第十二章「死角‐BLIND SPOT‐」
第十二章「死角‐BLIND SPOT‐」
1
貧民街の外れにある、一際荒廃の進んだ区画まで逃げて来た衆道は、背後に追っ手の影がないことを知り、ひとたび安堵する。
〝撒いたか……〟
廃墟となったビルの壁面に寄りかかり、辺りに人気がないことを確認して、しばし呼吸を整える。イーリアスタワーの砦まではもうあと僅かだ。かの門を潜ってしまえば、ワッパどもは追って来られない。
息を整え、再び走り出す。そうしてビルの陰から躍り出たところで、対の壁面から合わせ鏡の如く飛び出して来た少年の姿に、思わずその目を奪われる。
「――なっ!?」
現れたのは、白衣を纏った異世界の拳銃使い。
〝先回りされた……!?〟
衆道はその事実に、痛恨の表情を浮かべる。
――梨香の持つ精神感応と、隼人の持つ空間操作を連携させれば、相手の思考から道順を読み取り、空間転移によって先回りを行うことなど造作もない。――
前回と同じく、隼人の白衣を着せられた僕は、タイミングを合わせて物影から飛び出し、怯んだ男に向かってすかさずリボルバーを構えた。
「蜂の巣になりやがれぇ!!」
炸裂する怒号と、マズルフラッシュの閃光が猛然と交錯する。
しかし、当たらない。一発たりとも当たらない。掠りもしない。またもや謎の絶不調。射撃の腕は落ちていないと、アジトでの試し撃ちによって確認していたはずなのに。
「……ッ!」
理不尽さと不可解さに苛まれつつも、僕はとにかく走り回り、轟然と撃ちまくった。
今の僕に課された役割はあくまでも〝撹乱〟であり、本命に繋げるための〝陽動〟なのだ。――
折り重なる銃声と閃光の瞬きを受け流しながら、衆道は落ち着きを取り戻していた。
その唐突な出現にこそ些か驚かされたものの、あとはどうということもない。
いくら撃っても弾は当たらないし、その裏に隠された意図も見え見えだ。
派手に撃ちまくっている拳銃使いはフェイク、大きく風に靡いた白衣の陰に、実は本命の人物が息を合わせ潜んでいるという、前回と全く同じ仕掛けなのだ。
入道の意表を突くことには成功した作戦でも、予め記録映像によってその全容を把握している衆道にとってみれば滑稽極まりなかった。
よく注意して見れば、拳銃使いの背後からもう一人別の人物の足が覗いている。
一度成功したからといって、同じ策を転用して来る相手の甘さに失笑を漏らす。衆道は祐樹の動きから目を離すことなく、その背後に隠れた人物が仕掛けて来るのを待った。
さて、そろそろか。
そう思った矢先、案の定、翻った白衣の陰から小柄な体躯が姿を現し、衆道は笑った。
……が、しかし。
「なっ――!?」
てっきりそこに隠れているのが女剣士だとばかり思っていた男は、完全に意表を突かれた。祐樹の陰に隠れていたのは、和明だったのだ。
衆道は脳天をかち割られるような衝撃と共に気づく。
〝――これは、二重の陽動……!?〟
瞬間、只ならぬ気配に背後を振り返ると、抜き身の刀身を構えた女剣士が、物凄い勢いでこちらに肉迫していた。――
〝かかったなッ!!〟
男の驚愕した様子を見て取った僕は、してやったりと笑みを浮かべる。
やはり、隼人の読みは当たっていたのだ。
敵は恐らく、前回の戦いを分析しているはずだと彼は語った。
故に同じ手は通用しないだろうと、普通ならばそう考えるはず。だからこそ、あえてそれを裏切り、前回と全く同じ事をやってみせた。
ただし、前回は本命であった位置に、今回は更なるフェイクを据えることで、こちらの手の内はお見通しであるという、相手の思い込みを逆手に取ったのだ――。
役目を終えた僕は、和明の肩を叩いて空かさず退却を図った。
振り返り様に、強く念を込める。
〝あとは頼んだぞ、梨香……!〟
――アフロヘアーの男が、祐樹と和明の陽動にまんまと注意を引きつけられている間、背後から回り込んでいた梨香は、真相に気づいて驚愕する衆道に向かって猛然と間合いを詰め、瞬間、独楽のように体全体で回転を加えながら跳躍した。
「秘刀〝焔旋風〟――ッ!!」
完全な不意打ちからの必殺奥義。遠心力を纏い、絶大な破壊力を秘めた剛剣のつむじ風が、火花を散らしてアスファルトを削りながら幻惑の神に突進する。
衆道は声を上げる間もなく、左鎖骨から右肋骨までを袈裟懸けに大きく切り裂かれ、呆気なくその場に倒れた。
「……!」
しかし、そこで驚愕したのは梨香の方だった。
まるで手応えがない。
そう思って見ると、地面に倒れた衆道の亡骸が、次の瞬間にはお湯の中に落とされた角砂糖の如く、ゆらゆらと蒸発して霧散した。
「幻影!?」
「――うふふふふふっ、此処よ? お馬鹿さん?」
気色の悪いカマ口調に振り返ると、建物の陰から忌まわしき長身痩躯がゆっくり姿を現したところだった。暑苦しいアフロヘアーを得意げに弄りつつ、前衛的なファッションを誇示するかのように厚底のサンダルを打ち鳴らしてこちらに歩いて来る。
「チィッ!」
まんまと罠に嵌めたつもりが、実は最初から敵の手のひらの上だったことを知り、梨香は苦虫を噛んだ。
敵と同系統の能力である精神感応を発動させている手前、洗脳波は打ち消しているが、それでもやはり、すべての幻術を無効化できるというわけではないようだ。
相手は〝幻惑の神〟――このまま臨めば、それこそ雲を掴むような戦いに成りかねない。そう判断した梨香は、すぐさま対策を取った。
「んん……?」
衆道が不思議そうに首を傾げるのも無理はない。
梨香はもとより短いスカートの裾を、大胆にも下着が見えるラインまで破き取り、帯状に裂いた布切れを頭に巻いて目隠しを作った。
さらには髪留め用のゴムを二つ指先で押し固め、両耳を塞ぐ。
「ちょっとこの子、なにしてんの?」
自ら進んで視覚・聴覚を遮断した女剣士の暴挙ともいえる行動に、衆道はぷっと呼気を吐き出して失笑した。
目に見えぬが故、梨香の能力を今一つ把握できていない衆道にとってみれば、こんな状態でまともに動けるわけがないと思うのは当然だ。しかし。
「――行くわよ? 変なおじさん?」
不敵に笑ってそう告げた盲目・難聴の女剣士は、とても二重苦とは思えぬ動きで、一抹の迷いもなく、衆道に向かいかかった。
「ちょッ、冗談でしょ!?」
放たれた凶刃の一薙ぎを、間一髪、身を屈めてやり過ごした衆道はすかさず後退を選ぶ。
しかし梨香は即座に追撃し、長身痩躯を思うさまに翻弄した。
反射速度も、動作の正確さも、目・耳を塞ぐ以前と何一つ変わってはいない。
メデューサの幻術に対抗するため、ウィークポイントとなり得る視覚と聴覚をシャットアウトした梨香であったが、彼女に限っていえば瑣末な問題に過ぎなかった。
敵の思考を読み取る能力が聴覚の代わりを果たす。視覚は自身の目を使わずとも、同期によって敵自身の視覚を共有させてもらえばいい。場合によっては、周囲に隠れてこちらの様子を見守っているであろう、仲間たちの視野も使わせてもらう。
梨香の振るう剣戟から逃れつつ、衆道は傍らに立っていた街灯の一つに、素早く手をかけた。
「――フゥウッ!!」
途端、短く強い呼気と共に、メキメキと音を立て、厚さ十数センチ、高さ四メートルほどの街灯が、アスファルトの地面から一気に引き抜かれる。
彼の第二の能力・〝筋力増強〟のなせる業であった。
衆道は蚊トンボのように細長い片腕一本で、およそ百キロ前後はあるかというような鉄の幹をぶんぶん振り回し、応戦する。
「ほらほらァ! かかって来なさいよ小娘ぇえ!!」
こんなものをまともに受け止めれば、いくら宝刀といえど敵わないだろう。よしんば刀が無事だったとしても、梨香の腕は確実にひしゃげる。
形勢は逆転、今度は梨香が衆道に押される番となった。
面、胴、足、――次々と狙う先を変えながら横薙ぎに飛んで来る猛烈な攻撃を、屈み、後退し、跳躍し、いずれも確実に、ギリギリのラインで回避する。女剣士は攻撃を躱すことのみに専念しつつ、冷静に思考を巡らせて反撃に転じるチャンスを窺っていた。
敵の得物は長さ四メートル級の街灯。敵はそれを片腕一本で軽々と持ち上げていることから、重さがネックになるということはまずないだろう。
むしろ仇となるのはその長さだ。無論、その長さ故に梨香が必殺の間合いに近づけないという利点はある。だから、横に振り回している分には良いのだ。横に……。
「こんのぉおお!!」
ちょこまかと動き回る梨香に痺れを切らせた衆道は、鉄の丸太とも呼ぶべきそれを、金槌の要領で、頭上から大きく振り下ろした。
待ち望んだその瞬間が訪れたことを知り、梨香は唸りを上げて急降下する街灯の幹を、寸分のところで横に跳び、躱した。
甘露のような少女の肉体を貪り損ねた鋼鉄の一撃は、強烈な地響きを上げてアスファルトの地面を粉砕する。
〝此処だッ……!〟
梨香はすかさず地面にめり込んだ街灯の切っ先を思い切り踏みつけて固定し、両手で握った胴田貫の刃を、高々と上段に構えた。
「――チェストォオオオ!!」
凄まじい気迫を放った咆哮。空を貫く怒涛の一閃。
ジャギッ――と、金属の束をすべからく断ち切る重圧な炸裂音と共に、街灯の幹は三分の一ほどの長さを残して、あえなく一刀両断された。
「くぁっ、なんて馬鹿力なのっ……!? このゴリラ女ッ!!」
「アンタに言われたくないわ!! このオカマッ!!」
2
黄色の閃光が大地を走る。もう何十発目になるとも知れぬ雷霆の一撃を放ち、新たに数十名を眠らせた琢磨は深々と嘆息した。
既に昏倒させた人数は数百を超えている。
しかし、眼前には未だ千人規模の狂信者どもが殺意の渦を巻いていた。
――正直言って、キリがない。
いくら相手が異能を持たぬ一般市民とはいえ、これはあまりにも数が多すぎる。
まだまだ余力は残しているはずだが、このまま行くと、ちょっとヤバイかもしれない。
焦りに駆られ始めた彼の額から、一粒、二粒と冷や汗の雫が滴り落ちる。
本来であれば、ここらで少し休憩が欲しいところだが、メデューサの精神汚染によって狂鬼と化した市民達がそれを待ってくれる様子はない。
いつまで持つかはわからないが、それも隼人たちがあの男を仕留めてくれるまでの辛抱だと、自らに固く言い聞かせ、琢磨は奮い立った。
「さぁ、じゃんじゃん行くぜ……ッ!」
掌を大地に叩きつけ、腹の底から咆哮する。
「――電光散華!!」
――だが、放たれるはずであった稲妻のアークは、パチパチと線香花火ほどの弱々しい光を発した直後、収束するように引っ込んでしまった。
「くっ……」
途端、猛烈な虚脱感に見舞われ、急速に体から力が抜け落ちて行く。
能力の連続使用は、想像以上に彼の体力を奪っていたのだ。
「チィッ!」
唐突に訪れたパワーダウンの間隙を縫って、すかさず次の軍勢が襲い掛かって来る。
まずい。琢磨は懸命に起き上がろうとして――。
「――っ!?」
何か黒い砂煙のようなモノが、彼の目の前を素早く横切った。
反射的に目を瞑った金髪の悪童は、刹那の光景に、思わず呆然とする。
獣じみた雄叫びを上げ、眼前に差し迫っていた数十人の暴徒たち。
その上半身が、まとめてちょん切られたかのように、跡形もなく消えていた。
まるで刈り入れが済んだあとの、田んぼを見渡しているかのような錯覚に囚われる。
残っていた下半身も瞬く間にドロドロと溶け出し、やがて猛烈な悪臭を放つ巨大な水溜りに変わった。肉も、骨も、血も、すべてが溶け合い、入り混じった液体の汚泥じみた色が、鮮烈な衝撃とともに網膜を穢す。
なんだ、これは……。
一体、何が起こった……。
ぞくりと、背筋を舐め上げられるような悪寒が走る。
「――ッ!!」
咄嗟に振り返った琢磨だが、一瞬、そこにある物が何なのか理解できなかった。
ピンクのドレスを着た中世ヨーロッパの貴婦人が、空中に浮かんだまま、微笑み混じりにこちらを見下ろしている。
そんな認識に達して、琢磨はいよいよもって自らの正気を疑った。
荒れ果てた世紀末の景観に、童話の登場人物を無理やり貼り付けたかのような、強烈な違和感。彼女の存在はこの場においてあまりにも異質であり、そして至極不気味だった。
「おいおい……。冗談だろ……」
琢磨の声は酷くヒビ割れ、情けないほどに震えていた。
白いレースの日傘を差し、鮮やかな金髪の縦ロールが帽子の陰から垂れている。
肌はいっそ病的なまでに白く、なめらかで、凍えるような美貌の持ち主だ。
しかし、あまりにも完成され過ぎている。完璧な美とは、時として人に得体の知れない恐怖心を抱かせる。一糸乱れぬ彼女の姿は、まるで無機質な人形のようだった。
長いまつげに覆われた瞳が薄っすらと細められ、やがて瑞々しい唇が小さく開閉した。
「お掃除に少々手間取っておいででしたので、手伝って差し上げましたの」
小鳥の囀る、立派な庭園にでも響き渡るかのような美しいソプラノボイス。
琢磨はしゃがみ込んだ体勢のまま、低くいがらっぽい声で発した。
「そいつはありがてぇ話だが、出来れば予め声をかけてもらいたかったな……。テメェにも覚えがあるはずだ。ガキの頃、大掃除の日に。お母さんからゴミと間違えられて大切なオモチャを捨てられちまったって、苦い思い出がよ……」
「あら、それは悪いことをしましたわね? ワタクシには、醜い害虫にしか見えなかったもので、つい……」
琢磨は諦めにも似た微笑みを浮かべて、ゆっくりと立ち上がった。
そうして地面から数メートル上空に佇んだ貴婦人と、改めて向かい合う。
「いい女だな? 俺と付き合わねぇか?」
「ナンパ、ですか?」
「いいや? 命乞いだ。――今すぐ俺の女になれ。そうすりゃ俺は、お前みたいな化け物と殺し合わずに済む」
「フフ、お話の内容が荒唐無稽すぎます。錯乱していらっしゃるのでは?」
「テメェこそ大丈夫か……? 瞳孔、開いてんぞ?」
琢磨からの鋭い指摘を受け取り、病毒の女神はほうと値踏みをするように顎をしゃくって、高みから彼を見下ろした。短く交わされる両者の視線。
――琢磨は、既に悟っていた。
高嶺で微笑むこの女が、先日一戦を交えた業火の僧侶や、現在・隼人たちが交戦しているあのオカマと同じ――〝邪神〟と呼ぶべき存在であることを。
さらにいえば、眼前の貴婦人から発せられる妖気は、これまでの二人とは比べ物にならないほど凶悪で、底知れぬ残忍さに満ちていた。
まったく、とんだ貧乏くじを引かされたものだと思う。
暴徒化した市民の鎮圧に加え、こんな怪物の相手までしなくてはならないとは。
千を超える数の暴徒と――万を超える数の人間を一瞬で虐殺出来る病毒の女神――。
これから自分は、たった一人で、それに立ち向かって行かなければならないのだ。
そのあまりにも絶望的な事態に、いっそのこと現実逃避に走りたくなる。
この際なにもかもを投げ打って、潔く項垂れてしまいたかった。
だが、戦わなければ、一瞬で殺される。
死力を尽くして戦えば、あと数分は生き延びられる。
結末は同じでも、どちらを選ぶかは決まりきっていた。――
「――雷遁結界……!!」
バチバチと稲妻の羽衣を纏い、奮起した琢磨に貴婦人は長閑な冷笑を浴びせかけた。
「――クスクスクス……! 気の早い男は、女性から嫌われますわよ?」
眩い閃光の中、琢磨は不敵に笑って言葉を返す。
「気取った仕草がしてぇなら、練習不足だなァ、お嬢! それだけの殺気を垂れ流しておきながら、今更その気が無かったとは言わせねぇぜ!!」
「……勘が鋭すぎる男も、嫌われますわよ?」
じわじわと滲むように、黒い穢れの塊が、淑女の背後に集積する。
――願わくば、幻惑の神を打ち滅ぼした仲間たちが、少しでも早く応援に駆けつけてくれることを祈りつつ、金髪の悪童は途方もない戦いに、その身を投じて行った。
3
三嶋梨香 対 メデューサの激闘は続いていた。
轟音と共に、道路や建物が次々と破壊され、周囲のそこかしこから、猛然と粉塵が巻き上がる。唸りを上げて風を切り、宙を飛び交う巨大な質量。
――電柱、郵便ポスト、街路樹、コンクリートブロック、ガードレール、カーブミラー。
手当たり次第に様々な物を、持ち前の怪力によって投げつけ、女剣士を接近させまいとする衆道に対し、梨香は投擲される物品を躱し、切り裂き、受け流しながら何とかその間合いに踏み込もうと苦心する。
巨大な槍となった電柱が地面に突き刺さり、郵便ポストがビルの壁面を抉った。
コンクリートブロックは砕け散り、ガードレールが鞭のように撓る。カーブミラーは高速回転する円盤となって襲い掛かった。
しかし、いずれも女剣士の追従を阻むことは出来ない。
「もうッ! しつこいのよ、アンタッ!!」
うんざりしたように怒鳴った衆道は、握った拳で思い切り地面を叩いた。
岩石を打ち砕くような衝撃音と共に、アスファルトの地面に亀裂が走る。
「っ……!」
思いがけず足を取られ、転倒する梨香。
その隙にメキメキと音を立て、衆道は足元の地面をごっそりと剥ぎ取った。
「これならどうよォオオッ!!」
重量挙げ選手のように、剥ぎ取った大地の表皮を、頭上まで高々と持ち上げる衆道。
大気がうねる。巨大な岩石のプレートが、空を覆い隠しながら降下した。
「ハァアアアアアア――ッ!!」
すかさず立ち上がった梨香は、一気に間合いを詰めながら、竜巻を纏うように捻りを加えて跳躍。降り掛かる巨大な影に、痛烈なカウンターを仕掛けた。孔を、穿つ――ッ!
「三嶋流・焔錐ッ!!」
構造的に最も脆い中央の一点を集中して貫かれたプレートは、ボロボロに砕け散り、摩擦によって焦げた小石が、渦を巻きながら豪快に弾け飛ぶ。
間一髪、圧殺を目論む地表の面をドリルのように回転し刳り貫くことで、再び燦々と降り注ぐ陽の光を享受した梨香は、衆道の眼前に着地を決めた。
〝――目には目を。歯には歯を。幻惑には幻惑の剣を……ッ!〟
瞬間くるりと持ち手を返し、右手は己に向けて胴田貫の柄尻付近を握り込み、左手は下から受け皿のようにあてがって鍔元を支える。
刀を水平に寝かせ、相手の目線と刃の切っ先が、ちょうど一直線となるように構える。
「三嶋流・魔剣〝妖牢眼孔〟――」
一見すると吹き矢の要領にも似た、その独特な〝突き〟の構え。
それを正面から目の当たりにした衆道は、ふと奇妙な錯覚に囚われた。
「……っ!?」
なんだ、この感覚は。
目が眩む。距離感というものが、恐ろしく曖昧になる。
女剣士の太刀が、――その鋭い尖先一点を残して、――視界から消え失せていた。
いや、違う。遠近法を利用した単なる目の錯覚だと。
頭ではわかっていても、視覚から思考へと至る情報伝達が上手くいかない。
痺れたようにその場から動けず、瞳がその鋭い矛先一点へと無性に吸い込まれる。
無理からぬことだ。尖端を見て平静を失うのは、動物としての本能だからだ。
じわじわと、心身が侵されてゆく。
額に浮かぶ脂汗、下腹部を圧迫されるようなもどかしい腹痛。
異様な切迫感に、張り詰めた自律神経が次第に疲弊しているのだと気づく。
しかし、見てはならぬと思う反面、決して目を逸らしてはならないとも感じた。
敵手の女剣士は瞬き一つせず、静物のようにこちらの動向を窺っている。
下手に動揺し退避を選べば、相手は間違いなくこちらの首筋を捉えるだろう。
体を左右に揺すって間合いから逃れれば済む話だと思うが、肝心のタイミングが計れない。既に思うさまペースを乱されている証拠だった。
もはやどう足掻いても、自らの喉笛に凶刃が突き立つイメージしか浮かんでこない。
視界はみるみるうちに歪み始める。平衡感覚を保てない。
踏み締めた大地の感触が、羽毛のように柔らかく、浮遊感を伴って現れる。
〝まずい、このままでは……!〟
――相手の眼孔から精神を捉え、その肉体を牢に繋ぎ止める妖の剣。
幻惑の神は、もはや完全にその檻へと繋がれていた。
梨香は息を殺して、ただ静かにそのときを待つ。……もう間もなくだ。
自律神経を失調した衆道が、足腰を萎えさせ、よろめくその一瞬を――狙う。
〝今だッ……!!〟
ヒュッ――と、長尺の太刀が鋭角に風を切る。
梨香はただ、真っ直ぐ踏み込みながら、折り曲げていた両腕を素早く前に伸ばすのみ。
あとは最小限の空気抵抗で直進した鋭い剣先が、衆道の喉笛を貫く――
「……!」
――はずだった。
縮れた髪の毛の房が、はらりとばらけて、宙を舞う。
首を突いたつもりが、実際に胴田貫の刃が捉えていたのは、アフロヘアーの襟足部分だったのだ。驚愕と同時に理解する。
躱されたわけではない。――自らがよろめいたのだ。
その理由を考える間もなく、梨香が衆道の首を捉え損ねたために、二人はそのまま至近距離ですれ違うような格好になる。
衆道がこれ以上剣戟を振るわせまいと、直に掴み掛かって来た。
梨香は即座に胴田貫を手放し、蛇のように腕を撓らせて、衆道の頭を柔軟に絡め取る。
腰に手を回し、足を引っかけ、思い切り体を捻って長身痩躯を背面方向に投げ飛ばした。
「――三嶋流・朧車!!」
だが、組み手に持ち込んだのは失敗だったと、直後に気づく。
「ぐギッ……!?」
激痛が走る。メデューサの怪力によって掴まれた二の腕が、メキメキと音を立てて、あらぬ方角に軋んでいた。まずい、このままでは腕がひしゃげる。
即座に手刀を打ち込んで振り払うも、その影響で投げ技は瓦解、さらにバランスを崩した彼女は、前傾姿勢のまま地面に倒れ込む、刹那。
「……まだまだァ!!」
バッと、地面に両手をついた梨香は、瞬間、ぎゅっと腰を引き絞って膝を屈伸させた。
――三嶋流・徒手合戦礼法 内の一つ――
「絶招・焔穿蹴――ッ!!」
反動を利用して逆立ちのまま飛び上がり、捻りを加えた両足蹴りを、衆道の薄い胸板に容赦なく叩き込んだ。
「ゴガァ……ッ――!?」
曲芸じみた体勢からの強烈な両足蹴りに、衆道の長身痩躯が枯れ枝の如く吹き飛ぶ。
しかし、どうにも技のキレが悪い。
本来であれば、肋骨すべてを踏み砕く程度の威力を持っているはずだが、あれでは恐らくヒビも入っていまいと、梨香は達観する。
「ぐっ、いったぁ~……」
案の定、大の字に転がった衆道が、蹴りを受けた胸の部分をさすりながらむっくりと体を起こすのを見て、梨香も立ち上がる。
しかし、すぐにまたフラフラと膝をついてしまった。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
――おかしい。
彼女は自らの急激な体調変化に困惑した。
滝のように噴き出す冷や汗。激しい動悸、息切れ。
何よりも頭痛が酷くて、今にも吐きそうだった。
あの突きを外したときからだ。体が思うように動かない。
目がまわる。気持ち悪い。
「うぅっ、んンッ……けほっ、かはっ!」
我慢できなくて、梨香はその場に嘔吐した。胃の中の物をすっかり吐き出すとともに、張り詰めていた何かが弛み、とうとう力なく蹲ってしまう。意識が、遠ざかる。
4
梨香とメデューサの織り成す一進一退の攻防を、僕は隼人・和明と共に、少し離れた位置にある建物の陰から見守っていた。
梨香の回転蹴りが炸裂し、アフロヘアーの男色家が吹き飛ばされる光景を見て、歓喜するのも束の間。どうも、様子が変だった。
「――やはり一筋縄ではいかんようだな……」
重苦しい隼人の一言に、振り返る。
梨香は喘ぐように大きく口を開いて、肩を揺らしながら息をしていた。
蒼白に染まった肌を、大粒の汗が艶やかに濡らしている。
スタミナ切れの症状とは、どこか違う。
なんだか、見るからに体調が悪そうだ。
足元が覚束なくなり、ついにはぺたんとその場に座り込んでしまう。
蹴りを食らったオカマよりも、ほとんど外傷のない梨香の方が、よほど深刻なダメージを受けているように思えた。
「……っ!?」
お腹を押さえたまま、苦しそうに何度もえずく少女の姿を見て、これはいよいよ只事じゃないと焦燥に駆られる。
体力・精神力ともにずば抜けている梨香が、こうまでなるとは。
一体、彼女の身に何が起こっているというのか。
――――。
「フフッ、ようやく効いてきたみたいね?」
濁った声で嘲るような笑みを浮かべ、衆道は倒れた梨香を見下ろしていた。
「大丈夫? なんだか随分と調子が悪そうじゃない?」
梨香は苦しげに身を捩り、息も絶え絶えに低く問いかけた。
「何を……したの?」
「別に大したことじゃないわ。ちょっとばかし、三半規管を弄ってやっただけよ」
「……三半、規管?」
「目隠しと耳栓なんかで、あたしの強制催眠を遮断できると思ったの? 残念ながらこのアフロディーテ様の能力は、何も目と耳から作用するものだけじゃないってことよ」
衆道は催眠能力の根幹を成す〝振動波〟を使って、梨香の体内に直接、揺さぶりをかけていたのだ。いかに優れた身体能力の持ち主であろうとも、平衡感覚を司る三半規管を狂わされてしまえば、元も子もない。気分が悪いのも当然だった。
「くっ、うぅ……ッ!」
梨香はぎりぎりと歯を食い縛り、握り締めた胴田貫を杖として、よろめきながらもなんとか立ち上がった。
信じられない忍耐力だと、衆道は些か感服する。
常人であれば、とっくに昏倒していてもおかしくない。
実際、彼女も立っているのがやっとという状態だ。
しかし、それでも断固として自ら倒れ伏すことを拒絶した女剣士の高い気位に敬意を表し、衆道はせめてもの報いに、最大限の力を持って彼女を眠らせてやろうと決心した。
「――いいわ。それじゃあ今度は、あたしの切り札を見せてあげる」
衆道は拘束具である、特殊加工のサングラスに手をかけた。
視覚、聴覚、味覚、嗅覚、触覚……。
人間の感知できるモノの中には、この五感と呼ばれる領域には些かあてはまらないものが少なからず存在する。
例えば、――視線……。
背中を向けていても、なんとなく自分が見られているということに気づく。
彼の瞳術は、俗に第六感と呼ばれるこの奇妙であやふやな感覚を直に捕らえるものだ。
蛇に睨まれた蛙は、恐怖によって体を竦ませるわけではない。石のように身体を硬直させ、動かない静物を演じきることによって、脅威が過ぎ去るのをじっと待つのだ。
彼の裸眼に秘められた妖力は、その防衛本能を喚起する。
これはもはや、催眠なんて生易しいものではない。
人間という一個の生命に刷り込まれた原始の反応を誘発させる、いわば、深層に眠る本能への恫喝。
この目から視線を向けられた者は、身の毛のよだつような脅威の存在を肌から感知し、本人の意思とはかかわりなく、強力な金縛りを引き起こす。
故に、いくら目や耳を塞ごうと無駄だ。そして衆道はただ、視線を注ぐだけでいい。
素早くサングラスを取り払い、〝幻惑の神〟は猫目石のように怪しく光るその双眸を、陽光の下に晒した。――……
5
殺意が渦巻く、戦場と化した繁華街の大通りで、桐生琢磨 対 アルテミスの戦いは熾烈を極めていた。――
「――電撃威華ッ!!」
怒涛の勢いで押し寄せる稲妻の奔流を、病毒の女神は広げた傘を盾として、雨露を払うかのように軽々と受け流した。
「ホォ~ホッホッホッホ!!」
スカートのフリルが、大きく帆を広げて小気味良く跳ねる。ミス・ロンリーは、軽やかなバックステップでくるくると踵を返し、陽気な高笑いと共に宙空を舞い踊った。
まるで、晴れの日のピクニックにはしゃぐ無垢な少女のように。
暗雲が立ち込めるように黒い障気が集積し、パキパキと硬化して鋭い形相を結ぶ。
「――遠矢射る……」
華麗なターンを決めた貴婦人の背後から、瞬間、無数の矢じりが一斉に放たれた。
蜘蛛の子を散らすように四散した禍々しい形状の矢は、縦横無尽に虚空を駆け抜け、前後左右から自在な軌道を描いて標的に襲い掛かる。
「チッ!」
後退する琢磨を中心に、電撃のアークが根毛の如く広がった。
激しく爆ぜる閃光の穂先が、襲い掛かる猛毒の矢を絡め取り、次々に撃ち砕く。
前回手合わせした、入道との一戦で、持久戦に持ち込むのは不利だと学んでいた。
なんとしても、短期決戦で仕留めなければ。
すかさず奥義に移行しようと構えを取った琢磨だが、直後に背後から雄叫びを上げて、暴徒化した市民の軍勢が、接近していることに気づく。
〝前門の虎に、後門の狼か……!〟
必殺の構えを解き、雷霆を放とうとした琢磨だが。
「フフ♪」
彼の霹靂が煌くよりも一瞬早く、戯れの笑みを浮かべたアルテミスが、――ヒュッとその細い腕を虚空に振り翳した。
「……ッ!?」
途端、猛毒の障気が精神を汚染された人々の群れに、音もなく飛来する。
「――おいッ、よせぇええッ!!」
慌てて制止を叫ぶが、もう遅い。
溶解液の飛沫を浴びた人々は、凄まじい臭気の中、口から内臓を吐き出すような断末魔を上げて、ドロドロと溶け始める。
死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。死んだ。――みんな、死んだ……。
あまりにも呆気なく、これ以上ないというほど残虐な形で、何十年という歳月をかけた無数の人生が絶ち切られるその光景。激しい怒りと自らの不甲斐なさに打ちひしがれる。
琢磨はぶちぶちと血が噴き出るほど唇を噛み締めて、貴婦人を睨みつけた。
一刻も早くこいつを殺さなければ、また大勢死ぬッ!
凄まじい殺気を纏って、稲妻のエネルギーが右腕一点へと集結した。
「電磁鉤爪――……」
力を込めて擡げられた親指、人差し指、中指の三本に、脈動する毛細血管のような電撃のアークが集中して流れ込み、黄色い閃光が、眩い結晶を結ぶ。
激しいスパークと共に、巨大な雷霆の鉤爪が出現した。
荒れ狂う稲妻の息吹に、地面が砕けて崩壊し、砂塵が舞い上がる。
右腕を抱え込むようにして低く構えた琢磨は、膝を伸縮させて、一気に跳躍。
下から突き上げるように、ミス・ロンリーを狙って必殺の一撃を放った。
「――雷神牙突ッ!!」
漆黒の障気が折り重なり、魔人令嬢を守るための、分厚い盾が形成される。
触れた者の肉体を穢し、瞬く間に溶解する猛毒の障気。その禍々しき闇の力を、眩い閃光となって繰り出される電磁鉤爪の突進が、一直線に引き裂いた。
視界が晴れる。貴婦人の姿はもう目の前だ。
〝届くッ……!〟
淑女の豊かな乳房を容赦なく貫き、夥しい鮮血によって仕立てのいいドレスを真っ赤に染め上げるべく、琢磨は限界まで腕を引き伸ばし、渾身の力を込めて、雷を纏った手刀の尖端を突きつけた。雷鳴が轟く。
「いッけぇえええええええええええ――――ッ!!」
機を見計らった孤高嬢は、素早く傘を折りたたみ、握った腕を大きく背面方向に伸ばして泰然と構えた。シュルシュルと、スライム状の障気が、傘の表面に纏わりつき、肥大化する。――巨大な猛毒の太刀が、瞬時に形成された。
刹那、琢磨は奇妙な既視感に囚われる。
猛毒の大剣を振りかざしたアルテミスの、腕が――腰が――足が、螺旋を描いてギリギリと外側に向け、引き絞られてゆくのだ。
〝まさか、これはッ……!?〟
逢瀬の刻、淑女は微笑み混じりに、甘く囁いた。
「――魔刃・焔旋風……」
瞬間、大気が裂帛する。一気に解放された猛毒の魔刃が、どこまでもどこまでも捻じられながら、円転自在に天地を斬り裂く。
両者の奥義が真っ向から衝突し、眩い閃光と共に激しく爆ぜた。
凄まじい爆風と衝撃波に、周囲の建物や地面が、大きく波を打つ。
雷光の突きを相殺、いや、完膚なきまでに押し切られた。
琢磨は粉塵の中、地面にめり込むような形で墜落する。
「ぐぁああッ……!」
全身に迸る激しい痛み。
特に猛毒の一太刀を受けた右腕は、壊滅的なダメージを受けていた。
肘から先がボロボロに焼けただれ、皮膚が真っ黒に炭化している。
激痛を通り越して、もはや感覚がない。
専門的な診察を受けるまでもなく、琢磨は生涯、右手の機能が失われたことを悟った。
しかし、そんなことは今どうでもいい。
このままでは、どうせあと数分の命だ。
空を睨む。
猛毒の大剣を日傘に還し、貴婦人は何事もなかったように佇んでいた。
強引に体を地面から引き剥がして起き上がり、ミス・ロンリーと向かい合う。
「くぅッ、何故だ……ッ!」
琢磨は血痰の絡んだしゃがれ声を、思い切り振り絞ってがなりたてた。
「どういうことなんだッ!! どうしてテメェが、あいつの技を使うッ……!?」
ふわりと、柔らかいブロンドの髪が揺れる。
病毒の女神は、嘲笑を湛えて朗らかに囀った。
「ワタクシが、誰かに似ているかしら?」
6
「――梨香ッ!!」
忽然と意識を失った彼女を、ひとまず敵の目の届かない場所まで運び、なるべくそっと地面に横たえる。
――彼女が倒れたときの光景は僕も見ていたが、傍目からでは一体何が起こったのか、まるでわからなかった。
そろそろ限界だろうと、隼人が空間操作によって梨香を退かせようとした矢先、彼女は何の前触れもなくぱったりと倒れ、それきり動かなくなってしまったのだ。
手取り足取り、深刻な表情で梨香の容態を診ていた隼人が、沈黙を破って口を開く。
「脈拍・呼吸は共に正常の範囲内だ。命に別状はないだろう。しかし、これは……」
彼の言わんとすることはよく分かる。
梨香の身体は、石膏のように硬直していた。
それこそ、立っていたときの体勢をそのまま瞬間冷却したみたいに。
昏睡した梨香の身体は重力に逆らい、ガチガチに凝り固まっている。
試しに曲がった彼女の肘を正そうとしてみるも、微動だにしなかった。
死後硬直の状態に似ていると隼人は語った。
しかし、握った彼女の腕からはちゃんと体温が伝わって来ている。
和明が言った。
「――あいつがサングラスを外した瞬間、三嶋さんは意識を失った。何か強力な催眠にかけられているのかもしれない」
「けど、梨香は目隠しで視覚を遮断していたはずだ。直接、奴の目を見たわけじゃない」
「いや、状況的に見て、それ以外には考えられんだろう。詳しいことはわからんが、裸眼で目視した相手を縛る幻術と見て間違いない」
「そんな……!」
ただ姿を目視されただけで、このような状態に陥るというのなら、僕たちはそんな相手と一体どうやって戦えばいいんだ。
敵と同系統の能力を持つ梨香でさえ、この有様なのだ。
僕たちが太刀打ちできるような相手とは思えない。
それに敵がまだ隠し玉を持っている可能性だって十分あるのだ。
どう見繕ったって、勝ち目は薄い。
「この場は退却する……?」
厳かな和明の意見に、隼人はかぶりを振って拒否を示した。
「ダメだ。それでは梨香が死ぬ」
「どういうことだ!? 命に別状はないんじゃなかったのかよ!?」
僕が詰め寄ると、隼人は苦い表情を浮かべた。
「今のところはな……。言ったはずだ。これは死後硬直の症状に似ていると……」
いまいち要領を得ない僕と和明のために、隼人は噛み砕いて説明した。
「そもそも死後硬直というのは、心臓の停止に伴う循環器系の枯渇で、全身の筋肉細胞が収縮するという原理によって起こるものだ。――しかし、梨香の場合はその逆と考えられる。心臓は動いているにもかかわらず、全身の筋肉だけが急激な収縮を起こしてるんだ。この現象が何をもたらすか、逆説的に考えてみればわかるだろう」
具体的に言い表すことは出来ないが、なんとなく自体の深刻さは理解出来た。
愕然とする僕と和明の瞳を覗き込みながら、隼人は低く押し殺した声で結論付ける。
「――筋肉の収縮によって循環器系の停滞が起こり、やがて鬱血が始まる……。このままの状態で放置すれば、末端から徐々に細胞が壊死を起こし、体温が低下、脳や心臓の血管が詰まれば、その時点で梨香は死ぬ……。加えて筋肉質な者や、激しい運動をした直後ほど血の巡りは劇的だ。それだけ鬱血の進行は早い……!」
「奴を倒せば、術は解けるのか!?」
「わからん。……だが、そう願うしかあるまい」
「タイムリミットは?」
和明からの問い掛けに、隼人は小さく痙攣を起こし始めている梨香の太ももに手をやって、冷静に残された猶予を推し量った。
「通常の死後硬直なら、全身に至るまでに数十時間を要するが、梨香の場合は既に全身の筋肉が収縮した状態にある。この分だと、今の状態を維持できるのは長く見積もっても十五分……。それ以上長引けば、後遺症の可能性が高まる」
僕たち三人は鋭い視線を交え、戦略を練り始めた。
7
猛毒の濃霧に巻かれ、琢磨は泥のような苦戦を強いられていた。
「ゲホッ、ゴホッ、ガハァ――ッ!」
肺が痺れる。喉の奥が腫れ上がって塞がり、思うように息が出来ない。
呼吸困難に陥って悶え苦しむ彼の姿を、頭上から高々と睥睨し、貴婦人は低く笑う。
「――雷霆崩華ッ!!」
苦し紛れに振り絞った電撃の渦中から、閃光の矢が放たれた。
飛翔する四本の矢は、絡み合うように∞の軌道を描き、猛然と標的に迫る。
「フフ、鬼さんこちら……」
高速接近する雷遁のミサイルを、貴婦人は風のように鮮やかなステップで思うさま弄び、やがてその追跡を振り切るかのごとく、悠然と天空を駆けのぼった。
高度の上昇に耐え切れず、雷の矢は空中で分解し、無数に煌く塵となった。
金髪の悪童は血の混じった痰を吐き捨て、鋭い犬歯を剥き出しにして吼える。
「こっちに来い女ァアッ!! 五体バラバラにしてやるッ!!」
「血の気の多い坊やは、嫌いではありませんことよ!」
地上から五十メートルほど離れた空中に立ち止まったミス・ロンリーは、軽やかなターンと共に踵を返し、閉じた日傘の切っ先を、遥か上空から地上の琢磨へと向けた。
まるで、マスケット銃を構えるかのようなその仕草。
狩猟に興じる貴族の微笑みを持ち、片目を閉じて照準を定めた彼女は、瞬間、カチャリと柄の内部に格納されていたトリガーを引っ張り出して、人差し指をかけた。
銃声一発。
「っ――……」
轟々と空に広がる破裂音と共に、琢磨は横薙ぎに吹き飛ばされた。
スローモーションのように、視界がゆっくりと蒼穹に染まってゆく。
左胸を撃ち抜かれた。凶弾は心臓を直撃。間欠泉のように、鮮血が噴き出す。
即死かと思われたが、――次の瞬間、ビデオを巻き戻すかのようにじわっと煙を上げて傷口が塞がり、出血は最小限にとどめられた。
激痛が、現状よりも半歩ほど遅れて、痛覚を蝕む。
「ぐアッ、かはっ、……何だ、今のはッ……!」
明らかに致命傷であったはずの傷口が忽然と消え失せ、痛みだけが残った胸を抱えて、琢磨はゆらゆらと身を起こす。
遥か上空から、魔性のソプラノヴォイスが神託めいて響いた。
「――『OLYMPOS』産・新開発の去勢薬ですのよ? どんな効果があるかはお楽しみ」
直後に、どくんと、琢磨は一際激しい動悸に見舞われた。
心臓が胸を突き破って飛び出して来るんじゃないかと思うほど、バクバクと早鐘を打ち鳴らす。内側からの圧力で、身体中の血管がはちきれ、そのまま全身が張り裂けそうだ。
これまで経験したことのない異常な感覚に悶絶しながら、ぱったりと膝を折る。
「グゥウッ、アァ……ッ」
身体の内側から来る、強烈な異物感。まるで体内を無数の寄生虫が這いずりまわるかのようだ。血色を失った肌が、さっと粟立つ。
あとからあとから押し寄せて来る暴徒の軍勢が、視界の端に入った。
先ほどの光景が、強烈な後悔を伴って脳裏に蘇る。
これ以上、殺させるわけにはいかない。
魔人令嬢が毒手を振るう前に、なんとしてでも雷霆を放たなければ。
琢磨は苦痛を押し殺して、悲壮に身構えた。
パリパリと黄色の閃光が細くしなやかに帯電し、発生した静電気によって彼の金髪が一斉に逆立つ。
「――電光……ッ!」
だが、次の瞬間。
〝!?〟
刹那に感じた異変。――琢磨はその正体を確かめる間もなく――激しく噴き出した稲妻のアークに、全身を打ちのめされていた。
「ガァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア――――ッ!!!!」
〝電気エネルギーが、逆流した……!?〟
元来、琢磨の支配下にあったはずの雷遁が、宿主を拒絶するかのように、激しく火花を散らして、彼の肉体を焼き尽くす。
自らの電撃によって倒れた琢磨は、狂乱した市民の徒党に飲み込まれて消えた。
毒に侵され、能力を封じられた彼が、ハイエナどもに寄って集って喰い殺されるその光景を遥か上空から眺め、ミス・ロンリーは冷ややかに肩をそびやかす。そして、羽毛のように軽く飛翔した。
「まぁ、余興にしては楽しめましたわね」
8
大気が激震する。鼓膜が泡立ち、脳が揺れ、視界が乱れ、膝が笑う。
「ぐぅうううッ、あぁあああああああッ……!!!!」
僕は耳を押さえて蹲り、耐え難い苦痛に身を捩って絶叫した。
重力が一気に増し、自らの身体がコンクリートの地面にみるみるめり込んでゆくような錯覚に囚われる。物凄い音の剣幕に、頭が割れそうだ。
キィイイイイ――ン……と、鋭い爪でガラスを引っ掻くような音が、殺人的な域にまで増幅しながら、轟々と辺り一帯を飲み込んでいた。
隼人はその巨躯を地面に組み伏せ、絶句している。和明も浜辺に打ち上げられた魚の如くのたうちまわり、女の子のように甲高い悲鳴を上げていた。
怒涛の如く押し寄せる音撃の胞衣に抱かれて、意識を滅茶苦茶に掻き乱される。
物凄い振動数によって、地面はバイブレーターの如く断続的に波を打ち、周囲の建物がビキビキと音を立てて、激しく軋んでいた。――
――超音波による咆哮を放ちながら、衆道は自らの歌声にすっかり酔いしれていた。
こちらの幻術を警戒し、周囲にある建物のどこかに潜んでいるであろうセカンド・チルドレンたち。しかし、これならばいちいちその所在を探しあてる手間もない。
どこにどう隠れようと無駄なのだ。音は空気を媒体として、確実に彼らの耳を捉える。
こと超音波ともなれば、その伝導率は尚のこと広範囲に渡り、そして、ちょっとやそっと耳を塞いだくらいでは、この高音域の波動はとても防ぎきれないのである。
凄まじい声量による、まさしく絶唱。
アスファルトの地面は彼を中心に規則的な形相を成してささくれ立ち、老朽化の進んでいた周囲の建物は、外から内からボロボロと崩れ始め、やがてドミノ式に倒壊してゆく。
ごろごろと降り注ぐ瓦礫のシャワー、濃霧のように吹き上がる砂煙。
数分をかけて周囲を更地に還した衆道は、頃合を見計らって咆哮波を収めた。
イーリアス・タワーの砦までは、もうあと数百メートルだ。
沈黙の内に自らの勝利を確信し、くるりと踵を返す。
そのとき、音もなく、衆道の目の前に小さな鏡の破片が現れた。
〝――なかなか、しぶといわね〟
空間固定によって空中で静止した鏡は、さぁ、これを覗き込めといわんばかりの思念を放って視界に映る。彼らの意図はいわずもがな、目視した者を縛り上げるこの瞳術を逆手にとって、こちらを自滅させようという狙いなのだろう。
「フフッ……」
衆道は他愛もない子供達の浅知恵に思わず苦笑した。
蜘蛛が自分の巣に足を取られることはなく、毒蛇が自分の舌を噛んだところで自らの毒によって死に至ることなどない。
それと同じく、衆道も鏡に映った自分の姿を見たからといって、自己催眠にかかることなどないのである。
彼は悠然と笑みを浮かべて、お望み通りに鏡を覗き込んでやった。
お前たちの考えることなど、所詮は猿知恵に過ぎないと嘲笑うかのように、金緑色に輝く瞳の美しさを自愛し、形の崩れた自慢のアフロヘアーを手櫛で整える。
だが、その余裕、その油断が命取りとなった。
敵の司令塔が、相手の裏を掻く天才であるということを、彼はいま二つほど理解していなかったのだ。
まるで何の気なしに覗き込んだ水溜りが、底なしの深淵だったかのように。
ちっぽけな鏡の破片が、突然、眩い閃光を解き放った。
「……ッ!?」
暗闇の中、いきなり目の前で懐中電灯の光をあてられたような感覚。
強烈な光は、鏡自体の持つ反射作用によって増幅され、衆道の網膜を一斉に焼き尽くす。
瞬間、視界のすべてが、真っ白に染まりきった。
〝まずい――っ!!〟
――放たれた光線に目を瞑ったメデューサがよろめく。
和明の物質発光によって、鏡の欠片が強烈に瞬いた直後、瓦礫の陰に身を潜めていた僕は一気に躍り出て、跳躍した。
風を切る。標的を捉える。拳を握り込む。
アフロヘアーの長身痩躯に猛然と飛び掛り、滞空状態から思い切り腰を引いて、大きく弓なりに腕を振り被る。気配を察知して咄嗟に男が振り返った。しかしその目蓋は下ろされたまま。彼奴の視界が回復するよりも、こちらの拳が届く方が、早い!
梨香の仇だ。食らいやがれ。
「こんのッ、野郎ォオオッ!!」
助走によって勢いを乗せた鉄拳を、痩せこけた男の頬に上段から容赦なく叩き込んだ。
「がはァ、ァアッ……!?」
衝撃が相手の頬骨に浸透する強烈な手応え。
男の八重歯が折れて、ブチブチと拳に突き刺さった。
「ぐッ、――うらァあああッ!!」
噴き出す鮮血にも、身を切られる激痛にも構わず、最後までただ全力で拳を振り抜く。
衆道はキリモミ状に半回転しながら地面に叩きつけられ、空咳を吐いて悶絶した。
〝今だ……!!〟
振り返りざま、僕は声を上げて怒号を放った。
「――隼人ッ!!」
すかさず彼の〝三葉刀〟が縦横十文字に大気を引き裂いて飛来し、僕は素早くその間合いから転がり出た。直後に炸裂する、隼人の必殺奥義。
鉄刃風車は、凄まじい速度の空間転送によって、無数の残像分身を織り成した。
「連続転送――|千刃魔空《Ace In The Hole》!!」
〝行けるかッ!?〟
そう思ったとき、僕は一瞬遅れて、あまりにも重大なことに気がついた。
今、奴の手中にある物は……――。
――頬に走る激痛とともに、生臭い血の味が口の中いっぱいに広がった。
「くぅッ……!」
軋む奥歯を食い縛り、なんとか立ち上がった衆道だが、既に状況は絶望的だった。
周囲の空間を次々と跳び回り、無限の軌道を描いて襲い掛かる凶刃の嵐。
その転移速度は、もはや点滅といった方が分かりやすいだろう。
まるで千の刃が、四方八方から一斉に降り掛かって来るかのようだ。
その威圧感に圧倒される。
こんなもの、同じ空間操作の能力でもない限り避けられるわけがない。
かといって衆道の能力では、これを防ぐ術がないこともまた事実である。
視界は回復したが、相手が投擲された鉄の刃である以上、瞳術は意味をなさず、筋力を増強しても無駄。超音波で術者の神経を揺さぶるには、時間が足りない。
絶体絶命。もはや打つ手なしの局面だったことだろう――……本来の彼であれば。
「フフ……」
しかし、衆道にはいまだ揺るがぬ、唯一にして最大のアドバンテージが存在した。
胸に手をやる。神々しく黄金の輝きを放った、冷たく硬いブローチの感触。
異能の核より貸し出されし、絶対防御の障壁。その発動方法は心得ている。
遍く虚空を引き裂いて、聖なる光輝にこの手をかざす。
衆道は声を高らかに、光の結晶を召喚した。
「女神の盾!!」
だが、次の瞬間――。
――何故か、アイギスが発動しないことに気づくのと――三葉刀の斬撃が脇腹にザックリと突き刺さるのは、ほぼ同時だった。
「――……!?」
わけもわからず、途方に暮れた面持ちでその場に倒れ伏す衆道。
溢れ出る鮮血が、ひび割れた地面にみるみる広がってゆく。
死の危険を感じた防衛本能によって、生命維持が最優先と定められるため、無駄な体力の消費は極力避けようと、身体が勝手に彼の能力に制限をかける。
衆道の瞳から、目視した者の心身を縛り上げる金緑色の輝きが、吸い込まれるかのように消え失せた。――……
――その光景を最も間近で見ていた僕は、しばし呆気に取られていた。
メデューサは思った通り、霊石の力を借りて光の障壁を呼び出そうとした。
しかし、その顛末は僕が予想していたものに比べると、幾分意外なものだった。
肝心の〝女神の盾〟は発動することなく霊石は沈黙を守り、男はそのまま三葉刀の一薙ぎを受けて、ぱったりと倒れてしまったのだ。
父なる霊石は、今も彼の胸で静かに金色の輝きを放ち続けている。前回のプロメテウス戦で表れたような、パワーダウンの兆候も見られない。というか、よくよく考えてみれば今回の戦闘においてアイギスはまだ一度も使用されていないのだ。消耗する理由がない。
ならば、一体、何故……?
隼人と和明が物陰を出て、こちらに歩いて来る。
三人で肩を並べ、血溜りの中に蹲った衆道と向かい合った。
苦しげに息を吐きながら、彼は痰の絡んだ聞き取り難い掠れ声を発する。
「かはっ、クッ……どういう、ことなのッ……」
メデューサの問いかけは、そっくりそのまま僕の抱いた疑問でもある。
「どうしてッ、アタシには女神の盾が……!?」
隼人はこつこつと踵を打ち鳴らして泰然と佇みながら、舌鋒鋭くこう言い放った。
「どうもこうもない。そもそもお前は、一つ大きな思い違いをしているようだなぁ?」
「……一体、何のことよッ!」
ふと腕時計の文字盤に視線を移らせ、彼は言った。
「そろそろ効果が切れる頃合だ……」
次の瞬間、起こった現象に、僕は衆道と二人でハッと驚愕した。
〝――!?〟
霊石を彩っていた金色の輝きが、みるみるうちに消えて行く。
まるで可憐に着飾っていたシンデレラの魔法が解け、みすぼらしい本来の姿へと戻ってしまうかのように。
収束してゆく黄金色の輝きの下から、くすんだガラス玉の色彩が本来の姿を覗かせた。
それは大きさ、形状こそ似通っているが、実際は色も、内に秘められた資質も、希少価値も、すべてにおいて劣る、安っぽい紛い物だった。――
「まさかッ……!?」
衆道の驚嘆に応じる形で、隼人は不敵に笑いながら「そうだ」と頷いた。
そうして、隣に立った和明の肩に、ぽんと手のひらを乗せる。
「お前が俺たちのアジトから持ち逃げしたのは〝父なる霊石〟なんかじゃない。そいつは、和明の能力によって光っていただけの――ただの石ころだぜ?」
痛快な衝撃と共に、記憶の扉が開かれる。
僕は今更のように、すべてを理解した。
……以前、琢磨と二人で繁華街を訪れた際、そこで偶然アクセサリーショップの店先から出て来る隼人と遭遇した。今にして思えば、あのとき、彼がポケットに隠し持っていた物こそ、いま衆道が身につけている紛い物の宝石なのだ。隼人はあそこで、ゼウスの光輝となるべく良く似た形のブローチを 探していたのだろう。囮に使うために。
そして、和明から物質発光能力について説明を受けたときのことが、ことさら鮮明に蘇ってくる。
〝――色と光の量もある程度調整できるし、手のひらサイズの物なら、強く念を込めることで、僕が力を解いたあとでも一定時間はひとりでに発光が続くんだ……――〟
大判小判の詰まった千両箱の中身が、蓋を開けてみると、いつの間にかすべて木の葉に変わっていたという、そんな化け狐の昔話を連想する。
「そんな、馬鹿なッ……」
衆道は痛恨の表情で唇を噛み、悄然とその屈辱に打ちひしがれた。
皮肉なことに〝幻惑の神〟とまで謳われた衆道は、最初からまんまと光の幻覚に化かされ、木の葉で出来た金貨を握って、滑稽に舞い踊る愚かな道化師に過ぎなかったのだ。
隼人は衆道の敗因を、――情報不足、慢心、そして思い込みの三つだと語った。
慢心と思い込みに関しては言わずもがな。そして情報不足とはこの場合、衆道が和明の能力を把握していなかったという点を指す。
しかし、考えてみればそれも無理からぬことではなかろうか。
彼が僕らの戦力を推し量るための資料とした前回のプロメテウス戦において、和明は一度も自身の能力を行使していなかったのだから。
言い換えれば、僕らの中で唯一手の内を知られていないのが、和明だったのだ。
前回の戦いより、あれだけ彼を悩ませていた戦線における疎外感が、〝切り札〟としての秘匿性を高める結果となった。
それというのも〝物質発光〟という彼の能力が実用性に乏しいものであったからこそであり、また、これまで目立った活躍もなく、終始後ろに控えていた和明だからこそ、敵にとって最大の死角となりえたのだ。
――隼人はポケットから本物の霊石を取り出し、それを僕の手のひらに置いた。
「騙して悪かったな、ユーキ。しかし、奴をミスリードするためには、何も知らずに走り回ってくれる、お前や梨香のような役回りが必要不可欠だったんだ」
「ああ、いいさ。結果オーライってことでな?」
僕と隼人がそんな言葉を交し合う中、――
和明は一人、ふと遠い目をして清々しい風に吹かれていた。
長い間溜まっていた胸のつっかえから解放され、大きな安堵感と少しの虚脱感を覚える。
…………
……
…
「今度の作戦の鍵は、お前が握ってるんだぞ、和明」
――あの夜、隼人はそう言って、迷える少年に道を諭した。
「確かにお前の能力は、一見すると実用性が低く、決して戦闘向きとは言えないだろう。しかし、だからといって、役にも立たんものだと切り捨ててしまうのは早計だ。どんなガラクタも、使い方次第では一撃必殺の切り札となり得る。むしろ、そういうものほど敵の意表を突くには最適なんだ。力で劣るなら頭を使え。知恵を絞って、戦術を練り上げろ。ミクロな視点からマクロな物事に活路を見出す。俺たちの戦いとは、畢竟そういうものだ」
そのとき、ずっと足りなかったパズルのピースが、すこーんと音を立てて嵌まり込むかのように。解放感と充足感が、和明の胸を思いきり貫いて行った。
〝空を飛ぶことよりも、地を這うために――〟
梨香から与えられた理念が、隼人の助言によって一気に具体的なものとなった気がする。
明確なビジョンを得た少年は、目標とすべき人物に向けて、真摯に問うた。
「僕にも、出来るかな。ハヤトくんのように」
「ああ。出来るさ、お前なら。――この作戦を、そのための第一歩としよう」
真っ直ぐな眼差しで見つめてくる和明に、隼人はその心得を一つ、教唆した。
…
……
…………
「敵を欺くには、まず味方から――」
圧倒的な力と技を持っていながら、その慢心に足を掬われ地に堕ちた神を 見下ろし、隼人は口火を切って和明を促した。劣等感に苛まれていた彼は、その懊悩と決別を果たすかのように、胸を張って隼人の言葉を引き継ぐ。
そうして、とつとつと、その心得を反復した。
「――敵にとって最大の死角とは、己の死角にこそ存在する」
弱々しく、どこか虚ろだった彼の瞳に強い意志の光が宿って見えるのは、きっと僕の錯覚なんかじゃない。自分なんて何の役にも立たないと嘆いていた彼が、メデューサを謀って、結果的に僕らを勝利へと導いたのだ。なんだか嬉しくて、胸が熱くなる。
僕は自然と笑みを湛えて、和明の肩を肘でつっついた。
「やるじゃん、カズ。見直したよ」
彼は柔らかそうな亜麻色の髪を小さく揺らして、面映そうににっこりとはにかんだ。
それから再び、地面に伏したアフロヘアーの男に目をやる。
糸の切れた人形のようにがっくりと項垂れた男は、力尽きたのか、目を閉じたまま既に動かなくなっていた。
「死んだのか……?」
「いや、急所は外してある。こいつにはまだ聞きたいことがあるからな」
そう言って隼人が〝物品取寄〟によって召喚したのは、禍々しい装飾のついた金属製の首輪だった。――見覚えがある。確かティアラが連れ去られた際、男の一人がこれによって彼女を拘束していた。
「それは?」
「――タルタロスの首輪と呼ばれる、対特殊能力者用の拘束錠だ。能力者の体に流れている“PSI波”を遮断し、特殊能力の発動を封じる効果がある」
「隼人が作ったのか?」
「いや、こいつはアイギスに使われる技術を応用して『OLYMPOS』の連中が開発したものだ。……まぁ、言ってみれば俺にとっての最初の戦利品だな」
意味深な言葉を残し、隼人は空間操作によって衆道の首筋に異能の拘束錠を嵌め込んだ。
それから医療器具の入った診察鞄を取り寄せ、その場で応急手当を始める。
「梨香の方は手当てしなくてもいいのか?」
昏倒した衆道に鎮静剤と抗生物質を打ち、傷口を縫合しながら隼人は言った。
「ああ、さっきこいつの能力が消失すると同時に緊縛の術は解けた。今はまだ疲れて眠っているが、幸い鬱血は免れたようだ。まぁ、それでも筋肉痛ぐらいは残るかもしれん。暇なら、肩やふくらはぎを揉んでやってくれ」
この場に留まっていても、隼人の手伝いは出来そうにない。
僕は和明と二人で、梨香の介抱に向った。
そのとき、ぽつりと、冷たい水滴が鼻の頭で小さく弾けた。
ふと見上げた空には、鉛色の分厚い雲がかかりはじめている。
――一雨、降りそうだ……。
9
降りしきる雨の中、僅かな光しか差し込まぬ人気のない路地裏を、満身創痍の琢磨は足を引きずって一人歩いていた。
血肉を貪る狂鬼と化した市民の渦中から命辛々逃げ遂せ、その後、マンホールやゴミ溜めの中などに身を隠しながら、なんとかその追跡を撒いた。
頭から泥水を引っかぶり、意識も朦朧として彷徨い歩くその様は、まるで精根尽き果て死に場所を求める野良犬のようだ。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ……!」
追っ手の気配は既に途絶えている。
恐らくは隼人たちが衆道を倒し、その影響で幻術が解けたのだろう。
張り詰めていた緊張の糸が、断ち切られたように弛んでしまった。
ふっと、膝下から力が抜け落ちて行く。
「……――ッ」
崩れた体勢を立て直そうとして、ビルの壁面に左手をついた。べちゃっと、濡れた雑巾を叩きつけるような音。結局支えきれずにずるずると跪き、べったりと付着した赤黒い血糊の手形が、灰色の壁面に尾を引いた。
黒焦げに焼け爛れた右腕はだらんと垂れ下がり、衣服は破け、全身の至る所から血が噴き出している。
渇ききってねとついた口の中に広がる、生ゴミのむせ返るような悪臭。
激痛と不快感の中、しかし限界に達した疲労と喪失感の方が遥かに勝っていた。
意識がずるずると、眠りの淵に誘い込まれてゆく。
だが、まだ堕ちるわけにはいかないと、琢磨はきつく唇を噛んだ。
帰らねば、仲間たちのもとへ。
そして、伝えなければならない。――
魔人令嬢は恐らく、隼人たちが衆道との戦いで疲弊したところを襲うつもりなのだ。
もとよりあれだけ凶悪な力を持った奴であれば、油断した彼らの手から霊石を奪うことなど、赤子の手を捻るよりも容易いだろう。
もう自分は一緒に戦えない。
だったら、せめて情報だけでも託す。
それが今、自らに課せられた役割なのだと。
琢磨は無様に地を這って、ひたすら仲間たちの待つアジトを目指した。――……