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第十四章「反撃の狼煙‐LIKE A ROLLING STONE‐」

第十四章「反撃の狼煙‐LIKE A ROLLING STONE‐」

                 1


 霊石を奪われ、ゼウス=プロジェクトの完遂まで、残された猶予はわずか一週間と差し迫った。その間に『OLYMPOS』との全面対決を経て、イーリアス=タワーを陥落しなければ、世界は崩壊の一途を辿る。――

 翌日、揃って隼人から説明を受けた僕たちは、大いに絶望し、大いに奮い立った。

 状況は疑いようもなく、どん底だ。この国を牛耳る独裁体制を、わずか七日間のあいだに打倒しようだなんて、もはや無謀を通り越して狂気の沙汰でしかない。

 しかし、そんな果てしない道のりを前に立たされた今だからこそ、見えてくる境地もある。

 はっきり言って勝率はゼロに等しい。負けて当然。

 普通に考えれば、誰一人として生きて帰れないだろう。

 だからこそ逆に、すべてを賭して戦う覚悟が、一気に据わった。

 この絶望的な状況の中、信じられないことに、僕たちは燃えていたのだ。

 ダメで元々。今この機を逃せば、真の意味ですべての希望が断ち切られる。

 ならばやれるだけのことは、やってやろう。諦めるのも、死ぬのも、それからでいい。

 勝率はゼロに等しい。されど、可能性は決してゼロじゃない。

 いわばこれが、最後にして最大の機会(チャンス)なのだ。

 守りに徹するのではなく、進んで攻め入り、勝利を掴み取る。

 人は、神を超えられるのか――。

 人はどこまで、神に近づけるのか――。

 遂に、革命派組織『KRONOS(クロノス)』としての本領を発揮するときが訪れたのだ。

 祭りが始まる。

 世界の存亡と人類の威信をかけた、運命の最終決戦が……。


 人は神のしくじりに過ぎないのか、神が人のしくじりに過ぎないのか――。

 真理(イデア)の扉を叩くのは、神か、人か――。

 すべての答えが、そこにある……。

 かくして、僕の人生における、もっとも慌しい一週間が始まったのだ。――


                 2


 先だって僕たちが行うべきは数多くの協力者を募ることであった。

 今回の敵は何も、神の名を冠する最強の特殊能力者だけではない。

 いうなれば、この国に巣食った体制そのものなのだ。

 まずは総合的な戦力において拮抗しうる、相当数の人員と武力の手配が必要だった。

 しかし、その点に関して言えば、『KRONOS』のメンバーとて、決起以来の数年間、ただいたずらに指を銜えて、あの馬鹿でかい建物を眺め続けていたわけではない。

 僕がメンバーとして加わるよりも遥か以前から、隼人は『KRONOS』の代表として各方面との交渉を水面下で結び付け、およそ数年がかりで、着々と『OLYMPOS』打倒に向けたパイプの構築に務めていたのだ。

 現状、頼みの綱は大きく分けて二つ。

 一つは、貧民街の治安を一手に取り締まる自治会の存在。――

 自治会とは以前から密接な協力関係を築いており、定例で報告会議を開くなど、常に一定の連携状態を保っていたそうだ。

 詳しい事情を説明すれば、すぐにでもこちらの要請に従って動いてくれるという。

 自治会を通して全二十四区域、推定六百万人という避難民が犇くこの貧民街全域に声を掛けてもらえれば、最低でも数万人規模の人手を集めることが可能だろう。

 そして、もう一つは日本政府である。――

『OLYMPOS』の台頭によって、もはや傀儡と化した日本政府だが、名目上、軍や警察を動かす権限を握っているのは彼らである。

 国家を懐柔出来れば、武力による支援を受けることが可能だ。

 しかし、こちらに関しては些か不安要素が目立つ。

 以前から慎重に接触を図り、地道な交渉の末、協定にこぎつけていた手管の一つではあるが、なにぶんにも急な要請である。

 さらにいえば、『OLYMPOS』のことを怨みに思っている人間は政府内でも相当数を占めているはずだが、基本的に政治家というのは保守的な人種だ。

 神の逆鱗に触れる事を恐れ、土壇場で決断を渋ることは目に見えている。

 己の地位と権威に固執する者たちを説得し、壮大なリスクを孕んだ革命騒ぎに加担させるのは、並大抵のことではあるまい。

 だが彼らを味方につけられるかどうかが、勝負の鍵になることは間違いない。

 敵はこの国どころか、世界そのものを滅ぼさんとしているのだ。

 事態の深刻さを理解させた上で、これより先は一個人の保身に拘ることがいかに莫迦らしいことかを、徹底的に説き伏せるしかないだろう。

 隼人はその日の内から忙しなくアポイントメントを取りつけ、早速、直談判に出掛けて行った。政府閣僚との交渉は彼に一任していいだろう。

 隼人であれば、必ずや好い返事を捥ぎ取って来るだろうと、半ば確信があった。

 ――そして、残された僕たちも、それぞれの役割に奔走する。

 僕と梨香は、自治会執行部のメンバーと協力して、情報の拡散に努めた。

 ともかくこの少ない時間の中で、一人でも多くの参列者を集めなければならないのだ。

 火のないところに煙を立たせ、ガソリンをぶっかけて炎上させた上、山火事にして街中燃やし尽くすぐらいの勢いでなければ到底、間に合わない。

 ゼウス=プロジェクトの真相を暴き立てた記事と、当日行うデモへの参加を促すビラを作成。現存する数十台のコピー機を常時フル稼働させて刷りまくり、以降五日間、昼夜を徹して、ひたすら街中を駆けずりまわった。

 もはや、いっときたりとも休む暇なんてない。

 自治会のスタッフも総動員で、舞台に降り注ぐ紙吹雪のように革命の火種を振り撒く。

 通行人への手渡しや、宅配はもちろんのこと、――電柱、街路樹、郵便ポスト、掲示板……ありとあらゆる場所に宣伝のビラを貼りつけまくった。さらには拡声器を使って、思い切り危機感を募らせるような文句をがなりたて、 盲滅法に世論を煽り立てる。

 おかげで街中は、天地が引っ繰り返ったような大騒ぎ。

 火消しに乗り出してきた『OLYMPOS』の特高警察とは何度も衝突し、その都度、僕や梨香が先頭に立って、片っ端から叩き伏せて行った。

 その様相は、それこそ江戸時代末期に行われた討幕派の民衆運動そのものである。

 ――一方、和明は自室に篭もって、一人黙々と作業に耽っていた。

 彼は邪神との最終決戦に向けて、予てより着想にあったという秘密兵器を、なんとか期限までに完成させようと、夜を徹して開発に打ち込んでいる。

 アルテミスとの戦いによって重症を負った琢磨は依然として意識を失ったままだった。

 隼人の見立てでは幸い命に別状はないということらしいが、無残に焼け爛れた右腕をはじめ、身体的ダメージは深刻だという。彼は、最終決戦には参加できないかもしれない。

 隼人が不在の間、琢磨の看病には、真帆があたっていた。

 プロメテウスとの一戦で火傷を負い、メデューサ戦には不参加だった彼女も、約二週間の療養を経て、傷の方は概ね回復したらしい。

 しかし心の面ではまだ若干の不安定さが残るため、琢磨の看病がてら、自身も大事をとって安静を続けるようにというのが、隼人の配慮だった。――

 様々な思惑と準備が複雑に絡み合い、一週間後の最終決戦に向けて一斉に進行して行く。

 三日目には琢磨が意識を取り戻し、詳しい問診と精密検査が行われた。

 四日目から、周囲の反対と制止を振り切って、琢磨はリハビリを開始。

 そして五日目、隼人が遂に、政府閣僚を口説き落として来た……。

 彼らの重い腰を上げさせることができたのは、ひとえに衆道のおかげだと彼は語る。

 隼人は衆道の遺言通り、冷凍保存していた彼の遺体を交渉の材料として、決断を渋る要人たちの前に提示したのだ。これで硬直を続けていた状況は一気に瓦解した。

 革命に加担する上で、政治家たちがもっとも恐れていたのは、やはり十二年前この国を滅ぼした邪神たちの存在である。

 そこへいくと、神の一柱であったメデューサの亡骸は、計算高い狸どもの背中を押すには十分な威力を持っていた。

 驚き目を見張る官僚たちに、隼人は「神を倒すだけの力が我々にはある」とふっ掛け、『OLYMPOS』の独裁体制を転覆させ、再びあなた方が権威を取り戻すチャンスは今しかないのだと力説した。

 これまでリスクにばかり目を向け、頑なに渋面を貫いていた役人どもは、手のひらを返すように便乗してきたという。

 結局、自らの利益のためにしか動かない役人どもの体質は気に食わないが、この際それはいい。彼らへの審判は『OLYMPOS』を倒し、民主政治を復活させたときに下るだろう。

 何はともあれ、これで国家が味方につき、軍と警察による全面的な支援が確約された。

 賽は投げられ、事態は急速に肥大化しつつ、猛然と転がり落ちてゆく……。

 雪山の頂上付近で転がり始めた小さな氷塊が、雪崩となって麓の町を飲み込むように。

 正月と盆が一緒にやって来たような、かくもめまぐるしい一週間は矢のように通り過ぎ、あっという間に決戦を明日に控えた、六日目の朝がやって来る。――

 今日は正午から、ストック・ファームで街頭演説を行うことになっていた。

 明日のデモに、一人でも多くの市民を勧誘するため、隼人がスピーチを行う。

 選挙活動に勤しむ政治家風にいえば、所謂、最後のお願いというやつだ。

 僕ら五人も同行し、現場に赴くと、既に自治会の手によってステージが整えられ、マイクを繋いだスピーカーが至るところに設置されていた。

 事前に告知を行っていたわけではないので、集まった人々の目的はあくまでも買い物であり、中には何事が始まるのかとステージ付近に集まってくる人もいるが、その数はざっと百人にも満たない。多くは遠巻きにちらちらと視線をよこす程度で、それぞれが自らの生活に従事している。

 僕はその光景を目の前に、滲むような不安に駆られた。

 自治会と協力して、あれだけ派手に情報の拡散を行ってきたのだ。

 既に貧民街に住むほとんどの者が、事態の重さを把握していると思っていたが、少々暢気すぎやしないだろうか。

「……」

 静かに登壇した隼人は、高い位置から人で溢れかえった大通りを広々と睥睨する。

 祭囃子のような喧噪に耳を澄ませ、目蓋を下ろして、深呼吸。

 小さく笑みを携えて、悠然とマイク前に立った彼は、突然、凄まじい怒号を張り上げた。

「貴様らは豚だァアアアアアア!!」

 スピーカーが破裂するような勢いで放たれ、轟々と辺り一帯に響き渡る咆哮。

 ハンマーで思い切り頭を叩かれたような衝撃が、びりびりと全身を駆け巡る。

 行き交う数万人の人々が仰天して振り返る中、隼人は怒涛の迫力で演説を始めた。

「――この荒れ果てた牧草地に寄せ集められて飼われ、鞭を打たれながら家畜としてただ徒に生きているだけの誇りもなければ牙もない肉の塊ども!! 貴様らのようなモノを人間とは呼ばん!! 今の貴様らはただ無意義に酸素を消費し、二酸化炭素を空気中にばら撒くだけのゴミだ!! 生きる価値などない!! 即刻死を選べ、それが世界のためだ!!」

 誰も彼もが度肝を抜かれ、呆然としていた。

 僕も側にいた梨香や和明と顔を見合わせて困惑する。

 ある意味、彼はたった数秒で数万人に及ぶ衆人の心を掴み、この広い大通りを瞬く間に自らの独壇場に仕立て上げてしまったのだ。

「貴様たちはいつだってそうだッ……! 

 自らの意思や理念を固持することはなく、常に無関心、無気力、無軌道で、面倒な決定権はすべて他者に委ね、自らはひたすら怠惰と享楽を貪ろうとする。

 しかし、いざ他者が決断をせしめ、その答えを提示すれば、今度は平気で不平や不満を吐き捨て、正義を語り、責任の追及にのみ執拗な熱意を燃やす。しかし結局はそれさえも口先だけだ。どれだけ虚仮にされ、どれだけ惨めな扱いを被ろうとも、悪態だけは一人前に吐きながら現実にはそれをダラダラと受け入れて過ごす。それが貴様ら民衆の本質だ!! 

 全く反吐が出る……。貴様らはクズだ!! この国は腐ったミカンだけのミカン箱だ!! 自らの意思によって決断し、己の理念に従って生きられぬ者に与えられる尊厳などない!!

 これだけ言ってもまだわからんか? 貴様らのような馬鹿どもは、一生他者の捨て駒として扱き使われ、流れ出す血の一滴まで搾取されるに相応しいと言っているのだ!!」

 容赦なく吐きつけられる凶器のような言葉の数々に、さざなみのようなどよめきが沸き上がった。駆り立てられた人々の奔流が、一斉にステージを目掛けて突っ込んで来る。

「ふざけんな!」「ぶっ殺すぞ!」

 一人の声を皮切りに、剣呑な野次が次々と飛び交い、渦を巻く地鳴りとなった。

 一歩間違えば、暴動を起こしかねない一触即発の空気。

 騒然となった大通りの様子を堂々と見渡しながら、隼人はしばし沈黙の間を置いた。

 すっかり頭に血がのぼって騒ぎ立てていた人々も、彼がぱったりと喋るのをやめてしまったために勢いが振るわず、やがて萎え始める。

 激しい嫌悪と怒りによって注意を惹きつけた彼らが冷静になり、ようやく〝聴衆〟となったところで、隼人は再び語りはじめた。

 今度は低く落ち着いた声で、囁きかけるように、マイクへと向かう。

「――かつて、この国にはあまりにも多くの死が齎された……。

 家族や友人、恋人を殺された者も多いだろう。

 極めて一方的に、目を覆うような殺戮と破壊が繰り広げられた。

 血が流れて、血が流れて、目の中が真っ赤になるほど血が流れて……捥がれた首が、潰れた足が、助けを求めて伸びきった手が、日本中に山積した。

 しかし彼らの死は、決して無駄ではないと、俺は信じていた。

 花が枯れなければ、実は実らない。生命が終わるのは、次の生命を育てるためだ。

 多くの死は、生き残った者たちの糧となり、素晴らしい未来を育てるための土となる。

 そうしてそのサイクルこそ、次の世代、また次の世代へと、受け継がれて行く尊いものであったはずだ。

 しかし現に今、彼らの死は、真の意味で無為に葬り去られようとしている……。

 力に屈し、すべてを諦め、どこまでも卑屈に、臆病に、ただ自らの心臓を細く長く動かすことだけに専念している、蚤のような貴様らのせいでなァア!!」

 落雷のような怒声が、雲をぶち抜いて、天を突く。

 多くの者がその凄まじい剣幕に圧倒され、痺れたようにその場から動けなくなっていた。

「――死んで行った者たちに申し訳がないとは思わんのか!? 

 何百年、何千年と命の生糸を紡いで来た多くの先祖に、何ら恥じようとは思わんのか!? 子々孫々に残せるものがあるか!? 何か一つでも誇れるものがあるか!? 

 貴様らが後世に残すものは、敗北を喫したという恥辱に塗れた歴史と、支配に屈したというその腐りきった根性だけか!?」

 もはや野次の声は完全に途絶えていた。

 隼人は鬼気迫る形相で、猛然と捲くし立てる。

「悔しいとは思わんのかッ……? 己の生きる証を、たとえ魂のひとかけら分でも、あの空の上で嘲笑う奴らに見せつけてやろうとは思わんのか!?

なによりも、貴様たちはそれで満足か!? ただ単に生きていられればそれで幸せか?

 これ以上、求めるものなど何もないか? 本気でそう思っているのか!?

 ……家族や友人や恋人を殺され、住み慣れた家を焼かれ、愛する故郷を奪われ、瓦礫と死体の山の中で、絶え間ない暴力に日々怯えながら思うさま利用されて、挙句の果てには実験の素材として、虫けらのように弄ばれ殺されることが、本望かと訊いているんだッ!!」

 深い悲しみを堪えるように、顔を伏せ、ぐっと唇を噛みながら悶々と立ち尽くす人々の頭上を、隼人の強い語りかけだけが延々と響き渡る。

「――抑圧の底でちっぽけな満足感を見出し、これが精一杯の幸せだ、生きているだけで充分だと自らに言い聞かせているのだろう!? 必死に気持ちを押し殺し、なんとか納得しようとしているのだろう!? 見たくない現実から目を背け、日々の暮らしにひたすら埋没することで、もう何も考えまいとしている、そうでもしなければとてもやりきれないからだ! 悔しくて悔しくて仕方ないからだ!! 死んでも死に切れないからだ!! 己の不甲斐なさに押し潰されてしまいそうだからだ!! 自分たちに未来などないとわかっている!! わかっていても何も出来ないから逃避しているのだ!! 違うかッ……!?」

 聴衆の中には、既に涙を流している者が大勢いた。

 激しい野次の代わりに、無数の嗚咽が会場のあちらこちらから沸々と上がっている。

「しかし、それも今日で終わりだ……。明日、奴らの計画が完遂されれば、世界が百八十度転換する。人間が個々の意思によって生きる時代が、真に終わりを迎えるんだ。

 大いなる目的のために個人という概念は淘汰され、価値観は統一されていく。

 たがう者は矯正され、それを拒む者は容赦なく排除される。

 殺人が肯定され、賛美され、強要される世の中で、俺たちの命は平然と使い捨てられていく……! 逆らえば死、従っても死、それがこの先お前たちに待ち受ける運命だ!」

 髪の毛を振り乱し、顔を真っ赤にして吼え続ける隼人の目には、今にも零れ落ちそうなほど熱い涙が溜まっていた。平生の彼からは想像もつかない、がむしゃらな姿。

 喉が焼き切れるような声量に、激しい身振り手振りを加えて訴える。

 彼は今、命を削りながら、魂を吐き出しているのだと感じた。

「――目を覆うな!! 耳を塞ぐな!! 口を閉ざすな!! 己を騙るな!! 心を殺すな!!

 神などいない!! 鞭を振るっているのは人の枠から零れ落ち、虚栄と妄執に囚われた一介の犯罪者だ!! 屈服などするな!! 崇拝などするな!! 疑え!! そして確かめろ!!

 己の生きる道に真価を問い質せ!! 何の為に生きる!? 如何様にして生きる!?

 求めることが怖いか!? 傷つけあうのは怖いか……?

 怖いならば、いっそ逃げたって構わん。

 だが、逃げるばかりでは一生、鎖に繋がれたままなんだぞ……!」

 拳を握り締め、隼人は感情を爆発させた。

 声を嗄らして叫びながら、凄まじい勢いで一気に駆け上る。

「貴様たちが再び人間として誇りある生き方を取り戻したいと思うなら、戦うしかない!!

 凍えるような恐怖の中から、骨が軋むような震えを押し殺して立ち上がらなければならない!! 深い傷を負う覚悟で、足を踏み出さなければならない!! 

 虐げられ、踏みにじられ、這い蹲って血を吐いて、それでも前に進むしかない!!

 愚痴など墓場で言えばいい!! 諦めて笑うのはもっとあとだ!! 

 命の鼓動が止まらぬ限り、最後の最後まで道を切り拓け!! 

 最後の一人になっても戦い抜け!!

 運命を変えるというのはそういうことだ!! それ以外にないんだッ――!!!!」

 凄まじい覇気と溢れ出す情熱の奔流。

 巨大なエネルギーの塊が、スピーカーを通じて胸を貫き、長らくそこに住み着いていた何かを粉々に打ち砕く。

 人の心に飼い慣らされた、悪しき感情をすべからくブッ飛ばすような隼人の雄叫びに、大勢の人垣が震え上がっているのがわかった。

「――目は見えているか!? 手足は動くか!? 胸に鼓動は感じるか!? 

 たとえちっぽけでもいい。それだけ確かめたら、行動を起こせ!!

 甘ったれるな!! 行動に表れぬ想いなど、はじめからないのと同じだ!!

 祈るだけでは何も叶わん!! どうするべきかを考えろ!

 動け。ただ己の意思に従って。

 自らがより良く生きるために邁進しろ。

 それは誰に咎められるべきモノでもない。

 人として正当な権利であり、決して怠ることのならん義務だ!

 渇望しろッ、そして手を伸ばせ!! 届かないモノを身近に感じろ!! 

 涙など流すな! 赦しなど乞うな!! 

 失われしモノを嘆くな!! 物寂しげに過去を見つめるな!! 

 戦えッ、脆弱なる己の魂と!!

 抗えッ、大いなる運命の荒波に!!

 出来るはずだ……! 現にお前たちは、俺の言葉に怒りを感じ、反発し、声を張上げて異議を唱えた! ――俺たちは豚なんかじゃないッ、人間だと!!

 俺は希望を見た。

 お前たちの内にある、屈強な魂の存在を確かに感じたからだ!

 しかしその思いの丈をぶつける相手は俺じゃない。

 真にそのことを知らしめるべき相手は、あの塔にいるッ!!」

 大きく腕を振って、背後に聳え立つ一千メートル級の超高層ビルを示し、これで最後だという言うように、隼人は言葉に力を込めた。

「戦え!! 今ならまだ間に合う!! されどこれが、最後のチャンスだ!! 

 戦え!! 天国を作るのではなく、地獄を打ち破るためにすべてを燃やせ!!

 戦え!! 踏みにじられた尊厳と、奪われた多くのモノに捧ぐべき対価を勝ち取れ!!

 戦え!! 人が人として、自由に生きる未来を掴み取れッ!!

 お前たちが雄々しき勇気を持って、その足を踏み出したとき――。

 人は、神をも超えられるはずだ。少なくとも、俺はそう信じている……!」

 僕はカーッと胸が熱くなって、大地を迸る力の流れが、足元からみるみるうちに全身の筋肉を伝って這い上がって来るのを感じていた。

 人々の頬に新たな涙が伝う。それは悲しみや、悔しさの表れではない。

 それら負の感情と決別を果たす者の、気高く、美しい涙だ。

 最後に、随分と精悍な顔つきになった観衆に向けて、隼人はこう言い残した。

〝静かに笑う花になるな、転がり続ける石であれ〟――……。

 嵐のような演説が終わると、荒れ果てた街に、曙光のような兆しが差し込んでいた。

 放心状態だった会場からは惜しみない拍手と歓声が巻き起こり、隼人はただ小さく頭を下げて、そのまま静かに舞台を降りて行く。

 時代(とき)に流されず、迎合(あい)もせず、劇的に語りかける彼の姿は多くの市民の心を打った。

 生命の息吹く暖かな春を求めて、長い長い冬がいま、終わろうとしている。

 恐れるだけの日々に終止符が打たれ、反撃の狼煙が上がったのだ。

 やれるだけのことはすべてやった。

 あとはただ、全身全霊を懸けて、最後の戦いに挑むだけだ。


                 3


 深い暗闇に包まれたホールの中、煌々と伸びたスポットライトの光が二筋、交差して、 向かい合った男女のシルエットを優美に照らし出す。

 床は雲の上を演出するように、乳白色の気体でもくもくと覆われていた。

 綿菓子のような白煙は微細な大気の流れに従ってのんびりと渦を巻き、何の抵抗もなく足元に絡みついては、のびやかに、しなやかに、とけて行く。

 駆動式の小さなテーブルに着いて紅茶を嗜みながら、歳若い取り巻きの女たちに囲まれたミス・ロンリーが、朗らかに言った。

「なにやら下々の者たちが騒ぎ始めたようですわ」

 令嬢の透き通るようなソプラノボイスは、幻想的に反響しながら、数メートルの暗闇を隔てて向かいあった男の耳元へと届く。

「そのようだな……」

 彼女と向かい合うような格好で、小さな椅子に足を組んで腰掛けた漆黒の君は、けだるげに年代物のガットギターを爪弾(つまび)きながら、冷たい声を返す。

 胸に染み入るような演奏に耳を傾けつつ、親愛の笑みを浮べて男を見つめ続ける婦人の瞳からは、何があっても彼に付き従い、常に男の三歩後ろを歩いて行くと決めた、いじらしい女の風情が見てとれる。

「よろしいのですか? 放っておかれても……?」

 故に、半ばわかりきった様子で問いを発するのも、答えを聞きたいという意思よりは、単に口数の少ない彼との会話を少しでも長く続けたいという気持ちの表れなのだろう。

 女の心を知ってか知らずか、男の鉄仮面からではその真意を推し量ることは出来ない。

 巧みに弦を掻き鳴らし、渇いた旋律を奏でながらアポロンは淡々と論った。

「叩き潰すことはいとも容易い。だが、この期に及んで素体の頭数を減らすようなことはあまり得策ではあるまい。既にアテナの洗脳は完了し、引鉄へのエネルギー充填は八割方まで進行している。あとは最小限の技術者を残し、他の研究員には今夜中に避難勧告を布く。人払いが済み次第、タワーの外壁には防御シールドを展開させ、足場を固める。絶対防御を誇るアイギスの技術を発展させて作り出された光の障壁だ。たとえミサイルを撃ち込まれようとも、女神の社は小揺るぎもせん」

 すげない男の態度にますます惹き付けられるようで、アルテミスは猫のように媚びた女の声を出す。

「番犬たちは一応、迎撃の準備を整えているようですが、そちらは如何しましょう?」

「陣形は敷地内に展開させて迎え撃つように指示しろ。ただし反乱分子はなるべく殺さず、計画完遂のときまで時間を稼げ。シールドがあるうちは建物内への侵入も不可能なはずだが、万が一突破されたとしても、それはそれで構わん。どのみち引鉄さえ完成してしまえば、『OLYMPOS』の存在意義は立ち消える。女神の覚醒と同時に、この塔も用済みだ。空の巣でよければ、愚民どもにもくれてやらんこともない」

「……深いお考えがおありなのですね」

 うっとりと長いまつげの瞳を窄め、ミス・ロンリーは陶酔した笑みを浮べてみせる。

「強いて言えば、単なる好奇心か」

「と、おっしゃいますと……?」

 ギターを奏でる手を止めて、漆黒の貴公子は頭上の闇に、言葉を浮べた。

「興味深い命題だとは思わんか? 人が神を、超えられるか、否かというのは……」

 男の双眸には、深淵のように底知れぬ暗がりが広がっていた。

「そのために敢えて、人間たちにも抗う余地を与えてやる、そういうことですのね?」

 アポロンは肯定の代わりに、寂として演奏を再開させる。

「どのような足掻きを見せるのか、楽しみですわ……」

 アルテミスは椅子の背もたれにゆったりと身を委ねながら、心地良さそうに嗤った。


                 4


 黄昏時、緋色の侵攻がちっぽけな世界を包んでいた。

 流れる雲を、不動の大地を、見渡す限り燃えるような茜色に染め上げながら、夕陽が沈んで行く。空っぽで、しかし満ちて、世界の終焉を告げるように。

「……」

 雑居ビルの屋上に寝転んで、琢磨は暮れなずむ空を眺めていた。

 夕に染められたいつもの景色が、今日は……今日だけは、ひどく終末的に感じられる。

 紅連の空の果て、光と闇がせめぎ合うその中に、煌々と銀色の輝きがともる。

 宝石を散らしたように、東の空を星々の瞬きが彩り始めていた。

 その微かな光明を掴もうと手を伸ばし、琢磨は虚空を掻く。

 空っぽの手のひらを空に翳して見つめ、彼は不意に、雷霆を手繰った。

「ッ……!」

 バチッと一瞬、指の隙間に電弧の閃光が瞬いて消える。

 自らの電流が身体を蝕む、鋭い痛み。琢磨はビクリと肩を竦ませて唇を噛んだ。

 ――ミス・ロンリーとの死闘によって受けた傷は、甚大だった……。

 琢磨は悄然とした表情で、隼人から聞かされた事実を反芻する。

 猛毒の一太刀とぶつけ合わせた右腕は、ボロボロに焼け爛れ、再起不能と言われた。

 皮膚は真っ黒に炭化し、筋肉組織や神経までズタズタに破壊されているため、どんなにリハビリを続けても、せいぜい箸を握れる程度までしか回復は見込めないという。

 傷口からは毒素による細胞の壊死も続いており、現状、抗生物質と化膿止めによって進行を防いでいるが、最終的には切断するしかないだろうと宣告された。

 ――さらに琢磨を苦しめているのが、“電気の逆流現象”だった。

 放出されるべき電気エネルギーが発生と同時に逆流を始め、琢磨自身の肉体を傷つける。

 検査の結果、血液中から未知の毒素が検出されたと隼人から報告があった。

 恐らくは心臓の壁にめり込んだまま静止している一発の弾丸が、それを発生させている元凶だという。アルテミスは『OLYMPOS』産・新開発の去勢薬だと語っていた。

 心臓で汚染された血液が全身に巡り、PSI波を司る神経系統に齟齬を発生させることによって、能力の発動プロセスを著しく狂わせているのだろうと隼人は分析した。

 毒自体の感染力もかなり強いらしいが、そちらに関しては疫病のように空気感染や接触感染の心配はなく、血液や粘膜による接触にさえ気をつけていれば、他者にうつすようなことはないという。

 しかし未知の毒物である以上、血清はなく、効果を抑制する手段もわからない。

 また毒を発生させている弾丸は心臓で止まっているため、外科的な手法で取り除くことも困難であり、事実上、琢磨は能力者としての生命を絶たれたことになる。

 とても戦える状態じゃない……。

 隼人からそう告げられたとき、琢磨は頑なに否定してそれ以上の進言を聞こうともしなかったが、事実としてそれを一番よく理解しているのは彼自身だった。

 右腕に深刻な障害を負い、あまつさえ唯一にして最大のアドバンテージである放電能力を封じられた今、自らが普通人以下の存在であることなど百も承知だった。

 こんな状態の自分が彼らと共に歩んだところで、何の役に立たないだろう。それどころか、足手纏いになるかもしれない。わかっている。そんなことはわかりきっている。

 だが、それでも……これだけは絶対に譲れない。どうあっても貫きたい想いがあった。

 彼は一人残されることを断固として受け入れようとはしなかった。

 仲間たちに庇われることを、守られることを頑なに拒んだ。

 その瞳には、もう二度と過ちを繰り返すまいと決めた者の強い信念と、暗く重たい罪の意識が宿っている。

 だからこそ琢磨は、医者として、友人として、リーダーとして、最終決戦への参加を辞退するように勧めてくる隼人に、笑いながらこう告げたのだ。

 今更どうということはない、自分の覚悟は最初から決まっていたのだと。――

「……」

 琢磨は胸元に垂れたネックレスに手をかけ、ハンターケース型のペンダントトップを、柔らかく手のひらで包んだ。鈍い真鍮の輝きは、年月の経過を表すように、ところどころ色褪せ、細かい傷が入っている。親指の腹で留め金を軽く引っ掻くと、小さな蓋が跳ね上がり、ゼンマイ仕掛けのオルゴールが、静かにその音色を奏で始める。

 蓋の底には、ガラスでコーティングされた一枚の家族写真が嵌め込まれていた。

 父と母と姉、それに幼き日の琢磨が並んで写っている。

 思い出の他に、この四人が家族であったということを証明できる品は、もはやこの写真一枚きりだった。他は何も残っていない。何も残らなかった……。

 十二年前、荒れ狂う巨大な竜巻が、すべてを飲み込んでしまった。

 彼のすべてを奪い去ってしまった。

 帰る家も、たくさんの思い出を刻んだ写真も、それまで築き上げられていた確かな幸せはすべて……大切な家族の命と一緒に、塵となって消えた。

 そして、桐生家の存在を記憶に留めている者はいなくなった。

 省みようとする者さえ、今となっては誰もいない。

 知り合いも、友人も、近所の人たちも、みんなみんな、死んでしまったのだから……。

 見渡す限り瓦礫の山となった荒野の中心に、たった一人立ち尽くしていたあの日のことを想う。自分だけが生き残り、自分だけがすべてを覚えている。

 もう誰もいない。誰とも気持ちを共有することが出来ない。

 無数の十字架を一身に背負ったまま、たった一人、生きて行かなければならない。

 あんなのはもう、たくさんだ……。

 ――鎮魂歌のような淡く切ないオルゴールのしらべに想いを馳せていた琢磨は、入り口のドアが開かれる音を聞いて、思い出の蓋を閉じた。

 ネックレスを服の内側に戻し、そのまま何気ない風を装って煙草に火をつける。

 今にも溢れ出そうになる感情を、ほろ苦い煙と一緒にぐっと飲み込んだ。

 かつかつと踵を打ち鳴らして近づいてきた影が、寝転んだ琢磨の頭上に立つ。

 現れたのは、梨香だった。

「ここに居たの?」

 いつになく優しい声で問い掛ける彼女に、琢磨は視線を空へと向けたまま、「ああ……」とぶっきらぼうに答えた。

 気遣うように笑みを見せた梨香は、すっと膝を横たえ、スカートの裾を押さえながらその場に腰を下ろす。琢磨は憮然としたまま、間を持たせるように煙草を吹かしていた。

 漂う煙は斜陽を透かしてオレンジ色に染まり、涼やかな風に流されて消える。

 気だるい沈黙が、二人の間にある微妙な距離感を取り持っていた。

「……何しに来たんだ」

 琢磨は梨香を不用意に近づけまいと、刺々しい態度で早々に牽制する。

 対する梨香はやけに煮え切らない様子で、静かに口を開いた。

「隼人から聞いたわ……その、色々と」

 妙に口ごもりながら含みを持たせて話す彼女に、琢磨はむっとした様子で顔をしかめる。それからゾッとするほど低く冷え切った声で、詰問した。

「あいつから、俺を説得するように言われて来たのか」

 琢磨が隼人へと矛先を向けた不穏な口調を聞き咎め、梨香は眉間に皺を刻んでかぶりを振った。

「違う。ここに来たのは、私の意志よ」

「チッ……あの野郎、余計なこと言いやがって」

「だから違うんだってば」

 誤解を解いて理解を得ようとする彼女に、琢磨は冷たい口調で鋭く言い放った。

「どっちにしたって大きなお世話だ。ほっといてくれ」

「そんなわけには、いかないわよ……」

 梨香は怒らず、懇々と訴えかけるように、薄い唇を震わせた。

「ねぇ琢磨、隼人から診断は聞かされたでしょ? もうこれ以上、無茶な真似はやめて」

「フン、どだい医者なんて大げさなこと言うもんだ。俺ァ平気だよ……」

「嘘よ」

「うるせぇ、お前には関係ねぇだろ」

 シニックな言葉を吐いて、琢磨はまるで意に介そうとしない。

「私が心配するのって、そんなに迷惑……?」

「ああ、迷惑だな。これで用は済んだろ。とっとと帰れ」

 梨香は寂寥に満ちた表情を浮べる。

 彷徨うような彼女の視線は、包帯の巻きつけられた琢磨の右腕へと注がれていた。

「その手、もう治らないんでしょ……。それに、能力だって……」

「だったら何だってんだ」

「アンタはもう、充分戦ったわ。だから――」

 最も忌み嫌う言葉が、最も聞きたくなかった相手の口から発せられようとしていることに気づいて、琢磨の顔色が変わる。

「……やめろ」

「ここから先は、私たちに任せて――」

「やめろッ!!」

 溜まっていたものが、どっと溢れ出すような琢磨の怒声に、梨香は悲痛な表情を浮べて彼を見る。

「琢磨っ……」

 決して弱みを見せまいと、男は歯を食い縛って傲岸不遜な態度を示した。

「たとえ腕が動かなくたって、たとえ能力が使えなくたって、俺は最強だッ!! 俺がお前たちの先頭に立つ!! 俺が最初に戦う!! お前らこそ、黙って俺に任せればいい!!」

 怯えを押し殺すようにドスの利いた声でそんなセリフを吐き、火のついた煙草をめりめりと握りつぶす琢磨の表情は、鬼気迫っている。

 しかし、それを見つめる梨香の瞳はひどく哀しげで、慈愛に満ちていた。

「いいじゃない、そんなに強くなくたって……」

 握り締められた琢磨の拳を、梨香の手のひらが優しく包み込む。

「アンタはいつだって、一人で背負い込もうとしてる。適当なこと言って誤魔化して、いつも一人で無茶してる……。少しは私たちのことも頼ってよ……」

 横から吹く風で乱れた金髪が、唇を残して彼の表情を隠した。

「頼ってるさ、だからこそ譲れないんだ……」

 それっきり沈黙が落ちる。

 琢磨はむずかるように、握られた梨香の手のひらを解き、背を向けて起き上がった。

 途端、背後からぱさりと音が立って、柔らかな衝撃が、琢磨の体を前後に揺らす。

「――」

 燃えるような夕陽の中、寄り添いあった二人のシルエットが、足元に長い影を落とす。

 琢磨の背中に頬を埋めて、梨香は堰を切ったように言葉を吐き出した。

「お願い……私の言う通りにして。今のアンタ、見てられない……!」

 背中に感じる彼女の体温、豊かな肉感と甘い芳香が、不意に琢磨の後ろ髪を引く。

 応えることも、いっそ激しく拒絶することも出来ぬまま、ただ風が通り抜けるだけの静謐が虚しさを湛えていた。降り注ぐ斜陽が目に沁みる。

 やがて琢磨は、憮然とした声で力なく言った。

「よせよ、柄でもない……。俺なんかより、もっと気遣ってやるべき相手は他にいる」

 後ろから琢磨に抱きついたまま、ごしごしと涙の滲んだ頬をこすりつけるように、梨香は首を横に振る。

「ダメ。だってアンタ、このままじゃ、きっと……!」

 琢磨は静かに瞑目し、それから、あっけらかんと告げた。

「――ワリィな」

 諦めの感情が、心のどこかで絶望的なまでに膨らんで行く。

 もう無駄だとわかっていながら、それを認めたくなくて。

 梨香はとうとう堪えきれず、悲痛な叫びを上げた。

「どうして……ねぇ、どうしてわかってくれないの!? 私は、ただ……――」

 胸の奥がきゅっと細く窄まって、それから先はどうしても紡げない。

 苦く、熱い、思いの丈が狂おしいほどにとどこおる。

 これだけ言葉を交わしても、視線は一度も交わらず、想いは心に届かない。

 たとえ届いていたとしても、互いに相手の気持ちを酌んで、受け入れることは出来なかっただろう。故に想いあっていても解かりあえず、琢磨と梨香は延々とすれ違い続ける。同じ想いだからこそ、ぶつかり合って、遠ざけあう。二人の距離は、こんなに近くて、こんなにも遠い。やがて夜の気配を孕んだ風が、二人の熱を冷ましていく。

「どうしても、行くの……?」

「ああ」

 ぎゅっと握り締められていたシャツの裾から、絡んだ指が、羽毛のような名残を留めて解けていく。

 一歩、二歩と、梨香は俯いたまま、静かに琢磨の側を離れた。

「なぁ、梨香……」

 ふと、失意の彼女を呼び止めた琢磨は、何か舌先で言葉を転がしていたようだが、結局口に出すことはなく、そのまま飲み込んでしまった。

「……へへ」

 それから気を取り直したように振り返り、琢磨はいつもの笑顔を向けて言う。

「――お前、ピンクのパンツ似合わねーな?」

 梨香は少々面食らってスカートの裾を押さえたが、恐らくは寝転がっているときに見えていたのだと気づき、いまさら無駄な抵抗はやめる。

「ホント、最低ね、こんなときに……」

 梨香は呆れ半分、諦め半分に、儚く笑った。

「でも、おあいこ。アンタだって、そんな真面目な顔してるの、全然似合ってないもの」

 キラキラと潤んだ瞳が強い西陽を反射して輝き、彼女の姿を一段と綺麗にして見せる。

「そうだな……」

 琢磨は物寂しげに、されどどこか満足げに、柔らかく、擦れた笑みを頬に湛えていた。

 夕凪が、空っぽの世界を満たしていく。風が途絶えて、交わす言葉もない。

 二人は錆びついた金網に凭れ掛かり、沈み行く夕陽を眺めていた。

 荒れ果てた街並みと、そこに根ざした深い傷痕を隠すように。

 最後の夜が、地平線の向こうからすべてを包み込んでしまう、そのときまで。――


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