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第十七章「風神・雷神」

第十七章「風神・雷神」

                  1


 ……――――。

 琢磨を一人残し、僕たちは隼人の空間転送によって数階上のフロアまで離脱した。

 人気のないフロアは損壊のあともなく、まっさらでいて、銃声もむせ返るような血のにおいもすっかり遠い。辺りは知らん顔をした静謐に包まれている。

 一人欠け、五人になったメンバーたちは皆、沈痛な面持ちを連ねていた。

「どうして……」

 沈黙の底から沸々と湧き上がる激情の泡沫は彼女のもの。

 梨香はぎゅっと手のひらを握り締め、わなわなと細い肩を震わせていた。

「どうしてあいつを一人にしたのよっ!」

 激しい抗議の声は、隼人へと向けられたもの。

 彼女は怨嗟を込めた眼差しで、彼に詰め寄った。

「待ってって言ったじゃない!!」

 隼人はうっすらと目を細め、掠れた声で言った。

「梨香、わからんのか……。奴の気持ちを酌んでやれ」

 梨香は半泣きになりながら、ぶんぶん首を横に振る。

「ハヤトは何もわかってない! 何もわかってないわ!」

 そして苦しげに吐き出した。

「――あいつ、死ぬ気なのよ……!?」

 僕は言葉を失った。

 和明も真帆も、顔を伏せ、琢磨の覚悟を悼んでいる。

 しかし隼人は。

 隼人だけは表情を押し殺したまま、僅かな沈黙ののちに問うた。

「奴の心を覗いたのか?」

 梨香はそんな隼人の反応を見て、はたと気づく。

「知ってたのね……?」

 彼は否定も肯定もせずに、非情ともとれるセリフを吐いた。

「奴自身が望んだことだ」

 それを聞いた梨香の心中は、察するに余りある。

 彼女は物言わず、いきなり僕たちに背を向けて一人歩き出した。

「どこへ行く」

 隼人は低くドスの効いた声で、すかさずその後姿を呼び止めた。

 梨香は足を止め、こちらに背を向けたまま、激しい憤りを孕ませた声で吐き捨てる。

「アナタを見損なったわ、隼人……。私はあいつを見殺しには出来ない。今からでも助けに行く」

「ならん」

 断固とした口調で言い放った隼人は、空間固定を発動させ、彼女の足を縛った。

「――ッ!」

 振り返った梨香の表情には、もはや怒りすら通り越して、憎悪が刻まれている。

 真っ赤に燃え上がる梨香の瞳と、青白く冷え切った隼人の瞳が真正面からぶつかりあい、見ているこちら側にも肌を突き刺すような緊張感が走る。

 先に均衡を破ったのは隼人の方だった。

 空間固定が解け、彼女の足腰に自由が戻る。

 嘆息するように一度目を閉じた隼人は、それからふと天井に視線を向け、静かに語りはじめた。

「……一人の男が死を決意して孤独な戦いに身を投じている。内心どれほどの苦悩を抱え、血を吐くような思いをしているか、お前にわかるか?」

 彼女は答えない。隼人は懇々と続けた。

「男が自らその道を選んだのは、守りたいものがあるからだ。貫き通したい想いがあるからだ。その他の大切なものすべてを投げ打ってまで戦うことを決めた男にとって、もはや孤高であることだけが心の支えなんだ。そういう奴の覚悟に水を差し、あまつさえ踏み躙るようなことは俺が絶対に許さん」

 隼人の揺るがぬ双眸から、何か言葉に尽くせないモノを感じとった梨香は、ゆっくりと目線を下げ、沈黙する。

 隼人は振り返り、語気を強めてきつく釘を刺した。

「忘れるな。俺たちの目的は〝引鉄〟の阻止だ。間に合わなければすべてが無駄になる。それは奴のことだけじゃない。ここに至るまでに払って来たすべての犠牲が、何もかも水泡に帰すことになるんだぞ」

 隼人はそれから僕や和明、真帆にも目を向けて言った。

「それに戦うのは琢磨だけじゃない……。この先、敵はまだ二人残っている。それもさっきの男と同等か、それ以上の力を持った最強の能力者だ。祐樹はアテナの救出に向かってもらう。和明と真帆はさすがにバックアップが限界だ。そうなると自然、残る二人は俺とお前で一人ずつ請け負う計算になる。あいつが何の為に足止めを買って出たのか、その意味をよく考えろ……」

 梨香の表情から、次第に怒りの色が薄れていった。

 僕たちは静かに成り行きを見守っている。

 やがてぽつぽつと足音を刻んで、彼女は自ら僕たちの許に引き返して来た。

「勘違いしないで。私は納得なんかしてないから」

 彼女は尖らせた八重歯で唇を噛み、悔しさを湛えている。

 隼人は黙ってそれを受け止めていた。

「かっこよく死にたいだなんて、そんなの男の身勝手じゃない。ホント馬鹿みたい……! さっさと終わらせて、あいつを助けに行くんだから」

 梨香の瞳に生気が戻ったのを見届けて、隼人は小さく笑った。

「そうか……」

「時間がないわ。先を急ぎましょう」

「ああ」


                  2

 

 光華が飛び散る。

 ガリガリと音を立てて、無数の鉛玉が雨のように降り注ぐ。

 毎分数百発の弾丸を絶え間なく吐き出すサブマシンガンを片手に、琢磨は堰を切ったような集中砲火を鬼道に浴びせかけていた。

 絹を劈く絶叫のような銃声が、滅茶苦茶に鼓膜を叩く。

 轟音に耳が遠くなり、凄まじい衝撃によって短機関銃を抱えた左腕が悲鳴を上げていた。

「くぅッ!!」

 火を噴き続ける銃口からは陽炎が立ち、硝煙と粉塵によって視界も霞んでいた。

 そもそも二キロ近くも重量のある鉄の塊を、利き腕でない左手一本で構えること自体に無理があった。そうは言っても、ぐるぐるに包帯で巻かれた右腕は満足に動かない。下手に動かせば、激しい痛みによって全身の筋肉を苛まれるくらいだ。

 銃器を扱うことさえ一苦労な琢磨に対し、アーレスは余裕綽々だった。

 金切り声のような掃射音も、襲い掛かる凶弾の集中豪雨も、どこ吹く風。

 片手を腰に当てて突っ立ったまま、大儀そうにコキコキと首を鳴らしている。

 それもそのはず、彼の体には未だ、掠り傷一つついていなかった。

 祐樹の撃つリボルバーとはわけが違う。サブマシンガンの掃射は、空間を隙間なく埋め尽くしながら迫る、いわば弾丸の壁だ。

 躱すことなど出来るはずもなく、回避できる術があるとすれば、盾で身を守る以外に方法はない。無論、彼の場合も後者だった。

 アーレスの前には白い渦のようなモノが展開し、球状に螺旋を描きつつ、高速で蠢いていた。轟々と音を立ててとぐろを巻くその形相は、まるで小さな台風のようだ。

 撃ち込まれた弾丸は次々とその渦中に吸い込まれては、一斉に霧消していた。

 掻き消えているのではない。削ぎ落とされているのだ。

 ――凄まじい切れ味を誇る斬撃の集合体。

 すべてを貪り尽くす真空の盾。――

 鬼道に襲い掛かる都合数百発の弾丸は、この超高密度な真空の塊に触れた瞬間、その悉くを削り取られて銀粉に変わり、ちかちかと光を反射しながら空気中を舞っていた。

「チッ……!」

 どのみち急場しのぎの飛び道具だ。最初から期待などしていない。

銃撃に見切りをつけた琢磨は、掃射の衝撃で左腕が使い物にならなくなる前に引鉄を戻した。それから大きく腕を振って、用済みとなった短機関銃をアーレスの顔面めがけて勢い良く投擲。

 ぶんと唸りを上げて風を切り、重たい鉄の塊が鬼道の眉間へと迫る。

 当たれば首の骨ぐらいへし折れるだろうが、無論、命中などしない。

 ジャキ、ジャキ――と、見えざる斬撃によって上から下から切断され、バラバラになったサブマシンガンは呆気なく向かい合った二人の中間地点に転がった。

 アーレスはフゥーッとマリファナの葉巻を吹かしながら、嘲りを口にする。

「なんだァ? ロケット花火はもうお終いかァ~?」

 琢磨は仲間たちの去ったあとの背後を振り返りながら、微かに笑う。

「ああ。十分、元は取れたぜ……」

 ――梨香への恋慕、隼人へのライバル意識、祐樹・和明への友情、真帆への慈愛。

 かけがえのない仲間たちへの想いをすべて押し殺し、金髪の悪童は改めて目の前の宿敵と対峙する。


〝殺戮の神〟――アーレス。

 緊張も恐怖もなく、ただ嬉々として殺戮を繰り広げる、正真正銘の悪鬼羅刹。

 説得の余地など皆無であり、息を吸って吐くように無差別殺人に興じる最低最悪の男。

「……」

 琢磨は傍らに投げ捨てられた首のない少女の死体へと目を向ける。

 また、殺された……。

 もうこれで何度味わったやも知れぬ、この苦渋。

 自らの与り知らぬところで、極めて一方的に、これ以上ないというほど残虐なやり方で幾人の生命が奪い去られたことだろうか。

 掬い上げた手のひらから、どうしようもなく零れ落ちてゆく命。

 掬っても、掬っても、僅かな隙間から止め処なく失われてゆく。

 まるで椅子取りゲームのように、無情な現実世界。

 胸に迫る無力感と激しい怒りに、はらわたが煮えくり返る思いだった。

 許せない。この男だけは。どんな手を使ってでもここで倒さなければならない。

 目の前に立った男は、もはや情状酌量の余地などひとかけらもなく、完全に、完璧に、断固として、殺すしかない手合いだ。

 さっと上着を取り払い、タンクトップ一枚になった琢磨は、脱ぎ捨てた上着を無残な姿となった少女の亡骸に被せてやった。

「クヒヒッ、あっさりおいてけぼりを食っちまったなァ?」

 そんな琢磨の心中などいざ知らず、鬼道は舌を出して臆面もなく彼を挑発した。

「テメェはさしずめ捨て駒だバァ~カ! あの女も他の奴等も、腹の底じゃあ、み~んな笑ってるぜぇ? 使い物にならねぇゴミを一匹、さっさと始末できて清々したってよお!? ヒャ~ヒャヒャヒャッ!」

 心無い言葉を浴びせられながら、琢磨は凛然と答えた。

「捨てたのは俺の方だ。これで、心置きなく戦える」

「戦うぅ~? へっ、殺されるの間違いだろカス。こっちはとっくに知ってんだよ、テメェがあのフランス人形に遊ばれて、役立たずにされてることぐらいなァ?」

 ベラベラと罵詈雑言を吐きつけるアーレスに対して、琢磨はまるで堪えた様子がない。

 顎をしゃくって「ふーん」とでも言いたげなその態度が酷く鬼道の癪に障った。

 最初からお前なんか相手にしてないと言われているようで、なんだか馬鹿にされている気がした。ナメられていると狂った頭で考え、アーレスは見る間に逆上する。

「ざけんなよ、クソ野郎がッ!! ザコのくせに調子扱きやがってッ! テメェなんか瞬殺だ! お前の仲間も、家族も、みんなバラバラにしてやるぜぇえ!?」

「……」

 琢磨の表情が僅かに翳ったのを目敏く見て取って、鬼道は勝ち誇ったように嗤う。

「しかし、あの女はなかなかの上玉だったなぁ~? テメェを細切れにしてやったあと、俺様が頂くことするよ。ヘヘッ、イイ声で鳴かせてやっから、テメェは地獄の底から指でも銜えて見てろキモ男! いずれガバガバにして送りつけてやるッ!」

 何も知らないアーレスの言い分を、琢磨は鼻で笑った。

「残念だが、あれはテメェなんかの手に負える女じゃねぇぜ? 下手に触ると首が飛ぶから気ぃつけな?」

 そこから、声のトーンががくっと落ちる。

 琢磨の顔つきが変わった。

「それになぁ、テメェがこれから味わうのは、柔な女の体なんかじゃねぇよ……」

 背筋が凍るほど真に迫った低い声で、琢磨は鬼道に言い渡す。

「――永遠の地獄さ……。楽しいお遊びの時間はもう終いだ。溜まりに溜まった十余年分のツケ、きっちり清算させてもらうぞ」

 さっと潮が引くように刹那の静寂が訪れた。

 修羅を宿した瞳同士がぶつかり合い、戦意が一気に跳ね上がる。

 桐生琢磨 VS 殺戮の神・アーレス

 真っ向から対立した両者は互いに嗜虐的な笑みを浮べ、瞬間、声を揃えて思いっきり吼えた。

「「――ブッ殺してやるッ!!」」

 それが開戦の合図となった。

「シャアッ!」

 唾を撒き散らしながら、鬼道が腕を振るう。

 瞬く間に出現した無刃の斬撃が、床を縦方向に切り裂きながら猛然と肉迫した。

 琢磨は素早く身を屈め、バッと横方向に跳躍。紙一重のところでそれを躱しきると、床を転がりながら一息に体勢を立て直す。

 そこから反転し、全力で駆け出した。

「おいおいおいおいッ!! テメェあれだけ粋がっといて、いきなりトンズラかよ!?」

 アーレスの拍子抜けしたような叫びには耳を貸さず、琢磨は走った。

 奥へと続く通路には、等間隔に屹立した柱がある。

 突き当たりにある非常灯の明かりを目指しながら、柱と柱の間を縫うようにジグザグに駆け抜けた。

「待てゴルゥァアア!!」

 彼を追って飛来した斬撃が、コンマ00秒遅れて、背後の柱を次々と切り倒してゆく。

 盲滅法に放たれる斬撃の嵐。床が削がれ、壁が崩れ、周囲のあらゆるものが切り裂かれ砕け散る。縦横無尽に飛び回る真空弾の渦中を、琢磨は必死に走り抜けた。

 冗談じゃない。

 あんなものまともに食らったら、それこそ一瞬で五体がバラバラになる。

 僅かに掠った頬はぱっくりと裂け、だくだくと血が流れ出していた。

「っ――!?」

 刹那の悪寒。

 後方から追いかけて来るアーレスが、堰を切ったように叫んだ。

「――滅殺・万物千斬ギガント・クラッシャーァアア!!」

 何かヤバイのが来る。

 そう直感した琢磨は慌てて周囲を見渡した。

 前方左手にトイレのドアを発見。考える間もなく、思い切り体当たりを仕掛けて扉をぶち破り、わき目も振らずに転がり込む。

 一瞬遅れて、物凄い衝撃と轟音が琢磨を襲った。

「ヌゥウッ……ぐあぁあッ!」

 左右の壁と天井が一斉に切り刻まれ、廊下が音を立てて崩壊してゆく。

 天井は落ち、壁は崩れ、床は斜めに傾いていて、階下の鉄骨か何かが床板を突き破って吹き抜けとなった天井を指している。

 轟音がおさまったあと、逃げ込んだトイレから恐る恐る外を覗くと、瓦礫によって通路は完全に塞がっていた。

 幸い、塞がっているのは琢磨から見て後方であり、目指す非常階段への道はまだいくらか余裕がある。アーレスは瓦礫の山を隔てて向こう側にいるようだ。

 暴れるだけ暴れて、自らの進路まで塞いでしまうとは、心底救えない奴だと思った。

 そこが鬼道の欠点であり、恐ろしいところでもある。

 ともかく、これで奴もしばらくは身動きが取れない。

 今のうちに奥の非常階段まで――と考えたが、甘かった。

 次の瞬間、背後を塞いでいた瓦礫の山が爆発四散。

 凄まじい風圧と、勢い良く飛び散る礫から頭を庇いつつ、琢磨は枯れ枝のように吹き飛ばされた。

「――ッ!?」

 降り注ぐ瓦礫と粉塵の向こうから、砲弾のように飛び出して来る影。

 獲物を追い求める飢えた獣のような形相、熾火のように赤く光ったその双眸に、琢磨は思わずぎょっとして後退りした。

「クァッハッハッ!! 見つけたぞドブネズミぃいいいッ!!」

 その姿はまさしく、地獄の底から這い出して来た悪魔のようだ。

 単なる皮肉や侮蔑ではなく、琢磨は心から祈るつもりでそのセリフを吐いた。

「アーメン……」


                  3


「一ついい事を教えてやろうか――」

 空間転送を繰り返して進みながら、不意に隼人が開口した。

「お前たちがどう思っているのかは知らんが、俺はあいつが負けるだなんて思っちゃいないぞ。少なくとも俺の見立てではな、四分六で琢磨の方が勝つ」

 どこか確信めいた彼の言い分に、僕はふと口を挟んだ。

「だけど、琢磨は能力を……」

 勿論、僕だって琢磨に勝って欲しいとは思うが、あくまでも冷静に、客観的な見解として両者を比べてみた場合、優劣の程は火を見るよりも明らかだと思う。

 力の差はポテンシャルからして歴然であり、あまつさえ今の琢磨はハンディキャップを負っている。もはや誰の目からみたって絶望的な戦いになると思うのだが。

「――前にも言ったはずだぞ。もとより力で押して勝てる相手ではない。俺たちが勝つために必要なのは、相手の裏を掻くための戦術なんだ」

 それ自体は至極もっとも意見だと思う。実際にプロメテウスやメデューサを罠に嵌めて倒した彼が言うのだから説得力も大きい。ただ、一点を除いては。

 そこを指摘したのは、和明だった。

「いや、でも……こう言っちゃ悪いけど、タクちゃんはさ?」

 彼の言わんとしていることは、恐らく全員が承知している。

 琢磨は頭脳を駆使して戦うようなタイプではない。

 さすがに馬鹿とまでは言わないが、どちらかといえばもっと直線的で、力技を得意とする単純明快な男だと思う。

 しかし、隼人の意見は少々気色が違った。

「――そう、そこにこそ大きな落とし穴がある。お前たちは桐生琢磨という男を真に理解していない。積極的に色を好んだ発言をすることによって自らの精力的姿勢を顕示し、また親しみやすさを植えつける。政治家が良く使う方法だ。また、軽薄な態度で滑稽なピエロを演じきり、標的の心を油断させる。これは詐欺師が良く使う手法だ。能ある鷹は爪を隠す。鋭い爪も最初から丸出しでは容易に対策を講じられてしまうからな。狼は羊の皮を被り、無能な羊を演じる。そうすることによってノコノコと近寄ってきた別の狼を容赦なく食い殺す。――敵を欺くには、まず味方から。死角に罠を張り、陽動によって誘い込む。そして不意打ちからの一撃必殺によって仕留める。その手法を、懇切丁寧に時間をかけてレクチャーしたのは、一体誰だと思う?」

「まさか……」

 梨香がはっとした表情で隼人を見る。

 彼は前を向いたまま不敵に笑って頷いた。

「この中で琢磨と最も付き合いが古いのはこの俺だ。故に教える時間はたっぷりあった。そしてあいつは努力した……。もとより奴は、お前たちよりも一枚上手なんだ」


                  4


「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁッ……!」

 命懸けの鬼ごっこは続いていた。

 非常階段を駆け上がりながら、琢磨はひたすら思索を巡らせる。

 彼が逃げの一手に固執しているのは、偏に考えをまとめるための時間稼ぎだった。

 堂々と正面から挑んだところで、勝てる確率はゼロと言い切っていい。

 やはりここはフェイクとトラップの搦め手。

 百の陽動を用いて、一の罠に誘い込む。隼人のやり方で挑むしかあるまい。

 しかし下手な小細工では、これも強引に突破されるのがオチだ。

 如何なる手を持って、あの強敵を仕留めるか。

 策を練る前に、ひとまず情報を整理する。

 敵の能力は、所謂〝かまいたち〟の強化版。――空気中に精製した真空の塊を飛ばして、あらゆるものを切断する。対策としては常に動き回り、遮蔽物に上手く身を隠しながら応戦することだ。その上で、ひらけた場所や直線的な通路は避けた方がいい。

 また敵の力は強大なので、さっきのようにフロアごと飲み込まれてしまう危険性もある。階を移動しながら撹乱するのが吉。細く曲がりくねった非常階段であれば、身を隠す遮蔽物としても申し分ない。

 加えてあいつの知能は猿並みだ。いや、猿の方がまだいくらか賢いかもしれない。

 あの男は、途轍もない力を持っているだけの馬鹿だ。

 恐ろしいほど頭が悪く、絶望的に頭がおかしい。

 本能の赴くがままに突っ走る野獣。故に彼奴の意表を突き、罠に嵌めること自体はいとも容易い。だが、問題はその先にある。

 問題なのは、鬼道を罠に嵌めたとして、確実に奴を仕留められるだけのモノが、雷遁を封じられた今の己にあるかどうかだ。――

 近接格闘は素人に毛が生えたようなもの。梨香や祐樹のように技術的な心得があるわけじゃなし、街のチンピラを数人御せる程度で、とてもあの怪物に通用するとは思えない。

 おまけに焼け爛れた右腕は満足に動かず、握力はおろか、肘から下の感覚すら怪しい。

 短機関銃の件で思い知ったが、利き腕の機能を失うということは予想以上に行動の幅を制限される。慣れない左手一本では様々なことが不自由だった。

 結局今の己に残されたものといえば、戦略を練るための頭脳と、走り回るための脚力、そして、ベルトに提げた三つの蓄電手榴弾。

 頼みの綱はやはり、和明が与えてくれたこの秘密兵器。

 現状、アーレスを倒せる可能性があるのはこれだけだ。

 あとはこれを使って、どういう戦術を組み立てるか、だが……――。

 そのとき。

 ふと忍び込む疑問。

 本当にそうだろうか――?

 何か見落としているような気がした。

 それは同義という名の盲点。

 もっと根本的で、至極、重要な事柄を。

 琢磨は心の奥の暗い迷路で、彼の言葉を思い出す。

 和明が隼人から教わるよりも遥か以前、彼から聞かされていたその心得を――。


“――敵にとって最大の死角とは、己の死角にこそ存在する”


 ――死角……。

 この場合、己の死角とは一体何だ。何を意味する。

 階段を二段飛ばしで駆け上がるたび、かちゃかちゃと音が鳴る。

 腰に提げた三つの蓄電手榴弾が互いにぶつかり合って、まるで自らの存在を誇示するかのように硬い音を立てていた。

 瞬間、思わずハッとする。

「――っ!!」

 琢磨の脳裏を一種の電撃が駆け抜けた。

 後頭部を鈍器で思いきり殴られたような衝撃。

 ――雷遁の特性、アルテミスの毒、逆流現象、蓄電手榴弾、アーレスの性癖。

 バラバラだったパズルのピースが、一斉に寄り合って一枚の絵を成す開放感。

 あった……。これだ……。

 一発逆転の秘策。

 他人からすれば、酷く馬鹿馬鹿しい手かもしれない。

 これ以上ないというほど危険な賭けでもある。

 しかし、一度思い立ってしまうと、もうそれしか考えられなくなっていた。

 これこそが今の自分にとれる最善の策であり、今の自分にしかとれない究極の選択であると確信を得た。

 刹那、階下から轟く爆音。


〝鬼が、来た〟


 びょうびょうと唸りを上げ、突風が下から上へと吹き抜けて行く。

 猛烈な追い風に髪の毛を浚われ、振り向けば渦を巻く巨大な風の刃が視界に入った。

 旋風を身に纏ったアーレスは、瞬間、思い切り膝を折って跳躍。

「キィイイイイェエエエエエエエエ――――――ィイイ!!!!」

 荒ぶる竜巻となって、狭い非常階段の中を垂直に飛翔した。

 もはや建物の構造など完全にお構い無しの所業だ。

 バキバキと階段そのものを豪快に抉り飛ばしながら、一直線に琢磨のもとへと迫る。

「くっ、何て野郎だッ……!」

 自分が通った直後から、ガラガラと音を立てて階段が崩れ落ちていく感覚。

 轟音と衝撃と、吹き荒れる風、湧き上がる粉塵、縦横無尽に飛び回る瓦礫の嵐。

 何もかもが滅茶苦茶に破壊されてゆく中で、地面と空中の曖昧な境界線を、紙一重のところで必死に駆け上がる。足元に迫る崩壊は、そっくりそのまま生と死の境でもあった。

「ちょこまか逃げまわってんじゃねぇーぞ、ヘタレ野郎ォオオオッ!!」

 つむじ風と共に追い縋るアーレスの姿は、さながら大鎌を構えた髑髏面の死神だ。

 背後に迫る魔手。

 琢磨はすかさず腰の蓄電手榴弾に手をかけた。

 左手で掴み取り、八重歯を使ってピンを引き抜く。

「振り出しに戻りなッ……!」

 軽く後ろ手に放った手榴弾は、くるくると風に巻かれて渦の中心へ。

 渦中のアーレスには、吸い込まれて来るその球体が何なのか、一瞬理解できなかった。

 大きく円を描きながら目の前まで来た瞬間、咄嗟に振り払おうとして――炸裂する。

「……ッ!?」

 眩い閃光。黄金の華が散る。荒れ狂う風神は、バチバチと音を立て広がる蜘蛛の巣のような稲妻のアークに、全身を絡め取られた。

「ガァッ、なん、だこれッ、……――クソがァアア!!」

 顔の前で腕をクロスさせ、身体を丸めながら真っ逆さまに落ちて行く。

 鬼道の墜落を見送った琢磨は再び走り出し、一つ上の階までやって来た。

 息せき切ってフロアに飛び込み、どこか隠れられそうな場所はないかと目算する。

 と、次の瞬間、目の前の床が爆発四散。

 瓦礫と粉塵を巻き上げて、早くもアーレスが追いついてきた。

「ブッ殺す……!!」

 一発かまされた鬼の面は、激しい怒りに歪んでいた。

 口元から笑みが消えた分だけ、溢れ出す殺意の量が増している。

「チィッ!」

 もんどり打って倒れた琢磨は慌てて踵を返し、再び非常階段へ走った。

「逃がすかァアア!!」

 旋風を纏い、きりもみ状に飛び上がった鬼道は、ドリルのように天井と床を突き破りながら、怒涛の勢いで追跡する。

 階段で逃げる琢磨と、天井をぶち抜きながらあとを追う鬼道のイタチごっこは続く。

「ヒャッハァアーッ!」

 三階分ほど刳り貫いてそのフロアに到達したアーレスは、研ぎ澄まされた獣の感覚によって素早く獲物の気配を察知した。

 ――いる……。

 虎視眈々とこちらの隙を窺う者の息遣いが、埃っぽい空気を通して肌に伝わってくる。

 ちょうどこのフロアは倉庫に使われていたところで、身を隠せそうな遮蔽物が無数に存在していた。

 思わず嗜好心をそそられた鬼道は、舌なめずりをしてねっとりと嗤う。

「ヒッヒッヒッ、ネズミ狩りだぁ……!」

 周囲に気を払いながらじりじりと歩を刻み、探索を開始する。

 薄暗く、ガラクタが山積した部屋の中は鬱蒼としている。

 僅かな衣擦れの音が左後方から聞こえたかと思えばすぐさま消失し、今度は右前方からパキッと何かを踏んづけたようなラップ音が立つ。

 今のところ姿は見えない。どうやら上手く身を隠しながら移動しているらしい。

 鬱陶しい箱の山を遠慮なく突き崩し、足元の障害物を蹴り飛ばしながら奥へと進む。

 ふと背後に感じた気配。これまでで一番大きい。

 咄嗟に振り返ると、積み上げられた段ボール箱の向こう側、柱から柱へと駆け抜ける黒い影が見えた。

「そこだァア!!」

 すかさず真空弾を飛ばして狙い撃つ。

 段ボールの山が中腹から砕け散り、衝撃緩和剤に使われていたのだろう、大量の羽毛が粉雪のように舞い広がった。

「チッ、外したか……」

 ひらひらと降り注ぐ大量の羽毛が、予期せず視界を遮断する。

 その間隙を縫って、賽は投げられた。

 不意にカツーンと何か質量の軽い、硬い音が立つ。

 右後方から、柱に当たって跳ね返った機械性の球体が、風を切ってアーレスに迫った。

「……っ!」

〝あのビリビリ爆弾か〟

 先ほどの一撃でその威力を思い知っていた鬼道は、即座に真空弾を放って、直接手で触れることなくソレを弾き飛ばした。

 だがしかし――。

 ふと、その行方を目で追っていたアーレスは、そのことに気づく。

〝起爆しない!?〟

 それは一階ホールで倒した兵士から短機関銃を奪う際、一緒に回収しておいた使用済みの蓄電手榴弾だった。

 アーレスが空の爆弾に気を取られて思考を停止させた一瞬の隙を突いて、頭上から迫る脅威。山なりに弧を描き、漂う羽毛の中に紛れながら、もう一発の蓄電手榴弾が男を目掛けて落下する。

「――ッ!?」

 パリパリと爆発直前の帯電音でその存在に気づき、鬼道は唇を噛んだ。

 瞬間、かあっと眩い閃光が花開く。

「シャラクセェエエエ!!」

 稲妻が噴き出すその一瞬、咄嗟に放った斬撃で爆弾そのものを切り刻んで吹き飛ばす。

 間一髪、二発目を回避したアーレスだったが、直後に背後から迫り来る三発目には、もはや完全に対応できなかった。

「うぉおおおおりぃやああああ――――ッ!!!!」

「なっ、てめッ……!!」

 柱の陰から猛然と走り込んできた琢磨は、目を剥いて振り返るアーレスの喉元に、渾身の飛び蹴りを容赦なく叩き込んだ。

「ごがァ――っ!?」

 空咳を吐いて苦悶する鬼道。

 ぐりぐりと靴底をねじ込みながら、琢磨はサディスティックに嗤った。

「へへッ、どうだい!? 桐生琢磨様をナメるなよ、ゲス野郎ッ!!」

「ンぐぇえッ、……こっ、このッ、野郎ォオオオ!!」

 離れ際、凄まじい執念を見せたアーレスが、空中で身を捩る。

 瞬間、ぎらっと煌く風の刃。足元から反り上がるように発生した斬撃が、ゾバッと逆袈裟に、琢磨の脇腹を深く切り裂いた。

「――ッ!!」

 斬られた腹を庇うように背中から倒れ込んだ琢磨は、アーレスによって穿たれた床の穴から階下へと転落する。

 琢磨の蹴りによって吹き飛ばされたアーレスは、段ボール箱の山を薙ぎ倒しながらガラクタの山に頭を突っ込んだ。

 一階、二階と転がり落ち、なんとか穴の縁に手をかけて這い上がろうと試みた琢磨だったが、左手一本で全体重を支えきれるわけもなく、落ちるところまで落ちた。

「ぐぅっ、……ガッ、ぐはぁ――っ!!」

 落下の衝撃に身を硬くするのも束の間、脇腹に鋭い激痛が走る。

 堪らず傷口を押さえた瞬間、指に伝わるぐちょっとした手触り。

 見ると手のひらが真っ赤に染まっていた。

 血が……。

「ヒギぃ、いってぇえ……ッ」

 なんとか痛みを緩和させようと、フゥーフゥー妊婦がやるように深呼吸を繰り返し、きつく傷口を握り締めて止血するが、どちらもあまり効果はなさそうだ。

 必死に這い蹲って、自らが落ちてきた天井の穴を見上げる。

 今のところ、上から奴が追って来る気配はない。

 いくら素人の放った一撃とはいえ、柔らかい喉笛の部分を思い切り踏みつけてやったのだ。奴とて回復に時間がかかっているのだろう。

「クッ、うぅっ……!」

 ともかくこれはチャンスだ。今のうちに次の一手に備えなければ。

 激痛に軋む身体を叱咤して、何とか立ち上がる。

 負傷した脇腹を押さえながら走り、アーレスが破壊した跡を伝って、今度は下へ下へと降りて行く。

 そこからさらに三階ほど下ったところで、ようやく彼奴と最初に対面した階まで戻って来た。崩れた落ちた天井の隙間から、垂れ下がったケーブルを頼りにするすると床まで下りてゆく。着地と同時に、びちゃっと足元から水音が立った。

 纏わりつく冷たい感触に下を向けば、靴とズボンの裾が、ぐっしょり濡れている。

 辺りを見渡すと、床が一面水浸しになっていた。

 恐らくはアーレスが派手に暴れたせいで、水道管の一部が破損したのだろう。

 この階はとりわけ損壊が激しい。大小の瓦礫が至るところに山積していた。

 傍らには、自ら上着をかけてやった少女の遺体が、今も忘れ去られたようにひっそりと横たわっている……。

 手元に残った蓄電手榴弾エレクトロニクス・ボムは、あと一発。

 これが最後のチャンスかもしれない。


〝やれるだけのことは、やってみるか〟

 琢磨はポケットから取り出したクタクタの煙草に火をつけ、瞳の奥に鋭い光を宿した。


                  5


 空間転移(テレポート)によって最上階を目指す一行は、二度目のインターバルに入っていた。

「ハヤトくん、大丈夫?」

 和明がリュックサックから取り出した水を渡しながら、労いの言葉をかける。

「ああ……」

 能力の連続使用によって体力を消耗した隼人は、壁際に腰を下ろし、軽く水分を補給しながら呼吸を整えていた。

 その他の面子はエレベーターホールの前にたむろして、しばし気もそぞろに時間を潰している。フロアの案内図に表記された数字は『159』、ちょうど琢磨と別れてから五十階ほど移動して来た計算になる。

「大体、今で中腹を過ぎた辺りですかね……」

 真帆がおずおずと口を開いて言った。

「まだあと半分近くもあるのか……」

 祐樹が辟易したように呟き、梨香が隼人の方を振り返る。

「ハヤト、行けそう?」

 彼女からの問いに、彼は低く落ち着き払った声で苦笑を返した。

「まぁ、階段で上がるよりはマシだろう……」

 既に陽は落ち、窓の外には夜の帳が下りている。

 しかし、まだまだ頂上への道のりは遠い。

 雲の上まで聳え立った地上一千メートル越えの、超ド級高層ビル。

 皆その途方もない規模を、改めて思い知っていた。

 隼人は懐から取り出したパイプ煙草で一服したあと、膝を折って立ち上がる。

「もういいのか?」

 祐樹が問うと、彼は口元を真一文字に引き結んで頷いた。

「時間がない。先を急ごう」

 離れていたメンバーたちが、隼人の周りを囲むように集まってくる。

 そのとき――。

「待って!」

 舌鋒鋭く言い放った梨香は、片手を腰の高さまで広げて制止を促す。

「どうした」

 隼人の問いに、返答はない。

 皆の訝るような視線が、突然態度を豹変させた彼女の背中へと注がれていた。

「どうやら私は、ここまでみたいね……」

 梨香は一心に、ほの暗い通路の奥へと注意を向けている。

 その言葉の意味を推し量ろうと、全員が彼女と同じ方角を見た。

 くすくすと、囀るような笑い声が、どこからともなく漏れて来る。

 女の声だ……。それも複数……。

 重なり合った啜り笑いの声は、通路の奥から茫と反響して耳に届き、幻想的で摩訶不思議な雰囲気を作り上げる。

 ――そして、俄かに。

 通路の両サイド、等間隔に並び立った支柱の陰から一斉に現れる白い影。

 蝶のようにひらひらと、身に纏ったドレスの裾を靡かせながら優雅に舞い踊る六人の若い女達。一見、無邪気にじゃれあっているように見えて、規則的に中央で交差する動きなど、不気味なほどに統率が取れていた。

 魔界を思わせる異様な光景に、一同が呆然と立ち尽くす中。

 不意に戯れあっていた白装束の女達が一斉に引き上げ、道を譲るかのように中央を空けて立ち止まった。

 耳にべったりと張り付くような女達の笑い声が途絶えて、辺りに静謐が戻る。

 そこへ――。

「――お待ちしておりましたわよ、皆さん?」

 かつ、かつと、ガラスのヒールを高らかに打ち鳴らして、闇の中から浮かび上がる妖艶なシルエット。

 肩までかかった鮮やかな金髪縦ロールを小気味良く揺らして、豪華絢爛な佇まいを惜しげもなく衆目に晒す。

 背筋の凍るような美貌に不敵な笑みを携え、ミス・ロンリーは出現した。


「神へと至る塔へ、ようこそ」


 現れた〝病毒の女神〟と六人衆を前に、梨香は低く背後の仲間たちに告げた。

「先に行って。ここは私が引き受けるわ」

 カキンッ――……と。

 左手に携えた胴田貫の鍔を親指で押し上げ、鞘の根元から透き通るような剛剣の刃を覗かせる。

「梨香……」

 祐樹は心細く呟いて、別れを惜しむような表情をした。

 彼女は振り返らない。

 七人の敵を前に凛然と立ったその後姿は、月光を透かす夜桜のように神聖で美しい。

 ふと、俄かに歩を刻み、その隣に並び立つ者があった。

「――手伝うよ」

 少年の参入に、梨香は少し驚いた様子で問い掛けた。

「和明……?」

 彼は人好きのする笑みを浮かべ、柔和な声で言う。

「早く終わらせてタクちゃんを助けに行くんでしょ? だったら人手は多い方がいい。それに頂上まで行く人数は少ない方が、ハヤトくんの負担も減る」

「……」

 僅かに逡巡の間を置いて、梨香は再び前を向きながら、少しだけ安堵を滲ませた声で答えた。

「そう、それじゃあお願い」

「うん」

 そして、また一人。

 意を決して足を踏み出す少女がいた。

「――私も、残ります」

 彼女の申し出には、誰もが驚いた。

「真帆、あんたまで……」

 梨香の少し呆れたような口調に、真帆は困り顔で笑ったあと、隼人と祐樹の方をくるりと振り返った。そして、ちょっぴり照れくさそうに、もじもじとスカートの裾を握りながら言葉をつむぎ出す。

「これ以上は、お役に立てそうにありませんから……。ユーキくん、ハヤトくん、頑張ってください」

「真帆……」

 心配そうな祐樹の呼びかけに、真帆は笑みを浮かべて、ポケットから取り出した赤い色の鉱石を小さく振って見せた。

「ハヤト、そういうわけだから。あとは頼んだわよ?」

「ああ」

「三人とも、気をつけて」

 留まることを決意した者たちは、それぞれの面持ちでしっかりと頷いた。

 隼人が促すように、ぽんと祐樹の肩を叩く。

「行くぞ」

「ああ……」

 梨香・和明・真帆の三人を残し、

 二人の姿は一瞬でその場から消失した。――


                  6


 ここも違う。ここにもいない。

 違和感の残る喉をさすりながら、鬼道は逃げた琢磨を血眼になって捜していた。

「クソがッ、あの野郎どこに行きやがった!」

 酷く苛立ち、足元に転がっていたコンクリートの破片を蹴り飛ばす。

 そのとき、ふと足元の地面に血の痕を発見した。

 この匂い、手触り、まだ新しい。

「クヒヒッ、ヤツのものだぁ……!」

 見渡せば、真っ赤な液状の軌跡は通路の奥まで点々と続いていた。

 さっきの一撃で動脈を傷つけたのか。思いのほか出血が酷いらしい。

 アーレスは傷ついた獲物をじりじりと追い詰める快感に酔いしれながら、地面に残った血の跡を辿って行く。

 順調に階をくだり、ようやく出発地点まで戻って来た。

〝ここか……〟

 崩れた天井の穴から、一息に飛び降りて水浸しのフロアに着地する。

 途端、煙草の匂いが鼻についた。ゆらゆらと漂うほろ苦い紫煙。

 半ばまで崩れ去った壁の向こう側から、つーっと一筋、煙が立ちのぼっている。

 注意して見れば、端の方から肩の一部がひょっこり覗いていた。

 どうやら壁に背を預け、座り込んでいるようだ。

 ククッと、鬼道は口元を歪めて静かに嘲笑う。

 あんな蹴り一発で、この俺様を倒したつもりだったのかと。

 破砕された大理石の柱を踏み越え、じっと息を殺して背後から近づく。

 一つ脅かしてやるつもりで、いきなり声を発した。

「のんきに一服してる場合かよ、カスが!」

 崩れかかっていた壁を乱暴に蹴破り、アーレスは素早く向こう側に回りこんだ。

 そして、驚愕する。

「――っ!?」

 壁に凭れ掛かっていたのは、少女の遺体だった。――

 線香に見立てた煙草が一本、傍らに添えられている……――。

 瞬間、背後からばっと堰を切ったように動き出す気配。

 鬼道が振り返ると、上着を被って横たわり、虎視眈々と動かない死体になりすましていた琢磨が跳ね起きるところだった。

「キッサマァアアアア!!」

 再三、裏を掻かれたアーレスが鋭い犬歯を剥き出しにして激昂する。

 琢磨は躊躇なく絶縁体のピンを引き抜き、電極部を露出させた。

 ざっと膝を起こしながら、大きく腕を振りかぶって最後の一発を投擲。

 思わず身を竦ませたアーレスだったが、琢磨の放った蓄電手榴弾が、てんで見当違いの方向に飛んで行くのを見て、肩の力が抜けたようにせせら笑う。

「ハハハッ、どこに投げてんだよバーカ!」

「馬鹿はテメェだ」

 琢磨はすかさず、床に張った水の膜を激しく掻き混ぜるように走り出し、瓦礫の山を踏み切り台に使って大きく跳躍。

 天井の断面からぶらんと垂れ下がった一本のケーブルに飛びついた。

 琢磨の行動を見て、鬼道もようやくその真意に気づく。

 水浸しとなったこのフロアに、電流が漏出したらどうなるか。

 血相を変えて振り返ったときにはもう遅い。

 壁に当たって勢いを失った蓄電手榴弾は、重力に従い、ゆっくりと放物線を描いて落下する。スローモーションのようなその光景を、アーレスはただ呆然として見送った。

 ちゃぽん――……。

『――!?』

 瞬間、凄然と噴き出す稲妻の炎。

 ばっと床一面に、眩い黄金の海が広がった。


                  7


 隼人と祐樹が去ったあと、梨香は、和明・真帆とともに改めて目の前の敵と向かい合っていた。

〝この女が、アルテミス……〟

 毒を操る能力を持ち、琢磨から右腕の機能と放電能力を奪った張本人。

 一見、血生臭い争い事とは無縁の背格好をしているが、琢磨から聞いた話では、接近戦においてもかなりの手練らしい。

 不敵に微笑む七人の強敵を前に、梨香はじりじりと間合いを計りつつ、両隣の二人に素早く指示を伝えた。

「近接格闘は私に任せて、和明は作戦参謀、真帆は水遁で後方から援護をお願い」

「うん……!」「了解!」

 二人が頷くのを見て、梨香は〝精神感応〟を発動。

 和明・真帆の両名と思考を同期(リンク)させた。

 これで声に出さずとも、念話によって常時、意思の疎通が図れる。

 六人の女衆に囲まれながら、アルテミスが俄かに口を開いた。

「フフ、まずはお手並みを拝見といきましょうか?」

 高く囀るような声とともに、彼女の背後から渦を巻いて黒い塊が出現。

 禍々しさを具現化したような漆黒の障気は、やがて六つに分散し、空中でぐにゃぐにゃとスライムをこねるように変形、一定の形状を成すと同時に硬化する。

 そうして作り出されたのは。

 ――槍、薙刀、短剣、アーミーナイフ、中国刀、サーベル。

 配下の六人衆は素早く思い思いの得物を取り寄せ、慣れた手つきでそれらを構えた。

「二人とも、下がって!」

 格闘に覚えのない和明と真帆を後退させ、梨香は鞘に納めたままの胴田貫を正眼に構える。険しい表情の梨香に対し、白い女たちは不気味に笑っていた。

 瞬間、頭の上まで手を掲げたミス・ロンリーが、ぱちんと指を鳴らす。

 ――戦いの火蓋が切って落とされた。

「ヒヒヒヒッ!」「うふふっ」「あはははは!!」「キィイイイイ!!」

 甲高い奇声を上げながら、蜘蛛の子を散らすように陣形を広げ、一斉に襲い掛かる女達。

 その出で立ちもさることながら、動きも奇怪だった。

 空間を目一杯大きく使って、壁伝いに三角跳びを決めたり、前宙、バク宙を自在に交差させて撹乱するなど、身体能力が異様に高く、まるで雑技団か何かのようだ。

「ホワァアアアアアアアアアァ――!!」

「……ッ!」

 天井すれすれの高い跳躍から一気に振り下ろされた二本の短剣を、鞘に収めた胴田貫の峰で受け止め、直後に背中を狙って突き出されたアーミーナイフの一撃を反転しながら躱し、余った勢いで前につんのめったナイフ操者の背中を、すれ違いざまに叩いて体勢を突き崩す。

「シュッ!」

 その背中を巧みに乗り越えてやって来た薙刀の一振りを左右に首を振って躱し、サーベルの剣戟は真正面から胴田貫の一発を当てて叩き払った。

「ヤァーッ!」

 しゅるしゅると手の中でトリッキーに回転しながら迫る中国刀からは一旦距離を取り、その隙を狙って放たれた槍の一突きは腕を広げ、脇の間を擦り抜かせるように回避。相手の腕が伸びきったところで脇を締めて槍を固定、手首を捻って胴田貫の柄尻を相手の下顎に鋭く叩き込む。

「がはッ……!?」

「――一つッ!」

 どさりと槍使いを床に沈めた梨香は、姿勢を低く保って疾駆する。

 囲まれないように通路を奥へと移動しながら、次々と降りかかる女衆の攻撃を捌き、躱し、反撃に転じる隙を窺う。

 刃鳴りを散らしながら足を動かし、女たちの追従を振り切って逃げた先、曲がり角の死角を利用して素早く反転。すぐ背後に迫っていた中国刀の女が、コンマ00秒反応に遅れた隙を突いて、首筋に峰打ちを叩き込む。

「グァ……ッ――」

「――二つ!」

 手狭な通路を抜けると、開けた場所に出た。

 椅子とテーブルがずらりと立ち並び、窓際にはカウンター席がある。

 食堂(フード・コート)か。この広さなら。

 一息に踵を返し、走りこんで来る残り四人の刺客と正面から向かい合った。

 風を切る。脚の回転を加速させながら、大きく腕を振り上げて胴田貫を天井近くまで放り投げた。

「行くわよッ……!」

 瞬間、膝のバネ最大限利用して、跳躍。

 顎を反らせて短剣の一振りを躱し、その女の即頭部すれすれに空の両足蹴りを決めるような格好で地面と平行に足を投げ出す。すれ違いざま、空中で素早くドレスの胸倉を掴み上げた。

「ちいぇすとぉおおお――ッ!!」

 着地と同時に足腰に力を溜め、流れるような体重移動とともに短剣使いの体を思いっきり投げ飛ばした。

 ぶんと、空中に勢い良く投げ出された短剣使いは、背後に居合わせたナイフの女も巻き込んで、一気に壁際まで吹き飛ぶ。

「まだまだァ!!」

 梨香は空かさず傍らの支柱を鉄棒のように使って、水平方向に大車輪を決めると、その勢いを使って矢のようにすっ飛んだ。

 一直線に風を切りながら捻りを加え、両膝を揃えて屈伸させる。

「焔穿蹴――ッ!!」

 ドガガガガッ――と、壁際まで吹き飛んでいた短剣女の腹に、きりもみ状の強烈な両足蹴りが炸裂。衝撃はその背後に折り重なっていたナイフ女の体内にまで浸透し、あまつさえ後ろのコンクリートに大きなヒビを入れた。

「――三つ! 四つッ!!」

 メデューサ戦では決め損なったその一撃で、同時に二人を倒し、そこへ狙い通りのタイミングで頭上から落ちてきた胴田貫をパシィッと片手でキャッチする。

 そのまま背後から脳天を狙って振り下ろされた薙刀の一撃を振り返ることなく受け止め、華麗にターンを決めながら逆袈裟に振り払った。

 トリッキーに宙返りを決めながら攻め込んで来るサーベル使いには、着地の瞬間、傍にあった椅子を投げつけて引き倒し、瞬間、薙刀使いの胴を狙って横一文字に一閃。

「シュッ!」

 ばっと飛び退いてそれを躱した薙刀使いは、後方宙返りによって背後の机に颯爽と飛び乗り、高い位置からリーチの長さを活かした攻撃を仕掛けてくる。

「……っ!」

 一つ、二つと躱した拍子に、思い切って踏み込んだ梨香は、スライディングの要領で薙刀女の乗った机の下をくぐり抜け、瞬時に背後を取った。

 すかさず弧を返し、胸元まで伸びてくる長尺の刃を、後ろに飛びつつ身体をくの字に折り曲げて躱し、丸めた背中から一つ隣の長机へと乗り上げる。

 抜け目なく追撃して来た凶刃を、つま先でひっかけるように蹴り上げた椅子を使ってガードし、飛び込み前転を逆再生したような動きで一瞬のうちに跳ね起きると、梨香は同じ土俵の上で薙刀使いと対峙した。

 しかし敵は縦横無尽に長物を振り回し、つけ入る隙を与えない。

 すり足でじりじりと後退しつつ、テーブルの間を飛び回りながら防戦一方の梨香。

 後方からは挟み撃ちを狙ってサーベル使いが迫っていた。

「……くッ!」

 このままではどうせジリ貧だ。

 イチかバチかの奇策。

 鞘入りの太刀を肩の上まで担ぎ上げるようにして大きく構えた梨香は、意を決してテーブルの上から飛び降りる。刹那、足、腰、腕をギリギリと限界まで引き絞り、エネルギーを圧縮――そして一気に解放――。

「焔ッ、旋風ッッ!!」

 鞘に納めた胴田貫をバットのように振り回し、机の角を思いっきり叩いた。

 瞬間、爆発的な勢いで吹き飛んだテーブルの縁が、薙刀を粉砕し、女の脇腹に突き刺さる。薙刀使いは、周囲の椅子やテーブルを豪快に巻き込みながらフロアの隅まで吹き飛んで沈黙した。

「――五つッ!」

 奥義を変則的に用いた力技でようやく五人目を倒し、最後の一人と対戦する。

「キィェエエエエエエエエ――――――ィイイ!!!!」

 絹を劈くような怪鳥音を上げて迫るサーベル使いに、梨香も気合いで応えた。

「ハァアアアアアアアアアアア――――ッ!!」

 正面からぶつかり合い、バチバチと激しい剣戟を打ち交わす。

 西洋の剣と日本刀の激突。

 純粋な技量では梨香の方が勝る。しかし、くるくると宙を舞いながら自在に刃を振り回すサーベル使いの曲芸的な動きに、彼女は些か翻弄されていた。

 そのとき。

「……“聖なる水よ、伸縮自在の堅牢となりて、邪悪なる者を捕らえ賜え”――」

 突如として空間に出現した水の塊が、宙を漂いながら急速に寄り合い、巨大な渦となってサーベル使いを取り囲む。

〝真帆か!?〟

 俊敏なサーベル使いの動きが止まった。

 その隙を逃さず、梨香は虚空を引き裂いて一気に跳躍。

「――ラストォオオ!」

 女の手からサーベルを弾き飛ばして素早くマウントを取ると、鞘に収めた胴田貫の先で容赦なく相手の鳩尾を突いた。

「六つッ!」

 がはっと空咳を吐き、女が痙攣しながら失神するのを見届けたあと。

 梨香は、膝からどうと崩れ落ち、床に手を突いて疲労を吐き出した。

「くはぁっ、――はぁっ、はぁっ、ひぃっ、ふぅっ!」

 滴り落ちる大粒の汗。心臓が早鐘のように鼓動を打ち鳴らし、胸が苦しい。

「梨香ちゃん!」

「三嶋さん……!」

 駆け寄って来た和明と真帆が、ぐったりとした彼女の体を両脇から抱えようとした。

「平気よ、怪我はしてないから」

 息せき切ってそう言った梨香は、二人の支えを断ってひとりでに立ち上がる。

 この場に四人、通路脇に二人、――これで、六人の女衆は全員仕留めた。

「今のは単なる前哨戦に過ぎない……。本当の戦いはこれからよ」

 二人を叱咤してきつく唇を噛み締めた梨香は、足元に転がっていた敵の短剣を素早く拾い上げ、振り向きざまにズバッと投擲――。

 窓際のカウンター席に腰を下ろし、涼しげに傍観を決め込んでいたミス・ロンリーは、投げつけられた短剣の刃を指二本で易々と受け止め、滲むように嗤った。

「フフ、上出来ですわ」

 葉巻のように指の間に挟んでいた短剣を振り捨て、組んだ手のひらを胸の前にうんと突き出して伸びをする。

 桃色の大きな瞳を薄っすらと細めながら、深呼吸。

 一見、うららかな春の陽気でも似合いそうなその仕草。

 しかし、帽子の鍔元から覗く眼窩には、得体の知れない闇があった。

「――あなたたちとなら、背筋が凍りつくような殺し合いを愉しめそう……」

 異様な気配を感じ取った真帆が俄かに後退り、和明がごくりと生唾を呑み込む。

 梨香は鋭い双眸で、キッと魔女を睨み付けた。


                  8


 バチバチと凄まじい音を立て、激しく点滅を繰り返していた稲光が次第に収束する。

 琢磨は頃合を見計らってケーブルから手を離し、床に降り立った。

 じゅわーっと音を立てて漂う熱気に、額から汗が伝う。

 電熱と蒸発した水によって、辺りは一面、真っ白なスチームに覆われていた。

〝やったか……!?〟

 琢磨はじっと目を凝らし、靄の向こうを注視する。

 そのうち薄っすらと霧が晴れ、フロアの様子が判るようになってきた。

 期待を込めて、ぐっと拳を握り締める。

 不意に、白煙の向こうからゆらゆらと浮かび上がる影。

 そして次の瞬間、彼は度し難い現実の壁を直視することとなった。

「――っ!?」

 驚愕に目を見開き、思わず震えが来た。

「ふぅー、あっぶねー。もうちょいで黒焦げになるところだったぜー」

 宙に、浮いている。

 鬼道は床から数メートル上、何もない空中に平然と足を突いて立っていた。

 混乱する思考が、一つの可能性を導き出す。

第二の能力(セカンド・アビリティ)か……!?」

 琢磨の悔しげな叫びに、鬼道は嘲るような冷笑を突き返した。

「ハッ、ちげぇーよ、バーカ!」

 コキコキと首を鳴らしながら、アーレスは得意げに論う。

「俺の能力は〝空気圧操作〟だぜ? そこらじゅうにある大気を圧縮して足場にすることぐらいわけねぇーんだよ」

 つまり、あのかまいたち現象は、その応用に過ぎなかったということだ。

 敵の能力を正確に把握していなかった、琢磨のミスだ。

「くそったれ……」

 彼は諦めたように吐き捨てて、空っぽの笑みを浮かべた。

 頼みの綱の蓄電手榴弾はさっきの一発でラスト。

 もはや他に打つ手もない。

「ケケケ、随分といい顔になったじゃねーかブ男! 気に入ったぜェ……?」

 琢磨の表情から目敏く絶望の気配を読み取ったアーレスは、にいっと嗜虐の笑みを浮かべて減らず口を叩く。

「この際だ。ついでに教えといてやるよ――」

 鬼道が何か言いかけたその刹那。

 瞬く残像。不遜な男の輪郭が一瞬の黒い影を残して素早く掠め過ぎる。

 鬼道を睨んでいたはずの琢磨は、気づけば捉えどころのない虚空を眺めていた。

〝消えた!?〟

 後退しつつ、左右に首を振ってその姿を捜す。

〝奴はどこだ!?〟

 次の瞬間――。

「――俺のセカンド・アビリティはこれだ……」

 背後から、耳元にいきなり声がかかった。

〝なッ――!?〟

 心臓が跳ね上がり、恐怖に一瞬、目の前が白みかける。

 ゾクリと震え上がりながら、琢磨は慌てて背後を振り返った。

「空間転送!?」

「ハズレだァア、間抜けぇえ!」

「――ぐあッ」

 振り向きざま、強烈な鉄拳を鼻っ面に受けて千鳥足によろめく琢磨。

 刹那、再び鬼道の姿が消える。そして一瞬の残像が見えたかと思えば、今度はいきなり背後からの蹴り。踵が背骨を鋭く打ち据える。

「がは――っ」

 背中を蹴られて前から倒れそうになったところ、顎に強烈な膝蹴りを食らい、琢磨は背筋を仰け反らせながら、一転して後方に体を投げ出した。

「ごふッ……」

 噴き出した唾液と一緒に、叩き折られた奥歯がパラパラと飛び散る。

「クハハハハッ!」

 F1のスリップストリームを重ねるように、目にも留まらぬ連続攻撃で琢磨を自在に弄びながら、アーレスは笑いを含めた声で叫んだ。

「――俺のセカンド・アビリティは〝高速移動〟だ! 空間操作による転移(ワープ)じゃねぇえッ! 純粋な俊敏性の強化よッ!」

 言いながらも鬼道が攻撃の手を休めることはない。

 琢磨は見えない攻撃に次々と殴り飛ばされながら、前後不覚に行ったり来たり。

 まるで数人の男たちから取り囲まれ、袋叩きにあっているかのようだ。

 脳が揺れ、半ば意識を失いかけているにもかかわらず、前後左右から絶え間なく突き刺さる打撃によって、倒れることすらかなわない。

「おらおらァ、人間サンドバックだ! 踊れ踊れ踊れぇえええええッ!!」

 突風が吹き荒れる。

 アーレスの姿は、既に肉眼では捉えられない速度に達していた。

 襲い掛かる拳や踵の数は爆発的に膨れ上がり、一度に数十発という攻撃が、琢磨の全身に隈なく突き刺さる。

 皮膚と肉が凄まじい衝撃に波を打ち、激しく振動した。

 ドガガガガガガ――と、工事現場のドリルがアスファルトの地面を砕くような音が立つ。

 嵐のような打撃の応酬に、琢磨は目を剥いて悶絶した。


「ぐぅううぁあああああああああああああああああ――――――ッ!!!!」


 頭の先から爪の先まで、機関銃による十字砲火を浴びているような感覚。

 全身の至る所に、無数の拳や踵がめり込むたび、思考が赤と黒にチカチカと点滅を繰り返す。

 失敗した――。失敗した――。失敗した――。

 詰が甘いなんて問題じゃない。

 根本からして認識を誤っていた。

 人が一匹の蟻を殺すのに全力を尽くして戦うだろうか。

 答えは否だ。

 蟻一匹の生命など、人間にとって見れば、爪先一つで弄ぶに事足りる。

 例え指先を少々噛みつかれたとしても、それがなんだというのだ。

 一匹の蟻が、どれだけ死力を尽くして牙を剥こうとも、人間には敵わない。

 そもそも人間と一匹の蟻という図式において、戦うなどという言葉自体が不適当だ。

 それは、桐生琢磨とアーレスの構図においてもまるっきり同じことが言えた。

 琢磨の立場からすれば命懸けの死闘であっても、鬼道にとっては違う。

 数万単位の人間を、一瞬にして肉塊の山に作り変えることが出来る〝殺戮の神〟アーレスにとって、琢磨一人の存在など、虫けら程度の価値しかない。

 最初から相手にされてなどいなかったのだ。

 戦っていると思っていたのは、琢磨一人の勝手な思い込みであって、実際、鬼道が琢磨を相手にやっていることというのは、子供が暇つぶしに捕まえた昆虫の羽根や足をむしり取り、滑稽に蠢くさまを観察しているのと同じことなのだ。

 それを、どこでどう取り違えてしまったのか。

 咄嗟の思いつき程度で、一瞬でもこの化け物を倒せるんじゃないかと本気で思ってしまった自分は、どうしようもない馬鹿だと琢磨は自嘲する。

「遅ぇ遅ぇ遅ぇ遅ぇええ!! なんだァアア、そのステップはぁあ!? 蝿が止まるぜぇええッ!! ヒャァアーッハッハッハァアアアア――!!」

 手足がひしゃげ、内臓が破裂し、体の機能が滅茶苦茶に破壊されてゆく。

「ギ……ガァ……ァア……」

 もはや苦痛の極みを通り越し、空を飛んでいるような高揚感さえあった。

 目が潰れ、鼓膜が破れ、喉が擦り切れて。

 あらゆる感覚が一斉に失われてゆく。

 意識が、遠ざかる。

 奈落のような深い闇の淵へと堕ちて行く。


 ――俺は、死ぬのか……。

 ――これで終わりなのか……。

 ――父ちゃん、母ちゃん、姉ちゃん……。




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