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第十九章「金色の黄昏」

第十九章「金色の黄昏」

                  1


 ――距離にして、ほんの五、六メーター先。

 アーレスはマリファナの葉巻を吹かしながら、余裕の笑みを浮かべて立っていた。

「へぇ、まだ立つかよ。なかなか根性あるなぁ?」

「鍛え方が違うんだよ……」

 がらがらの声で強気な言葉を吐き、自らを奮い立たせる。

 しかし少し気を抜けば、すぐ倒れそうになる。

 足元が絶望的に覚束無い。

 骨を砕かれ、ぐにゃぐにゃにへし曲がった足では上手く体を支えることすら難しい。

 この上、走れるのか。

 どのみち、もうあまり長くは持ちそうにない。――

 鬼道は、琢磨のそんな様子を見て取って、なにやら面白い趣向を思いついたように嗤った。顎をしゃくってうまそうに煙を吹き、いけしゃあしゃあと言い渡す。

「俺まだ休憩してっからよぉ? ハンデとして十秒やるよ」

 琢磨は塞ぎかかった目の奥に光を宿した。

 手心を加えられるのは癪に障るが、ボロボロの身体にはお誂え向きだ。

 とうに限界を超えて体を動かしているせいか、頭の中に変なものが分泌されて、意識が焼けつくようにギラギラしていた。

「ケケケ。まっ、せいぜい足掻けよ……。ほら、カウント始めっぞー?」

 これが最後のチャンスだ。

 琢磨は意を決して、膝に力を溜めた。

 鬼道が口を開く。


『10――』

 瞬間、背後の壁を支えに使って、大きく前に脚を踏み出す。

 だが、着地の瞬間、足首がぐにゃりとあらぬ方に捻じ曲がって、一歩目から転倒した。

 アーレスはその姿を嘲笑いながら死のカウントダウンを続ける。

『――9』

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」

 琢磨は床に額を擦りつけ、必死に這いつくばりながら、なんとか立ち上がろうとするが身体に力が入らない。つま先一つほども思い通りにならない。激しい焦りが胸を突く。

『――8』

 背中を丸めてブランコを漕ぐように勢いをつけてから、なんとか起き上がる。

 床に足の裏を突いた瞬間、膝に激痛が走った。

『――7』

 折れた足の骨が、一歩踏み出すごとに、ざくざくと内側から肉に突き刺さっている。

 数歩進むごとに倒れ、よろけ、血を吐きながら、何とか前に進もうと立ち上がる。

『――6』

 琢磨は激しく血走った目で、前方を見据えた。

 遠い……。

 普通なら数秒とかからないはずの距離なのに。

 それが今はこんなにも遠い。思わず眩暈がするほどに。

『――5』

 景色が歪んでいく。

 不意に膝下から力が抜け落ち、琢磨はまたしても倒れた。

 そのままうつ伏せに力なく横たわり、過呼吸に陥ったように激しく息を吐く。

 疲労は限界に達していた。もう一歩も動けそうにない。

 大粒の汗を垂れ流しながら、ぎゅっと目を瞑ってこれ以上ないというほど苦悶する。

 もう時間がない。背後に死が迫る。

『――4』

「ぁあああああッ!!」

 琢磨はなり振り構わず腰をくねらせ、ばったばったと上半身を地面に打ちつけながら、魚が跳ねるように三歩ほど前進した。

 なんだお前、みっともねぇ。

 アーレスが腹を抱えて笑い転げる。

『――3』

 もうあと十歩足らずだ。

「はぁっ、はぁっ、はぁっ、くはぁっ……!」

 視界がぼやけ、滲んでいく景色の中、琢磨は意識も朦朧として、鬼道の姿を掴み取ろうと虚空に手を伸ばす。

「ハッ、さっさとくたばれ、死に損ないがッ! きめぇんだよお前!」

 動かなくなっていく体を引きずって、命を削りながら前に進もうとする琢磨の姿を、笑いながら、嘲りながら、アーレスは口汚く罵った。

 あと四歩……。あと、三歩……。

 背中を丸めて膝を折り、琢磨はしゃがみ込むような格好で、思い切り息を吸い込んだ。

 呼吸を留め、己のすべてを賭けて、一拍の間を作り出す。

『――1』


 そして踏み切りの瞬間。


「うぉおおおおおおおおおおおおおお――――ッ!!!!」

 断末魔のような咆哮とともに、琢磨は最後の力を振り絞って一気に跳躍した。

 飛び掛りながら、鬼道の喉笛へと手を伸ばす。

 ――あと、一歩。

 琢磨は声を振り絞って慟哭のような叫びを上げた。

「アーレスぅううううううううううう――――ッ!!!!」

 瞬間、琢磨の振り翳した指先が、悪鬼の首筋を僅かに掠めて虚空を掻く。

「ゼロ……」

 鬼道は両腕をばっと大きく広げ、歪んだ唇を耳元まで裂いて思いっきり哄笑した。

「キャッハァアーッ! タイムアップだ! 覚悟しろよぉおお、ゴキブリ野郎ぉおおおッ! 解体ショーの始まりだぜぇえええ――いいッ!!」

 長い舌で乾いた唇をべろべろと舐め回し、イタチのような眼で、獲物の姿を補足する。

「まずは……ッ」

 狂った頭で、瞬時に解体箇所を目算。

 刹那、アーレスは怒涛の勢いで殺戮を開始した。

「足から落とォおおおお――すッ!!」

 精製された真空の結晶が、鎌のように鋭く撓って体をなす。

「――惨殺・仏陀斬伐(ヘブンズ・キリング)ッ!!」

 突風が、サッと後ろ髪を払う程度のなめらかな手つきで通り抜ける。

 一瞬あと、両の太ももから細かい血飛沫が一直線に上がったかと思えば、次の瞬間、ガクッと、琢磨は空中で支えを失った。


〝!?〟


 スローモーションのように流れゆく景色の中、彼は自らの足元に茫然と目をやった。

 太ももの表面に付けられた引っ掻き傷ほどの僅かな裂け目が、次第に大きく、幅を、深度を広がっていき、脚が上半身からズレて行く。


〝――やっべ……〟


 刹那、張り詰めていた糸を断ち切ったように時間の感覚が戻り、切り離された脚が、くるくると回転しながら遥か後方へと吹き飛ばされて行った。

 激痛よりも、違和感の方が勝る。

 あまりに鋭く斬られたために、現実の方がまるで追いついていなかった。


〝――こいつは、さすがに……〟


 だるま落としのように、一瞬で、両足を失った琢磨は落下し、地面に叩きつけられる。

 そのときになってようやく傷口からバッと、鮮血の華が咲いた。

 視界が赤と黒に点滅を繰り返す。

 脚が焼け焦げるように熱い。

 切断されたはずの足の感覚が、まだ太ももから下に残っているのだ。

 現実と感覚の不一致に戸惑う。

「次はッ――」

 アーレスの声にぎょっとして、琢磨は顔を上げる。

「くっ……!?」

 霞みかける眼をキッと狭め、咄嗟に左腕を前に突き出した瞬間、鬼が嗤った。

「貰ったァアアアアア!!」

 叩きつけるような衝撃が全身を揺らし、汗と血でべったりと額に張り付いていた金髪が風に乱れてふさっと梳き通る。

 直後に激しい水音が鳴った。

〝ブシャァアア――……〟

 間欠泉のように噴出す血飛沫。

 左腕が、肩口からごっそりと抉り取られ、ちぎり飛ばされていた。

 そして。

「終わりだ」

 両足、左腕を失った琢磨の腹部に、間髪入れず真空の弾丸がどっと突き刺さる。

「っ――――――――――」

 くの字に折れ曲がった背筋、せり上がる眼球、驚愕に開け放たれた口。

 ――すべてを貪り尽くす真空の塊が、易々と琢磨の皮を、肉を、骨を、肉を、皮を、滅茶苦茶に破壊して、彼の胴体を貫き通す。

 完膚なきまでの致命傷。

 命を絶たれるその瞬間は、もはや悲鳴を上げることすらかなわなかった。

「ガ、ァ……ア……」

 琢磨は仰向けに倒れゆきながら、バケツをひっくり返したようにどばっと吐血する。

 夥しい鮮血が、噴水のように宙を舞い、雨のように降り注ぐ。

 返り血のシャワーを頭の先からびちゃびちゃと浴びながら、鬼道は長い舌を出して、彼の体から零れ落ちた生の証を味わっていた。

「けっ、しょっぺぇ血だぜ……」

 どさりと――。

 力尽きた琢磨が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。

 それっきり虚しい静謐が、辺りを包み込んだ。


                  3


 劇的に点滅を繰り返しながら、空間の裂け目を一気に駆け昇る。

 祐樹と二人、頂上を目指しながら、隼人は琢磨のことを想っていた。


〝足手纏いにはなりたくない――〟

 アルテミスとの戦いによって負傷した右腕が再起不能であることを告げ、雷遁の逆流現象について説明したあと、隼人は彼の口から、その覚悟を聞いた。

 勘の良い隼人はそれを聞いたとき、男が死ぬつもりであることを俄かに悟った。

 沈黙をぶら下げて引き止めるための言葉を模索する。

 そんな隼人の様子を見て取って、琢磨はふと、遮るように言ったのだ。

『なぁ、隼人。覚えてるか、俺たちの約束を……』

 桐生琢磨が、神崎隼人の仲間になった最初の日。

 隼人は、そのときのことを思い出す。

『最初のうちは、とっとと消えちまうつもりだったんだが、気づけば随分と長居しちまったなぁ……』

 そう言った琢磨は、あの日と同じように空を見上げながら、晴れやかな声で告げた。

『――隼人、オメェから盗むことももうなくなったぜ? これでお別れだ』

 神崎隼人は、桐生琢磨の過去を知らない。

 しかしその目に宿った意思の光を確かめて、彼は口を噤んだ。


 お前だけは引き止めてくれるな、と――。


 お前だけは躊躇うことなく見送ってくれ、と――。


 琢磨は懇々と、言外にそう訴えかけていたからだ。

「……」



 〝――桐生琢磨が、アーレスを倒す方法が一つだけある……〟


 しかし、隼人はそのことをずっと黙っていた。

 何故ならば――。

 それはまさしく、命を引き換えにする方法だったからだ。

 彼は自ら考え出した究極の戦術を、誰にも伝えず、そっと腹の中で握りつぶした。

 隼人は、琢磨が生き残る可能性に賭けたのだ。

 あいつがその答えに辿り着くことなく、勝ち目はないと知って逃げてくれれば、それに越したことはない。いくら琢磨とて、勝てる見込みがないと思えば、無意味に命を散らすようなことはしないはずだ。あいつはそこまで馬鹿じゃない。それに、逃げるだけなら、あの状態の琢磨でも十分に可能だと判断していた。

 しかし、それと同時に――。

 奴は恐らく、自力でその解を導き出すだろうという、確信があった……。


 いわばこれは、究極の卒業試験だ――。


 桐生琢磨が、神崎隼人から学んだことを最大限発揮して、その答えに辿り着けるか、否か――。そして……。

 合格は彼の死へと直結する。

 卒業は永遠の別れを意味する。

 だからこそ隼人は、心の底から、琢磨の落第を望んでいた。

 自らと過ごした日々を、彼がすべて無駄にしてくれることを祈っていた。


 神崎隼人は、桐生琢磨の生還を願っていた。


 しかし、隼人は決して言わなかった。口が裂けても言えなかった。

 琢磨にとってそれが、何よりの裏切り行為であることを知っていたからだ。

 隼人は立ち止まらない。振り返らない。

 あの男を悼むのは、俺の役割じゃない。

 自らに課された使命とは、すべてを置き去りにしてでも突き進むことだ。

 すべての悲しみを振り切って、頂上に至ることだ。

 それが琢磨と汲み交わした、最初で最後の、男の約束だった。

「――ッ」

 ただ、それでも。

 心の中では、誰よりも強く、懇々と念じ続けていた。


〝死ぬなよ、馬鹿野郎……!〟



                  4


 潮が引いたように、冷め切った空気が漂う。

 賑やかな祭りのあとの寂しさを彷彿とさせる、凛と澄み渡った虚しい情緒。

「……」

 アーレスはすっかり興味も失せた表情で、倒れた琢磨をじっと見下ろしていた。

 床に広がる血の海が、みるみるうちに真っ赤な輪郭を広げて行く。

「――――」

 琢磨はもはや、虫の息だった……。

 血の気の失せた表情で虚ろな視線を灰色の天井へと固定したまま、時折思い出したようにびくりと体を痙攣させるばかり。

 情けないほどに蚊細い吐息が、ひゅるひゅると音を立て、喉の奥から微かに漏れていた。

 もう起き上がることも出来ない。

 左腕と両脚を切断され、あとはアルテミスとの戦いによって焼け爛れた右腕が一本残っているだけだ。事実上、四肢の機能はすべて失われたことになる。

 そして、腹部から背中にかけて、ぽっかり穿たれた真空の弾創。

 内臓器官の損傷は深刻を通り越して、もはや絶望的だった。

 鬼道は指を、ぱちん、ぱちんと打ち鳴らして、10カウントを取ると、ほとほと見下げ果てたように失笑を漏らした。

「フン、他愛もねぇ」

 一度は地獄の底から這い上がって来たのだ。

 もう少しは耐えるかと思ったが、所詮この程度か。

 一気に興奮から醒めたアーレスは、ぞっとするほどの無表情で、どこまでも低く、冷徹な声を発した。

「仕上げだ……首を落とすぜ?」

 最後になけなしの恐怖心を煽ってやろうと、琢磨の目の前で轟々と真空の塊を練り上げて見せるが、既に彼の瞳はとりとめもなくあらぬ方角を向いていて、死を目前にしてもなんら反応を示さない。

 ――まったく面白くない。

 追い詰めた獲物の表情が恐怖と絶望に歪んでゆく様を好む鬼道にとって、もはや琢磨の存在価値など完全に皆無だった。

 一方的に募らせた失望と苛立ちを、狂鬼は、当然のことのように吐きつける。

「――くだらねぇ人生だったなあ、ゴミムシ野郎が!」

 唸りを上げてガリガリと虚空を貪り食う。

 獰猛な真空弾の手綱が放たれた。

「……ンン?」


 刹那の違和感。何かおかしい。


 そう思った、次の瞬間――。


「ひぎぃいッ!?」

 無刃の斬撃が肉を裂き、堰を切ったように血飛沫が上がる。

 琢磨の首からではなく、アーレスの体から……。


「ぐがあぁあぁぁあああああッ!?」


 鬼道は目を剥いて絶叫した。


 なんだ……。

 一体、何が起こった!?


 全身、至るところを風の刃に切り刻まれ、

「痛ッ――……」

 鬼道は激痛に悶えながら、ばったばったと地面をのたうちまわった。

「でぇえええええええええええ――――ッ!!」

 琢磨の首を撥ね飛ばすはずだった真空の塊が、放出した途端、一斉に四散。

 アーレスの意思に逆らうかのように、寄り合っていた幾つもの斬撃が好き勝手に飛び回り、術者であるはずの彼自身に猛然と斬り掛かって来たのだ。

「ぐぅうッ、……がぁはっ、はぁっ、はぁっ!」

 一頻り喚いたあと、ばりばりと床を引っ掻きながら、鬼道は身を起こす。

「クッソォオオ!! 一体ッ、何だってッ……――」

 刹那、さらなる異変が、アーレスを襲った。


〝!?〟


 ドクン――。


「がっ……」


 ドクン、ドクン、ドクンッ――。


 視界が、白みかける。

 鬼道は、猛烈な動悸に見舞われていた。

「ぁ、あぁ……っ――」

 思わず息が止まる。

 心臓が、肋骨を突き破って飛び出して来るんじゃないかと思うほど、バクバクと早鐘を打ち鳴らして暴れまわり、内側からの圧力で、身体中の血管がはちきれ、そのまま全身が張り裂けてしまいそうだ。

「グゥウッ、ゴガアァ……ッ」

 これまで経験したことのない異常な感覚に悶絶しながら、ぱったりと膝を折る。

 胸を押さえて蹲り、全身を硬く引き攣らせながら、鬼道は大粒の汗を滴らせる。

 あんぐりに開いた口からだらっと舌を出し、ヨダレを垂らしながら、必死で息をした。

 身体の内側から来る、強烈な異物感。まるで体内を無数の寄生虫が這いずりまわるかのようだ。血色を失った肌が、さっと総毛立つ。

 そのとき、背後から、酷くいがらっぽい声が立った。


「――悪趣味が祟ったな?」


 まるでその瞬間を、待ち構えていたかのような開口に、鬼道は血走った目を剥き、勢い良く振り返った。

「ぢぐじょう……ッ! テメェ、俺にッ、何しやがったッ!?」

 琢磨は力なく地面に横たわったまま、蒼白の顔を歪めて笑う。

「俺は何もしちゃあいねぇよ。全部テメェが勝手にやったことだ……」

「何ィッ!?」

 興奮するばかりで要領を得ない鬼道に、琢磨は呆れたような溜息を吐く。

「まだわからねぇのかよ、この馬鹿が……」

 そして、言った。



「――テメェが飲んだ俺の血にはよぉ、お仲間の毒がたっぷりと仕込まれていたんだぜ?」



「っ――!?」


〝アルテミスは『OLYMPOS』産・新開発の去勢薬だと語っていた〟

〝心臓で汚染された血液が全身に巡り、PSI波を司る神経系統に齟齬を発生させることによって、能力の発動プロセスを著しく狂わせているのだろうと隼人は分析した〟

〝毒自体の感染力もかなり強いらしいが、そちらに関しては疫病のように空気感染や接触感染の心配はなく、他者にうつすようなことはないという〟


〝――血液や、粘膜による接触にさえ、気をつけていれば――……〟



 鬼道は愕然とした表情で、言葉を失った。

〝――悪趣味が祟ったな?〟

 さっき投げかけられたその言葉が、今度は絶大な説得力と後悔を伴って激しく胸を突く。

「こういうことを、世間様じゃ何て言うか知ってるか?」

 琢磨は、自ら進んで罠にかかった鬼道の愚かさを、盛大に皮肉った。

「自業自得ってンだよ……。お前さん、もう能力は使えねーぜ? これで〝殺しの神様〟から、ちんけな殺人犯に格下げだ。残念だったな……?」


 ミス・ロンリーとの戦いにおいて、琢磨の心臓に打ち込まれた一発の弾丸――。

 そこから発生した未知の毒物によって彼は〝逆流現象〟に苦しめられることとなり、その結果、すべての力と技を封じられた。

 しかし、そこに起死回生の着想があった。琢磨は、自らの背負ったハンディキャップを逆手にとって、いわば同士討ちを演じさせたのだ。


 目には目を。歯には歯を。

 化け物じみた力には、化け物じみた力をぶつけて、相殺する。


 アルテミスの毒によって、アーレスの能力を封じるという奇策――。



〝血みどろの戦いは、すべて、このためのものだった――〟



 巨大な鏡面を思い切りハンマーで叩き割ったかのように、がらがらと音を立てて、アーレスの中で何かが崩れ去ってゆく。

 真っ赤に染まる波打ち際で。

 琢磨は寄せては返す死のさざなみから、最後まで逃れようと身を捩る。

「テメェにもう一つ、言っておきてぇことがあるんだ……。耳の穴かっぽじって、よぉく聞けぇ――」

 霞がかった瞳に涙を滲ませながら、彼は苦しげに息を荒くして、言葉を紡ぎ出した。

「――俺の人生は、くだらくなんかなかったぜっ……? あいつらと一緒にいられて、俺がどんなに幸せだったか……。テメェにはっ、わかんねぇだろうなぁ……。きっと一生かかったって、こんな気持ちになることはねぇだろうさ……っ」

「クソがァアアッ、黙れェエエ!!」

 鬼道は錯乱したように頭を抱え込み、わけのわからないことを喚き立てる。

「ざけんなよ……ちくしょう……ッ、俺の力を、返せッ……俺を返せよ」

 特殊能力という最大のアイデンティティーを失って、アーレスは忘我に暮れていた。

「――テメェも、可哀想な奴だな……」

 そう呟いた琢磨の表情には、小さく丸まって跪き、己という存在の希薄さにただただ震えている男への、哀れみと優越感が見て取れる。

「殺しだけが生き甲斐だなんて、寂しいだろ……。虚しいだろ……? 一人ぼっちの馬鹿騒ぎは、楽しかったか? 面白かったか?」

 琢磨の言葉が、情緒不安定に陥ったアーレスの神経を確実に削いでゆく。

「くぅっ、黙れ……」

「積み木で出来たお城を壊して、偉くなったような気がしたか? 小さなモノたちをたくさん殺して、強くなったような気がしたか……?」

 鬼道は堪らず耳を塞いで、幼い子供のように逆上した。

「黙れ、黙れ、黙れ、黙れぇええええ――ッ!!」

 琢磨は嗤った。

 これが最後だと、念を押すように。

 精一杯ふてぶてしく、思いっきりニヒルに。

「フフ……――やっぱ、持つべきものは仲間だなあ」

これ以上ないというほど憎しみを込めて、言ってやった。


「ぇえ……? はみだしモンで、嫌われモンの〝赤鬼さん〟よぉ?」


 瞬間、ぷっつりと音を立て、アーレスの中で何かが途切れた。

「――このッ、死に損ないがァアアアアア!!」

 額に太い血管を浮き上がらせて激昂した鬼道は、すかさず立ち上がると、倒れて動けなくなっている琢磨を滅茶苦茶に蹴飛ばした。

「ナメやがって、ナメやがって、ナメやがってぇええええええ!!」

 琢磨にはもはや、抵抗するだけの力もない。

「くっ、はぁっ――……!」

 傷口をげしげしと踏みつけられ、鈍く表情を引き攣らせながら、空咳を吐いた。

「フハハハッ!! テメェ、これでも勝ったつもりかよ!? 俺はまだまだ動けるぜぇ!?  テメェはどうなんだよッ!! ああッ!?」

 無抵抗な琢磨の顔面を靴底でぐりぐりと捻じりながら、アーレスが鋭い動作で懐から引き抜いたのは、折りたたみ式の大きなカミソリだった。

 凶悪なそのシルエットが、ギラリと薄闇の中、微光を照り返して光る。

 鬼道は不気味に声を落として、低く告げた。

「――簡単には逝かせねぇぞ。一寸刻みでギコギコと皮を剥ぎ落としながら、テメェの方から殺してくださいと泣き喚くまで、たっぷり生き地獄を味わせてやる。覚悟しろ……」

 琢磨は腫れ上がった顔を悲痛に歪めて、弱々しくも、不敵な笑みを浮かべて見せる。

「やって、みろよ……下衆ッ」

 開き切った瞳孔に修羅を宿したアーレスは、荒々しい動作ですばやくマンウントを取ると、琢磨の喉笛に思いっきり爪を立てて、ギリギリと首を絞めつけた。

 ごつい刃渡りのカミソリに、じゅるりと長い舌を這わせ、猟奇に満ちて笑う。

「――死ね……」

 ヒュッ――と、鮮やかに風を切り、振り下ろされる禍々しい凶刃の煌き。

 琢磨はそのときを悟って、静かに目蓋を下ろす。

 終わりだ。


〝!?〟


 瞬間、がくんと、不意にうたた寝から覚めるときのように鬼道の肩が大きく跳ねた。

 琢磨の顔面めがけて振り下ろされたカミソリの刃が、彼の鼻先、紙一重のところで静止している。まるで、見えない糸か何かに、反対方向から引っ張られているかのように。

「なっ――」

 驚いたのは鬼道の方だった。

 腕が、動かない。

 いや、腕だけじゃない。

『……ッ!?』

 全身の筋肉が金縛りにあったように硬直している。指一本動かすことが出来ない。

 視界が上下左右に激しく乱れ、頬の筋肉が痙攣して、ぎちぎちと奥歯が鳴っている。

「ガガッ、ギ、……な、んだ……こ、れ……ぇえ」

 辛うじて搾り出した声は、途切れ途切れで酷く震えていた。

「――――」

 琢磨はゆっくりと目蓋を開き、眼前で静止したカミソリの尖端を確認したあと。

 澄み渡った瞳で、驚愕に見開かれたアーレスの双眸を、真っ向から見据えた。

「ようやく掛かったな?」

 琢磨の表情を見て、鬼道ははたと金縛りの正体に気づく。


 これは、まさか――。



〝――電流が、流れているッ……?!〟



 手のひらから握り締めていたカミソリの柄がするっと抜け落ちる。

 琢磨は僅かに首を動かして、それを躱した。かちゃっと軽い金属音を立てて、床に転がる凶刃。しかし、鬼道には得物を手放してしまった失態を嘆く余裕なんてない。

 彼は滝のような冷や汗を滴らせながら、顔を真っ青にして最大の疑問を口にした。

「ばっ、馬鹿なッ……テメェ、能力は使えないはずじゃ!?」

「ああ、俺もそう思ってたさ……。だが物事ってのはよくよく考えてみるもんだぜ? 使えねぇ、使えねぇと思っていたが、実はそうじゃなかったんだ。テメェの仲間から貰ったこの毒はよぉ、――〝能力の逆流現象〟を引き起こすものであって、能力の発動自体を封じるものじゃねぇ……。ここに隠された意味が、テメェに解るかよ?」

 それは、同義という名の盲点。

 逆流現象の呪縛を背負ったまま能力を発動させるという行為は、そっくり そのまま自らの体を傷つけることに繋がる。故に、能力は使えない。いとも単純なロジックだ。

 しかし、そこには、抜け道があった。

「今、俺とお前は逆流現象に縛られ、共に能力を封じられた身だ。まぁ、言ってみればイーブンってやつさ……。だがな、ある特定の条件下においてのみ、俺の方が優勢になることがある。こいつは、他の能力にはない、雷遁だけが持つ特性ってやつでな?」

 炎にも、水にも、風にも、備わっていない。

 雷だけが持つ性質。


「ッ――!?」


 そこまで説明を受けて、頭の悪いアーレスもようやく理解した。

 自らが犯してしまった、あまりにも迂闊で、致命的なミス。

 愕然と見下ろした視線の先には、琢磨の首筋を締め上げる自らの掌があった――。

 ――これこそ、隠されたトラップ発動の、最終条件(トリガー)

 触れてしまった……。

 奴の身体に……。

 素手で、直接――。


 思わず表情を失う鬼道の耳に、琢磨から手向けの言葉が届く。

「お前、やっぱ馬鹿だろ? 結局、最後の一線までテメェで越えちまいやがった」


 伝導性の高い水分を多く含んだ人体は、電気をよく通す。

 そして、琢磨とアーレスは密着した状態にあった。

 導体同士が直に接触しあった今この状況は、電流にとってみればエナメル線を繋ぎ合わせたものと同義。逆流現象など関係ない。電気がどの向きにどう流れようとも、琢磨の体に流れた電流は、触れた部分を伝ってそっくりそのまま鬼道の体へと流れ込む。



 それが、――〝電気伝導〟の性質……!



 緻密な計算のもとに呼び寄せられた奇跡――。

 仕組まれた神殺しのシナリオ――。

 一発大逆転の秘策――。


 ――一見無害なものに仕掛けられ、間抜け【Booby】が触れると途端に炸裂する罠。

〝ブービー・トラップ〟――……!!!!



 自身にその原理を見い出した琢磨は、なんとかその条件下にアーレスを引きずり込もうと画策した。その上で最大の争点となったのは、やはり鬼道の持つ能力だった。

 真空を統べるあの能力がある限り、接近は難しい。

 そこでアルテミスの毒とアーレスの性癖を利用して敵の能力を封じ、その上で言葉巧みに鬼道を挑発、怒り狂った彼奴が自らの首筋に手をかけるよう、暗に誘導したのだ。


 ――死角に罠を張り、陽動を使って誘い込む。


 これぞまさしく、桐生琢磨が神崎隼人から学んだ(すべ)を駆使して練り上げた計画の全貌。

 すべてのピースは出揃った。

 あとは自らの意思によって、最後のトリガーを引くだけだ。

「ぐっ、あがっ……!」

 鬼道は電界の包囲から逃れようと必死で身を捩るが、電流によって神経系統を乱され動けない。焦りに焦って、ふと妙案を思いついたように言う。

「力が逆流する呪い自体は解けちゃいねぇんだろッ、俺を殺せば、テメェも死ぬぞ!! いいのかよ!? ああっ!?」

 この期に及んでそんなつまらないことを抜かすアーレスの低脳さに、琢磨はほとほと愛想を尽かす。結局この男は何もわかっていない。

 琢磨の作戦が、最初から、彼自身の死を前提として成り立っていたことなど――。

「……」

 彼は答えず、揺るがぬ双眸で、鬼道の怯えた眼差しを低く威圧した。

 沈黙は、何よりも雄弁に男の覚悟を物語っている。

 アーレスは顔面蒼白になって、気の抜けたような声を発した。

「お、おい。お前、なにマジになってんだよ……なぁ?」

 琢磨は最後に残った不自由な右腕を、ゆっくりと、虚空に向けて差し伸ばす。

 はらりと包帯がほどけて、真っ黒に焼け爛れた肌がアーレスの眼前に晒された。

「――ひぃっ!?」

 およそ人間のモノとは思えないような、赤黒く鱗のようにひび割れた手のひらが首元に迫り、鬼道はぎょっとして口元を引き攣らせる。

 彼はそのとき、生まれて初めて、身の毛のよだつような恐怖を味わっていた。

 これまで、何千、何万という人々を恐怖と絶望の渦に沈め、無残に殺めてきた邪神は今、迫り来る圧倒的な死の恐怖に、心の底から震え上がっていた。

「ざけんなよッ!! お前、ダッセェんだよッ! ぶっ殺してやるからなァアアア――」

 見苦しく錯乱し、泣き叫ぶように喚きたてる。

 琢磨はそんなアーレスの姿を、慈愛に満ちた表情で見据えていた。

 鬼道の首筋に這い寄った五本の指が、ぐっと爪を立てて、握り込まれてゆく。

「ッ――」

「くっ!?」

 琢磨は遂に、殺戮の神・アーレスの喉笛を捉えた。

 そのまま力を込めて大きく腕を伸ばし、マウントポジションを取られた状態から、圧し掛かった鬼道の体を、高々と掴み上げてゆく。

 まるで大いなる天下に、その罪の在り処を、まじまじと指し示すかの如く。

「ヴぅっ、があぁ……ッ」

 めりめりと首を締め上げられ、鬼道は苦しげに目を剥きながら、背筋を反らす。

 反対に、琢磨の首からアーレスの手が離れ、瞬間、形勢は完全に逆転した――。

 琢磨は電撃の出力を一気に引き上げる。

 バチバチと激しい音を立てて、稲妻のアークに巻かれたアーレスが、目から火花を噴出して絶叫する。



「ぐぅあああアァアア、ギッギギギギギィィイイ、ガガガガガガガァアア……――ッッ!!!!」



 せり上がる眼球、大きく開け放たれた口、だらっと垂れ下がった長い舌。

 全身の筋肉が激しい痙攣を繰り返し、血を――肉を――骨を――神経を――脳髄を、凄まじい電流の波が一斉に焼き払ってゆく。

 琢磨は凄然とスパークを繰り返し、一足先に地獄を味見するアーレスの姿をどこか遠く眺めながら、すうっと胸の奥に大きく息を吸い込んだ。

 そして、そっと目を閉じる。

「……」

 最後の一手――。



〝ゼロ距離からの放電自爆〟



 緋色の追憶が胸を過ぎる。

 一面瓦礫の山と化した街の中。

 たった一人、あてもなく彷徨い歩いたあの日の情景。

 自らが歩んできた十余年余りの軌跡。

 空っぽで、しかし満ちて、ぽつぽつと歩みを刻んだ少年の人生を。

 琢磨はただ穏やかに笑って、見送っていた。

 もう二度と、あの日に帰ることはないだろう。

 誠意を込めて、敬意を込めて。

 別れを告げる。



「――あばよ。虚しき断罪と、復讐に生きた俺……」



 そして、燃え上がる。

 すべてを砕き、焼き尽くす稲妻の息吹に、包まれる。

「―――っ」


華麗なる終焉エンチャント・エンディング――……電光殺華ライトニング・フォール


 劇的な雷鳴と共に、怒涛の勢いで散開した稲光が、深々と床に亀裂を走らせる。

 支柱が抉り倒され、壁は余すところなく四散し、ガラスは煌く粉塵となって宙を彩った。

 轟々と地響きを巻き起こして、フロアが崩落してゆく。

 床が一面、網目状に粉砕され、剥がれた瓦礫が、眩い光の中を重力に逆らって、次々と舞い上がる。埃も、破片も、土砂も、人も、みんな一緒になって舞い上がる。

 凄まじい閃光が、二人の輪郭さえ、曖昧に滲ませて。

 激しく火花を散らす黄金の輝きが、すべてを飲み込んだ。

 景色が溶け入り、世界からすべての音が消える。

 上下の感覚すら失せて、ただ眩いばかりの浮遊感の中。

 琢磨の胸元に下がっていたネックレスが、千切れ飛んだ拍子に、真鍮の蓋を跳ね上げる。

 カチッ……――と。

 堰を切ったように、流れ出す懐かしい旋律。

 精根尽き果てた心を癒し、傷だらけの体を優しく包み込んでくれるような古いオルゴールの音色が、囁くように、耳をくすぐった。

 黄金の光に抱かれながら、彼は夢を見る。

 ――――――……。


 白い、白い世界の果てに、琢磨は一人、立っていた。

 風も、詩も、景色もない。

 果てしない奥行きを感じさせる白い闇が、辺り一面をぼんやり覆っている。

 漫然とその光景を眺め、不意に、背後を振り返ってみたとき――。

「……!」

 そこにあったのは、彼が永らく待ち望んでいた面影。

 長い旅路の果てに、ようやく辿り着いた、その場所で。

 永遠とも呼べる刹那、彼は最愛の人々と、再会を果たした。



 父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん――……。



 三人は在りし日の姿のまま並び立って、最初からずっとここに居たというように、琢磨の姿を物言わず見守っていた。

 目が合うと、父は、最後まで戦い抜いた自らの息子に称賛を込めた首肯を贈り、

 母はその成長を喜ぶように目を細めて、ただ穏やかに笑っている。

 八重歯を覗かせてにっこり笑いかける姉の姿は、今や弟であるはずの彼よりも幼く。

 一人だけ歳を重ね、すっかり大人になってしまった少年は、照れたように下を向いて頭を掻いたあと、すっと胸を張って正面から向かい合った。

 あの日から十余年の歳月をかけて、歩き続けたことを誇るように。

 琢磨は精一杯の感謝と愛を込めて、立派な男へと成長したその頬に、ちょっぴり苦々しく、甘酸っぱい微笑みを浮かべてみせる。

 琢磨と三人との間には、何か見えない線が引かれているようで、触れ合うことは出来ない。行き交う言葉もない。

 それでも、彼らは強く結びついていた。

 これ以上ないというほど、通じ合っていた。

 もう二度と戻らない、過ぎ去った思い出の残滓。

 夢にまで見た、平穏で、幸せな家族との時間。

 笑いあう四人の姿が、次第に白く、白く、霞んでゆく。

 世界を作り上げていたオルゴールの旋律が鈍り、終わりのときが近づいていた。

 ささやかな幻が消えてゆく。


 あどけない夢の跡を、そっと、なぞるかのように。


 最後の音が、細く、優しく。


 昏々と尾を引いて、静謐に沁み入った――。


 …………。

 ――ぽつり、ぽつり、と。

 上階から滴り落ちる冷たい水滴が、涙のように頬を濡らす。

 崩落した瓦礫の山の上に、力なく横たわった琢磨は、激しい電熱と衝撃で飴細工のように変形してしまった真鍮の蓋をそっと閉じ、黒く焼け爛れた手のひらに握り締めた。

 それからごろんと仰向けになって、吹き抜けとなった高い天井を見上げる。

 瞬間、長い長い溜息が、口を突いて出た。

「終わった……」

 ぼんやりと虚空に視点を定めたまま、一人呟く。

 体じゅうから、すべての力が抜け落ちて、なんだか妙に清々しい気分だった。

 薄っすらと安堵の笑みを浮かべ、それからふと、首を捻って傍らに目をやる。

「――――」

 瓦礫の中に埋もれるような格好で、アーレスは力尽きていた。

 一見、恐怖と苦痛に歪んだ凄まじい形相をしているようだが、よくよく見ると、その死に顔は、どことなく穏やかなものに見える。

 生きているという実感の欠如に苦しみ、他者を殺めることで刹那的にその不安を紛らわせ続けてきた悪鬼は、皮肉なことに死の瞬間、これ以上ないというほど痛切に、ようやく自らの〝生〟を実感できたのだ。死という形で、彼は救われたのかもしれない。

 琢磨にとって些か不本意なことではあったが、もう、それもどうでもいいことだ。

 ……ただ。

 ――一つ、誤算があった。

 それは琢磨がこうして生き残ってしまったことだ。

 結果から言えば、彼は〝放電自爆〟に失敗していた。

 しかし、何故、アーレスは死んで、琢磨は死ななかったのか。

 それは、これまで散々桐生琢磨を翻弄しつづけて来た運命が、最後の最後で、ほんの少しだけ彼に味方した――わけではない。

 彼の脳裏には、既にその正しい解答が導き出されている。

 それは、単なる偶然が重なり合って生まれた、些細な齟齬――。


 鬼道の能力を封じるために、琢磨は大量の血を流した。

 腕や足を吹き飛ばされ、腹に致命傷まで負った。

 しかしその結果、毒に汚染された血液を限界まで抜いたことで、彼を縛る〝逆流現象〟の効果が、一時的に薄れたのだ。

 そして雷遁の制御を取り戻した琢磨は、それによってアーレスを仕留めた。

 皮肉なことに、死を大前提として積み上げた行動の結果が、首の皮一枚のところで彼の生命を繋ぎとめたのである。


 ふと、頭の片隅で、隼人が穏やかに笑ったような気がした。


〝まだまだ、詰が甘いな?〟


 琢磨はあの日と同じように、うんと晴れやかな含み笑いを浮かべて〝やっぱりまだまだ、お前には敵いそうにないや〟と、心の中で呟く。

 

 卒業試験は、不合格だった。

 また、一からやり直しだ……。

 今度は純粋にライバルとして。

 いつか必ず、隼人に勝ちたいと思う。


 隼人に対してだけじゃない。

 琢磨は、最愛の女性を思い浮かべる。

 ――梨香……。

 そういえば、まだちゃんと想いを伝えられていなかったな。

 彼女とは今後、男と女として、きちんと付き合ってみたい。

 帰ったら、今度こそ素直に、想いを打ち明けようと思う。

 ――真帆には、謝らないといけないな。

 冗談ばかり言ってからかったせいで、彼女とは若干距離が出来てしまっている。

 そのことをきちんと謝罪して、また一から正しい関係を築いていこう。

 ――祐樹や和明に関しては、これまでと変わらず。和明とは良き友人として、祐樹とは如何わしい悪友として、これまで以上に馬鹿騒ぎをやっていこう。

 面白おかしく一日中遊びまわって、一緒に酒でも飲めれば最高だろうなと思う。

「……」

 すべてを捨てて、死を決意したつもりだった。

 からっぽになって、死んで行くんだと思っていた。

 しかし、過去との決別を果たし、宿命の戦いを終えた今――。

 本来空っぽであるはずの彼の胸中は、宝石のように募った想いで、こんなにも溢れ返ってキラキラ輝いている。

 思い残すことがないなんて、とんでもない。

 悔いなんて山のようにあった。まだまだやり残したことがたくさんあった。


 そうして、不意に。

 あぁ、そうか――と、妙に神託めいた心地で、彼はその境地に至る。





〝なんだ……。俺もまだまだ、生きられンじゃねーかよ――……〟















すっかり最終回みたいな雰囲気になってしまいましたが、まだまだ続きます。これからクライマックスに向けての構成を練り直すため、来週はお休みです。

次回更新は再来週となります。それではまた。

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