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第十一章「幻惑の侵攻」

第十一章「幻惑の侵攻」

                  1

 

 ――……。

 風がそよぐ。

 凛と澄んだ空気を吸い込む。

 耳が尖る。

 揺れる笹の葉と小鳥のさえずりが聞える。

 邪念を払う。

 余計なものを見ないよう目を瞑る。

 神経が鋭敏に。

 全身の感覚が刃物の如く研ぎ澄まされてゆくのがわかる。

 まだだ。まだまだ。

 無へ。無の境地へと。

 さらに瞑想を深くする。

 深く。もっと深く。

 ――其処は暗い場所。

 ――其処は深い場所。

 ――其処は遠い場所。

 無念無想の極致へと。

 心身と刃の、渾然一体を成す。

“――――!!”

 梨香はカッと目を見開き、振り向き様に素早く抜刀した。

 迅速の居合い。

 静穏に張り詰めていた空気が、突如の強襲に悲鳴を上げるが如く裂帛した。

 力強く躍動し、また自然に流れるような身振りで。

 一太刀、二太刀と、際どく捻りを加えた動作で、虚空を斬り裂いた。

 静かに刀を祓い、ゆっくりと鞘に収める。

「……ふぅ」

 収め終えると梨香は脱力し、額に滲んだ脂汗を指先で軽く掬った。

「――」

 上擦った呼吸を鎮めながら、乱れた胴着の襟を正す。

 丁寧に膝を折って、ふくよかな枯葉の地面に腰を下ろした。

 …………。

 そこはアジトから程近い、小さな小さな、竹林の中。

 所有者からは疾うに打ち捨てられているのか、ろくすっぽ管理はされておらず、近寄る者も滅多にいない。

 青竹の薫る空気は凛と澄み渡り、陽だまりのように心を落ち着かせる雰囲気がある。

 一人で考え事をするときや、瞑想に耽るとき、梨香は度々この場を利用していた。

 実際には猫の額ほどしかない小さな敷地であるが、中に踏み入り、青々と生い茂る竹葉に囲まれてみれば、そこには外界から隔絶された神聖な趣があるように感じられた。

 たおやかな枝葉が微風に揺れ、白い光の幕が垂れている。

 ふと懐かしい匂いが鼻腔をくすぐり、彼女はそっと目蓋を下ろした。

 胸中を過ぎるのは、遠い日の記憶。

 今は亡き、父と母の面影だった。

 透き通るような木漏れ日の中、梨香は温かな郷愁に身を委ねる。

 ――――。

 実の両親はまだ歳若い男女だったと、彼女は後年、母から聞かされていた。

 若さ故の過ちによって梨香はこの世に生を成したが、わずか十六七の男女は我が子の存在を持て余し、僅かな金子と引き換えに、当時、第二次特殊能力者開発実験の被験者を募っていた政府に、生後間もない彼女を売り渡したのだそうだ。

 それによって梨香は異能の力を与えられ、身柄は政府の管理下におかれた。

 しかし、彼女が三歳のとき、未曾有の大飢饉に端を発する開国騒動によってゼウス=プロジェクトは凍結となり、居場所を失った梨香は、引き取り手を巡って僅かな伝をひたすらたらい回しにされた。

 行く先々で、責任を押しつけ合う醜い大人のやりとりをたくさん見せられて来た。

 早い話、異能の力を持った彼女のことを、皆、不気味がっていたのだ。

 彼女の能力が“精神感応”であったことも原因の一つだった。

 心の内側を覗かれているのではないかと、過剰に怯えた大人たちは梨香を敬遠した。

 そうして居場所を転々とした彼女は五歳のとき、三嶋の家に行き着いた。

 三嶋家は九州の熊本に門を構える、由緒正しき武家の家柄だった。

 立派な剣道場に通され、新しい父と母に、今日からここがお前の家だと告げられた。

 ご機嫌伺いのお愛想笑いが板についていた彼女は、取り繕った笑顔で頷いたが、内心ではどうせ今回も長続きはしないだろうと、幼心に高を括っていた。

 しかし、三嶋の夫婦は、これまで彼女が出会ってきた大人たちとはまるで違っていた。

 梨香は越して来た次の日から、早速竹刀を握らされ、剣の道を指南されることになった。

 竹刀の握り方から、身のこなし方、呼吸法に至るまで、徹底的に基礎を叩き込まれた。

 父は、鬼のように厳しかった。

 朝から晩まで稽古をさせられ、これまで経験したことのないその苦行に、幼い梨香は何度も何度も泣かされた。しかしいくら泣き喚いても、父は許してくれなかった。

 鋼鉄のように大きな体でずっしりと聳え立ち、梨香が堪えきれず音を上げるたび、獣のような声で激しく叱咤した。

 まだ幼い彼女が、哀願も抵抗も無駄だと知るのに、そう時間はかからなかった。

 教えられたことを上手く出来るようになるまで、梨香は声を上げて泣きながら、必死で竹刀を振り続けた。

 そうして一日の稽古が終わると、いつも母が迎えに来た。

 母は、どこまでも優しかった。

 辛く厳しい稽古に耐え抜いた彼女を抱き締め、幼い梨香に、全身全霊をかけて愛の在り処を示した。

 母に対してはすぐに思慕の念を抱いた梨香であったが、父を理解するには少しの時間を要した。心身ともに屈強で、倫理道徳に反することを心の底から忌み嫌い、滅多なことでは笑わない。そんな父に対して、幼い彼女は怨みを抱いたことさえあった。

 そもそも、望みもしないのに剣を握らされていること自体、彼女は常々疑問に感じていた。女の自分が、何故、身を粉にしてまで戦う術を学ばねばならぬのかと憤った。

 だが、今になってようやくわかる。

 恐らく父は、その慧眼を持って遥か以前から予見していたのだ。

 期せずして異能の力を与えられた我が子が、その優れた才を持つが故に、将来何らかの争いに巻き込まれ、苦労する破目になるだろうと。

 そうなったとき、自らの身を守るため、また、自らの大切に思う人間を守るための術として、彼は三嶋流の極意を継承させたのだ。

 父から教わった三嶋流のイロハは、現在の梨香を心身の両面に渡って支えている。

 また、無骨で、不器用で、酷く感情表現に乏しい父であったが、梨香は自らの持つ異能によって、彼の真意を確認できた。

 僅かに垣間見ることの出来た父の心は、母に勝るとも劣らない優しさで満ちていた。

 ……父はこれまで、梨香が異能の力によって遠ざけられて来たことを知り、その正しき使い道を自ら見出せるよう、堅く己の心を閉ざしていたのだ。

 父は厳しく突き放すように――母は優しく包み込むように――。

 形は違えど、二人は血の繋がらない我が子と精一杯向き合っていたのだ。

 そうしてすべてを知った梨香は、父を尊敬し、母を敬愛し、三嶋の妙を誇りに思った。

 ようやく自らの居場所を見つけることが出来た彼女は、同時に夢を抱いた。

 三嶋流を修めて師範となり、父のように厳しく、母のように優しく、この流派の持つ教えを多くの人々に伝えてゆきたい。

 父と母が与えてくれたものを、自分もいつか誰かに与えたいと願ったのだ。――

「……」

 穏やかな回想を打ち切って、梨香は目の前に横たわる一本の刀と真に向き合う。

 ――胴田貫(どうたぬき)

 父の形見であり、由緒ある三島家に代々伝わる宝刀。

 刀肉豊かで反りが浅く、長尺で切っ先が伸びているのが特徴。

 実戦本位の無骨で豪奢な造りであり、観賞価値においての評価は低いが、「田んぼに死体を横たえその胴体を斬ると、胴を貫いて地面の田んぼをも切り裂く」という由来を持つ通り、切れ味が鋭く、古くは戦国武将に愛された天下の剛剣である。

 梨香は先日、この刀と三嶋流の技を用いて、宿敵と一戦を交えた。

 ――十二年前に巻き起こった、あの忌まわしき惨劇。

 この世を焼き尽くす大火の渦に飲み込まれ、父は道場と運命を共にしてしまった。

 生き残った梨香は母と共に上京し、貧民街に移り住んだが、父を亡くして以来すっかり気を病んでしまった母はみるみるうちに痩せ細り、数年前、予てより患っていた心臓の病が祟って、とうとうこの世を去った。――

 プロメテウスは、梨香にとって父と母の仇と呼べる存在だった。

 しかし思いがけぬ再会の末に挑んだ戦いで、彼女は敗れた……。

 仲間の手助けを借りて、あと一歩のところまで追い込んだにもかかわらず、倒せなかったのだ。隼人の機転によって、結果的には勝利といえる結末に収まったが、彼女は決してそれを潔しとしなかった。

 一体、何が及ばなかったのか思索する。

 三嶋流は梨香にとっての誇りである。その技を持ってすれば、たとえ神であろうとも恐れるには足らず。一撃の下に粉砕できると堅く自負していた。

 故に、省みるべきは己の心。

 つまりは覚悟が足りなかったのだと、梨香は考える。

 極めたとは言えぬまでも、既にある程度のところまで三嶋流の技は修めた。

 この上、彼女に課された試練は一つ。

 それは三嶋流に限らず、古今東西、武を持って闘う者にとっての最たる深淵。――


“人を殺せるか、否か”


 彼女には、プロメテウスとの一戦で痛感していることがあった。

 それは、相手が紛うことなき強敵であるという事実。

 前回は予期にせぬことだったとはいえ、その答えを持たずして流動的に戦い、敗れた。

 状況に流され、その場凌ぎの怒りや興奮に身を任せて太刀打ちできるほど、生半可な相手ではなかったのだ。

 そして奥義たる“焔旋風”を持ってしても倒せないとなれば、残された道は只一つ。

 三嶋流の暗部として記された、最終奥義――……。

暗中殺法(あんちゅうさっぽう)

 文字通り、これは確実に人を(ころ)すための剣だ。

 その心得は、渾然一体。

 ――己を捨て、刀と同化すること。

 ――刀を己の体の一部に、否、己を刀の一部とすること。

 己自身が研ぎ澄まされた刃となりて、闇に紛れ、敵の命を断固として絶ち切る。

 この神技を成すためには、もはや一抹の躊躇も許されない。

 そして恐らく、この技を成せなければ、神は倒せないだろうと予感があった。

 手にした胴田貫を、慎重な手つきで鞘から引き抜く。

 朗らかな陽気と木漏れ日の中で、妖しく煌く透明な(やいば)

 刀身には微細な傷や一片の曇りすら見当たらず、ただひたすらに清く澄んで、――

 その佇まいは、まるで穢れを欲しているようにも思えた。

 生臭い、血の穢れを――。

 梨香は眼前に翳した鏡のような刀肉に、自身の虚像を見る。

 ――夥しいほどの返り血を浴びて、殺意を剥き出しにした自分の姿が一瞬頭に浮かび、梨香は苦い思いでそれを噛み締めた。

 相手を倒すのではなく、殺す……。

 己を守るため、仲間を守るため、多くの民を救うため。

 いくら大義名分を並べ立てたところで、容易く許容できるものではない。

 圧倒的な力を持ち、暴利を貪り、神の名を冠していようと、相手は人間なのだ。

 その一線を踏み越える決心が、どうしてもつかない。

 仲間たちは、どう考えているのだろうかと思い立つ。

 和明と真帆は別としても、恐らく、隼人と琢磨にはその覚悟がある。

 あの二人は自分よりも強く、独自の信念や哲学のもとに戦っている。

 それに比べると祐樹は少し頼りないが、彼もあれでいて芯はしっかりしているものだから、きっと時が来れば、自ら進んでその役目を負うだろう。

 ふと、弱気な考えが脳裏を掠めた。

 ならば、彼らに頼ってはどうだろうかと――。

「……ッ」

 事ここに至って、女であることを盾に縋ろうとしている自分があまりに不甲斐なかった。

 柔らかな紅唇を引き締め、梨香は忸怩たる思いを胸に、その場を立ち去る。

 一際強く風が吹き、その際、パキッ――と、背後から音が立った。

 振り返ると、それは朝露が滴り落ちるように。

 袈裟懸けに断たれていた竹の幹が、ゆっくりと傾き、倒れてゆく。

 その様はまるで、あまりに鋭く斬られていたために、今の今まで竹自身が倒れることを忘れていたかのようだ。

 その光景を尻目に、梨香はきつく自戒する。

 最終的にどちらを選択するにしても、父と母から授かった、この『三嶋』の名に恥じぬ行いをしようと。――……


                  2


 ストック・ファームの喧噪と雑踏に紛れ、妖艶な貴婦人がいた。

 白いレースの日傘を差し、ガラス製のヒールを高らかに鳴らして歩く様は、さながら中世ヨーロッパのお嬢様。鮮やかな金髪縦ロールを小気味よく揺らし、染み一つないフリルのドレスをひけらかしながら、下賤の者の暮らしぶりを優雅に見てまわる。

 一際目を引く浮世離れした格好ではあるものの、十万人を超える人込みの中にあっては、出で立ちの異様さなど瑣末なことに過ぎなかった。

 事実としてすれ違う者たちは皆、その物珍しさから振り返ることはあれど、それ以上の関心を示そうとはしない。

 しかし中にはやはり、彼女の持つ絶世の美貌に惹かれ、善からぬ事を企む輩もいるもので、そのうち二人の歳若い男がおいそれと彼女に近寄って行った。

 ガラス細工を売る店先で、ほんの少し足を止めていた彼女の背後からそっと近づき、軽い調子で声をかける。あとはなんやかんやと言葉巧みにたらしこんで、半ば強引に人目を避けた細い通りに誘い込んだ。

「――ワタクシに何か御用かしら?」

 高く澄んだ令嬢の問い掛けには答えず、男二人は周囲に人がいないことを確認すると、密かに邪な目線を交し合った。

「姉ちゃん、凄い格好だな?」

「何やってる人?」

 貴婦人も貴婦人で男たちの問いかけには答えず、短い逡巡ののち、納得がいったというふうに一人手のひらを打つ。

「なるほど。これが巷に聞く、ナンパというものでしょうか?」

 男たちは女のマイペースさに小さく苦笑し頭を掻くも、早々に気を取り直す。

「こういうの、初めてか?」

「ええ。長らく下界を離れた暮らしをしておりましたもので」

「そうか、なんだかよくわからねぇが、それなら話は早いな?」

 男たちの双眸に滾る、情欲の色を見て取った令嬢は小さく顎を引き、帽子の唾に目線を隠しながら朗らかに言った。

「せっかくお誘い頂いたのに心苦しいのですけれど、はっきり申し上げまして、あなた方ではお話になりませんわね? ワタクシのパートナーにはふさわしくありません」

「……そうか」

 途端、真顔になった男たちはポケットからナイフを取り出して、婦人を脅すように鈍色の金属光沢を鋭くちらつかせた。

「下手に抵抗しない方が、身のためだぜ?」

 しかし淑女はまるで動じない。ひどく暢気な口調で飄々と言葉を返す。

「よろしいのですか? ワタクシの体に触れても?」

「へへっ、なんだよ? まさかヤケドでもするってのか?」

「さて、どうかしら……?」

 これ以上益体のない問答を続ける気はないようで、男の一人がずいっと前に出て、婦人に迫った。

「ほら、大人しくしろ!」

 柔らかそうな肩を掴もうと伸ばした手は、何故か、虚空を掻く。

 避けられたのか。そう思ったが、貴婦人はそこから一歩たりとも動いてはいなかった。

 刹那の違和感。

 それでは何故、届かない?

 ゾクリと、背筋を這い上がる壮絶な悪寒。

「――……え」

 男は短くなった自らの腕を眺めながら、愕然と途方に暮れた。

 肘から先が、見当たらない。

 腕を切断たれた激痛よりも、信じ難いその状況に対する驚愕の方が勝る。

 男の肘から先の部分は、湯銭にかけられたチョコレートの如く、ゲル状に溶けてびちゃびちゃと足元の地面を汚していた。

「う、うわぁあああああああああああああああああ――――っ!!!!」

 遅れていた思考がようやく現状に追いつき、男は絶叫した。

「腕がッ、腕がぁああああああっ!?」

 声を上げている間にも二の腕が千切れて落ち、溶解はさらに肩口まで侵食してゆく。

「ひッ、ひぃいい……ッ!?」

 目の前で仲間の男が、じわじわと四肢を溶かされてゆく光景を見ていたもう一人の男は、弾かれるようにその場から逃げ出そうとして、呆気なく転んだ。

 ダメだ。恐怖で腰が抜けて立てない。そう思ったが、正確には違った。

 既に腰から下が、すっかり溶けて無くなっていたのだ。

 途端、悲鳴を上げたつもりが、実際には掠れた吐息が漏れるばかりだった。

 喋れない。それもそのはずだ。喉から下顎にかけてまでの部分が、ごっそりと腐り落ちているのだから。

 腕を失って悲鳴を上げていた男は、既に頭の天辺までドロドロに溶かされ、凄まじい悪臭を放つ茶褐色の水溜りに変わっていた。

「――クスクスクス! 触らぬ神に祟りなしとは、まさにこのことですわねぇ?」

 たった数十秒の間に、二人の男を肉塊どころか水分に変えてしまった病毒の女神は、小さく微笑むと踵を返した。

「きゃあああ――ッ!!」

 背後からの悲鳴に振り返ると、運悪く若いカップルがその場に居合わせていた。

「お、おいっ! 逃げるぞッ……!!」

 浮き足立った男の方が、恐怖に硬直する女の手を引いて速やかに逃走を図る。

 しかし淑女は動じない。まつげの長い瞳で遠ざかる男女の後姿を冷ややかに捉えつつ、あえて猶予を与えるように、その運命を指先一つで弄ぶ。

 背後から漂い始めた黒い障気が、空中で二つの塊となって結晶化した。

 現れたのは、鋭く、禍々しい形状をした猛毒の矢。

「――遠矢射る」

 瞬間、貴婦人の頭上にゆらゆら浮かんでいた矢が、銃弾の如く放たれた。

 裂帛を上げて数十メートルを一直線に飛んだ魔刃は、逃げ惑う男女の後頭部を容赦なく抉り飛ばし、顔面を貫通した。

 糸が切れた人形のようにその場に倒れ込んだ二人の亡骸は、黒い障気に飲み込まれて、すぐに溶解が始まる。

「まぁ、別に触らなくても、祟りはあるんですけどね……?」

 笑いを含めた声で呟いた貴婦人は、軽やかな足取りで細い通りを抜け、再び雑踏に紛れて歩き出す。


                  3


 隼人に呼ばれた僕は、彼の私室に赴いていた。

 廊下の途中で梨香とすれ違い、あとでお茶を持って行くからと告げられる。

 部屋に着くと、隼人は和明と何やら話し込んでいる最中だった。

 僕に気づいた二人ははたと会話を中断して、こちらを振り返る。

「おう、来たか」

 軽く手を上げて示しつつ、二人のもとへ歩み寄る。

「僕に用って?」

「ああ、こいつをお前に返しておこうと思ってな?」

 隼人はそう言って、金色に光る宝石のブローチを差し出した。

 ――プロメテウスとの一件があった後、隼人が詳しく霊石を調べてみたいと言うので、僕はしばらくのあいだ彼にこのブローチを預けていたのだ。

「なぁ隼人? そもそも、その石は一体、何なんだ?」

 予ねてより抱いていた疑問を、僕はこの機会に尋ねてみた。

「そういえば、まだ話していなかったか」

 訳知り顔の彼は、金色の輝きをこちらに指し示しながら、淡々と語り始める。

「――こいつは通称・父なる霊石“ゼウスの光輝”と呼ばれるものだ。人間の脳に影響を与え、特殊能力の開花を促すPSI波が、もともとは、とある鉱石から発生する微弱な放射線であったことは以前にも話したと思う。これはその鉱石の持つ成分を抽出して数万倍に凝縮し、さらに特殊な機構を持たせて加工した、いわばPSI波の結晶。異能の核であり、すべての特殊能力の根源だ」

「なんだか、やけに重大な物だったみたいだね」

 僕の間抜けな発言に、隼人は神妙な面持ちでゆっくりと頷く。

「祐樹、アテナがAIであることは知っているか?」

「人工知能。所謂アンドロイドなんだろう?」

「ああ。――開国によってゼウス=プロジェクトが一旦凍結された際、それまでの研究データは、諸外国からつけ込まれることを恐れた政府によってそのほとんどが破棄された。しかし、当時ゼウス=プロジェクトの第一人者とされた科学者の一人が、秘密警察の監視を掻い潜って密かに作り上げたのが、アテナであり、この霊石だ。アテナには特殊能力者開発における貴重なデータがすべて記録されている。さらに彼女はこの霊石と連動することによって、現存するすべての特殊能力を操ることが可能といわれているんだ」

「すべての、特殊能力を……?」

 それはまた、随分と末恐ろしい話だ。

「それじゃあ、敵の狙いはその力を使って、大規模な破壊活動を行うこと?」

 和明の問いかけに、隼人は首肯する。

「恐らくな……。敵の最終目標は、疾うに察しがついている」

「というと?」

「この国の現状を見てみろ。一目瞭然だ。政治、経済、倫理、生活水準、その他あらゆる観点からしても日本は既に崩壊している。何故、奴らがそれをそのまま放置しているのか。理由は明白だ。近い将来、世界そのものを手中に治めるつもりでいる連中にとって、もはやこのちっぽけな島国に固執する理由など、どこにもないからだ」

「世界征服……」

 愕然とした和明の呟きに、僕も呆れ返って便乗した。

「まぁ、悪党の行き着く先なんて大体決まってるよな……」

 隼人はふと、渋面を作って首を捻る。

「ただ、わからんのは、その方法だ……。いくらすべての特殊能力を操ることが出来るとはいえ、アテナ一人の力でそれを成し遂げることはさすがに不可能だからな。この上は如何なる手段を持って、世界に挑むつもりなのか……」

 三人でしばらく頭を悩ませてみるも、到底その結論は出そうになかった。

 やがて、隼人が仕切り直すように口を開く。

「まぁ、ともかくこの霊石を奴らの手に渡すことだけは、絶対に阻止せねばならんということだ。こいつはあまりにも大きな危険性を孕み過ぎてる」

 そう締め括った白衣の彼は、僕の手に異能の核兵器とも呼べるその石を握らせた。

 僕の心中を察したのだろう、和明が小さく苦笑する。

「なんだか、今の話を聞かされたあとじゃ、荷が重いなぁ……。僕が持ってるより、隼人が管理していた方が安全じゃないか?」

「大して変わらんさ。それに、その石はお前がアテナから託されたものだ。そこに何か重大な意味があるのかもしれん。お前が持っているべきだと、俺は思うがな?」

「う~ん、そうかなぁ……」

 手のひらのブローチに目線を下ろす。

 霊石の放つ金色の輝きが、今日はどことなく新鮮なものに見えるのは気のせいか。

「――そんなに心配なら、いっそのことあたしに預けなさいよ?」

 突如、背後から掛けられた低く濁った男の声。

振り返ると、そこには――。

“アフロディーテ”が居た。

「え……?」

 自らが達したその認識に、些か驚く。

 しかし直後には、自分が今何に驚いていたのかさえ、忘れてしまった。

 アフロヘアーの長身痩躯に目をやる。

 艶っぽくキメ細やかな茶褐色の肌、つぶらな目元はサングラスによって隠されている。

 黒地に白い水玉模様の入ったワイシャツの胸元はドキドキするほど大胆に開かれ、蛇皮のぴっちりとしたパンタロンが、その抜群のスタイルを見事に引き立てている。

 キラキラと光るラメが、まるで愛と美の女神を謳っているかのようだ。

 アフロディーテは前衛的で、実にイカした女である。

 ……おかしい。

 いや、何がおかしいのかわからないが、何かがおかしい。

 自分の思考が、まるで他人のモノみたいに思える。

 シャツのボタンを掛け違えたまま、一番下まで留めてしまったような感覚。

 ふと、仲間たちの顔を思い浮かべてみる。

 隼人、琢磨、梨香、和明、真帆。

 強烈な違和感。蛇のように絡みつき、背筋を這い上がる悪寒。

“こいつは一体、誰なんだ――?”

「くっ……」

 そう思った途端、思考が次々と塗りつぶされてゆく。記憶の糸が捻じ曲がる。

 頭の中が、最優先事項と設定された新しいデータに次々と上書きされてゆくかのよう。

「ユーキくん?」

 和明の声で、はたと我に帰る。

「大丈夫か。顔色が優れないようだが」

 隼人も少々真剣な顔つきになって、訝るように僕を見ていた。

「あら? どこか悪いの?」

 アフロディーテに心配され、恥ずかしくなった僕は軽く手を振って否認する。

「いや、なんでもないよ。ちょっと寝不足かもしれないな……」

 そうだ、なんでもないんだ。おかしいのは僕の方だ。

 アフロディーテのことが一瞬、わからなくなるなんて僕は本当にどうかしてる。

 彼女はいつだって僕たちの中心に立ち、みんなを引っ張って来た。

 容姿端麗、頭脳明晰、頼り甲斐があって、みんなから慕われている、そういう憧れの存在じゃないか。僕だって何度も彼女に助けられた覚えがある。

 具体的な思い出は何一つ浮かんで来ないが、とにかくそうなのだ。

 この奇妙な違和感は、何か悪い病気の前ぶれかもしれない。

 なんなら、あとで隼人に相談してみようか、などと考える。

「あんまり夜更かししちゃダメよ? 寝不足は美容の大敵なんだから~」

 そう言うアフロディーテの肌は畦道のようにでこぼことしていて、お世辞にも綺麗とはいえないはずなのだが、何故か僕の目には神々しいまでの輝きを放って見えた。

「ありがとう。いつも優しいな、アフロディーテは。今日も綺麗だよ」

「ウフフ、やだもう~。そんなことないわよん?」

 腕を組んで頬杖をつき、アフロディーテは上機嫌に腰をくねらせる。

 冷静に考えれば、色黒でアフロヘアーのおっさんである。しかし何故か、照れる彼女のことがとても可愛らしく見えた。なんだろう、この胸の高鳴りは……。

 その答えが天啓の如く、心の中で大輪の花を咲かせた。

“――あぁ、これが、恋か……”

 どこか遠くの方で自分自身を見下ろしていたもう一人の僕が、必死の形相でゲロを吐いているような気もするが、そんなことはどうでもいい。

「それで、さっきの話の続きなんだけど?」

 アフロディーテの言葉で、脱線していた議論の軌道が正される。

 そうだ。僕たちは敵の奇襲に備えて、霊石を誰が管理すべきか、四人で話しあっていたところだったのだ。

「その石はアテナから託されたものだ。ならばやはり、同じ女神であるところのアフロディーテが持っているべきだと俺は思うがな?」

 隼人がそう述べて、僕も和明もすぐに同意した。

「そうだね、アフロディーテ様なら絶対に安心だよ」

「あら。素直でいい子ね、カズちゃん? 可愛いわぁ~」

 ほんのりと頬を赤く染めて、和明は嬉しそうに笑う。

「はいこれ」

 僕は何の疑いもなく、霊石を彼女に差し出した。

 僕の手から宝石のブローチを受け取ったアフロディーテは、その場ですぐにワイシャツの胸元にそれを身につけて見せる。

「どう? 似合うかしら?」

「ああ、それはもうばっちりだ」

「まるでお前のためにあったような輝きだな」

「とっても綺麗だよ」

 僕の発言に倣って、隼人と和明も口々にアフロディーテの美しさを賛美するような感想を述べた。彼女は微笑んで、僕ら三人を順繰りに見渡す。

「もうっ、みんなあたしのことが好きなのね~」

「当たり前だよ」

「当然だな」

「アフロディーテ様の美しさには誰も敵わないから」

 四人で和やかに笑いあう。

 そのとき入り口の扉が開いて、梨香が現れた。

「お茶が入ったわよ?」

 僕らの様子を見て取った梨香は、微笑みながらこちらに歩いて来る。

「なんだか賑やかで楽しそうね? 何の話をしていたの?」

「アフロディーテ様が、どうしてこんなに美しいのかって話だよ」

 和明が冗談めかして言うと、梨香は穏やかに笑った。

「それは私も興味あるわね。是非とも参考までに聞かせて欲しいわ」

「――……んん?」

 ふとお盆の上に乗った湯呑みを見て、僕は彼女に疑問を発する。

「なぁ、梨香? これ、三つしかないけど?」

 彼女は言われてみてはじめて気づいたという風に小首を傾げた。

「あれ? ……おかしいわね。ちゃんと人数分用意したはずだったんだけど」

 再び違和感が去来する。

 三つしかない湯呑みが、僕に何かを訴えかけてくるようだった。

 わけのわからない感情に困惑する僕を置き去りにして、周囲は進行してゆく。

「三嶋さん、意外とそそっかしいね」

 和明が少し呆れたように苦笑して言った。

「お前も少し、アフロディーテを見習ったらどうだ?」

 隼人の提言に、梨香は弱った顔で笑いながら頭を掻く。

「返す言葉もないわ……。すぐにもう一つ淹れ直して来るから、ちょっと待ってて?」

「ああ、気にしなくていいのよ? あたしはいいから、三人で頂いちゃって?」

 アフロディーテはそう言い残すと、僕らに背を向けた。

「おい、どこ行くんだ?」

 僕が尋ねると、アフロディーテはたおやかな仕草で口元に手をやり、美麗に微笑む。

「ちょっとお花を摘みに」

 入り口のドアに向かって、長身痩躯の後姿が遠ざかる。

 羨望と信頼の眼差しを向けて、それを見送るメンバーたち。

 僕は去り行くアフロディーテを呼び止めようとして、途方に暮れる。

 思考が外側から鍵を掛けられたかのようにフリーズしていた。

たった今、自分が何を思って彼女を呼びとめようとしていたのか、思い出せない。

 ダメだ。――……いや、そもそも何がダメなんだ?

 わからない。わからない。わからない。

 心臓が早鐘のように鼓動を打ち鳴らす。

 喉まで出掛かったその言葉が、あと一歩のところで紡げない。――



「……フフッ」

 ――悠然とした足取りで部屋の出入り口を目指しながら、一切の抵抗無く霊石回収の任務を遂げた衆道は密かにほくそえんでいた。

 彼の持つ“強制催眠能力”は、実体を持たない。

 故に音もなく、空気のように浸透し、標的の思考を意のままに操ることが出来る。

 この能力を持ってすれば、霊石回収の任務など造作も無い。チョロいものだった。

 派手な戦闘も、地道な隠密活動も一切不要。

 堂々と表玄関から入って、自然とその場に溶け込み、まんまと目的を遂げる。

 そうして衆道が遠く去ったあと、彼らはようやく事の真相に気づくのだ。自ら進んで獲物を差し出したというその失態に、痛恨の表情を浮かべて膝を折ることだろう。

 この鮮やかで芸術品のような美しい手口、誰も傷つけないという慈愛の精神。

 愛と美の女神・アフロディーテの名は、やはり自分にこそ相応しいのだと、入道は慢心する。

「……!」

 ドアノブに手をかけようとしたところ、寸でのところで衆道の手を躱すように、入り口の扉が開かれた。

「お~い、梨香ぁ~! なんかつまみ作ってくれよぉ~!」

 騒々しく現れたのは、金髪で目つきの悪い少年。

 一瞬驚いた衆道だったが、それはあくまでも反射的なもの。

 既にこの辺り一帯を精神汚染の波は飲み込んでいた。

 すぐに少年の思考にも干渉し、自分にとって都合の良いものへと改竄する。

 余裕の笑みを取り戻し、衆道は親しげに声をかけた。

「もう、あんまり大きな声出さないでちょうだいよ。びっくりするじゃない?」

「あぁっ?」

 金髪の悪童は、ふと目の前に立っていた衆道の姿を目にして――。

「――なんだオメェ!?」

「え……?」

 警戒心を剥き出しにした雷遁使いの言葉に、今度こそ呆気に取られる。

“強制催眠が効いてない!?”

 途端、少年から漂う、むわっとした刺激臭が鼻腔を突いた。

 衆道の顔つきが変わる。

“こいつ、まさかッ――!?”

 強烈なアルコールのにおい。真っ赤に染まった顔。潤んだ目。

 金髪の男は片手に飲みかけの一升瓶を持っていた。


                  4


 突如として現れた琢磨の言葉に、僕は思わずハッとした。

 抜け落ちていたパズルのピースが、すこーんと音を立てて頭の中に嵌まり込んだような感覚。――そうだ、僕は一体何を!

「……うぐッ!?」

 瞬間、頭の中に激痛が走った。脳みそをぐりぐりと万力で締め付けられるよう。

 視界が歪む。思考の進路が捻じ曲げられ、強引に矯正される。直後、アフロヘアーの男に向けられていた猜疑心は、そっくりそのまま琢磨へと向かっていた。

「おいおい、琢磨。それは何の冗談だよ?」

 口が勝手に動く。僕はヘラヘラと笑って、金髪の彼を窘めていた。

「まさか、本当にアフロディーテのことがわからなくなったわけじゃあるまいな?」

 隼人も失笑を漏らして、琢磨に問い掛ける。

「うわっ、酒くさい……」

 鼻を摘まんで顔を顰める梨香。

 和明が琢磨の手元にある濁酒の一升瓶を目にして、呆れたように苦笑する。

「タクちゃん、また勝手にそれ飲んじゃったの? 見つからないように隠しておいたつもりだったのに……」

 琢磨は何か不気味なものを見るような目つきで、僕たちを見ていた。

「テメェら、何言ってんだ!? 俺はこんなオッサン知らねーよ!」

 物分かりの悪い琢磨に対して、なんだか無性に腹が立って来る。

 何を一人で騒いでいるんだ、この男は。ああ、イライラする。

 頭の中を虫が這い回るようだ。体が疼く。脳みそを取り出して思い切り掻き毟りたい。

「おい琢磨、冗談にしては少し度が過ぎるんじゃないのか? アフロディーテは俺たちの大事な仲間だぞ?」

 隼人の言葉に、琢磨は目を剥いた。

「はぁっ!? ハヤトッ、テメェまで俺をからかってんのか!?」

「もうその辺にしとけよ」

 自分でもゾッとするほど低い声が出た。

「これ以上言うと、ホントに怒るぞ……」

 和明が真顔になって、僕の言葉に同意を示す。

「今のはタクちゃんが悪いと思う。僕もそういうのは嫌いだよ」

「ユーキぃ、カズッ! お前ら気は確かか!?」

 はぁー、と梨香が大きく溜息を吐いて、やれやれと肩を竦めた。

「どうせ酔っ払ってるんでしょ? まったく、しょうがないわね。あとでお水持って行ってあげるから、部屋で休んでなさいよ?」

「俺は酔っ払ってなんかいねぇ!」

「酔っ払いはみんなそう言うんだ」

「おかしいのはお前らの方だろ!!」

 そうは言っても、この場でイレギュラーなのはどう考えても琢磨の方である。

 民主主義の世界において、物事の判断基準を担うのは多数決。

 四対一の場合、どちらに真偽の軍配が下るかは自明の理だ。

 故に僕たちは信じて疑わない。おかしいのは琢磨の方であると。――



 醜く言い争う五人の姿を傍観しながら、そろそろ潮時かと衆道は考えた。

 腕に嵌めたバンド型の空間転移装置に目をやる。あとはこれを起動するだけで、イーリアス・タワーのブリーフィング・ルームまでひとっとびだ。

 スイッチに手を伸ばそうとしたところで、むんずと、豊かな髪の毛を掴まれる。

「――うわっ!?」

 金髪の悪童は捕らえた衆道にヘッドロックをかけ、自慢のアフロヘアーを容赦なく毟り取りながら、ぐりぐりとゲンコツをかました。

「テメェ、こいつらに何しやがったァ!? あぁんッ!? 只じゃおかねぇぞ!」

「いででででででッ! ちょっ、やめなさいよアンタ! 禿げちゃうでしょおお!?」

「うるせぇえ!! まずはこの鬱陶しい髪を切れぇえ!」

 慌てた衆道はすぐさま、強制催眠によって眷属どもを焚きつけた。

“この男は敵だ”

 命令を受け取った四人の瞳が、激しい敵意を持って琢磨の姿を捉える。

“敵は排除しろ”

 瞬間、空かさず前に出た梨香は、主人に狼藉を働く金髪の悪童を容赦なく殴り飛ばした。

「グア――ッ!」

 部屋の隅まで吹き飛び、派手に本棚を引っ繰り返して琢磨は倒れ込む。

「ぐぅッ……! 梨香ァ、てめぇえッ!」

「シュッ!」

 直後に舞った祐樹の回し蹴りが、鋭く琢磨の鳩尾に突き刺さった。

 琢磨は再度、苦悶の声を上げて床に膝をつく。

 痛ましい同士討ちの光景を悠然と眺め、はじめからこうしていればよかったのだと、衆道が思ったそのとき。

「――っ!?」

 カァアッ、と稲妻の閃光が走った。

「へへっ、テメェらァ……!」

 金髪の悪童が不敵に笑う。

 まずい。衆道がそう思ったときには、もう遅かった。

「目を覚ましやがれぇえええええええええええ!!」

 怒涛の一喝と共に放たれた電撃のアークが、幻惑の侵攻を焼き払う。――


 ――琢磨の雷霆に打たれた僕は、ハンマーで脳天を叩かれるような衝撃とともに、はたと正気に返った。

「うっ、くッ……!」

 重たい頭を振って、洗脳の残滓を拭い去る。

 一瞬前までの自分の行動を思い返し、今の自分との連続性の無さに思わず絶句する。

 他の面々も僕と同じように、困惑した様子で現状の把握と認識に努めていた。

「うぅっ……。一体ッ、なんだったのよ今のは……!?」

 頭痛を催したようにこめかみを押さえ、梨香が喘ぐ。

 額に手をやり、目を眇めながら隼人は声を絞り出した。

「わからんッ……! だが、まるで自分が自分でないようだった……!」

 和明は不快な表情で冷や汗を拭い、そして直後に気づく。

「そうだ、霊石は!?」

 彼の一声で、僕は自らの掌が空であることを今更のように知った。

「しまった!!」

「チィッ!」

 瞬間、アフロヘアーの男は側にあった窓ガラスを突き破って、一目散に逃走を図る。

「待ちやがれ、この野郎ッ!」

 琢磨が逸早く後を追って窓から跳躍。

「隼人ッ!!」

 梨香の呼びかけで即座に意を汲んだ隼人は詠唱した。

「――物品引寄(Apports)

 一瞬で目の前に現れた胴田貫を掴み取り、梨香もすぐさま追跡を開始する。

 僕も隼人・和明と共に、男を追ってアジトから飛び出した。


                  5


 足を使っての逃走を余儀なくされた衆道は、走りながら、忌々しげな眼差しを腕時計型の空間転移装置へと注ぐ。

 さっきの電撃、あれはまずかった。

 いくら耐熱、防水、衝撃緩和の加工が施されていても、精密機器である以上、電磁気には敵わない。強い電流が流れ込んだことによって、空間転移装置は完全に機構がイカれてしまったらしい。

 幸い、この辺り一帯の地形は事前に調査済みだった。

 己の能力を最も活すことの出来る逃走経路を、頭の中で瞬時に弾き出す。――



 ――琢磨、梨香の後に続いて、マッチ棒のような長身痩躯の背中を追いかけながら、僕は隣を駆ける隼人に問うた。

「あの男は一体、何者なんだ!?」

 しかしそれに答えたのは、僕の位置から隼人を挟んでその隣を走る和明だった。

「あいつは、幻惑の神“メデューサ”だ! 十二年前、当時僕の住んでいた中国地方、及び四国地方で猛威を振るった五神の一人!」

「確か、奴の能力は“強制催眠”だったな?」

 隼人の問いに、和明は力強く首肯する。

「うんっ! 精神汚染波によって多くの市民を錯乱させ、各地で大規模な暴動を引き起こした張本人!」

「精神感応系か……! そいつは厄介だな。実体がないんじゃあ、防ぎようがない!」

「いや、あながちそうでもないらしい」

 向かい風に白衣の裾を靡かせながら、隼人は僕に一升瓶を手渡してきた。

 琢磨が持っていた濁酒の瓶。部屋を出るときに隼人が回収したのだろう。中にはまだ半分ほど溶液が残っていた。

「何故、琢磨だけが奴の術にかからなかったのか。確かなことはわからんが、推測は出来る。恐らく、酩酊状態では催眠効果が薄れるんだろう。そもそも酒に酔った状態というのは、アルコールによって脳が麻痺を引き起こした結果だ。これは言い換えれば、生理現象を刺激することによって成せる、一種の自己催眠とも捉えられる」

「つまり、酔っ払った人間に催眠術をかけるという行為は、最初から真っ黒の水の中に、赤や黄色の絵の具を溶かし込むようなもの。だから琢磨には奴の力が通用しなかった。そういうことか!?」

「ご明察だ! 二人で分け合ってそいつを飲め! 濁酒はアルコール度数が高い、それにこう激しく体を動かしていれば、酔いがまわるのも一段と早い。一石二鳥だ!」

「ハヤトくんと三嶋さんはどうするの?」

「俺には空間把握能力が、梨香には奴と同種の精神感応がある。心配はいらん」

 栓を開け、僕はラッパ飲みの要領で濁酒を呷る。

「うぅっ、変な味……」

 それでも前回のように吐き出すわけにはいかず、良薬口に苦しと心の中で唱えながら、しっかり胃の中まで流し込む。喉の奥がつーんとして、顔中がカーッと熱くなり、口の中に残った消毒薬のような風味に、ぶるぶると鳥肌が立つ。

「こんなことなら、少しずつ酒の味になれておけばよかったなぁ……」

「人生、何が役に立つかわからんもんだな?」

 隼人の皮肉を聞きながら、僕は残り四分の一ほど残った濁酒の瓶を和明に回した。

 彼もほろ苦い表情を浮かべて、白濁の溶液をすべて飲み切る。

 酔いがまわってきたのか、視界が左右に揺れ、頭がクラクラとする。

 平衡感覚が危うくなって来て、僕は和明と共に、隼人から手を引いてもらった。

 アフロヘアーの男を追いかけるうち、次第に道幅は広く、行き交う通行人の数も目に見えて増えてくる。これは――。

「ハヤトくん、この道筋って」

「ああ、奴は恐らく“ストック・ファーム”に向かってる」

「あの大混雑に紛れて、僕らを撒くつもりなのか……!」

 だが、僕の考えは些か想像力に欠いていた。

 ひび割れたアスファルトを蹴って、繁華街の雑踏に飛び込む。

 だが次の瞬間、前を走っていたはずの梨香と琢磨が、慌てた様子で引き返して来た。

「な、なんだ!?」

 二人の背後から粉塵を巻き上げて迫り来る、物凄い質量の地響きと威圧感。

 数百、数千の怒号と雄叫びが重なり合って轟き、猛烈な殺意の奔流が押し寄せる。

 ある者は素手で、ある者は包丁を持ち、大きな石、フライパン、ガラス製の置物、ゴルフクラブ、裁ちバサミ、その他諸々、ありとあらゆる凶器を手にした老若男女が、一斉に押しかけて来る。その圧倒的な物量と狂気を前に、さめざめと戦慄して後退った。

 壮絶に髪の毛を振り乱し、真っ赤な目を剥き出しにして、猛然と切迫する人々の様相に身の毛がよだつ。

 精神を侵された者に対する本能的な恐怖。ちょうど僕が洗脳され、琢磨に襲い掛かったのと同じように。見ず知らずの人々が僕たちを敵として認識し、今にも殺そうとしている。

 ハッとして振り返ったときにはもう遅い。既に背後からもメデューサの精神汚染にかかった市民たちの大群が。退路を立たれ、僕たちは袋のねずみだった。

「う、うわぁああああっ!?」

 僕の悲鳴は瞬く間に掻き消される。小さなボートが津波によって呑み込まれるように。

 僕たち五人は、徒党を成した肉壁の行進に押し潰された。

 あとはもう無茶苦茶で何がなんだかわからない。抵抗など出来るはずも無く、仲間たちの様子もわからない。頭上に折り重なる人々の影で視界は一気に暗くなり、四方八方から獣じみた怒号の飛び交う、凄まじい喧噪の渦中で揉みくちゃにされた。

「――電光散華(ライジング・シャウト)ッ!!」

 天を突くような琢磨の一声と共に、稲妻のアークが網の目のように広がり、それに触れた人々の体から一斉に力が抜けてゆく。

 身動きの自由を取り戻した僕は、その隙に素早く立ち上がった。

 同じく肉の檻から解放された四人と目が合う。

 半径二十メートル圏内に居た人々は、揃って地面に横たわり、昏倒していた。

 しかしすぐさま増援が押し寄せて来る。これではキリがない。ここで足止めを食らっては、男を見失ってしまう。

 瞬時に雷の第二波を放ちながら、琢磨が叫んだ。

「先に行けッ!! こいつらは俺が片っ端から眠らせる!」

 これだけの人数を相手にそれが出来るのは、能力的に考えても琢磨だけだろう。

 隼人の判断は迅速だった。

「俺たちの居場所は梨香の念話によって中継する! この場が片づき次第、合流しろ!」

「オーケィ!!」

 ばっと腕を差し伸べた隼人は、虚空を掌握し、活路を切り拓いた。

「……“空間転移(Jump)”」


                  6


 ストック・ファームで巻き起こった騒動の一端を、遥か高みから見物する者があった。

 自身の第二の能力(セカンド・アビリティ)である“空中浮遊”によって、青天に浮かぶ黒い一点となった妖艶の貴婦人は、仕立てのいい日傘と帽子によって、降り注ぐ陽光から絹糸のように白く美しい肌を守りながら、切って落とされた戦いの火蓋を閑雅に俯瞰している。

 彼女の周囲を舞う鳥の群れは、須らくその猛毒の妖気に中てられて墜落の一途を辿った。

「……フフ」

 クスリと上品に鼻を鳴らし、地を這う者たちの必死なあがきを見つめる孤高嬢(ミス・ロンリー)の表情は、滲むような微笑みに歪んでいた。――……


            

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