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第二十章「魔性の仮面」

休む休む詐欺です……もとい、思ったよりも筆が進んだので。

先週、なんとなく一区切りついた感じはあったのですが、

「いい最終回だった」とお思いの方、甘い! 甘いですよ!

アーレス戦は、いわば最終決戦・第一章。

四つある頂上決戦のうち、最初の一つに過ぎなかったのです。


そして、今回からは第二章であるアルテミス戦に突入――。


梨香・和明・真帆という不安要素いっぱいの三人組が、

病毒の女神を相手に、波乱の戦いを強いられます。


それから、少しあとには“隼人 VS アポロン”という頂上決戦に相応しい最強の対戦カードが控え、

さらには“祐樹 VS アテナ”という怒涛のクライマックスに突入して行きますので。

今後ともよろしくお願いします。


第二十章「魔性の仮面」

                   1


 和明と真帆が柱の陰から見守る中、梨香はミス・ロンリーと対峙する。

「っ……」

「フフフ」

 眼光を強める梨香に対し、魔人令嬢は余裕の笑みを浮かべて見せた。

 炎のように燃え盛る梨香の瞳と、氷のように低く凍てついたアルテミスの瞳。

 視線の切っ先を突きつけあい、じりじりと間合いを計りながら、対立する両者。

 互いの一挙手一投足から注意を逸らさぬまま、二人は一歩、また一歩と、探るような足取りで、命を交えるための位置取りを行う。


 刹那――。


「ぐっ、うぅっ……!」


〝――!!〟


 不意にその場の均衡を破ったのは、梨香によって倒されたアルテミスお抱えの女衆だった。一瞬、警戒して振り返った梨香は、はたとその様子がおかしいことに気がつく。


「ア”ァ、苦しいっ!」

「イタイ、イタイ、イタイ、イタイ!!」

「イタイヨォ……!」


 彼女たちは皆、悲痛な呻き声を上げて、芋虫のように床を這いずり回っていた。

 しきり喉元を押さえたり、全身を掻き毟ったり、大量の汗を噴き出しながら、金魚のように口を大きく開閉して懸命に息をする。その様子は、どこか麻薬使用患者の禁断症状に似ていた。

「アルテミス様ぁ、どうか、お慈悲をッ……!」

「ワタクシたちに、神の御加護を――」

「お願いしますぅううううううう!!」

 泣き叫ぶ部下達の懇願を聞き流し、魔人令嬢はゾッとするほど感情のない瞳で、悶え苦しむ少女たちを嘲笑った。

「なりません。その痛みと渇きは敗者のモノ……。じっくり味わって逝きなさい……」

 少女たちは口々に絶望の声を上げ、激しく苦悶してのたうちまわった。

 やがて絹を劈くような断末魔の悲鳴を残し、ビクビクと痙攣して、動かなくなる。

 刹那、ドロドロと外から内から、少女たちの体は熱に犯された蝋人形のように溶けていった。

 しゅるしゅると音を立てて、濃紫色の煙があがり、猛烈な臭気が鼻を差す。

 少女たちの肉体が溶け入って出来た赤黒い液体の中に、骨格や臓器の役割を果たしていたと思われる金属性の部品が、忽然と露出した。

 梨香は青ざめた顔で、理解する。


〝生体改造ッ……!?〟


 瞬間、すべてが繋がった。

 梨香を翻弄するほどの驚異的な身体能力、狂った言動、予測のつかぬ異様な戦法――。

おかしいとは思っていた。

 能力者でもなく、鍛え抜かれた武芸の精鋭とも思えぬ柔な少女たちが、あそこまで人間離れした機動力を見せ、能力者であり、あまつさえ三嶋流を修めた梨香を追い詰めるなんて。常識的に考えればありえないことなのだ。

 そして、どうやらそれだけではなさそうだと、梨香は額に掛かった縦線を濃くする。


 ずる、ずる……と。


 機械の残骸を伝って、黒いスライム状の塊が、死した少女たちの人数分、蟲のように這い出してきた。

 アルテミスが彼女たちの肉体に植え付けていた、異能の種子だ。

 恐らくはこれが、たった今、少女たちの命を奪った元凶。

 魔人令嬢の意思に従って蠢くこの種子によって、あの少女たちは常時、生殺与奪の権限を握られていたわけである。

 梨香は自分が何も知らずに戦い倒した相手の正体を悟って、深く悲嘆する。


 ――彼女たちもまた、被害者だったのだ……。


 薬物によって無理やり心身を縛り付けられ、肉体を切り刻まれ、機械の部品を埋め込まれて、戦うためだけの生物兵器に仕立て上げられた少女たち。

 皆、梨香と同じ年頃か、ともすれば彼女よりも歳下だったのかもしれない。

「これでも結構、お気に入りのコレクションでしたのに。残念です」

 アルテミスは壊れてしまったオモチャの人形を慈しむような表情で、すっと目を細める。

「まだまだ体のいじり方が足りなかったようですわね。こんなことなら、中身はすべてこそぎ出してから、入れ替えてしまった方がよかったのかもしれません。弱々しくみすぼらしい人間の部分なんて、愛らしいお顔以外は一片たりとも残さずにね……」

 その発言は、まさに澄ました仮面と豪華絢爛な装飾で上辺を取り繕い、内なる狂気を覆い隠したこの女の性質を克明に現している。

 女剣士は激しい怒りに打ち震え、途端にそれを爆発させた。

「キッサマァアアア――――ッ!!!!」


 三嶋梨香 VS 病毒の女神・アルテミス

 戦いの火蓋が、切って落とされた――。


「ッ……!!」

 憤怒の形相で、梨香は虚空を駆る。

 構えた胴田貫の鍔元をせり上げ、凶刃を風に煌かせながら、魔人令嬢を睨み据える。

 瞬間、タタンっ――と、軽く二の足でステップを踏むように、踵で床を跳ね上げて飛んだ。空中で鋭く捻りを加えながらすかさず抜刀、上段に構えた天下の剛剣を、降下と同時に思い切り振り下ろす。

 スイカを叩き潰すかの如く、上空からミス・ロンリーの脳天を狙った本気の一撃。

 大気を巻き込み、轟々と唸りをあげて直上から迫る渾身の一刀を目にしたアルテミスは、しかし焦ったふうもなく、悠々とガラスの靴底を揃えて佇んでいた。

 そして激突の瞬間。僅かに一歩引いて、身を捩った魔人令嬢は、思いがけない得物によってそれを受け止める。

 バチィッ、と服の上から肌を叩いたような鈍い音。

「……!」

 刹那、梨香は呆気に取られた。

〝傘!?〟

 アルテミスは手首に提げていた一見可愛らしいデザインの日傘によって、梨香の振るう野太刀の一薙ぎを、いとも容易く叩き払ってしまう。

「なっ!」

 梨香は驚嘆した。

 傘などという貧弱な得物で、こと切れ味に関しては折り紙つきである胴田貫の、それも渾身の一撃が、受けきられてしまうなんて、ありえないと思ったのだ。


 ――無論、それはただの傘ではない。

 ミス・ロンリーが常備しているフリルの日傘は、機能美と様式美、両方に強いこだわりを見せる彼女の命令で、『OLYMPOS』科学陣が特別に開発したカラクリ兵器。

衝撃や熱に耐え得る特殊合金製の骨組みに、防刃・防弾加工が施された傘布を被せ、その他にも多数の隠しギミックを搭載した彼女専用の〝アームズ=ウェポン〟だった――。


「フフ、この程度で目を丸くして、可愛らしいこと……」

 ミス・ロンリーは、そんな梨香の動揺すら手に取って愉しむかのように、閑雅な微笑みを浮かべたまま傘の鋭い尖端を使って、まるでフェンシングのような鋭い突きを繰り出してきた。

「チッ」

 梨香は錐揉み状に反転しつつ、胴田貫の刀身を這わせ、それを一息に弾く。

「フフ……!」

 一太刀、二太刀と、素早い剣戟を交えながら、魔女は不敵に嗤った。

「いいことを思いつきましたわ。先に潰えた女衆の代わりとして、あなた方三人を、ワタクシの新たなラヴドールに致しましょう」

「何っ……?」

「――容姿の美しい者であるという条件は満たされておりますし、若干一名は男の子のようですけれど、どのみち穢れ多き人間としての肉体はすべてこちらで廃棄します。あの坊やのポテンシャルならば、その際に少し体のパーツに形成を加えてやるだけで、きっと完璧な美少女に仕立てあがることでしょう。なかなかの妙案だとは思いませんか?」


 ……狂っている。

 人を人として見ようとせず、整った容姿以外の内なる部分はすべて、醜悪な汚物として排除すべきという考え方。

ある意味、徹底的に美醜というものに固執した結果見い出した、究極の美学なのかもしれない。しかしそれはあまりにも極端すぎて、健常な精神を持った人間には本能的に受け容れがたい思想だ。

つまりこの女も、所詮は琢磨が戦っている〝あの男〟と同じ。

未来永劫、人とは絶対に相容れない価値観を持った者。

そして、それを強引に実現するだけの圧倒的な力を持った者。

説得の余地など皆無であり、息を吸って吐くように殺戮を繰り広げる。


〝――悪鬼羅刹の類〟


「黙れッ、外道!」

 嫌悪感を露わにした梨香は、力いっぱい長尺の刃を振り抜いて、ミス・ロンリーを後退させる。梨香の口の悪さを窘めるような口調で、魔人令嬢は朗らかに謳った。

外連(ケレン)とお呼び」

 刹那、その派手な姿が一瞬の残像を残して、視界から消える。

 膝を折り、限界まで体勢を低くしたミス・ロンリーは、クラウチングスタートの要領で、地を這うように跳躍。

「……速いっ!?」

 一瞬遅れて反応した梨香は、信じられない低姿勢から急接近するその眉間に、浮き足立った突きを放つも、アルテミスはその際僅かに首を横たえて、当然のようにその鋭い剣先を躱した。そして突きを躱され、間抜けに伸びきった梨香の腕に、傘の柄を引っかけ指先で小突く。梨香の腕を軸として、鉄棒の大車輪みたく回転する、フリルの日傘。

 梨香はほんの一瞬、その特異な動きに目を奪われてしまった。まるで、指をくるくると回す動きに戸惑い、捕獲されてしまう赤トンボのように。

そして生じたコンマ00秒の僅かな隙に、二人は擦れ違う。

「――――」

 頬をすっと撫でて透き通る金髪縦ロールのもどかしい感触。

 鼻腔をくすぐる甘い匂い。

〝最大深度の踏み込み!!〟

 瞬間、アルテミスは蛇のように腕を撓らせて、梨香の頭を柔軟に絡め取った。

 円を描き、内側に巻き込むかのように。

「くっ――!」

 脳裏を過ぎる、猛烈な既視感。

 不意に懐かしさすら覚える、慣れ親しんだ感覚。

〝この技はッ……!!〟

 張り付くように腰に回された腕、絶妙なバランス感覚で引っかけられた足。

 流れるように鮮やかな体重移動から、アルテミスは思い切り体を捻って、梨香の体を背面方向に投げ飛ばす。

 刹那、魔性に輝く桃色の瞳が、薄く嗤った。


「三嶋流・朧車――」


 捻りによって蓄積・圧縮された莫大なエネルギーの流れが、螺旋を描いて放たれる。

 ぐるぐると縦方向に回転しながら宙に投げ出された梨香は、驚愕した。


〝朧車だと……!?〟


 ――それは、あのメデューサとの戦いにおいて、梨香自身が使用した三嶋流の技。

 しかも、あのとき掛け損なった自身のモノとは比べ物にならないほど、アルテミスによって繰り出されたその一撃は、高い完成度を誇っていた。

「ぐぅ、んぁああっ!」

 平衡感覚を失って地面に叩きつけられる寸前、強引に捻りを加えることで、足からの着地になんとか成功する梨香だったが、その衝撃までは受け止めきれず、背中に周囲のテーブルや椅子を巻き込みながら、ズザザザザーっと床を滑って一気に壁際まで押しやられる。

「……ッ」

 ドカッと胴田貫の刃を床に突き立てて杖代わりとし、軋む足腰に力を入れて踏ん張りながら、彼女は涼しげに佇んだミス・ロンリーを睨みつけた。

 今の一連の動き、そして〝朧車〟――。

 間違いない。これは。


〝三嶋流・合戦礼法――!!!!〟


 ――そもそも。

 梨香は事前に琢磨からの情報で、アルテミスが三嶋流の技を使ったという報告を受けていた。しかし、どうにも突拍子のない話に聞え、俄かには信じられなかったのである。

 第一、三嶋流は後継者である梨香一人を残し、とうに潰えたはずの流派。

 第二に、アルテミスは、『OLYMPOS』に君臨する邪神の中でも、実質ナンバー2のポジションに座する病毒の女神。

 ミス・ロンリーと三嶋流。

 二つはまるで、月とスッポンのようにかけ離れた事物だ。

 関連性を見い出せない。

 そんなものがあるとも到底、思えない。

 故に琢磨の見間違いか、見間違いでなくとも、三嶋流と似通った何か別の流派であるという可能性の方が遥かに高いだろうと、梨香は内心、そう高を括っていた。


 たった今、自らの身を以って、直にそれを確かめるまでは……――。


 梨香は否が応にも荒くなる息を潜め、今一度、じっくりとその容貌を確かめる。

 ミス・ロンリーの容姿を、記憶の中にある人々の面影と素早く照らし合わせてゆく。

 しかし、やはり見覚えはない。

 アルテミスとは、どう考えても今回が初対面のはずだ。

 確認のため、声を落として俄かに問い掛ける。

「アナタ、以前、私と会ったことは?」

「いいえ? ありませんわ」

でしょうね……と、心の中で相槌を打つ。

 これだけ派手な見た目をしているのだ。

 一度でも会ったことがあれば、当然、記憶にも残っているだろう。

 ミス・ロンリーの返答によって、正真正銘、二人は初対面であることが判明した。

 梨香とアルテミスは、敵対する勢力の兵士として、たまたま邂逅したに過ぎないのだ。

 しかし――。

 その場合、両者が揃って同じ流派の生き残りだなんて、そんなことがありえるのか。

 可能性としてゼロでなくとも、偶然にしてはあまりにも出来すぎている。

 何か自らの与り知らぬところで、密かに運命の糸を握られているような気がした。

 漠然とした不安と焦りにも似た想いが、胸中に渦巻く。

 疼くように、腹の奥底から急速にせり上がって来るドス黒い疑念。



〝この女は一体、何者なんだ!?〟



 ふと、しばし思索に耽っていた梨香は、その異変に気づくのが遅れた。

 しゅるしゅると、どこかから空気が漏れるような音が立っている。

 瞬間、はっとして見れば、アルテミスの背後から、薄っすらと黒い粒子のようなものが霧状に発生していた。

「くっ――!?」

 刹那、喉の奥に違和感を覚える。

 気管が内側でべったりと張りつくような感覚。

 息が詰まる。

 これは――。


〝毒ガス……!?〟


「まずいっ!!」

 霊石を奪われた際、一度その脅威を体験しているだけあって、和明の反応は速かった。

 すかさず一階でサーベラスの兵士から奪い取った短機関銃を抱え上げ、真帆をその場に残して柱の陰から躍り出る。

「三嶋さん! 伏せてッ!!」

 はたと振り返った梨香が転がるように姿勢を低くするのを見計らって、和明はトリガーを引き絞った。

 ドガガガガガガガガガ――……!!!!

 銃弾の継ぎ目すら判らない、雷鳴のような銃声が轟く。

 激しく網膜に焼きつくマズルフラッシュの閃光。

 胸板をボコボコに殴りつけられるような反動。

「くぅうッ……!」

 慣れない銃器の感触と鼻を突く硝煙の香りに戸惑いながら、和明はか細い全身にうんと力を込めて立ち、堰を切ったようなサブマシンガンのフルオート掃射で、横一文字にガラス張りの壁面をズタズタに劈いた。

 分厚いガラスが粉々に砕け散り、上空五百メートルを吹き荒れる突風が、汚染されたフロアの空気を瞬く間に洗い流してゆく。

 これで、もう気体系の毒物は使えない。

 ついでだとばかりに、和明は両腕に構えた短機関銃の銃口を、アルテミスへと向けた。

 怒涛の勢いで吐き出される無数の弾丸。

 毎分/数百発の速度で空間を埋め尽くしながら迫る凶弾の嵐を、アルテミスは眼前に展開させた分厚い猛毒の防壁で、片っ端から溶かし尽くす。

 そして僅かに、眉をひそめた。

「……ワタクシ、そのように品のない得物は嫌いですの」

 ミス・ロンリーの前に聳え立った黒い防壁の一部が、まるでアメーバーのように分裂して、瞬間、砲弾のように飛び出した。

 禍々しい猛毒の塊が、風を切って一直線に和明を襲う。

「和明ッ!!」

 梨香は焦って叫ぶが、およそ彼女にはそれを止める術がない。

 大気を侵食しながら、急速に飛来する殺意の影。

 浴びれば全身の皮膚が焼け爛れて、骨や肉が瞬く間に腐り落ちる。

「っ――」

 和明は恐怖に目を剥いて、咄嗟に身を捩った。

 だが、彼の反射神経では、到底、避けきれない。

 咄嗟に被弾箇所を目算し、抱えたサブマシンガンを盾のように突き出して備えるが、果たしてこの程度で防ぎ切れるものかどうか。

 ――刹那

〝!!〟

 パァン――と、風船を叩き潰したかのような破裂音を立てて、和明の背後から突如として出現した水の砲弾が、猛毒の塊を空中で相殺した。水遁による救援。

「カズくんっ!!」

 柱の陰から顔を覗かせた真帆が、促すように彼を呼んだ。

 はっと腰を抜かすようにもんどり打って倒れた和明は、そのまますかさず遮蔽物の陰に転がり込んで事なきを得る。抱えた短機関銃を見れば、僅かに飛沫を浴びたのだろう、銃身の一部が虫食い状に溶けていた。今のは本当に危なかった。

「ありがとう真帆ちゃん、助かったよ……」

「カズくん、あんまりは無茶しないでね」

「ごめん」

 和明は再び、真帆とともに、柱の陰から梨香の戦いを見守る体勢に戻った。

「ふぅ……」

 梨香は和明の無事を確認して人心地つくと、それから気を取り直して立ち上がる。

 ミス・ロンリーの正体についても気になるところだが、今はひとまず目先の戦いに集中することだ。

 このままずるずると考え事をしながら戦って勝てるほど、甘い相手ではない。

 敵は、数多の病毒と剣術を司る最強の〝特殊能力者サイキック・コンテナー〟なのだ。――

 脳裏にこびりついた大いなる疑問を、強い意思によって頭の中から叩き出し、梨香は改めて魔人令嬢と対峙する。

「クスクスクスクス……!」

 不気味な啜り笑いとともに、ミス・ロンリーの前面に展開していた猛毒の盾が、液状にとろけて一気に四散する。

 分厚い壁を成していた黒い障気は、それぞれ細かい塊に分裂し、無重力空間を漂う水滴のように、ゆらゆらと彼女の周囲を浮遊している。

 魔人令嬢は、片手に握ったフリルの日傘で、鋭く虚空を切った。

 途端、シュルシュルと、彼女の周囲を漂っていたスライム状の障気が急速に旋回しながら傘の表面に纏わりつき、パキパキと音を立てて瞬時に硬化する。

「……っ!」


 傘を芯にして、毒々しい〝漆黒の太刀〟が形成された。


「――触れたら最期、僅かな掠り傷一つでも致命傷になりますわ……」

 眩しいほどに黒く、透き通るように鋭く研ぎ澄まされた猛毒の刃を見てとって、梨香はごくりと生唾を飲んだ。

 これはいよいよ、余計なことを考えている場合じゃない……。

 じりじりと、踵で床の上を擦りながら、肩幅に足を開いて、半身に構える。

 五感を研ぎ澄ます。神経を張り詰める。

 掌握した光の糸を、細く、長く、引き伸ばし、ミス・ロンリーの思考へと接続する。

 これは、梨香にしか見えない糸。

 この糸を対象となる人物の脳裏へと直結させ、様々な情報を行き来させる。

 言うなれば、〝精神感応〟を為すための光ケーブル。

 しかし、それとて決して万能ではない。

 梨香の〝能力指数(ポテンシャル)〟によって操れる糸の数は、一度に最大、三本まで。

 現在、既に二本、和明と真帆に繋いでいた。

 そして、特に敵対する者であり、高い〝能力指数〟を誇る相手の場合は、接続自体が難しい。

 精神感応を、電車に乗るという行為に例えると少しわかりやすいかもしれない。

 まず開いた扉を潜って電車に乗り込むという行為が、思考の接続を意味し、席に座るという行為が、最も情報の伝達が可能な状態を表す。そして、そこに乗っている人の数が、その者の持つ〝能力指数〟だ。

 無能力者の場合、最初から電車の中はガラガラだ。扉をくぐったあと、いとも簡単に席に着くことが出来る。

 しかしそれが能力者の場合、最低でも、最初から席は一杯に埋まった状態で始まる。

 和明や真帆のように好意を寄せてくれる者であれば、乗り込んだ時点で向こうから席を譲ってくれる。

 たとえ敵意を向けてくる者であっても、自らの〝能力指数〟が相手より勝っている場合は、強引に押し退けて座るという方法もある。

 だが、アルテミスの場合、これがラッシュアワー時の超満員電車になる。

 席に座ることはまず不可能であり、敵対している以上、道を譲ってくれることもない、〝能力指数〟は当然、相手の方が遥かに上回っているため、強引に割って入ることも不可能。乗り込もうとした時点で押し出されそうになる。どんなに頑張っても、すし詰め状態の中、扉付近の僅かな隙間にギリギリ体を滑り込ませられる程度なのだ。

 思考はいくつかの階層に分かれており、記憶に関連するような情報は、深い階層に収められている。

 故に、梨香が〝精神感応〟によってアルテミスの正体を知るようなことは出来ない。

 彼女に読み取れるのは、ごくごく表面的な思考の一部だけ。

 具体的には、せいぜい一瞬あとの動きを、僅かに先読み出来る程度だ。


 ――しかし……。


 接続してみて初めて判ったが、この女のガードの固さは尋常じゃない。

 それは同じ〝神〟でも、これまで戦いを通して接続を行ってきたプロメテウスやメデューサの比ではなかった。

 ――なんだ、これは……。

 思わず寒気がした。

 扉をくぐるどころか、扉そのものを分厚いコンクリートで隙間なく塗り固めてしまったかのような……。

 これまでに触れたことのない奇怪な質感。

 それに、何か異様な気配を感じる。

 本来、人が立ち入れないような深い場所に、無数の人間が集い、何かをおこなった形跡があるような、得体の知れない不気味さが募る。

 うっかり覗き込んでしまった底知れぬ洞。

〝深淵を覗くとき、深淵もまたこちらを覗いているのだ――〟

 そんな言葉を思い出し、背筋にぞわっと鳥肌が立った。

「……っ」

 ともかく、これではごくごく表面的な思考の一部ですら、ほとんど読み取れない。

 繋がった糸は、少し風が吹けば簡単に解けてしまいそうなほど頼りなく。

 唯一のアドバンテージである〝精神感応〟が通じないことを知った梨香は、額にじっとりと脂汗を滲ませた。

 魔性の仮面が、丘の上から病んだ街を見下ろした野うさぎのように笑う。

「参ります――」

 そして、風を切った。爆発的な低い跳躍と共に、ミス・ロンリーは虚空を引き裂いて一直線に接近する。猛然と唸りを上げて、妖しく照り輝く猛毒の刃。

「――ッ!!」

 梨香はカッと眼孔を広げて、胴田貫を正眼に構えた。

 瞬間、十字を描いて真っ向から激突する両者の剣戟。

 カキィイ――――ン!!!!

 高々と刃鳴りが轟いて、凄まじい衝撃が両者の骨身を軋ませた。

 二人はまるで合わせ鏡のように、ぎちぎちと拮抗する刃を、横一文字に思い切り振り抜いて一歩後退する。

 激しい摩擦によって、サッと真っ赤な火花が血飛沫のように飛び散り、張り詰めた空気を鮮やかに彩った。

 そして生じた、次の一手を講じるための僅かな間隙。

 アルテミスはそこで短く息を吐いた。――しかし、梨香は逆に息を止めた。

 すかさず腕を縮めて、腰を低くする。

〝先手必勝……!〟

 踵で叩きつけるように床板を捉え、いまだ腕を大きく広げた状態にあるミス・ロンリーの懐へと、瞬時に踏み込んだ。

 まるで彼女自身が、一本の刀となって直進するかの如く、光線のように鋭い突きで、魔人令嬢の喉笛を狙う――。

「……」

 しかし、ガラス球のように澄んだ桃色の瞳は、刹那その動きをしっかりと見ていた。


 ――三流ならば、後退か、前進か、迷っている間に時間切れとなる。

 ――二流ならば、迷わず後退を選んで、体勢を立て直す。

 ――一流ならば、あえて前進し、カウンターによる一撃を狙う。

 そして……。


 アルテミスは瞬間、素早く腰を捻った。

 分厚いスカートの裾が、パラソルを広げたように美しいターンを描く。


 ――超一流ならば……そのすべてを裏切る。


「――ッ!?」

 梨香は咄嗟に踏み止まった。

 直後、螺旋を描いて盲滅法に舞い踊る猛毒の刃が一閃。

 急停止からつんのめった梨香の額を、紙一重のところで通過する。

 僅かに掠めた前髪が数本、はらりと切り飛ばされて宙を舞った。

「っ――」

 慌てて背後に飛び、後退を選ぶ梨香。

 ミス・ロンリーはくるくると軽妙なステップで独楽のように回転しながら、自在に凶刃を振り回し、間髪入れずに追撃する。

 ……本来、練達者同士の実戦においてこのような奇襲攻撃に転じることは愚行とされる。

 素人相手に威嚇として見せつけるものならまだしも、玄人同士の、それも命を賭した局面においては、致命的な隙を作り出すだけだ。

 素早いターンから滅茶苦茶に繰り出される剣戟は、見た目の迫力こそ凄まじいが、その実、一刀、一刀の錬度は低く、当たったところで致命傷となる確率は低い。

 極端な話、軽傷を負う覚悟で一気に踏み込み、肉を切らせて骨を断つという駆け引きを成立させればいいのである。

 梨香も、相手がアルテミスでばければ、迷うことなくそうしたことだろう。


 ――しかし、この場合は例外だ……。


 魔人令嬢が振るう刃は、猛毒の塊である。

 触れたら最期、傷口から全身に毒がまわり、死に至る。

 本来掠り傷一つで済むところが、致命傷になる。

 絶対的なアドバンテージ。

 ミス・ロンリーの立場からすれば、精魂込めた渾身の一撃など、最初から放つ必要がないのである。次から次へと無数に斬撃を放ち、そのうちのどれか一つでも、数ミリ相手の肌を掠め過ぎることが出来れば、その時点で勝利なのだから。

「ホォーホッホッホッホ―ッ!!」

 ミス・ロンリーは勝ち誇ったように哄笑する。

 曲芸めいたその動き。その余裕。

 徹頭徹尾セオリーを無視した、されど、完璧に計算され尽くした戦法。

そして、ここまで型破りなことを堂々と実戦においてやってみせるだけの豪胆な気質。


 これこそアルテミスが、超一流の使い手であることの証――。

 

 無数の斬撃が風を切って、闇に煌く。

 息も吐かせぬ怒涛の乱れ撃ちで、梨香を圧倒する魔人令嬢。

 次から次へと、まるでマシンガンのように飛んで来る猛毒の切先を凄まじい反応速度で片っ端から捌いてゆく。

 梨香はひたすら後退し、防戦に徹するしかない。

 このまま守りに入っても、どうせジリ貧になるだけだ。思い切って踏み込まなければと頭の中ではわかっていても、肝心の間隙が見い出せない。

 なによりも、梨香は恐れていた……。

 僅かな掠り傷一つでも致命傷にいたるという、圧倒的なプレッシャー。

 その禍々しき毒刃の煌きに、着々と神経を削がれている。

 なにせ、ミスは一つも許されないのだ。

 躱すことばかりにどうしても気を取られてしまい、反撃のことにまで手が回らない。

 そして、心の乱れは、彼女の身体機能にも次第に齟齬を発生させてゆく。

 激しい動悸によって眩暈を覚えるほど、心臓はバクバクと早鐘を打ち鳴らし、恐怖と焦りから、アルテミスの攻撃を捌く太刀筋には、必要以上に力が入る。

 やはり、怖いのだ。

 なるべくあれを近づけたくないという思いが、無意識のうちに表れている。

 本来ならば寸分で躱し、その間合いを逆に利用すべきところ。

 しかし梨香は恐れるあまり、前進することを尻込みしてしまう。

 悉く反撃に転じるのチャンスを、自分から逃しているのと同じだった。

 ミス・ロンリーは軽やかな足取りでダンスのステップを重ねるように、くるくると弧を描いて優雅に舞い踊る。そして、攻撃の手を休めることなく言った。

「無様ですわね。今のあなたは、まるで素人以下じゃありませんか。そんなことで、このワタクシに勝てるとお思いですか? 甘過ぎますわよ!」

 瞬間、ゾバッと一閃――。

 裂かれた服の亀裂から、汗に濡れた白い肌と、艶やかな乳房の下半分がちらりと覗く。

 胸部と鳩尾の間にある落差の部分を、横一文字に抉られたのだ。

 幸い、猛毒の剣先が捉えたのは服の生地だけであり、肌に傷はついていない。

「起伏が豊かで命拾いしましたわね?」

 アルテミスはそう言って悪戯っぽく笑う。

「ッ……!」

 ――まずい。


〝このままでは、確実に殺される――!!〟


 脳裏に蘇るのは、女衆たちの最期。

 羽をちぎられ手足を捥がれた蟲のように、奇声をあげて想像を絶する苦痛に悶え、ドロドロと陰惨に溶けて逝った彼女たちの死に様が、想像の中で自らと重なった。

 極度の緊張に頭皮の汗腺が開いて、首の後ろがかあっと熱くなる。

 焦りは益々加速して、梨香は自壊の淵へと追い込まれてゆく。

 酸欠寸前まで息は跳ね上がり、滝のように噴き出した汗が、ぼたぼたとまつげにかかって、鬱陶しく視界を邪魔する。

 頬や顎を伝う汗の感触をもどかしく思い、梨香が一瞬、首を左右に振って滴を払ったその瞬間、魔人令嬢は回転を打ち止めて、一気にその懐へと踏み込んだ。

 さっきの意趣返しにと、梨香の喉笛を狙った鋭い突きを放つ。

 一瞬遅れて反応した梨香も、迎合するように、向かい来る猛毒の尖端めがけて素早い突きを繰り出した。

 相対する刀身同士が、鋭角に擦れて、ガラスを引っ掻いたような音が立つ。

 軌道が逸れ、両者の突き出した尖端が、それぞれの側頭部方面へとすり抜けた。

 そのままガッチリと鍔元を食い込ませ、二人は×印を描いて力を交わす。

「ウフフ♪」

 アルテミスは、その上品で麗らかな容姿からは想像もつかぬほどの怪力で、ぐいぐいと梨香を押した。

「チィッ……!」

 しかし、彼女も負けじと力を込め、魔神の進攻をなんとか押し返す。

 じりじりと激しく鎬を削る鍔迫り合いの中、不意にミス・ロンリーが開口した。

「さっきの話、一つ言い忘れていたことがありましたわ――」

 まるでその場の状況にそぐわない暢気な声に、梨香は猜疑心を募らせる。

 魔人令嬢は悠々とした口ぶりで言った。



「……実際にお会いしたのは今日が初めてですけれど、ワタクシは以前から、あなたのことをよく存じておりましたよ? 三嶋梨香さん……?」



「――っ!?」

 目の前の戦いに集中するため、頭の片隅に追いやっていた最大の謎が、再び頭の中を真っ赤に染め上げてゆく。

 梨香はキッと目を眇めて、激しく詰問した。

「アンタ、誰なの……? 一体ッ、何者なのよッ!!」

 アルテミスは不気味に微笑んだまま、答えない。

 螺旋回廊のようなその瞳孔には、イニシアチブを握る者の愉悦が浮かんでいた。

「クスクスクス……。さぁて、私は誰でしょう――?」

 言うや否や、ミス・ロンリーは素早く梨香の足を蹴り払った。

「くぁっ!」

 会話に気を取られていた梨香は、完全に不意を突かれた格好で、ばたんと床に倒れ込む。


〝ダメだ。完全に遊ばれている〟

 戦闘においても、心の面においても……。


 アルテミスは倒れ込んだ梨香に向かって、すかさず猛毒の太刀を振り下ろした。

 梨香は左右じぐざぐに床を転がってそれを躱しつつ、寝そべった体勢からクロスさせた両足を上に伸ばして、太刀ではなく、それを握ったミス・ロンリーの腕を、直下から受け止める。

 刹那、かにばさみの要領で、受け止めた魔人令嬢の腕を、ふくらはぎの間に挟んで絡め取り、そこから振り子のように大きく足を投げ出して、その体勢を前方に傾かせた。

 足で腕を引っ張られたミス・ロンリーは、倒れた梨香の体を大きく跨ぐような格好になる。瞬間、梨香は素早くその股下を潜り抜け、背後を取った。

〝此処だッ!〟

 すかさず胴田貫を振り上げ、袈裟懸けの一撃を、無防備な背中から浴びせかけようと飛び掛る。

 しかし、魔性の仮面がその口元に刻み込んだ薄笑いを掻き消すことはなかった。

「ワタクシの手妻は、剣薙ぎだけではありませんことよ?」

 噴出した溶解液の濁流が、滞空状態にある梨香へと襲い掛かる。

「――っ!!」

 躱しきれない。

 そう判断した梨香は、精神感応によって繋がれた見えないラインを通して、瞬時に彼女を呼んだ。


〝お願い、真帆!〟


 合図を受け、真帆はすかさず詠唱した。


「――〝聖なる水よ、迸る激流となりて、邪悪なる者を返りうち賜え〟……」


 透き通るような清流がバッと広がり、ドス黒い濁流と拮抗して、アーチを描く。

 飛び散る水飛沫を背後から浴びながら、梨香は滑空。

「ハァアアアアア――――ッ!!」

 僅かに残った溶解液の効果によって、服をまだらに溶かされながら、瞬間、打ち砕くべき魔女の仮面をはっきりと捉えた。

「チッ……」

 僅かに眉をひそめたミス・ロンリーはスカートの裾を大きく翻して反転し、打ち下ろされる胴田貫の一刀を、猛毒の刃で素早く受け止めた。

 そのまま至近距離できつく睨み合いながら、梨香は不敵に言葉を返す。

「私の武器も刀だけじゃないのよ……? こっちには、優秀なバックアップが付いてるんだからッ……!」

 魔人令嬢は答えず、刀越しに組みつく梨香を薙ぎ払った。

 女流剣客はその反動を使って、再び背面方向へと大きく飛び上がる。

 ひらりとバク宙を決め、柱を足場に使って、さらにもう一段跳躍。

きりもみ状に捻りを加えつつ、握った胴田貫を肩の上へと、大きく担ぎ上げるような格好で構えた。――


〝三嶋流・奥義〟


 その動きを見て取ったミス・ロンリーは妖しく微笑み、上段から迫る梨香を迎え撃つように、猛毒の太刀を、低く下段に構えた。

 強烈な捻りによって極限まで圧縮・蓄積されたエネルギーが、急速に螺旋を描いて鋭い剣先一点へと、集中する。


 ――瞬間、大気が裂帛した。


「秘刀ッ――!」

「……――魔刃」

 二人は声を揃えて、解き放つ。


「「〝焔旋風(ほむらせんぷう)〟――ッッ!!」」


 雷光が瞬くように炸裂した、正邪の必殺奥義。

 凄まじい息吹を上げて荒れ狂う二つの竜巻が、真っ向から衝突。

 眩い閃光とともに二人の周囲が激しく爆ぜて、飛び散る衝撃波が、大地を震撼させた。

 バキバキと音を立てて床や壁の一部が次々と破砕し、猛然と宙を舞う。

 残っていた窓のガラス部分が、一斉に弾け飛んだ。

「くぅッ!?」「……っ!」

 柱の陰に隠れていた和明と真帆は、お互いの体をぎゅっと抱き合うように固まって、衝撃と爆風をやり過ごす。

「がはっ――」

 矢のように吹き飛ばされた梨香は、コンクリートの壁面に叩きつけられ、空咳を吐いた。

 彼女の背中越し、壁に走った大きな亀裂が、その威力を克明に物語っている。

 崩れ落ちる梨香の姿を横目に眺めつつ、ふわりふわりと、分厚いスカートの裾を広げながら羽毛のように降下したミス・ロンリーは、優雅に着地を決める。

 ――正邪の奥義対決は、アルテミスに軍配が上がった。

 梨香の技は、完膚なきまでに押し負けたのだ……。

「うっ、うぅ……ッ!」

 激痛に凝り固まった体を叱咤して、強引に膝を起こす。

 魔人令嬢を睨む彼女の目には、大きく立ちはだかった現実の壁が映っていた。

 そもそも、誰に教えられるわけでもなく、残された書物を頼りに自力で三嶋流を極めた梨香の技は、ある意味、我流。

 それは例えるならば、食べたことのない複雑な料理を、写真だけ見て再現するようなもの。聴いたことのない難解な楽曲を譜面だけ見て演奏するようなもの。

 実物を見たことがない、実体を知らないことによって生じる乖離。

 物事には、決して言葉では語りえない、直接感じることによってのみでしか伝わらない深い部分というものが確実に存在する。それが叶わない場合、人は想像を膨らませ、自ら工夫して方法論を見い出し、独自の解釈によって欠けている部分を補うしかない。

 だが、それはやはり、良くも悪くも我流なのだ。

 自分流の解釈を加えた時点で、多く場合、本来の姿からは遠ざかってしまう。

 彼女は自分以外の者がこの奥義を紡ぎ出す瞬間を、初めて目にした。

 そして、思い知ったのだ……。


 これが、本物の〝焔旋風〟――。

 これこそが、由緒ある三嶋家に代々受け継がれてきた、秘伝の奥義――その本来あるべき形なのだと。


 今の一撃、素人からすれば、どちらも同じものに見えたことだろう。

 しかし当の梨香には、自らと魔人令嬢との間にある、雲泥の差とでも呼ぶべき隔たりが、はっきりと見えていた。

 同じ技でも、まるっきり質が違う。

 体の捻り方、タイミング、間合い、呼吸法、打ち出す刃の角度。

 その一つ一つが正確かつ完璧な仕上がりで、桁違いの錬度を誇っていた。



 ――……それと同時にもう一つ、判ったことがある。



 それは、ミス・ロンリーが間違いなく〝三嶋の血縁者〟であるということ。

 秘伝奥義である〝焔旋風〟を扱った以上、単なる門下生であったという線は消える。

 そう考えれば、無数にあった選択肢の幅は、かなり限定されてくる。


 そして導き出された、一つの可能性……。


 三嶋の一族にあって、これほどの腕前を誇り、多くを秘匿された謎の存在。

 彼女の推定年齢から察するに、梨香の知る限りで該当する人物は、唯一人。

 しかし、それは本来ありえないはずの可能性。

 あってはならないはずの可能性。


 病毒の女神・アルテミスの正体は――。


「ようやくわかったわ……」

 梨香は意を決して、口を開く。

「アナタはッ――」


 息を呑むように恐る恐る、されど威圧を込めて、言葉を紡ぐ。


「アナタのほんとうの名前は、〝伊織〟――」


 梨香は遂に、その解答を導き出した。



「――〝三嶋(みしま)伊織(いおり)〟ねッ……!」





次回、梨香とアルテミスの間に秘められた因縁、和明の見い出した“逆転の秘策”とは?

そして……隼人と祐樹は、遂に最後の男と囚われた女神の待つ頂上へ――。

乞うご期待。

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