005 彼女の目的
「……へえ」
悠斗は春奈のことを感心していた。
普通の人ならば目の前にモノが近づいてきたら、反射的に避けてしまう。
避けずにいられるのは、武道経験者かVR戦闘経験者のどちらかだろう。
「ねえ、どうなった? なんか目の前が真っ暗で何も見えないんだけど?」
両手をバタつかせて、春奈はあたふたしていた。
その様子を見て、悠斗は春奈に感心したことが間違いだったと思い直した。
最初、春奈は目を開いたまま動かなかったと思った。
だがそれは間違いで、途中から目をつぶっていたのだ。
だから微動だにしなかった。
パイがぶつかったことにさえ気付いていないのが、その証拠だ。
仮想のクリームは顔に引っ付いている感触がないので、ぶつかった瞬間を見ていないと、何が起こったのか理解できない。
春奈は視界がなくなったことに焦り、デタラメに歩き出した。
そして近くにあった椅子に足を引っ掛けて、バランスを崩す。
「危ない!」
滝川が声を上げるよりも早く、悠斗は春奈を抱きとめた。
そして春奈を床に座らせると、目の部分にあるクリームをふき取る。
普通ならば、ふき取る際に顔に手が触れる。
だが悠斗の指は春奈の顔に一切触れなかった。
正確な距離判断と精密な動きという神業をいとも簡単にやってみせた。
「大丈夫? クリームで視界が奪われただけだよ」
「……ああ、うん。そうだよね。目を開けたら、真っ暗で驚いちゃった」
「慣れてないと、仕方ないよ」
「…………。八神くんと初めて、目があったかもしれない」
そう言って二人は見つめ合った。二人の顔はクリームまみれだ。
しかしMRで見ていないクラスメイト達には、クリームは見えていない。
クリームが見えてる者にとっては滑稽に映るが、見えていない者にとっては、男女が至近距離で見つめ合っているという情熱的なシーンに映っていた。
ゆっくりと、春奈の手が伸びて悠斗の頬に触れる。
悠斗のように仮想クリームだけを触るのではなく、肌に指が触れていた。
「ジャンケンの時、目を合わせてると思うけど?」
「ううん、八神くん。私の手しか見てなかったよ」
春奈は、悠斗の頬から掬い取ったクリームを指ごとしゃぶる。
クリームは仮想空間の物体なので、もちろん味も食感もない。
引き抜いた指と、くちびるに唾液の橋が架かる。
そして重力に負けて透明な粘液の橋は崩壊した。
「……そんなことないよ」
「ワザと負けたでしょ?」
「……運がなかっただけだよ」
悠斗は春奈の問いに嘘をついた。そして内心で驚いていた。
ジャンケンの秘密をまさか見破っている人物がいたとは思わなかった。
だとすると春奈も悠斗ぐらいに目が良いことになる。
よくよく考えればおかしかった。
仮想物で視界が完全に塞がった場合、安全機能が発動し仮想物を半透明化する。
安全機能を切っていないかぎり、仮想物で目の前が完全に塞がるということはない。
半透明化は本人だけで、第三者は普通に見えている。
春奈が仮想物を半透明化したかどうかは、悠斗には分からない。
……今のパイ投げで転んだのは演技か?
悠斗は春奈のちぐはぐな行動を訝しんだ。
「……運ね」
「俺も質問いいかな?」
「どうぞ」
「どうして窓際の席を選ばなかったの?」
春奈はジャンケン大会で優勝して、どこでも好きな席を選択できる権利があった。
自由に選択できるといっても、ブロックごとの男女比を同じにしなければいけないという制限がある。
しかし、一番目の人は、そのことを気にする必要はない。
普通ならば、窓際の一番後ろを選択する。
だが春奈はその隣を選んだ。
「八神くんが、そこを選ぶと思ったから」
「……俺が?」
悠斗は、春奈の言葉の意味が分からなかった。
「そうすれば、お隣同士になれるでしょ?」
「……隣」
「八神くんがどんな人か気になって、お話したかったんだ」
「話って、別に面白いことは言えないと思うよ」
「ううん、十分に面白い人だよ。君は……」
春奈はクリームまみれの顔で笑った。
「おいおいおい! いつまで二人で見つめ合ってるんだよ!」
二人が良い雰囲気なので、滝川がご立腹だ。
クラスメイト達の視線も集まってしまっている。
悠斗は春奈の手を取ると、引っ張って立たせた。
「月島の顔もかなり面白いよ」
「そう? 自分の顔は見えないから、よく分からない」
「じゃあ、データを送るよ」
「あ、私も送るね」
悠斗と春奈はクリームまみれのお互いの顔データを送り合った。
「アレ? 意外と可愛くない?」
春奈はクリームまみれの自分の顔を見て、そんな感想を漏らした。
「いやいや、それはないから」
そう言って悠斗は、自分が呼び出した仮想オブジェクトを消去した。
春奈と滝川、二人の顔についていたクリームがパッと消える。
だが悠斗の顔についたクリームは、滝川が出したものなのでそのまま残っている。
悠斗は水の入ったバケツを呼び出すと、自分の頭の上でひっくり返す。
仮想の水が顔についたクリームを綺麗に流し去った。
春奈はそんな悠斗の行動を見て、少しだけ驚いていた。
「月島、大丈夫か? ケガしてないか?」
滝川が心配そうに春奈へ駆け寄った。
「うん、大丈夫だよ。心配してくれてありがと」
「そっか、良かった」
滝川は春奈に笑顔を向けられて安心した。
「……席に戻らない? 俺たち目立ってる」
悠斗は二人に提案する。
少し前からクラスメイトたちの視線は三人に集中していた。
悠斗の提案に二人が頷き、三人は自分の席に座った。
「ねえ、VAMのこともっと教えてくれないかな? 私、冒険を始めたばかりだから、よく分からなくて」
席に戻ると、さっそく春奈が口を開いた。
春奈の言う〝冒険〟とは、VAMの第2世界以降のファンタジー世界を旅することを指す。
VAMユーザーでもMRのみで、冒険をしない人は多い。
「俺も初心者だから、滝川に教えてもらうと良いよ」
「え? 嘘? そうなの?」
春奈は、悠斗の言葉が信じられず聞き返した。
「俺、レベル11だよ。滝川はいくつ?」
「俺はレベル22だ」
「……ふーん。私はレベル6」
春奈は、自慢げな滝川に無関心だ。
「そんじゃ、放課後VRルームでレベル上げにでも行くか?」
滝川はめげずに提案する。
学校には複数のVRルームが存在する。
VRが世界に普及して、生活の一部として欠かせない存在になった今では、VRの授業もあるしVRの部活もある。
プロスポーツは、リアルよりも少しだけVRの方が人気がある。
VRの方が見た目が派手で、賑やかなのだ。
〝消える魔球〟や〝火の玉シュート〟といった分かりやすい面白さがある。
もちろんリアリティ重視のVRも存在する。
2052年から第一回VRオリンピック<バーリンピック:Virlympic>が開催する。
仮想的・事実上という意味の<バーチャル:Virtual>。
美徳・善行という意味の<バーチュー:Virtue>。
そして<オリンピック:Olympic>を合わせた造語だ。
子供も老人も、男も女も、健常者も障害者も。
年齢、性別、身体能力も関係なく平等な競技大会。
まさに平和の祭典そのもの。
オリンピックは21世紀前半から商業色が濃くなり、だんだんと腐敗していった。
後半からは、基本の理念に戻そうという動きがあるが、難しそうだ。
ドーピングや審判の買収を平気でやる国が、チート行為をやらないわけがない。
「……八神くんは、どうするの?」
「俺はどっちでも。二人で行きたいなら俺は遠慮するし、三人で行きたいなら付き合うよ」
春奈の問いに悠斗は答えた。
滝川のことを思えば、自分は遠慮した方が良い。だが選択は春奈にゆだねた。
二人きりは嫌だと春奈が思う可能性もある。
「月島、俺は二人でもぜんぜん! かまわないぞ! 八神よりもレベルも高いし、頼ってくれていいからな!」
滝川は必死に、二人で行くことを提案している。
それに対して、春奈はうーんと悩んだあと答える。
「私は三人がいいかな」
「……そ、そうだよね。三人の方が楽しいよね?」
明らかに滝川が残念がっていた。
「分かった。放課後、三人でVAMの冒険をやろう」
悠斗は、滝川に苦笑いしつつ話をまとめた。