第十五章「決戦前夜」
第十五章「決戦前夜」
1
夜の張が下り、どことなく浮き足立った雰囲気で早々に夕食を済ませた僕たちは、それぞれ自由な時間を過ごしていた。
さて、僕はどうしようかと考える。――
明日が大変な一日になるということは分かりきっているのだから、今日は早めに就寝して、しっかり身体を休めておくのが一番いいだろう。
しかし、どうにも胸が高鳴っていて、とても眠れるような心境ではなかった。
足や手の先が情けないほどにぶるぶると震えて、下っ腹が無性に疼く。
やっぱり、相当緊張しているのだと思う。
それは僕だけでなく皆も同じようで、それぞれの不安や焦り、強い意気込みのようなものがその場の空気に溶け合ってむんむんと膨れ上がり、否が応にも心を急き立てられる。
今度こそ生きるか死ぬか、命懸けの戦いになるということももちろんあるが、僕の場合いよいよ明日、ティアラと五年ぶりに再会を果たせるかと思うと、居ても立ってもいられない心地だった。
彼女と最後に別れてから、僕は随分と見た目も変わってしまった。
ティアラは今の僕を見て、あの佐藤祐樹だとわかってくれるだろうか。
彼女に会ったら、何と声をかけよう。話したいことは山のようにあるのだけれど、なんだか上手く話せる自信がない。
そんなふうに期待が高まる反面、本音を言えば不安も大きかった。
ティアラは、無事でいるだろうか。
無論、敵の計画に彼女の存在が必要不可欠である以上、生存は間違いないと思う。
しかしそれもメデューサから話を聞いただけで、僕は彼女が一体どんな扱いを受け、どんな状態で監禁されているのか、実際のところは何も知らないのだ。
ティアラの安否が気にかかる。せめて様子さえ分かればと、いたずらに煩悶する。
恐怖と高揚、期待と不安、相対する様々な感情の鬩ぎ合いで、胸が苦しい。
こんな状態で布団に入っても、どうせ一睡も出来ないことは請け合いだ。
出来れば夜が明けるまで、誰かと話していたい。
そういえば、みんなはどのように過ごしているのだろうと思い立ち、僕は話し相手を求めて、アジトの中をそわそわと歩きまわった。
こういうとき、何か支えになる言葉を授けてくれそうな隼人は現在、自治会との最終的な打ち合わせのために出払っている。
まずは一番誘いやすそうな琢磨にあたりをつけて彼の部屋へと足を運んだが、生憎と無人。続いて和明の私室を訪ねると、琢磨も一緒にいた。
部屋には機械の部品や工具が雑然と転がっていて、二人はなにやら忙しなく作業に勤しんでいる様子だ。
どうかしたかと、気さくに声をかけてもらったが、こちとら単なる暇つぶし。
邪魔をしては悪いと思い、二人とは二三言葉を交わしただけで早々に別れる。
次に梨香のもとを訪ねたが、彼女も明日の決戦に備え、刀の手入れをしている最中だった。深い静謐の中、なにやら神妙な面持ちで瞑想に耽っている彼女の姿からは、なんとも侵し難いオーラが漂っていて、やはり声をかけづらい。
ラスト、真帆の私室はまたもや無人。その後、アジトの中を隈なく探してみたが、彼女の姿はどこにも見当たらなかった。
結局一人残されて、僕は少々途方に暮れる。
他の面子を見習って、僕も明日のために何か準備をするべきではないかと思ったが、拳銃の手入れは夕方済ませたし、その他には特にやることがない。
中庭のベンチに腰をかけ、ふと何気なく夜空を見上げてみれば、月が綺麗だった。
そこで隼人が帰るまで、少し外を散歩でもして来ようかと思い立つ。
住宅地を歩いても仕方がないので、河川敷の方角に足を向けた。
川のせせらぎを聞きながら、凛とした夜風に当たれば、少しは心も落ち着くだろうと考えたのだ。
月明かりの落ちた川原の土手をのんびりと歩き、早鐘のような動悸を鎮めようと、深呼吸を繰り返す。
ひんやりと澄んだ夜の空気が、すうっと鼻の奥を通り抜けて、気持ちが良い。
やがて橋の上に差し掛かり、僕はその中央付近にひっそりと佇む一人の少女を見つけた。
「――真帆?」
近寄って声をかけると、手すりにもたれて川面を見つめていた彼女は、不安げな表情を浮かべてこちらを振り返った。
「ユーキくん……」
真っ白なワンピースに身をくるみ、愁いを帯びた瞳で月の光を煌々と浴びる彼女の姿は、やけに儚げで、そこはかとなく神秘的な風情が匂い漂っていた。
「何してたの、こんなところで?」
僕が尋ねると、彼女は言い難そうに口ごもりながら言葉の穂を紡ぐ。
「少し、みんなのところに、居づらくて……」
力なく言った真帆は俯き、そのままそろそろと萎縮するように背を向けてしまう。
僕は隣に並んで、橋の欄干に肘を置いた。
そうして、頬にまだ幼さが残っているその横顔を見つめながら、僕はなるべく柔らかい口調を選んで問い掛けた。
「どうして?」
少女は沈鬱に顔を伏せ、しばしだんまりを決め込んだあと、
不意にぽつりと、唇を震わせて言った。
「怖いんです……」
「怖い?」
真帆は頷き、それからとつとつと、自らの境遇を話し始めた。
「私は、昔から意志が弱いんです……。ちっちゃなときから、何をするにも自分の意思では決められず、いつも人の後ろに小さく隠れて、いつも人の意見に従って、ただ周囲に流されるがままに今まで生きてきました……。最初は、お父さんとお母さんに頼りっきりでした。けれどテロが起きて、両親を失くした私は、同じように孤児となった子供たちを保護するボランティアの人たちに匿われて、何もわからないままこの街にやって来ました。それからは大勢の子供たちの中に紛れ、ただひたすらにみんなと同じことをして、同じことを言って、流れからはみ出してしまわないようにと心がけながら暮らしていました。けれど私はとろくて、気も小さかったので、そのうち、いじめっ子に目をつけられてしまったんです。私がいじめられているところをたまたま見ていて、成すすべもなく泣いていた私を助けてくれたのが、梨香ちゃんでした。彼女は同い年だったけど、私よりもずっとしっかりしていて、お姉さんのように世話を焼いてくれました。両親の代わりに依存出来る相手を見つけた私は、彼女の厚意に甘え、それ以来、梨香ちゃんに頼りっきりでした。今の仲間に加わったときだって、梨香ちゃんが入ると言ったので、私も一緒に入ったんです。ハヤトくんが今度の計画を立てて、みんながそれに賛同したときも、私は正直言ってとても怖かったけれど、梨香ちゃんや他のみんなの顔色を窺いながら、一緒に頷きました。私は卑怯で、とてもちっぽけな人間なんです……。みんなが力を合わせて頑張ろうとしているこんなときに、逃げ出したいなんて……」
そこまで聴いて、ようやく僕にも、彼女の抱える問題のコアが見えてきた。
つまり――自らの意思を持たず、ただ周囲の人間に流されるがままに生きて来た真帆には、命を賭してまで戦う理由がないのだ。
死の恐怖に打ち克つためには、それ相応の覚悟が要る。そして覚悟を決めるためには、死のリスクを犯してでも手に入れたいと思える対価、成し遂げたい目的が必要である。
しかし真帆にはそれがない。
恐怖と鬩ぎ合うものが、寒さを凌げるだけの情熱がないのだ。いうなれば、彼女の心は裸のまま、凍えるような吹雪の中に晒されているようなものである。
真帆は震えながら自身の身体を抱き締めるように、鎖骨から肩にかけてまでの部分を、弱々しくさすった。
「――この火傷を負ったときから、ずっと後悔してました……。大変なことになっちゃったって……。昼間、ハヤトくんの演説を聴いても、私はただもう、自分が怖いばっかりで、殺されたお父さんやお母さんの仇を取ろうなんて気持ちは、どうしても湧いて来なかったんです。最低、ですよね……。私はまるで、自分が白くて綺麗な羊の群れにたった一匹紛れ込んでしまった、黒くて醜い羊みたいだと思いました……。だからみんなと一緒にいることが、恥ずかしくて、申し訳なくて、仕方ないんです……」
一頻り彼女の懺悔を聞き終えて、僕は考える。
「戦う理由か……」
これは、なんとも難しい問題だ。
たとえば、和明も彼女と同種の劣等感に苛まれていたが、彼の場合は、戦う意思はあるのに、それに伴うだけの力がないというのが、悩みの種だった。
故に梨香の助言と隼人の導きによって、力を得ることに固執せず、戦略と戦術を持ってそれを補うという方法論を見出すことで、和明はその課題を克服できたのだ。
しかし、真帆の場合はその逆だ。
力はそれなりにある。彼女の持つ水遁は、それこそ和明の物質発光能力と比べたら数段実用性に富み、戦闘の場においても応用は利きやすいだろう。
しかし、それも戦おうとする意思がなければ、宝の持ち腐れだ。
さらにいえば、力を補う方法を見つけるということよりも、その人の心に意思を懐かせるということの方が格段に困難である。それはそもそも、個人的な価値観や感情に起因するものであって、客観性を持ち得ないからだ。
「……」
真帆のすすり泣く声が、川のせせらぎに乗って耳朶を打つ。
月明かりを反射してキラキラと照り輝く川面が、彼女の瞳から零れ落ちる涙を、白く痛切に彩っていた。冷たい夜風が頬を撫でる。
僕は思いきって、重たい沈黙を破った。
「戦うしかないって隼人は言うけど、僕はそうは思わないな」
不意の開口に、彼女の濡れた瞳が、ふと僕の横顔を捉える。
僕も彼女の方に体を向けて、真っ直ぐ視線を交えながら言った。
「本当に怖いなら逃げ出したっていいと思うんだよ。それだって生きるためには大事なことだし、決めるのは本人の自由だと思う。だから、僕は君のことを責めたりなんかしないよ。たぶんそれは、他の連中だって同じ事を言うと思う。……ただ、――」
手すりに肘を置き、頬杖をついて川向こうを眺めると、自然にその言葉が溢れてきた。
「――どうせなら、太陽の差す方角に逃げたいよね……」
真帆は足元を見つめながら、小さな拳をぎゅっと握り締める。
「私は出来ることなら逃げたくないです……。みんなと一緒に、戦いたい……。ユーキくん、教えてください……。どうすれば、怖くなくなりますか?」
「それはたぶん無理だと思うな。僕だって怖いもん」
意外そうな顔をする彼女に、僕は小さく苦笑した。
「死ぬかもしれないんだ。そりゃあ、怖いよ……。心臓がバクバクいって胸は痛いし、今だってほら、こんなに手が震えてるでしょ?」
僕が右手を差し出すと、真帆はちょこんと指先に触れて、僕の恐怖心を確かめた。
「僕だけじゃない。みんな口には出さないけど、琢磨も、梨香も、和明も、あの隼人でさえ、きっと心の中では堪らなく怯えてると思うんだ。怖くないハズがないよ……。みんな赤い血の通った人間なんだからさ」
「それじゃあ、どうしてみんなは戦えるんですか?」
「うーん、どうしてなんだろうね……。もちろん僕には僕の理由があるけど、正直言って他の人の心はわからないよ……。だけど、それでいいと思うんだ。隼人には隼人の、梨香には梨香の、琢磨には琢磨の、和明には和明の、みんなそれぞれ事情があって、自分だけの理由を持ってる。それは誰に理解できるものでもないと思うし、こんなこと言うとキザかもしれないけど、――戦う人の心ってさ? 誰にも理解されないからこそ、どこまでも強く、激しく燃え上がるんじゃないかって、そう思うんだよね……」
僕は彼女のほうを振り返り、一つ、問い掛けた。
「真帆はみんなのこと、好き?」
少女は下唇を甘く噛みながら、こっくりと丸っこい頭を上下に揺らす。
「……はい」
「そっか。じゃあ、明日でもうお別れになっちゃうかもしれないって言われたら、どうする?」
彼女は途端、泣き出しそうな顔になって、首を横に振った。
「嫌です、そんなの……! これから先も、一緒に居たいです……」
そんな真帆の返事を聞いて、僕は続く言葉に自信を持った。
「だったら、それだけで十分なんじゃないかな。みんなと居たいから、一緒に行く。僕は素晴らしい理由だと思うけど」
彼女の目が泳ぐ。僕の言葉に納得しかねて、足元と川面を往ったり来たり。
「そうでしょうか……。結局それって、依存してるだけなんじゃ……」
僕は胸を張って告げる。
「無理に強くなる必要はないと思うんだ。人はそう簡単には変われないよ。ましてや明日のために今日ここで望みどおりの人格を仕立て上げることなんてとても出来ないし、そんなのは単なる虚勢でしかない。……弱いままで、いいじゃない。人に頼ることは別に恥ずかしいことでも、悪いことでもないんだぜ?」
僕はこの場にいない仲間たちの顔を順に思い浮かべながら、みんなを代表するつもりで彼女に伝えた。
「だから、今は信じて。みんなやるときはやってくれるよ。――梨香や、隼人や、琢磨や和明、みんなが君を守ってくれる。そしていつか、今度は君の方からみんなに、それを返すときが来ると思う。人の世っていうのは、いつの時代も、どこの世界線でも、そういうふうに出来てるもんだと、思うから……」
それっきり、しばしの沈黙が落ちる。
しかし不思議と気まずさのようなものはなかった。
それまで俯いていた真帆は僅かに顔を上げ、上目遣いに僕を見て言った。
「ユーキくんも、私を守ってくれるんですか……?」
僕は少々面食らって、苦笑しながら頭を掻く。
「うん、そうだね。あんまり無責任なことは言えないけど、頑張るよ」
すると、彼女の寂しげな口元がかすかに笑った。それを見て、僕も笑顔になる。
「あー、なんだよー。さては信用してないなぁ?」
僕が冗談めかして言うと、真帆も少し元気を取り戻したように「ちょっと」と言って静かに笑った。まぁ、僕が頼りないことは純然たる事実なので致し方ない。
「よし、それじゃあ、約束の証を立てよう」
僕はそう言って上着の内ポケットから取り出した赤い鉱石を、彼女の手に握らせる。
「これって、確か……」
真帆は受け取った石を眺めつつ、窺うような目をして僕の方を見た。
――薄ぼんやりとした月明かりの中で、赤く妖艶な輝きを放つこの鉱石は、僕が七歳の誕生日に父さんからプレゼントされたものだ。
ある意味すべての発端であり、約三ヶ月前、僕はこの真っ赤な鉱石と父なる霊石の共鳴反応によって異次元跳躍を為したのだった。
こちらの世界に渡って来て以来、父なる霊石のことばかりが話題にのぼっていたため、しばらくその存在すら忘れていたが、今日の夕方、明日の決戦に備えて身支度を整えているときにひょっこりと出てきたのだ。
「それは御守りとして君に渡しておくよ」
僕は軽い調子で言ったが、真帆は少々遠慮がちに確認を求めてくる。
「でも、これ、大事なものなんじゃ……?」
僕はそうだと言って、きっぱりと頷いた。
「それがないと、僕は向こうの世界に帰れないからね。だけどどのみち、それは一つじゃ意味がないものなんだ。父なる霊石と二つあわせることで、はじめて次元の扉を開く鍵になる。僕は明日の戦いに勝って、僕の大切な人と、父なる霊石を取り戻して来るよ。だからそれまで、預かってて欲しいんだ」
「私に?」
「そう、真帆に。これで僕は君に無事でいてもらわなきゃ、本当に困るわけだよ。まぁ、実際はこんなのなくたって十分困るんだけどさ? お互い無事で、明日一日を終えられますようにっていう、一種の願掛けかな。それに意味がないとは言っても、異次元跳躍なんていうトンデモない現象を引き起こす石の片割れなんだからさ、何かご利益があるかもしれないじゃない?」
真帆は少し考えた様子だったが、最終的には渡した石ころを大切そうに胸のところで握り締め、こっくりと頷いてみせた。
「わかりました。それじゃあ、大事に持ってます……」
「ああ、くれぐれも失くさないでくれよ?」
「うん」
憑き物が落ちたかのように笑う真帆を見て、僕は小さく安堵する。
これで問題が解決したわけではないが、彼女が欲しているのは心の支えなのだ。
僕のやったことが少しでも真帆の気持ちを楽にしたなら、今はそれでいい。
すべての決着がつくのは明日だ。
これでいよいよ、負けるわけにはいかなくなった。
必ず勝って、全員で帰還する。
僕が真帆を励ましていたようにみえて、実は僕の方も焚きつけられていたみたいだ。
「そろそろ帰ろう。川辺の風は冷たいから、あんまり長居してると風邪を引くよ」
「はい……」
僕は真帆と並んで、月明かりの照らす夜道を、アジトに向けて歩きはじめた。
2
アジトに帰還し、部屋の前で真帆と別れた頃、既に時刻は夜の十一時をまわっていた。
和明の私室からは煌々と電球の光が漏れ、二人の話す声が聞えて来る。
和明と琢磨はまだ作業を続けているらしい。
梨香の部屋は既に灯りが消えているので、彼女は仮眠をとっているようだ。
僕はまだ眠れそうにない。温かいコーヒーでも飲もうと、キッチンに向かう。
通りすがりに何気なく中庭を覗くと、隼人の姿があった。
「隼人」
僕が声をかけると、彼は振り返り、小さく片手をあげて見せた。
「自治会との打ち合わせは済んだのか?」
「ああ、問題ない」
「これで、いよいよ準備は整ったんだな……」
僕が感慨深く呟くと、彼は頷き、それから小さな墓標と向き合った。
中庭の片隅に設けられた小さな花壇。
そこに目印として大きな石を一つ置いただけの、質素な墓があった。
この土に下には、たくさんの花の種と一緒に、衆道の骨が埋まっている。
政府閣僚との交渉が成立したあと、メデューサの遺体は火葬にまわされ、隼人がその遺骨を引き取って来た。梨香はあんまりいい顔をしなかったが、「悪党だって死ねば仏だ」という隼人の言葉には、彼女も何か思うところがあったらしい。
事情を知る僕と和明も協力して、この墓を作ったのだ。
「……」
隼人は火をつけた線香の束を石の上に置いて、ささやかな黙祷を捧げる。
たとえ憎むべき敵とはいえ、人の亡骸を交渉の材料に使わざるを得なかったということは、彼の心に深い罪悪感を刻みつけてしまったのだろう。
僕も隼人の後ろに立ったまま、しばしの静謐に身を沈めていた。
ぼんやりと尾を引き、線香の煙が漂う中、
黙祷を終えた彼は、ふと僕の方を振り返る。
それから気を取り直したように、隼人は固く結ばれていた口元を紐解いた。
「少し話があるんだ。まぁ、コーヒーでも飲みながら、ゆっくり話そうか」
…………。
――ぱちぱちと音を立てて、焚きつけ用の紙切れがすべて燃え尽きてしまう頃、ようやく薪にも火が移った。立ち上る白い煙は、周囲のコンクリートを伝って、中庭からぽっかりと開いた空に逃げて行く。
隼人はトングを使って上手く空気が通るように薪を組み直し、時折、新しい木材をくべたりもしながら、焚き火の大きさを調節していた。
手ごろな大きさとなった焚き火の熱で、頬や膝が、ほんのりと温かくなってくる。
オレンジ色の炎は、いざなうようにゆらゆらと揺らめいて、なんだかじっと見つめているうちに目蓋が重くなって来そうだった。
隼人に聞いてみると、こういうプリミティブな炎というのは、本能的に人の心を落ち着かせる作用があるそうで、焚き火は不眠症などにも効果があるという。ホントに、彼は何でもよく知っているな。
火にかけたヤカンの水が沸騰し、ごぼごぼと音を立てて蒸気を噴き出す。
隼人はコーヒーを淹れ、湯気の立ったマグカップを僕の方に差し出してきた。
受け取ると、ほろ苦い芳香が鼻腔をくすぐる。
僕は焚き火を見つめたまま喉を潤し、一息吐いてから尋ねた。
「それで、話っていうのは……?」
隼人はすっと長い足を組み替え、真剣な表情になって口を開く。
「他でもない、“アテナ”のことだ」
ふと、コーヒーの入ったマグカップを足元に置き、彼は続けた。
「彼女の出生についてだが、ユーキ、お前は本人の口から何か聞かされているか?」
「いや、特に何も……」
僕の返答に、隼人は「そうか」と相槌を打って、それから少しの間をおいた。
そうして然るのち、ふと居住まいを正した彼は、僕に真実を明かしたのだ。
「――“アテナ”を創ったのは、俺の親父だ」
「……え」
僕は俄かに驚き、しずしずと訊き返した。
「それは、どういうことなんだ……?」
隼人はマッチを擦って、パイプ煙草に火をつける。
ふうっと深く吸い込んだ煙を吐き出し、彼はどこか遠くを見つめるように目を細める。
「そうだな……。彼女の出生を語るには、まずは親父の話からしなくてはなるまい――」
隼人は低く落ち着いた声で、淡々と語り始めた。
「――俺の父・神崎総一郎は、科学者だった。今でこそ特殊能力者開発の第一人者であるとして、科学者の世界ではそれこそ神のように謳われているが、当初は高名と呼ぶには程遠い、どちらかといえば鼻つまみ者だったそうだ。なんといっても、彼が青年期より血道を上げて没頭していた研究のテーマといえば、イロモノばかりだった。――平行世界、異次元空間、時間遡行といった、所謂オカルトの類だったんだ。……当然、学会からは見向きもされず、神崎総一郎はオカルト研究者と揶揄され、鼻で笑われていた。しかし、神崎総一郎は変人であり、異端者であると同時に、類稀なる天才でもあったんだ」
……――そのことを一躍世間に知らしめるキッカケとなったのが、超能力について書かれた彼の論文だった。それは、とある鉱石から発せられる微弱な放射線が、超常現象能力を引き起こす可能性があるという内容を詳しく説いたものだった。ここで話は前後するが、これがのちに〝PSI波〟と呼ばれるものの原点だ。――
そしてその、とある鉱石というのは、神崎総一郎が幼少の折、考古学者であった祖父から海外発掘のお土産としてもらった、ギリシャの聖地・オリュンポス山からの出土品であり、これがのちに〝父なる霊石〟と呼ばれるものだった。――
この論文は非常に完成度が高いとして、一部の科学者の間で話題になったものの、例によって学会からは完全に黙殺される形となった。
しかし、思いがけぬことに政府の研究機関がこれに目をつけ、神崎総一郎を是非とも国家プロジェクトの研究チームに招き入れたいというお達しがあった。それも、いきなり総主任のポストという異例の好待遇で。
無論、裏があった。
当時、国家が秘密裏に進行していたゼウス=プロジェクトは、なんら成果を上げられないまま既に十年近くが経過しており、計画はそのとき半ば破綻していたのだ。
面子や沽券といったものが何よりも大切な政治家たちにとって、自分たちが諸手を上げて支援していた事業が、こともあろうに何の成果も利潤も上げられないまま頓挫するということは、どうあっても避けなければならない事態だった。
そこで潰れかかったこの計画に新たな風を吹き込むべく、希代の天才・神崎総一郎が、総主任として配属されることになり、事実上ゼウス=プロジェクトの全権が彼の手に委ねられたのだ。――そして、結果から言えばこの試みは見事に成功した。
神崎総一郎が主導となったゼウス=プロジェクトは、瞬く間に息を吹き返し、研究は一気に成果を収め始めた。
それこそ、無為に失われたこれまでの十年間を、取り戻すかのような勢いで。
まるで、止まっていた時計の針が、動き出したかのようだと誰かが言った……。
――しかし、本来その時計の針は、決して動かしてはならんものだったんだ。
神崎総一郎のゼウス=プロジェクト参加こそが、今なお続く、壮大な悲劇の幕開けだった。――
「こうなってしまった責任の一端は、親父にもある……。才能を持つ者は、自らの力が周囲に及ぼす影響について、常に自覚的であるべきなのだ。もともと、神崎総一郎は人から向けられる悪意やリスク管理といった打算的部分において、酷く疎い人物だったそうだ。良く言えば純粋、悪く言えば鈍感。そもそもゼウス=プロジェクトに参加したのだって、別に地位や名誉や、金が欲しかったわけじゃない。単によりよい環境と設備の中で、自分の研究に没頭したかっただけなんだろう……。まったく、天才と落ちこぼれが紙一重とはよく言ったものだな。特殊能力者の開発が、どんな目的に端を発するものであり、どんな事態を引き起こすものであるのかも知らず。親父は偉大なる天才科学者でありながら、一方では、どうしようもなく愚かな男だったんだ……」
――そんな親父が、ようやく自らの研究に対して懸念を抱き始めたのは、人体実験の話が持ち上がったときだった。
それが二十年前、六歳~九歳までの少年少女一〇〇〇人を対象に行われた第一次特殊能力者開発実験だ。
当初、神崎総一郎はこれに猛反対した。
というのも、予め、ある程度の予測がついていたんだな。
“PSI波”はまだまだ完全な出来とはいえず、主に、人体に悪影響を及ぼしかねない要素を多分に含んでいた。
副作用や拒絶反応によって、死亡者が出る危険性が非常に高かったのだ。
しかし、実験は強行された。
研究に携わる誰もがそのことを理解していたにも拘らず。
神崎総一郎の周囲は、異様な熱気に包まれていた。
集団は秩序を失ったときに、公平性を失う。
皆、膨れ上がる期待を抑えきれなくなっていたのだ。
皆、一刻も早く拝みたかったのだ。
栄えある研究の成果を。
この国に、特殊能力者が誕生する、その瞬間を――。
巨大に膨れ上がった民意ほど恐ろしいものはない。
大勢の人間が志を同じくして進む先では、善悪の観念など如何様にも捻じ曲がり、正当化されるのだ。多数派は常に正義であり、少数派は排斥されるか、矯正されるしかない。
そうして神崎総一郎は他でもない、彼自身の持つ才能が呼び寄せた大きな人の流れによって、為すすべもなく飲み込まれてしまったのだ。
彼はこの計画に並々ならぬ不信感を抱き始め、そのことを目敏く感知した上層部は、総一郎の妻を人質に取って、研究の続行を強要した。
あまつさえ、彼の背任を危惧した政府は、総一郎に首輪をつける意味で、当時・九歳だった彼の長男を、密かに被験者の一人として、人体実験に参加させていたのだ……。
――第一次開発実験の顛末は知っての通り、被験者のうち九割以上が死亡するという史上最悪の結果に終わった。
だが、不幸中の幸いというべきか、総一郎の長男は能力の開花に成功していた。数少ないファーストチルドレンの一人だったんだ。
しかし、不幸はえてして、さらなる不幸を呼び寄せる。
スパイのように単独ではなく、大群で押し寄せる。
呪いのように、連鎖する。――
総一郎の長男、つまり俺の兄貴は、能力者として卓越した才能を持っていたんだ。
もともと粒揃いのファーストチルドレンの中でも、兄貴の力は群を抜いていた。
そして二年後、第二次・特殊能力者開発実験の話が持ち上がったときのことだ。
そもそも特殊能力者の開発自体が軍事拡張を目的としたものである以上、国家は生物兵器として、なるべく強力な能力者を多く輩出したい。
しかし能力者として開花するかどうかには適性があり、大成するかどうかにも素質が必要だ。加えてその二つの基準は、甚だ明確ではない。
そこで上層部は、数あるあやふやな可能性の中から、血縁関係という縛りに着目した。
――その結果、白羽の矢を立てられたのが、当時まだ生後間もない乳幼児だった、次男であるところの、この俺だ。
親父は今度こそ激しく抵抗した。悲劇を繰り返すまいと必死に抗った。
その結果、見せしめと称して、妻を殺された……。
――不幸に陥った者は、そこからの脱却を図ろうと懸命にあがく。
――しかし一度不幸に陥った者が、不幸から抜け出すことは難しい。
――不幸であるが故に……。
先刻承知の通り、第二次開発実験はなんら滞りなく施行され、被験者となった俺は異能の力を与えられた。結果から言えば上層部の期待は外れ、俺には兄貴ほど卓越した能力は備わらなかったが……。
妻を失い、息子二人を無理やり異能の生物兵器に変えられた神崎総一郎には、もはや逃げ場などなかった。
軋轢という名の見えない鎖で雁字搦めに繋がれ、自ら命を絶つことさえ許されない。
ただ飼われ、ただ徒に生き、言われるがままに悪魔の研究を続ける、泥のような日々。
しかし数年後、思いがけない形で転機が訪れる。
異常気象に端を発する、日本を襲った未曾有の食糧難。これによって開国が宣言され、一連の騒動に乗じて、ゼウス=プロジェクトは凍結されることになった。
降って湧いたような幸運。分厚い雲の切れ間から、不意に差し込んだ曙光。
ようやく肩の荷が下りたと、親父は心の底から安堵したことだろう。
しかし、それもまた、新たな地獄の始まりに過ぎなかったのだ。
幸運が降って湧くことなど、そうそうあるものではない。
降って湧くのは大抵の場合、不運ばかりだ。そして、中でも最も大なる不運とは、一見幸運の姿をして、やって来るもののことである。――
「――この計画の存在が諸外国からつけ入られる隙になることを恐れた政府は、手のひらを返したように証拠の抹消と事実の隠蔽に乗り出してきた。研究施設、及び機密文書の一斉破棄、データの抹消、並びに関係者の粛清。これによって計画に携わった多くの研究者と能力者が口封じのために殺され、ゼウス=プロジェクトの存在は、歴史の闇から闇へと葬り去られたのだ……」
……とりわけ、プロジェクトの第一人者であった神崎総一郎は、すべての秘密を握る危険人物として秘密警察に追われた。
八方手を尽くし、なんとか敵の追及を逃れた彼は、それから地下に潜り、以降、五年間にも渡る潜伏生活を余儀無くされる。
……そして彼は、人知れず、一世一代の開発を始めた。
当時、親父を匿っていた旧友の科学者に話を聞けば、その五年間、総一郎は一切外に出ることもなければ、誰とも会わず、ロクに飲み食いもしなかったという。
みるみるうちに痩せ細り、鬱蒼と髭を蓄え、目を真っ赤に腫らしながらたった一人、開発に打ち込む彼の姿は、凄まじい執念の塊だった……。
残る生涯のすべてをかけて、逆境に挑む、いっそ神々しいまでの情熱。
僅かな陽の光も差し込まぬ独房のような潜伏先の地下室に篭もり切った彼は、ただ黙々と創り上げたのだ。
彼が携わった十数年にも及ぶゼウス=プロジェクトの集大成、希代の天才科学者・神崎総一郎が、持てる技術力のすべてを投じて製作したArtificial Intelligence――人工知能。
彼の最高傑作であり、生涯最後にして、最大の遺産――。
――それが〝アテーナー〟だ。
「……」
隼人の口から懇々と語られる血塗られた歴史に、僕はすっかり言葉を失っていた。
ティアラがいかなる運命を背負って誕生したのか。真実を知った今、記憶の中にある彼女の姿と照らし合わせてみても、やはり結びつきそうにはない。
しかし考えてみれば、それも無理からぬことだ。今の話はあくまでもティアラが誕生するまでの経緯であって、彼女自身に罪はない。彼女自身はこれまでの出来事に、なんら関与していないのだから。
つまりティアラは生まれながらにして、絶望的なまでに重たい宿命を背負わされていたということだ。いや、それを背負うために、生まれて来たと言うべきかもしれない……。
「――何故、親父がアテナを創ったのか、その理由は俺にもわからん。――科学者として、貴重な研究のデータを何らかの形で後世に残したかったのか。それとも、虐げられた人間として、国家に一矢報いたいという復讐心があってか。或いは、命を狙われ、もはや余命幾許もない自分と殺された妻の代わりを、俺たち兄弟に残そうとしてくれたのか。……強いて言えば、そのすべてだろうな」
隼人は声を低くして、神崎総一郎の物語に終止符を打つ。
「――親父は完成させたアテナを旧友の科学者に託したあと、血眼になって行方を捜索していた秘密警察のもとに自ら投降し、そのまま暗殺された……。最重要人物であった神崎総一郎の処刑を契機に、政府による隠蔽工作はひとまず収束に向かい、親父とは別のルートで逃亡を続けていた俺と兄貴への追及も、次第に鳴りを潜めて行った……」
焚き火はパチパチと音を立てている。
赤すぎる炎の明かりが、ちらちらと翳りを見せ、彼の眉間に刻まれた皺が、深く、濃く、闇の中から浮かび上がっていた。
――悲劇の天才科学者・神崎総一郎の物語は、これにて終幕を迎える。
――しかし、物語は終わらない。むしろ、ここからが本題だと、隼人は語る。
――そして始まったのは、とある宿命を背負った男の、壮大な復讐劇だった……。
3
…
……
…………
隼人は語った。時計の長針がぐるりと一周するまで、淡々と事実だけを語り続けた。
そして、すべての謎が解けた――。
過去と現在とを結ぶ歴史の糸が、頭の中でぴったりと繋がったような感覚。
真実を知ったことに対する衝撃と、胡乱な事実を紐解いたことによる妙な開放感とが綯い交ぜになって、しどろに思考を掻き乱す。
しばし漫然と焚き火を見つめる僕に向かって、隼人は落ち着き払った声で言った。
「まぁ、そっちに関してはお前が気をまわす必要もない。あの男を倒すのは俺の役目だ。ユーキ、お前はアテナの救出に専念しろ」
――その上で、一つ忠告しておきたいことがあるんだと、隼人は切り出した。
「俺たちは明日、全力を上げてお前を塔の頂上、アテナの許へと押し上げる。だが、そこから先は恐らく、孤立無援の戦いになるだろう。助けは期待するな。俺たちが残る三邪神を足止めし、なんとか時間を稼ぐ。その間にお前は鋼の檻を破って、アテナを奪還しろ。ゼウスの引鉄を滅し、世界を崩壊から救え。――だが、万が一にも救出が間に合わず、彼女が世界を滅ぼすトリガーとして、覚醒してしまった、そのときは……」
喉元に氷柱を突きつけられたような感覚だった。
クリティカルを突いた彼の言葉に、僕は思わず息を呑む。
「……」
隼人は静かに目蓋を下ろし、それより先の明言を避けた。僕の表情から何かを汲み取ったらしい。それから少し間をおいて、彼は自身の見解を述べ始める。
「無論、そうはさせんつもりだ。アテナは親父の形見であり、言ってみれば妹のようなものだからな。俺とて彼女を失いたくはない……。ただ、それでも最悪の事態に備えて、覚悟だけは決めておけ。――アテナの命と、この世界の命運とを天秤にかけ、どちらを選ぶべきか考えろ……。俺はあえて、何も言うまい……。最後の決断は、お前に委ねる」
それは優しくも厳しく、ありがたくも、残酷なお告げだった。
焚き火の温もりはすっかり弱くなって、夜風がやけに肌寒い。
そろそろお開きにしようかと、彼が切り出し、僕は中庭で隼人と別れた。
自室に戻り、壁にかかった時計に目をやると、既に時刻は深夜の一時をまわっていた。
硬いベッドに体を投げ出して、そのままぼーっと、薄暗い天井を眺める。
風一つ啼かない静謐に身を沈めていると、不意に、隼人から告げられた言葉が重たく圧し掛かってきた。さすがだと思った。僕が意識して、或いは無意識のうちに、考えまいとしていた最悪の可能性を、最後の最後に、彼は突きつけてきたのだ。
〝万が一にも救出が間に合わず、彼女が世界を滅ぼすトリガーとして、覚醒してしまったそのときは……――ティアラを、破壊するしかない〟
ふと枕元のホルスターから拳銃を抜いて、硬いグリップを力いっぱい握り締める。
手のひらにずっしりと伝わってくる、重たい凶器の感触。
ひび割れた窓から差し込む月明かりによって、コルトパイソンの銃身は、鈍く、冷たい銀色の輝きを放っていた。
ほの暗い天井に向かって、銃口を構える。その先にある暗がりに彼女の姿を思い描く。
記憶の蓋が開き、ティアラと過ごした日々が、走馬灯のように溢れてきた。
――晴れの日、雨の日、曇りの日。
――青空の下で、燃えるような夕陽の中で、満天の星空の下で。
――春、夏、秋、冬、四季折々の様々な景色と一緒に。
――笑った顔、泣いた顔、怒った顔、呆れた顔、たくさんの思い出が蘇る。
そして最後に見せた、あの儚げな泣き笑いの表情が、今も胸に迫る。
「……っ」
それでも、撃てるのか――。
彼女の姿を前にして尚、この引鉄に、指をかけることが出来るのか――。
“僕は、彼女を殺せるのか――!?”
ふと銃を構えた両腕が、情けないほどカタカタ震えていることに気づき、僕は脱力してパイソンを枕元に投げ出した。
それから枕を抱き締めて、ぎゅっと顔を押し付ける。
ダメだ……。もう眠ろう。もう眠ってしまおう。
すべては明日だ。明日になれば何もかもがはっきりする。明日、明日、明日……。
様々な想いと決意を孕んで、最後の夜が更けてゆく。
僕は深いまどろみの中に溶けてゆく。
そうして眠りに落ちる寸前、最後の最後まで、彼女のことを想った。
ティアラ――。
僕は明日、君に会いに行くよ。
君は僕のことを忘れてしまったかもしれない。
随分と、時間がかかってしまったね。
それでも、約束を果たすよ。必ず君を迎えに行く。
だから、そのときが来たら、教えて欲しいんだ。
――ティアラ、君は、どうしたい……?
4
雲の合間に、風を見る。
鳥が空へと発った後、日向を舞い落ちる、一枚の羽毛のように。
……長い、永い、夢を見ていた。
鋼の揺り籠の中、柔らかな光の胞に抱かれながら、最後のときを待ち続ける白い眠り姫。
――彼女の時間は五年前、あの日、あのときから、今も止まったまま……。
深い、深い、意識の底で、ただ追憶に想いを馳せるだけの、気だるく眠い日々だった。
しかし、それももう間もなく、終わりを告げる。
何か大きくて禍々しい力の流れが、だくだくと身体の内側に入り込んで来て、己の存在が貪り喰われてゆくのを、彼女は感じていた。
私はこのまま、消えてなくなるのだろう。
今の自分が跡形もなく消えたあと、空っぽの肉体だけが残される。
そうしてまた何か別のモノが、新しい宿主となるのだろう。
最後に、もう一度……。
……もう一度だけ。
今となっては泡沫のようなその夢を、彼女はしっかりと抱き締める。
――ゆーき。
可愛くて、いとおしい、あの子のことだけが、ずっと気がかりだった。
泣き虫で、頼りないあの子が、私がいなくなったあと、一人でもやっていけるだろうかと、それだけが心配だった。
けれど、きっと大丈夫……。
あの子はいつか、私のことを忘れるだろう。
私と出会ったことも、私と過ごしたことも。
キレイさっぱり、ガラクタと一緒のダンボールに詰められて。
少年時代の古い思い出として、押入れの奥深くに仕舞われる。
そうして、もう滅多なことでは顧みられなくなる。
深い悲しみも、強い意志の光も、時が経てば色褪せ、やがて薄れてゆく。
淡く儚い夢も、長い年月を経て、時の流れに呑まれてしまうのだろう。
寂しいけれど、それでいい。
それでいいのだ。
人は忘れてゆくものだから。
人は変わってゆくものだから。
私のことを忘れて、あの子は大人になっていく。一つ一つ前に進んでゆく。
過去ではなく、未来を求めて。
古いものを捨てながら、そのぶん新しいものを得て。
いつまでも変わらず、置き去りにされてゆくばかりの機械人形とは違う。
これから楽しいことや、素晴らしいことが、たくさんたくさん、待っているのだから。
――ゆーき、あなたは私を忘れてください。
その代わり、私はあなたを忘れない。最後のときまで。
あなたと過ごした日々だけが、私のすべてだった。
こんな機械人形に、あなたは温もりと、安らぎを与えてくれた。
人を愛する心を与えてくれた。
あなたに出会えたこと――
あなたに“ティアラ”と呼ばれたことが――
世に悪意を齎す存在として生まれた
私の、たった一つの誇りでした。――……
涙の最後の一滴が流れ落ちる。
もう、思い残すことはない。
私はただ、あの子がくれたものを抱き締めて逝こう。
この瞬間だけを、永遠にして……。
あぁ……。
白く、白く、染まってゆく。
記憶が、塗り潰されてゆく。
両手一杯に掬い上げた砂の山が、指の隙間からサラサラと伝って、零れ落ちるように。
どんなに強く抱き締めても、端から、端から、思い出が消えてゆく。
あの子の声も、顔も、名前も。
もう思い出せない。
もう何も。
私は……。
私の、名前は――……。
ティアラ……
ティ……ア、ラ……
テ……ア……ラ……――――。
「――ティアラぁあああッ!!」
遠ざかり、薄れゆく彼女の姿を引きとめようと。
夢中で伸ばした腕は、薄い掛け布団を跳ね除け、ほの暗い虚空を掻いていた。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
冷たく濁った湖の底を連想させる蒼い色彩の中、薄汚れたコンクリートの天井がぼんやりと視界に映る。
そのまましばし呆然として、ようやく自分がベッドに横たわっていることを認識する。
「っ……――」
がばっと上体を起こしてみれば、ひどい寝汗で、ベッドとシーツがびっしょり濡れていた。唇はかさかさに乾いてひび割れ、口の中は喉の奥までカラカラに干上がっている。
随分と泣き腫らしたみたいで、目蓋はどんより重たく、全身は鉛のようにだるい。
汗で額に張り付いた前髪を掻き上げ、手のひらで疲れた顔を覆う。
窓の外からは白い朝焼けの光が差し、ちゅんちゅんと、小鳥たちの長閑な囀りが聞こえていた。そんな爽やかな朝の情景に、溜息が腹の底からとめどなく溢れ出す。
「……最悪だ」