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第十三章「破滅の引鉄」

第十三章「破滅の引鉄」

                 1


 土砂降りの雨。

 激しく打ちつける雨音に耳を澄ませ、濡れる街並みを窓から眺める。

 ガラスに張り付いた雨垂れが、室内の電飾によって宝石みたいに輝いていた。

「……」

 俄かな懸念に、心が曇る。

 ――琢磨の行方が、わからなくなっていた。

 もともと、メデューサの精神汚染によって暴徒化した市民を鎮圧したあと、こちらに合流する手筈だったと思うが、彼はとうとう最後まで現れなかった。

 帰りにストック・ファームを通りかかってみたが、洗脳から解けた人々の混乱によってあの辺りは大変な騒ぎとなっており、とてもじゃないがその渦中から特定の人物を見つけ出すことなど出来そうになかった。

 もしかしたら、先に帰っているのかもしれないと思ったが、アジトにも彼の姿はなく、療養のため自室に残っていた真帆に尋ねてみても、琢磨が帰宅した様子はないという。

 もっとも、梨香に念話で呼びかけてもらえば、所在の確認など一発で取れるのかもしれないが、タイミングの悪いことに彼女は今、疲れ果てて床に伏せっている最中だ。

 どうにも落ち着かない心地だった。

 もしかすると、僕たちの与り知らぬところで、何かあったのかもしれない。

 それこそこの曇り空のように、漠然とした不安感が鬱々と募る。

「奴のことだ。心配はいらんさ……」

 振り返ると、隼人が立っていた。

 彼は僕と同じように窓の外を眺めながら、低く落ち着いた声で言う。

「もともと単独行動の多い男だ。それにあれは、殺されたって死ぬようなタマじゃない」

「そのうちお酒でも持って、ひょっこり帰って来るよ」

 和明の言葉に僕は小さく苦笑して、気を取り直すことにした。

「あぁ、そうだな……」

 それより――と、隼人が窓の外から視線を外し、背後を振り返る。

 僕と和明も彼に倣って、衆道の方を見た。

 激闘の果てに敗れ、囚われの身となった〝幻惑の神〟メデューサ――。

 彼は今、ぐったりと椅子に座ったまま、どこを見るでもなくぼんやりとしていた。

 既に意識は回復しており、傷による痛みは鎮痛剤によって抑えられているらしい。

 念のため、手と足を縄で縛ってはいるが、もとよりタルタロスの首輪によって能力を封じているのだ。隼人や僕がいる手前、自力での脱走はまず不可能と言っていいだろう。もっとも、本人にそんな意思がないようなので、杞憂だとも思うが。

 隼人は衆道の向かいに椅子を置いて、静かに腰を下ろす。

 僕と和明も彼の両サイドに椅子を置いて腰かけ、アフロヘアーの男と向き合った。

「話を聞かせてもらおう」

 隼人の言葉に、衆道は目を伏せたまま、意気消沈した声色で腫れぼったい唇を開いた。

「……何が訊きたいの?」

 僕は少々意外に思って口を挟む。

「やけに素直だな。何か企んでるんじゃないのか?」

「今更そんなこと、無駄よ……」

 衆道は自嘲の笑みを浮かべ、なげやりな口調で言った。

「あたしは失敗したんだもの。どうせもう戻れないわ。いずれお迎えが来る……。だったらその前に、ちょっとした置き土産を残して行くのも悪くはないでしょ……」

 それからふと、アフロヘアーの男色家は目の前にいる隼人を見て、何を言い出すかと思えば。

「それにあたし、実はあんたみたいな男、結構タイプなのよ」

「はぁあ?」

 僕は思わず耳を疑った。いきなり何の話だよ。

 衆道は隼人の姿を、じっくりと品定めでもするかのように眺め、こんなことを言う。

「そう言えばなんとなく、あの人と雰囲気が似てるわね……。もっとも、あの人と比べたら、あんたの方がよっぽど人間味があるけれど……フフン」

 色黒でアフロヘアーのおっさんが照れたように微笑むさまを見て、僕はおえっと舌を出したが、隼人の表情は妙に硬かった。そういえば、プロメテウスのときもそうだった。

 衆道の言う“あの人”と隼人の間には、何らかの縁故があるのかもしれない。

「とにかく、知ってることは全部話すわ。それで? 何を訊きたいの?」

「――ゼウス=プロジェクトの最終段階についてだ……」

 隼人の発したその一言で、弛みかかっていたその場の空気が、一気に引き締まるのがわかった。僕は思いがけず、ごくりと生唾を飲み込む。

「お前たちの最終目標が“世界征服”であることは分かっている。父なる霊石を使って、アテナを全知全能の女神に仕立て上げようとしていることもな。……しかし、そこから先がどうにも解せん。いくらすべての異能を司ることが出来たとしても、アテナ一人の力でそれが為せるとは到底思えんのでな。一体、如何なる方法を用いて、お前たちはこの数十億という人類が犇めく世界を手に入れるつもりだ。その具体的な内容が知りたい」

 緊張感が漂う。いよいよ、僕たちは敵の真核に迫ろうとしていた。

 しばしの沈黙の後、衆道は溜息混じりに、低い声で警告を発した。

「――はじめに言っておくけど、これからあたしが話すことを聞いたら、すぐにでも大事なお友達を連れて、どこか遠い辺境の地に行きなさい。人里離れた山奥で、ひっそりと暮らすのよ。間違っても、どうこうしようだなんて考えは起こさないことね。悪いことは言わないわ。これはもう、あんたたちの手に負えるような規模の問題じゃないの……」

 そう言った男の表情は、真剣そのものだった。

 これは決して冗談や、冷やかしの類ではないと、強烈に念を押されるようだ。

 得体の知れない怖気を感じて、僕は和明とともに小さく肩を竦ませる。

 雰囲気に呑まれかけた僕らの代わりに、舌鋒鋭く、隼人が言葉を返した。

「――話を聞いたあとでどうするかは、俺たちの方で判断する」

 毅然とした彼の態度に、衆道は感心と呆れの入り混じった表情を浮かべる。

「……そう、まぁいいわ。どのみち今から話すこと聞けば、あんたたちも思い知るでしょう。自分たちがいかにちっぽけで、大いなる絶望の前では無力な存在であることかを」


                 2


 激しい落雷の閃光が、列柱廊に並び立った二人の影を照らし出す。

 柱に背を預け、マリファナの葉巻を燻らせるつんつん頭の男が言った。

「この分じゃあ、フランス人形もお預けを食らってるんじゃねーのか?」

 ガラス張りの壁面から遥かに下界を睥睨する男は、冷え切った声で返答した。

「長雨になるようなら、俺が出る……」

「おいおい、普通そこは俺を行かせるところだろうがよ」

「何の為に“弾除け”を用意したと思ってる。それも今度こそは確実に霊石を手に入れるためだ。貴様はこの手の任務には向かん」

「ちぇっ、こっちもお預けかよ……」

「そのうち狩りの場は設けてやる。それまでは大人しくしていろ」

 それきり不貞腐れたかに見えた男だったが、直後に下卑た思い出し笑いを浮かべて、ゾッとするほど低く囀った。

「ケッケッケ、しかしテメェも容赦ねぇな。弾除けか。こいつは傑作だぜッ……!」

 男は一切を黙殺したが、無道は構わず、ひとりでに耳障りな嘲笑を引き攣らせる。

 ――隼人たちが敵の襲撃に備え、そのための策を講じていたのと同じように。

 男もまた、彼らが何らかの罠を仕掛けてくるであろうことを、先刻承知していた。

 しかし、それがどんなものかまではわからない。

 だからこそ、彼は捨て駒を用意したのだ。

 もっとも確実で、手っ取り早い方法。

“罠にかかることで、罠を潰す”

 それは地雷原を突き進む軍隊が、捕虜の兵士に先を歩かせ、安全な進路を確保するのと似通っている。

「解析した強制催眠のシステムを〝引鉄〟に組み込んだ時点で、奴の役目は疾うに終わっていたのだ……」


                 3


 激しい落雷音と稲光の瞬きが、部屋の中に濃い影を作り出す。

 雷雨の影響で停電が起こり、室内は一瞬で深い暗闇に抱かれた。

 直後に、ぼおっと幻想的な光が奥底から湧き上がる。

 サイリウムを敷き詰めたみたいに、天井と床が青白く発光を始めた。

 ――和明の能力によるものだ。

 上下から青白く柔らかな光に照らされて、室内は異空間めいた雰囲気に包まれる。

「そうね、どこから話そうかしら……」

 薄っすらと影を纏った衆道は、厳かに語りはじめた。

「あんたたちの予想は概ね当たってる。だけど一つ訂正をすれば、アテナの覚醒はあくまでも副産物的なことに過ぎないということ。お察しの通り、いくらすべての特殊能力を統べることが出来たとしても、彼女一人の力で世界を陥落することは不可能に近い。それはあたしたちを含む、すべての特殊能力者を動員したとしても同じことが言えるでしょう。……だからこそ、あたしたちがアテナに求めているものは、彼女の特性や技能云々じゃなくて、器としての容量なのよ」

「器、だと?」

「ええ……。強力な“PSI波”を媒介するためのね――」

 アテナと霊石は、一種のトリガーなのだと衆道は語った。

「――もちろん、いずれアテナは異能の女神として世界の頂点に君臨することになるでしょう。だけどそれは、あくまでも計画が成功したあとの話……。現時点で、世界を陥落するために必要なのは、単純な物量。つまりは特殊能力者の人口なのよ」

 なるほど。大体の理屈は理解できた。

「それで、どうする気なんだ? まさか市井の人間を片っ端から拉致して、能力者に仕立て上げるわけでもないんだろ?」

 僕の言葉に、衆道は呆れ返って失笑する。

「当たり前でしょ? あんたたちも知っての通り、能力者として開花できるかどうかにはある程度の適性が必要なのよ。それに開花したとしても“能力指数(ポテンシャル)”や“能力性質(パーソナリティ)”は千差万別。戦闘員として使い物になるかどうかは別問題なの。そんな効率の悪いことをしていたら、たとえ百年かかったって時間が足りないわよ……。但し――」

 衆道はそこで俄かに沈黙の間を置き、次の瞬間ガクッと、声のトーンを低くした。

「片っ端から拉致なんて手間のかかることはしないけど、原理としては間違ってないかもね。もっと手っ取り早く、一度に大勢の能力者を生み出すの……。『OLYMPOS』は創立当初から、総力を挙げてそのための開発研究に着手してきた。そしておよそ十年の歳月を費やして、遂に完成させたのよ――」

 肌を刺すような冷気が纏わりつく。空気中の温度という温度が、衆道の口から発せられる言葉によって、みるみる吸い取られていくかのような錯覚に囚われていた。

 勘なんて生易しいものじゃない。凶悪なほどの予兆が心に圧し掛かる。

「それが、現在イーリアス=タワーの頂上部に設置されている“PSI波強制照射装置”――通称・ゼウスの引鉄――。高度一千メートルの上空から、莫大なエネルギー量のPSI波を半球状に強制照射する。光の粒となって大気中に飛散した異能の胞子は、数時間で関東一帯を覆い尽くす計算よ。一夜にして、爆発的な数の特殊能力者が誕生する。父なる霊石を搭載したアテナは、いわばその波動を装填するための弾倉ってわけ……」

 和明が小さく息を呑む気配が伝わってきた。

無理もない。

 予め覚悟を決めていたとはいえ、僕も事態の大きさに、改めて愕然としている最中だ。

 しかし、隼人の動揺はことさらに激しかった。

 人一倍頭の回転が速い彼は、僕や和明がいまだ感づいていないさらなる深淵の存在を、逸早く察知していたのだ。

「――地方を分断し、首都圏に人口を集中させたのはそのためかッ!!」

 ……――――ッ!?

 頭の中が真っ白に染まって、一気に鳥肌が立った。

 傲然とした事実でありながら、誰に気づかれることもなく着実に進行していた陰謀の存在に気づき、思わず震え上がる。

 十二年前、全国各地で一斉に巻き起こった大災害レベルの無差別テロ。

 その後、壊滅的な被害に遭った地方都市は公的な復興など一切行われることなく放置され続けていた。その結果、地方への流通は完全に途絶え、行き場を求めた人々が『OLYMPOS』のお膝元であるために辛うじて機能を取り戻していた首都近郊に集中するという、人口過密現象を齎したのだ。

 まさか、それも最初から、計算の内だったというのか……!?

「さすがに、察しがいいわね」

 すべてを知る男は、嘲笑うかのように口を滑らせた。

「――そうよ。この計画は十二年前、……あたしたちにとっての始まりであり、その他大勢にとっての終わりが始まった……あの日あのときから、既に着々と進行していたの」

 途端に目の前が真っ暗になって、深い奈落の底へと、真っ逆さまに堕ちて行くような気分だった。……なんて事だ。思わず絶句する。

「――“ストック・ファーム”――あんたたちはあの騒々しい繁華街のことをそう呼んでるみたいだけど、本来はこの関東圏一帯に存在する貧民街のすべてを総称した呼び名よ。虐げられ、ゴミクズ扱いされて尚、支配されることに甘んじて生きている、誇りもなければ牙も持たない豚どもは皆、“第三次特殊能力者開発”のための生体素材(ライヴストック)――……そして」

 この関東一帯が、それを一度に管理しておくための巨大な農場だったというわけか――。

「ふざけやがってッ!!」

 僕は叫んで、思い切り壁を殴りつけた。

 しかしそれは決して激しい怒りを体現するものではなく、あまりにも壮大で常軌を逸した敵の目論みに対する、怯えの裏返しとも呼べる感情の発露であった。

 額に濃い影を落とし、隼人がひび割れた声を押して言う。

「日本の総人口がおよそ一億三千万人。内、関東圏の人口は現在・八千万人といわれている。総人口の三分の二が被験者になるという計算だ……! その中から、大災害を引き起こせるレベルの特殊能力者が、一体どの程度の割合で輩出されると思うッ……」


 ――僅か一パーセントの確率だと換算しても、

 その数はざっと“八十万人”を超える――!!


「信じられん数だッ……!! 想像するだけで、気が狂いそうになるッ……!!」

 一人一人で、都市を丸ごと一つ壊滅させられるレベルの特殊能力者が、徒党を組んで跳梁跋扈する未来――。

 あまりにも話の規模が大きすぎて、もはや考える気力すら湧いてこない。

 ただただ、戦慄する。今すぐこの場から逃げ去ってしまいたいと、本気で思った。

「たった五人で日本を壊滅に追いやったこいつらと同じクラスの能力者が、それだけの数で軍隊を編成し、世界を相手に戦争を仕掛ければ……」

 魂が抜け落ちたような和明の呟きに、隼人が冷や汗に塗れた顔を覆いながら答えた。

「いや、もはやそんな必要すらない……。この国は徹底的な鎖国政策によって世界から孤立している。恐らくは特殊能力に関する情報の漏洩を防ぐためだったんだ……」

 ――故に諸外国は、特殊能力者という存在自体を認識していない。

 仮に存在は知っていたとしても、詳しいメカニズムがわからなければ、対処する方法などない。『OLYMPOS』はそのための機密保持と情報規制を徹底していた。

 真っ向からの軍事衝突なんてリスクを負う必要もなく、数十万人の能力者たちは開国と同時に、何食わぬ顔で世界各国へと渡る。あとはそれぞれ一介の観光客を装って主立った都市を巡り、ゲリラ的に天災レベルの破壊活動を展開させればいい――。


 ――八〇〇〇〇〇人の“邪神”たちによる、世界的規模の同時多発テロ。

 僕の居た世界線において記憶に新しい、9.11や東日本大震災クラスの超常災害が、全世界、ありとあらゆる地域で、一斉に巻き起こる。

 一つ起きただけでも国を傾けるには十分だというのに、それも一ヶ国あたり、最低でも数百件という凄まじい計算だ。これはもはや、テロなんて生易しいモノじゃない。


 夥しい数の蛆虫が這い回る木の葉の如く……地図上に示された五つの大陸が、一斉に穴だらけとなって喰い荒らされていく光景を連想した。

 暗黒の時代を告げる鐘の音が、頭の中で轟々と響き渡るかのようだ。

 地球上を覆い尽くす、異能災害(サイコ・ハザード)

“――世界は瞬く間に、崩壊する……”


 言葉を失い、頭を抱え込む僕らを尻目に、衆道は淡々とその真相を語り出した。

「そもそも、ただ単にこの国を陥落するのが目的だったら、それこそ首都を集中的に攻め落として、軍や警察の中枢に壊滅的なダメージを与えてやればそれで事足りたのよ。わざわざ全国各地で一斉に破壊活動なんてやる必要はないでしょ……」

 言われてみれば確かにそうだが、十年以上も前から、ここまで大掛かりで巧妙な心理操作が行われていたことなど、一体、誰が予測できたというのか。

「その点については、あたしだって驚いてるわよ……。国家からお払い箱にされて、暗黒街で燻っていた頃。あの人からこの計画を聞かされたときには、とても信じられなかったもの。けれど実際にここまで、ほとんどあの人の立てた計画通りに事は運んでる。まるで現実の方が彼の理想に引き寄せられて行くみたいにね……」

 その男は悪魔か何か。もはや口では言い表せない。

 僕たちは一体、何と戦おうとしていたんだろう。

 ここ二ヶ月間あまりの記憶が、走馬灯のように色褪せて脳裏を駆け巡る。

 真実を知った今、そこに登場する自分達の姿は、まるで巨大な風車に立ち向かうドン・キホーテのように、酷く滑稽で、あまりにも矮小な存在に思えた。

 重たい沈黙が、じっとその場に鎮座する。

 前髪を伝って滴り落ちる冷や汗が、青白く発光する床の上で小さく弾けた。

 停電が復旧し、室内に電球の明かりが戻ってくる。

 それを契機に、衆道は口を開いた。

「――これでわかったでしょ……。この計画が、あんたたちの手に負えるような代物じゃないってこと……」

 僕は答えることが出来なかった。和明もまた口を閉ざしている。

 だが、それでも隼人は。

「……まだだ」

 全身を蝕まれるような激しい苦痛の中で、なんとか絞り出したような低くドスの利いた声。衆道を含む三人の視線が、一斉に彼の相貌を捉えた。

「まだ希望はある。霊石がこちらの手にある限り、破滅の引鉄は罷りならんッ……!」

 僕はハッとして、自身の胸にある宝石のブローチへと手をやった。

 絶え間なく、澄んだ黄金の光輝を発する冷たい霊石の感触が、今となっては途方もない重圧となって、僕の脆弱な精神に負荷をかけてくる。

 そうだ。これがいわば、世界の崩壊に歯止めをかけるための、最後の砦なのだ。

 なんとしても、死守しなければならない。――

「――さぁて、どうかしら……?」

 衆道は水を差すように、皮肉を吐いた。

「残る三柱は正真正銘の“魔人”よ。彼らは計画遂行のために本気で追って来る。とても守りきれるとは思えないわ。……少なくとも、あたしや入道を倒したときのようにいくと思ったら大間違いね。血みどろの死闘になることは想像に難くない。――たとえ、奇跡に近い確率で三人を退けられたとしても、そのとき、あんたたちの中で一体、何人が生き残っていると思う……?」

 彼は真っ直ぐ、こちらの弱みを射抜くような眼差しで、僕らに告げた。

「――犠牲を払わずに済む戦いは、最早これまでと思っておいた方がいい……。大事な仲間を無残に失いたくなければ、最初に言ったとおり、世界も霊石も捨てて、どこかの山奥で静かに暮らしなさい。これは脅しでもなければ、負け惜しみでもない。あたしからあんたたちへの、善意の忠告よ」

 衆道の言葉はいやというほど的確に、僕たちのクリティカルを突いていた。

 自らが死ぬことへの恐怖心は克服できたとしても、仲間たちの屍を越えて行けるかどうかには自信がない。仲間たちを犠牲にして、ティアラを取り戻した僕は、恐らく生涯に渡って、罪悪感という名の重たい十字架を背負うことになるだろう。それこそ生き地獄だ。

 隼人、琢磨、梨香、和明、真帆。

 彼らが無惨な最期を遂げる光景など見たくない。そんな可能性など考えたくない。

 しかし、見なければならない。考えなければならない。

 そこと向き合う覚悟がない者に、命を賭して戦う資格などあってはならないのだ。――

 それからしばしの間、真剣に思い悩む僕らの様子を見ていた衆道が、不意に微笑を浮かべて言った。

「羨ましいわね……」

 僕らはふと思索を打ち切って、細く力ない衆道の言葉に耳を傾けた。

「――あたしには、そこまで真剣に想ってくれる人なんて、一人もいないから……」

 哀しげな笑みを浮かべて、彼はたった一言、そんなことを呟いた。

 隠された人生が垣間見える。

 僕らが〝神〟と呼び、恐怖の対象としてきた彼らもまた、多くの懊悩や欠陥を抱えた人間であるという事実を、僕は今更のように認識していた。

 彼らは決して、神なんかじゃない……。

 全能でもなければ、完璧でもないのだ。

 むしろ、普通の人たちが持っている多くのモノを持っていない、或いは、持ちたくても持てなかった。そういう者たちなんじゃないかとさえ、思えてくる。

 だが、それでもやはり、慰めてやる気にはなれなかった。

 彼らが犯して来た罪は、あまりにも重大で、取り返しのつかないものだ。

 心の弱さに甘んじて犯した罪を、赦すことは出来ない。

 しかし、逆にその罪を数え上げて責め立てるような気分も起こらなかった。

 ただただ、無機質で、冷たく透き通るような静謐が辺りを包みこむ。

 窓の外は膝を正したようにしんとして、いつの間にか雨も止んでいたようだ。

 ふと、そんなとき。

「……ん」

 どこからともなく、――シュワシュワ……――と、炭酸飲料をコップに注いだときのような音が立ち始めた。なんだろうと思い、僕らは首を巡らせてその発生源を探る。

 直後につんとした異臭が、鼻腔の粘膜を刺激した。

「うっ……」

 なんだ、これは……。

 ビニールが溶けるような。生理的に受け付けない化学薬品じみたニオイ。

 気分が悪くなりそうだ。

 僕はすぐさま空気を入れ替えようと窓辺に近寄って、異変の正体に気づく。

「――っ!?」

 窓側の壁面が、牛乳を煮詰めたようにぶくぶくと泡立っていた。

 壁の組織が液状化して、粘着質な糸を引いている。

 薄っすらと立ちのぼり始めた煙。

 突如として目の当たりにした怪奇現象に唖然とする僕たちへ向け、事態の深刻さを察知したらしい衆道が、青ざめた顔をして叫んだ。

「逃げなさいッ!! 早くッ!!」

 直後、水に濡れた紙がふやけて破れるかのように――べろっと、分厚いコンクリートの壁面が剥がれ落ちた。

 そして、姿を現す。

 異質、異端、異常、異形……。

 如何様なる言葉を用いてもその衝撃は形容しがたい。強烈な違和感と戦慄。

 ――中世ヨーロッパの貴族を彷彿とさせる背格好の女が、悠然と空中に佇んでいた。

 思わず言葉を失う。ここ、二階だぞ。

 僕は一瞬、悪い夢でも見ているんじゃないかと錯覚に囚われた。

「……フフ、ご機嫌よう」

 笑うはずのない仮面が笑ったような微笑に、背筋が凍る。

 途端、足元から這い上がるように、真っ黒な煙が周囲に広がった。

 たちどころに充満する黒い霧によって、視界が塞がる。

「クッ、かはっ……!?」

 息が詰まる。肺が痺れ、喉が焼けるようだ。

 これは、ただの煙幕じゃない。

 ――毒ガス!?

 気づいたときにはもう遅い。

「げほっ、ごほっ、ぐはァ……ッ!!」

 毒霧を吸い込んだことで激しく噎せ返り、咳き込むことで一層汚染された空気を吸い込んでしまう悪循環。水中で溺れている感覚と同じだ。この場でいくら喘ごうとも、新鮮な空気は一向に送り込まれてこない。苦しみ悶えるばかり。

 呼吸困難に陥って、僕はその場に崩れ落ちた。

 涙を流し、鼻水をたらし、それでも意識が失われるそのときまで、反射的に猛毒の煙を吸い込み続けなければならない。――


 猛毒の霧に巻かれ、三人と同じく苦悶していた衆道は刹那、猛然と風を切って迫る気配を察知して、咄嗟に目を剥いた。

 おぼろげな視界の中、真っ黒な煙の中から、突如として踊り出る影。

 フリルのドレスにたおやかな姿態を包んだ淑女が、低く、短く、早く、クラウチングスタートを切るように真っ向から跳躍した。

「アルテミスッ……!!」

 嗜虐心剥き出しとなった猟人の瞳孔が切迫する。

 瞬間、彼女の手中から光線のように伸び切った猛毒の槍が、衆道の痩せ細った胸に容赦なく突き刺さった。

「――……!!!!」

 肉を抉り、骨を砕き、その先にある臓器を貫通する。

「ぐがぁあぁっぁあああああああ」

 衆道はごぼっと喀血して、断末魔の悲鳴を上げた。

「クスクスクス……! 死ぬのは怖い?」

「っぐ、ヒギィ!?」

 突き刺した矛先をぐりぐりと捻じって衆道を苦しめながら、ミス・ロンリーは冷ややかに笑う。そして、耳元で囁くように告げた。

「直人様からのご命令よ、死になさい」

 その瞬間、“……あぁ、やっぱりか”と、衆道は心の中で呟いた。

 もう随分と前から、薄々勘づいていたことだ。

 思った以上にショックはなかった。ただただ、己の愚かさを悔いる。

「最後に、ワタクシの方から一言……」

 貴婦人はふと感慨に浸るような表情を浮かべて、死にゆく衆道の瞳を覗き込んだ。

「この十余年、本当に色々なことがありましたけれど。実を言えばワタクシ、以前からあなたのことが……――」

 滲むように、ほどけるように。

 お高くとまっていた美貌が崩れ、虚のような隙間から、恐ろしい本性が覗く。

「――目障りでッ、目障りでッ、仕方がありませんでしたのッ!!」

 嘲りと侮蔑の言葉を思い切り吐きつけたミス・ロンリーは、最後にズブズブと背中から突き出すまで槍の尖端を深く刺し込んだ後、一気にそれを引き抜いた。

 飛び散る血飛沫が、果ては天井まで濡らす。

糸の切れた人形のように椅子から転げ落ち、衆道はごろんと力なく床に横たわった。

「――空間歪曲(Warp)ッ!!」

 隼人の作り出した空間の亀裂が、周囲の毒ガスを一気に吸い込んでゆく。

 粛清を終えたミス・ロンリーは、指先にひっかけた傘をくるりと後方に回し、立ち上がろうとしていた祐樹の胸元を、下から掬い上げるように傘の先端で素早く掠めた。 

 服の表面ごと削ぎ取られた霊石のブローチが、大きく山なりに孤を描いて宙を舞う。

「くぁっ……しまったッ!」

 一瞬遅れて破れた胸元に手を這わせ、痛恨の表情を浮かべる祐樹。

 見事な手際で霊石を手中に収めたミス・ロンリーは、崩れ落ちた壁面から余裕の笑みを浮かべて外に飛び立ってゆく。

「くそッ、待て!!」

 毒ガスによる呼吸器系へのダメージも癒えぬまま、祐樹はすかさず奮い立って後を追った。隼人がその背中に向けて叫ぶ。

「ユーキッ!! 無茶はよせッ!!」

 しかし彼が言い終えるよりも早く、焦燥に駆られた拳銃使いはその場を去った。

「チィッ……!」

 まずい。祐樹一人の力では、どう考えても勝てる相手じゃない。

 隼人もすぐさま後を追おうと立ち上がって、背後から和明に呼び止められた。

「ハヤトくん!!」

「――っ!?」

 切羽詰った声色に振り返り、そこではたと、血まみれになって倒れた衆道の存在に気づく。隼人は駆け寄って、その痩身を抱え起こした。

「おい、しっかりしろッ!」

 四肢からがっくりと力が抜け落ち、衆道の全体重が隼人の腕に圧し掛かる。

 彼は乾いた瞳で虚空を仰ぎながら、ふと独り言のように呟いた。

「結局あたしは、最初から単なる駒の一つに過ぎなかったのね……」

 心臓を一突き。明らかな致命傷だ。

胸に大きく穿たれた穴から、とめどなく真っ赤な鮮血が溢れ出している。

「和明、俺の診察鞄をここへ!!」

「うんっ!」

 残った力を絞るように、衆道はゆっくりとかぶりを振った。

「無駄よ……。もう、全身に毒がまわってる……このまま、死なせてちょうだい」

 痰の詰まった聞き取りにくい声で延命措置を拒否した衆道は、直後にどばっと大量の血を吐いた。唇の端に血の泡を吹き、ひゅるひゅると、喉の奥から微かな吐息が漏れる。

 隼人と和明は静かに目を細め、死に行く衆道の言葉に、耳を傾けた。

「――思えばアタシは、劣等感の塊だった……。醜い嫉妬と羨望が、心の中に住み着いた獣をどんどん大きく成長させていった……。そして自分の持つ力に、心が貪り喰われて行くのをいつも感じてた……。誰が憎いわけでもなかったのに、沸き立つ力を抑え切れなくなって。八つ当たりのように怨み、傷つけ、すべてを破壊して……。堕ちるところまで堕ちてしまった……。アタシはこんな力、欲しくなかった……。異能の新世界なんて、本当はどうでもよかったの……。ただ、誰かから必要とされたかった……。信じあえる仲間が欲しかった……。たったそれだけのことなのに。どうして、こんなことになっちゃったのかしら……。たぶん、アタシはもう、気づくのが遅すぎたんだろうけど……ほんっと、馬鹿ね」

 呼吸はどんどん荒くなり、声は首を絞められるように苦しくなって、最後の方はもう、ほとんど潰れて聴き取れなかった。

 和明が悲痛に表情を歪めて、男の死から目を逸らす。

「……」

 隼人は黙って、痩せ細った腕に麻酔薬を注射してやった。

 神経が麻痺して、ふっと死に至る苦痛が和らぐ。

 絶望に染まりかけていた衆道は、思わず目に涙を浮かべて彼を見た。

 隼人は何も言わない。

 だが、言葉に尽くせないものを心の奥で感じ取った衆道は、何度も何度もひとりでに頷き、白むような静謐の中、とつとつと力ない声を振るって話しはじめる。

「――システムの最終調整が終わって、エネルギーの充填が完了するまでの猶予は一週間よ……。本気で世界を救いたければ、それまでに〝引鉄〟を破壊するしかない。――アテナの覚醒を阻止しなさい。彼女は塔の最上階、機械の檻に閉じ込められているわ……」

 衆道は語った。

 寄せては返す死の波が、彼のすべてを静止させるそのときまで。

「三柱との戦いは塔の内部に持ち込みなさい……。引鉄の影響下にあるタワーの中では、あいつらの能力も大幅に制限されるはず……。さすがに互角とまではいかないでしょうけどね。少なくとも、建物の倒壊に繋がるような力は発揮できない……。この条件下なら、あんたたちにもきっと、勝機があるわ……」

 悲哀に満ちた空気の中、和明は頭を抱えて悄然と目を伏せる。

 霊石を奪われ、残された猶予は僅か一週間。

 その間に〝ゼウスの引鉄〟を破壊しなければ、世界は滅亡する。

 状況は絶望的だった。

 残る神々との対決は、塔の内部へと持ち込むことで勝算を得られると衆道は言うが、そもそも、タワーに辿り着くこと自体が、極めて困難な状況である。

 周囲三百メートル圏内を取り囲む高さ二十メートルの特殊防壁。

 それを越えても敷地内には侵入者防止のトラップが幾重にも張り巡らされ、さらには完全武装した自衛隊が数百人規模で常駐している。

 敵はそれだけではない。『OLYMPOS』の私兵隊である特高警察(サーベラス)、そして、神々以外にも特殊能力者は数多と存在するのだ。

「無理だよ。とても僕たちの力だけじゃ……」

 弱音を吐く和明に、衆道は最後の力を振り絞って助言を授けた。

「だったら一人でも多くの市民を味方に付けなさい……! 戦争で雌雄を決するのは総合的な戦力よ。『OLYMPOS』もそのためにこの計画を企てた。だから同じことをやるの。討ち取ったあたしの首を交渉の材料に使えば、かなり多くの人間が、あなたたちのバックについてくれるはず。上手くいけば、軍や警察の協力を仰ぐことだって出来るでしょう」

「首を使うなんて、そんなっ……!」

 衆道は和明の優しさに感謝を含めつつ、苦笑した。

「これから世界を救おうっていうのに、こんな悪党の屍一つ踏み台に出来なくてどうするのよ……? 遠慮はいらない。この骸はあなたたちに捧げるものよ。好きなように使ってちょうだい……。それで少しは、あたしの死も、無駄じゃなくなるでしょ……?」

 そこまで言い終えると、衆道はどこか晴れやかともいえる表情で薄っすらと微笑んだ。

 しかしその瞳は既に光を失い、隼人も和明もいない虚空に、焦点を定めている。

 生命が失われるその瞬間、彼は消え入るような声で囁いた。

「出来ればもっと早く、あなたたちと出会いたかった……」

「……そうか」

 隼人はたった一言だけ、最後の最後に、柔らかく相槌を打った。

 白く、白く、染まる小さな部屋の中で。

「――――」

 静かに目を閉じ、そのまま眠るように、衆道は事切れた……。


                 4


 雨上がりの夜空を翔る魔女を追って、僕は外に飛び出した。

 激しい焦りに、心臓の鼓動が跳ね上がる。

 恐るべき『ゼウス=プロジェクト』の全貌を知り、絶対に渡してはならないと思っていた矢先にこのザマだ。

 なんとしてでも、取り戻さなければならない。

 今ここで食いとめなければ、世界は終わりだ!

 僕はすかさず、ホルスターのコルト=パイソンに手をかけた。

 頼むから当たってくれよと、神にでも祈る気持ちで照準を定める。

「ッ――!!」

 トリガーを引き絞ると同時に、銃口から迸る火炎。

 発射された銃弾の威力が、握った銃把を通して直に伝わってくる。

 けたたましい銃声も、手首から肩へと突き抜けるような反動も、疾うに慣れた。

 上空十メートルほどのところを優雅に浮遊する貴婦人めがけて、僕は.357マグナム弾を立て続けに六発、寸刻みで撃ち込んだ。

 しかし――。

「くッ……!」

 ――当たらない。当たらない。当たらない。

 ――外れた。外れた。外れた。

 この状況下で、全弾、掠りもしなかった。

 貴婦人は依然として宙を舞い踊りながら、朗らかに嘲笑を湛える。

「花火にしても、芸がありませんわね?」

 最初から当たらないのはわかりきっていたと言わんばかりの皮肉を聞いて、僕は思わず握った拳銃を、足元の地面に叩きつけてやりたい衝動に駆られた。

“くそッ、どうなってるんだ一体ッ!!”

 予てより抱いていた原因のわからない不調への憤りが、この危機的状況と相まって一気に加速する。

 即座にシリンダーをスイングアウトさせ、空薬莢を排出。スピードローターを使って新たな六発を弾倉に滑り込ませ、手首のスナップでシリンダーをフレームへと叩き込む。

 頭に血が上って冷静な対処が出来なくなっていた僕は、魔人令嬢に向け、さらなる六発を乱れ撃ちの要領で無茶苦茶に連射した。

「……!」

 刹那、淑女の取り澄ました仮面が不意に翳ったかと思えば、一瞬のうちにバッと傘の帆が開かれ、盾のように彼女の上半身が隠れた。

 開かれた傘の表面で、パラパラと六つの火花が散る。あらぬ角度に跳ねた銃弾の一つが貴婦人の足元を掠め、透き通るようなガラスの靴を片方、粉砕した。

「――当たった!?」

 撃った張本人である僕の方が驚いていた。

 いや、本来僕の実力であれば、命中するのは当たり前のことなのだが――。

 先の連射が全弾外れたのに対し、今回は貴婦人が傘を広げていなければ、確実にその肉体を捉えていたことになる。

 何故だ。きちんと照準を定めていたはずの弾が外れて、やけくそに撃った弾の方が狙い通りに飛んだのは。

 いよいよ、わけがわからない。あまりにも不可解だった。

 そして、――ついぞ敵前と言う事を失念し、そんなことに気を取られていた僕は、頭上から降り掛かる圧倒的な死の気配に気づくのが遅れた。

 間抜けといえばこれほど間抜けな話もない。

 弾が狙い通りに飛んだとしても、相手を仕留められなければ何の意味もない。

 すぐにでも敵の反撃に対して備えるべきだったのだ。

 真っ黒な液体が、バケツをひっくり返したように塊となって空から降り注ぐ。

 敵の能力が毒を統べるものであることは、なんとなく察しがついていた。

 恐らくは溶解液の類だろう。飛沫一つでも浴びれば、ただでは済むまい。

「くっ……!」

 慌てて大地を蹴って背後に跳躍するが、完全にタイミングを逸していた。

 もはや致命的な間合いだ。避けられるものではない。

「――!?」

 瞬間、真横からの衝撃に、僕は弾き飛ばされた。

 予期せぬ事態に何の事前準備もなく、身体が水平に投げ出される。

 そのまま何者かに抱え込まれるような形で、勢い良く地面を転がった。

 直後に標的を失った猛毒の障気が、地面で飛沫を上げる。

 じゅわっと高熱の鉄板に水を垂らしたような音。濃紫色の禍々しい煙が立ち昇り、見れば、アスファルトの地面がドロドロに溶解していた。

 あんなものを浴びていれば、とても皮膚が爛れるなんてレベルでは済まなかっただろう。

 地面に組み伏せたまま、背後でむっくりと起き上がる人の気配を感知する。

 僕を窮地から助け出してくれたのは、一体……?

「わりぃな、遅くなった」

 その声は――。

「琢磨!」

 待ちかねていた男の帰還に、僕は嬉々として振り返り――

「……っ!?」

 彼の姿を見た瞬間、思わず言葉を失った。

「まぁ、滑り込みセーフってことで勘弁してくれや……」

 熱っぽい吐息とともに、精一杯の気丈を振るって笑う琢磨は、全身ボロボロで、酷い有様だった。僕たちがメデューサを倒すことに成功したその陰で、足止め役を買って出た彼がどれほど苛烈な戦いを強いられていたのか、思い知る。

 僕が愕然として動けぬ合間に、力尽きた琢磨はふらりと倒れて、それっきり死んだように動かなくなった。

「おい、琢磨ッ!!」

 彼の身体を揺すり起こそうとして、ざらりとした感触に気づく。

 手触りのあった箇所を見れば、琢磨の右腕が、肘の辺りまで真っ黒に焦げていた。

 なんだよ、これ……。

「ホォ~ホッホッホッホ!!」

 キーンと頭に響くような高笑いが、耳を劈く。

 すかさず銃を構えて空を睨むが、貴婦人は既にこちらの有効射程圏内を抜け、天高く舞い上がっていた。

 僕は忸怩たる思いを胸に、それを見送る。

 分厚い雲の切れ間から、ぽっかりと覗いた月明かり。

 一筋の光明に導かれ、遥か高みへと翔け昇る彼女の姿は、かぐや姫もさるやの幻想的な雰囲気を醸し出していた。


                 5


 衆道の最期を看取った二人の間には、しばしの沈黙が流れていた。

 追悼色に染まっていた空気を断ち切って、不意に隼人が立ち上がる。

「……」

 かつかつと踵を鳴らして、アルテミスの襲撃によって穿たれた巨大な穴の前に立ち、病んだ夜風に身をそよがせながら、遥かに聳え立ったイーリアス=タワーを泰然と眺める。

 その姿には、めらめらと燃える青白い炎のゆらめきが、重なって見えた。

「――巨大だな、途方もなく……。とても俺たちの力が及ぶとは思えん……。しかし最後の砦を奪われ、明確なタイムリミットを儲けられた今、攻めに転じるのはむしろ好都合かもしれん……」

 ぎりぎりと音を立てて握りこまれる拳。獲物を捉えた猛禽のような双眸が光る。

 低く押し殺した声は、どこか不敵で、挑戦的な響きを多分に孕んでいた。

「機は熟したな――」

 和明は衆道の亡骸の前に座り込んだまま、息を飲んで隼人の背中を見つめていた。

 彼の口から発せられるその宣言を、聞き届けるために。


「今こそ落とすぞ、……神の座する頂を――ッ!!」



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