女指池に睡蓮は咲く
私が山のてっぺん付近に辿り着いたのは、ようよう夜も更けた頃。
それは梅雨開け間近の夏の夜。雨こそ降らないものの蒸し暑く、膚に張り付くような湿度である。
青臭い草の隙間から、りいりい恨みがましく鳴く虫の声。見えない獣がたてる足音、いたずらに吹き乱れる山の風。
そんなものに、私はいちいち驚かされる。ああ畜生。なんという夜だ、気味の悪い夜だ。背に負ぶった荷物は重く、私の肩をぎしぎしと圧迫するのだ。
「ああ。畜生、畜生」
背に冷たい汗が流れ続けている。これほどまでに私が焦るのには理由があった。それはこの付近に、「女指池」と呼ばれる不気味な池があるせいだ。
名こそ恐ろしいが、夏には睡蓮などが咲き乱れる涼しげな池であるという。
しかしいつの頃からか「女の幽霊が悲しげにたたずむのをみた」だの「池に近づけば女の指が水面に浮かび上がり、おいでおいでと手招いた」だの、稚拙な噂が流れるようになった。
池の水は夏でも氷のように冷たく、沈んだ人間は池底の藻に絡みつかれる。そして骨となってもなお、浮かび上がることができないのだ、という噂もあった。
だからもう、その池に近づく人間は真昼にも居ない。
「ああ。畜生、なんて夜だ……」
この山はさほど高くはないものの、木が生い茂り昼なお暗い。夜であればなおのこと。
そんな場所に立っているのだから、私の恐怖といえば筆舌に尽くしがたい。
「さっさと終わらせて帰るが一番だ」
私は荷をしっかり背負い、道無き道を進む。
あまりに必死に道をかき分けていたせいだろうか。シャン。と、静かな水音を耳にして、私は情けなくも小さな悲鳴を上げた。
「おんや」
悲鳴を上げたのは、音のせいではない。鬱蒼と茂った草の向こうに、池が見えたせいだ。そして、その池の淵に、一人の老人が居たせいだ。
「おんやまあ、こんな夜中にご苦労なことだ。昔の俺を思い出す。まあ、まあ、怯えていないでこちらにおいで。俺はこうして生きているよ」
か、か、か。と、男は笑った。その呑気な声に私はようやく、悲鳴を噛み殺した。
水の香りがする。小さな池がそこにあるようだ。
件の池だろうか。こう暗くては噂の睡蓮が咲いているかは分からない。ただ黒々と、なにやら蠢くものがみえるばかりだ。
その池の縁に、男は立って居る。否、座って居る。
なにやら椅子のようなものに腰掛けて立ち上がる気配もないのは、彼に足がないからである。
「……足」
「ああ、足はないけど生きているよ。ちょっとしたことで足を取られちまってね。功徳が足りないってことだろうね」
よく見れば男はそり上げ頭に、体には袈裟を巻き付けてある。
彼は坊主である。その古びた袈裟の足先には膨らみがなく、根元から両足とも消えているのが良くわかった。
池の縁に座る、足の無い男。恐ろしくはあるが、男の呑気な口調と、なにより坊主であることが私を安心させた。
背の荷物をしょいなおし、私は一歩、二歩と男に近づく。にこやかな笑顔がどことなく愛嬌のある爺さんだ。
私は恐怖を押し殺し、男に笑顔を向ける。蛍でも飛んでいるのか、その池の周辺はほのかに青白い。私はこの明るさに救われた。
「びっくりしてしまった。まさか人がいるなんて」
「ああ。この池の向こうにちっぽけな寺がある。俺はそこに縁があってね……しかし、こう暑くっちゃ……それで、ついふらふらと……そうさ、風に呼ばれてここに来ちまったってわけだ」
「ああ、暑いですね。今日は、本当に暑い……」
私は額に浮かんだ汗をぬぐった……いや、額に汗など浮かんでいない。じめじめとした蒸し暑さは、この池に近づいたとたんに消えてしまった。
池に吹く風のせいだろうか。今は、妙に、肌寒い。
「お前さん、用事は急ぐのかい?」
「……本当はあんまりにも怖くて早く済ませて帰ろうと思ったのですが、貴方がここにいるものですから別に急ぐ必要もなくなった。汗が引くまでここでちょっと休んで行きますよ」
男は私の背の荷物をじっと見つめる。その目から荷を隠すように背の後ろに落とし、私はふざけるように笑ってみせた。しかし彼はそれ以上は追求せず、かえって嬉しそうに私をみるのだ。
「じゃあ、ひとつ、俺が面白い話をしてやろう。坊主の説法だと思って右に左に聞き流しておくれ」
「それは有り難い。ついでに経の一つでも唱えてくれると、もう一つ有り難いのだが」
不思議と興が乗り、私はその場に腰をおろす。そうすると池の姿がよくみえた。
広いという噂だが、さしてそれほどの広さはない。歩いても、ほんの三十歩ほどで周囲を巡り終えるほどだ。
この分では深さもさほど無いのかもしれない。所詮噂はただの噂だ。と私は少々がっかりする。
しかし池の上にぷらりと浮かんだ艶やかな色は、噂通りに美しい、睡蓮の花である。
大きな葉が儚く浮かび、その上にひとつ、ふたつ、と愛らしい花が浮かんでいる。今はそうっと花を閉ざしているのが、また儚くあった。
「では話をするよ。なあに、そんなに長くはかからんさ」
池ばかり見つめる私に業を煮やしたように、男は語りはじめた。
それはまるで夜風が吹くように、静かなはじまりである。
この山もさ、昔はこんなに寂しくはなかったんだ。むしろ、昔はこのあたりは賑わっていた。この山の奥に、銀山だか金山があってさ……ははは。物欲しそうな目で見るんじゃねえよ。もう随分前に閉じちまった。実際掘ってみたら、一抱えほどしか出なかったって噂よ。
当時はそれでも大勢の欲深い人間が集まってきてさ。そのせいでこの山の至る所に家が作られた。
そのせいで、廃寺寸前だった山寺が日の目を見たってわけだ。山に来るってことは死ぬこともある、急な葬儀だってあらあな。そんな時、パッと呼べる坊さんが欲しい。ってわけで、この寺に坊主が呼ばれてそこそこ儲かったらしい。……なんていいながら、閉山しちまった今じゃ、ふふ。廃寺に逆戻りよ。
おっと話がずれちまったな。
まあそういうわけで、あちこちから人が来る。人が集まりゃ、商売をする人間も増える。飯屋、ぼてふり、そうさな。あとはほれ、商売女。
はは。そんなウブな顔をしなさんな。お前さんみたいに若い人間にゃ、あんまり馴染みもないかい。
昔はこういう山に、身を売りにくる娘も多かったのよ。
とはいえ、だいたいは親やら女衒やらにだまされた田舎の娘でさ。ウブな娘ほどよく病んだ。
なかでもとびきりきれいな娘に、お風という子がいたんだ。世が世なら武家の娘さまよ。まあずいぶん前に没落し、酔いどれのおとっつぁんが、娘を山の女衒に売っちまったっていうワケありだがね。
元々気位の高い娘だ。身を汚されるくらいなら死んでやると、頭の毛をそり落として寺にかけ込んだ。尼にしてくれ、尼寺につれていってくれ。と、坊主に泣きついたんだ。
ん? 嬉しそうだね。そういう身の固い娘は好きかい? でもな、可哀想なことだ。そんな綺麗な心を守るには、ちっとばかし時代が悪かった。
……うん。残念ながら坊主が悪い男だったんだね。
こういう金の亡者が集まる場所に、まともな人間なんぞ居やしねえ。坊主は娘を騙し騙して、これも功徳と言い聞かせ、無理矢理純潔を奪っておいて、毎晩毎晩お楽しみ。
しかしな。不思議と毎晩襲われてしまえば、憎いと思っても情がでる。娘を抱く坊主のほうも、なにやら愛らしい愛らしい、なんぞと思い始める。
でもご存じの通り、建前上、坊主に女は抱けねえ。女犯だ。こんなこと、上に知られりゃえらいことだ。
そのうちに金山だか銀山だかは枯渇して、サァ……っと潮がひくようにみぃんな居なくなっちまった。とうとうこの寺もやっていけねえ。帰還しろ、と上から言われて坊主は困り果てた。
そうだ。お風の存在だ。
坊主はもともと都の生まれ。ここでお役ごめんになったなら、都に戻ることとなる。お風なんかは純粋だからね、一緒に連れてかえってくれるものと、それはもう大はしゃぎした。
しかし連れては帰れない。といって、ここで手放すにゃ惜しい体だ。
そこで坊主は娘に嘘を吹き込んで、きっと迎えにくるからと、その寺の奥に監禁しちまった。娘の足に荒縄を巻き付けて、逃げられないようにしてね。
そこからの坊主は山と都の二重生活よ。え? なんで娘を縛ったかって?
娘を自由にしておいて、もし坊主をすがって都にでも来られたら全部ばれちまう。それと……まあそれよりも、きっと嫉妬だろうね。
お風はそれは美しい娘だ。もし自由にして別の誰かに見初められ、ほかの男に奪われたら? 男心の可愛い妬心だが、やってることはえげつない。まあでも、お前さんも、なんとなく分かる気がするだろう?
……話を戻す。
しかし坊主も都じゃ偉くなったもんで、そうそう山へは行けなくなった。最初こそ三日開けずに戻ったものだが、気づけば一月、二月、三月。半年。そこで坊主は思い出すんだな。
ああ。お風のやつ、飯は、水は、どうしてるんだろうかな。ってな。
ふふ。おかしいだろ。坊主は人間が飯を食うってことをすっかり忘れていたものらしい。
三日に一度戻っていたころは、都の贅沢なものをあれやこれや山のように持って帰っていたんだ。酒に魚に肉に菓子。しかし一月あいた。三月開いた。気付けば半年あいた。
お風は縛られていて、逃げ出せない。寺には飯の粒ひとつもない。水もない。あるといえば、痩せた鼠がいるばかりだ。
さてももう、生きてもいないだろう。そう思えば恐ろしく、坊主はますます山へ向かう気力を削がれた。
しかし悪いことはするもんじゃない。坊主はある時、都のお偉い男から「西の方角に、仏を彫るのにいい木があると夢にみた。探してまいれ」などと言われちまう。西にあるといえば、この山だ。そもそもこの山は、夕暮れ山とも言われていたらしい。
気は乗らないが命じられた以上、行くしかない。
弟子に任せることも考えたが、寺の中でお風を発見されても具合が悪い。寺には坊主の痕跡が……着物だの数珠だのが、まだあるはずだからね。
坊主は腹をくくった。これは仏様の罰だ。どうせお風は死んでいる。誰かに発見されるより、俺が念仏の一つでも唱えて埋めてやれば、お風も成仏するだろう。
しかしな、山に行ってみれば驚くことにお風は生きていた。いや、あれを生きていたと言って、いいかどうか……骸骨みたいに成れ果てて、それでも生きていた。腕にちっこい骨を抱いていたな。お前さんとのやや子が産まれたのだ、どうだどうだ愛らしかろう……。
おや、どうした。ひどく顔が青白いよ。まあ聞きなって、話はもうすぐ終わる。
ともかくもお風は俺を待っていた。逃げようとするとすがりつくので、恐ろしくて恐ろしくて念仏を唱える声も震えてまともに唱えられない。
思わず女の体をはね除けると、お風の足がぽろりと取れた。すがりつく腕をはね除けると腕が取れた。ついで首ももげた。それでも付いてくる。ずるずるずるずる胴体だけで這い寄ってくる。一度は剃り上げた髪がそのころにはずいぶんと延びていたのだが、その髪ばかりは抜けずにそこにあった。
妙に綺麗な髪だったのが、逆に哀れだった。
俺はこわくてこわくて、どうしようもなく……ほれこの池に、女の体を全て、全て、全て投げ捨てた。
女は一度だけ水面にぷかりとういて、恨みがましくこちらをみて、そして沈んだっけ。
……それからだ。俺が、この池に、とらわれたのは。
都に戻ってからも、どうにも気が落ち着かねえ。なにかに呼ばれてる気がする。そうだ、風だ。お風だ。
気が付けばこの池の縁にいた。こんな暑い夜。池をのぞいているとな、声が聞こえるんだ。
「やや子をあやして歩くための、足がございませぬ」
ふふ。さっきのは俺の声じゃねえよ。
まあそんな風に声が聞こえる。俺はさ、哀れで哀れで……お風のことが、あまりに哀れで、悲しくて悲しくて、そしてある年、お風に足をやった。
翌年には、やや子を抱くための腕がない。腕がなければやや子が抱けぬといって泣く。俺は腕をやった。
そして今年で三年目。ほれ、きこえねえか。お風の声が、池のそこから聞こえるぜ。
「貴方様、やや子を見るための、目がございませぬ」
その声は、はっきりと聞こえた。私の背に、顔に、頭に、汗がとめどなく流れる。私の体は音をたてて震えている。
目の前の坊主が語る物語が、急に色を帯びて現実となった。そうだ。この男は最初、私にむかってなんと言ったか。
風に呼ばれたのよ。
そういったではないか。
「お風」
いとおしげに名を呼んで、坊主は椅子から転げ墜ちる。みれば腕だけでなく、手もない。頭と胴だけで、ずりずりと地面を進む。その乾いた口からは、その姿に似合わないほど清らかな、念仏の声が漏れている。
「お風よお」
男は迷いもなく、ぼちゃんと顔を池につけた。しばらく、もだえるようにその体が震える。びたん、びたんと跳ねかえる。やがて、静かに男は顔をあげた。
その首には、腐った荒縄が幾重にもなって絡みついている。
「子のできた女は強い。お前さんも、気をつけるこった。なあ。坊主の最期の説法だ。お前さんの持つその荷物はここに捨てちゃいけないよ……お前さんの用事はここでおしまいだ。その荷を背負って、山から下りて」
池からあげられたその顔は、空である。
目のあった場所には、黒い穴がぽかりと開いている。その状態にもかかわらず、男は私をみていた。
「そして、きちんと弔ってあげることだ」
池に浮かぶものをみて、私は悲鳴をあげる。そこにあるのは、睡蓮ではない。指だ。女の指だ。まるで何かを求めるように、何十本も指が天に向かって突き出されている。
そのうちのひとつが、坊主の頭をつかみ、池に引きずりこもうとしていた。
「ここが女指池と呼ばれる理由がわかったかい」
引き込まれながら、男はそれでも笑うのだ。
「多くの娘たちが、おんなじように、ここに投げ込まれたせいだ」
最期の言葉は宙に浮かんだ。腕も足もない男の体は、あっけなく睡蓮の手により池の中へ。どこかから、赤子の楽しげな笑い声が聞こえる。それだけだ。
「……ああ……ああ……」
先ほどまでの騒ぎは消えた。蛍もきえた。いまはただ、ただ、闇だ。闇の中に、池のほの赤い色と、睡蓮らしき陰だけが見え隠れする。
抜けたような足を叱咤して、私はあとずさる。と、地面に置いた荷に足を取られて転がる……否、厳重に包んだはずの布地の隙間から、一輪の睡蓮が顔を出し、それが私の足をつかんだのだ。
睡蓮はきつく、きつく私の足首をつかむ。ぎりぎりと、つかむそれは、かつて愛した女の指だ。
あれほどまでに愛して、愛して、幾度も抱いて、そして昨夜、私が無残にも殺した女の手だ。
睡蓮は、愛らしい声で私にねだる。
「ねえあなた。やや子を支える足をください」