表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
23/28

第二十三章「地を這う者たちの叫び」


 ザ――――――ッ、――……!!!!


 真帆の異能によって降りしきる雨の中、梨香とミス・ロンリーの死闘は続く。

 踊るような立ち回りから、叩きつける雨粒を弾いて、猛然と空を切る傘と刀。

 お互いに頭の先から爪の先までずぶ濡れになって、激しくぶつかり合う。

 張り付いた前髪、水を吸って透けた服、汗も涙も一緒くたになって流れ落ち、躍動するたび、床に出来た水溜りからばしゃばしゃと飛沫が跳ね上がる。

 水の滴るブロンドの巻き髪が揺れ、影から覗いた魔性の瞳が僅かに嗤った。

 剣戟を打ち交わした反動を使い、意表を突く形で足元の水溜りを思い切り蹴り上げた魔人令嬢は、梨香の目に飛沫を浴びせて視界を奪う。

「……ッ!!」

 思わず目を瞑った梨香が後退する一瞬の隙を突いて、アルテミスは傘の持ち手をくるりと返し、腕を伸ばしながらそれを片手でライフルのように構えた。瞬間、カチャリと柄の内部に格納されていたトリガーを起こして、人差し指をひっかける。

 刹那、傘の尖端がバッと火を噴き、銃声が轟いた。

 鳴り渡る怒号と共に発射され、音速を超えて宙を駆け抜ける凶弾。

「――――」

 凄まじい反射神経によって胴田貫の刃をあわせた梨香は、瞬く間に一閃。

 二発、三発と、強烈な刃鳴りを散らして銃弾を斬り飛ばす。

「チッ!」

 射撃を諦めたミス・ロンリーは、硝煙を燻らせる傘の尖端をスイッチ一つで元に戻し、歪曲した柄を手の中でくるくると回しながら、再びサーベルとして傘を握り直す。


〝そろそろか……〟


 和明・真帆と念話によってコンタクトを取った梨香は、握った胴田貫を大きく頭上に掲げながら、その刀身を、ゆっくりと鞘に納めてゆく。ミス・ロンリーの動向から片時も目を離さないまま、その間合いをじっと推し計るように――。

 刀を納め終えた梨香は、瞬間さっと居住まいを正して膝を折り、その場に素早く着座した。鞘に納めた胴田貫を脇に据え置いて、それから静かに、瞑目を捧げる。

「……ッ」

 そのあまりにも大胆で無謀な梨香の行動に、魔人令嬢は些か動揺する。

 得物を構えた敵を前にして刀を置き、あまつさえ座り込んで目を瞑るなんて、本来ありえないことだった。こんなの殺してくださいと言っているようなものだ。今の梨香はどこからどう見ても隙だらけだった。しかし、何故かその姿が、逆に隙のないものに見えてきて、ミス・ロンリーは激しい猜疑心に苛まれた。一体、何を企んでいるのか。

 梨香だけではない。柱の陰で息を潜める真帆と和明からも、まるで嵐の前の静けさを彷彿とさせるような体温の低い視線が注がれている。

 ――何かが、始まろうとしていた……。

 只ならぬ気配を感じ取ったアルテミスは、警戒を強めて小さく身じろぎする。

 その場に流れる空気が、一気に気温を20℃ほど引き下げたかのように、激しい雨音さえ凛と澄み渡って、鋭く研ぎ澄まされる。

 青白く燃え上がる静寂の中で、和明が俄かに指揮を執った。


〝三嶋さん、真帆ちゃん……始めるよ――!〟




第二十三章「地を這う者たちの叫び」

                   1


 瞬間、光華が萌え広がった。

 清らかな水の粒を透かして、煌々と点った白銀の輝きが、闇を焼き払う。

 雨足と息を合わせたかのように、数百の閃光が一斉に瞬いた。

「くッ――!?」

 刹那、魔人令嬢は光という名の眩い闇に全身を包まれた。

「これは……ッ!」

 驚愕や焦燥を超越して、純潔の女神は目の前の現象に思わず感嘆する。

 美しい――。滝のように降り注ぐ雨粒の一つ一つがまるで宝石のように輝いて、ミス・ロンリーの周囲を覆い尽くしていた。その様相はさながら、仕掛け花火のナイアガラだ。

 アルテミスの姿は怒涛の勢いで降り注ぐ光の雨に呑み込まれて、白い闇に掻き消える。

 強烈な閃光に前後左右、視界のすべてが閉ざされて、瞬間、世界から隔絶された。

 極限まで精神を集中させ、雨の一粒一粒を光らせるという大技。

 梨香から借り受けた〝精神感応〟のケーブルを通して、瞬き一つのタイミングに至るまで呼吸を合わせた、和明と真帆による綿密な連携――。

 そして、梨香も刻一刻と最後の大技に向けて、精神統一に入っていた。

 病毒の女神・アルテミスこと、三嶋伊織の扱う技は、すべて父親直伝の太刀筋。故に我流でその教えを紐解いた梨香では、どうあっても敵わない。

 しかし……。

 父・早雲から直接剣を学んだ彼女だからこそ、知らない技がある。

 梨香には確信があった。

 父がたった一つだけ、娘である伊織に教えなかった禁忌の領域。

 三嶋流の暗部に記された、最終奥義――……

暗中殺法(あんちゅうさっぽう)

 そう、それは文字通り、人を(ころ)すための剣法だ。

 ――己を捨て、刀と同化すること。

 ――刀を己の体の一部に、否、己を刀の一部とすること。

 己自身が研ぎ澄まされた刃となりて、闇に紛れ、敵の命を断固として絶ち切る。

〝渾然一体〟の心得。


 ――……。

 刃のように。

 薄く鋭い刃のように、己を研いでゆく。

 冷たい雨が頬を濡らす。

 凛と澄んだ空気を吸い込む。

 耳が尖る。邪念を払う。

 余計なものを見ないよう目を瞑る。

 神経が鋭敏に。

 全身の感覚が極限まで研ぎ澄まされてゆく。

 まだだ。まだまだ。

 無へ。無の境地へと。

 さらに瞑想を深くする。

 深く。もっと深く。

 ――其処は暗い場所。

 ――其処は深い場所。

 ――其処は遠い場所。

 無念無想の極致へと。

 心身と刃との、渾然一体を成す。

〝――――!!〟

 カッと目を見開いた梨香は、鞘入りの胴田貫を手に跳躍した。

 一直線に雨の舞う虚空を引き裂いて、光の渦中へ。

 眩い光華のシャワーによって視野を失ったアルテミスだが、その弊害として、外にいる者の目からも魔人令嬢の姿は捉えられない。内側と外側、互いに互いの姿を捕捉出来ないという点においてはイーブンだ。

 しかし、この状況下はまさしく梨香の独壇場であった。

 彼女は超感覚系の能力者である。

 たとえ精神感応が通じなくとも、その研ぎ澄まされた感覚神経によって、梨香にはわかるのだ。光の中で右往左往するミス・ロンリーの様子が、その一挙手一投足に至るまで、すべて気配から伝わってくる。

 故にベストなタイミングで、死角から最強の一手を仕掛けることが可能だった――!

「……何ッ!?」

 突如として光の中に飛び込んできた梨香に対するアルテミスの反応は速かった。

「ヒュッ――」

 気づくと同時に振り返り、傘の尖端を突き出して迎撃する。その間、コンマ00秒。

 予想以上の反応速度に、梨香はよくよく目の前の相手が超一流の実力者であることを悟った。……しかし、いくら反応が早いとはいえ、最初から狙い澄ましていた梨香の一撃と、咄嗟に放たれたミス・ロンリーの突きとでは、いくらなんでも質が違う。

 サッと、鋭い傘の尖端が、梨香の頬を僅かに掠めて真っ赤な線を一本引いた。

 魔人令嬢の瞳が、驚愕に見開かれる。

 乱れた髪から迸る水飛沫、宙を舞い踊る光の粒子に、低くぎらついた双眸。

 臆せず思い切り踏み込んだ梨香は、瞬間、姿勢を落として一気にその懐へと潜り込む。

 迅速の抜刀術――鞘から刀を引き抜くと同時に素早く斬りつけ、返す二の太刀でとどめを差す暗殺剣の真髄――俗に言う〝居合い斬り〟の構え。

 頃合を見計らって、カキンッ――と親指で鍔元をせり上げる。

 瞬間、鞘の根元から覗いた胴田貫の刃が、透き通るような輝きを放った。



「三嶋流奥義・暗中殺法 〝天ツ風〟――!!!!」



 静穏に張り詰めていた空気が、突如の強襲に悲鳴を上げるかの如く裂帛した。

 力強く躍動し、また自然に流れるような身振りで。

 梨香は捻りを加えつつミス・ロンリーの脇を擦り抜け、抜刀と同時に一閃。

 思い切り腕を振り抜いて、魔人令嬢の胴を、横一文字に斬り裂いた。

 一瞬のうちにすれ違い、背中合わせの格好となる二人。

 梨香はすかさず踵を返し、背後からトドメの一太刀を浴びせかけようと得物を振り上げた。殺意に目を剥いて、魔人令嬢の首筋を捉える。頭上まで高々と掲げ上げた胴田貫の刃で、その細い首を撥ね飛ばそうと腕に力を込めた。刹那――。


〝殺すのか?〟


「――っ!?」

 心を掠めた自戒の言葉に、思わずハッとなる。

 激しく揺れ動く少女の瞳。ぎゅっと握り締められる胴田貫の柄。


 ……そうだ。

 そうだった……。

 相手を倒すのではなく、殺す。

 それは三嶋流に限らず、古今東西、武を持って闘う者にとっての最たる深淵。

 いくら圧倒的な力を持ち、暴利を貪り、たとえ神の名を冠していようとも――。

相手は人間なのだ。

 己を守るため、仲間を守るため、多くの民を救うため。

 そんな大義名分をいくつも並べ立てて、己の行いを正当化して。

 殺すのか……。

 何の躊躇いもなく、極めて一方的に。

 これが正義だと、聖者の顔をして。



〝人を殺すのか? 殺せるのか!?〟



「ッ――」

 叩きつけるように降り続く土砂降りの雨。

 静寂の中、遅れてどばっと喀血したアルテミスの体が、大きく前後に舟を漕いで揺れ、やがてぷっつりと糸が切れたみたいに、飛沫を上げてその場に倒れ込む。

 和明と真帆も、無言のまま、放心状態でその光景を見守っていた。

「……」

 水の滴る長い前髪が、きつく噛み締められた唇だけを残して少女の表情を覆い隠した。

 胴田貫の刃が、高々と振りかざされたまま、大粒の雨に打たれてきらきらと輝く。

 それを握り締める梨香の腕は、ガチガチに力んで小刻みに震えていた。

 やがて、ゆっくりと腕を下げた梨香はそのまま脱力し、ぺたんとその場に座り込んで項垂れる。

 彼女の手を離れた胴田貫が、水浸しの床に転がってがちゃっと重たい金属音を立てた。

 吐き出す息も、気分さえも白く染まる、冷え切ったフロアで。

「――終わった……」

 気だるい虚脱感に包まれながら、和明がぼんやりと呟く。

「ふぅ」

 弱々しい溜息のあと、真帆は降り続いていた雨を止め、それからようやく人心地ついたように軽く胸の辺りを押さえた。

 和明が立ち上がり、ずぶ濡れで座り込んだ梨香の許に駆け寄って行く。

「三嶋さん――」

 失意に塗れた梨香の表情を見て、和明は言い淀む。

 しばしどんな言葉をかければいいのかと迷って、彼は口ごもりながら掠れた声で言った。

「お疲れ様……」

 それから一言、二言交わしたあと、和明は腰が抜けてしまった梨香に肩を貸して、一緒に立ち上がった。すぐに真帆も寄って来て、辛い役目を終えた少女を労わる。

 二人に支えられながら、梨香は悄然とした面持ちで背後を振り返り、自ら斬り捨てたミス・ロンリーの亡骸に目をやった。うつ伏せになって倒れ込んだ魔人令嬢は、それっきりぴくりとも動かない。結局、トドメを差すことは出来なかったが、最初の一撃を加えた時点で十分すぎるほど手応えはあった。間違いなく致命傷だと思う。

 肉を裂き、骨を断ったときの生々しい感触が、まだ手のひらに残っているのだ――。

「……」

 ぽんぽんと何か促すように肩を叩かれ振り向くと、和明が察したように一つ頷いた。

「あとは僕に任せて」

 梨香と真帆が二人三脚のようにしてゆっくりと歩き出す。

 肩を寄せ合って歩く二人の背中を見送った和明は、それから気を取り直して、倒れたアルテミスのもとに向かった。念のために、生死の確認を取っておこうと思ったのだ。

 万が一の事態に備えて腰にぶら下げた蓄電手榴弾の感触を確かめつつ、一歩、また一歩と、少年は魔人の亡骸に吸い寄せられて行く。



 …………。

 ――誰に気づかれることもなく、天井に張り付いていた黒い障気の塊。

 ――蠢く影が密かに寄り合い、形を結ぶ。



〝!?〟

 ――刹那の殺気。

 ゾクリと背筋を駆け抜けた悪寒に、梨香は大きく目を見開いてすかさず振り返った。

 そして、はたと気づく。

 洞のような天井の暗がりに、それは音もなく潜んでいた。

 茫と暗闇の中で鎌首を擡げた猛毒の矢が、瞬間、虚空を引き裂いて放たれる。

 不気味に照り輝いた漆黒の鏃が、狙う先には――。

「真帆ッ!!」

 避けられない。そう思った梨香は、すかさず彼女の肩を突き放した。

「っ……!?」

 どんっ、と突き飛ばされた真帆がもんどり打って床に倒れる。

 わけもわからないままその場に転がり込んだ真帆は、困惑した面持ちで咄嗟に目の前の梨香を見上げた。次の瞬間、視界の端を素早く横切って通った黒い影。

「――――」

 どっと強い衝撃に揺れる少女の体躯。

 パサッと風に乱れた髪――投げ出される手足――力なく半開きになった口元……。

 スローモーションのように流れる光景の中。

 猛毒の矢が、梨香の背中に、深々と突き刺さった。

 少女は途方に暮れたような面持ちで、ふっつりと膝から地面に崩れ落ちる。

「リカちゃんっ!!!!」

 突然の出来事に慌てて振り返った和明だが、肝心のシーンを目にしていなかった彼には一瞬、何が起こったのか分からなかった。

「三嶋さん!?」


 このときを待っていたとばかりに、血に濡れた口元を歪めて薔薇色に嗤う。


 むっくりと、和明の背後で蠢動する影。


 生命を失ったはずの瞳が、狂気と殺意を湛えて、真っ赤に燃え滾った。


〝――――!!〟

 只ならぬ気配を察知した和明が、弾かれたように振り返る。

 瞬く間にバッと跳ね起きたアルテミスは、地を這うように跳躍。

 嗜虐心を剥き出しにした猟人の瞳孔が、恐ろしい勢いで切迫する。

「くッ……!?」

 反射的に防御の構えを取って後退するが、和明の身体能力ではとても敵わない。

 ミス・ロンリーは易々と和明のガードを擦り抜けて、その懐深くに潜り込んだ。

「カズくんッ!!!!」

 悪夢めいた真帆の叫び声が、灰色のフロアに轟々と響き渡る。

 瞬間、魔人令嬢の手中からレーザー光線のように伸び切った猛毒の槍が、和明 の華奢な腹部に容赦なく突き刺さった。

「がはァ――っ……!!!!」

 肉を抉って、骨を砕き、その先にある臓器を貫通する。

「ぐがぁあぁっぁあああああ――――」

 口から鼻からドバドバと滝のように血を吐いて、和明は目を剥いた。



「いやぁあああああああああああああああ――――――――ッ!!!!」



 真帆の悲鳴が叩きつけるようにこだまする。

 少年の体内を突き破って一瞬のうちに腰から飛び出した矛先が、背後の支柱に突き刺さって、メキメキと大きな亀裂を入れた。

 霧状に噴出した大量の鮮血が、びっしゃりと壁面を濡らし尽くす。

「……クックックッ、ククッ……!」

 抑えても抑えきれぬといわんばかりに、高い鼻の先から漏れ出した笑い声。


 そして、爆発する。


「ふはっ――。あははっ……! フハハハハハハハハ――ッッ!!!! アハハハハハハハッ!! アアーッハハハハハハハッハハハ!!!!! あーっはっはっはっはっはっはっは――♪」


 堰を切ったように、ミス・ロンリーは哄笑した。

 もはや、貴婦人としての優雅さなど欠片も残されてはいない。

 ドレスはボロボロ、美しい金髪は見る影もなくグシャグシャに乱れ、ダラダラと黒い血を垂れ流しながら大きく口を開け放って狂笑する彼女の姿は、怪物そのものだった。

 魔性の仮面に隠されていた途方もない狂気。

 これがこの女の本性だと知って、和明は恐怖に凍りつく。

「ヒギぃ!? ぐぅああぁああッ!!」

 ぐりぐりと腹に刺した槍を捻じりながら、和明の瞳を間近からじっくりと覗き込み、魔人令嬢は嬉しそうに囀った。

「ウフフ、痛い? ほぅら、痛いでしょう? ねぇ?」

「はぁっ、はぁっ、けほっ、かはッ……」

 ぜぇぜぇと息を詰まらせて激痛に表情を歪める和明。

 そして――。

「……!」

 ふと視線を下ろした先、アルテミスの腹にある刀傷を見て、思わず愕然とする。

 彼はようやく、最後の秘密に気がついた。

 今更のように思い出す。魔人令嬢の語った言葉を。

 今更のように理解する。それが具体的に何を示していたのかということを。


〝――ワタクシはアテナに代わって、今度こそあの方の愛を一身に享受します! ワタクシが、あの方の〝女神〟になるのです――……〟


 他でもない、AIであるアテナの代わりになると、彼女は言ったのだ。

 それだけじゃない。今にして思えば、それこそヒントはいくらでもあった。

 最初に倒した六人の女衆、精神感応に対する拒絶反応(リジェクション)、完璧な美を愛するミス・ロンリーの性癖、そして、どことなく作り物めいた印象を与えるその姿。

 思えばすべてが一つの事実を暗示していた。

 それなのに、何故、考えなかった……。

 どうして、気づけなかったんだろう。

 和明はぱっくりと開いた傷口から覗く、機械性の臓器を見ながら思う。



 ミス・ロンリー自身が〝生体改造〟を受けているという可能性に――。



 ……曰く、狩りで最も危険なのは、獲物を仕留めた瞬間だという。

 勝利を確信したその瞬間こそ、最大の隙が生まれいずる。


 ましてや、病毒の神・純潔の神・月の神――そして〝狩猟の神〟という側面を持つアルテミスにとって、罠を仕掛けて獲物を仕留めることくらい造作もないことだった。

 梨香の放った最終奥義は、柔らかい人工筋肉を切り裂き、本来人間の体には備わっていない特殊金属製の内壁を穿ったに過ぎない。それが、彼女の感じた『肉を裂き、骨を断った』という手応えの正体。肝心の臓器や骨はさらにその奥であり、つまるところ、致命傷には遠く及んでいなかったのだ。

 痛恨の表情で唇を噛み締めた和明は、暗黙のうちに悟る。



 ――罠にかかったのは、僕たちの方だったんだ……と。



 状況は絶望的だった。

 しかし、今ならまだ、せめて刺し違えることくらいは……。

 和明は必死に歯を食い縛って、目の前のアルテミスに悟られぬよう、腰にぶら提げた蓄電手榴弾へと手を伸ばす。

「っ――!」

 しかし、掴み取ろうとした瞬間、無情にも最後の切り札が、きつく握り締めていたはずの手のひらから、あっけなくすり抜けて行く。かつーんと硬い音を立ててつま先に当たった機械製の球体は、ころころと床を転がって遠ざかる。

 最悪だ……。あまりにも迂闊なミスに、はたと手のひらを見る。

 指先の感覚がなくなっていた。体が痺れる。力が入らない。

 傷口から毒が回っているのだとようやく気づいた。

 出血と臓器の損傷だけでも十分致命的だというのに、この上、毒にまで侵されたとなれば、もはや助かる見込みなんてない。


 ――死ぬ……。


 ずぼっと音を立てて槍が引き抜かれ、支えを失った和明は力なく倒れ伏した。

 返り血を払って背を向けたミス・ロンリーは、悪魔のように笑いながら歩き出す。

 たどたどしく足を引きずって。

 最後の標的である、真帆の許へと――。


「ひぃっ!?」

 真帆は恐怖に引き攣った顔で、尻餅をついたままじたばたと後退りする。

 鋭い槍の尖端を大仰にひけらかして恐怖を煽りながら、魔人令嬢は小動物のように怯えきった真帆を、じわりじわりと壁際まで追い詰めていく。


「クッソォ……ッ!」

 這い蹲った和明は、必死に腕を伸ばして、なんとか取り落とした蓄電手榴弾を掴み取ろうとする。だが、掴めそうで、掴めない。体の自由が利かない。

 差し伸べた腕は虚空を掻いて、ギリギリと床に爪を立てる。

 ぼんやりと霞んでいく視界の中、自分の体から流れ出た血が、蛇のようにうねって床に広がってゆくのが見えた。

 ――あぁ、ダメだ……。

 意識が遠ざかる。目蓋が重い。

「……真帆ッ」

 薄れゆく意識の中で、去って行くミス・ロンリーの背中を見送る和明の脳裏には、あの日の光景が重なって見えた――。

 あれは、真帆が龍神会のチンピラに拉致されたときのこと。

 あのときも、和明はこうして地面に横たわり、為す術もなく真帆が連れ去られて行くのを見送ったのだ。己の非力さを怨み、仲間たちを羨みながら。

 考えれば考えるほど、今この状況が、まるであの日の再現であるかのように思えてくる。

 結局、あの事件において和明は何もすることが出来なかった。

 あとのことは、すべて頼もしい仲間たちが解決してくれた。

 だが今度ばかりはそうもいかない。

 真帆は誘拐されるだけでは済まない。気絶するくらいでは済まない。

 その先に待ち構える運命は死だ。

 この土壇場で諦めるわけにはいかない。

 和明は閉じかけた瞳を無理やり抉じ開け、真帆に迫る魔人令嬢のキッと背中を睨んだ。

「真帆ッ、逃げろ……!」

 あのときと同じように掠れた声で叫びながら、最後の力を振り絞って蓄電手榴弾にぐっと手を伸ばす。指先が、あの硬い機械製の球体に僅かながら触れた。

 届け、届けッ――。

 これさえ掴むことが出来れば、まだ一発逆転の機会(チャンス)はあるんだ――!


「……っ!?」

 どんっ、と背中に壁の感触を感じた真帆は、退路を失ったことに気づき、それから思い出したように水遁の一撃を放つが、水の砲弾は呆気なく横薙ぎに空を切った猛毒の障気によって弾かれてしまった。駄目だ。出力が足りない。再び雨を降らすには時間がない。走って逃げようにも腰が抜けてしまって立てない。死が迫る。

 少女は真っ青になってガタガタと震えながら、潤んだ瞳で、目の前まで差し迫ったアルテミスの姿を見上げた。そして思考を停止する。

 ゆっくりと、頭の上まで大きく振り翳された猛毒の槍。

 漆黒の尖端が、ギラリと闇の中で強烈に照り輝く。

 瞬間、真っ赤に染まった大きな瞳で、魔人令嬢はにっこりと笑いかけた。

「くぅッ、――真帆……!!」

 和明の叫びも虚しく、直後にそれは振り下ろされた。

 勢い良く風を切った槍は、肉を貫いて、骨を穿ち、噴水のように鮮血を撒き散らす。

 茫然とした表情で硬直する真帆の体が、びっしゃりと生暖かい液体で真っ赤に染まった。

 ぽたり、ぽたりと、背中から突き出た尖端を伝って、血が流れ落ちる。

「ハァッ、ハァッ、ハァッ、フゥッ――」

 少女の熱い息遣いが、底知れぬバイタリティを孕んで耳に迫る。

「――!」

 魔女の表情が俄かに歪んだ。

 和明も思わず言葉を失う。

 途方に暮れたような面持ちで、真帆が薄い唇をわななかせた。

「リカ、ちゃん……?」

 咄嗟に横から割って入った梨香は、真帆を庇うような格好で、アルテミスの槍を受け止めていた。勢い良く振り下ろされた猛毒の槍は、大きく前に突き出された梨香の手のひらを貫いて、その先の鎖骨を突き破り、生々しく背中から外に飛び出している。

 梨香の体内を抉って真帆へと迫った漆黒の槍頭は、彼女の眉間、数センチ手前ほどのところで、ぴたりと静止していた。

「チッ」

 予期せぬ介入に一瞬動きを止めたミス・ロンリーだったが、すぐさま槍を握った腕に力を込め、そのまま真帆まで刺し貫こうと前屈みにぐっと体重をかける。

 だが……。

〝動かない――!?〟

 押しても、引いても、捻じっても。梨香に刺さった槍は、びくともしない。

 ぶしゅっと音を立てて、鮮血がびちゃびちゃと吹き零れる。

 梨香は痛々しく槍が突き刺さったままの手のひらをぐっと深く握り込み、低く下を向いて息を整えたあとで、ゆっくりと顔を上げた。

 瞬間、大きく前に垂れ下がり、彼女の表情を隠していた髪がはらりと横に流れて、ギラギラとした双眸がその下からカッと、魔人令嬢を射抜く。

「……!?」

 目の前の梨香が全身から放つ、その凄まじい迫力に圧倒されて、ミス・ロンリーはびくりと肩を跳ねさせた。

 蒼白に染まった顔、滴り落ちる大粒の冷や汗、そして大量の出血。

 どこをどう見たって、梨香は既に瀕死の状態だった。

 背中に刺さった猛毒の鏃は肺を潰している。

 手のひらを貫通して胸元に突き刺さった槍は、鎖骨を抉り飛ばしている。

 本来ならば全身に毒が回り、とっくに神経が麻痺して意識を失っているはずなのだ。

 それなのに――。


 何故、まだ動ける!? 

 一体どこにそんな力が残っているというのか!?


 計り知れぬエネルギーの胎動を悟って、魔女の面が恐怖と焦燥に歪んでいく。

アルテミスは梨香を追い詰めていながら、逆に自分の方が彼女に追い詰められているかのような錯覚に陥った。

 もしも勝機といういうものが、煙のように空間を漂っていたとするならば、それがぐるぐると急激に渦を巻いて、瞬間、彼女の背後に集中していくかのようだ。

「――――」

 燃え上がるような闘志を瞳に宿し、魔人令嬢の姿を一心に捉える。

 毒に侵され、激痛に苛まれ、混沌とした意識の果てで。

 彼女は高熱にうなされて見る幻のように、一つ、大切な事を思い出していた。

『梨香……』

 頭の中で、遠い日の記憶が彼女に呼びかけてくる。

『……梨香――』

 懐かしいその声に答えるかのように、彼女はそっと目を閉じる。

 今にも千切れてしまいそうな、細い記憶の糸を優しく辿って、瞑想を深くする。

 目の前の暗がりに小さく灯った光の点が、徐々にその輪郭を大きく広げ、梨香は吸い込まれるかのようにその中へと飛び込んでいく。

 瞬間、膨大な辞書のページをめくりめくり、ずっと探し続けていた言葉をようやく探り当てたときのように、ぱあっと目の前に眩い世界が広がった。


 …………

 ……

 …


『梨香――』

 小鳥が囀り、辺り一面に桜の花びらが舞い落ちる中。

 曙光を浴びて立つ父の大きな背中を、幼き日の梨香はぼんやりと眺めていた。


『俺は常々疑問に思ってきたことがある。三嶋流が何の為に現代まで脈脈と受け継がれてきたのか。いや、三嶋流に限らず、武道というものがどうしてこれほどまでに深く、未だに多くの人々の心に根付いているのだろうか……』


 父はふと梨香の方を振り返って、一つ尋ねた。


『なぁ、梨香? こう思ったことはないか? 実際に人を斬るような機会なんてないのに、どうして刀の扱い方なんて学ぶ必要があるのだろうかと』


 梨香がこっくりと頷くのを見て、父は笑った。


『フフ、そうか。俺もずっとそう思っていたんだ。だが、あるときになってふと気がついた……。技は所詮、飾りに過ぎんのだと――』


 その瞬間、背景の光が一気に増したような気がした。

 早雲は盛大に花びらを散らす桜の木を見上げながら、語り続けた。


『いくら技を極めて最強を名乗ろうとも、今のような世の中では役に立たん。武術といえば聞えはいいが、煎じ詰めれば単なる暴力だ。もとよりこれは戦乱の時代に生まれたものであって、既に太古の遺物なんだ。そして、いずれは廃れていく。時代は移り変わり、いまや戦争も終わって、これから世の中はどんどん平和になっていくだろう。お前が大人になる頃には、本当の意味で刀も剣術も必要のない時代がやって来る。それでいい。それでいいのだよ。極論すればな、技などは忘れてしまっても構わん。覚えられなくとも構わん。どうせ歳を取れば使えなくなるものだ。時代が変われば不要になるものだ。……しかし、そこで鍛えた心は、どれだけ歳を取ろうとも廃れることはない。どれだけ時代が変わっても、決して色褪せない。――武道とは、心を鍛えるためにあるのだから』


 ぼんやりと立ち尽くす梨香に視線を合わせながら、父は語った。


『梨香、これだけは忘れるな。三嶋流の真髄はその心構えにこそある――』


 …

 ……

 …………


 あぁ、そうだ――。そうだったんだ……。

 天啓が閃いたように、梨香は自らの抱いていた誤解を悟る。

 彼女の使う三嶋流の技は、すべて独学で習得したもの。故に、父・早雲直伝の技を使うミス・ロンリーに対して引け目があった。自分は紛い物なのだと。

 しかし、それは大きな間違いだった。

 彼女は疾うに教わっていたのだ。

 父から直接、他でもない〝三嶋流の極意〟を……。

 瞬間、本物と紛い物の定義が、綺麗に弧を描いて逆転する。

 アルテミスは三嶋流の技を極めた。それは三嶋の家に代々受け継がれてきた正真正銘、本物の武闘術だ。しかし、早雲の言うとおり、技が単なる飾りに過ぎないのならば――小手先の技だけを習得してその心構えを疎かにして来たミス・ロンリー=三嶋伊織こそ、とんでもない紛い物ということになる。

「……」

 梨香は父から教わった三嶋流の真髄を、一つ一つ噛み締めるように反芻した。


《‐三嶋流訓戒‐》

 その一――。


「われ必ずしも聖にあらず、かれ必ずしも愚にあらず。誰も人なり……」


 その二――。

「……和をもって(たっと)しとなし、善を尽くすことを宗とせよ」


 その三――。


「三宝に篤く配慮せよ……三宝とは、心、体、そして隣人である」


 その四――。


「汝、心より望むところあれば、何人(なんびと)も恐るるに足らず。迷うことなく道を進むべし」


 口を動かし、声に出すたび、力が溢れ出す。

 体が熱い。まるで火がついたみたいに、全身の肌が燃え上がる。

 膝を立て、強く、強く、拳を握り締めながら、

 梨香は結びであり、始まりであるその一文を、高らかに謳い上げた。

 

「――静かに笑ふ花になるな、転がり続ける石であれッ……!!!!」

 

 メキメキと音を立て、凄まじい力で握り込まれた猛毒の槍が激しく弓なりに軋む。

 やがて、パキパキとその表面に細かいひびが入り始めた。

「くっ!?」

 怯んだミス・ロンリーが、梨香の気迫に押されるような形で顔を仰け反らせた。

 槍を侵食する亀裂は、いよいよもって魔人令嬢の握った柄の部分にまで到達する。

 刹那――。


〝――梨香……〟


 和明の声が、繋がったままになっていた精神感応のパイプを通して、微かに届く。

 梨香がはっとして視線を流した先、眼前に立ち塞がったアルテミスの後方、血まみれになって倒れた和明が、僅かに顔を上げてこっくりと頷いた。

 何かを伝えるような彼の力強い眼差しに梨香も頷き返し、瞬間すべてを通じる。

 心を重ね合わせるための異能の力なんて、もはや不要だった。

 そして、脳裏を過ぎったのは、琢磨の一言。

 思わずこぼれてしまう笑み。

 最後の最後でこんなくだらない台詞を思い出すなんて、どうかしてる。

 馬鹿馬鹿しい。

 けれど。

「そうね……。そうだったわね……」

 ほろりとその頬を、涙の滴が一筋伝って落ちる。

 梨香は不敵に泣き笑いながら、空いた方の腕をキリキリと引き絞っていく。

 和明は大きく腕を伸ばし、蓄電手榴弾をその手に掴み取った。

「まだ終わってなんかいない。私たちの戦いは、まだまだ――」

 逢瀬の瞬間。

 二人の瞳が共鳴するように、光を宿してキラキラと輝いた。


「――ここからよッ!!」


 途端に力を解放した梨香は、捻りを加えた掌底で、ひび割れた槍の柄を思い切り叩いた。

 バッと飛沫を噴き上げるように、猛毒の槍はバラバラになって砕け散る。

 反動でバランスを崩したアルテミスの体が、大きく後方に傾いた。

 間髪入れずに、梨香は勢い良く膝を跳ね上げ、大きく羽のように広げた両腕を後方へ。

 限界まで引き伸ばし、強烈な捻りを加えて莫大な運動エネルギーを集積・圧縮。

「三嶋流・徒手合戦礼法 内の一つ」

 大気の流れが、ブゥウンと、大きな起伏を描いて波を打つ。

「――絶招・焔鮮花(ほむらせんか)

 劇的な体重移動から、きりもみ状に回転しつつ突き出された両腕。

 解放の瞬間、両の手のひらが寄り合って花びらを広げたように大輪の形を結ぶ。

〝!?〟

 驚愕に見開かれた魔女の瞳孔。

 どっと痛烈な音を響かせ、左右の掌打が、同時に魔人令嬢の腹部へと突き刺さった。

「ぐがァ――っ……!!!!」

 衝撃が螺旋を描いて体内に浸透し、内臓器官を破壊して、背中から抜けていく。

 盛大に空咳を吐いたミス・ロンリーは、体をくの字に折りたたみつつ、物凄い勢いでその場から吹き飛ばされた。


「ッ――」

 和明はタイミングを合わせて、握り締めた蓄電手榴弾のピンを噛む。

 そして、俄かに自嘲の笑みを浮かべた。

 やっぱり僕には、空を飛ぶことは出来そうにない。

 だから、今はただ――……。



〝空を飛ぶことよりも、地を這うために――!!〟



 彼は意を決して、腹部に穿たれた傷痕を痛めつけるように、ぎゅっと握り締めた。

瞬間、雷に打たれたかのような激痛が走る。和明は目を剥いた。


「ウォオオオオオオオオオオオオオオ―――――――――ッ!!!!」


 全身の骨という骨が軋んで、肌が粟立つ。

 だが、この痛みが、失われかけた意識を繋ぎとめてくれる。

 毒に侵されて痺れた感覚を、瞬間的に叩き起こしてくれる。

 一瞬でいい。あとほんの一瞬だけでいいんだ。

 獣のように咆哮した和明は、噛み千切るように絶縁ピンを引き抜き、最後の力を振り絞って跳躍。前方から飛んで来る魔人令嬢の背中に向かって、渾身の体当たりを仕掛けた。


 ――これで最後だ……。


 激突と同時に、露出した手榴弾の電極部から、内部に蓄積された電流が一気に噴出、激しく火花を散らしてスパークする。琢磨から借り受けた、必殺の雷霆。


電光散華(ライジング・シャウト)!!〟


 劇的な雷鳴と共に、黄金の光が燃え広がった。


「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアア――――――――ッ……!!!!」


 絹を劈くようなアルテミスの絶叫が空に響き渡る。

 血が沸騰し、肉が痙攣し、骨を――神経を――心臓を――脳髄を、凄まじい電撃の波が一斉に焼き払ってゆく。

 およそ十数秒に渡って続いた眩い閃光の点滅が、ふっつりと途切れ。

「っ――……」

 力尽きた和明とミス・ロンリーが、瞬間、折り重なるように倒れ込む。

 それを見届けた梨香も糸が切れた人形のように崩れ落ち、深い静寂が鬱蒼と辺りを呑み込んだ。


 壮絶な戦いの結末を、瞬き一つせずに茫然と見送った真帆は、やがて思い出したように渇いた唇を開き、喉の奥から蚊細い声を絞り出す。

「リカちゃん……? カズくん……?」

 二人に呼びかける真帆の不安定な声は、やけに澄み渡って洞のようなフロアに響き渡り、伸びやかに、しなやかに、静謐に溶け入った。

 そして、答える声はない。冷え切った空気が漂う。

「けほっ、ごほっ、かはッ」

 不意に倒れた梨香が苦しげに咳き込んで、はっとした真帆は慌てて駆け寄った。

「リカちゃん!!」

 傷ついた体を抱き起こし、優しく背中をさすってやる。

 梨香の背中には猛毒の矢と、折れた槍の尖端が突き刺さったままになっていて、それがあまりにも痛々しく、真帆の目から涙が溢れ出した。

「真帆、怪我してない……?」

「うん。大丈夫だよ。リカちゃんとカズくんが、守ってくれたから」

「そう……」

「うっ、うぅ――」

 泣きじゃくる真帆の手を握って、梨香は小さく「よかった」と言った。

 そろそろと誰もいない虚空に差し伸べられた手のひら。

 梨香は涙で濡れた真帆の頬を撫でるつもりだったのかもしれないが、それは全然違う、あさっての方角に向いていた。

「リカ、ちゃん……?」

「――ごめんっ……。もう……目が、見えないの……」

 梨香は既に、視力を失っていた。

 体内に浸透したアルテミスの毒が、彼女の視神経まで侵していたのだ。

 捉えどころのない視線を、あてもなく虚空に彷徨わせる梨香の姿を見て、真帆は否が応にも、彼女の生命が、もうあと僅かしか残されていないことを察する。

 大きく肩を上下させて必死に息を吐き、瞬間ぐっと息を呑むようにお腹に力を溜めた梨香は、途切れ途切れになんとか言葉を紡ぎ出す。

「ねぇ、真帆? お願い……和明のところまで……」

「うん、わかった」

 必死に涙を拭った真帆は、頼りなく伸ばされたその手を取り、梨香の体を後ろから抱きかかえるようにして、和明の許へと導いて行く。

 瀕死の梨香を抱きかかえながら、ずるずると膝を擦って移動する真帆は、道すがら、魔女の亡骸に目をやった。

「……」

 ――アルテミスは壊れて道路脇に打ち捨てられた人形のように、ボロボロの格好で死んでいた。美しいブロンドの巻き髪は古くなった化学繊維のように乱れ、凍えるような美貌も、もはや原型を留めていない。

 生前、彼女が偏愛していた高潔さや美しさといったものからは程遠い、なんとも無様で、醜悪な最期だった。真帆はその顛末を、虚しい気持ちで見送った。

 そして、骸となったミス・ロンリーの傍ら、和明は仰向けに大きく手足を投げ出した状態で、力なく横たわっていた。

 腹部に大きく穿たれた刺し傷と体を内側から蝕む猛毒だけでも、十分致命傷だというのに、拍車を掛けたのは、最後に放った蓄電手榴弾の一撃。

 琢磨から借り受けた必殺の雷霆は、魔人令嬢諸共、和明の肉体まで焼き払っていた。もとより梨香に比べて体力のない和明が、その衝撃に耐えられるはずもない。

 ――和明は既に、虫の息だった。

「カズくんっ……」

 真帆の目に、再び大粒の涙が浮かぶ。

 薄っすらと見開かれた瞳、宿った光は今にも消え入りそうで、薄い胸板が不規則に小さく上下するたび、壊れた笛のようにひゅるひゅると音を立て、力なく半開きになった口から細い吐息が漏れている。

「カズ……」

 梨香が小さく呼びかけて、何かを求めるように手を伸ばす。

 真帆が後ろから手を添えて、和明の頬まで、梨香の手のひらを運んでやった。

 すぅーっと、羽毛の先でくすぐるように少年の頬を優しく撫でた梨香は、それからやんわりと微笑み、手探りに和明の体を起こして、ぎゅっと胸に抱き締める。

「よくやったね、カズ……。えらいよ……。立派だったよ……?」

 ぐったりとした少年の細い体を抱いたまま。

 光を失った彼女の瞳から、ぽろぽろと、大粒の涙が溢れ出した。

「ごめん……。ごめんね……。結局、私が足を引っ張っちゃって……」


 最後の最後で、敗因を作ったのは、梨香だった――。


 あのとき、返す二の太刀で彼女が迷うことなくアルテミスの首を撥ねていれば、少なくとも、こんな結果にはならなかっただろう。しかし、梨香は躊躇ってしまった。トドメを刺すことが出来なかった。

 ――それは三嶋流に限らず、古今東西、武を持って闘う者にとっての最たる深淵。


〝人を殺せるか、否か〟


 彼女はその命題を――……。

 最後の一線を、踏み越えることが出来なかったのだ……。


『暗中殺法』を完成させるために必要な条件――

 ――己を捨て、刀と同化すること。

 ――刀を己の体の一部に、否、己を刀の一部とすること。

 己自身が研ぎ澄まされた刃となりて、闇に紛れ、敵の命を断固として絶ち切る。

 彼女は〝渾然一体〟を成し得なかった。

 迷いを断ち切ることが出来なかった梨香は、人を殺すための刃にはなれなかった。

 その結果が、今回の事態を招いたのだった。


「迷っちゃダメだって、わかっていたのに……。私の心が、弱かったからッ……」

 梨香の涙が、ぽたぽたと和明の頬を濡らす。

 刹那――。


〝――それは、違うよ……〟


 脳裏に響いた彼の声に、梨香ははっとなって呼びかける。

「……カズ?」

 光を失った彼女の瞳では、少年の表情を捉えることが出来ない。

 和明は膝の上から梨香を眺めて、薄っすらと微笑む。

 目の見えない少女と、喋れない少年の心を、精神感応の残滓が微かに繋いでいた。


〝確かに失敗はしたかもしれない。けれど、それは弱さなんかじゃない。それは、君の優しさだったんだよ、梨香――? 何も恥じることはない。人は、人を殺すための凶器にはなれないんだって――。むしろ誇りに思うべきだ。梨香は、間違ってないよ……? 何も間違ってなんかいない……――〟


「私は、辛い役目をあなたに委ねてしまった……」


〝いいんだ……。むしろ、謝らないといけないのは僕の方だ。僕にはやっぱり、ハヤトくんの代わりは上手く務まらなかったよ……〟


 梨香はううんと、小さくかぶりを振って言った。

「そんなことない。頼もしかったよ……? 本当に見違えたみたいね……。あなたが居てくれて良かった」


〝嬉しいな……。こんな僕でも、誰かの役に立てたんだね……〟


「ええ、……ありがとう、カズ――」

 その言葉を最後に、ふっつりと、精神感応の細い糸が途切れて消える。

 動かなくなった和明を抱いたまま、梨香は声を押し殺して泣いた。

 床に広がる血の海が、みるみるうちに輪郭を広げて行く。

「真帆、ハヤトとユーキに会ったら……伝えて?」

 不意の開口に、真帆は胸が張り裂けるような思いでその言葉を受け止めた。

「――和明と二人、先に逝ってるって……」

 苦しげに息を荒くしてそう言った梨香は、直後に吐血した。

「リカちゃんッ!!」

 堰を切ったように大量の血を吐いて、口の周りを真っ赤にした梨香は、それっきり力尽きたように崩れ落ちる。真帆の叫び声すら、遠く響いて。



〝ごめん、琢磨。あなたの助けには、行けそうにない――……〟



 虚脱した目の端から再び涙が伝った。




次回からいよいよ、アポロン戦に突入。

アポロンと隼人の因縁、そして、真帆の起こす奇跡……。

――第二十四章「生命(いのち)の泉」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ