私が邪神と呼ばれるまで
死ねばあちらに帰れるのではないかと、期待していなかったといえば嘘になる。
何の前触れもなく異世界とやらにぽんと放り出されて、勇者にも聖女にも祭り上げられることはなく、言葉も勿論通じない。身元不詳の怪しげな旅人として扱われた私が、街の外には魔物が蔓延り街の中では人買いやら追いはぎやらがうろうろしているのが当たり前の世界で、生きてゆくのはなかなかに難しいことで、死に希望を見出すようになったのは割と早い時期だった。
自分なりに必死に生きようとしたつもりではあったけれど、基本的には平和で罪を犯した人間の大半はきっちりと裁かれる事が決められた日本で暮らした生活の記憶が、どこかで拭えないままだったのがよくなかったのか。気づけば知り合いに騙され奴隷にされてしまい、大事にしてくれる優しいご主人様が都合よく現れるなんて幸運が訪れることもないまま、劣悪な環境の中でじわりじわりと命を削られていった。
これは死ぬな、と確信したのは、粗相を咎められて折檻を受け、熱を出して寝込んだ時。
おそらく奴隷商は私を、売り物ではなく手元で使い潰すつもりだったのだろう。売り物用の奴隷の中にはきちんと世話をされ食事も与えられる者もいたが、私はそんな扱いをされる事はなくろくに食事もさせてもらえないまま、あれやこれやと用事を言いつけられ働かされていたから。
だから熱が出ようと看病なんてされる訳もなく、一日に一度の食事も熱で浮かされるうち別の奴隷にいつの間にか盗まれていて、固く冷たい石の床の上、これはもう無理だろうなあとぼんやりと終わりを悟っていた。早く終わればいいのになあとも、願っていた。死ぬのが全く怖くないとは言わないけれど、毎日毎日家畜以下の扱いをうける日々から抜け出せるなら、死んだ方がマシかもしれないと思うようになっていたから。
そうして予想した通りあっさりと死んで、意識だけがふわふわと宙に漂い残っていることに気づいた時、私は心底困惑して、がっかりもした。
おそらく、幽霊になったのだろう。壁はするりと抜けることが出来るし、自由自在に空を飛び回ることも出来る。どこへ行こうとも誰に止められることはなく、行きたい場所に行くことが出来た。
けれどしかし、見える景色はどこまで行っても異世界のまま。私の知る日本に戻ることは出来ない。
もしかして宇宙に飛び出して、どこまでもどこまでも行けばいずれ地球に帰れるかもしれないと思って、ひたすら上を目指してみたものの、ある一定の高さになるとこつんと見えない壁に阻まれてしまった。穴が無いかと隅々まで探してみたけれど、見つからなかった。
仕方ないので成仏しようと思ったのに、それもうまくいかない。
どうにも私の魂はこちらの世界では異物に当たるらしく、こちらの世界の魂が死んで向かう場所に私は入れてもらえないようなのだ。死ぬ間際の生き物を見つけて、その魂を追いかけて冥界の入り口は見つけたのに、しれっとした顔でもぐりこもうとしたらしっしと追い払われてしまった。何度か挑戦するうちに魂を覚えられてしまって、近づこうとしただけで弾かれるようになった。少しぐらい違っても見逃してくれればいいのに、融通が利かない。
すっかりとやる事がなくなってしまったので、怨霊になって誰かを呪ってみようかとも思ったけれど、肝心の呪いたい相手が見つからない。私を使い潰した奴隷商や、憂さ晴らしに私を痛めつけた奴隷仲間や私を騙した知人が生きていれば、喜んで呪いに行ったのだけれど、残念ながら彼らはみんな死んでしまっていた。
そもそも、私がその生を終えた国そのものが、既に地図から消えていて、私が暮らした街も今は廃墟と化している。私があれやこれやと試行錯誤しているうちに、途方も無い時間が経過していたらしい。この世界は魔物の襲撃や戦争が定期的に発生するため、簡単に国も街も人も、消えてなくなる。
手持ち無沙汰になった私は、暇つぶしに世界を巡ることにした。
ぶらぶらとあちこちを巡っていればそのうち、目的が見つかるかもしれない。元の世界に戻る方法が見つかるかもしれない。成仏できなくとも、終わらせる方法はどこかに存在してるかもしれない。
そんな淡い期待を抱いて、街を巡り国を巡り、人の居ない場所を巡りに巡るうち、いろんなことに詳しくなった。
たとえばこの世界は、地球と同じように丸い星である。
大陸は七つで、そのうち人間が住んでいるのは三つ。二つには魔族と呼ばれる人と魔物の性質を併せ持つものが住んでいて、残りの二つには、知性あるものは発見出来なかった。
人間と魔族は対立していて、しょっちゅう戦争をして互いの領分を侵食しあっているので、たまに人間の大陸が二つになって魔族の大陸が三つになることもある。けれど、どちらかに完全に傾いてしまうことはない。
残りの二つの大陸に至っては、発見すらされていないようだ。その二つは空も海も荒れた場所にあって、近くに固まっている五つの大陸からは随分離れているから、まだ当分は見つからないだろう。少なくとも魔族と人間の対立が落ち着くまでは、そちらに向ける余力がなさそうだ。
なので私はその、人間も魔族もいない大陸の一つの片隅に、秘密基地を作ることにした。
この世界には魔力というものがあって、私も気づけばその魔力を扱えるようになっていた。私そのものは生きているものに干渉することは出来ないけれど、魔力を操作すればある程度のことは出来る。
その力を使って、小さな街のようなものを作り始めた。
誰かを住まわせる予定はない。ただのごっこ遊びのようなもの。
私がまだ地球にいたころ、人形用の小さな家を作るのが好きだったのを思い出したから、それを懐かしんで始めた事。
最初は木で小屋を作って、そこに家具を並べて満足するだけだったけれど、それがいつしか規模が大きくなり、村になって街になった。
参考にしたのは、日本での街並み。私が住んでいたアパートも、そっくりそのまま再現して、車が通る予定もないのに信号機や横断歩道も作って、下水道なんかも手探りでそれっぽいのを配備した。電気はないから魔力で代用して、夜になったら明かりをちかりちかりと光らせる。
日本に居た頃は、ネオンに負けて星明りの少ない夜空を物足りなく思っていたものだけれど、今の私にとっては夜空に瞬く数多の光より、ちかちか光る街の明かりが何より綺麗なものに見えたから、調子に乗っていくつもいくつも増やしていった。
ぴかぴかの街を、空から眺めるのがこの世界での私の数少ない楽しみとなった。
それを見つけたのは偶然だった。
家を造る時の参考にすべく、人間の街を観察しに行った時。
奴隷商が往来でひどく打ち据えた一人の少年が、ぽろりと呟いた言葉がすっと耳に届く。
「帰りたい」「日本に、帰りたい」と。こちらの言葉ではない、日本語で確かに、そう呟いたのを聞いた瞬間、私は彼を浚っていた。
日本。私の中にしか、存在しない国。私の記憶にしか、残っていない国のこと。
長い長い月日が経つうち、もしかしてあれは私の夢の中だけのものではないかと、思いすらしていた懐かしい場所。
日本の話を私ではない、他の存在の口から聞いてそれが確かにあるものだと感じたくって、私はその日のうちに秘密基地に彼を連れて帰った。
彼と意思疎通するのには、しばらく時間がかかった。
突然、日本の街並みを模して作った秘密基地に、帰れたのかと喜んだのも束の間、誰も存在しない無人の街に絶望した少年は、なかなか私からのコンタクトに気づいてはくれない。直接話すことは出来ないから、木の板に文字を書き付けて彼の目に入る場所に放ってみたのだけれど、それは長く気づかれないままだった。
けれど彼のために食事を調達して、せっせと世話を焼いているうちにようやく、彼は自分以外の何かが存在している事に気づく。
初めて彼に話しかけられた時は、嬉しくってはしゃいで興奮してちょっぴり魔力を暴走させて、怖がらせてしまった。
彼は私と同じく、突然こっちに放り出されて、呆然としているうちに気づけば奴隷になっていたのだという。
魔族との戦争で定期的に街や国が荒らされ時に滅びるせいか、こちらの人間の生活は昔から大きくは変わっていない。相変わらず奴隷も存在していて、その扱いも私の時とさほど違わない。
必死で話す彼の言葉に、相槌代わりにちかちかと街の明かりを点滅させれば、少しびっくりした後、嬉しそうに笑って涙を浮かべたのを見て、私は彼をここに連れてきてよかったのだと自分の行動に満足した。
彼が私に気づいてからも、私の意志を届けるのに苦労するのには変わらなかった。私としては日本語で書いたつもりだった木の板の文字は、実はこちらのものが混じっていたらしく、彼には読めなかったのだ。放った木の板に彼が気づかなかったのは、彼に余裕が無かっただけでなく日本語ではないせいだったのだ。知らないうちに侵食されていたことが悲しくって、どうにか思い出してみたけれど、ひらがなが精一杯。漢字やカタカナは少しずつ、彼に教えてもらうことにした。
寂しがる彼に請われて、積極的に人間の街を巡り同じ境遇の日本人を探し始めたのは、少年だった彼の声が、低く様変わりしてから。
私は彼が日本のことを喋ってくれるだけで十分楽しかったのだけれど、見えず触れず文字を介してしか存在を確認できない私しかいない状況は、彼にとっては物足りなかったらしい。少し寂しかったけれど、一応同郷だしなあとお願いを聞き入れることにした。
すぐに見つかりはしなかったけれど、探し始めてしばらくしてから一人、少女を見つける。奴隷ではなく、とある夫婦に保護されていた彼女は特に不自由はしていないように見えたけれど、まあいいかと割り切って浚うことにした。
最初は泣いて夫婦を恋しがっていた彼女だけれど、日本人同士ということで彼とはすぐに心を通じ合わせた。どうやらそこまで年齢も離れていなかったらしい。さほど時間が経たず、子供が出来た。出産の時には、彼女が死なないように、私も影ながらサポートした。
そして赤ん坊の首が据わった頃に、また一人。
赤ん坊がすらすらと言葉を喋るようになった頃に、もう一人。
少しずつ少しずつ、日本人が増えていく。
赤ん坊が大人と変わらない体格になる頃には、別の子供も生まれて、街は随分にぎやかになって、そして少しずつ、問題も出てくるようになった。
一方的に奪われて虐げられていた頃とは違って、衣食住が私によってある程度保障され、魔力の存在と扱い方も知ったからか、外へ出てゆきたがるグループが出来たのだ。
冒険をしたいだの、この世界のことが知りたいだの、騒ぐ彼らに私は出来るだけ知っていることを教えてあげたのだけれど、それは彼らの興味をますますかきたてる結果にしかならなかった。
仕方ないので人間のいる大陸と、魔族のいる大陸それぞれに、希望する人たちを送ってやって、あとは今まで通り、小さな街で寄り添って暮らしていた。定期的に日本人は探しに行くことはやめず、外に行きたがるのは引き止めず送り出してやって。
そうしたらある日、彼らの一人が戻ってきた。出て行った彼らの中でも、特に魔力の扱いに長けていた彼は、私が協力せずとも大陸を渡る方法を自力で見つけてしまったらしい。
しかも彼は一人ではなく、大量の仲間を連れて来た。それは日本人でなく、こちらの人間だった。奴隷だった彼らを助けたのだと戻ってきた彼はどこか得意げに言っていたけれど、ここに連れてこなくてもいいのにって不満に思ったのは、どうやら私だけではなかったらしい。爆発はしなかったけど、不満は少しずつ大きくなっていった。
それを機に、雪崩れ込んでくるようになったこの世界の人間。
私が彼らには何もしないと、日本人ばっかりずるいと言い始める。彼らを連れてきた人がどうにか言い聞かせていたけれど、しかしその目はいつも不満そうだった。
私が作った街から出て、新しい街を作る者も出てきた。
そしていつしかそれは、国になって、力を持って。
ついには、私たちの街へと攻め込んできた。
先頭に立っていたのは、日本人だった一人。いつしかこちらの世界に愛着を持って、こちらで生きることを決めた彼。私たちの街にいた一部と呼応して、あっという間に街を制圧していった。
彼は私をも、手にするつもりだったらしい。何でも言うことをきく、便利な道具として。
舐められていたのだ、つまり。私はいつも彼らに親切にしてたから。
日本人の頼みは、出来る限り聞いてあげてたから。
だから彼は何の疑いもなく、私が言うことをきくものだと思っていた。
私が同郷である彼らに甘かったのは、同郷だったから、その一点だけ。
私が今も尚焦がれ続けている日本の記憶があって、日本のことを話してくれて、街を作る私にこんなものもあったよと教えてくれるから。そしてきらきら光るネオンを、綺麗だといって一緒に目を細めて眺めてくれるから。
ならば日本を捨ててこちらを選んだ彼に、新しい国を作って王になるなんて日本人らしからぬ選択をした彼に、私が従う必要なんてない。こちらで生きてゆくと、日本での事は取り入れつつ新しいものを作るのだと、主張している彼は、私が望んだ日本人とは全く違うものだった。
だから私は、残りの日本人を連れて、別の大陸に渡ることにした。
こちらの世界の人間が私たちの街に来たのと同時に、少しずつ作っていた新しい街へ。
私と同じように、日本での記憶に縋って生きるごく僅かの人たちと。
いつまでもいつまでも、日本のことを思って生きられる場所に。
それではいけないのだと。
日本の思い出に囚われず、ちゃんとこちらで生きていかなければいけないのだと。
主張する声が聞えない、私たちだけの、新しい場所に。
新しい大陸に移ってからも、日本人探しは続けることにした。
だって幽霊な私と違って、人間は死んでしまうし、死んだ後に幽霊になってもくれない。死んだ後の彼らの魂は、こっちの冥界に入ることも日本がある世界に帰ることも出来ない代わりに、私に同化してしまう。
出来れば自我を保ったまま、私と同じ存在になってほしいのに、残念ながら今のところ私と同じようなものは現れていない。同化する魂が増えるたび、彼らが想ってた分、日本への恋しさが一段と募ってゆく。
大陸には私が許可しない限り、誰も入って来られないように結界を張って、外へ行きたがる子が出てきたら二度と戻って来られないようにお呪いをかけて放り出した。
そして閉じた世界の中、いろんな街を作って再現して、記憶の中の日本を作ってゆく。みんなで思い出を探って、日本らしい建物をいくつも作った。高層ビルやお寺に茅葺の家、工場に下町に電信柱を何本も。遊園地も作って動物園も再現した。
前よりもっと、日本らしい風景が大陸いっぱいに広がってく。
私が閉じこもり始めてから、外ではいくつか大きな変化が現れたらしい。
魔物とは違う、別の生き物が現れて人間も魔族も襲い始めたこと。人間と魔族は争うことを一時中断して、新しい脅威に立ち向かい始めたこと。そしてその元凶が、私だと思われていること。
気づけば私の閉じこもっている大陸は、邪神の地としてこの世界の生き物に敵視されるようになっていた。
全く濡れ衣だと主張したいけれど実は、外での変化は私と完全に無関係な訳でもない。
新しく生まれた生き物の元になってるのは、私に同化しなかった日本人たちの魂だ。
今までは私について来たひともそうでない人も、関係なく全部私に同化していたようだけど、結界を張って閉じこもり始めてからは、外で生きる魂は弾かれるようになった。
そして同化しないまま行き場なくさ迷い自我を持つこともなかった魂は、やがて人間も魔族も見境なく襲う生き物に変化するようだ。
こっちで生きることを選んだのに、最後はこっちの世界を脅かす存在になるなんて、皮肉なことだなあと思うけれど、どうにかするつもりはない。だって彼らはもう、日本とは関係のないものだから。そんなものを受け入れるほど、私の懐は広くない。
どうでもいいのだ、この世界もこの世界に生きる物も。
だから私が邪神であるという噂も、ある意味では正しいのかもしれない。
今日は、クリスマスイブ。
正確な日付は分からないけれど、みんなで相談して、その日だと決めたから今日が、私たちのクリスマスイブ。
街のあちこちにクリスマスツリーを飾って、電飾をちかりちかりと光らせて、みんなでうっとりと眺めて微笑んで懐かしむ。クリスマスケーキも、作ってくれた。私は食べられないけれど、懐かしい形をほお張るみんなを、見ているだけで懐かしくて楽しい。
あとで私はサンタクロースになって、みんなの枕元にプレゼントを贈るのだ。姿の見えない私は、誰よりも完璧なサンタクロースになることが出来るだろう。考えるだけで、わくわくしてくる。
メリークリスマス。
こっちでは何の意味もない言葉を囁き交わし、日本を思い慕う。
何の生産性がなくてもかまわない。
前向きでなくたってかまわない。
今を生きていなくったってかまわない。
だって華やかに光る街は、この世界の何よりも綺麗だから。
これからもずっとずっと、私たちは、違う世界で遠い日本を思って生きてゆく。
たとえいつか遠い未来、邪神として打ち倒されようと。
その日まで、ずっと。