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今の感情を表すとすれば、道端で突然知らない人に殴られたような衝撃と恐怖というのが的確な表現だと思う。
しかし今さらだけれど、思い返せば、急に部屋の中に入ってこれたこと自体おかしかった。それも恐怖の火種のはずだった。
けれど、おかしいと気づく時間を与えないように、ヤツは笑いながら私の緊張をほぐし、更なる恐怖を与える準備を着々と進めていた。
気が付けばあたりには逃げられないように有刺鉄線が張り巡らされていた、という比喩表現も大げさではない。
ただ、そんな悪事を働いている彼が、なぜか可哀想に思えるのだ。
『私の事は女だと思えないから平気で話せる』『大切だからこそ』『仲間』
その言葉がどうも嘘くさかった。少し前までは胡散臭い笑顔だな、と思うだけだったけれど、今では必死に自分の目的を遂げようと我武者羅に走り回る小さな子どものような印象を受ける。
リリアンと同じように、ただ怯えているだけなのかもしれない。
大人と同じようにガッシリとした体躯に、大きな手のひらを持ってしても、恐ろしく感じるものには怯えてしまう。手を伸ばしても届かないものは、どうしたって出てきてしまうものだ。未知は恐怖を生む。それを私はよく知っている。
生きている限り、それは当然の摂理。生きることは地獄にいることと同義と言っても過言ではない、とすら主張する人もいる。
目の前で、間違えて苦いものを食べてしまったような顔をしたテッドは、少しぐしゃぐしゃになった自身の髪を触ると、居心地悪そうに目線を逸らす。彼はまるで、生き地獄に取り込まれた囚人のように見えた。この世界では、永遠の命に感謝する人々がほとんどなのに、それを地獄と見る男。
そんな男が囚われているのは、檻なんて狭い世界ではなく、この星を丸ごとを取り囲んだ、何らかの地獄じみた何か。
本当はこの世界の人々もみんな怖かったのかもしれない。唐突の永遠に戸惑っていたかもしれない。そこで龍や神を信仰することで、永遠に続く地獄とも言える人生を地獄とも思わず生きていけるようになったのかもしれない。
死の恐怖というよりも、その概念を消し去ってもらうことがその報酬だ。
そういえば、テッドは最初から死の概念を知っていた。それでもなお神に頼ろうとする姿勢なんて一切なかった。
アロンドさんも、エイナル先生も、リリアンもそうだ。
苦しみを抱えた人は、神を信じていない。
神を信じることが出来なくなった、決定的な出来事があったから?
あるいは、禁忌を犯したから?
「……答えてくれないの?」
ようやく動いた脳みそで、これまでの記憶を引っ張り出していると、しびれを切らしたテッドがふてぶてしくつぶやいた。そして、それならこんな話は知ってる? と、話を変えた。
この世界が生まれたばかりの頃。
まだ何の生命もない、踏みしめる大地もない、
例えるなら魔界のような状態だったこの場所を
神様と龍が二人して覗き込んだ。
神様は別の世界線にて、龍と二人きりで退屈をしのいでいたはずが
突然この世界に、何の関係もない世界線から、罪を犯した人間を連れてきた。
宙に浮いたままの私たちの目の前で、この地を綺麗に整えると、
神様は私たちの罪をお許しになる代わりに、
永遠の時を与え、安寧を与え、幸福を与えてくださった!
私たちの笑顔を見続けるため、神様はこの地を守ることを誓い、
天界へと戻り、力を存分に発揮なされているそうだ。
そして一人残された龍に、私たちを守り続ける使命を与え、
何年もの時が流れていったそうです。
私たちはかつては、死を恐れた人間だったので、
突然の永遠に戸惑った。
それを哀れに思ったのか、龍神様は
一定の周期で、人間の記憶を全て消し去ってしまうのです。
これがどういう意味かわかるかい? と尋ねられるが、私にはわからない。
「僕らの人格は、ある時を境に全て初期化される。そして、新たに人格を構築し直すんだ。
これって、本当に生き続けているのかな? 俺たちは、もう前の俺たちではないのに」
肉体はそのままだ。一度バラバラになって繋ぎ直すわけではないので、肉体だけは本物だといえる。
ただし、人格は、記憶は全て消えてしまうため、ほんの一瞬前の自分とはまるっきり違う赤子のようなものだ。
ある程度の常識を与えられただけの、空白を携えた人間という名の入れ物。
再びその中にモノを入れなければ、空っぽのままだ。
「そして、唯一この世界の記憶を全て持ち合わせた存在がいた。
それが、鏡の魔女という存在。彼女はイレギュラーとして存在を知られている。
本来は、彼女も人間としてこの世界に存在したはずだったのに、
神様の手違いで、天と地のどちらにも存在しない、ズレた世界に産み落とされた」
「だから、彼女は人間を、そして何より神を憎んでいる。
いつか世界を破壊しようと、ひっそりと活動している。
神が守ろうとしたこの世界と、人間を壊し、
再び世界を作り直そうと……それこそ、自分を苦しめた神のように」
「彼女は違う世界線にいますが、鏡を通せば、この世界線にいる人間たちと会話ができる。
魔女は願いを的確に読み解き、甘い言葉で破滅へと導く____」
そこまで、彼は幼子に読み聞かせをするように優しく語りかけていたが、ふっと顔を上げたテッドの目は、冷たいものだった。
「で、君は脱衣所で誰と話していたの? 生憎、しばらく時間を与えたのにも関わらず誰もここに現れないみたいだけど」
これは、もしかして
「もしかして、私が、鏡の魔女と話していた、とでも言いたいの?」
私がそう聞き返せば、この話の流れでそれ以外に何があると思ったの? と即座に返された。
私が答えを言わないことで、テッドの不機嫌具合が増していく。
けれど、私はまだ理解できない。判別がつかない。
私は異世界から来た。
そのことを、鏡の中の存在は知っていた。
そして、私の姿も。
この世界の人間ではないのに、知っていたんだ。
だから、つまり、彼女が魔女だとは断言できない。
もしかしたら、本当に私なのかもしれないし。
「魔女は害悪だ。アレは俺たちの幸福を奪う。神を憎んでいるという点は理解できるけど、それで人間まで破滅に追い込もうとするのは頭が悪いと思うね。アイツに従った人間は、いつの間にか自然と禁忌を犯している。
おそらく、アロンド先生が禁忌の存在を知ったのはアイツの仕業じゃないかな」
「魔女っていうけど、魔女はどんなことができるの?」
「そりゃあ、魔女だから魔法は簡単に扱える。そして、いろんな記憶を集めて相手の弱みに付け込んで、自分の思い通りにするんだ。きっと、いつかこちら側に入り込もうとしているんだろう。アイツは独りだからね」
あまりにも魔女のことに詳しいものだから、私はこの違和感をどう伝えようかと悩む。
アイツは独りだから、とどうしてわかるのか。
御伽噺だというのに、なぜ実在すると断定するような口調なのだろうか。
「テッドは、魔女を知っているの?」
意を決して発した疑問は、簡単に答えられる。
「俺は、3年前からずっと、魔女から勧誘され続けているからね」
だから、あの女の悪質な部分も、卑怯なところ、哀れなところ、大体知ってるよ。
そう続けたテッドに、何も返せずにいた。
3年間も、ずっと付きまとわれているのか。
でも、だとしたら私と話していたのは、やっぱり魔女ではなかったのではないか。
きっと、私の心の弱い部分が生み出した、幻想なのかもしれない。
あれだ、イマジナリーフレンドってやつ。
「私は、魔女となんか話してないよ。多分、イマジナリーフレンド的なあれだと思う。でもおかげで目が覚めたよ、これからは自分で何とかするよ」
テッドは形の良い細い眉の片方を上げると、それならいいけど、と含みのある言い方でありながらも、なんとか納得してくれたようだ。
そして、優しい手つきで私の首をなでると、「ごめんね」と謝りながら青い光を手のひらから放つ。
「怖い思いをさせてごめんね。俺も気が動転していたんだ。もし悠陽が魔女の罠にハマっていたら、正気に戻さないといけなかったから」
そう言うテッドのほうが、よっぽど正気を失っている。
その言葉が頭をよぎるが、なかったことにして笑う。
「平気だから。私、これぐらいじゃ何ともならないよ」
何も考えずに、ただ相手を刺激しないように言葉を選ぶ。
なんだか、洗脳されたような変な気分だけど、まだ平気だ。これは普通だ。
もう、きっとテッドもこんな事はしないだろう。
今回は魔女が関わっていたから。
そう言い聞かせ、部屋から出ていくテッドの背中を見送った。
完全にその背が見えなくなった頃。
平気だと思っていた私の体がガクガクと震える。
苦しかった、痛かった。怖かった、悲しかった、死にたくなかった。
私は確かに、首を絞められた時にそう感じた。
死にたくないのか?
じゃあ、なぜこの世界から出ようとしているのか。
もしこの世界にこのまま居れば、永遠に死に怯えることはなくなるのに。
ただ、苦しいことは無くならないらしいけど。
なんだか、疲れた。
苦しいことも、悲しいことも、痛いことも、苦いことも全て忘れたい。
陽だまりの暖かさを感じて、はしゃいだあの日をもう一度、アロンドさんと一緒に過ごしたい。
平和な世界で、ずっと一緒にいられたら、私はきっと幸せになれるんじゃないだろうか。
あぁ、そうだ、きっとそう。
だから、お願いをしよう。
ずっと、側にいてほしいって。




