言い伝え
資料を読んでいると時間は瞬く間に過ぎていってしまった。羽鳥に声をかけられていることすら忘れてしまっていた。羽鳥から肩をたたかれた。
「加賀美、今日はかえって構わないぞ。時間も来たしな。段ボールは相沢君に運んでもらうから。どうも相沢君の机が空かないらしくてね。だから済んだら彼にお願いするから先に帰ってよ。」
羽鳥に言われて加賀美は鞄に荷物を詰め込み、段ボールに机の上に残っていた道具を入れて閉めた。先に帰るといって彼は会社を出た。こういうときでないと早めに帰れる仕事ではないのもわかっている。アパートに帰るのもいいが、たまには実家に帰るのもいいと思って地下鉄を乗り継いで寺にたどり着いた。長年構えているのが、建て替えをしたので安心している。寺の中にはご本尊があることや大切にしていかないといけないものが多いことを父から聞いている。社務所と書かれているところを開けた。
「ただいま。」
「おかえりなさい。・・・まぁ、かえって来るなら連絡をくれれば幸之助さんも氏子さんたちとの飲み会も控えたでしょうに。」
加賀美がかえってきて感激しているようにも見えるが父の心配のほうが先なのだろうと思った。楓は着物を着ているのだ。普段は着物を着ているときが長いのだ。幼いころからだったので仁は疑うことはなかったが、小学生の時に友達の家に行って洋服を着ているのに少しばかり驚いたのを思い出した。リビングに向かうと情報番組をやっていた。
「幸之助さんが飲み会に行くってわかってましたからあまり料理を作ってないのよ。ごめんなさい。」
「いいよ。母さんに連絡せずに帰って来たんだからそこまで考えてなかったんだよ。」
テーブルには和食が並べてある。楓は食べていた最中であったことが明確にわかった。仁は冷蔵庫から発泡酒を出して楓が食べていた席と向かいの椅子に座った。
「かえって来たということは会社で何かあったんですか?」
「文化部から社会部へと異動になったんだよ。父さんにも報告しようと思ってかえって来たに過ぎないし。」
「幸之助さんは仁がかえって来たら伝えたいことがあるって言っていたわ。きっと跡継ぎのことよ。」
楓は何処か神妙そうな顔で言っているが、仁にとっては住職になる予定にしているのでやめることも覚悟はできている。新聞社に勤めたのは幸之助が社会勉強として勤めるべきといわれたからだ。缶のぷしゅとなったそっけない音がこだました。
「もともとその予定だから構わないよ。」
「そう、有難うね。」
楓は母として見せる笑顔のような女として見せる笑顔のようにも見えた。