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短編の墓

作者: みのる

 夢を見た。

 亡くなったおばあちゃんの夢。

 おばあちゃんは井戸の蓋をずらして、できた隙間から何かを放り込んでいる。

 それなあにと舌ったらずに尋ねた私に、おばあちゃんは一言、餌だよ――と答えた。

 井戸にそんなものが必要だなんて聞いた事がない。

 幼い私が首を傾げていると、おばあちゃんはため息をつきながらこう言った。

 餌をやっている内は悪さをしないからね。

 あれはいつの事だったろう。

 目を覚ました私は、暗い部屋の中で体を起こす。開け放した窓からは涼しい風が入って来るのに、酷く汗をかいていた。

 そうだ。餌が必要なんだ……。

 

 

 うちの裏庭には井戸がある。

 とは言っても、釣瓶なんかの水を汲み上げる装置もなくなっているし、四角く石を積み上げて作った壁の上部は鉄板で塞がれていて、もう随分前から使っていない。いくら田舎の家といえど、そんなものに頼らなくとも上水道は完備されている。井戸が使えなくても不便はない。使っていないのなら埋めてしまえば良さそうなものだが、特に今のところ不自由はないという事でそのままにしてあるだけの、一種のオブジェのようなものである。

 北側にある裏庭は、裏の竹林のせいで昼間でも薄暗い。竹林を風が吹き渡る音はいかにも陰気で、朽ち果てた井戸のある風景はあたかも心霊スポットの趣を醸しだしている。

 気味の悪い裏庭を避けて、南側にある玄関から帰って来た私は急いで制服を着替え、お母さんを探して台所に顔を出した。お母さんは台所のテーブルで、おはぎを丸めている。

「ねえ、お母さん。おばあちゃん、年に二回井戸に何か落としてたよね」

 おはぎを握る手を止めて、お母さんがきょとんと顔をあげた。

「ああ、そう言えばそうねえ。ちょうどお彼岸の時期だったかしら」

 のんびりとそう言って、またもち米の塊を餡子で包む作業を再開する。

「あれ、何かの儀式だったのかな。何をしてたのか知ってる?」

「詳しい事は知らないのよ、いつも気がついたら終わってたから。どうも、丸鶏を投げ込んでたみたい」

「丸鶏?」

「そう。ほら、お彼岸の時はいつも、商店街のお肉屋さんが届けに来てくれてたじゃない」

 でも、とお母さんは困ったように眉尻を下げた。

「井戸って言ったら大抵は水神様でしょう? 水神様をお祀りするなら、お酒とかお塩とかお米とか、そういうのだと思うのよねえ。鶏なんて井戸に落として大丈夫なのかしらってずっと思ってたんだけど」

 思ってたなら聞けばよかったのに。喉元まで出かかった呟きをどうにか呑み込んだ。今言うべきなのはそんな事じゃない。

「おばあちゃんが一昨年亡くなって、去年も今年の春のお彼岸も、何もしてないけど」

「そうなのよねえ。おばあちゃんが大事にしてた行事なら続けてあげたいけど、お父さんも良く知らないっていうのよ。こんな事ならちゃんと聞いておけばよかったわ。おばあちゃんとっても元気だったのに、心筋梗塞で随分急だったから……」

 餡子まみれの手で目尻を拭う。亡くなってもうすぐ二年になろうというのに、お母さんはいまだにおばあちゃんの事を思い出して涙する。嫁姑関係が良好だったのはいい事だと思うけれど、私はそれどころじゃなかった。

 急いで階段を上って二階にある部屋に戻り、財布の中身を確認すると家を飛び出す。まだまだ残暑の厳しい九月の空は、夕方になっても明るい。段々とオレンジ色に変わって行く空の端を睨みつけながら自転車を走らせた。

 青々とした稲が風に揺れる田んぼの中を走る道路には、ごくたまに軽トラが通るばかりで、いつもなら広い草原の中を走っているような清々しい気分になる。けれど、今日はそんな気分に浸る事も出来ずに、ただひたすら足を動かしてペダルをこいだ。駅前のさびれた商店街を自転車で走っていると、馴染みの肉屋さんがシャッターを下ろしかけている姿が見えた。

「あれ、宮野さんとこの智穂ちゃん。お使いかい」

 恰幅の良い肉屋のおじさんが欠けた前歯を見せて、人の良さそうな顔で笑う。閉店の時間を過ぎたようだが、馴染み客とあれば多少の我儘も聞いてもらえる。自転車から降りて端にとめると、財布を握りしめて曖昧に頷いた。

「おじさん、丸鶏って幾らするの?」

「丸鶏? ああ、そういや、ばあちゃんが毎年買ってくれてたっけね」

「欲しいんです。幾らするの?」

 おじさんはなんとも気の毒そうな表情を浮かべた。

「いやね、丸鶏はそんなに注文がある訳じゃないから、予約してもらって取り寄せる事になってるんだよ。今予約してもらうとしても、発注は明日になる。うちの店、明後日は休みだろう? 届くのは明々後日になるけど、それでもいいかい?」

 おじさんの言葉に、私は俯いた。

 おじさんの口調の歯切れが悪いのは多分、おばあちゃんがきっともっと早くに予約をしていた事を覚えているからだろう。彼岸入りしたのが今日、秋分の日は明々後日だ。明々後日ではきっと間に合わない。

「……やっぱりいいです」

 どうにかそれだけを言ってぺこりと頭を下げると、私は自転車を押しながらとぼとぼと家路を辿る。遠くの方で鳴くカラスの声を聞きながら、ぼんやりと考えた。

 そもそも、丸鶏でなければいけない理由があるのだろうか。もしかしたら、肉であれば何でもいいのかもしれない。そうだ、試してみる価値はあるだろう。

 私は家に帰るとすぐ、洗濯物を畳んでいるお母さんの目を盗んで、冷蔵庫から鶏もも肉とささみ、豚バラ肉のパックを取り出した。冷蔵庫に入っていた肉はこれで全部だ。

 勝手口からそっと裏庭に出て、庭の隅にある井戸を目指す。井戸を覆っている鉄板は重くて、少しずらす程度が精一杯だった。ぽっかり空いた隙間から、スチロールのパックごと肉類を滑り込ませて落とす。耳を澄ませてみたが、水音はしなかった。蓋を元通りに戻して、私はようやく人心地ついた気がした。

 

 

「なんだよ、今日の晩飯」

 夕食時、不機嫌そうに文句を言ったのは四歳年上のお兄ちゃん、陽一だ。畳の上に据えられた座卓の上には、お母さんが愛情込めて作った料理が並んでいる。栄養バランスを考え、野菜を中心とした家庭料理は、高校三年生、所謂食べ盛りのお兄ちゃんには物足りないのだろう。いかにも不満げに、焼いた厚揚げを箸でつつきまわしている。お兄ちゃんの不穏な雰囲気に、隣に座っていた三歳年下の妹、佳代が怯えたように私の腕にしがみついた。

「唐揚げ作ろうと思ってたんだけどねえ……。他にも豚バラとか、買ってあった筈なんだけど、どうしてだかお肉が全然冷蔵庫の中になくって。私ったらスーパーに忘れてきたのかしら」

 お母さんが申し訳なさそうに首を竦めた。その横で後ろめたくなった私は視線を落とす。それを目ざとく見つけたお兄ちゃんが、じろりと私を睨みつけた。

「おい、智穂。お前の仕業か」

「やめなさい、陽一」

 ビールを片手にほんのり赤くなったお父さんが、やんわりとお兄ちゃんを窘める。それでもお兄ちゃんは私から視線を外さなかった。静まった空気が、自分の罪を自覚している私に重く圧し掛かる。

「……ごめんなさい」

 膝の上でぎゅっと手を握り合わせ、小さく謝罪の言葉を口にすると、お兄ちゃんは不快そうに眉を顰め、お父さんとお母さんは驚いたようにぽかんと口を開けた。

「何なんだよ、お前。訳わかんねえ事しやがって」

「陽一。……智穂、話しなさい」

 苛立った様子で大きな音をたてて茶碗を置いたお兄ちゃんを制して、お父さんがこちらを向く。私の隣に座っていたお母さんも、促すように頷いた。

「おばあちゃんがやってたから」

 あ、とお母さんが声をあげる。

「もしかして、昼間の井戸の話? あなた、おばあちゃんの代わりにやってあげようと思ったのね」

 お母さんが納得したように手を打った。お父さんは理解できていない様子で首をひねっている。

「井戸って裏庭のあれか?」

「そうそう。昼間、智穂と話したのよ。そう言えば、おばあちゃんは儀式でもするみたいに、お彼岸になったら井戸に何か落としてたわねって。お父さんは知らないって言ってたけれど、丸鶏を落としていたのを見た事があるのを思い出して」

「それじゃあ、冷蔵庫にあった肉は井戸に落としたのか」

 お父さんは眼鏡の奥で目を丸くしている。私は小さく頷いた。

「肉屋のおじさんが、丸鶏は予約しなきゃ買えないって」

 ちっと舌打ちの音が響いた。顔をあげなくてもわかる。お兄ちゃんだ。

「馬鹿馬鹿しい。井戸に鶏落としたからって何にもおこりゃしねえよ」

 お兄ちゃんがイライラと箸を食卓に投げつける。大学受験を控えたお兄ちゃんが、溜めこんだストレスを私にぶつけるのはいつもの事だった。ナイーブになっているお兄ちゃんの事を思うと両親は強く言う事も出来ないらしく、お兄ちゃんを宥め私をかばってくれるけど、結局お兄ちゃんの不機嫌に拍車がかかるだけで、問題の解決には何らなっていない。

 小さい頃はそれなりに仲が良かったと思う。お兄ちゃんは私や佳代の世話を焼きたがって、よく三人で遊んでいた。関係が変化したのは、お兄ちゃんが反抗期に入ったあたりだ。いつもお兄ちゃんの機嫌を窺ってびくびくしていた私と佳代は、反抗期が落ち着いてもお兄ちゃんとはあまり話さなくなった。

 そうすると今度は、探るような視線が気に入らないと言い始め、佳代に当たるようになった。酷い言い草だと思う。私達が人の顔色を窺うような人間になったのは、他でもないお兄ちゃんのせいなのに。

 まだ小学生の佳代が怯える様は見るに堪えず、私は事あるごとに佳代をかばってお兄ちゃんに噛みついた。それを何度か繰り返す内に、お兄ちゃんの標的は完全に私に変わっていた。

 それも、お兄ちゃんの受験が終わるまでだと思えば我慢できた。何かにつけ、こんな田舎出て行ってやると言うお兄ちゃんは都会の大学への進学を希望していて、うまくいけば来年の春にはこの家からいなくなるだろう。私だってせいせいするというものだ。

 だけど、今回の事に関してだけは、私には黙っている事が出来なかった。

「お兄ちゃんにはわかんないよ!」

 普段は諦めて大人しく罵られている私が、突然大きな声を出した事に驚いたのだろう、両親とお兄ちゃん、佳代までがびっくりしたように固まった。

 一瞬の沈黙に、私の目から涙があふれ出した。お母さんが我に返ったように私の背中に手をまわしてぽんぽんと叩く。

「あらあら、どうしたの。智穂、何かあったの? 話してちょうだい」

 ひくひくと痙攣する喉を押さえながら、私は口を開いた。

 それが始まったのは二週間前だ。

 私はその日、新しい靴をおろした。学校に履いて行くだけのなんて事ないスニーカーでも、新しい靴となると気分が違う。起きて階段を下りるとすぐ、綺麗に片づけられた玄関の三和土に靴を揃えてそっと置き、支度をしようと洗面所に向かった。

 支度を整えて玄関へ戻ると、踵を上がり框に添わせるように置いていた靴が、五十センチ程出口に向かって前進していた。お兄ちゃんの嫌がらせか何かかと思いながら足を伸ばして靴に足を差し込んだ。それだけの話だ。別段不思議にも思わなかった。

 翌日、前の日の晩に靴箱に仕舞っておいた筈の靴が、今度は玄関の引き戸の直前の位置に揃えて置いてあった。またお兄ちゃんの顔が浮かんだが、朝からお兄ちゃんに噛みつくのも面倒だと思った私は、素知らぬふりでそのまま学校に行った。

 次の日には、靴はとうとう玄関の外に出ていた。いよいよ我慢ならないと思い、「私の靴で遊ぶのやめてよ」と訴えると、お兄ちゃんは眉間にしわを寄せて「知らねえよ。誰がお前の靴なんか触るか」と吐き捨てた。心底不快そうなその様子は嘘ではなさそうだった。

 ではどうして、靴箱に収めた筈の靴が玄関の外に出ているのか。佳代にも念のため確認したが知らないと言うし、お父さんやお母さんがそんな妙な事をするとも思えない。考えている内にも、靴は毎日五十センチ、歩幅にして一歩分程度の距離を伸ばしていく。三和土から南向きの玄関を出て、東に。二日後にはつま先は北を向いていた。

 つま先が向かう先を見て、私はやっと気付いた。延長線上にあるのは、あの井戸だ。

 私は急に怖くなった。あの井戸はなんだか昔から怖かった。明確な理由がある訳じゃなくて、とにかく近づきたくない。小さい時から、おばあちゃんがいる時でないと側には行かなかった。

 その日、学校からの帰り道に、靴を鋏で切り刻んだ。布地の部分を切っている内に、これでは刃物で切った事が丸わかりだと思い、精々土で汚した靴をお母さんに見せて、新しい靴を調達した。「学校でお友達とうまくやってる?」と心配そうに聞いてきたお母さんには悪い事をしたと思っているが、それがスムーズに新しい靴を手に入れるために、私にできる最大限の努力だった。

 果たして、翌朝。新しい靴はやはり井戸に向かって歩みを進めていた。靴自体が問題なのではないのだと思い知らされた。

 それ以来、何の打つ手もないまま今日に至っている。

 今朝の時点で、井戸まではもうあと三歩程の距離まで近づいていた。このままでは明々後日――秋分の日には、靴は井戸に辿りついてしまう。

 餌を与えられず、飢えている筈の井戸――あるいは、井戸の中の何かに。

 泣きじゃくりながら話し終えると、お父さんとお母さんが戸惑ったような顔で目線を交わし合った。言葉を探しているのか、居心地の悪い静寂がその場を満たしている。

「……何を言うかと思えば。心霊現象なんてある訳ねえだろ」

 ふんと鼻で笑ったのはやはりお兄ちゃんだ。不気味な物を見るような目で私を見ている。

「お前、妄想癖でもあるんじゃねえの。くだらねえ」

 がたんと座卓を揺らしてお兄ちゃんが立ち上がる。そのままどすどすと足音を響かせて階段を上り、自室へ戻って行った。

「靴がひとりでに、なあ……。俄かには信じがたいが」

 お父さんは腕組みをして困ったように天井を見上げた。お父さんの膝の上では、佳代が甘えるようにしがみついている。

「でも、智穂は怖いのよね」

 大きく頷くと、お母さんが安心させるように私を抱きしめた。

「どうしたらいいのか、私達にはわからないけれど……、そうね、専門家の人でも探してみようか。それでアドバイスを貰いましょう。ね」

 全てを吐きだした事で、随分と肩の荷が下りた気がした。どうしてもっと早く両親に言わなかったんだろう。信じてもらえないかもしれないと思っていたが、家族なんだからわかり合えない筈がなかったのに。

 その夜、私は久しぶりに熟睡した。

 

 

 翌日、学校から帰って来てすぐに台所へ向かう。ふわりと出汁の香りの漂う台所で、お母さんは夕食の準備をしていた。お母さんの側には、手伝う訳でもない佳代がまとわりついている。昨夜私の話を聞いた佳代は酷く怯え、お母さんの布団で一緒に寝たらしい。今日も朝からお母さんにべったり張りついていて、学校に行かせるのも大変だったようだ。

「おかえり、智穂。おはぎあるわよ、着替えていらっしゃい」

 制服に目を留めて言うお母さんに、私は勢い込んで問いかけた。

「お母さん、専門家の人見つかった?」

 お母さんはこくりと頷く。

「お母さんのお友達にね、そういうのに詳しい人がいるのよ。その人に相談したら、霊媒師さんて言うのかしら、とにかくそういう方を紹介してくれるって」

 佳代がお母さんのエプロンの裾を引いた。

「お母さあん、佳代もおはぎ食べる」

「ああ、はいはい。今お茶淹れるから、ちょっと待ってね」

「ねえ、いつ? その人いつ来てくれるの?」

 忙しそうに立ち働くお母さんにかけた声は、少しささくれ立っているように思えた。

「さあ、どうかしら……。随分忙しい方みたいだから」

 お母さんの言葉に肩を落とす。あからさまに気落ちした私の様子に、お母さんは慌てて「後で電話して、出来るだけ早くってお願いしてみるわね」と言い添えた。

 階段を上って自室に戻る。佳代が甘えるようにお母さんを呼ぶ声が、背中を追いかけて来た。着替える気力も湧いてこず、制服のままベッドに倒れ込む。

 昨日のパック詰めの肉では、やはり効果はなく、今朝もやはり靴は動いていた。井戸までの距離はおよそ二歩分。

 昨日、両親に打ち明けた事で軽くなった心は、また鉛のように重くなっていた。

 わかってもらえたつもりだったけれど、きっとこの切迫感までは伝わっていないのだ。私はすぐにでもこの事態を何とかしてくれるものと思って疑わなかった。子どもの私にはできない事が、大人の両親には出来るんだと信じていたのだ。

 けれど、少なからず傷ついたのは、事態が好転しなかったせいではなかった。

 確かにお母さんは伝手を取り付けてくれた。けれど多分、それは怪異を怖れる私を落ち着かせるためであって、どこかで何も起こる筈がないと思っている。表面では信じているように装っても、両親はきっと私の言う事なんて話半分にしか聞いていないのだろう。

「間に合わない……どうしよう」

 焦燥感に駆られた呟きは、蒸し暑い空気の中へ消えていった。

 

 

「起きなさーい、陽一。今日は模試の日なんでしょう」

 階下から聞こえるお母さんの大きな声で私は目を覚ました。

 秋分の日、祝日だ。時計は七時半を指している。私はベッドの上で丸まったまま息を殺して、隣のお兄ちゃんの部屋の気配を窺った。物音は聞こえてこない。

 寝ているのだろうか。それにしては何の気配もない。まるで誰もいないような……。

 そこまで考えて、ぞっと総毛だった。

 布団を跳ねのけて部屋を出る。階段を駆け降りると、お母さんが階段の上を見上げるようにして立っていた。

「おはよう、智穂。ねえ、陽一まだ起きてこない?」

 それには答えずに、私は靴箱を開ける。昨夜靴箱に仕舞った私の靴は、きちんとそこに残っていた。けれど――

「……お兄ちゃんの靴がない」

 玄関先に座りこんだ私の視線の先を確かめて、お母さんはあら、と暢気な声を出す。

「もう行っちゃったのかしら。気付かなかったわ、随分早く出たのねえ」

 朝食も食べずに行かせるなんて、可哀想な事しちゃったわ……とぶつぶつ呟きながら、お母さんは台所の方へ歩き去る。

 そんな筈がない――と、私には分かっていた。

 昨日の朝、私は井戸につま先を向けて置かれた自分の靴を、絶望を感じながらじっと見つめていた。

 距離はあと一歩。明日には辿りついてしまう。

 その時、私はどうなるんだろう。

 怖ろしくて仕方がなかった。

 おばあちゃんが亡くなってから、三回のお彼岸が過ぎている。その間、私達は何もしてこなかった。

 井戸は餌を欲している。飢えているのだ。

 家族は当てにできない。お父さんは私の話を明確に否定はしないものの多分信じてはいないし、程度の差はあれ、お母さんも似たようなものだろう。まだ小さい佳代を当てにする訳にはいかないし、お兄ちゃんに至っては、私の虚言だと思っている。

 自分で何とかしなければいけないのだ。

『心霊現象なんかある訳ねえだろ』

 お兄ちゃんの言葉が脳裏に蘇る。

 途端にむらむらと腹が立ってきた。そんな事が言えるのは、自分に起こった出来事じゃないからだ。お兄ちゃんには私の気持ちなんてわからない。

 それとも、お兄ちゃんならば自分の靴がひとりでに動き出し、気味の悪い井戸に向かっている事を知ったとしても、平常心でいられるのだろうか。

 私は踵を返し、玄関に戻る。靴箱を開け、震える手でお兄ちゃんのスニーカーを取り出した。再び井戸の側へ向かうと、そこにあった自分の靴を持ち上げ、代わりにお兄ちゃんの靴を同じ位置にそっと置く。

 後ろめたさはあった。けれど、心霊現象なんかないと笑うのなら、お兄ちゃんが代わってくれればいいんだ――と、そう思った。後味の悪さを噛みしめながら、私は自分の靴を持って玄関に駆け戻った。

 自分の靴が井戸の側に置いてある事に気付いたお兄ちゃんは、端から私の仕業だと決めつけ、朝から怒鳴り散らした。当てつけかと喚くお兄ちゃんを、私は冷めた気分で見つめる。心の端っこに存在していた筈の罪悪感は、完全に消えていた。

 お兄ちゃんの靴はきっとあの井戸の傍にある。

 飢えた井戸はお兄ちゃんを飲み込んだのだろう。

 私の、代わりに。

 お兄ちゃんを落としたのは、他でもない私だ。丸鶏を落とすように――お兄ちゃんを、餌として。

 背筋を冷たい汗が伝う。

 餌さえ与えておけば悪さはしない、おばあちゃんはそう言っていた。

 本当に怖ろしいのは、井戸なんかじゃないのだ。

 お兄ちゃんの靴一足分が欠けた靴箱から目が離せなかった。靴箱には家族五人分の靴が綺麗に収まっている。お父さんの仕事用の革靴、お母さんのよそ行きのパンプス、お兄ちゃんのランニングシューズ、私のお気に入りのサンダル、佳代の小さなスニーカー。

 もし。

 もし、もう一度私の靴が歩きだしたのなら。

 その時私は――誰の靴を、そこに置くのだろう。


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