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 姉の意識が無くなったらしい。

 病院から『お姉さんが倒れた』という電話を貰って、ぼくは急いで病院に駆けつけてきた。

「はぁ……くそ、なんで……」

 姉の個室。

 ベッドの傍の椅子に座って、ぼくは不安を隠しきれず両手をせわしなく組み合わせ続けた。

 酸素マスクをつけられて眠っている姉さん。

 よく見てみると、髪の毛が白くなっていることがわかった。いつからだったのだろう。いつもは気付かなかったのに、今の姉を見ていると、それはどうみても死期が近い人間の顔だった。

「姉さん……。頼むから、死なないで……」

 自分の両手に力を入れて、必死に懇願した。

 神様なんて信じちゃいないけど、神様、ねえ神様、いるのなら姉さんを救ってくれよ。

 なんならぼくの命と引き換えでもいいから。

「くそっ……」

 ぼくは我慢できなくなって、パイプ椅子から立ち上がり、眠っている姉の右手を握った。

「う……」

 冷たい。

 生気というものがまるで感じられない。

 ぼくは嫌でも悟ってしまう――姉さんは、ほんとうに死ぬのだ。もう生きる力が尽きかけていて、限界なのだ。

「待ってよ……。やだよ、最後に話がしたいよ……。死なないでよ……!」

 涙が溢れでてしょうがない。

 いつもみたいにぼくをバカにしてくれよ。からかって、笑い飛ばしてくれよ。

 姉さん……。

 姉さん……っ!

 ――ピ、ピ、ピ。

「!」

 心拍音が鳴り出した。

 さっきまでよりも、早くなっている。

「姉さん……? 姉さんっ!」

「…………」

 ピク、と。

 微かにだけど、顔が動いた気がした。

 ぼくは必死に叫ぶ。

「姉さん! 姉さん……起きて! 起きてッ!」

 姉の目に、力が込められた。

 眠たげな目が、開かれた。

 意識を取り戻したのだ。

「…………ああ」

「ね、姉さん! 大丈夫!? しっかり!」

「…………」

 姉は逡巡した素振りをみせた。自分がいまどんな状況に置かれたのかを把握したらしい。

「……どうしたんだ、学校は」

「学校なんてとっくに終わったよ!」

「……そうか」

「姉さん……! 頼むから死なないで! 生きて……!」

 一縷の期待を込めてぼくはいった。

 前は死んでもいいなんて言っていたけど――ほんとうは姉さんだって生きていたいはずなんだ。

 そうに違いないんだ。

「すまんな……。もうダメかもしれん」

「ダメなんて! ……い、いわないでよ」

「いいじゃないか。なにもお前が死ぬわけじゃないんだから」

「姉さんが死んだらおんなじなんだよ! 姉さんが死んだら……、ぼくに生きてる意味なんてなくなるんだよ……」

「泣き虫め」

 死にそうだというのに憎まれ口を叩く姉。

 その力ない悪態にぼくは反発できない。できるわけがない。むしろ強がって言っているのが痛いほどわかって、心がグシャと突き破れる。

 苦しそうに呼吸しながら、姉は必死なさまでいう。

「ところで、小説……書いてきたかい?」

「小説……小説?」

「ああ。読みたいんだが」

「小説なんて……そんなことどうでもいいだろ! 今は自分のことをなんとかしてよ! 小説なんて後でいくらでも読めば――」

「だからさ……、もう後がないんだって」

「え……?」

「わたしは今日死ぬんだよ」

「――!」

 姉の言葉に、ぼくはショックを受けた。

「今日死ぬって……なんで、わかるの?」

「担当医が言ってたんだよ。今日辺りがヤバいってさ」

「そんな……」

「けっこう前から教えられててね……。前に小説を読ませてくれた日、あの日にはもう知ってた」

「……っ!」

 ぼくは思い出す。

 あの日、別れ際で姉がキスをしてきたこと。

 そしてその後、ぼくになにかを言おうとして止めたこと。

 なにかを言おうとして止めた――あんな振る舞い、ふだんの姉ならするはずがなかったのだ。

「なんで……黙ってたの……」

「お前が泣くからさ」

「教えられてなくても、泣いてるじゃん……」

「そうだな」

「どうせ泣くんなら、教えてくれたほうがよかったよ……」

「すまんな……うっ」

 ゲホッ!

 ゴホッ!

 喉が焼けるのではないかと思われるような咳を、姉は苦しそうにする。

「ね、姉さん! もう、喋らないで……」

「小説」

「え?」

「小説、読ませろ」

「…………」

「書いてきてないのか?」

「一応書いてきたけど……」

「なら読ませろ。気が紛れるかもしれん」

「でも――途中までなんだよ」

「途中まで、か」

「まだこの小説、終わってないんだ……、だから」

「いいじゃないか。途中までだって、わたしは読むさ」

「……つまらないよ。ちゃんと完結させてない小説に、読む価値なんて……」

「――読ませろっつってんだろ!」

「っ!」

 姉は叫んだ。それは病室中に木霊した。

 そんな大声を出して、挙句、姉は「ゲホ……、う、ごっほ……! おえっ」と血を吐くように咳とえずきを漏らした。

 ぼくは、もうすでに泣いているのにさらに激しく泣きそうな衝動に襲われて、けれど苦しんでいる姉の頼みを断れないと感じ、急いで書きかけの小説、その原稿用紙をカバンから抜き出した。

 それをぼくは丁重に手渡し、姉は奪い取るように受け取った。

「これこれ……。これが欲しかったんだよ」

 茶化すように笑う姉の顔は、なおも苦しそうだ。

 パラパラとぼくの小説を読んでいく。

「…………」

 ぼくは、そんな姉の様子をただ見守る。

 ぼくの小説を読んでいる姉を、ただ見つめる。

 それしかできない。

 なにもできない。

 ぼくは……。

「ふ、ふふっ……」

 姉は笑った。

「ここ、面白いな」

「え?」

「この場面。いいじゃないか――こういうのを読みたかったんだ、わたしは」

「……そ、っか」

「ちゃんと面白いもの書いてきてくれたんだな。偉いぞ」

「うん……」

 それから姉はふたたび小説を読み直す。

 パラパラと。

 読んでいく。

 ぼくはふと時計を見上げてみた。面会時間にはまだ余裕がある。ここで帰らなければならない、なんてことには決してならない。

 姉の最期を見ることなら、できる。

 そんなもの見たくない。

「……もう終わりか」

 姉は小説を読み終えた。

 書きかけていた最後の部分まで目を通し終えた。

 姉は残念そうな顔をする。

「……わかってたけど、短いな」

「ごめん……。もっと速く書いていれば……」

「速さは関係ない。速さを犠牲にしたからこそ、面白いものを書けたんだろ?」

「…………」

「わたしにはそう感じる」

「そっか」

「で――この先、どうなるんだ?」

「どうって……?」

「この小説の展開だよ。これで終わりじゃないんだろ? ――続きが、あるんだろ?」

「あるはあるけど……」

「なら、聞かせてくれよ。文字じゃなくたって、言葉で伝えられるだろ――」

 そういって姉は目を閉じた。

 意識を失うように。

 眠るように。

 死ぬように。

 目を閉じた。

「……姉さん」

 返事はない。

「ね、姉さん……」

 震えが止まらない。

 震えを止められない。

 最悪の展開が頭を駆け巡る。

「ぐ、ふ……うぅぅ……っ!」

 拳に力を入れる。

 決壊しそうな涙を必死にふん縛る。

 姉は言葉を待っているんだ。

 だから。

 ぼくは言葉で、物語を伝えなくちゃ。

「う、ぐ――し、死にそうになった女の人は、その後、神様に救われるんだ。これまでの人生で善行を積んできたから、天から降りてきた神様が特別に取り計らって、その女の人を助けてくれるっていうんだ」

「…………」

「『お前はとても善い事をした。無力な少年をいくえも助けてやり、その力となって支え続けてやった。時には下らないことをいってその少年をバカにしたこともあったが、少年はそのことについてなにも思っていない。それどころかありがたいとさえ思っている』」

「…………」

「『誰からも認められなかった少年を、こうも温かく受け入れたお前が死ぬなど、このわしが許さん。お前のような善き人間こそが、この世界で生きるべきなのだ。だからわしが特別にお前を生き返らせてやろう』」

「…………」

「そうして女の人は見違えるように生気を取り戻して、奇跡の生還を遂げる。生き返った女の人に少年は涙して、生きることに心から感謝して……それで……」

「…………」

「二人とも、ずっと、仲良く……、幸せな日々を送る。ハッピーエンド、で、その小説は、終わるんだ」

「…………」

「ねえ、いい話でしょ? その小説のような話が、現実にあったらさぁ、きっと、ぜったいに感動すると思うんだよ、ね。ぼくだったら、ぜったい、泣いて喜ぶと、思うんだ」

「…………」

「姉さん」

「…………」

「姉、さん……」

 ぼくは泣き叫んだ。

 悲しみに押しつぶされて、どうにかなってしまいそうだった。

「…………」

 姉は死んでいた。

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