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第十八章「追憶の果てに」

第十八章「追憶の果てに」

                  1


 ジリリリリリリリリリリ――……。

 目覚まし時計が鳴り響く。

 耳を劈くけたたましいベルの音を遮断しようと、布団を頭まで被る。

 音が遠ざかり、再び眠気がやって来た。

 目蓋の上がとろんと重たくなってくる。

 あと五分……。

 そのとき、どかどかと騒々しい足音を立てていつもの気配が近づいてくる。

 ぱぁんと、布団越しにいきなり背中を叩かれた。

「こらっ、タク! アンタいつまで寝とんの? 学校遅れるで。はよう起きんかぃ」

「んん……」

 俺はむずかり、耳を塞いで無理やり眠りに没入しようとする。

 途端、ばっと柔らかく熱を帯びた闇が取り払われ、凛と澄んだ朝の空気と窓から差し込む陽の光が、俺を苛んだ。

「うぅっ、もう~、なにすんねん~……」

 小鳥のさえずりが聞える。寝惚けた目を凝らして見上げると、白い光の中、剥ぎ取った布団を片手に、母ちゃんが眉間に皺を寄せてこちらを見下ろしていた。

「なんややあらへん。はよう支度しなさい」

 俺はいつものように駄々を捏ね、母ちゃんの手から布団を剥ぎ取ろうと手を伸ばす。

「イヤや……もぅ今日ガッコ休む」

 ぴしゃりと手の甲を叩かれ、厳しく叱咤された。

「なに寝惚けたこと言うとねん。ほら、さっさと顔あろうて来なさい。はよう!」

 しつこく促され、俺はしぶしぶベッドから這い出して寝癖だらけの頭を掻く。

 母ちゃんは室内をぐるりと見渡して、辟易したように溜息をついた。

「まったく、部屋ン中もこんなに散らかしてからに。ゆうべ片付けなさい言うたやろ」

「うるさいなー、朝っぱらからぁー……」

「言われんのが嫌やったらなぁ、明日っからは自分で起きぃや? 父ちゃんも姉ちゃんも皆そうしとるっちゅーに、アンタだけやで? こんな毎朝毎朝――」

 起き抜けで低血圧なところに、小言まで聞かされたんじゃ堪ったものじゃない。

 俺はささやかな抵抗として、唇を両端から引っ張り、イーッと歯を見せて言う。

「ぶよぶよばばあ~」

「なんやてぇ?」

 母ちゃんが鬼の形相になる前に、俺は素早くその脇を潜り抜けて、扉まで走った。

「わっはっは! ひゃっほぅーっ!」

「こらあっ、タクぅ! アンタ親に向かってなんちゅーこと言うねん! 待ちなさい!」 

 後ろから追いかけてくる母ちゃんの怒鳴り声を尻目に、俺は二段飛ばしで階段を勢い良く駆け下りた。不意に曲がり角で、どんと、前から来た背の高い人物とぶつかる。

「おっと……」

 父ちゃんだ。

 二階の方からは相変わらず母ちゃんの怒鳴り声が聞えていた。

「なんや騒々しいなぁ。琢磨ぁ~、お前また怒らせたんか?」

 俺は唇を尖らせてすっとぼける。

「知らんわい、勝手に怒ったんや」

 父ちゃんは苦笑して、俺の頭にぽんと手を置いた。

「あんまり母ちゃん怒らせんなや~? 俺にまでとばっちりが来るんやさかい」

「父ちゃん、また小遣い減らされたんか?」

「ああ。ホンマにかなわんわ~。あの中年ブロイラーには」

 父ちゃんと二人、顔をつき合わせてニシシと笑う。

 母ちゃんがどすどす足音を響かせながら階段を下りて来て、父ちゃんは慌ててリビングの方に逃げて行った。

 俺は洗面所に向かう。

 ドライヤーの音が聞こえる。

 制服姿の姉ちゃんが鏡の前で髪をブローしていた。

 俺はいつものようにドライヤーのコンセントを潜り、姉ちゃんと洗面台の間にぎゅうぎゅうと割って入る。冷たい水で顔を洗ったあと、鏡を見ると、姉ちゃんは髪の毛を弄りながらなにやらお気に召さない様子で思案顔をしていた。

「う~ん、なんか決まらへんなぁ~」

「別にいつも通りやん」

「子供にはわからへんのよ」

「自分だって子供のくせに……」

 生意気に口を出して、ぺしっと後頭部を叩かれる。

「ほら、タク。こっち向き」

 自分の髪をセットし終えた姉ちゃんは、指の先を水で濡らして、寝癖だらけの俺の頭を直してくれる。

「アンタの髪、ホンマに細くてサラサラやんな」

「ふふ~ん、羨ましいやろ?」

「ウチかて、タクちゃんぐらいのときは細くてサラサラやったもん」

「嘘つけ」

「ホンマや。子供の証拠なんやて」

「ちぇっ、またそれかよ」

 姉ちゃんはくすりと鼻を鳴らして笑いつつ、俺の髪を櫛で梳き、ドライヤーを当てたあと、長い襟足を結んでくれる。

「よーし、オッケー。かっこようなった」

 ぽんと両肩を叩かれ、俺はそそくさとリビングまで駆けて行く。

 父ちゃんはテーブルに着き、コーヒーを啜りながら朝刊を読んでいた。

 母ちゃんは台所とテーブルの間を行ったり来たり。朝食の入った器を運んでいる。

 俺が来て、姉ちゃんが来て。

 いつものように、料理を運び終えた母ちゃんがいちばん最後に席に着く。

『いただきまーす』

 桐生家では、こうして毎日、家族四人揃って賑やかに朝の食卓を取り囲む。

 ――父ちゃんは商社に勤めるサラリーマン。

 休みの日はゴルフに出かけたり、飲み会で夜遅くなったりして、母ちゃんにはいつも頭が上がらない。お小遣いは減らされる一方のようすだ。

 ――母ちゃんは、口煩くて怒りっぽいおばちゃん主婦。

 顔の小じわと腹のたるみを気にしていて、健康食品を買い漁るのが趣味。

昼間は近所のスーパーでパートをやっている。

 ――六つ年上の姉ちゃんは中学二年生。

 最近、彼氏が出来たらしくて妙に色気づいている。

 ……これが、俺の家族。

 たまには喧嘩もするが、ごく普通の仲の良い家族だった。


                  2


 家族と一緒のときは威勢良く振舞っていた俺だが、ひとたびランドセルを背負って家を出ると、途端に心細くなってしまう。

 そうして通学路を歩くうち、次第に肩は縮こまり、気持ちは小さく萎んで行った。

 俺にとって学校生活は、あまり楽しいものではなかったのだ。

「やーいやーい! かみなり小僧ーっ!」

「あいつ、ときどき体から変なの出すんだぜ?」

「あ、それ俺見たことあるぜ、ビリビリって黄色い光みたいなの!」

「妖怪だー、退治しろー」

 同級生たちからは、能力(ちから)のことで散々からかわれた。

 俺はこの力のことを人に知られるのが嫌で、なるべく隠し通そうとしていたのだれど、当時はまだ力の制御が上手く出来なくて、不意に感情が昂ったりすると、体内の電気エネルギーが外に漏れ出してしまうことがあった。

 まだ一般に特殊能力者の存在が知られる前のことで、妙な力を持った奴がいるという噂は瞬く間に広がり、俺は周囲から奇異な視線を向けられることになった。

 どうして俺だけに、こんな変な力があるんだろうと、あの頃は随分と悩んだものだ。

 父ちゃんや母ちゃんに尋ねても、気にすることはないと言うばかり。

 恐らくは俺も赤ん坊の頃、隼人や梨香たちと同じように、第二次特殊能力者開発実験を受けているはずだ。しかし何故、俺がその実験に参加したのか、そこに至るまでの詳しい経緯については定かじゃない。

 両親は、俺がもう少し大人になったら、すべてを話してくれるつもりだったのかもしれないが、今となってはそれも叶わないことだ。――

 同級生たちから浴びせられる嘲笑の声を、意識的にシャットアウトしながら、下を向いてとぼとぼ歩く。そこへ不意に割って入る声があった。

「こぉらぁー!」

 陽光の下できらきらと輝く。

 赤いランドセルに、おさげの長い髪。

 声の主を見て取ったいじめっ子たちは顔色を変えて慌て始めた。

「げっ、ミツキだ」「あいつ、空手習ってるんだってよ」「にっ、逃げろー!」

 少女の乱入に、いじめっ子たちは蜘蛛の子を散らすように逃げて行く。

「あとで先生に言いつけるからなぁー! あほー!」

 ぶんぶん腕を振り回しながらそう怒鳴って、同級生たちを追い払ってしまった少女は、それからくるりと振り返って、俺のところまで走ってきた。

「たっくん、大丈夫か? また嫌なこと言われたんやろ?」

 ミツキ……。

 みっちゃん……。

 懐かしいな。

 両親や姉の面影は、たった一枚だけ残った家族写真の中で見ることが出来るが、彼女の姿はおぼろげな記憶の中にしかない。今となっては遠い面影だ。

「ええねん、別に。そんな気にしてへんし……」

「しっかりしぃや? 男ン子やろ? バーンと言い返したったらええねん。な?」

「うん……」

 ――ミツキは、俺にとってたった一人の友達だった。

 俺たちは同じクラスだったが、〝ビリビリニンゲン〟や〝かみなり小僧〟などと揶揄されていた俺とは違い、ミツキはクラスでも一番の人気者だった。

 勉強も運動もよく出来たし、明るくて元気で、可愛くて、みんなから慕われていた。

 そんな彼女が、どうして俺なんかと親しくしてくれたのかはわからない。

 俺なんかの何が気に入ったのかは知らないが、ミツキはよく世話を焼いてくれた。

 俺が同級生の連中にからかわれているといつも助けてくれたし、仲間外れにされたときは一緒のグループに入れてくれた。俺が一人で歩いているところを見かけると、決まって声をかけてくれたし、学校帰りに一緒に遊ぶことも多かった。休みの日に、彼女の家へ遊びに行ったこともある。

 俺なんかと仲良くしているせいで、そのうち彼女までからかわれるようになって、恥ずかしい思いをしたに違いない。けれど、ミツキはいつも堂々としていた。

 なんだか俺の方が居た堪れなくなってしまって、「あんまり仲良くしない方がいいんじゃないか」と言ったときは「なんでそんなこと言うの?」とすごい勢いで怒られた。

「――みっちゃん、あんなん気にしてへんよ? たっくんと一緒におったからゆうて、なんにも悪いことない。そんなん色々言うやつがおかしいんや。たっくんは、みっちゃんとおっても楽しゅうないか?」

「俺かて、ホンマみっちゃんと一緒におりたいけど……」

「せやったら気にすることないやん」

「う~ん、けどなぁ……」

「もぉ~、たっくんはホンマに弱虫やんな~。そんなんじゃ女の子にモテへんよ?」

「別に。ええよ、俺なんか……」

「将来、結婚出来んでもええの?」

「したぁないもん……」

「はぁ~、しゃあないな~。ほんなら、みっちゃんがたっくんのお嫁さんになったるわ。それやったらずっと一緒におれるし、いつでもたっくんを守ったれるやろ? それにもう誰からも文句言われへんやん?」

 ええ考えやろ、と言ってミツキは相好を崩す。

 俺はそんな彼女の姿を見て、素直にかっこいいと思っていた。

 あの頃は俺も幼くて、自分の気持ちすらよくわかっていなかったけれど、今にして思えば、俺はたぶん、ミツキのことが好きだったんだと思う。

 梨香に惹かれたのだって、よくよく考えてみれば、甲斐甲斐しく真帆の世話を焼く彼女の姿に、どことなくミツキの面影を重ねあわせていたのが始まりだったような気がする。

 憂鬱な学校生活の中で、彼女の存在だけが俺にとって唯一の救いだったのだ。

 ――なんてことのない一日の授業過程を終え、その日も俺は、ミツキと一緒に下校した。

 帰りに駄菓子屋に立ち寄り、それから公園に行ってしばらくブランコなど漕いで遊んだあと、いつものように「また明日」と手を振って別れる。

 家に帰ると、母ちゃんが晩御飯の支度を始めていて、日が暮れた頃に姉ちゃんが帰って来た。父ちゃんは仕事の都合で遅くなるということだったので、三人で夕食を取り、適当に時間を潰したあと、風呂に入って身支度を整え、夜の十一時頃には床に就いた。


 ……こうして、桐生琢磨が幸せであった日々は呆気なく終わりを告げる。

 最後の夜、俺は何を思って眠りに落ちたのか、まるで覚えていない。

 恐らくは何も思うところなどなかったのだろう。

 一日が終わる都度、大きな感慨に浸っている人間などそうそういない。

 明日世界が終わるかもしれないと考えながら今日を生きる人間などいない。

 皆、当たり前のように信じているからだ。

 何の変哲もない日常が、これから先もずっと続いていくのだろうと。

 俺も信じて疑わなかった。

 今日が、昨日と変わらない一日であったように。

 今日と変わらない『明日』が、朝陽を連れてまたここにやって来るのだと。

 何の根拠もなく、当たり前のようにそう考えていたんだ……――。


                  3


「……ん?」

 その日の深夜、自室のベッドではたと目を覚ました俺は、外がやけに騒がしいことに気がついた。救急車に、消防車に、パトカー。その他、様々なサイレンの音がいくつも重なり合って、街のあちらこちらから一斉に聞こえている。

 強風にガタガタと窓が鳴って、なにやら遠くの方から、ゴーッという低い唸り声のような音が響いていた。電柱に設置された町内放送用スピーカーからは、延々とアナウンスが流れ続けているが、酷く音割れして何を言っているのか聞き取れない。

 異様な雰囲気を感じて、ベッドから身を起こす。

 床に降り立つと、足の裏に細かい振動が伝わってきた。

 地震……?

 刹那、どかどかと階段を駆け上がってくる慌ただしい足音。

 蹴り破られるような勢いで入り口の扉が開け放たれ、血相を変えた父ちゃんが飛び込んで来た。

「琢磨っ!!」

 俺はわけもわからないまま、大慌てで父ちゃんに抱きかかえられ、転がり落ちるように一階まで下りて来た。

 リビングに赴くと、そこには母ちゃんと姉ちゃんがいた。

 二人とも真っ青な顔をして、凄然と喚き立てている。

 一体、何があったんだろう。

 事情を把握できていない俺一人を蚊帳の外にして、父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃんが怒ったような大声で激しく言い争いを始めた。

「車は!?」「あかん、追いつかれる!」「ほんなら、どこに逃げたらええの!?」

 何のことかはさっぱりわからなかったが、只ならぬ雰囲気だけは嫌というほど伝わって来て、俺はわけもわからず怯えていた。

 ふと点けっ放しになっていたテレビを観れば、真っ赤なフォントで『緊急速報』の文字が呪いのように張り付いている。

 映し出される映像を見て、唖然とした。

 民家が――ビルが――次々と破壊され、突風に巻き上げられている。

 滅茶苦茶になっているのは、特撮番組でよくあるミニチュアじゃない。

 本物の、人が住んでいる街だ。

 アルミ缶のように潰れた車、割れた窓ガラス、倒れた電柱、地面の亀裂から噴出す水飛沫、湧きあがる炎、立ちのぼる黒煙、残骸と瓦礫と死体の山々。

 怪我をして倒れた人々の群れと、それを救護するべく走り回る隊員たち。

 逃げ惑う人々の間からは悲鳴と怒号が滅茶苦茶になって交差し、街全体が、空前絶後の恐慌状態にあった。

 ヘリコプターからの映像では、雲の上まである巨大な竜巻がいくつも乱立し、禍々しく崩壊の渦を巻いている。その数は十や二十じゃない。信じられない数だ。

〝街が、大変なことになっている……〟

 幼い頭で、俺は漠然とそう感じていた。

 そして、どうやら被害に遭っているのは近畿地方だけではないらしい。

 画面は転々と切り替わり、全国各地からの映像を中継する。

 火砕流に飲み込まれる街、ビルやタワーが猛然と空から降り注ぐ街。

 あるところでは狂乱した数万人の市民が街中を暴れまわり、あるところでは特殊な防護服を身に纏った隊員たちが駆けずり回っていて、謎の伝染病が発生しているという。

 全国各地で一斉に謎の大災害が発生し、日本中が死の暗雲に覆われていた。

 レポーターは、物凄い早口でひっきりなしに捲くし立て、各地の被害状況やテロリストから犯行声明があったことなどを伝えているが、まだ十歳にも満たない俺の頭で理解できるような情報は少なかった。

 これは夢だ。

 本当の俺は今まだベッドの中にいて、悪い夢を見ているだけなんだ。

 そう思いたかった。

 そうであって欲しかった。

 刹那、テレビの画面に一瞬大きな亀裂が走ったかと思えば、次の瞬間すべての映像が途切れ、画面は点滅を繰り返す、白と黒の砂嵐に変わった。


 ザ――――――ッ、――……!!!!


 呪いのようなその映像を、俺は茫然と口を開けたまま真っ白な頭で見つめている。

 そしてバチッと、電線がショートするような音とともに室内が暗転した。

「停電か!?」

 父ちゃんが焦燥を滲ませた声で言う。

 真っ暗になったリビングを、じりじりと腹の底を焦がしてゆくような静謐が包み込み、母ちゃんや姉ちゃんの不安な息遣いが切々と胸に迫る。

 次第に目が慣れ、暗闇の中に少しずつ世界が形作られてゆく。

 次の瞬間――。

 叩きつけるような勢いで家中の窓ガラスが一斉に破砕し、猛烈な風が部屋の中までびょうびょうと吹き込んできた。

「きゃあああッ!!」

「ヌゥッ!?」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ……――!!!!

 大地が震撼する。

 天が落ちてくるかのような轟音が、地響きを伴って足元に迫る。

 大気がぴりぴりと肌を刺し、吹き荒れる突風が室内の備品を滅茶苦茶に薙ぎ倒した。

〝何か来る……。途轍もなく巨大な何かが――!〟

 めきめき、ばきばきと。

 どこかで生木の裂ける音、何かが激しく崩落するような音が聞こえてくる。

 俺は夢遊病患者のように覚束無い足取りで、窓際まで歩き出した。

 ばさばさと捲れ上がったカーテンの下を潜り、

 吹き荒ぶ風の合間に、それを見た。

「――――」

 轟然と渦を巻く分厚い暗雲。

 螺旋状に大きく捻じ切られた真っ黒な空。

 数軒立ち並んだ民家の屋根の向こうに。

 凄まじい勢力を誇る竜巻が、猛然と街並みを呑み込みながら接近していた。

 ぶちぶちと電線がちぎれ、根元から折れた電柱が、細い枯れ枝のように吹き飛ばされてゆく。民家のトタン屋根が剥がれて、枯葉のように宙を舞った。

 猛威を振るう超自然災害。

 人も、木も、車も、建物も、まるで塵芥のように一切合財、吹き上げられて。

 縦横無尽に辺りを飛び交いながら、猛烈な勢いで吸い込まれてゆく。

 竜巻を構成する小さな粒子に目を凝らせば、それらはすべて、飲み込まれたモノたちの哀れな残骸だった。

 巨大な渦の幹は、街を貪り喰いながら肥太り、無尽蔵にその勢力を拡大している。

 テレビで見るのとは桁違いの規模と迫力に、思わず言葉を失った。

 圧倒的な脅威の存在を目の前に、まるで自分が一介の砂粒になってしまったかのような錯覚に陥る。床が暴れ馬のように激震し、建物が大きく歪曲する。

 俺はすっかり腰が抜けてしまって、ぺたんとその場に座り込んだ。

「タク!!」

 瞬間、姉ちゃんが後ろから飛びついてきて、俺は背中から抱きとめられた。

 しかし俺の視線は、空に聳え立った巨大な風の渦へと向けられたまま。

 壊れた窓の外を指差して、呆然と尋ねる。

「姉ちゃん……。アレ、何なん……?」

「っ……!」

 姉ちゃんは答えず、俺の背中にぎゅっと顔を押し付けたまま小さく震えていた。

 父ちゃんと母ちゃんも、窓の外に迫り来るそれを見て、呆然と立ち尽くしていた。

 そして、瞬間、背中を思いっきり弾かれるように。

「こっちやッ!!」

 父ちゃんが叫んで走り出し、

「あけみぃい! タクぅう!」

 母ちゃんは僕と姉ちゃんの名前を呼んでから父ちゃんのあとに続いた。

 俺は泣きじゃくる姉ちゃんにしっかりと手を引かれ、最後尾を走った。

 向かった先はキッチンの奥。

 父ちゃんが一心不乱に手をかけたのは、床下収納庫の蓋だった。

 急いで戸を開け、中に詰め込まれていた物を片っ端から放り出してゆく。

 そうして空になった床下収納庫のスペースは、呆気ないほど小さくて、大人一人も隠れることはままならない。

 しかし、それでも幼い子供一人くらいなら……。

「琢磨!」

 咄嗟に脇を抱えられ、俺はその穴の中に下ろされた。

「父ちゃんっ!!」

 俺は恐ろしくなって、穴の中から父の顔を見上げる。

「ここに隠れてるんや! 動いたらあかん!」

 父の表情は悲壮に満ち、心の底から何か熱い感情を訴えかけていた。

 俺は心細くて、首を横に振りながら、必死に助けを求めようと母を見る。

「母ちゃんっ!!」

 母は目に一杯涙を浮かべながら、俺の肩を抱いた。

「タク。母ちゃんがええ言うまで、絶対そこから出たらあかんで? じっとしとるんや。ええな!? わかったな!? 約束やで!?」

 キッチンカウンターの上から一枚の写真立てを取り、素早く俺の手に握らせる。

「大丈夫や……! 父ちゃんも母ちゃんも姉ちゃんも、みんな一緒におる。なんも心配することない。ちょっとぐらい辛いことがあっても我慢しなさい。そんでも、どうしてもダメなときは、父ちゃんや母ちゃんのことを思い出しぃ? 母ちゃんたちは、もし見えんようになっても、ずっとアンタの傍におるからな?」

 幼心に別れを悟って、涙が溢れ出した。

 握り締めた写真立てを胸にぎゅっと抱き締める。

 姉ちゃんは後ろの方で、父の肩に枝垂れかかり泣いていた。

 怖かったに違いない。俺より年上とはいえ、まだ中学生の女の子なのだ。

 それでも情けなく泣いている俺を見ると、十四歳の少女は最後の最後に、姉としての気勢を精一杯振り絞って、叫んだ。

「タクぅ! 泣いたらあかん! 男ン子やろ! 強くなりぃ!」

 答えなければ。きっとこれが、最後になる。

 俺は止め処なく流れ出る涙を必死に拭った。

「……はぁいっ!」

 途端、バキバキと一際大きな音が耳を突く。

 家が、崩れ始めている。

「時間がないっ、閉めるぞッ……!」

 父の一声とともに、蓋が下ろされる。

 崩れ落ちる天井。降り注ぐ土砂の濁流。

 視界が闇に閉ざされてゆく。

 嵐の中に、遠ざかる家族の背中。

 最後の一瞬、寄り添いあった三人の影が。

 微かにこちらを振り返って、笑ったような気がした。

「父ちゃんっ! 母ちゃんっ! 姉ちゃんっ!」

 俺の叫びは、直後に襲い掛かった衝撃と轟音の渦に呑み込まれ――。

 ――家族の姿も、風に吹き上げられた埃の中、空の果てへと消えてしまった……。


                  4


「んっ――……」

 翌日、息苦しさと喉の渇きを覚えて、俺は目を覚ました。

 一体、どのくらい意識を失っていたのだろうか。

 口の中はざらざらで、喉はからからに干上がっている。

 真っ赤に泣き腫らした目が、ちかちか痛い。

 ふと気づけば、狭くて暗い穴の中に、細長い光の糸が一本、煌々と垂れていた。

 膝を抱えて横たわったまま、小さく身を捩って上を向く。

 頭上の蓋が壊れ、そこにぽっかりと穴が開いていた。

 外はどうなったのだろう。

 蓋に手を伸ばそうとして、一瞬、躊躇する。

 母ちゃんから声がかかるまでは、じっとしているという約束だった。

 しかし、やはり外の様子が気になる。

 父ちゃんや母ちゃんや姉ちゃんは、あのあとどうなったのか。

 確かめなければ……。

 俺は念のため、穴の中に蹲ったまま、耳を澄まして周囲の気配を窺った。

 風の音はおろか、何の物音もしない。

 聞えて来るのは、自らの荒い息遣いと衣擦れの音だけ。

 よし……。

 手を伸ばす。

 ごくりと、唾を飲む。

 俺は意を決して頭上の蓋を取り払い、穴の中から顔を出した。

「っ……!」

 真っ青に突き抜けた空。天辺にはりついた日輪。

 ギラギラと照りつける陽光が、暗所に慣れた網膜に焼きつき、軽い眩暈を覚える。

 一瞬、真っ白に染まった視界がゆっくりと回復に向かい、俺は目頭を押さえつつ顔を上げ、辺りを見渡した。

「――――」

 緩やかな午後の風が、物言わず通り抜けてゆく。

 見渡す限り、一面の荒野が広がっていた。

 延々と積み重なった瓦礫と残骸の山。

 人々が幸せに暮らしていた日々の、儚い夢の跡。

 終わってしまった……。

 何もかも……。

 胸中には、己のちいささを思い知る心と虚しさだけがあった。

 俺はしばらく立ち尽くしたあと、気の抜けた足取りで歩き出す。

 そこらじゅうに投げ出された家財は、破れ、砕け、泥ですっかり汚れてしまっていた。

 昨日まで当然のようにあった景色が跡形もなく崩れ去っていて、街はかつての面影を露ほども残してはいない。

 崩れた家屋が地面を覆い隠してしまって、もはやどこが道路で、どこが人の家だったのかさえわからなくなっていた。

 瓦礫を踏みしめて歩くたび、在りし日の情景が、次々とフラッシュバックしては泡沫のように消えてゆく。

 地平線を見渡せば、遠くの方でところどころ、燃えかすのような細い煙が、ぼーっと立ち昇っていた。空はこんなにも高く、大地はこんなにも広かったのかと、何も考えられない頭で薄っすらと思う。

 何かに酔ったみたいに、目の前がくらくらと、とりとめもなく揺れていた。

 変わり果てた街を、あてもなく彷徨い歩く。

 原型を留めた建造物はほとんどない。運の良い家屋の中にはかろうじて立体を守っている物もあったが、それでももはや人が立ち入れるような有様ではなかった。

 ふと足の裏に何か柔らかい物を踏んづけたような感触があった。

 足を上げてみると、それは人の腕だった。

 崩れ落ちた屋根の下から力なく伸びていて、黒ずんだ血の流れが何本か、蛇のようにうねって地面を伝っている。

 思わず腰を抜かして倒れ込み、途端に怖くなってすぐさま逃げ出した。

 意識してみれば、それはいくつも見つかった。

 山積した瓦礫の中に埋もれるようにして、たくさんの死体が転がっている。

 既に人の形をしていないものや、千切れた四肢も散見された。

 生きている人の数よりも、死んでいる者の方が圧倒的に多い。

 怖くて怖くて逃げ出した先、ふと瓦礫の中に蹲る見知った人影を見つけた。

 ぼろぼろの衣服に身を包んだ妙齢の女性。

 ミツキの家に遊びに行ったとき、何度か顔をあわせたことがある。

 彼女の母親だ。

「おばさん……」

 ようやく見知った人とめぐり逢えて、俺は少しばかり安堵していた。

 近寄って声をかけようと思ったとき、不意に、おばさんの肩が小さく震えていることに気がついた。

 おばさんは泣いていた。

 胸に何かを抱えている。

 大切そうに、いとおしむように。

「――……っ!?」


 おばさんは、既に息をしていないミツキの(むくろ)を抱いて、静かに涙を溢していた……。


「うわぁああああああああああああああああ――――――っ!!!!」

 瞬間、俺は弾かれるように駆け出していた。

 嘘だ……嘘だ……。

 こんなの嘘だ!!

 何かの間違いに決まってる。これはきっと、夢なんだ。

 やっぱり僕はベッドの中にいて、悪い夢を見ているに違いない。

 夢なら早く覚めてくれ。

 早く……早く覚めてくれよぉ!!

 嫌だ……!

 嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ――。


〝此処は地獄だ――〟


 どこをどう走ったのかもよくわからない。

 後にも先にも道はなし。

 気づけば、いつの間にか陽が傾きかけていた。

「うっ、うぅっ、くっ……!」

 緋色の世界が、涙で滲んで掠れてゆく。

 裸足のまま瓦礫の上を走ったせいで、足の裏は血だらけになっていた。

 息は切れ、喉は嗄れ。

 不意に躓いて、俺は派手に山積した破片を巻き込みながら地面を転がった。

 体の痛みなど気にならないほど、胸がばらばらに張り裂けそうだった。

 みっちゃん……。

 空に帰ったあの子のことを思い、腹の底から咽び泣く。

 震える細い手足に力を込めて、負け犬のように這い蹲る。

 ぼとりと、お腹に入れていた写真立てが服の隙間から抜け落ちて、ひび割れた。

 家族の肖像が、夕陽の光をキラキラと照り返して輝く。

 俺は堪らず掴み取り、自らの肩を掻き抱くようにして幸福の残滓を抱え込んだ。

 父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん……。

 一つ、また一つと消えてゆく光。

 みんな、みんな、いなくなってしまった。

 俺だけが死ななかった。

 俺一人が生き残った。

 たぶんそれは、九死に一生の奇跡だったのだろう。

 だが、俺は、奇跡なんて欲しくなかった。

 たった一人生き残って、これからどうやって生きて行けばいいのだろう。

 こんな細く頼りない体のどこに力を入れて立ち、どこに歩いて行けばいいのだろう。

 ちっぽけな頭の上に、漠然とした灰色の未来が、重たく圧し掛かっていた。

 崩れ落ちた教会の跡に、大きな十字架が斜めになって突き立っている。

 夕焼けに染まる十字架の前で、俺はこの世界を、己の弱さを呪った。

「ちくしょうッ……! なんで、なんでこんな……ッ!」

 硬い地面を、握り締めた拳で何度も叩く。

 弱さゆえに、生き残った。

 幼さゆえに、呪詛の言葉すら上手く浮かんでこない。

「嫌だ……。助けて……っ」

 俺はその日、声を上げて泣いた。

 日が暮れるまで、声を嗄らして、獣のように慟哭した。

 地表を撫でるように通り抜ける夕凪の乾いた風が、滴り落ちる涙の粒を運び去ってしまう。やがて、逃れられない夜の闇がやって来た。

 眠っても眠っても消えない面影に苛まれ、冷気を帯びた風に晒され続けるうち、心の中まで、灰色に冷え固まっていった。


 ――父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん、みっちゃん……。

 誰かに守られる生き方はもうごめんだ。

 愛する者を失うのは、もうたくさんだ。

 だから俺は、誰にも頼らない。

 誰のことも信用しない。

 誰のことも愛さない。

 俺は一人で生きて行く。

 少年は、群れを作らぬ狼として、地獄を生きることを誓った……。


                  5


 月日は流れ、あの日から六年が経った――。

〝特殊能力者〟の存在が明るみになって以降、世界は目まぐるしく流転した。

 全国各地で大災害を引き起こした能力者たちに、日本政府は為す術もなく白旗を上げ、この国は事実上の独裁統治となった。

 テロリストのメンバーを中心として『OLYMPOS(オリュンポス)』が設立され、あの馬鹿でかい塔が建てられた。

 俺はその頃、生き残った者たちが一路、首都圏を目指す流れに乗って上京した。

 俺と同じように、あの災害で孤児になった子供なんて、それこそ吐いて捨てるほどいた。

 救済の手など差し伸べられることもなく、誰からも見向きもされないまま、俺は一人、貧民街の片隅で野良犬のように生きていた。

 そしてあるとき、特殊能力の存在を知った俺は、自らにもその力があるということに気づいて、はっとした。

 自分以外にも同じような力を持った人間がいるということを、そこで初めて知ったのだ。そして、その者たちがあの災害を引き起こしたのだと知って、今度は怒りに燃えた。

 まず、近畿地方を占領したのが〝アーレス〟という男だと情報を得た俺は、その男への復讐を最優先事項に掲げた。

 俺の人生を滅茶苦茶にして、両親と、姉と、少女の命を奪った張本人。

 どんな手を使ってでも必ず追い詰め、これ以上ないというほど残酷な形で、ブチ殺してやると心に誓った。

 そして、その男を殺したら、次は仲間の連中だ。

 あのテロに関わった奴らは、一匹残らず、皆殺しにしてやる。

 この身に宿った力は、そのためのモノだったのだと、神託を得た心地だった。

 やがて、少年は裏街道を駆け抜け、凶刃のような佇まいに変貌してゆく。

 復讐という命題を得たことで、凄まじいエネルギーが俺を突き動かしていた。

 これまで劣等感しか抱いてこなかったこの力を存分に発揮して、無茶苦茶に暴れまわった。人と物で溢れかえった貧民街の中、常に居場所を転々としつつ、

 ――盗み、奪い、踏み躙り、暴力を行使して、他人を傷つけることも躊躇わなかった。

 そうして手のひらを汚すたび、心の中で大切なものが次々と壊れてゆくのを感じながらも、俺は止まらなかった。

 復讐こそは、我が命――。

 俺は人であることを捨て、鬼になろうとしていた。

 仇敵を殺す瞬間のことばかりを思い、毎日を過ごした。

 もはや、金と力以外のものは何もいらない。ひたすら己を研ぎ澄まし、復讐を成し遂げるための禍々しい凶器へと、自分を作り変えて行った。

 そして、いつしか俺は『金髪の悪魔』や『黄色い閃光』などと呼ばれ、街の悪党どもから恐れられるようになっていた。


〝雷を操り、暗黒街を荒らしまわる、神出鬼没の特殊能力者――〟


 俺に関する噂話は、胡乱な輩たちの間でまことしやかに囁かれ。

 ――遂に、あの男がやって来た……。

神崎隼人(かんざきはやと)

 奴との出会いによって、俺の人生は第二の転機を迎えることになる――。


 ……最初の邂逅は、泥のような夜闇が支配する、暗黒街の細い路地だった。

 俺はいつものように、最近勢いづいていたゴロツキを十人ほどまとめて叩き潰し、そいつらから奪った金を数えていた。

 復讐のためには金がいる。

 その頃の俺は、専ら資金稼ぎに奔走していた。

 か弱く善良な貧乏人に用はない。

 悪事に従事し、甘い汁を吸ってたんまり肥太った輩こそ、俺にとっては格好の獲物だった。相手がどれだけの手下を抱え、権力を握っているかなんて問題じゃない。

 能力者である俺は無敵だった。

 いくら腕利きの用心棒を雇っていようが、所詮は普通人だ。十や二十、束になって掛かって来たところで、俺に指一本触れることは出来ない。

 次から次へと目星をつけた悪党を締め上げ、俺の手元には、既に数百万ほどの現金があった。

 しかし、相手は雲の上まで聳え立ったあの塔の天辺にいるのだ。

 頂上まで至るために、一体どれだけの金を積めばいいのかはわからない。

だが、少なくとも千や二千では到底足りるまい。

「……」

 勘定を終え、奪った金子をポケットに詰め込んだあと、俺は胸元に垂れさがったネックレスに手をかけた。ハンターケース型のペンダントトップを、柔らかく手のひらで包み込み、指先でぱちんと蓋を押し上げる。ゼンマイ仕掛けのオルゴールが、美しく穏やかな旋律を奏で始め、真鍮の輝きの中から、懐かしい家族の面影が現れる。

 夕焼けに染まる荒れ果てた街を、真っ直ぐ、真っ直ぐ、歩いたあの日。

 孤独に怯え、己の無力さを嘆きながら泣いていた、あの少年はもういない……。

 僅かな面影だけを残し、俺はすっかり変わり果てていた。

 それでも、忘れたことは一度たりともない。

 父を、母を、姉を。あの少女のことを……。

 静かに瞑目を捧げ、今はもう遠い、幸せだった頃の記憶に、そっと思いを馳せる。

〝……!〟

 そのとき、不意に背後からこちらを窺う者の気配を感じた。

 地獄のような日々を生きる俺にとって、ほんの僅かな安らぎのひとときを邪魔した罪は何ものにもかえがたく重い。

「――ッ!!」

 振り返りざま、すかさず雷霆の一撃を放つ。

 バチバチと唸りを上げて、黄色の閃光が一直線に暗闇を引き裂いた。

 しかしその矛先は、曲がり角に立ち塞がった影に行き当たった瞬間、周囲の空間ごとぐにゃりと歪んで消失する。

 得体の知れない感覚に神経を尖らせ、瞬間、堰を切ったように叫んだ。

「テメェ、何者だッ……!」

 煌々とした人工灯の明かりを背後から受けて、逆行の中、背の高いその姿は真っ黒なシルエットになっている。俺はじわりと滲むように目を眇めつつ、警戒を強めた。

「お前さんが噂に聞く、金色の能力者か?」

 光と闇の交差点から朗々と届く、低い男の声。

 俺は訝るように首を巡らせ、闇の中から吐き捨てる。

「だったら何だってんだぃ……?」

 こつ、こつと、アスファルトに硬い足音を刻んで、男は薄闇の中に姿を晒した。

 膝まで伸びた丈の長い上着は、はじめコートか何かかと思ったが、それは医者や科学者が羽織っているような生地の薄い白衣だった。

 両腕をポケットにしまい、すらりと伸びた長い脚でこちらに歩み寄ってくる。

 縁のない眼鏡をかけており、利口そうな面構えをしていた。

しかしそれだけじゃない。白衣の下に覗く、レザーの上下。艶やかに微光を照り返す眩いばかりの漆黒が、異様な気迫と威厳を感じさせる。

 思慮深く眉間に刻まれた皺、真一文字に引き結ばれた口。

 透き通るようなレンズの奥には、切れ長の双眸がギラギラと光っていた。

 俺は暗黒街で暮らすうちに培われた狼としての勘を持って、素早く判断する。

 この男は只者じゃない。

 善良な優等生でもなければ、そんじょそこらのゴロツキとも格が違う。

 強いて言えば、一流の狼。

 裏の世界を巧みに操る、真正のエリートだ。

「――君の力が必要だ。俺と一緒に来てくれ」

 男はそう言った。

 なるほど、そういう魂胆かと得心がいく。

「どこの組のモンかは知らねぇが、俺を懐に入れてのさばろうってンなら無駄なことだぜ。あいにく俺は誰とも組む気なんざねぇ。少なくとも俺より弱ぇ奴とはなァ?」

 男は身じろぎ一つせず、まるで遥か高所から俺を見下ろしているかのような口ぶりで、平然とのたまった。

「……試してみるか?」

 男の言葉がハッタリでないことを察知して、俺は嗤う。

「へぇ、おもしれぇや……。やれるもんならやってみなッ!!」

 会話をするのも煩わしく感じ、俺はさっさと男に襲い掛かった。

 いつものように一瞬で、ケリをつけてやる。

 負けるかもしれないなんて考えは微塵も抱かなかった。

 なにしろこの街に来て以来、俺は本当に無敵だったのだ。

 この男が何のつもりで、どんな手妻を隠し持って俺に挑もうとしているのかは知らないが、俺には異能の力があった。

 この力の前では、普通人が何をしようとまるで無意味なのだと、俺は底の浅い経験値から俄かに勝負の行方を達観していた。

 このいけ好かないエリート野郎とて、どうせ指一本触れることは出来ないだろうと慢心があった。

 今この貧民街においては、俺が最強だと自負していた。――

 ……しかし、俺は負けた。

 いとも呆気なく。いとも簡単に。

 手も足も出なかった。

 思うさま手玉に取られ、何か妙な力で手足を拘束された後、金属のわっかを首に嵌められ、勝負は決した。


「くっそ……! 力が使えねぇ、テメェ、一体何しやがったッ!?」

 みっともなく地面を転がりながらほざく俺に、男は言った。

「お前の首にぶら下がっているそのわっかは、タルタロスの首輪と言ってな。特殊能力の発現を封じる作用がある。お前のような凶暴な能力者を大人しくさせるためには、それが一番よく効くんだよ」

 能力を封じる首輪なんてものがあることを、俺は初めて知った。

「チッ、テメェやっぱり只モンじゃねぇーな! それに、この妙な力……。まさか、テメェも能力者なのか!?」

 刹那の沈黙ののち、

「……そうだ」

 男は冷厳とした口調で答え、尊大に足元の俺を見下ろしながら告げた。

「――桐生琢磨、俺と一緒に来い。お前の力、こんなところに埋もれさせておくのは惜しい」

 俺はようやく、自分が井の中の蛙であることを思い知った。

 この男は、大海を知っている。

 まだまだ俺の知らないことを隠し持っている。

 とても勝てる気がしなかった。

「俺の負けだ……」

 忸怩たる思いで敗北を認め、ふっと自嘲の笑みを浮かべてみせる。

 それから改めて、男と向かい合った。

「だが、最初に言った通り、俺は誰とも組む気はねぇ……。思うところがあってな、そう心に誓ってンだ。悪いがテメェの力にはなれねぇよ……」

 男はそれっきり黙ったまま、何も言わなかった。

 不意に手足を縛っていた無形の拘束が解け、首に嵌っていた鉄の輪が一瞬のうちに消えて、男の手元に戻っていた。

 俺はポケットからさっき奪い取った金を取り出し、男の足元に放る。

「餞別だ。受け取れよ」

 男は足元の金子を冷ややかに一瞥すると、ばっと白衣の裾を翻し、歩き始めた。

 去り際に、落ち着き払った声で言う。

「――俺は神崎隼人だ。十三区域の五番街で町医者をやってる。気が変わったらそこに来い……」

 男が歩いて去ってゆく先から、暗く薄汚い路地裏に、眩しい光が差し込んでいた。

 俺は復讐を決意して以来、初めて味わった敗北の苦さを噛み締めつつ、遠ざかる男の背中を見送った。

〝神崎隼人〟

 それ以来、男の名が頭から離れなくなった。

 能力者としての俺を初めて打ち負かした男の背中が、べったりと目蓋の裏に焼きついていた。あの男の言葉を聞いたとき、俺は曙光のような兆しを密かに感じていた。

 奇妙な苛立ちと葛藤が数日間、腹の中で暴れまわり、俺はとうとう痺れを切らす。

 決して気が変わったわけではない。仲間になる気など毛頭ない。

 ただ、負けたままにしておくのは寝覚めが悪いと、理由をこじつけて。

 俺は再戦を挑むつもり、奴に告げられた住所を辿った。

 それに、奴は特殊能力に関しても詳しく知っているようだった。もしかしたら、復讐に繋がるための有力な手がかりを握っているかもしれない。

 黒星を帳消しにした上で情報を吐かせれば、一石二鳥だと意気込んで、俺は再び奴と対戦した。そして、やはり負けた……。

 悔しかった。俺の技の悉くが奴には通じない。

 俺は次々と奴の仕掛けたチンケな罠に嵌められて、とことんまで弄ばれた。

 次こそは、今度こそはと、俺はそれから毎日足しげく奴のもとを訪れた。

 しかし、何度やっても勝てない。黒星は帳消しになるどころか増え続ける一方で。

 もはや何度目になるやもしれぬ対戦の末、大の字になって寝転がった俺を、隼人は少し呆れた顔で見下ろしていた。

 溜息を一つ吐き、いい加減見かねたように口を開いた。

「これ以上は何度やっても同じだ。今のお前では俺には勝てんよ……。お前は力に頼りすぎている。確かにお前の持つ雷霆の威力は凄まじいが、いくら優れた得物を持とうとも、使い方がこうも稚拙では話にならん。まずは自らの能力をとことんまで知り尽くすことだ。それから能力の特性を最大限活かした戦略を考えろ。単純な攻撃ばかりでは容易に次の一手を見透かされてしまう。すべての攻撃を当てに行こうとするな。三発打つなら、うちの二発は陽動と撹乱に向けろ。そうして狙い済ました一発だけを確実に当てに行くんだ。動きも直線的すぎる。半歩進んだら半歩引き、相手の動揺を誘え。そして、もっと周りをよく見ろ。あまりにも同じ手に引っ掛かりすぎてる。猿でももう少し利口だぞ?」

 柔らかな低音で次々と指摘される欠点を耳に入れながら、俺は妙に清々しい心地で、真っ青な空を眺めていた。

 不意に差し出される大きな手のひら。

「……」

 隼人は何も言わず、真っ直ぐに俺の目を見つめていた。

「――」

 俺もまた無言のまま差し出された隼人の手を掴み、立ち上がった。

 それから二人並び立って煙草を吹かしながら、暇つぶしに言葉を交わす。

「オメェ、強ぇなー……」

「お前が弱すぎるんだ」

「フフ、ちげぇねぇ……」

 俺は凝り固まった体から、すっと力が抜けてゆくのを感じ、軽くなった肺に溜め込んだ紫煙を、ゆっくりと吐き出しながら言った。

「――勘違いすんなよ? 俺はこれからも、お前と仲良しごっこをする気はねぇ……。ただ盗めるだけ盗んで、お前を倒したらおさらばだ。それっきりの付き合いにしよう」

 隼人は小さく苦笑して、ただぶっきらぼうに「そうか」とだけ答えた。

 俺はこうして、神崎隼人と契約を交わした。

 まだ仲間とは呼ばない。

 ライバルとして、師弟関係としての一時的な交流を認めたに過ぎない。

 実際、俺たちは互いにプライベートへの干渉を好まず、馴れ合わず、じゃれあわず、付かず離れずの無骨な付き合いだった。

 それから半年ほどは、男二人の素っ気ない間柄が続いた。

 俺はその間、隼人から様々な情報を得て、戦い方を身につけて行った。

『OLYMPOS』体制を打倒するという野望を聞かされたときはさすがに驚いたが、それと同時にこの男なら可能かもしれないと思えた。それが復讐を成し遂げるための一番の近道だろうと考え、俺は協力を辞さなかった。――


 そしてあるとき、隼人が二人の少女を連れて俺のところにやって来た。

 今日から新しく仲間に加わってもらうのだと言う。

「はじめまして、三嶋梨香です。よろしくお願いします」

「み、水原真帆です……。よろしく、お願いします……」

 利発的な少女と、内気そうな少女。なんだか姉妹のようだと思った。

 隼人と二人きりの殺伐とした毎日に嫌気が差していた俺にとって、華やかな女子二人の参入は、まさに僥倖と呼ぶべき出来事だった。

 梨香と真帆の参入で、俺の周りは一気に明るくなった。

 馴れ合い、じゃれあい、賑やかな毎日の中で、俺は研ぎ澄まされた刃物のようだった己が次第に崩れ、新たな自分が構築されてゆくのを、日々、切々と感じていた。

 しかし、同時に不安があった。

 俺は、怖かったんだ……。

 仲間を作ることが怖かった。

 愛することが怖かった。

 再び失うことが怖かった。

 何度も何度も、あの日のトラウマが蘇った。

 どうしようもなく胸の中が疼き、膝が震えていた。

 隼人と二人のときは、こんな不安に駆られることもなかった。

 それは奴が男だからということもあるが、第一に隼人は俺よりも強かったからだ。

 俺が隼人を守りたいと思うことはない。

 隼人も俺を守りたいとは思わないだろう。

 俺たちはもし互いにどちらかが死んでも、多少の虚しさこそあれ、涙なんて一滴も流さないだろう。意地とプライドの張り合いが、その均衡を保ってくれる。俺はそのときが来ても、振り返ることなく奴の屍を乗り越えて行けると自信があった。

 だからこそ俺は、奴と契約を結んだ。

 けれど、梨香と真帆は違う。

 そのとき既に、俺は梨香に惹かれ始めていた。

 意識して彼女への想いを抑え込んでいたが、頭で考えるのとは裏腹に、心は止められない。気づけば彼女の姿を目で追っている自分に気づき、俺は激しく懊悩した。

 真帆はいつも梨香の後ろにくっついてまわる、か弱い少女だった。

 きっと一人では生きていけない、誰かが守ってやらなくてはいけないような存在だ。

 俺はこの二人を失ったとき、今度こそ壊れてしまうだろうと思った。

 だから距離を置こうとした。

 本当なら、何も言わずに、さっさと皆の前から消えるべきだったのだと思う。

 けれど俺にはそれが出来なかった。

 俺は二人のことがどうしようもなく好きになっていたんだ。

 離れたくなかった。だからせめて、これ以上は近づけまいと。

 低俗な冗談で二人をからかい、わざと嫌がるようなことをして、二人が俺を軽蔑し、自ずから避けてくれるようになることを願った。

 俺自身それだけの交流で、自らの気持ちを慰め、己を律しようと試みた。

 しかし、失敗した。

 真帆はそれ以来、俺のことを警戒して、あまり近づこうとはしなくなったが、梨香は逆に、前にも増して俺の傍に寄って来るようになった。

 しっかり者で世話好きの梨香は、だらしない俺を見て、放っておけないと思ったのだろう。彼女の性分を理解しきれていなかった俺のミスだった。

 俺はますます梨香に惹かれるようになり、葛藤は日増しに大きく、胸の中はどんどん窮屈になっていった。

 それからほどなくして。

 さらに一人、新たな仲間が加わった。

「――木下和明です。これからお世話になります」

 和明の参入によって、また一つ、俺の中で欠けていた何かが補われていった。

 隼人とは、もともとライバル意識が強かったので、気軽に話をするような仲ではなかったし、梨香や真帆に対しては異性だという根源的な隔たりがある。

 そこへいくと、まだ頬に幼さの残る亜麻色の少年は、俺にとって弟のように近しく感じられる存在だった。

 一人、また一人と集まって来て、いつの間にかこんな大所帯になった。

 みんなに囲まれて過ごすうち、己という存在が満たされてゆくのを感じていた。

 俺は、どうしようもなく、幸せだった。

 温かな陽だまりのような日々の中で、時々、何もかも忘れてしまいそうになる。

 空を見て、ずっと考えていた。

 これからどうするべきかと。

 風が凪いで、雲がそよぐ。

 そしてふと、自らを俯瞰してみたとき、俺はその境地に辿り着いた。

 そうか……。

 ――俺はもう。

 こんなにも思い悩むほど、あいつらのことが好きになってしまったんだなと――……。


 走馬灯のように流れゆく、崩壊と再生の記憶。

 その一つ一つを噛み締めながら、俺は堕ちて行く。


 隼人、祐樹、梨香、和明、真帆――。

 たとえ目蓋を閉じていたって、明確に思い浮かべることが出来る仲間たちの笑顔。

 誰かに守られる生き方はもうごめんだ。

 愛する者を失うのは、もうたくさんだ。

 だから俺は、誰にも頼らない。

 誰のことも信用しない。

 誰のことも愛さない。

 俺は一生、一人で生きて行く。

 そう思っていた……。

 けれど出会ってしまった。

 愛してしまった。

 俺はもう一人じゃない。

 かけがえのない仲間が出来たんだ。

 父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん、みっちゃん……。

 あの日、置き去りにして来た悲しみに誓った。

 もう誰も失うまいと。

 これからは、俺がみんなを守る。

 だから俺は誰よりも強くなりたかった。

 最強の盾になって、みんなを包みたかった。

 俺は、誰よりも愛する者たちを、この手で守ってやりたかったんだ。


 ――それなのに……。


 俺は今でも弱いままだ……。

 俺はどうしようもなく無力だった。

 誰一人守ることも出来ず、何一つ成し遂げることも出来ずに、ただ一人死んでゆく。

 ……情けねぇな。

 あれから十年以上の歳月をかけて、ようやく辿り着いたのがこんな結末かよ。

 家族の仇を討つことも出来ず、大切な仲間たちを守ってやることも出来ないで、大口叩いてでしゃばった挙句に犬死だ。

 かっこわりぃ……。

 何が最強だ。笑わせるぜ、この半端野郎が。

 思えば、お前はいつだってそうだったよな。

 結局隼人には一度として勝てず、梨香には上手く想いを伝えることができなかった。

 手放しに仲間を得ることが怖くて、いつも心に不安を抱えて。

 その気持ちを誤魔化すために、おどけて、ふざけて、無茶苦茶に遊んで、そんでもって、いつもやりすぎて。真帆からは避けられ、和明や祐樹からはバカだと笑われて、わけもわからず一緒になってとりあえず笑っていた。


 まったくとんだピエロだぜ。

 無様だなぁ、桐生琢磨よぉ。

 ……やけっぱち騒ぎも、もううんざりだね。

 終わっちまった。何もかも。

 大いなる運命ってやつがさ、俺にしつこく『死ね』と告げてくる。

 お前なんかいらないんだよと、舌を出して笑ってる。

 きっと、もう何をやったって無駄なんだと思う。

 最初からそうだったのかもしれない。

 結局、人の一生は、本人の意思など一切無視したところで勝手に決められ、敷かれたレールの上を、ただ徒に走ってゆくだけのなのかもしれない。

 それが正しい生き方のような気がする。

 高望みをして、敷かれたレールの上からはみ出した者には、大きな罰が与えられる。

 いくら努力を積み重ねようが、どれだけ実力を身につけようがすべて無意味だ。

 天からの決定に背き、道を外れた者にはいなかる幸福も与えられない。

 極めて理不尽に、一方的に、世界は大いなる力によって様々なものを捻じ伏せながら、そいつを潰しに掛かる。そいつから何もかも奪い去っていく。

 何か大きなことを成し遂げる奴というのは、最初からそういう星のもとに生まれて来るのであって、俺はそうじゃなかった。つまりはそれだけの話なんだ。

 この世界は、俺を望んでなんかいない。

 望まれているのは誰か他の奴であって、俺はお呼びじゃない。

 俺は決して、主人公にはなれない。

 そういうことだ――。


 疲れた……。

 もう、十分じゃないか……。

 だって、こんなにボロボロなんだ……。

 痛いよ、苦しいよ、辛いよ、しんどいよ、きつい……。

 眠りたい……。

 もう何も考えたくない。

 今はただ、ゆっくり休みたい。

 もうたくさんだ……。

 もう終わりにしよう……。

 心の奥で、粉々になった言葉の欠片が交差する。

 勝手にしろよ。どうせお前は負けたんだ。

 とっとと逝っちまえ。


 あぁ、ほんとうに……。


 ――溜息まじりの声たちが、一斉に寄り合って口を揃えた。


〝くだらねぇ人生だったな……〟


 ごぼごぼと気泡を上げて、お湯の中に落とした角砂糖のように体じゅうから力が抜け落ちてゆく。溶け出しているのは、生きる気力だと気づいた。

 残ったものは伽藍のような心と、ぼれ切れのようになった肉体だけ。

 魂が抜け、絞り粕のようになった俺は、ただどこまでも沈んで行く。

 あとはこのまま堕ちるところまで堕ち、果てて、この世を去りゆくのみだ……。

 もう何も感じない。

 もう何も思うところはない。

 もう、何も……。


 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――〝いいのか?〟


 ぽつりと。

 静かな湖面を掻き立てるように。

 深い暗闇の果てに、一筋の光がともる。

 振り返ると、それは涙が出るほど、眩しくて。

 俺は後ろ髪を引かれる思いで、煌々と差したその光の先を、一心に見つめていた。


〝――もしも……。もしも仮に、人の一生に良し悪しをつけるとするならば、その判断基準とは、どれだけ長く生きたかではなく、何を為し、何を遺したかだ〟


 ならば、父や母や姉が、最期に遺したものとは一体なんだったのだろう。

 そんなもの、言わずと知れている。

 それは、この俺自身だ。

 桐生琢磨という男の人生だ。

 父と母と姉が、命懸けで守ってくれたのは、俺の未来だった。

 ならば、俺がその遺された時を使って成し遂げたこととは一体なんだ。

 俺は今まで何をやって来た?

 考えて、考えて、ふと思い至る。

 何もない。

 何一つないのだ。今このときに至るまで。

 いいのか、それで。

 本当にいいのか?

 これまでのことはすべて無駄だったのか?

 もう何もかも、どうでもよくなっちまったのか?

 想いは消えたのか?

 叶わぬ願いなど捨てるか?

 このまま、終わってしまうのか……?

 父や、母や、姉が、命に代えて遺してくれたこの体を、こんなところで投げ出してしまってもいいのか!? 

 何一つ成し遂げることが出来ぬまま、こんなかたちで自らの人生に幕を下ろしてしまってもいいのか!? 

 答えろ、桐生琢磨。

 これが、最後の質問だ。


 ――……諦めるのか?

 ――……諦めて、このまま自らの死を受け入れるのか?


 永遠とも呼べるその刹那。

 俺は、俺自身の心を、正面から真っ直ぐに見つめ続けていた。

 すべての虚飾を取り払い、その奥に眠りかけた、本当の声に耳を傾ける。

 ――俺は、お前に従うぜ。

 ――なぁ、琢磨?

 ――お前は、どうしたい……? 

 凛と研ぎ澄まされた静謐の中、その声が、届く。


〝冗談じゃねェ……〟


 ぽつり、ぽつり、ぽつりと――。

 暗闇の中に無数の光が点ってゆく。

 俺は意思を持って、この目を開いた。


〝いいわけ、ねぇだろ〟


 ――瞬間、堰を切ったように、閉ざされていた想いが奔流となって溢れ出して来る。

 身を焦がすようなエネルギーの塊が、爆発的に絶望の闇を引き裂いて、俺を包み込んだ。


 答えは、――否だ。


 当たり前だろ。

 当然だな。

 俺を誰だと思ってやがる。

 諦めるかだと? 死を受け入れるかだと?

 馬鹿かお前は。まったく、わかりきったことを訊いてくれるなよ。

 俺がここで負けを認めれば、この化け物は仲間たちの後を追って行くだろう。

 この俺が命に代えてまで守りたいと思った、大切な、大切な仲間たちの背中を。


 ……追わせない。


 認めるわけにはいかんな。

 負けるわけにはいかねぇだろ。

 終わらせることはいつでも出来る。だが、踏みとどまることが出来るのは今だけだ。

 バラバラになった心の欠片を拾い集めて、今一度しっかりと握り締める。

 まだ終われない。

 こんな俺にも、まだ出来ることがあったんだ。

 闇の中を手探りに掻いて、光差す方角へと進む。


 悲運を嘆くことはもうやめにしよう。

 運命なんて知ったことか。

 道をたがうことが許されないのならば、俺は敷かれたレールを無茶苦茶に捻じ曲げてでも、望んだ未来に進んでやる。

 足を引っ張る神ならば、この手で殺してやろう。

 やれる。

 やれるさ、お前なら――。

 どれだけの路を歩いたか、足跡を振り返ってみる時間はもう終わりだ。

〝ここから、どれだけ進めるか〟

 今はただ、そのことだけに、最後のひとかけらまで己の命を燃やし尽くす。

 諦めねぇ。

 勝負はここからだ。

 死んだフリはやめようぜ? ホントは、まだまだ行けンだろ?

 限界を超えて、己を追い込んで行く。

 なぁ、頼むぜ、おい……。

 あと少しだけでいいんだ。

 動いてくれ、桐生琢磨。

 立て、立ってくれ、――立てよッ!! なぁ!!


 ――俺は……。

 ――桐生琢磨の人生は。

 ――こんなところで、むざむざ終わらせるわけにはいかねぇんだよッ!!


 闇を裂く――。

 光に手を伸ばす――。

 死の淵から、浮上する――。


「かはぁ――っ!!」

 瞬間、激しく点滅を繰り返す景色。

 視界が、呼吸が、鼓動が肉体へと還る。

〝!?〟

 現実に意識を取り戻した途端、信じられない激痛が、琢磨を襲った。

 手足はあらぬ方に捻じ曲がり、全身の至る所から血が噴き出している。

 骨や内臓器官もかなり損傷しているようで、体の内側にごつごつとした違和感があった。

「げほっ、ごほっ、がはッ……!」

 気管に溜まった血を唾と一緒に吐き出して、何とか膝を立て、体を引き起こす。

 背後でぱらぱらとコンクリートの破片が散った。

 滅茶苦茶に殴り飛ばされたあと、壁にめり込むような形でしばらく気を失っていたらしい。どのくらいの時間、意識を失っていたのかは定かでないが、まだトドメを刺されていないことを考えると、恐らくはほんの僅かな間だったのだろう。

「――ッ!!」

 体に負った傷など、この際数えるだけ無駄だ。

 意識すれば、途端に気力が萎えそうになる。

 流れ出す血も、体を蝕む激痛も、頭の中から叩き出し、ただ一心に敵を睨む。――


 ――これ以上、過去など語らない。涙など見せない。今はまだ人生を語らず。

 復讐のためなんかじゃない。

 俺が立つのは、死んで行った者たちのためなんかじゃない。

 俺が立つのは、生きている仲間たちのためだ。

 世界の平和なんて言わない。正義の在り処なんて知らない。

 これより先、最後の戦いは……――。

〝誰よりも愛する者たちのために、捧げるべきモノだ〟



次週、琢磨VSアーレス編・完結。

というわけで、俗に言う“神回”というものをご覧に入れます。

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