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鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰? というフレーズは世界的に有名だったけれど、それはこの世界でも通用するのかは私はまだ知らない。だからここで言わせてもらおう。
「鏡よ鏡、世界で一番可哀想なのはだぁれ?」
『何それ。そっちで流行りだったりするの?』
私それ知らないんだけど、と続けて言うアタシ。やっぱり通用しなかったか、と心の中でため息を吐く。若者に昔好きだったギャグが通用しなかったオヤジの気持ちがよくわかる。
なんてことを考えたりもしながら、脱衣所の鏡に映る〝アタシ〟を見つめる。相変わらず、元の私とそっくりの黒髪黒目the日本人女性である。表情のデフォルトはニマニマ笑いなのが腹立たしいけれども、これも私の一部なのであるとアタシは言っている。うん、ゲシュタルト崩壊しそう。混乱するからさっさと話だけしよう。
「ねぇ。この世界に〝死〟はないはずだよね」
『その通りだ。その通りなんだけど……まさか、大精霊サマと同じことを感じ取っていたなんて知らなかったなぁ』
「同じことって、まさか」
勿体ぶって間を取ったアタシは、ゆっくりと自身の鼻を指す。そして、いつもの笑顔を消した。
『アンタから、よく見知った香りがする。貴方、もうすぐ消えるよ……きっと、跡形もなくね』
アタシが私に人差し指を向けると、ぴしりと鏡に亀裂が入る。ずれて配置されたそれぞれの破片に、私の鼻や目や口がバラバラに映される。その奥に、同じくバラバラにされたアタシ。
「アンタが消えたら、アタシはどうなるのかねぇ……」
寂しげに言うアタシは、何故か他人事のように言う。確かに別々の人格のようなもので、それぞれ思うことや性格は違う。存在している時空も違う。けれど、私がアタシで、アタシが私なら、一緒に消えるのではないのか?
「ねぇ。死ぬってのはさ、人間以外ならあるもんなの? 人間から〝は〟しないはずって言われたんだけどさ」
『そうだね。精霊だとか、神ですらも終わりはある。ただ人間だけが終わる権利を奪われた』
「ってことは、私が死ぬ原因って、もしかしてアロンドさんたちに実験されて元の世界に戻るからってこと? そうしたら、この世界から消えるっていう意味でなら正しい表現だと思うけど」
私の質問に、しばらく熟考したアタシは、困ったようなうめき声をあげると、首を横に振る。
『たぶん、違うと思うな。最近は何か変な動きもあるし、願ってもいない終わりを回避するためには護身術も覚えた方がいい。痛いのは嫌だろう』
「それいろんな人に言われる」
『これ、本気で言ってるからね。アタシが言うのもなんだが、アンタは特別な存在だ。ヤツらに目でもつけられたらとんでもないことになる』
「ヤツら……?」
あのね、と口を開いたアタシに集中していたせいで、脱衣所の外から聞こえた物が動く音に、猫のように大きく肩を跳ねさせた。その間に、アタシは口元に人差し指を置くと、すぅっと奥へ消えていってしまった。
「ねぇ悠陽、少し話したいんだけど」
扉のすぐ裏に、いる。
瞬間移動でもしたのか、というほどに早くここまでたどり着き、かつ、私がここにいることを確信している口調だ。
このまま扉を勢いよく開ければ、外開きの扉だから、相手は顔から扉が当たってちょっとは時間を稼げる。その内に逃げれば、
「あ」
扉は、勝手に開いた。
自動扉なんかじゃないってわかってる。わかってるけど、それでも相手が何かしらの行動を起こしているなんて思いたくなかった。
嫌な予感がする。
だからこそ逃げて、守りたいんだ、自分を。
「なんだ、服着てたんだ」
「……っ?」
は?
「何で出てこないのかなって少し期待してたんだけど、違ったんだね~。ま、それはいいとし……てっ!?」
「女嫌いじゃなかったのか!?」
嫌な予感がするとか中2チックな言葉を頭の中でぐるぐると駆け巡らせていた私が馬鹿だった。異世界だからといってそんな事ばかり思いつくようでは、ただのイタい奴だ!
恥ずかしさが抑えきれずに、目の前の紅に向けて手のひらを叩きつける。途中まで喋っていたが、突然の私の攻撃に驚いて後ろへと跳ねたところで文句を言う。
テッドは女嫌いで、なぜか私のことは女ではないとか言って、ってそういうこと? いやでもなんで裸を期待するんだ、意味がわからない。
「酷いじゃないか! 俺を疑うというんだね悠陽!」
「そりゃそうでしょう」
支離滅裂な言動を繰り返す男を、視線だけで凍らせることができればどれほど良かっただろうか……。なんて思いながら、氷の刃のような鋭く冷たい視線を意識しつつ睨む。残念ながら人相手に使えそうな魔法は覚えていないため、我慢するしかない。
テッドは私の心境を理解しているのか、この俺のつぶらな瞳を見ても、そんなこと言える? などと言いながら上目遣いをするなど、意図的な犯行を重ねている。
「いやぁ、そうそう。変に遊んでて話が飛んだけど、悠陽を巻き込んじゃってごめんね? 俺、怖かったでしょ」
「え? あ、うん」
だよね~と笑いながら話す男は、本当に反省しているのかと思うのだけれど、それを言えばまた話はおかしな方向へと向かうことは明らかだ。ぐっと飲み込んだ言葉が、喉につっかえたままのような不愉快さを生み出す。
さらに、テッドはこれまでの対応のほとんどが意図的に行なっていたものだと告白し、私の我慢ゲージは限界へと近づいている。怒りゲージも真っ赤に輝いている気がする。知らんけど。
ただ確かなのは、テッドをいつ殴ろうかと構えている拳に力が入り続けていることなのである!
「まぁでも、ほら。俺に隠し事は許さないよっていう、意思表示? みたいな? これから先、お仲間としてやっていくんだし、隠し事は良くないよねぇ」
何が言いたいのかわからず、曖昧に頷くだけの私に、テッドはじりじりと距離を詰めていく。視線から逃れるように俯いた私の顔を覗き込んで、
「悠陽もそう思うよね?」
イエスorはい、のどちらかしか認めません! とでも言わんばかりの満面の笑みに、その圧に負けてしまった私は渋々頷いた。
満足げに私から離れると、言葉を続ける。
「じゃあ、俺の質問に、何の誤魔化しも嘘もなく、ただ真実だけを教えてくれるよね?」
悪魔が人間に甘い蜜という名の罠を与えたような表情をして、彼は催促する。
ただ真実だけを伝えろ、それがお前の選択なんだろ、と副音声が聞こえた気がした。
あ〜、とか、う〜〜ん、とか唸る私に対し、悪魔は容赦なく詰めていく。慈悲など持ち合わせていない。
「嘘は良くないって、生まれた時から僕らは知ってるもんね……?」
完璧に貼り付けたように見えた笑顔は、目の奥が笑っていない。その奥に秘められたものを隠すように、テッドは目を細める。
鋭さを加えられた表情は、まさに獲物を捕らえた悪魔そのもの。あるいは、復讐者か。
自身が欲しかったものをついに手に入れられた、と喜ぶ子供のような無邪気さを伴った悪意。
「ところで、悠陽ってアロンド先生のことが好きなの?」
ぱっと表情を変えて、通常のヘラヘラ笑いをして問いかけたテッドに、ガチガチに固まっていた体がふっと脱力する。そのまま地面にしゃがみ込んだ私に、手をすっと差し伸ばしたテッドの右手を払いのけて、睨みつける。
「揶揄い過ぎちゃった?」
この部屋に入ってから、いろんな笑顔を見た。テッドの背後から闇が這い出てくるような感覚に陥る笑顔なんて、これまでに何度だって見たけれど、ここまで頻繁に出してくる意図はなんなんだ。謝りたいと告げたのはなんなんだ。
そもそも、話があると言ってここに勝手に入ってきたのに、その話というのが何か未だにわからない。
あと、どうやって部屋に入ったんだ?
混乱する頭が、もうまともに思考できなくなって、ぐるぐると同じことを反芻するようになった頃。
「で、さっき悠陽と話をしてたのは、誰?」
全ての感情が抜け落ちたような、亡霊かあるいは人形のような無機質な顔をしたテッドが、私の首をきゅっと絞めながら問い詰めた。
これまでの言動に困惑し、意図を探るうちに機能が低下した脳みそでは、この状況でどうしたら最善なのか考えることはできなかった。
首を絞めるテッドの右手が、どんどん強さを増して、指が食い込んでくる。空気を取り込むことが難しくなり、急にただ涙が溢れた。
「嘘は吐かないでね」
その言葉に、もう返事もできない。
酸素が足りなくて、力が抜ける。
ぱっと手を離したテッドが、崩れ落ちる私の体を受け止め、そのまま抱きしめる。
「お願いだよ悠陽。嘘を吐かないで教えて欲しい。じゃないと、殺してしまう」
倒れた際に顔に纏わり付いた金に輝く細い髪の束を掬ったその手は、大きく骨ばった、確かに男らしい指の長い手だった。首、絞めやすそうな手だな、なんて見当違いな事を考えながら見ていると、どこ見てるの、と無理やりテッドの目を見つめさせられた。
「俺だって、悠陽は大切だから殺したくはないんだ。ただの一度だって。俺の気持ち、わかってくれるよね?」
もう絞められていないはずなのに、溢れたまま止まらない涙を気にしながら、私は小刻みに何度も頷く。
死なないはずなのに、殺されることにただ怯えた。
苦しむことに怯えた。
私はこの人には殺されたくない。この人からは、苦痛しか貰えないから。
けれど、本気で悲しそうに眉を下げて殺人予告をするテッドを可哀想だと思った。
鏡のように光を反射した赤い瞳が、この世に存在する希望という名の光を全て弾いてしまっているようで、もしそうなら彼は暗闇の中に閉じ込められているのだろうな、なんて、詩人でも言わないような中二的セリフを思いついた。
テッド、君の本当の名前は何?
一体なんの為にそうやって苦しい中でも走り抜けることが出来るの?
私には、君のように苦しみの中生き続ける事なんてできないよ。
私の瞳から、まだ止まり切っていなかった涙が一粒、零れ落ちた。




