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第四章「混乱と狂騒の街」

第四章「混乱と狂騒の街」

             1


 その後、梨香が夕飯の買出しに行くということで、僕も同行することにした。

 真帆と和明も一緒について来て、四人で“ストック・ファーム”と呼ばれる場所に向かう。

 そこはこの貧民街において、流通の大部分を担う繁華街のような区画らしい。

「まぁ、“ストファ”に行けば、大抵の物は手に入るわよ?」

 そう言った梨香は、背中に胴田貫の入った長櫃を背負っていた。

 聞けばあの辺りは治安が悪いので、念のため護身用に持って行くのだという。

「人が多いから、はぐれないように気をつけなさいよ?」

「ははは、そんな子供じゃあるまいし、平気だよ」

 ……なんて高を括っていた僕は、実際に“ストック・ファーム”を目の当たりにして驚嘆した。

 八車線の巨大な道路に、列を成した無数の露店が数百メートルに渡って連なり、見渡す限りの人、人、人、人、人、人、人、人、人、人、人人人人人人人人人人人人人人人人人人……

「――――」

 開いた口が塞がらない。目が眩むような光景だった。

 和明に尋ねてみたところ、ストック・ファームの露店数は約六〇〇〇件、人の数は少ないときでも十万人を越え、今は夕方なので、三十万人くらいはいるんじゃないかと言う。

 一部だけを小さく切り取って見れば、なんとなく縁日の屋台行列に近いような気もするが、店の数も、人の数も、想像を絶する規模だった。

 犇めき合う人々の足音や会話が、幾千・幾万にも折り重なって、地鳴りのように鼓膜を揺らす。混沌と狂騒に満ち溢れたその様は、まるで百鬼夜行の沙汰である――。

 梨香の忠告は、あながち杞憂でも冗談でもなかったのだなと思い知る。

 こんなところではぐれたら、たぶんもう帰って来れない……。というか、呆然としていたせいで既に半ばはぐれかけていた僕は、慌てて三人の後を追った。

 行き交う人々が老若男女と様々であれば、売っている品々も実に多種多様である。

 圧倒的に多いのはやはり食料品関係の店だが、洋装やアクセサリーを扱った店もその次ぐらいに多い。その他にもざっと見た限りでは、酒屋があり、煙草屋があり、薬屋、本屋、花屋、楽器屋、雑貨屋、おもちゃ屋、女郎屋、家電や機械の部品を売る店まである。

 時折なんだか得体の知れない物を扱っている怪しい店もあり、ちょっと興味をそそられたが、今日のところは遠慮しておこう。そういう店は琢磨の方が詳しそうだから、今度二人で廻ってみるのも面白いかもしれない

「へぇ、本当に何でもあるんだなぁ……」

 僕の呟きに、前を歩く梨香が応じた。

「まぁね。だけど基本、ここで店を出すのに許可はいらないから、中には紛い物や盗品なんかを平然と売りつけて来る輩もいるわ。その辺は、自分でよく注意すること」

「はい。了解しました、梨香師匠」

 目まぐるしい人込みの渦中を、ぶつからないようにと四苦八苦しながら歩き回り、三十分ほどで一頻り夕飯の材料を買い揃えた。

 休憩がてらに、立ち寄った露店でクレープを食べ、そろそろ帰ろうかと再び歩き出す。

 ――しばらく行くと、前方になにやら人垣が出来ていた。

 その先にはぽっかりと人のいない空間が広がっており、言い争うような声が聞こえて来る。何かトラブルがあったようだ。僕たち四人も足を運んでみる。――

「おい、ジジイ!? てめぇ、誰に断ってここに店出してんだァ!?」

「この辺はなぁ、俺たち龍神会のショバなんだよ。店ぇ出すんなら、ショバ代払え」

「かっ、堪忍してくれぇ……わしは、なんにも知らんかったんじゃ」

「知らなかったで済む問題じゃねーんだよ」

「ほら、さっさと出すもん出しな?」

 お爺さんが、ガラの悪い男二人に詰め寄られていた。

「梨香、あいつらは?」

「龍神会の下っ端みたいね……」

「龍神会?」

 梨香はその表情を険しくさせながら厳かに頷いた。

「十二年前のテロ以前から、この界隈に巣食って暴力団組織よ。もともとは大した勢力じゃなかったらしいけど、貧民街が出来てからは、ここの混沌とした有様につけ込むことで暴利を貪ってる。最近じゃあ、妙な薬を各区域にばら撒いてるみたいでね、自治会も頭を悩ませてるらしいわ……。まぁはっきり言って、最低の奴らよ」

 僕らが話している間に、一人の少年が人込みを掻き分けて、輪の中心に飛び込んだ。

「じーちゃん!」

「健太っ、来るんじゃない……!」

 お爺さんの弱々しい制止を振り切って、健太と呼ばれた少年がチンピラ二人の前に立ちはだかる。

「やめろ! じーちゃんをいじめるな!」

「あぁん? なんだこのガキ?」

 僕はどっかで見た顔だと思い、少年が持っている竹刀に気づく。

 そうだ、確か梨香の剣道教室にいた、生徒の一人だ。

「子供は引っ込んでな? 痛い目みるぜ?」

 闖入者の少年を摘み出そうと、男の一人が歪んだ笑みを浮かべながら手を伸ばす。

「ヤァーッ!!」

 少年は安易に伸びきった男の腕を、持っていた竹刀で素早く打ち据えた。

「いてッ、……このクソガキぃい!!」

 しかし、所詮は齢十にも満たない少年の力である。倍近い体躯の男に敵うはずもない。

 激怒した男に呆気なく突き飛ばされ、少年は尻餅をついた。

「ナメやがってッ!」

 男は頭に血がのぼったと見え、恐怖で震えている少年相手に容赦なく拳を振り上げた。

「あぁっ、健太っ!」

 お爺さんの必死な叫びも虚しく、男の拳が風を切った。

 少年は目に涙を浮かべながら、ぎゅっと堪えるように目を瞑る。

 放たれた拳が、無垢な少年の相貌に突き刺さる――寸前――僕はその腕を掴み取った。

「――ッ!?」

 腕を掴まれた男が、敵意を込めた眼差しで僕を睨みつける。

 彼の威嚇には応じず、僕はなるべく柔らかい口調を選んで男に懇願した。

「あのぅ、やめてあげてください。まだこんなに小さい子じゃないか」

 目蓋を開いて、僕に気づいた少年がとりとめのない声を出した。

「ヘンタイのお兄ちゃん……?」

 うぅ、今その呼び方はやめてくれ。

「ウッセェ! 邪魔すんじゃねぇよッ……離せってんだッ!」

 意地でも少年を殴ろうとする男の腕を、ぎりぎりと力いっぱい握り締めて拘束する。

「くっそ、てめぇえ!!」

 掴まれた腕を振り解くことを諦め、男は反対側の拳を振るって僕を狙う。

 狙いも動作も乱雑で、あまりにお粗末な一撃だった。

 僕は首を振って拳を躱しつつ、今度はそちら側の腕を取り、背中に回して捻り上げる。

「いででででっ!?」

「……この野郎ッ!」

 仲間の男が殺気立ち、懐から素早く何かを取り出して構えた。

 ごっつい刃渡りのアーミーナイフ。

 なるべく穏便に済ませたかったが、こうなった以上は、もう話し合いなど望めない。

 やれやれと、僕は締め上げた男の体を盾にしながら迎撃(カウンター)に備える。

 だが先に動いたのは、ナイフを構えた男でも、もちろん僕でもなかった。

「……っ」

 ――風が薙ぎ、ナイフを構えた男が一瞬バランスを崩して、一歩、二歩と後退る。

 彼は何故、自分が唐突にバランスを崩したのか、まるで分からない様子だった。

 乱れた体勢を立て直し、再び手にした得物を構え――そこで男は唖然とする。

「え?」

 握ったナイフの、柄より先の部分が消失していた。

 混乱する思考。一瞬遅れて、刃を鳴らすような金属音が耳に届く。

 音に従って足元の地面を見ると、握ったナイフの柄より先の部分が落ちていた。

切断された、アーミーナイフの刃が――。

 まるで理解が追いつかぬといった表情のまま顔を上げた男の前には、いつの間にか少女が立っていた。スカートとシャツの裾を僅かに靡かせ、己の身長の、およそ半分以上はあるかというような長い刀を両手で握っている。

 それを袈裟懸けに振り下ろした状態で、少女は凛と静止していた。

 まるで、何かを斬り捨てた直後のように――。

「なっ!?」

 ようやく状況を飲み込んだ男が驚愕に満ちた呼気を発する。

 少年がぱあっと瞳を輝かせながら、彼女の名を叫んだ。

「梨香先生!」

 僕は空かさず、締め上げていた男の体を後ろから突き飛ばし、隙だらけで佇んでいたもう一人の男にぶつけて倒す。

「うわっ!」「ぐぅっ!」

 もつれ合うようにして倒れ込んだ二人の目の前に、梨香が胴田貫の剣先を突きつけ、低く威圧するように言った。

「……退きなさい」

 恐れをなした男二人は、慌ててその場から逃げて行った。

 野太刀を鞘に収め、梨香は穏やかな表情で少年の方を振り返る。

「大丈夫?」

 少年は元気に「うん」と返事をして嬉しそうに笑った。

「この度は本当に、危ないところを助けて頂いて、ありがとうございました」

 深々と頭を下げるお爺さんに、梨香は軽く手を振って闊達に答えた。

「教え子を守るのは、師匠として当然のことですから」

 ――おぉ、なんか今の時代劇みたいでカッコイイな!

 そんなことを思っていたら、不意に少年と目が合った。

「ヘンタイの兄ちゃんも、ホントは結構強いんだなっ!」

 またそれかよと思わずがっくり来たが、今さら訂正する気にもなれず、僕は苦笑しながら親指をぐっと立ててみせた。

「それじゃあ、私たちはこれで」

 短く断りを入れて、少年とお爺さんに背を向ける。

 その際、梨香が不意に僕の脇腹を肘でつっついた。

「結構やるじゃん。見直したよ?」

 そんなふうに褒められると、僕はなんだか困ってしまう。

「いやぁ~、あはは、そんな、梨香の方こそ……って――?」

 小悪魔的に笑った梨香は、照れる僕をわざと置き去りにしてさっさと歩き出していた。

「あっ、ちょっ……!」

 僕も急いで後を追いかけ、和明と真帆のところに戻る。

「お待たせ。さぁ、帰ろっか?」

「はぁっ、はぁっ! おい梨香、酷いじゃないか置いてくなんて!」

「お疲れ様、すごかったね」

「梨香ちゃんも、ユーキくんも、カッコよかったです……」

 雑談を交わしつつ、四人で再び歩き出す。――途端、背後から声が掛かった。

「おい」

 なんだか、嫌な予感がした……。

 だからそのドスの利いた低い声を、現実のものとして認識しないことを選択する。

「おい、待てって!」

 幻聴だ。さもなくば、僕たちでない誰かに投げかけられている言葉だろう。

「おいお前らッ! 無視してんじゃねーよ!!」

 ……諦めて足を止め、嫌々ながら振り返る。

 そこには有象無象が七人も――揃いも揃って、下卑た面構えを連ねていた。

 僕は引き攣った苦笑いを浮かべ、梨香は辟易したように嘆息する。

 七人の内二人は、先ほど追い払ったはずの男たちだった。大方、近くに居た仲間を集めて来たのだろう。真ん中に立った大柄な男が言った。

「さっきは連れがお世話になったそうだなぁ、きっちり礼をさせてもらうぜ?」

 梨香の得物が刀であることを考慮して来たのだろう。男たちは鉄パイプやら、角材やら、チェーンやらですっかり武装している。

「懲りないわねぇ、まったく……」

 長櫃に仕舞ったばかりの胴田貫を再び取り出し、気だるげに肩をとんとんと叩きながら梨香は言った。

「仕方ないから、少し遊んであげるわ? ――真帆、和明、悪いけど少し下がってて?」

 二人は小さく頷いて、周囲の通行人たちと同じく、すみやかに安全圏まで後退した。

「ユーキ、あんたもよ?」

「……いや」

 僕は少し考え、彼女の隣に並び立った。

「――手伝うよ」

「――そう?」

 ニヤリと笑いながら相槌を打った梨香は、滑らかな動作で刀を鞘から引き抜いた。

「それじゃあ、せっかくだから勝負といきましょうか? どっちが多く倒せるか……」

 不敵に囀りながら、胴田貫の刃をくるりと裏返す。――あれは、峰打ちの構えか。

「面白そうだな。乗ったよ……!」

 僕も半身になって素早く徒手空拳の構えを取り、梨香と二人、背中合わせの状態で七人の無頼漢と対峙する。

「なぁにゴチャゴチャ言ってやがんだァ!? おいお前らァア、()ッちまえええ――ッ!!」

 思い思いの凶器を手にした男たちが、一斉に襲い掛かる。

 僕と梨香は呼吸を合わせ、左右に跳躍した。

 僕は走る。――走りながら、チェーンの一振りを躱し、ナイフの一突きを捌き、金槌を構えたチビの頭上を馬跳びの要領で飛び越える。

 さらにその奥にいる大柄な男へと、僕は一気に突進した。

「チィッ!」

 開戦を合図した大男が構えを取る。――まずは、こいつからだ!

「ウラァア!!」

 男の豪腕から重圧な鉄拳が放たれた。彼奴の得物はメリケンサックか。

まともに食らえば骨折は免れないであろう一撃を、紙一重のところで躱す。

 相手は僕よりも背が高く、体つきも屈強だ。恐らく筋力では負ける。

 だが、その動きには無駄が多く、いかにも乱暴で、一発の振りは目に見えて大きい。

 どうやら修練をつんだ武芸者ではないようだ。勝算はある。

「オラオラオラオラァアア!!」

 こちらを圧倒するかのように次々と放たれる男の拳を、僕は適切に距離を取りつつ、内側へ、内側へと、冷静に捌いてゆく。

 強く、速く、短く――体を掴まれることのみに注意を払いながら、怒涛の勢いで放たれる連打を受け流し続け、男の呼吸が乱れるその一瞬を――虎視眈々と――狙う。

「ハッ!」

 機を見て、突き出された男の拳を上から下へと、払い落とすように叩いた。

 相手は突然の変化に対応できず、呼吸を乱して前のめりに体勢を傾ける。

 僕は間合いを詰め、差し出される格好となった男の額に、牽制と威嚇の掌打を放つ。

「――ッ!?」

 どん、と軽い手応え。

 一瞬額を庇って後退した男は、素早く体勢を立て直し、激しい怒りに目を剥いた。

「くぅうッ……キッサマァアアア!!」

 僕はじっと奴の目を見据えながら不敵に笑って見せる。もっと怒れ、焦れ、苛立て。

 思考が乱れれば、それだけ動作も粗くなる。

 渾身の力を込めて、小憎たらしい僕を殴りつけようとした男が、上半身を思い切り後ろにのけ反らせた。間抜けなほどに隙だらけな、大振りの一撃。

――此処(ここ)だッ!

「シュッ!」

 一気にその懐へと踏み込んだ僕は、男の脇腹を潜り抜けつつ、カウンターでがら空きのボディーに膝蹴りを、後頭部に肘打ちを、それぞれ鋭角から叩き込む。

「ぐあッ、がはッ――」

 前後から挟み込むように強打を食らった男はよろめき、がくっと地面に片膝をついた。

 その瞬間、身長差というアドバンテージが、奴から消える。

「――まだまだァア!!」

 僕は振り向きざまに放ったトドメの中段蹴りを、男の首筋目掛けて容赦なく叩き込んだ。

 衝撃が相手の肌で波を打つ、強烈な手応え。思い切り鞭を打ったような快音が響く。

 大男は糸が切れた人形のように崩れ落ち、呆気なく昏倒した。

 よし、まずはこれで一人。

 次なる相手を求めて振り返り、ぐったりと地面に倒れ伏した男たちの姿を目にする。

「……!」

 ――僕が一人を倒すために費やした時間で、梨香は疾うに三人の敵を倒していた。

 既に七人中・四人が、失神、又は戦闘不能に陥っている。

 残った三人は梨香をぐるりと取り囲み、それぞれが鉄パイプ、角材、金属バッドといった武器で、三方向から一斉に彼女を攻め立てていた。

 一見すると、凄惨な袋叩きの状況に思える。

 しかし、渦中の梨香は掠り傷一つ負ってはいなかった。

 前後左右から滅茶苦茶に繰り出される男たちの攻撃を、信じられない反射神経と最小限の動作だけで躱す、躱す、躱す、躱す――躱し切れぬものは刀を合わせて軌道を逸らす。

 それはあまりにも完璧なタイミングで、一切の隙も、一片の無駄もない身のこなし。

 まるで攻撃を繰り出す三人の男たちも含め、入念な打ち合わせと稽古によって演じられている、殺陣を観ているような感覚に陥った。

「――ちくしょうッ、何なんだこいつは!」

 鉄パイプの男が焦りを露にしてほざいた。

「――なんで避けられんだよッ!? どうなってんだ一体ッ!」

 金属バットを振るった男が死角からの攻撃を見もせずに躱され、最大の疑問を口にする。

「この女ッ、まるで後ろに目があるみてぇだ!」

 角材の男が、得体の知れない恐怖心を抱いたかのように喚く。

「……まぁ、当たらずとも遠からずね」

 梨香は余裕たっぷりに答えた。

 男たちは知る由もないだろうが、僕は既に気づいていた。

 彼女の特殊能力(パーソナリティ)が、発動しているということに。――

 如何なる武道の達人でも、死角からの攻撃を目視もせずに躱すことは不可能だ。

 だが、今の梨香にはそもそも死角など存在していない。

 彼らはただ、そこが彼女にとっての死角だと、勝手に思い込んでいるだけなのだ。

〝精神感応〟によって、相手の思考を逐一読むことの出来る彼女には、男たちがどのタイミングで、どこを狙った攻撃を仕掛けてくるのか、目視などせずとも判るのだろう。

 しかしまぁ、それにしたって梨香の身体能力は常軌を逸している。

 相手の思考から攻撃の軌道を察知することと、実際にそれを避けられるか否かは、別の問題だ。自分はまだ修行の身だなんて言っておきながら、十分無敵じゃないか。

 こんなの勝負になるわけがないと、僕は呆れて肩を竦めた。

「――うぉおおおおおッ!!」

 金属バットの男がいい加減痺れを切らせたのか、一際大きく得物を振り上げた。

「危ないわよ?」

 平然とした口調で誰にともなくそう言った梨香は、振り下ろされた金属バットの一撃を多少、威力を殺しつつ、角材を握った男の方へと受け流した。

「なっ!?」

 軌道を逸らされた金属の幹が、同士討ちの形で角材を握った男の額に命中する。

「あぐッ、……痛ぇえええ!!」

 額を押さえて倒れ込み、海岸に打ち上げられた魚の如く地面をのた打ち回る男。

 残った二人は怯み、もはや勝ち目はないと悟ったのか、咄嗟に飛び退いて梨香から距離を取ろうとする。だが、――

「逃げられると思ってるの?」

 逸早くそれを察知していた梨香はぐっと腰を落とし、きりもみ状に身体を捻った。

 男二人が、彼女の持つ胴田貫の間合いから脱するよりも早く。

 その瞬間、僕は心の中で唸った。

“……来るぞッ!”

 捻りによって圧縮された力が一気に開放され、彼女の腕が、長尺の太刀が、∞の字を描くように猛然と旋回した。

 綺麗な弧を描きつつ、頭上から降下する一撃が背後の男の首元を打ち、返す刃が下から突き上げるように前方の男の顎を捉える。

「――三嶋流妙技・一陣薙ぎ」

 どさっと砂埃を上げて背中から倒れ込んだ男二人は、そのままあっさりと気絶した。

 遠巻きにその様子を眺めていた大勢の通行人たちから、驚嘆と歓声、そして惜しみない拍手喝采が上がる。

 梨香はなんだか少々バツの悪そうな顔をして、さっさと胴田貫を鞘に収めると、僕の方を振り返った。

「終わり?」

「ああ」

 僕は結局、勝負にならなかったなと思いながら、倒れた男たちの躯を数える。

 一、二、三、四、五、六……あれ?

 もう一度、よく見て確認する。

 ナイフの男に、チェーンの男、金槌のチビ、金属バットの男、鉄パイプの男、それから僕が倒したメリケンサックの大男を合わせても、やっぱり六人しかいない。

「どうしたの?」

「いや、一人足りないんだよ」

 首を傾げる僕たちに、傍から見ていた和明と真帆が教えてくれた。

「味方の金属バットで頭を打った人が、さっき向こうへ逃げて行ったよ」

「ちょうど、梨香ちゃんが技を出したときでした……」

 なるほど、みんなの視線が梨香に集中している隙にまんまと逃げ出したわけだ。

 僕は一つ、とびきりのジョークを思いついた。

「もしかしたら、更なる大軍を引き連れて、戻って来るかも……」

「え~っ、もう勘弁してよ~。さすがにこれ以上は付き合いきれないわ」

 ぐったりと肩を竦める梨香。四人で軽く笑いあい、人込みの中を歩き出す。

 ――だが、僕たちは甘かった。

 次の瞬間に起こった事態は、僕が冗談のつもりで口に出したもしもの想像を、遥かに超えたものだったのだ。

「お、おい……なんだあれ?」「えっ? ……ちょっ、ヤバくねぇか!?」

 すれ違った若い男二人の、戸惑いに満ちた会話がふと耳に入った。

「……ん?」

 周囲を見渡せば、他の通行人たちも次々に足を止め、何事かをざわめきあっている。彼らが茫然と視線を向けている先は、僕らの後方――。

 梨香、真帆、和明と自然に顔を見合わせる。

 僕らは三度足を止め、おずおずと、背後の光景を振り返った。

“……!?”

 途端、周囲から折り重なるように複数の悲鳴と怒号が上がった。

「きゃあああッ!!」「おいッ、こっちに来るぞ!?」「なにやってんだッ、早く逃げろ!!」

「退けぇえ!!」「押すなってんだよ!!」「早く行ってぇええ!!」「う、うわぁああああ!!」

 パニックになって逃げ惑う人々を次々と跳ね飛ばしながら、一台の軽トラックが、猛然とこちらに向けて突っ込んで来る。

 背筋に、ぞわぞわと大量のウジ虫が這い回るような悪寒が走った。

 おいおい、冗談だろ……? 洒落になってねぇぞ……ッ!

 ――運転席の男に目をやり、痛恨する。

 やはり、さっき逃がしたあの男だ。

 軽トラックは年代物のようで、荷台には野菜の入ったダンボールが積まれていた。大方運搬用に使われていた物を、あいつが無理やり強奪したのだろう。

 金属バットで殴打された額からじゅくじゅくと血を流し、もはや正気を失った目で僕らの姿を捉えた男は、唾を撒き散らしながら凄まじい怨嗟を叫んだ。

「殺す、殺す、殺す、殺す、お前ら全員ッ、ブチ殺してやらァアアアア――――ッ!!」

 思い切りアクセルを踏み込んで、人の波を一直線に切り裂いて来る。

「ユーキ!!」

 梨香の一喝で、男の放つ狂気に飲み込まれていた僕はハッと我に返った。

「何してんの! 早く逃げるわよ!」

 僕は慌ててそれに付き従おうとして、思い留まる。……いや。

「ダメだ!!」

「……え?」

 僕の叫びに、梨香は驚いた表情を浮かべて一瞬硬直した。

「僕らが逃げれば、奴は追って来る! 関係ない人たちを無差別に轢き飛ばしながら!」

「――っ!?」

 そうなのだ。僕たちが逃げれば逃げるだけ、被害はどんどん拡大する。

「でもッ、じゃあどうするっていうの!? いくら私でも、あんなの斬れないわよ!」

「……ッ」

 会話を打ち切り、僕は凶器となって迫り来る軽トラックを正面から見据えた。

 距離にして約三十メートル。激突までは、もうあと十秒もないだろう。

 僕は空かさずホルスターの拳銃に手をかけた。――タイヤか、運転手か。

 いや、……これもダメだ。

 どちらを撃っても、恐らく車は止まらない。進路が逸れるだけだ。

 周囲には逃げ遅れた人々が大勢いる。これだけの人数が完全に避難を終えるためには、まだ最低でも数分を要するはずだ。進路が逸れれば、間違いなく誰かを巻き込む形になるだろう。射撃という選択肢は却下。――だが、しかし。

 ならば、どうする? どうするどうするどうする――?

 考えろ、考えろ、考えろ、考えろ――……。

 唐突にして忽然と、記憶の扉が開き、一つのイメージが神託めいて頭の中に広がった。

 なんだ? どうしてこんなときに? まさか、僕に〝あれ〟が出来るというのか?

 堰を切ったように湧き上がる疑問を、鋼の意志によって思考の外へと追い払う。

 ふとした瞬間、胸のブローチを見下ろすと、もうそれしか考えられなくなっていた。

 時間がない。既にトラックは僕の眼前へと肉迫している。

 マジでくたばる五秒前。一か八か、賭けるしかない。

「ユーキぃいい!! 避けて!!」

 梨香の必死な呼びかけに反して、僕は迫り来る軽トラックの正面へと立ち塞がった。

「死ねぇえええええ――――ッ!!」

 男が歪んだ笑みを浮かべながら、汚らしい声で喚く。

 ぎゅるぎゅると凶悪な唸りを上げるエンジン音。一トン近い鉄の塊が高速で接近し、その重量感を物語るような風圧が、僕の髪や服の裾をバサバサと浚う。

 瞬間、素早く両足を肩幅に開き、右手は大きく前へ。

 掌を突き出して相手に翳し、左手は右腕の間接部分を支えるように握る。

 僕は召喚した――……。

「――女神の盾(アイギス)

 宝石のブローチが、呼応するように眩い光を放つ。

 オレンジ色の鮮やかな光線が結晶を結び、薄い膜となって僕の正面へと展開された。

 神より借り出されし絶対防御の障壁が――軽トラックの猛烈な突進を――受け止める。

「……くッ!!」

 およそ数十トンという衝撃が光の膜と真っ向から衝突し、激しく爆ぜる。

 衝撃そのものよりも、その凄まじい爆発音に思わず怯み、僕は目を瞑った。

 十秒待ったか、十分待ったか。

それからゆっくりと目蓋を開けて、現状を確認する。

 全速力で突進して来た軽トラックは、それこそ分厚い合金の壁にでも激突したかのように、フロント部分が大破し、黒煙を上げて機能を停止していた。運転席の男はぐったりとハンドルに枝垂れかかったまま、どうやら脳震盪を起こして気絶しているようだ。

 途端、張り詰めていた緊張の糸が弛緩し、僕はへなへなと腰を抜かして尻餅をついた。

 同時に光の障壁も粉々に弾け、霧散して幻のように消える。

 あぁ、死ぬかと思った……。

 しばし呆然とする。ちらりと後ろを振り返れば、梨香も、真帆も和明も、まるで信じられない光景を目にしたと言わんばかりに、大きく瞳を開いたまま唖然としている。



「っ――……」

 騒ぎを知って、自治会執行部のメンバーとともに駆けつけて来た隼人も、人垣の狭間からその光景を目撃し、言葉を失っていた。

 予てよりの疑念は、ここに来てようやく確信へと変わった。

 間違いない。祐樹の持つあのブローチは、父なる霊石〝ゼウスの光輝〟だと――。

 自治会執行部のメンバーと素早く示し合わせ、隼人は四人のもとへと駆け寄った。

「大丈夫か」

「隼人!」

 梨香が振り返り、祐樹の方を促すように視線を流した。

 隼人は分かっているという風に頷き、手短に告げる。

「ともかくこの場は自治会の連中に任せて、俺たちは退散するぞ。ここは人目が多すぎる」

 和明、真帆もすみやかに状況を飲み込んで立ち上がった。

 腰が抜けて立てない祐樹には隼人が肩を貸し、四人は早々に百鬼夜行通りを後にする。

 ……去り行く彼らの後姿を、大勢の人込みに紛れながら、じっと見つめる者たちがあった。――杖をついた好々爺、買い物帰りの母と子、派手な服装のギャル、勤勉そうな青年。

 年齢・性別・身なりに一切の共通点はなく、彼らはどこからともなく湧いて出て、すれ違い様に情報を伝達しながら諜報活動を行う。

 神の命令を受けて市井に潜り込んでいた〝鼠〟たちである。――


                 2


 それから一夜が明け、僕はふと、あの瞬間に過ぎった記憶の糸を手繰り寄せていた。

 あれは確か、小学校三年生のときだったと思う。

 当時、僕は同級生達の草野球に混ぜてもらうため、放課後にティアラと公園でキャッチボールの練習をしていた。

 投げるのも取るのも不得手だった僕は、ティアラの投げたゆるいボールすら、グラブに収めることが出来ず、腰を屈めながら必死に走って、取り損ねたボールを追いかけた。

 追いかけて追いかけて、やっと追いついてボールを拾い上げたとき、――

「ゆーきっ!」

 ティアラの切羽詰った声で、僕はようやく自分がいつの間にか道路の真ん中に飛び出していることに気づいた。ハッとして振り返ると、もうすぐ目の前に乗用車が迫っている。

 運転手のおじさんは焦ったように〝パァーッ〟とクラクションを鳴らした。

 おじさんからすれば危険を知らせるための警告だったのだろうけど、鈍くて臆病な子供だった僕はそれで余計に驚いてしまい、頭の中が真っ白になった。

 急ブレーキが踏まれ、タイヤが地面を擦る甲高い音が鳴り響く。

 だがもう間に合わない。僕は腰を抜かしてへたり込み、轢かれる――と、そう思った。

 しかし次の瞬間、いきなり僕の目の前にティアラが飛び出してきた。

 神秘的な白銀の髪をさらさらと風に靡かせながら、彼女は迫り来る車に向かって大きく手のひらを突き出し、そして、凛々しい声で叫んだのだ。

“アイギス”

 ――橙色の不思議な光が、半透明な壁となって車の衝突を受け止めるのを、僕はティアラの背中越しに呆然と眺めていた。

 ……懐かしい思い出の一つだが、しかしまぁ、よくあの状況でここまでピンポイントな記憶を引き出せたものだ。なんと言ったって今からもう七、八年前の出来事である。正直な話、僕もあの瞬間が来るまではすっかり忘れていた。

 しかもそれを即興で再現してみせようだなんて、冷静に思い返せばあの時の僕はちょっと普通じゃなかった。一歩間違えば、それこそ僕はミンチになっていたわけだし。

 そもそもティアラに出来たからといって、僕にも出来るなんて道理はどこにもない。

 にもかかわらず――あのときの僕は、何故か、それが出来ると確信していた。

 ふと胸のブローチに手をやって、冷たく硬い宝石の感触を指の腹で確かめる。

「もしかして、君が教えてくれたのか……?」

 もちろん、その問いに対して宝石が答えるなんてファンタジー的イベントは発生することなく、其れはただ、キラキラと金色に輝きながら静物としての沈黙を守り続けていた。



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