは。私、豊田です。青山さんと同学年の生徒です」
じいちゃんがニコリと笑った。
「こんにちは。私は弓のじいちゃんだ」
「いきなりすみません。お願いがあるんです。私も青山さんと一緒に走らせてもらいたいんです。私も一月のマラソン大会に参加するので・・・・・・」
じいちゃんは私の顔を見た。
「弓はどうだい? 一緒に三千メートル走るかい?」
私は黙ったまま、豊田を見た。
去年のことが私の頭の中に次々と浮かんで来た。一年生の二学期の合唱コンクールの時、何の曲を歌うかで意見が衝突して言い争ったこと。それ以来、私たちはお互いを毛嫌いし、全く話をしなかったこと。勉強でもスポーツでも争ってきたこと。
豊田はお下げ髪を人差し指でクルクルとまるめながら、目を細めて私を見た。
「ねえ、青山さん。一緒に走ってもいいでしょう?」
「魂胆は何よ?」
「魂胆なんてないわ。私もマラソン大会に出るから練習したいのよ」
「それで?」
「私、聞いたのよ、あなたのいる二年三組って、今度のマラソン大会で優勝候補だって。駅伝部のエースの赤司さんと白川さんが走るんだって。うちのクラスも駅伝部の生徒二人がマラソン大会に出るのよ。それで、私達三人で話し合ってるの、『三組に次いで二番になれたらいいな』って」
見え見えの嘘。私のいる三組を倒して、一組が金メダルを取りたいと思っているくせに。
私はじっと豊田を見た。
「どうして私と一緒に走りたいの?」
「一人で練習するより、二人で一緒に練習した方が効果的だし、楽しいでしょう?」
豊田の見え透いた計略。私がどのくらい走れるのか、偵察するためだ。
手の平がジンジンと熱くなっていく。「負けたくない」・・・・・・そう思った。
私はじいちゃんの顔を見た。
「じいちゃん。オッケーだよ」
じいちゃんは私を見て口を開いたが、何も言わなかった。その口をゆっくりと閉じて、フーッと息を吐き出した。それから、じいちゃんは豊田を見た。
「アップをしたら、スタートしようかね」
豊田は肩をグルグル回しながら言った。
「いいえ。アップは終わっています。いつスタートしてもいいです」
「それじゃあ、二人ともスタートラインに並んで」
私達がスタートラインで構えると、じいちゃんが叫んだ。
「よーい、ドン!」
豊田がダッシュして、私の前を飛ぶように走っていく。置いていかれるわけにはいかない。私の足が勝手に回転し、スピードを上げていく。
しかし、一周目を走り終えたところで限界に達した。心臓が口から出て来そうになった。苦しくてたまらない。手を振り、足を前に出そうとするけれど、ダメだ。私の足は今にも止まってしまいそうだった。
豊田がチラッと振り返り、私を見て笑った。くやしかった。しかし、足は全く上がらない。
豊田は私が自分を追って来ないのに安心したのか、スピードを少しダウンさせた。二周目と三周目、私の走るスピードは歩くのと変わらないペースまで落ちていた。
もうすぐ四周目に突入しようという時だった。豊田が私の横を追い抜いていった。
「お先に! やっぱりあなたにマラソンなんて無理よ」
豊田が嫌みたっぷりに言って、私を抜き去った。
豊田のお下げ髪が左右に素早く揺れている。速い! 速すぎる。
私の足が勝手に止まってしまった。私は両手を膝の上に乗せて、ゼイゼイと呼吸した。吐きそうだった。唾を吐いた。頭がクラクラして倒れそうだった。
じいちゃんが私に走り寄って来た。
「弓! 大丈夫か?」
私は黙ったままうなずいた。
じいちゃんが私の肩をポンポンと叩いた。
「何事も最初からうまく行かないもんさ」
豊田が私たちの所まで走って来て、止まった
「青山さん。大丈夫?」
じいちゃんが答えた。
「ありがとう。弓は最初にスピードを出し過ぎたんだ」
豊田が裏声でつぶやいた。
「青山さん、大丈夫?」
じいちゃんが私の肩をさすりながら言った。
「うん。しばらく休憩すれば、良くなる」
豊田が私の近くに寄ってきて、言った。
「お疲れ様、青山さん。よく頑張ったわよ、あなたにしては」
何かが私の中で弾けた。私の足は勝手に走り出していた。私は公園から飛び出して、家に向かって走り続けた。泣き顔を豊田にだけは見せたくなかった。
後ろから足音が聞こえてくる。
「弓ちゃん。止まって!」
じいちゃんの声。
右腕がつかまれて、私はその場にしゃがみ込んだ。地面を向いて両手で目を押さえた。体が小刻みに震えて止まらない。口を必死で閉じたけど、嗚咽が漏れていく。乾いた地面に水滴がポツンポツンと落ちて、地面に吸い込まれていく。
じいちゃんが私のかたわらに座った。あふれ出てくる涙をぬぐって、私はつぶやいた。
「やっぱり無理だよ。私、マラソン大会には出ない」
じいちゃんは黙ったままだ。
「私、豊田に勝てっこないよ。負けるのがわかってるのに、競争するなんてイヤだ」
どれくらいの時が過ぎただろうか。陽が傾き、辺りの景色の色がほのかに暗くなっていた。私は上着の袖で顔をぬぐった。
じいちゃんが大きく息を吸い込んだ。
「弓ちゃん。走る意味ってあるんだろうか? あるとしたら、それは何だろうか?」
「えっ?」
私はじいちゃんの顔を見上げた。
「じいちゃん?」
じいちゃんは独り言のようにつぶやく。
「人は他人と競争するために走るんだろうか?」
心の中で「それは違う」という声が聞こえてきた。
じいちゃんはつぶやきつづけた。
「弓ちゃん。原因と結果の関係を覚えてる?」
じいちゃんはしゃべり続ける。
「過去と他人は変えられない。だけど、今と自分は変えられるんだ。今を変えれば、未来を変えられる」
「じいちゃん・・・・・・」
「弓ちゃん。どちらを選ぶ? 温泉につかり続ける? それとも、温泉から飛び出して、寒空の中、山道を登り始める? 今、お前さんが温泉につかり続けるという選択をしたら、お前さんはずっと風呂の中から出て行くことはできない。そして、温泉という牢獄に閉じ込められたままだ」
「じいちゃん・・・・・・」
「弓ちゃん。たとえ太陽が沈んで真っ黒い闇に覆われたとしても、目を細めてよく見るんだ、遠くの山の頂にほのかに希望の火が灯されているのを」
「じいちゃん・・・・・・」
「弓ちゃん。とにかく、今日はもう家へ帰ろう」
じいちゃんが私の手をつかんで、立ち上がらせてくれた。それから、私とじいちゃんはゆっくりと歩き始めた。黙ったまま、私たちは歩き続けた。
第六章 頼りになるのは自分だけ
翌日、学校が終わって帰宅した。私は思った、「じいちゃんが来ているかも・・・・・・」と。しかし、じいちゃんは来ていなかった。
私は風呂に入って考えた、「私はこのぬるま湯にずっとつかりつづけるの? どうせ負けると自分を納得させて、チャレンジしないまま・・・・・・」と。
次の日、私はドキドキしながら家に向かった。私は心配していた、「じいちゃんが今日は家に来ているかも。そして、私を無理矢理、練習に引きずり出すかも・・・・・・」と。しかし、じいちゃんの姿はなかった。なんか、拍子抜けした感じがした。
夕食後、私は風呂に入った。湯船につかりながら、思った、「じいちゃん、私の練習、もう諦めたのかな。私はこのままぬるま湯に浸かったままで、ここから脱出することはできないのかもしれない」と・・・・・・。私は目をつむって頭をお湯の中に沈めた。そして、口からブクブクと息を吐き出した。肺の中にある空気をすべて吐き出した時、私は死にそうになった。思わずお湯から頭を出し、息を吸い込んで、ハアハアと呼吸を繰り返した。「生きている」という感じ。わたしは浴槽から飛び出した。そして、つぶやいた、「今から良い原因を作るんだ。そうすれば、未来に良い結果が得られるかもしれない。あきらめたら、何も変わらない」と。
翌日、十一月十八日、水曜日。放課後、私はじいちゃんの家を訪ねた。
私はじいちゃんの前に正座して、頭を下げた。
「じいちゃん! お願いです!」
じいちゃんが目を大きく開いて、私を見つめた。
「なんだ、なんだ? いきなり、どうしたんだ?」
「じいちゃん。私、走ります。コーチを続けて下さい。お願いします」
私は頭を畳にこすり付けた。
「へーっ。やる気になったのかい? 何があったんだい? うーん、理由はわからないけど、とにかく、じいちゃん、うれしいぞ」
私は顔を上げた。
「それじゃあ、じいちゃん。コーチを続けてくれる?」
じいちゃんが大きくうなずいた。
「もちろんさ! 喜んで!」
私はじいちゃんの首に抱きついた。
「うわあ! 助けてくれえ!」
じいちゃんが笑顔で叫んだ。じいちゃんは両手を伸ばして、私を突き離した。そして、首をさすりながら言った。
「弓ちゃん。近すぎるよ」
そう言って、じいちゃんは「ガハハ」と笑った。
じいちゃんは真顔にもどって言った。
「弓ちゃん。さっそくだけど、これからの練習メニューについて話してもいいかい?」
「じいちゃん! 私が練習を再開すること、わかってたの?」
じいちゃんが顔をほころばせた。
「弓ちゃんのことだから、そうすると信じていたよ。弓ちゃんなら、きっとできるよ。大丈夫だ」
「うん!」
体のまん中がポカポカと熱くなっていく。電熱器が体の中にあるような感じ。
じいちゃんがコホンと咳をした。
「弓ちゃん。今までの練習の目標は『トレーニングに体を慣らしていくこと』だったけど、これからは違うよ」
「何なの?」
「これから二週間の練習の目標は、『ランニングに体を慣らしていく』だ」
「目標、同じじゃない?」
「いいや、違うよ。最初の一週間は『トレーニング』だったけど、これからは『ランニング』だ」
私は頭を傾げた。
「これからは『ランニングに体を慣らす』? それって、一体?」
「走る距離を長くするんだ。その分、筋トレの量を減らすから安心して」
「走行距離を増やすの? どれくらい?」
じいちゃんはニヤッと笑った。
「先週は一日に三キロとか四キロとか走って来たけれど、今日からは七キロに増やすよ」
「七キロ! そんなの無理!」
じいちゃんは「大丈夫、大丈夫」とうなずいた。
「ペースはゆっくりだから。じいちゃんは言ってきただろう、『無理はしない』って。ケガをしたら何にもならないからね。安心して!」
「う・・・・・・うん」
「見てもらいたいものはこれだ」
じいちゃんはそう言うと、戸棚からプリントを取り出してきた。そして、畳の上に広げた。
そのプリントに書いていたことは、次のような内容だった。
月:休み
火:筋トレ、ジョギング(四キロ)
水:休み
木:ジョギング(七キロ)
金:休み
土:筋トレ、ジョギング(四キロ)
日:ジョギング(七キロ)
プリントを見て、私は「うーん」と唸った。
「七キロを走る日が一週の間に二回もあるよ」
「弓ちゃん。ペースはゆっくりだ。ゴールした時に『気持ちいい』と感じることができるくらいのペースで走るんだ。走っていて呼吸が乱れてきたら、ペースを落とす。じいちゃんとおしゃべりしながら走れるくらいのスピードで走るんだ」
「わかったよ。それに、筋トレの量が減るということだし・・・・・・」
「週に三日はお休みだ。疲労回復しないといけないからね」
「うん」
「合言葉は『クルタノシム』だ。楽なだけでは成長することはできない。走っていて、『ちょっときつい』と思えるスピードを探すんだ。そうすることで、ランニングに体を慣らすことができる」
「うん。それじゃあ、さっそく明日から練習再開! じいちゃん、よろしくお願いします」
私は頭をペコリと下げた。
翌日の放課後、私とじいちゃんは下川公園に行った。
準備体操とアップを終えて、私はじいちゃんに言った。
「じいちゃん。昨日の練習計画では、木曜日は七キロを走ることになっているけれど・・・・・・」
じいちゃんが黙ったまま、私を見た。
私は両手の手の平を合わせて、頭を下げた。
「お願い。今日は七キロではなく、三キロにしてくれない? あるいは、せめて四キロに・・・・・・」
じいちゃんは低い声でゆっくり言った。
「なぜだい?」
「なぜって、この間の日曜日にタイムトライアルをやって、三日間も全く走ってない。ブランクがあるから、いきなり七キロなんて走れないよ。練習再開の特別サービスということで、今日は七キロじゃなくて、三キロにしてよ」
じいちゃんはギロッと私を睨みつけた。体がビクッと震えた。
「弓ちゃん。気分や体調のムラに合わせて走ったり走らなかったりするのは、なるべく避けた方がいい。練習計画になるべく沿って一貫性を持って練習に取り組むって、大切なことだ」
「なぜ?」
「だって、その日の気分や体調の良し悪しで練習内容をコロコロ変えていたら、楽な方に流れてしまう。それでは、体力も走力も身に着かない」
「でも、じいちゃん、言ったでしょ、『基本的には無理しない』って。『ケガをしないことが一番大事だ』って・・・・・・」
じいちゃんは目をつむり、両腕を胸の前で組んだ。しばらくして、じいちゃんがゆっくりと目を開けて、叫んだ。
「バランスだ!」
びっくりして、私は叫んだ。
「何? バランス?」
「そうだ。バランスが大切だ、弓ちゃん。偏りすぎるのは、良くないんだ。練習が『きつすぎる』のも良くないし、『楽すぎる』のも良くない」
頭に血が昇っていく。頭がクラクラした。
「じいちゃん。適度なバランスを取るって、むずかしいよ」
「確かにむずかしいかもしれない。でも、弓ちゃん。走る前から『無理』なんて思わないでほしい。今日も、『今から七キロなんてできない』なんて思わないでほしい。できないかできるかは、走ってみないとわからない。それって、頭の中で考えて決めることじゃない。走ってみて、体が決めることなんだ。その日の練習量を頭に入れて走るんだ。今日だったら、『七キロ走れる』というペースで走るんだ。そんなふうに考えて走り始め、そして、その結果、例えば五キロ走り終えた時に『どうしてもこれ以上走れない』と体がサインを送ってきたら、その時は仕方ない。五キロでストップするんだ。じいちゃんの言っていること、わかるかい?」
私は言った。
「実際に走ってみて、体の様子を自分で観察し、判断して、練習量を調節するっていうこと? そして、練習は楽過ぎてもダメだし、大変過ぎてもダメ・・・・・・極端に偏り過ぎてはダメってこと?」
じいちゃんは人差し指を立てて、言った。
「適度な負荷のあるトレーニングに継続して取り組むんだ。自分の好きな練習だけしかしないとか、楽な練習だけしかしないとかじゃあ、成長できない。反対に、あまりに長時間走ったり負荷が強すぎるトレーニングをしたりしても、ケガをしてしまう。結局、少し苦しくて自分が成長できる、適度な練習を継続していかなくては」
「うん。ほどほどが大切なんだね」
「弓ちゃん。とにかく七キロ走ってみよう。『このペースなら七キロ走れそうだ』というスピードを自分で見つけながら走ってみるんだ。そうして、実際に走ってみて、その結果どうしてもこれ以上走れないというサインを体が出したら、その時は走るのをやめればいい」
私はうなずいた。
「うん」
私はスタートラインに立った。
じいちゃんがストップウオッチを構えた。
「よーい、ドン」
私は歩くように走り始めた。カタツムリのように用心深くソロリソロリと進んだ。
最初の一周を走り終えた。少しずつ体が熱くなってくる。呼吸も楽になってくる。意外と走れる。
私はそのペースを守って、二周目・三周目・四周目を走った。
五周目に突入しようという時、じいちゃんが言った。
「弓ちゃん。肩や手の力を抜いて!」
私は肩を上下させ、手首をブラブラと振った。力が抜けていく感じ。手は生卵を持つように柔らかく握って、腕をリズムよく振る。すると、リラックスして走れる。
私はそのまま気持ちよく走り、八周目を終えた。
じいちゃんが叫んだ。
「あと六周!」
あと三キロも残っている。スピードがガクンと落ちてしまう。疲れ? エネルギーを使い果たしてしまった?
でも、私は走り続け、十周を走り終えた。心臓がドクンドクンと鳴り続ける。なんで私は七キロも走っているんだろう。本番のレースだって三キロなのに。足を止めて歩き始めれば楽になれるんだ。この苦しみから抜け出すことができる。
私は十二周目に突入した。急に足が重くなる。ペタッ、ペタッという足音が頭のてっぺんにジンジン響く。唾を吐き出した。呼吸ができない。限界だ。
十二周と半分を走り終えたところで、私の足が止まった。私は歩き始めた。
じいちゃんの叫び声が聞こえる。
「歩くな! 歩いてしまうと走り始めるのがつらくなる。あと、一周半だ!」
私は両手を腰に当て、猫背になって立ち止まった。地面を向いてハアハアと荒い呼吸を繰り返した。
じいちゃんが走り寄って来た。
「弓ちゃん。大丈夫かい?」
「うん。めまいがする。吐きそう。気分が悪いよ」
「そうか。それじゃあ、ここでやめておくかい?」
私は黙ったままうなずいた。
じいちゃんは返事をしない。
私はじいちゃんを見上げた。
「じいちゃん?」
じいちゃんはつぶやいた
「ここでやめるか、それとも走り続けるか、どちらを選ぶかは弓次第だよ。でも・・・・・・」
「でも、何よ!」
「じいちゃんとしては、最後まで走り続けてほしい」
私は顔を上げて叫んでいた。
「じいちゃん。私に言ったじゃない、『走ってみて、体がダメだって言ったら、途中で止めてもいい』って! 私、走ってみたじゃない! それでもうこれ以上走れないんだから、仕方ないじゃない!」
じいちゃんはつぶやいた。
「弓ちゃんの体は『もうこれ以上無理だ』って本当に叫んでいる?」
脳天を殴られた気がした。体の中を電気が走り抜けていく。
私の体は本当にもうこれ以上走れないのだろうか?
なぜだかわからないけれど、涙が出て来た。
じいちゃんが私の背中をポンと叩いた。
「弓ちゃん。今日はここまでにしようか・・・・・・」
私とじいちゃんは帰路についた。下川公園を出て、自宅に向かってトボトボと歩く。
自宅の玄関に辿り着いた。じいちゃんが言った。
「今日はもうおしまい。過去は変えられない。過去のことをいつまでも考えても何にもならない。明日は休み。あさってから計画に沿って新たなスタートだ」
そう言って、じいちゃんは踵を返して、帰っていった。
翌日、二十日の金曜は練習は休み。
学校から帰宅して私はマンガを読んで、のんびりと過ごす。
私はマンガ本から頭を上げた。そして、つぶやいた、「あの時、私の体は本当にあれ以上走れなかったんだろうか? 少し立ち止まって呼吸を整えて、再び走り始めたら走り続けることができたんじゃないだろうか? 残り一キロ半を走って、七キロ完走できたんじゃないか?」と。
私はマンガ本を伏せて置いた。「走りたい」・・・・・・私の中で声が聞こえた。
十一月二十一日、土曜日。
午後二時、私は玄関に立っていた。ジャージに着替えて、ランニングシューズを履き、帽子をかぶって・・・・・・
じいちゃんが歩いて来る。私は手を振った。
「じいちゃん!」
じいちゃんも右手を上げて、手を振ってくれる。私は走り寄っていった。
「じいちゃん!」
じいちゃんは頭を上下に振る。
「じゃあ、行こうか、下川公園に!」
私達は下川公園に着いてから、筋トレをおこなった。そして、じいちゃんがストップウオッチを取り出した。
「今日はジョグで四キロ。ゆっくりでいいから走り切ろう。腰を落とさないで」
「腰を落とさない?」
「そう。頭のつむじの辺りにフックがついていて、そこをゆっくりと引き上げてもらっているイメージをして、腰を高い位置に保つんだ。そして、腕を振って、足のリズムをコントロールする」
私は人差し指と親指の先をくっつけて、オッケーのサインを送る。そして、わたしはのんびりと走り始めた。
しっかりと空気を吸い込むことを心がける。一定のリズムで呼吸を繰り返す。すると、走りもリズムに乗って来る。
私は走り続け、八周を走り切った。
ゴールすると、じいちゃんがストップウオッチを押した。
「三十一分十四秒! いいぞ、弓ちゃん! 一キロを八分のペースだ」
私は汗をぬぐった。冷たい風が私の額を吹き抜けて行った。
「じいちゃん。今日は最後まで楽に走れたよ」
「うん!」
じいちゃんが白い歯をむき出しに笑っている。
私は目を閉じた。
「気持ちいいよ」
「そうか・・・・・・」
じいちゃんが私にタオルと水筒を差し出した。
翌日の十一月二十二日、日曜日。練習計画では、七キロを走る予定。
午後、私とじいちゃんは下川公園のスタート地点に立った。
じいちゃんがストップウオッチを握って、言った。
「昨日、一キロ八分のペースで四キロを完走できたんだ。今日も一キロ八分のペースで走ってみるんだ。昨日と同じペースで走るんだよ」
「そうすると、七キロ、うまく走れる?」
「それは俺が決めることじゃない」
私は思った、「そうか。体に尋ねればいいんだ」と。私は走り始めた。
一周ごとにじいちゃんがラップを読み上げてくれる。
「この一周は、三分五十三秒。もう少し、押さえて」
私はハッハッと呼吸を繰り返しながら走り続ける。
四キロを過ぎた。意外と楽だ。
私はそのまま走り続ける。じいちゃんの指示に従いながら、同じペースで走り続けた。
そして、ゴール! 私は両手を上げて、じいちゃんに抱き着いた。私は十四周を走り切った。私は右手を力いっぱい握りしめた。
「やった!」
「お疲れ、弓ちゃん!」
「疲れたよ。疲れたけど、気持ちいいよ」
「やっぱりお前さんはやればできるよ、弓ちゃん!」
「うん。じいちゃん、ありがとう」
「いやいや、ワシは何もしていない。弓ちゃんが頑張った結果だよ」
私は思った、「良い原因を作れば、良い結果が訪れることになってるんだ」と。
それから一週間、私とじいちゃんは練習計画どおりに練習を進めていった。
そして、十一月二十九日の日曜日の午後、私たちは下川公園に練習に行った。
すると、二人の女の子が立っていた。二人ともおそろいのジャージを着ている。赤司さんと白川さんだった。
手を振りながら二人は私の傍まで走って来た。
「弓!」
白川さんが笑顔で私を見た。
「あんた、マラソン大会に向けて激しい練習をしているって聞いたよ。頑張ってるんだね」
赤司さんは私の肩をバンバン叩いた。
「さすが、弓。選手に選ばれた以上は頑張るから、えらいよ。私、うれしいよ」
そう言って、赤司さんは私のじいちゃんを見た、「この人、誰?」って言いたそうに。
私はおじいちゃんと二人の顔を交互に見ながら言った。
「ああ、こっちは私のおじいちゃん。おじいちゃん、こちらは私のクラスメートの赤司さんと白川さん。二人とも駅伝部で、私と一緒にマラソン大会に出るのよ」
じいちゃんは頭をペコッと下げた。
「弓のじいちゃんです」
「こんにちは。おじいさん、弓ちゃんのランニングコーチをされているって聞きましたけど」
「そんな大げさなものじゃないけれどね」
赤司さんと白川さんがじいちゃんに向かって頭を下げた。
「よかったら、弓さんと一緒に練習させてもらっていいですか?」
じいちゃんは私を見た。
「弓はどう?」
私はうなずいた。
「もちろん!」
二人が私の手を取った。
「ありがとう。弓ちゃん。マラソン大会に向けて一緒に頑張ろう」
じいちゃんが言った。
「弓は今日、ジョグで七キロ走る予定なんだ。赤司さんと白川さんも一緒に走ってみる?」
「はい」
「弓は一キロ八分ペースで走るから、二人は自分のペースで走ってみて」
私達三人はアップをやり始めた。ふと、私は不安になった。この間、豊田と一緒に走った時、豊田のペースに合わせてしまい、オーバーペースになって、途中でリタイアしてしまった。私は心配になって来た、「今日も赤司さんと白川さんを追いかけてしまい、オーバーペースで息切れしてしまうんだじゃないだろうか」と。
私はじいちゃんに近寄って行った。
「じいちゃん。お願いがあるんだけど・・・・・・」
じいちゃんが頭を傾げた。
「何だい?」
「私と一緒に走ってほしいんだけど・・・・・・」
「じいちゃんが?」
「うん。私の横を走ってほしい、できたら一キロ八分のペースで」
じいちゃんは頭をかしげながら、私を見た。
「どうして?」
「うん。この間、豊田と一緒に走った時、豊田を追いかけてダッシュしてしまって、途中で走れなくなったでしょ。今日も同じようになるんじゃないかと心配なの。じいちゃんが私と一緒に走ってくれたら、私、七キロを完走できると思う」
じいちゃんが叫んだ。
「ダメだ!」
雷が鳴って体がピクッと震える・・・・・・そんな感じだった。
私は恐る恐るじいちゃんを見上げた。
「他人に頼るんじゃない。自分は自分で管理するんだ。セルフコントロールだ。本番のレースでじいちゃんが伴走できるか? 最終的に頼りになるのは、自分だけなんだ。レースでは誰も助けてくれない」
「じいちゃん・・・・・・」
「うまく行っても行かなくても、すべて自分次第なんだ!」
私はフラフラしながらスタートラインに立った。赤司さんと白川さんが私の横に立つ。じいちゃんは叫んだ。
「よーい、ドン!」
赤司さんと白川さんの背中がアッという間に小さくなっていく。私の走るペースもいつもより上がっていく。
一周走り終えたところで、じいちゃんが時計を見て、ペースを読み上げてくれる。
「この一周、三分三十二秒。ちょっと上げ過ぎだよ。押さえて!」
二周目を走り終えたところで、じいちゃんが時計を見る。
「この一周、三分四十秒。まだ速すぎるよ」
私はスピードを少し落とす。もうすぐ三周目が終わるという時、私の後ろで足音がした。すると、次の瞬間、赤司さんと白川さんが私を追い抜いて行った。「追いかけたい」と思った。しかし、次の瞬間、私は思った、「頼りになるのは自分だけなんだ。ペースを自分でコントロールするんだ」と。
三周目が終わる時、じいちゃんが叫んだ。
「この一周、三分四十五秒」
計画より速すぎるペースだ。しかし、足が軽やかに回転していく。体が軽くなった感じ。自分ではペースを落としたつもりだけど、スタートラインに戻る度にじいちゃんが言った。
「弓ちゃん。まだまだ落とすんだ」
「うん。落としてるつもりなんだけど」
「ずっと一周を三分四十五秒で走ってるよ!」
じいちゃんが叫んだ。
「十三周目が終わって、この一周も三分四十五秒! あと一周!」
すでに十四周を走り終えた赤司さんと白川さんが手を叩いて応援してくれる。
「弓。ラスト一周!」
「ファイト! ファイト!」
私は腕を振った。残った体力をすべて使い果たす。
「ゴール!」
じいちゃんが叫んだ。
赤司さんと白川さんが私に抱き着いてくる。
「すごい、弓!」
「お疲れ!」
私はじいちゃんを見た。じいちゃんはストップウオッチから顔を上げた。
「すごいよ、弓ちゃん」
「じいちゃん。タイムを教えてよ」
「タイムは五十二分二十七秒。ということは、一キロを七分三〇秒で走ったことになる!」
「一キロを七分三十秒で?! 信じられない!」
じいちゃんが尋ねた。
「弓。どうだ、今の気分は?」
「うん。すごく気持ちいいよ」
「もし今の七キロ走、じいちゃんが伴走していたら、今の快感を味わうことができただろうか?」
「そ・・・、それは・・・・・・」
私は思った、「誰かに助けられて完走しても、それは自分でなしとげたことにはならない。それではたぶん満足感や達成感を感じることはできないだろう」と。
私は顔を上げてじいちゃんを見た。
「じいちゃんが言ったこと、わかったよ。自分で自分をコントロースしなくちゃいけないんだ。きついけど、自分を救ってくれるのは自分だけなんだ」
じいちゃんが黙ったままうなずいた。そして、左腕から腕時計をはずして、私の胸の前に差し出した。
「弓。これをお前さんにあげる」
私は腕時計を受け取った。それはたくさんのボタンの付いたデジタル時計だった。
じいちゃんが言った。
「これはランニング用の腕時計だ。一周を何秒で走ったか、自分で計測できる。これを使って、自分の走るスピードを自分でコントロールするんだ」
「どうやるの?」
「グランド一周を走り終えた時、ボタンを押すんだ。すると、何秒で走ったかが表示される。じいちゃんにタイムを教えてもらわなくても、自分で走るペースを調節できるのさ」
「ありがとう」
じいちゃんはニコッと笑った。
「今週も練習をきちんとやって、来週の日曜日にまた三キロのタイムトライアルをやりたいけど、どうだい?」
私は叫んだ。
「もちろん、オッケー!」
すると、赤司さんと白川さんがじいちゃんの方を向いた。
「すみません。その日のタイムトライアルに私たちも参加させてもらいたいんですけど、いいですか?」
じいちゃんが私をチラリと見た。
私はじいちゃんに向かってうなずいた。
「もちろん、オッケーだよ」
じいちゃんが頭を上下に振った。
「弓ちゃんがオッケーなら、かまわないよ。場所はここではなくて、マラソン大会本番と同じ会場だ」
私は叫んでいた。
「下関陸上競技場?! 借りることができるの?」
「うん。申請すれば、一般市民でも練習できるんだよ」
白川さんも叫んだ。
「本番前にリハーサルができるね」
赤司さんが右手で私の右手をつかんだ。
「弓。あなた、本当に頑張ってる。私、うれしいよ。大会まで一緒に頑張ろう」
白川さんも私の手を取った。
「弓。二年三組、ワンチームで頑張ろう! エイエイオー!」
私達はジャンプして、笑い合った。
十二月一日の火曜から五日の土曜日まで練習予定表どおりに練習を進めることができた。
そして、十二月六日の日曜日がやってきた。いよいよ三キロのタイムトライアルだ。自分は一体、何分で三キロを走れるのだろうか・・・・・・
お天気は曇り。風が少し吹いていて、寒い日だった。
私とじいちゃんは下関陸上競技場に着いた。赤司さんと白川さんが先に到着していた。
私達がトラックに出て行くと、一陣の風がピューッと吹き抜けた。私たちが顔を上げると、トラックを通って一人の女の子が私たちに近づいて来た。
白川さんが右手の人差し指を上げた。
「あれは誰かしら?」
赤司さんが目を細めた。
「誰かしらね?」
苦い味が口の中に広がった。心臓がドキンと鳴った。私は言った。
「豊田よ」
豊田が走って来て、じいちゃんの前に立って一礼した。
「こんにちは、青山さんのおじいさん。お願いです。私もタイムトライアルに参加させて下さい」
じいちゃんは黙ったまま私の顔を見た。
私は目を細めて豊田を見た。
「あんた。なぜ私とタイムトライアルしたいわけ?」
豊田が私を見て笑った。
「青山さん。私に負けたくないんでしょ? だから、私と一緒に走りたくないんでしょう?」
私の中で何かがカチンと鳴った。
「あんた。走る前から私に勝てると思っているようね」
豊田は腕を胸の前で組んで、言い放った。
「じゃあ、走ってみる?」
「そうね」
私はじいちゃんに向き直った。
「じいちゃん。豊田と一緒に走るよ」
じいちゃんは私の目を覗き込みながら言った。
「弓。ランニングの目的って、何だと思う?」
「ランニングの目的? なんのために走るのかということ? それは・・・・・・」
「弓。お前は何のために走るんだ?」
「そう言われると、サッと答えられないね」
「弓。じいちゃんはこう思うんだ、『ワシが走るのは、他人と順位やタイムを争うためではない』と・・・・・・。だから、今からのタイムトライアルでも他人と順位を争うのではなく、自分の設定したペースを守って走ってもらいたい。それができるのなら、別に誰と一緒に走ってもかまわない。じいちゃんの言ってることわかるかい? 豊田さんと勝負をするというのなら、一緒に走ってもらいたくない」
私はしばらく考えた、「私は一体、何のために走るのだろう」と。私は思った、「間違いのないことは、私は豊田に勝つために走っているのではない・・・・・・ということだ」と。
私はじいちゃんに向かってコクンとうなずいた。
「わかったよ、じいちゃん」
じいちゃんもうなずいた。
「よし。じゃあ、弓。今日は一キロを七分ペースで走るんだ!」
「うん」
「この間、ランニング用の腕時計でラップタイムの取り方を教えただろう? 一キロ七分ペースだと、一周四百メートルのトラックを二分四十八秒で走るんだ。いいかい?」
「オッケー」
私達四人はアップを終えてから、スタート地点に立った。
じいちゃんがストップウオッチを構えて、叫んだ。
「よーい、ドン!」
まず赤司さんと白川さんが飛び出していく。続いて、豊田。そして、最後尾に私。
豊田は軽快なテンポで私の前を走っていく。しかし、私は豊田には付いて行かない。
一周四百メートルを走り終わって、腕時計を見る。二分三四秒。
じいちゃんが言ったタイムより少し速い。
じいちゃんが叫んだ。
「押さえて!」
自分では豊田に追いつこうと思っていないつもりでも、自分の前を走る三人が速いから自然にオーバーペースになっているようだ。息をフーッと吐き出してから、少しギアを落とす。
私は走り続けた。そして、スタートラインにもどってくる度、腕時計のラップタイムを確認した。二周目のラップタイムは二分三八秒。三周目のラップタイムは二分三七秒。
じいちゃんが手を口に当てて叫ぶ。
「弓。まだ速いぞ。あと四周半!」
私は自分の体を観察する。呼吸は? そんなにきつくない。足は? 膝が上がって、腕も触れてテンポよく走れてる。
五周目を終え、六周目を走り始めた時に白川さんと赤司さんが私を追い越していく。六周目を終えて腕時計を見た。五周目も六周目も二分三十一秒で走っていた。速すぎる。残りの一周半をこのペースで走り続けることができるか? ふと悪い予感がした、「私はまた息が切れてしまって、途中で走るのをやめてしまうのではないだろうか」と。しかし、その時、じいちゃんの声が聞こえてきた。
「弓。ラスト一周半だぞ。自分を信じるんだ」
私は心の中で叫んだ、「さあ、来い」と・・・・・・
「私の体よ。これがもう限界なのか? もうこれ以上、走れないのか? 本当に限界なのか、それともまだ走れるのか、見せてくれ!」
腕を振る。すると、足がリズムよく動き始める。「行ける!」
私はペースを落とさずに走り続ける。
七周目を終えて、ラップを見る。この一周に、二分三十五秒。あと半周。
じいちゃんがスタート地点から移動して、ゴールラインのところに立っていた。
「ラスト! 弓! 力を出し切るんだ!」
私の足が勝手に回っていく。しかし、キツイ。もう走るのをやめようかと思う。しかし、あと二十メートル! 私は息を吐き出して、最後の力をふりしぼった。
「ゴール!」
じいちゃんが叫んだ。
私は地面に倒れ込んだ。目をつむってハアハアと息を繰り返す。
じいちゃんが私の横にしゃがんだ。
「大丈夫か?」
私は顔を上げて、じいちゃんを見た。
「タイムは?」
じいちゃんはストップウオッチを見た。
「十九分二十八秒。すごいぞ」
「そうなの?」
じいちゃんが私の肩をポンポンと叩いた。
「1キロを六分三十秒で走るペースだ」
その時、人の気配がした。顔を向けると、豊田が立っていた。豊田はじいちゃんに向かって頭を下げた。
「おじいさん。今日はありがとうございました」
じいちゃんが立ち上がりながら言った。
「どういたしまして。それにしても、豊田さん、速いね」
「いいえ。そんなことないです」
「随分、練習しているんだろう?」
「いいえ。青山さんがうらやましいです。おじいさんにコーチしてもらえて。青山さん、あっという間に速くなって、このままじゃあ、本番の時に私、負けるかもしれません」
豊田はじいちゃんに向かって言った。
「すみません。お願いです。またタイムトライアルをするんだったら、次回も参加させて下さい」
じいちゃんが豊田の顔を見た。
「どうして弓と一緒にタイムトライアルをしたいんだい?」
「え~っと、それは・・・・・・」
私は顔を上げ、豊田を見上げた。
「私に負けたくないから?」
豊田は私を見下ろしながら言った。
「はっきり言えば、そうです。私、青山さんにだけは負けたくないんです!」
じいちゃんが私を見て、瞼を上げて、目で尋ねた、「どうする?」と。
私は立ち上がって、ズボンの埃を払った。
「豊田さん。私はあなたと争うためにマラソン大会に出るんじゃないわ」
「そう。じゃあ、何のために出るの?」
「それは・・・・・・」
私は下唇を噛んだ。答えられない自分が悔しく、はがゆかった。
豊田がつぶやいた。
「マラソンはレースなのよ。わかる? 競争なの、競争。勝つか、負けるかよ」
「違うわ」
豊田が鼻で笑った。
「へえ? どう違うのよ、説明してよ。さあ、さあ、説明しなさいよ」
「レースは、自分以外の相手との競争の場ではなくて・・・・・・」
「競争の場ではなくて・・・・・・? それからは何なの? 早く言いなさいよ、青山さん」
私は口をつぐんだ。涙が出そうだったが、グッとこらえた。
青山が言い放った。
「結局、あなた、私に負けたくないんでしょ? 負けるのがイヤだから私と一緒にタイムトライアルしたくないんでしょ? 本番のレースだって棄権するじゃないの?」
「違うわ!」
「だったら、私と一緒に走りなさいよ!」
「わかったわ! 走ってやる!」
私は大声で叫んでいた。そして、プールから上がった時のようにハアハアと呼吸を繰り返した。
豊田が言った。
「それじゃあ、次回のタイムトライアルの日程が決まったら教えてね」
そう言い放つと、豊田はクルリと反転し、私達から歩き去って行った。
じいちゃんが小さな声でつぶやいた。
「弓?」
「じいちゃん。私、走るよ。もっと走るよ。明日からもよろしくお願いします」
私は気をつけの姿勢を取り、頭を深く下げた。
じいちゃんがゴホンと咳をした。喉を押さえた。
「弓。レースは何のためにあるんだろう? 人はなんのために走るんだろう?」
「えっ?」
私はじいちゃんの顔を見た。じいちゃんは私の目を見つめたままだ。
私は地面に視線を落とし、考えてみる、「なぜ私はレースに出るのか? くじで選ばれて仕方がないから? なんのために私は走るのだろう? ランナーズ・ハイを感じて気持ちいいから? ストレス解消のため? それとも・・・・・・?」
じいちゃんがゆっくりとつぶやく。
「自分は一体、なんのために走るのか? 走るのは人生の一部だ」
私は黙ったまま、じいちゃんの目を見つめ続ける。
じいちゃんがつぶやく。
「自分は一体、なぜ生きるのか? なんのために生きるのか? 自分が生きる意味や目的は何なのか? お前は誰かに勝つために生きるのか? 人はこの世に生まれたくて生まれて来たわけじゃない。皆、気づいたら、この世に誕生していたはずだ。 それでも、人は生きていく。そして、たぶん、一人一人、人は自分の生きる意味を見つけ出していくんだろう」
「自分の生きる意味を見つけ出していく?」
じいちゃんがうなずく。
「生まれた瞬間からすべての生命に生きる意味や目的が与えられているとは、ワシは思わん。だけど、ワシは思うんだ、『人は自分の生命に意味や目的を与えることができる。意味や目的を創造することができる。人にはそういう能力がある』と」
「じいちゃん・・・・・・」
「弓ちゃん。レースはタイムや順位を競うことじゃないとワシは思う。レースは自分を創造し、自分を表現できる喜びの場だと、じいちゃんは思う」
「じいちゃん・・・・・・」
「さあ。もう今日は帰ろう」
私とじいちゃんは競技場を後にした。
第七章 真剣勝負
タイムトライアルの翌日、じいちゃんと私は我が家のキッチンのテーブルに座ってせんべいを食べながら話し合った。
じいちゃんは湯呑みでお茶をズルズルと飲んでから言った。
「弓ちゃん。明日から三週間の練習のテーマは、『実践を想定したトレーニング』だ」
「実践を想定したトレーニング?」
「そうだ。今までのトレーニングと異なる点は、少し速いスピード練習を行うこと。そうすることによって、力をすべて出し切ることに体を慣らしていくんだ」
私は思わず唾をゴクンと飲み込んだ。
「スピード練習? 速く走るのはきついからイヤだな」
じいちゃんがお茶をすすってから言った。
「弓ちゃん。原因と結果の関係、覚えてるかい? 良い原因を作れば、良い結果が得られるし、悪い原因を作れば、悪い結果が訪れるんだよ。ランニングも同じ。ゆっくりペースの練習しかしなければ、それに応じた記録しか出せない。だけど、速いスピード練習を行えば、速いスピードで走れるようになるんだ」
「うん・・・・・・」
「わかるかい? 速く走りたければ、スピード練習をしなくてはいけないんだ。スピード練習は確かに苦しいけれど、その苦しさを乗り越えれば、苦しみと共に前に進めるんだ」
私はハアーとため息をついた。
「理屈はわかるけど、やっぱり速く走りたくないなあ」
じいちゃんが笑った。
「弓ちゃん。『スピード練習』と言ったって、そんなに心配しなくて大丈夫。何をするかと言うと一キロ六分のペースで二キロのジョギングをしたり、三キロのタイムトライアルを一週間に一回行ったりするだけだ。今まで通り一週間に三日は休みを取るし、無理をしないようにするよ」
「そうなの? でも、だんだんハードになっていくみたいで怖い」
「思い出して、苦しみが無いなんてありえないことを。目の前に苦しみが現れた時、誰だって苦しみから逃げたくなるもの。しかし、苦しみから逃げれば逃げるほど、苦しみはお前さんを追って来る。そして、巨大化していくんだ。目の前にある『苦しみ』の『良い点・楽しい点』を探してみるんだ。あるいは、『苦しみに思えるもの』は実は『苦しくもないし、楽しくも無いもの』であることを思い出して。自分勝手なレッテル張りはしない。そして、余計なことは考えずに『苦しみに思えるもの』にエイヤッと飛び込んでいくんだ。ちょうどプールに飛び込むように」
私は口をとがらせた。
「じいちゃん。速く走らないといけないとわかったら、ツライとしか思えないよ。エイヤッと飛び込むなんて、むつかしいよ」
「弓ちゃん。一分間だけ頑張るんだ!」
「何それ? どういうこと?」
「ツライのは最初の出だしだけ。最初の辛さを乗り越えれば、あとは辛さなんか感じることなく、進んでいける。下り坂を走り降りるように。例えるなら、寒い冬の朝に暖かい布団から飛び出すようなものさ。『エイヤッ』と叫んで、布団をガバッとめくって、布団から飛び出すんだ。そうすれば、あとは楽勝。つらさのピークを乗り越えたら、体も心も勝手に調子よく動き出す」
「慣性の法則みたいだね」
「そうだなあ。最初の一歩さえ踏み出せば、辛さなんか吹き飛んでしまう」
そう言ってから、じいちゃんはポケットから紙を取り出して、テーブルの上に広げた。
「これがこれから三週間の練習計画だ」
練習計画の紙には以下のように書いてあった。
月:休み
火:筋トレ、ジョギング(四キロ・・・ペースは一キロ八分で)
水:休み
木:筋トレ、ジョギング(七キロ・・・ペースは一キロ八分で)
金:休み
土:ジョギング(五キロ・・・ペースは一キロ八分で)
ランニング(二キロ・・・ペースは一キロ六分で)
日:ジョギング(四キロ・・・ペースは一キロ八分で)
タイムトライアル(三キロ・・・・・・一キロ六分で)
私はプリントを見てから、じいちゃんの顔を見上げた。
「私にこの練習が消化できるかな?」
じいちゃんは右の眉をギロッと上げた。
「自分ではどう思う? と言うより、どうしたらいい?」
私は息を吐き出した。
「そうだね。考えても仕方ない。とにかく全力を尽くしてやってみる。そうしたら、答えは体が教えてくれる・・・・・・」
じいちゃんが白い歯を見せて、拍手した。
「その通りだ。練習をやる前に『できない』なんて思ってはいけない。やってみて、うまく行かなかったら、その時に対応すればいいだけさ」
「そうだね」
「不安は人の心を弱くする。根拠もなく悲観的な結論を出してしまうのは良くない。例えば、『将来、事態は確実に悪くなるだろう』と決めつけてしまうとか。未来のことを先読みして、不安になったり心配したりしない方がいい。今に集中するんだ」
「今に集中する?」
「そうだ。ついつい人は考えすぎる。未来のことを心配したり、過去のことを後悔したりしてしまう。それでは良くない。自分の命は、ただ今現在あるのみだ」
「それって頭ではわかっていても、ついついやってしまうことでしょ。じいちゃん。今に集中するためには、どうしたらいいの?」
じいちゃんが右眼をつむってウィンクした。
「よくぞ、聞いてくれた。いい方法がある。いつもいつも、今この瞬間の自分の体の感覚に気を配るんだ。歩いている時は足の裏の圧力とか、水を飲んでいる時は水が喉を移動する鼓動とか、布団から出た時の寒さとか、体の感覚に注意を向けて、その変化に気づくんだ。すると、無駄なことは考えなくなる」
「ふーん」
「ああ、言い忘れていたことがあった。弓ちゃん。日曜日のタイムトライアルは下川公園でやるよ。十二月の十三日・二十日の二回だ。そして、十二月二十七日の日曜日は、また下関陸上競技場を借りてタイムトライアルをやりたいんだけど、どうだい?」
「オッケー」
私は右手の親指を立てて、じいちゃんに向かって差し出した。
じいちゃんはニヤリとして、言った。
「じゃあ、明日から一緒に頑張ろう」
「うん!」
そして、私たちは翌日から新しい練習計画に沿って練習を始めた。
そして、十二一月十二日の土曜日。まず、いつものゆっくりペースで五キロを走ってから、スピード練習で一キロ六分ペースで二キロを走る。
スタートして、高速で足を回す。しかし、二百メートルを走ったところで息が上がってしまった。少し休んで、すぐに走り始めてみる。とにかく、スピード練習はたまらなくキツイ。息が上がってしまう。喉がヒリヒリする。結局、二キロ走るのに十三分もかかってしまった。
翌日の十三日、日曜日。下川公園を走る。一周五百メートルの外周をゆっくりとまず八周。それがちょうどいいアップになった感じ。その後、三キロのタイムトライアルに挑戦した。
じいちゃんがストップウオッチを持って、スタート地点に立った。
「いくぞ。ヨーイ、スタート!」
私は走り始めた。三周目まで五百メートル三分のペースを守って走れた。しかし、四周目に入ったところで、ガクンと足に来た。息が切れていく。気力が続かない。スピードが落ちていくのが自分でわかる。頑張って足を上げようとするが上がらない。四周目のラップは三分二〇秒に落ちた。五周目と六周目、スピードを元に戻すことはできずにゴール。結局、三キロを一九分十三秒でしか走れなかった。
翌日から平日は予定表通りの練習をこなした。そして、十九日の土曜日。まず、ゆっくりペースで五キロを走る。そして、次は速いペースで二キロ走へのチャレンジだ。
私は不安でたまらなくなって、言った。
「じいちゃん。一週間前は一キロ三分ペースで二キロ、走れなかった。今日も完走できないんじゃないかって心配・・・・・・。じいちゃん。たまらなく不安なんだけど、どうしたらいい?」
「弓ちゃん? お前さんはどうしたらいいと思ってる?」
「どうしていいか、わからない」
じいちゃんは「ハハハ」と笑った。
私はカチンと来た。
「じいちゃん! なぜ笑うんだよ! 私、本当に困っているんだよ」
じいちゃんは「ごめん、ごめん」と言った。
「動物は悩まない。人間だけが悩むんだ。なぜだと思う?」
私は頭をひねったが、わからない。
じいちゃんは右手の人差し指で自分の頭をコンコンと叩いた。
「人間だけが脳が発達していて、つい考えてしまうからだ。まだ起きてもいない未来のことまで心配してしまうのが人間なんだ。だから、不安や心配や恐怖で鬱病や適応障害に陥ってしまう」
「じいちゃん! 不安や心配で落ち込んでしまわないようにするためには、どうしたらいい?」
じいちゃんは私の目をじっと見つめた。
「知りたいか?」
私は夢中で頭を上下に振った。
じいちゃんは人差し指で鼻と口の間をゴシゴシとこすった。
「じいちゃんの一番のおススメは、腹式呼吸だな」
「腹式呼吸?」
「目をつむって、腹式呼吸を続ける。まず、息を吸う時は、意識をおなかに集中させ、おなかが大きく膨らむのを感じる。次に、いったん息を止める。さらに、息を吐く時は口をすぼめて細く長く吐き、下腹がくぼんでいくのを感じる。こうした呼吸を繰り返すんだ」
「ふーん」
「大事な注意点は二つ。一つは、おなかが膨らんだりくぼんだりする身体感覚にすべての注意を集中させることだ。他の感覚をすべて意識の外に追いやって、おなかの感覚だけに集中するんだ。そして、もう一つの注意点は、四秒で息を吸い、四秒間停止した後、八秒でゆっくりと息を吐くんだ。つまり、息を吐く時は、吸う時の二倍の時間をかけて行うんだ。そして、できたら、息を吐く時に全身の力を抜くように心がけるんだ。すると、体の緊張をゆるめることができる。」
じいちゃんは取りつかれたようにしゃべり続けた。
私は手を挙げて質問した。
「じいちゃん。目をつむって腹式呼吸を繰り返していたら、どうなるの?」
「弓ちゃん。腹式呼吸をしているうちに、お前さんの注意力はさまよい始める。過去や未来について夢想したり、自分や他人に対して判断し始めたりしてしまう」
「その時は、どうしたらいいの?」
「弓ちゃん。頭の中に思考が湧いてきたら、自分が考えていることに気づくんだ。そして、思考を見送って、注意を呼吸に戻すんだよ。吸い込む息、吐き出す息に集中するんだ。すると、頭の中の思考が消えていく。つまり、頭の中がカラッポになっていくんだ」
「頭の中がカラッポになる?」
「不安・嫌悪・怒り・悲しみ・後悔など、頭の中にあるイヤな思考がすべて頭の中から流れ出て、消えてしまい、頭の中がカラッポになってしまう」
「そんなこと、できるわけない!」
じいちゃんが「ガハハ」と笑った。
「それができるんだな。訓練次第で人の心は変えられるんだ。自分でやってみれば、わかる。弓ちゃん、試しに明日の朝から、毎日五分でいいから腹式呼吸をやってごらん。アレコレ悩まなくなるから・・・・・・」
「本当?」
「信じられないなら、今すぐやってみよう。目をつむってごらん。そして、じいちゃんの指示する通りに呼吸してごらん」
私は目をつむってみる。
じいちゃんの声が聞こえてくる。
「まず、息を吸うよ。『1、2、3、4』と数えながら鼻から息を吸って、おなかを大きく膨らませるようにするんだ。次に、『1、2、3、4』と数えながら息を止めるんだ。さらに、口をすぼめて細く長く吐くんだ。『1、2、3、4、5、6、7、8』と数えながら息を吐き、下腹をくぼませるんだ。これを何度も繰り返す」
私はじいちゃんの言う通りにゆっくりと呼吸を繰り返す。
しばらくして、じいちゃんが言った。
「弓ちゃん。それじゃあ、ゆっくりと目をあけて」
私は瞼を上げて、目を開く。なんか、ゆったりとして気分。
じいちゃんが私を見た。
「どうだい?」
「そうね。なんとなく気持ちいい。ゆったりした感じ」
じいちゃんが目を細くして、ニコニコしていた。
「よし、これで大丈夫だ。二キロ、絶対に完走できるよ。それじゃあ、スタートするか?」
私もなんとなく走れそうな気がしてきた。
じいちゃんがストップウオッチを構えた。
「よーい、スタート!」
私は走り始めた。
最初の一周目はきつい。しかし、二周目に入ったことから体がフッと軽くなる。そして、三周目・四周目も五百メートルを三分のペースを守って走り切る。
じいちゃんが叫んだ。
「ゴール! やったぞ、弓ちゃん。タイムは十一分五十八秒だ」
私は思わず飛び上がった。
「やったあ!」
「弓ちゃん。やっぱりお前さんはやればできるんだ」
「じいちゃん。腹式呼吸が効果あったのかもしれない」
じいちゃんが笑った。
「弓ちゃん。そんな時はこう言うべきなんだよ、『間違いなく腹式呼吸をしたおかげで、二キロを十二分で走れました』と・・・・・・」
「そうだね。その通りだね」
じいちゃんは真面目な顔をして言った。
「弓ちゃん。冗談なんかではなく、腹式呼吸って本当に効果があるんだよ。というより、はっきり言って、人生が変わるよ」
「えーっ。そんなにすごいの?」
「苦しみから解放され、自由になれる。心の安らぎ・平安を感じることができるんだ。それはお金や地位や名誉なんかより価値あるものだと、じいちゃんは思ってる」
私は「うん、うん」とうなずいた。
じいちゃんがつぶやいた。
「それじゃあ、明日の日曜日は三キロのタイムトライアルだ」
私はうなずいた。
「今晩、しっかり寝ておくよ」
翌日、十二月二十日の日曜日。
午後三時より、じいちゃんと下川公園で練習を開始。
まず、ゆっくりジョギングペースで四キロを走る。体が温まり、そして、体がスピードに馴染んでいく。
次にいよいよタイムトライアル。
じいちゃんが私を見た。
「弓ちゃん。準備はオッケー?」
「うん。一キロ六分ペースで三キロを走るようにベストを尽くすよ」
じいちゃんがニタリと微笑んだ。
「いいね。昨日は一キロ六分ペースで二キロ走れたからな。一キロ増えるだけだ。お前さんならきっとできる」
私は大きな声で答えた。
「うん! それに、今朝、腹式呼吸を五分間やってきたから」
「そうか、そうか。それならなおさら大丈夫だ」
私はスタートラインに立つ。そして、じいちゃんの合図でスタートした。
昨日と同じペースで走る。今日も体が軽い。
二キロまで一キロ六分のペースを守って軽快に走れる。二キロを過ぎて、五周目と六周目も一キロ六分ペースを守ったまま走り続けて、私はゴールした。じいちゃんが拍手した。
私は手元の腕時計を見る。タイムは、十七分四十七秒だ。私は思った、「やった。三キロを十八分を切って走ることができたぞ」って・・・・・・。
じいちゃんが私に近寄ってきて、ハイタッチした。「パチン!」と気持ちいい音がした。
「やったね、弓ちゃん」
じいちゃんがニコニコ笑顔で叫んだ。うれしかった。
次の週も計画通りに練習を進めていった。
十二月二十二日の火曜日は、筋トレとゆっくりジョギングで四キロ。
十二月二十三日の水曜日は三学期の終業式。お昼前に帰宅して、午後はゆっくり休んだ。
翌日の十二月二十四日から冬休み。クリスマスイブだけど、練習が休みというわけではない。私はじいちゃんと河川敷に向かった。まず筋トレ。それから、ゆっくりジョギングで七キロ。
十二月二十六日の土曜日。この日の練習の予定は、ゆっくりペースで五キロを走ってから、二キロを一キロ六分の速いペースで走る予定だった。つい六日前にこのペースで始めて三キロを走れたばかりだ。
しかし、じいちゃんがいきなり私に言った。
「弓ちゃん。今から二キロのペース、予定よりペースを上げてみよう!」
「え~。なぜ? それから、ペースを上げるって、一体どれくらい上げるの?」
「一キロ五分三〇秒ペースで走ってみるんだ」
「無理! それに一体なぜ、急にペースを上げるなんて言い出すの?」
「なぜペースを上げるのか・・・・・・、それは限界に挑戦するためだ。ハイペースで三キロを走れる体に変えていくんだ」
私はその時、コクンとうなずいた。自分の体の中でスッキリと納得したわけではなかったけれど、私は確かに考えた、「よーし、やったろうじゃないの!」と。
下川公園のスタートラインに立つ。
じいちゃんが叫ぶ。
「一周、五百メートルを二分四十五秒で走るんよ。それだけの力はもうお前さんに付いている。それじゃあ、行くぞ。よーい、スタート!」
私はいつもより少し速めに腕を振り、「スッスッハッハッ、スッスッハッハッ」とリズムよく呼吸していく。そして、一周を二分四十五秒のペースをきちんと刻んで走ることができた。タイムは
十六分二十四秒だった。
じいちゃんが私の肩をバンバン叩いた。
「今のお前さんは以前のお前さんじゃない。なぜか? お前さんは速くて苦しいスピード練習を乗り越えたからだ。ゆっくりと居心地の良いスピード練習だけでは、速くなることはできない。速くて苦しい練習を乗り越えた者だけが、苦しみと共に速く強く前に進むことができるんだ」
「苦しいスピード練習をしなければ、速く強くなることはできない・・・・・・っていうこと?」
じいちゃんは片目をパチンと閉じて、大きくうなずいた。
翌日、十二月二十七日の日曜日。私とじいちゃんは下関陸上競技場に立っていた。この日の練習メニューは、まずジョギングで四キロ、そしてその後に三キロのタイムトライアル。
私がアップを始めようとした時、トラックに一人の女の子が現れた。真っ赤なジャージ。細くて、手足の長い体つき。髪の毛は長くて、首のところで一つに束ねてゴムで留めている。
私は目を凝らして見た。そして、じいちゃんに告げた。
「豊田よ」
豊田が私たちの方を向いてゆっくりと近づいて来て、じいちゃんの前に立ち、頭を下げた。
「こんにちは。お願いです。今日もタイムトライアルに参加させていただけませんか?」
じいちゃんは黙ったまま豊田を見て、そして、首を反転させ、私をじっと見た。「どうする?」と言いたげだった。
私は目をつむって考えた。そして、私は答えた。
「どちらでもいいわ」
豊田が叫んだ。
「どちらでもいいって? それって、一体、どういうことなのよ?」
「私はあなたと一緒に走ってもいいし、走らなくても、どちらでもかまわないっていうことよ」
豊田が目じりを上げた。
「それってつまり、私なんかどうでもいいということ?」
私は頭を左右に振った。
「誰かと自分を比較するために私は走るんじゃないっていうことよ」
「じゃあ、何のために走るのよ!」
「そうね。自分との競争のためよ。自分に克つためよ」
「なんですって? 自分に克つため?」
私はうなずいた。
豊田は腹を抱えて大声を出して笑った。そして、私の目を見すえて言った。
「わかったわ。そんな風に言うのは、結局、私に負けた時の言い訳のためでしょう? 私に負けた時、『私は最初から競争してなかった』ってあなたは言いたいんでしょう?」
私は目を閉じて腹式呼吸をした。心を静けさの中にとどまらせる。私の心の中にある嫌悪感に気づく。しかし、それに反応しないで、そのまま見送る。すると、私の中にある怒りや憎しみが次第に消えていく。頭が空っぽになる。私は思った、「自分は自分。それでいい」と。
私は口を開きかけたが、何も言わないままそっと閉じた。
豊田はペッと唾を吐き捨てた。
「それじゃあ、青山さん。私、タイムトライアルに参加させてもらうわよ!」
じいちゃんが私を見た。
「いいのか、弓?」
私は大きくうなずいた。
それから、練習予定の通り、私はアップしてから、まずゆっくりジョギングペースで四キロを走る。次に、いよいよ三キロのタイムトライアル。私は決めていた、「一キロを五分三十秒のペースで走る。つまり、一周四百メートルを二分十二秒で走る」と。
じいちゃんが私の傍に立った。
「弓ちゃん。今日はどうするつもり?」
「うん。昨日と同じペースで走るよ」
「一キロを五分三〇秒のペース?」
「うん。昨日はそのペースで二キロ走れたんだ。三キロだって、きっと走れるよ」
じいちゃんは目を閉じてから「フッ」と息を吐いた。
「弓ちゃん、お前さんの言う通りだ。走れるよ。そんな風に、自分で自分の良さを認めるような言葉を使うんだ。反対に、自分を下げるような言葉は決して使わないようにするんだ。自分の良い所を見つけて、それを伸ばしていくんだ。自分を大切にするんだ。自分を信じてあげるんだ」
私はうなずいた。
「わかったよ」
その後、豊田がスタートラインにやって来て、私達二人はスタートラインに立った。
じいちゃんが言った。
「ヨーイ、スタート!」
豊田が短距離走のようにダッシュしていく。豊田との差がどんどん広がっていく。しかし、私は自分の決めたペースを守って走り出す。
一周目が終了し、腕時計を見る。二分十五秒かかっている。遅い。しかし、きつい。だけど、私はペースアップした。腕に力を込めて振り、足を速めに回転させる。
二周目が終わって、再び時計を見る。二周目に二分十二秒。「このペースを守って行こう」と思う。しかし、きつい。
三周目と四周目、ラップタイムは二分十秒。少しずつ調子が上がって来た。
五周目のラップタイムは二分七秒。少し速すぎるくらいのペース。「ちょっとスピードを落としてもいいな」と思う。
六周目のラップタイムは二分五秒。自分ではスピードを押さえたつもりだったが、むしろスピードが上がっていた。「体の調子がいいのかもしれない」と思う。しかし、疲労がたまってきた感じがする。「姿勢を正すんだ」と思う。背筋をまっすぐ保つように心がける。それから、つま先で着地するようにして走る。
七周目が終わって、腕時計を見る。ラップタイムは二分七秒。いい感じだ。しかし、体力の限界。でも、あと半周! 私の前に豊田の背中が大きく見える。その距離は十メートルくらいだ。豊田の足の回転はゆっくりだった。そのペースは確実に落ちていて、私との距離はどんどんせばまっていくばかりだ。
じいちゃんの声が聞こえた。
「弓ちゃん! ラスト! 腕を振るんだ」
じいちゃんはスタートラインから半周の距離を移動していて、ゴールラインに立っていた。
私は腕を力いっぱい振る。体が勝手に左右に大きく振れる。口から唾が流れ出ていく。目をつぶって、ひたすら走る。
ゴールが見えてきた。豊田が私のすぐ目の前を走っている。
豊田がゴールして、その二秒後、私はゴールラインを通り過ぎた。
私は立ち止まって、膝に手をついた。「ハアー、ハアー」と息を素早く吐き出す。
じいちゃんが駆け寄って来た。私は顔を上げて、じいちゃんを見る。じいちゃんがガッツポーズしながら言った。
「弓ちゃん。お疲れ。よく頑張ったね。タイムは十六分十七秒」
「うそ!」
「ほんとだよ。やったね!」
体が熱くてたまらなかった。
豊田が私のすぐ近くで地面に横になっていた。「ハア、ハア」と荒い息を繰り返している。
私は近寄った。
豊田は立ち上がって私を睨みつけた。
「大丈夫よ! あんた、いつの間にか速くなったわね。だけど、覚えておいて。本番では絶対に負けないわ。絶対に!」
そう言うと、豊田はクルリと反転し、私に背を向けてゆっくりと歩き去って行った。
じいちゃんが黙って私を見ていた。
私は空を見上げた。雲の間から細い太陽光線が何本も突き出て、地面に向けてまっすぐに伸びていた。
私はじいちゃんに視線を戻した。
「じいちゃん。私、以前より速く走れるようになったよ」
「そうだね」
「なんか、うれしいよ」
「弓ちゃん。体の感覚はどうだい? 自分の体の感覚に注意を向けてみるんだ」
私は目を閉じて、体に注意を向けてみる。ドクンドクンという血液の音が聞こえてくる。頭の中は真っ白で、からっぽ。
「じいちゃん。走っている時、何も考えなかったよ。気持ちよかったよ」
「そうか、そうか。その気持ちよさを忘れないようにな」
じいちゃんが笑った。
「さあ、帰ろう」
私達は歩き始めた。
翌日、十二月二十八日の月曜日。
じいちゃんと私は自宅にいた。
コタツに入ってミカンの皮をむきながら、私は尋ねた。
「じいちゃん。本番のレースまで、あと二週間ちょっとしかないけど、練習はどうやったらいいの?」
じいちゃんはゴクンとミカンを飲み込んだ。
「レース直前のトレーニングは、最高の状態でスタートラインに立つための調整だ」
「最高の状態?」
「疲労を残さないようにしっかり休むということさ」
「まったく走らないの?」
「そんなわけないけど」
そう言いながら、じいちゃんはポケットから紙を取り出して、テーブルの上に広げた。
「これが練習計画だ」
①三日間トレーニングを繰り返す(十二月二十九日から、一月九日まで・・・三日間トレーニングを四回繰り返す)
・一日目は休み
・二日目はジョギングペースで五キロ
・三日目はジョギングペースで五キロ
②レース直前のトレーニング(一月十日から十二日まで)
・三日前(一月十日):休み
・前々日(一月十一日):ジョギング三キロ。
1キロ五分ペースで一キロ。
・前日(一月十二日):休み
私は練習メニューの紙を手に取った。
「じいちゃん。こんな練習でいいの? 今までつけてきた体力が落ちてしまうんじゃないかと心配だけど」
じいちゃんは笑った。
「弓ちゃん。さっき言っただろう、『疲労を残さないようにする』って。走り足りないくらいでちょうどいいのさ」
「わかったよ」
年末の十二月二十九日から一月九日まで、じいちゃんの練習計画に沿って練習を進めた。
冬休み中、休みの日を除いて、河川敷を五キロゆっくりとしたペースで走った。
一月八日から学校が始まった。
八日・金曜、三学期の始業式。放課後、鈴木先生が私のところへやってきた。
「青山さん。調子はどうかしら?」
「調子ですか? 別に変わりありませんけど・・・・・・」
鈴木先生は私の顔をじっと見つめた。
「青山さん。マラソンの件はどうなってるの?」
「はい。冬休み、自主練習を続けました」
鈴木先生は白い歯を見せ、目を細めた。
「そう。頑張っているのね。先生、うれしいわ。あなた、やる時はやるわね」
「ありがとうございます」
私はなんとなく体が暖かくなった気がした。
先生は私の肩をポンと叩いた。
「大会まであと五日。あなたならきっとできるわ。青山さん、練習、頑張ってね」
私は帰宅して、午後三時からじいちゃんと河川敷に出かけた。
じいちゃんは紺色のジャージを着ていた。
「弓ちゃん。今日も五キロ、ゆっくり走るよ。今日はじいちゃんも一緒に走るよ」
「うん。でも、どうして?」
じいちゃんは一瞬の間、黙ってから言った。
「どうしてかな? なんとなく今日は走りたくなったよ」
「そうなんだ。そんな時があるんだ」
「そんな時もあるもんさ」
私はふと鈴木先生のことを思い出して言った。
「そう言えば、今日、始業式だったけど、担任の先生に言われたよ、『あなた、やる時はやるわね』って・・・・・・」
「ふーん。それで?」
「うん。なんとなくうれしかったよ」
「そうか。人から自分の良さを認めてもらえるというのは、快感だよな」
私はうなずいた。
「そうだねえ」
じいちゃんはコホンと咳をした。
「でも、本当は他人から言われるんじゃなくて、自分の良さは自分で見つけて、自分で認めた方がいい」
「へーっ。また、なぜそんなこと言うの?」
「ついつい人は自分に対しても他人に対しても、悪い所に目が行きがちだ。そして、批判して落ち込んだり怒ったりしてしまう。しかし、そんなことしても、何にも良いことはない」
「じゃあ、どうしたらいいの?」
じいちゃんは人差し指を私の方を指差した。
「自分で自分の良さに気づくんだ、他人から自分の良さを見つけてもらうんじゃなくて・・・・・・」
「自分で自分の良さに気づく? それ、どういう意味?」
じいちゃんはニヤリと歯茎を見せて笑って、うなずいた。
「自分の良いところを探して見つけ出し、そして、それを伸ばしていくんだ」
「私に良いところなんてないわ、何一つ!」
じいちゃんが右手の人差し指と中指を上げた。
「何事にも二面性があるってこと、思い出してほしい。自分が悪いと思うところの中に良いところを見つけるんだ」
「例えば、どんなふうに?」
「そうだな。自分の考えと反対のことを考えてみるんだ。例えば、『自分は優柔不断で、煮え切らない』という見方を、『自分は熟慮断行の人間だ』と捉え直すんだ」
「それって、無理があると思うけど」
「そんなことない! とにかく、自分の良いところを見るようにするんだ。そして、やめるんだ、自分を批判したり悪いところを直したりするのを! とにかく、やってみて! 気分が前向きになれる!」
私は思った、「先生からちょっと褒められただけでも気分よくなったし、自分を批判するのをやめてみるか」と。
じいちゃんが言った。
「弓ちゃん。あと少し走ったら、今日のノルマ達成だ。頑張ろう」
私達は五キロを走り終え、帰路についた。
一月九日も五キロをゆっくりと走る。
一月十日、日曜日。この日は練習休み。
一月十一日、月曜日。学校から帰宅して、私はじいちゃんと下川公園に向かった。今日はレースの前々日なので、ジョギングで三キロ走ってから、一キロ五分というハイペースで一キロだけ走るということになっていた。
私はスローペースで三キロ走ってから、じいちゃんに言った。
「じいちゃん。一キロ五分のペースなんて、走ったことないよ」
じいちゃんは私の目を覗き込んだ。
「無理だ・・・・・・って、言いたそうだな」
「本当はね。でも、そんなこと言ったら、じいちゃん、怒るでしょう?」
「怒る? なぜ、そう思うんだい?」
「だって、この間、私に言ったでしょ、『自分の良いところを見つけて、前向きでいろ』って・・・・・・」
じいちゃんは「うん」とつぶやいた。
「ついつい未来のことを心配することに気づくんだ。『一キロを五分で走るなんて無理』なんて考えてしまう自分に気がついたら、その思考を放っておくんだ。つまり、消極的な思考が頭の中に生まれたら、それには手を付けずに放置するんだ。そして、思い出せ、『自分の中には、目には見えない凄いパワーが眠っていること』を。思い出せ、『本当の自分とは何者か』を。そして、自分の中に潜在している大いなる風を覚醒させるんだ」
「自分の中に潜在している大いなる風・・・・・・」
「自分の中にある大いなるパワーを強く信じるんだ。眠っている大いなるパワーを目覚めさせ、その力を爆発させるんだ。弓ちゃん、先のことは考えない。今この瞬間に全力を尽くすだけだ」
私は口をとがらせて言った。
「そのためには、どうすればいいの?」
「思い出してほしい。良い原因づくりをすれば、良い結果が起きる。お前さんは二ヶ月前からトレーニングを積んできた。今こそ、その成果を発揮する時なんだ」
「うん」
「弓ちゃん。お前の体を動かすのは、目に見えない『心』なんだ。『心』が大切なんだ。だから、お前さんの『心』に『希望の火』と『やる気の火』を灯すんだ」
「希望の火とやる気の火?」
「そうだ。実現することを強く待ち望むんだ。そして、実現するために最善を尽くしてコミットし続けるんだ」
私は大きくうなずいた。
「うん」
私はスタートラインに立った。
じいちゃんがストップウオッチを構えた。
「行くぞ、弓ちゃん。ヨーイ、ドン!」
私は走り出した。いつもより速いペース。私は頭の中で思った、「こんなペースで最後まで走れるんだろうか?」と。
私は四〇メートル走った時点で考えた、「もう、すでにきつい。こんなハイペースで一キロも走り続けられるんだろうか?」と。
しかし、私は頭を左右に振って、自分の頭の中にある思考を追い払った。今は考えている時じゃない!
私は息を「ハッハッ」と大きく掃出し、「スッスッ」と吸い込んだ。そして、腕を前後に大きく速く振った。
公園を一周して、じいちゃんの姿が見えてきた。胸の苦しさが和らいできた。「スピードに乗って来たぞ」と思った。
一周を走り終えたところで、腕時計を見た。五分二秒だった。
私は思った、「あと五百メートルだ!」と。
二周目、私は目を閉じて走った。呼吸に合わせて、私は心の中でカウントした、「一、二、三、四・・・・・・」と。
二周目の半分を終えたところで、チラッと腕時計を見る。半周を二分二七秒で走れていた。「よし。一周目の二秒遅れを取り戻せたぞ」と思う。
最後の半周のところまで走ってきて、私は思った、「もう止まってしまおう。歩き始めよう」と。でも、その時、思った、「あと少しだ。もう少しだ」と。
私は腕を振り続けた。
ゴールした。腕時計のストップボタンを押した。
私は前かがみになり、両手の手の平を膝に乗せて、「ハアハア」と呼吸を繰り返した。
私は恐る恐る腕時計を見た。タイムは九分五十六秒だった。
私は顔を上げてじいちゃんを見た。じいちゃんは拍手をしながら私に欠け寄って来た。
「弓ちゃん。お疲れ! やったね。九分五十六秒で走れたよ」
「じいちゃん。ありがとう。なんか、うれしいよ」
じいちゃんが白い歯を見せて笑った。私も笑った。
第八章 燃え尽きるまでラン
いよいよ一月十二日、マラソン大会本番の日。
朝、私は下関陸上競技場に向かって歩いて行った。
グランドに降りて、観客席を見上げた。そこには保護者や応援生徒が大勢駆けつけて、すし詰め状態だった。熱気でムンムンしていた。
私は観客席を見渡して、家族の姿を探した。父さんが手を振っているのが見えた。
私は大きな声で叫んだ。
「父さん! じいちゃんと母さんはどうしたの?」
父さんは一瞬、下を向いてから、顔を上げた。
「じ・・・・・・じいちゃんと母さんね。少し遅れて来るって。頑張れって言ってたよ」
父さんは口ごもって言った。
「わかった。頑張るよ」
私は両手でガッツポーズを作った。
父さんは手を振って笑った。しかし、その笑顔はこわばっていた。
私は時計を見て、フィールドへ向かった。
九時三十分になり、開会式が始まった。フィールドにマラソン大会に出場する選手が並んだ。
私の前に二年一組と二組の選手が並んでいた。長い髪を首の後ろで一つにまとめて結んでいる痩せた選手の背中を見つけた。豊田だった。
豊田が後ろを振り返った。そして、私を見つけると、私を睨みつけた。
開会式が終わって解散となった。豊田が私のそばに近づいて来た。
「青山さん。久しぶりね。調子はどうなの?」
私は黙ったまま豊田を見た。
豊田は目を細めて「フフフ」と笑った。
「勝負よ。私、絶対に負けないわ、絶対に」
その時、頭の中でじいちゃんの声が聞こえた、「弓ちゃん。レースは他人と競争する場じゃない。自分と戦う場だ。レースは自分の全力を発揮する場だ。レースは自分を表現できる場だ。レースは今この瞬間を生き切るチャンスなんだ」と。
私はスタンドを見上げて、じいちゃんの姿を探した。しかし、見つけることはできなかった。
私は黙ったまま、控室に向かった。後ろから豊田が「チエッ」と舌打ちする音が聞こえた。
私はサブグランドに向かい、レース前のアップを行った。
腕時計を見た。十時四十五分。二年生女子のレースのスタート時間が近づいていた。召集を済ませて、四百メートルトラックのスタートラインに並んだ。
周りの選手はみな黙ったまま、ジャンプしたり屈伸したりしていた。異常な緊張感が辺りを支配していた。
私は目をつむって、腹式呼吸を繰り返した。
急に辺りの音がすべて消えた。宇宙にいるような感じ。物音一つ聞こえない。周りは真っ暗で、何もない。
じいちゃんの声が頭の中に響いてきた、「自分の中に眠っている大いなる風を強く信じるんだ。自分の心に希望の火とやる気の火を灯すんだ」という声が・・・・・・
体育の先生が叫んだ。
「スタート一分前!」
私は目を開けて、大きく息を吐き出した。「とにかく、全力を尽くすんだ」・・・・・・そう、思った。
「位置についてー」
体育の先生の声が聞こえた。私は体を前掲させて、肘を曲げて、両手は卵を包んで持つように軽く握った。
「バン!」
スタートのピストルが鳴った。選手が勢いよく飛び出していく。私も負けずに付いて行く。
じいちゃんが言ったことを思い出した、「最初の十五秒はきつくてもダッシュするんだ。集団の中でなるべく先頭に近いポジションを取ることが大事なんだ。集団の後方につけてしまうと、思うように走れなくなってしまう」
私は先頭から十番目くらいの位置についた。先頭を赤司さんと白川さんが走っていく。そして、豊田が先頭から五番目くらいを走っている。足は軽い。しかし、息が切れそうだ。「ペースが速すぎるかも?」と思う。
二周目に入って、腕時計を見た。四百メートルを八十秒。私は思った、「少し速すぎる。一周を八十五秒でいいんだから。ちょっとだけスピードダウン・・・・・・」と。
前方を見る。みんな、ペースは変わらない。ハアハアという荒い息遣い。そしてバタバタという足音。
バックストレートを走り終わって、三周目に入った。チラリと時計を見る。二周目の四百メートルは八十四秒かかっている。「良し良し。このペースで」と思った。先頭は私の三十メートルくらい前を走っている。
四周目に入る。時計を見た。三周目にかかった時間は、八十五秒。「きつい! でも、このペースを維持するぞ」と思う。体が異様に熱くなってくる。集団がばらけて、長い列になっていく。私の前を走っていた女の子がスピードを落とした。私はその子を抜かした。九位に上がった。
五周目に入った。時計を見る。四周目にかかったタイムは八十三秒。「よし」と思う。汗が目に入る。首筋を汗が流れていく。背中にも汗がべったりと広がり、体操服が背中にピッタリと付いている。前の女の子を私は外側から抜かす。八位に上がった。遠くから聞こえて来るけれど、何と叫んでいるかわからない。
六周目に入った。時計を見る。五周目に83秒。「少しペースが上がりすぎ。調子がいいから、このままいくか」と思った。次の瞬間、景色が一変した。目に見えたものは、青い空だった。膝が痛かった。「こけたんだ」とわかった。しかし、何も考えずにすぐに立ち上がった。一瞬、「リタイアしようか」という思いが頭を駆け巡った。
目を閉じた。すべての歓声が消えた。音のない世界。
「自分のベストを尽くすんだ」
声が聞こえた。
その時、ブォーツと風が吹いた。風に後ろから押されるように、私は走り始めた。前の選手に追いつき、そしてすぐに抜いた。
七周目に入る。チラリと腕時計を見る。六周目にかかった時間は八九秒。「よし、これならまだ挽回できる」と思った。奥歯を噛みしめた。腕を強く振った。前の女の子を抜く。髪の長い女の子がゼエゼエと息をしながら、私の前をゆっくりと歩いている。豊田? 私はその子を追い抜いて走り続ける。豊田に勝とうが負けようが、そんなこと、もうどうでもよかった。
八周目に入った。あと二百メートル。もうタイムなんてどうでもよかった。力いっぱい腕を振る。リズミカルに足を運ぶだけだ。
前の女の子がどんどん遅れていく。私は次々と追い抜いて行く。自分のペースが速いのか、それとも遅いのか、わからない。私は何も考えずにただ走る。ただ手と足を回転させる。それだけだ。
最後の百メートル。口から唾がダラーッと流れていく。足が自分のものじゃないようだった。しかし、最後の力をふりしぼって、足を回転させる。息をするのが苦しい。でも、ここでスピードダウンはできない。「」
「腕を振るんだ、弓!あと少し!」
誰かが私の中で叫んだ。
目をつむって、腕を振り、脚を回転させる。
ゴールの白線を越えた。
私は地面に倒れ込んだ。ただ呼吸だけをした。ハアハアという息の音が聞こえる。しかし、その音も次第に小さくなっていった。暗闇の中に落ち込んでいく。
空を見上げた。
雲一つない、真っ青の空。
軽やかさと広がりを持つ青。
何の束縛もない、ただ純粋な広がり。
その時、風が吹き抜けていった。
透明な光のシャワーのきらめき。
体中から力が抜けていく。
自分が透明になっていく。
からっぽ。
何も存在しない純粋さ。
風に飛ばされて、フワフワと漂っている感じ。
どこまでも飛んで行けそうな、無限の可能性。
今まで感じたことのない自由。
何一つ変化するものがない。
時間のない世界。
完全なる静寂。
じいちゃん、これなんだね、吹いてくる風って・・・・・・
ねえ、じいちゃん? そうなんでしょう?
・・・・・・
しかし、しだいにざわめきが聞こえてきた。「ワー、ワー」という歓声が少しずつ大きくなっていく。
脇に手が入れられる感覚。顔を上げた。赤司さんと白川さんだった。二人が私を立ち上がらせた。
赤司さんが私に抱き着いた。
「弓。あんた、すごかったよ」
私も赤司さんを力いっぱい抱きしめた。
白川さんが泣いていた。
「弓! 弓!」
白川さんの顔が涙でグチャグチャになっていた。
「私はやれるだけのことはやったんだ。終わったんだ」
体中がジンジンしていた。
赤司さんが私を覗き込む。
「弓。大丈夫?」
私は頭を縦に振った。
「うん。大丈夫だよ」
白川さんが言った。
「弓。あんたの記録、すごいよ。十四分三十七秒だよ。順位はなんと、5位だよ」
私は思った、「自己ベスト更新だ。こないだのタイムトライアルの時より、三十秒以上速くなってる」と。
赤司さんが言った。
「私達、金メダルもらえるかも」
白川さんが手を叩いている。泣いているんだか、笑っているんだか、よくわからない。
しかし、私は思っていた、「金メダルなんてどうでもいい。今のこの感覚、なんとも表現できないこの心地良さをずっと感じていたい。この異常な感覚をずっと忘れないでいたい」と。
赤司さんがつぶやいた。
「あっ、今、豊田がゴールしたよ。最初にスピードを出し過ぎたみたいね。走れなくなって、途中から歩き始めたもの」
私は振り返って、ゴールラインを見た。豊田が立ったまま、下を向いていた。
豊田が顔を上げた。目を真っ赤にして、右手を目に当てて涙を拭いていた。豊田が私を見た。豊田はパッと横を向いて、走り始めた。そして、控室の方は走って消えていった。
白川さんが私の肩をポンポンと叩いた。
「気にしない、気にしない。あんたが悪いわけじゃないから」
「うん」
私はゆっくりとうなずいて、笑った。
私はスタンドに向かった。
スタンドに父さんの姿が見えた。
「弓! 弓! よくがんばったぞ! おつかれさま!」
父さんは泣きだしそうな顔だった。
私のもとへ走り寄って来た。
「弓! 大丈夫か?」
私は頭を上下に振った。
「大丈夫よ」
私は父さんに向かって言った。
「じいちゃんと母さんはどこにいるの?」
父さんの表情がこわばって、震えた。
心臓がゾクゾクした。いやな予感。
父さんは黙ったままだ。私は叫んだ。
「どうしたの? 教えてよ!」
父さんがつぶやいた。
「じいちゃんが言ったんだ、『レースが終わるまではお前には連絡するな』って。じいちゃん、お前が学校に行った後に倒れたんだ。病院に運ばれたんだ。じいちゃんが言ったんだ、『弓には言うなよ。弓は今日は大事なレースがあるんだから。入院したことは言うなよ』って」
「そんな・・・・・・。父さん。私を病院に連れていって!」
私は父さんの車に乗って、病院へ向かった。
第九章 また会う日まで
下関市立病院に着いて、じいちゃんの病室に向かった。
母さんが廊下に椅子にすわって、うつむいていた。顔を上げて、私を見た。目が真っ赤だった。
母さんは口を開けて、何かを言おうとする。口をパクパクと動かすけど、言葉が出ない。目から涙が落ちている。
私は口を開いた。
「じいちゃんは?」
母さんが立ち上がった。
「弓。じいちゃんに会ってあげて」
私は呆然と集中治療室に入っていった。
じいちゃんがベッドの上で目を閉じている。
母さんがじいちゃんの肩の上に手を乗せた。
「じいちゃん? 弓が来たよ」
じいちゃんが「う、う」と唸ってから、ゆっくりと目を開いた。
私はじいちゃんの手をつかんだ。その手は皺でガサガサで、そして、暖かかった。
「じいちゃん?」
じいちゃんが静かに笑った。
「ああ、弓ちゃん」
「じいちゃん!」
次から次に涙と鼻水がでてきて、止まらない。
じいちゃんは笑った。
「弓ちゃん。今日のレースはどうだった?」
「頑張ったよ。頑張ったよ。自己ベストを出したよ」
「そうか。頑張ったなあ。よくやったぞ」
じいちゃんが口を開けたまま、目をつむり、何度もうなずいた。
私は叫んだ。
「じいちゃんが教えてくれたおかげだよ。ありがとう、じいちゃん! 本当にありがとう」
「じいちゃんこそ、うれしかったよ」
「じいちゃん!」
じいちゃんが目を閉じて、ゲホゲホと咳をした。
じいちゃんはゆっくりと目を開けた。
「弓ちゃん? 風は?」
「じいちゃん! 風を感じたよ。じいちゃんが教えてくれた風、私、感じることができたよ。気持ちよかったよ」
「そうかい、それは良かった」
「私、頑張るよ」
じいちゃんが私の手を力いっぱい握った。
「じいちゃんは先にゴールテープを切って、待っているよ。白い雲を突き抜けたところからお前を見守っているよ。弓、大丈夫。お前なら走り続けられる」
じいちゃんの目が閉じていく。じいちゃんの首がガクンとかたむいた。私の右手から、じいちゃんの手がスルスルと落ちていく。
「じいちゃん!」
私はじいちゃんに抱き着いて、泣き続けた。
エピローグ
私は中学二年生のマラソン大会後、赤司さんと白川さんに誘われて駅伝部に入部しました。そして、本格的に走り始めました。そして、それ以来、ずっと走り続けてきました。今年、七十八歳になりますので、六十年以上走り続けてきたことになります。
この六十年間、いろいろな苦しみがありました。ランニングに関しては、脚や膝の痛み、レースに出ても完走できなかったことなど、様々な苦しみがありました。そして、苦しみはもちろんランニングだけではありませんでした。進学、就職、仕事、結婚、出産、育児、そして、様々な人間関係、病気、事故、災害など・・・・・・生きていく上でも様々な苦しみがありました。
そうした苦しみを乗り越えてこれたのは、祖父の教えがあったからです。祖父は私に教えてくれました、「走ることも生きることも、最初から苦しいものだと覚悟する。しかし、苦しみを楽しむことができることを忘れてはいけない」と。そして、「走ることも生きることも、『本当の自分を見い出し、表現すること』だ。自分を信じて、全力を出し切るんだ。苦しみを乗り越えた時に吹いてくる大いなる風を感じるんだ」と。
もうすぐ年が明けて、一月がやってきます。毎年一月には屋久島でのレースに出るようにしております。娘や孫は「もう出場しない方がいい」と言います。しかし、私は走らずにはいられません。屋久島で走れるように、毎日の練習を欠かしません。なぜか? 私は知っているからです、「良い原因づくりをすれば良い結果が訪れること。練習や苦しみなしには成長はありえないこと。練習は苦しいけれど、苦しみが大きければ大きいほど大きな喜びを得られること。そして、屋久島で百キロを走り終えた時には必ず大いなる風が吹いてくること」を・・・・・・