修理屋のガンマ③
お月見をしながら、石畳の道を自転車で十分くらい走ると下宿屋だ。
深夜だけど今夜は大家のババアを含む猫どもは縁側で月見酒と洒落込んでいるようで、庭の方から声がする。
猫を撫でたい気もするが、先に汗を流したいので顔だけ出しておくことにする。
「帰りましたー」
「あらお帰り。にゃんだい、親方と飲みに出たンじゃにゃいのかい?」
下宿屋のババアは世話焼きの猫又だ。
サバトラ柄で鼻眼鏡を乗せて、しゃべりに《猫訛り》がある。
しかし、非常に残念ながらケモナー諸氏が思うような猫耳と尻尾だけ生えているようなやつではなく、尻尾が二股になっていることと、トラよりでかい以外はただの猫である。
今は肉球の手で器用にぐいのみを持ち、自家製マタタビ酒をあおってスルメを齧っている。
「片付けたい仕事があったんで、先に上がってもらったんスよ」
「そうかい。それよりもアンタ、ちょっと来るにゃ」
大家は自分で聞いたくせに興味なさそうな返事の後、ぐるぐるごろごろ言いながら招き猫の手つきでこっちに来いという。
ポンポンと自分の横を叩いて座れともいう。
頭に巻いた手ぬぐいを取って顔を拭きながら、ちょっと離れた隣に座るとぐりぐり鼻を寄せてくる。
「ふんふん。アンタちょっとオスっぽい匂いするようになったじゃにゃいか?」
「汗臭いのは分かってますよ。ベタベタして気持ち悪いから、水浴びしたいんスけど」
「んふぅ。青っぽいにゃあ。先月より強く匂うにゃ…ふんふんふん」
ゆらゆらと蛇の舌みたいな二股の尻尾を揺らしながら、大家はチェシャ猫のように目を細めて舌なめずりだ。
ちょっと近くないスか? 猫は好きだけど、サイズがトラなので猛獣味すごくて正直めちゃくちゃ怖いんスけど。
「成長期かにゃー? それとも、お元気が余っちゃってるのかにゃー?」
ぐるるるごろろろと大家は喉を鳴らしてご機嫌だ。
オレには威嚇されているように聞こえるのだが。
ババアに言われるまでもなく、この身体は成長期だ。
こっちに来た時から半年で、身長が三センチ伸びている。
そしてアレだ。
不本意ながら「お元気」の方も、正直なところ持て余している。
だって右手がね? 発散するためのメインウェポンが自分の制御下にないんですよ!?
考えてみてほしい。
思春期男子のハッスルマッスルときたら、ちょっとしたことですぐにハッスルだ。
あんまり女っ気のない生活だから、定食屋の奥さんとかジャンク屋の事務っ娘でハッスルしてしまう。
どちらも良い形の尻なんだこれが。
でもね、きっと夜中に一人でハッスルマッスルをフルスロットルしてたら、右手が銀色にとろけて、すごい軽蔑の表情の女の子になって『ないわー…』って言うんだよ!? 絶対言うよ!
その視線をご褒美と思えるような上級者じゃないんだオレは。
もう本当に土下座してメルに一時間でいいから部屋の外に出てもらおうかと、何度悩んだことか。
「溜まってるにゃあ…青春にゃあ…ふんふん…すぅー…んはぁー♡」
おまわりさんこの猫変態です。
聞いた話だと二百年くらい経ってる猫又ババアなのにミドルティーンの青少年を相手に、捕食者の目でギラギラ見てます!
年の差十倍以上ってどういうことなの!?
ちょっと尻尾でオレの太ももをサワサワしないでください!!
「ぬふふ。今月のお家賃…もらっちゃおうかにゃーあ?」
ヒゲハゲ将軍からここを紹介してもらった時に、無一文で収入がないから家賃を支払うことができないと話したら、将軍はヒゲ面をニヤっと歪ませて「あそこの化け猫は金でも生き血でもいいんだ」と言った。
生き血というホラー要素に加えて、化け猫という驚きの新要素に白目を剥いたが、よくよく話を聞いてみると家賃としての血液量は一か月でおちょこ一杯分とのこと。
背に腹は代えられないので献血というか売血みたいなものと思うことにした。
採血方法は左腕をババアの爪がすっと撫でると、外科医のメスみたいに切れて血が出る。
ぜんぜん痛くないし、傷も一晩でふさがるので最初だけビビったけど二回目からは気楽だった。
「それはいいですけど、水浴びだけでもさせてくださいよ」
さっきからサワサワされて、思春期がハッスルしそうで困る。
そう言うとババアはさっきより楽しそうにぐるごろ鳴らしながら、でかい顔を近づけてオレの頬っぺたをべろっと舐める。
ヤスリか大根おろしみたいな舌で舐められると普通に痛い。あとスルメ臭い。
「いつもの赤ァい血もイイけどぉ…満月だし、こっちの白ォい血でもイイにゃあ♡」
まずい。
さっきからやたら近いと思ったら、このババア酔っぱらって発情してんのか?
周りの猫は興味津々でこっちを見てるのが半分。残りは寝たふりしつつピコピコ耳動かしてバッチリ盗聴の態勢だ。
そしていま気付いたが、この下宿って猫が多いと思っていたが二股尻尾の猫又がけっこういる。
化け猫屋敷だったのか。それなのに猫耳っ娘は一人もいやしねえ。
なんたる無情。
なんたる理不尽。オレの両目から光は失われ、深い絶望がとめどなく溢れる。
「赤い方で…お願いします…」
いったい人生の何に絶望していたら、男子の純潔をトラよりでかいニヤついた猫に捧げてしまうのだろうか。
オレにはまだ見ぬ愛しのあの子が待っているのだ。たぶん。
そしていつかラブラブでイチャイチャで甘々なムーブをキメるのだ。
そのために不可欠なパスポートのひとつが童貞という遠い約束である。
「うン、釣れないにゃあ…まあいいにゃ。いただきまーす」
はむ、とババアはオレの首筋にかじりついた。
爪と同様、牙が浅く首の皮膚を裂いたのだろうけれど甘噛みされている程度の感覚だ。
ごろごろウニャウニャと喉を鳴らしながら抱きついて舐めたり吸ったりしている。
「あむぁ…濃いにゃあ…んふぁ…むほほ♡ ガンマの血は効くにゃ…うふふ」
ババアご満悦。
押し倒されたところで他の猫又どもが集まってきて、首どころか上半身べろべろ舐められてびしょびしょだ。
十分くらいウニャべろモミモミごろごろとされた。
目に見えて毛艶が良くなっているババアは満足げに口の周りを舐めまわして、来月もよろしくと言うと下宿屋の自室に戻っていった。
他の猫又や普通の猫たちも、思わせぶりに身体をこすりつけたり甘えた声で鳴いたりしながら後に続いていく。
「はぁ…水浴びしよ」
ここの下宿はトイレも浴室も個室になく、共同だ。
タイル貼りの浴室には真鍮のシャワーヘッドが二つあるだけで、湯舟はないし、お湯も出ない。
最初はずいぶん戸惑ったものだが、慣れると水シャワーもこれで中々に気持ちが良い。
備え付けの石鹸で髪も身体もゴシゴシ洗う。石鹸で髪を洗うとギシギシするけれど薄毛に悩むような年でもないので気にしない。
最後に泡を流すとさっぱりした気分になった。
手ぬぐいで髪を拭きながら洗面台の鏡を見る。
事故ってこっちの世界に来た時、どういうことかオレは若返っていた。
白いものがチラホラ出始めていた髪は赤っぽい茶髪になっているし、目も黒かったのに灰色になって、なんだか全体に色が薄くなってしまったように思える。
「ヒゲもなくなっちゃったなあ…アゴヒゲ、頑張って手入れしてたんだけどなあ」
つるつるのアゴを撫でてため息をつく。
そのまま目線を下におろしても、生い茂るダンディズムは影も形も残っていない。
アラフォー男のにじみ出る色気は失われてしまったのだ。
この無毛地帯と化した身体は、どうにも見慣れない。
カムバック…カムバック、ギャランドゥ。プリーズ。
『ぐす…ガンちゃん…ごはん…』
洗面台で洗濯した下着を自室の窓に干していると、空腹が極まったのだろうメルが半ベソかいて何か食わせろと訴えるような涙目で見てくる。
ババアが起きてたら何か食べ物をもらおう。
もし寝ていたら、仕方がない。水でも飲んで朝飯まで寝るしかない。
メルの頭を撫でてやりながら大家の部屋まで向かうと、台所の方から旨そうな匂いがする。
『ごはん!』
ぴくんと右手が反応し、オレより先に海賊ゴム船長みたいにすっ飛んでいった。
戸口を掴んで中を覗き込んだメルだが、慌てて戻ってくると小声で『しらない人がいる!』と耳うちして右手に戻った。
メルは人見知りも激しいが、それ以上に異質だ。
オレの知る常識で測れば、この世界も相当に異質なのだが、精霊とはその中でも恐ろしく稀有な存在らしい。
メルとオレが出会って半年、彼女のことはできるだけ秘密にしている。
このことを知っているのは、ヒゲハゲ軍団のハカセと将軍、それとババアだけだ。
「新しい下宿人か…?」
しかし、なぜそれが深夜の台所で料理してるんだろう。
はて、と不思議に思いつつ台所の戸口をのぞいてみると、ひとつのロマンが結実した存在がそこにいた。
ふんふんにゃんにゃんと鼻歌まじりに台所に立つ妙齢の女性。
炭火コンロでサンマを焼く後ろ姿。
成熟して、蠱惑的なフェロモンを放つような、むっちりと肉感的な美尻…いや、ヒップだ。
あれこそ、御ヒップ様と呼ぶにふさわしい。
縞パンツだとか十代だとか、そんな小娘に出せる色気なんてチャチなもんじゃあ断じてない。
お尻ストとして目覚めてから、無数の尻を鑑賞してきたオレにはわかる。
極上の美尻とは、これだ。
そこに、あざとくも絶妙なチラリズムを演出するのはふらふらと揺れる尻尾。
柔らかそうな毛に覆われた背中…ゆるい三つ編みの髪もさわさわと左右に揺れている。
頭にはぴこんとした猫耳。
そして画竜点睛とはこういうことだとばかりに、くびれた腰にはエプロンが。
嗚呼。オレはいつのまにか跪いていた。ここが約束の地か。
それは乳と蜜が流れる場所。
猫耳尻尾のお姉さん、否、お姉さまが裸エプロンで…ッ! 感動の涙で前が見えない。
なんというロマン、なんというエロス。
「サンマ♪ サンマ♪」
いい、すごくいい。この世界にサンマがいることも気になるが、そんなことはどうでもいい。
サンマよりオレを食べてほしい。
もうボウヤったらいけない子ねウフフとか言われたい。
そのサバトラ柄の背中にしがみついて童貞を奪ってほしいと懇願したい。
「サンマ…って、うにゃ?」
オレの祈りが届いたのか、お姉さまが振り向く。
その一瞬はオレの脳内で永遠であるかのように時間が引き延ばされる。
きっと目元には色っぽい泣きボクロがあって、金色の瞳で、めっちゃセクシーなんだ。
そうに違いない。
それ以外は神が許してもオレが許さない。
きょとんとした表情でお姉さまがオレを見る。
ほら、やっぱり瞳は優しく潤んだ金色。なんてコケティッシュ。
泣きボクロは柔毛で見えないが、それは猫なんだから仕方がない。
その代わり、すっと伸びた鼻先にちょんと可愛らしく乗った鼻眼鏡は素敵にチャーミング。
「にゃあ。ガンマとメルか。腹ペコ小僧かにゃ? 今夜は機嫌が良いにゃ。サンマ食うかにゃ?」
少し鼻にかかっているのに、ハスキーな印象も漂う声…耳元で甘く囁かれてみたい。
あれ?
サバトラ柄…鼻眼鏡…その声…まさか、大家のババアか。
さっきまでシルクレースに包まれていたオレの視界がモノクロームからセピア調に色を失っていく。
繊細なガラス細工のような男の純情が、結実したはずのロマンが、波に洗われる砂城のごとく崩れていく。
「変な顔にゃ。要らんのなら食ってしまうぞ」
「はい! はいはーい! サンマ食べまーす!」
メルは大根を擦りおろす手伝いをしながら大家と楽しそうに話している。
夏のサンマも悪くないとか、明日はソフトクリームを食べに行くとか、大家さん人になれるなんて知らなかったとか。ここらで化けられる猫は自分だけだとか。
「あたしもうお腹ぺこぺこー」
「子供はいっぱい食べるにゃ。漬物も食うにゃ」
「わーい!」
台所の食卓を囲んで大家とメルが語らっているが、オレは戸口で死体のように転がっていた。
いっそ死にたい。ババアがお姉さまで、煩悩直撃級のエロい裸エプロンだったなんて。
どストライクなのに二百歳オーバー。
でもストライク。あのとき白い方を選んでいたら、どうなっていたんだろう。
でもババア。
「のうメル…あれはどうしたんにゃ?」
「ガンちゃん? たぶん、また始まっちゃっただけだから…そっとしておいてあげて?」
約束の地は不渡りとなり、幻と消えた。
乳も蜜も流れず、ただオレの血涙だけが下宿屋の薄暗い廊下に流れるのであった。