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第一章「奪われし聖女」

ギリシャ神話+異世界召喚+超能力バトルです。

王道をやりたいと思うのです。

 額から一筋、緊張の汗が、顎を伝って床に落ちる。

 僕は手を伸ばし、胸のブローチと共鳴するように光を放つ赤い鉱石を、握り締めた。

「ッ――……」

 途端、一際強い光が視界を凌駕して、猛烈な立ちくらみに襲われる。

 僕は思わずすぐ近くにあった机に手をつこうとした。しかし僕の手は何故か机をすり抜け、虚空を掻く。それによって僕は倒れたのか、まだ立っているのか、……わからない。自分の体がどこかへ行ってしまったような感覚に陥る。その状態は酩酊に近いのかもしれない。

 混乱する思考。かろうじて繋ぎとめている意識の中、握った石を取り落とさないようにと、ただそれだけに集中して、手のひらに力を込めていた。

 視界がぐにゃぐにゃと歪み、耳鳴りがする。

「――」

 父さんの声だ。僕に呼びかけているのだろうが、上手く聞き取れない。その必死な形相すらもねじ曲がってぼやけ、やがて目の前が暗くなる。

 直後に浮遊する感覚。僕を呼ぶ声が一気に遠ざかる。もう何も見えない。もう何も聞えない。僕は堕ちているのだろうか。もはや上下の感覚すらも失せた。今はただ、目には見えない物凄く大きな力によって呑み込まれ、成すすべもなく流されて行く気配だけがある。

 これが――異次元跳躍。恐らくは多くの人類にとって、未知なる領域。

 行き着く先がどこなのか。そこに何があるのか。僕にはわからない。

 だけど、たった一つだけ、確かなことがある。

 ――取り戻したい少女がいる。果たしたい約束がある……。

 この異次元空間の彼方で待つ、彼女を、迎えに行くんだ。――



第一章「奪われし聖女」

                 1


 僕こと――佐藤祐樹(さとう ゆうき)は、昔から何をやっても駄目なやつだった。

 容姿は平凡で特徴もなく、生まれつき幸薄で、勉強は駄目、スポーツは駄目、ドジで間抜けで、何をやったって冴えない。そんなだから、女の子にモテたためしはないし、男友達からはよく馬鹿にされて、よくいじめられた。

 母さんは僕がまだ三つのときに病気で他界した。だから僕には母さんの記憶がない。母さんの顔は写真を見ればわかるけど、正直な話あまりよく思い出せない。自分でも薄情だと思う。母さんのことを思い出して哀しくなれないことが、僕は悲しかった。

 父さんは世界を股に掛ける変人考古学者だった。フェドーラ帽にレザージャケット、ブーツといった出で立ちで、たびたび鞭を片手に世界中を旅している。

 兄弟はおらず、唯一の肉親である父さんは前述の通り家を空けることが多かったため、僕は小さい頃から一人で過ごすことが多かった。まったく、父さんも父さんだ。まだ五つとか六つの僕を一人残して、自分は何週間も海外へ行ってしまうのだから、最初のうちは本当に苦労した。インスタント食品ばかり食べて体を壊してしまったこともあるし、家の中はゴミやら汚れた洗濯物やらで荒れ放題だった。家事はそのうち、自力で覚えた。人間生きるためとなれば、何だって出来るものである(遠い目)。

 そんな僕も小学校へ入学して、七歳の誕生日を迎えたある日のこと。

 久しぶりに帰って来た父が、お祝いに誕生日プレゼントをくれるというので喜んで手を差し出したところ、小さな箱を渡された。なにが入っているのだろうと、僕が子供心にわくわくしながら紐を解いてみれば、中に入っていたのは、薄汚れた赤い石ころだった。

「……」

 落胆する僕のことなどまるっきり目には入らない様子で、父さんは得意げに語り始めた。

「――ギリシャの聖地・オリンポス山から出土した鉱石だ。現地住民の話では不思議な力を持った霊石で、ときおり脈動するように妖艶な輝きを発するという。古代、何かの儀式に使われていた可能性もある貴重なものだぞ。ついでに、お誕生日おめでとう」

 そんなこと言われたって、子供の僕にはまったく興味が湧かなかった。内心こんなものいらないから、最新式のテレビゲームが欲しいと思ったものだ。

 子供ながらに気を遣った僕は、引き攣った笑顔で父にお礼を言った後、自室に帰ってしばらくその石をぼんやりと眺めていた。

 宝石に素養のない僕は、赤い石といえばルビーぐらいしか知らなかったのだが、その石は例えるならば赤い色をしたダイヤモンドといった印象だった。

 表面を布で磨いて蛍光灯の光に透かしてみると、キラキラと光って綺麗だった。見る角度によって微妙にその色合いが変化するのだ。そして、なんとなく見ているうちに頭の中がぼーっとなって、吸い込まれて行きそうな魔性の輝きがあった。

 少し好奇心をくすぐられた僕だったが、子供の注意力というのはえてして散漫なものである。

 好きなアニメが始まる時間帯になると、もうそれっきり興味を失い、机の引き出しに仕舞い込んだまま、その日は早々に就寝した。

 その夜。――

 ふと、目を覚ました僕は、部屋の中がやけに明るいことに気がついた。布団に入る前、きちんと電気は消したはずなのにと思い、天井に目をやると蛍光灯は確かに消えている。

 寝惚けた目を擦りながら起き上がってみると、開かれた机の引き出しから煌々と光が溢れていた。その光は徐々に強まり、窓を開けているわけでもないのにカーテンがばさばさとなった。

「……!」

 眩しい光を遮るように手のひらをかざし、僕はきゅっと目を眇める。

 しばらくして、部屋中を真っ白に染めるほど強かった光は急速に収まり、カーテンの揺れもぴたりと止まって、いつもの平穏な夜の続きが戻って来た。

 今のは一体、なんだったのだろう。そう思った僕が改めて振り返ると、――

 ――そこには見知らぬ少女がいた。

 少女と言ったって、当時七歳の僕から見れば、ずいぶんと年上の女性(ヒト)だった。

 見た目はおよそ、十八かそこら。

 さらりと揺れる長く美しい白銀の髪、透き通るようなブルーの瞳。

 清廉さを体現したような純白のドレスに身を包み、お伽噺に出てくるお姫様のような頭飾りをしている。そしてその冠の正面には、金色の大きな宝石がきらきらと輝いていた。

「……」

 月明かりにぼんやりと照らされて佇む彼女の姿は、見る者すべてを虜にするほど神秘的で、この世のものとは思えぬほど綺麗だった。

 僕は一体どれくらい彼女を見つめていたことだろう。いつの間にか眠ってしまっていた。

 翌朝、目を覚まして、最初は全部夢だったのかと思った。

しかし、隣で横になって静かに目を閉じている彼女の姿を見て驚愕する反面、夢じゃなかったのかと、何故だか少し安心した。

 そのあと、僕は父さんに昨日あった出来事を話した。父さんははじめ半信半疑だったが、僕の部屋までやって来て、そこにいる少女を見ると、少々難しい顔つきになっていくつか質問を投げかけた。しかし少女は一言も喋らず、僕と父さんの方を伽藍のような無表情で見つめているだけだった。

「うぅむ、家出人かもしれないな」

 父さんはそう言った。僕は違うと反論し、今一度彼女が現れたときの状況を必死で説明したのだけれど、父さんは困った顔で小さく苦笑し、「あぁ、とりあえず警察に届けを出そう」と結論を出した。まぁ、はっきり言って父さんは僕の話を信用していなかったんだな。

 当時の僕はそのことにすごく腹を立てていた覚えがあるけど、よくよく考えてみれば、夜中に突然、机の引き出しが開かれて、そこから眩い光とともに少女が現れただなんて、そんな話を信じろという方が無茶なのだ。

 とにもかくにも、その日のうちに警察へ届け出て、色々と調べてもらったのだが、結局、少女の素性に関しては何もわからなかった。

 そもそも、少女が口を開いてくれないことには何の手掛かりも掴めない。もしかすると精神的なショックを受けて、記憶喪失、乃至、それに付随する状態に陥っているのかもしれないと病院で検査を受けさせようとしたこともあったけど、少女はいつも検査の途中でひょっこり病室から抜け出して来てしまう。不思議なことに、彼女の体に触れようとした者たちは皆、急激な眠気に襲われて昏倒してしまうそうなのだ。

 それが、変人考古学者として名を馳せる父さんの琴線に触れたらしい。

 本来であれば、少女の身柄は警察に引き取られたのち、何某かの施設に委ねられるのが普通なのだろうけど、少女に興味を持った父さんからの申し出で、彼女はしばらく佐藤家に居候として身を置くことになったのだ。

 もともと世界中を旅してまわる間、僕が家で一人になることを、父さんも多少は気にかけてくれていたらしい。そろそろお手伝いさんを一人雇おうかと考えていたところだったので、ちょうどいいと父さんは笑って言った。

 かくして、少女は僕と父さんの家にやって来た、というか舞い戻ってきたわけなんだが、まかりなりにもこれから一緒に暮らして行く上で名前がなければ不便である。一応、本人に尋ねてはみたものの、案の定というかなんというか、やっぱり彼女は何も答えなかった。

 そこで仮に呼び名を決めておこうという話になり、父さんは改めて少女と向き合った。

「うぅ~む……」

 真剣な表情でじっくりと目の前の少女を観察する父さんに倣って、僕も彼女を見た。

 少女の顔立ちと青い瞳はおよそ日本人離れしており、身につけた純白のドレスは、それこそ西欧の童話に出てくる妖精だとか、女神像が着ているような布と紐だけの扇情的な衣装である。そして、やはり一番の特徴は、金色に輝くあの大きな宝石のついた冠か……。

 ――ティアラ。

 しばしの黙考ののち、父さんは少女をそう名づけた。

 今にして思えば随分と安直な決め方だなと感じるが、当時の僕はその名前を聞いたとき、その綺麗な語感から、彼女にはぴったりだなと思ったものだ。

 ティアラはそれから、佐藤家の家事全般を担うことになった。

 相変わらず無表情のままで何も喋らなかったけれど、一応こちらの言葉は通じるらしく、父さんの指示に従って、掃除や洗濯、料理など、色んなことをあっという間に覚えていった。

 そして、父さんはしばらくの間、なんとかティアラの素性を掴もうと、積極的に話しかけてみたり、彼女の様子を事細かく観察してみたりと、なんだか色々やっていたみたいだけれど、一ヶ月も経つ頃にはすっかり飽きてしまい、また自分だけさっさと冒険の旅に出てしまった。

 ……それから、僕とティアラの二人暮しが始まったのだ。

 ティアラは毎日、自分の役割を卒なくこなした。彼女が働いてくれるおかげで衣食住がきちんと整備され、それまで僕にかかっていた負担は大幅に軽減されたように思う。

 だけど、そのことが僕の孤独を一層浮き彫りにしていたのだと、今になって理解する。

 彼女がやって来る前は、掃除も、洗濯も、料理だって、すべて僕が自分でやらなければならなかったことだ。まだ十歳にも満たなかった僕にとって、それはそれは大変なことだったと思う。

 けれど、それによって色々なことに言い訳が出来ていたことも事実だったのだ。

 僕は他の子たちと比べて色んなことが出来なかった。けれど、これまでは他の子たちがお父さんやお母さんにやってもらっていることを僕は全部一人でやっているんだから、しょうがないと思えていた。それを誇りに思うことで、自分が駄目な奴だってことを隠そうとしていた。

 だけどティアラが家にやって来てから、身の回りのことは、全部彼女がやってくれるようになった。僕は他の子たちと同じ立場に立たされたんだ。そしてはじめて、自分がひどく周りから劣っているという事実をはっきりと思い知らされた。

 勉強はしっかりとやった。だけどどうしてか成績はいつもビリケツだった。

 宿題も毎日きちんとやった。だけどいつも学校に行くとき、うっかり家に忘れてしまって先生に怒られた。

 運動神経が悪くて、体育の時間はよく同級生から馬鹿にされたし、お昼休みや放課後、みんながサッカーや野球をして遊ぶのに入れてもらえなかった。

 気が弱くて、買って貰ったオモチャや漫画は、ことごとくガキ大将たちに奪われた。

 友達が出来なくて、放課後や休みの日はいつも家にいた。やることがなかったから、あやとりしたり、お手玉したり、昼寝をしたりして、いつも一人で時間を潰していた。

 寂しくて、悔しくて、悲しかったけど、それを慰めてくれたり、なにか良いアドバイスをくれる父さんと母さんはいない。ティアラはずっと家にいたけど、笑わないし、喋らないし、毎日毎日、機械みたく決められたことをただ淡々とやっているだけだ。父さんは気さくに話しかけていたけど、僕には ティアラがなんとなく近寄りがたい存在に思えた。

 そうして僕は不満をどんどんと、胸の内側に溜め込んでいった。

 ティアラが家にやって来てから二ヶ月ほどが経ったある日のこと、些細な切欠から、僕はいつもいじめてくるガキ大将と喧嘩になった。

 普段の僕だったら、たとえ自分は悪くないと思っていても「ごめんなさい」と謝ってすぐに引いてしまうところだけど、そのときはもう、色んなことが引き金となって僕も思い切り突っかかって行ったのだ。……まぁ、結果からいえばボロ負けだった。喧嘩といったって、ほぼ一方的に叩かれて蹴られて、僕は泣きながら家に逃げ帰った。

 色んな感情が混ざり合って、せめぎ合って、堰を切ったように涙が溢れてきた。

 僕は声を上げて泣いた。

 家の中には誰もいない。

 ここならいくら大声を出して泣いたって、咎められることはない。

 僕はぐちゃぐちゃで言葉にならない感情を、お腹の底から思い切り吐き出した。

 泣いて、喚いて、さんざん泣いて、さんざん喚いて――。

 すっかり泣き疲れた頃、いつの間にか隣に座っていた、彼女に気づいた。

「……」

 振り返った僕は、一瞬そこに母さんの面影を感じた。

 しかしすぐにその気配は掻き消える。

 そこに居たのは、亡くなった母さんの服を着たティアラだった。

 現れたときに来ていた白いドレス以外に持ち合わせのないティアラは、父さんから母さんの服を適当に選んで着るようにと言われていたのだ。

 僕はすぐにティアラから目を逸らし、ぐっと顔を伏せた。たった一瞬でも母さんの気配に期待してしまったことが悲しくて、止まりかけていた涙が再びふつふつと湧いてくる。

「――……ゆーき」

 抑揚のない平坦な声だった。

 相変わらずの無表情で、それもたった一言、ティアラが僕の名前を読んだ。

 僕はそのときはじめて、ティアラの声を聞いた。

 この二ヶ月間、何か話しかけてもノーリアクションか、せいぜい首を縦か横に小さく傾ける程度だった彼女が、言葉を発したという事実に少しばかり驚いた。普段の僕だったら、たぶん目を丸くしてもっと大げさに驚いていただろう。だけどそのときすっかり感情が昂っていた僕には、生憎とそんなことに構っていられるような余裕はなかった。

「どう、したの……? どうして、泣いているの?」

 彼女の冷然とした問いに、僕は必死に腕で涙を拭い、鼻水を啜りながら答えた。

 何をどう話したのかは覚えていない。子供の僕が、泣きながら、感情の赴くままに口を動かし喋ったことだ。それは到底、聞くに堪えないものだったはずであり、ティアラがきちんと僕の話を聞いていたのかも定かじゃない。聞いていたとしても、きっと彼女にはほとんど理解出来なかっただろうと思う。

 それでも心行くまで話し終えた僕に、彼女は短く問い掛けた。

「どう、したいの?」

 そう訊かれて、僕は戸惑った。自分がどうしたいのか、わからない。どうすればこの想いが消えるのか、幼い僕には何もわからなかった。だから僕は咄嗟にこう答えていた。

「いじめっ子を懲らしめたい」

 ティアラは綺麗な青い瞳で僕を見つめながら、「そう」と小さく呟いた。

 それから静かに立ち上がって、彼女は僕の手を握った。

「行こう……?」

 僕は泣き腫らした目をぽかんと見開いたまま、ティアラに手を引かれながら家を出た。

 しばらく歩いた先の公園に、僕をいじめたやつらがいた。手にエアーガンを持って、周りの木を撃ったり、寄ってきたカラスや野良猫を撃って遊んでいた。

 僕はティアラに手を引かれながら、彼らのもとに歩み寄る。

 僕に気づいたいじめっ子たちがぞろぞろと集まってきて、そのうちの一人が言った。

「なんだお前、また泣かされに来たのか?」

 僕の隣にいるティアラに目を留めて、みんな馬鹿にしたように笑う。

「へへっ、姉ちゃんと手なんか繋いで、恥ずかしいやつー」

 僕が精一杯の憎悪を込めて睨むと、ガキ大将はエアーガンをこちらに向け、ぱんぱんと僕を撃った。

「あっち行け! この弱虫!」

 それを切欠に他のいじめっ子たちも一斉にエアーガンを撃ち始めた。

 悔しかったけど、僕は怖くてすっかり足元が竦んでいた。

 すぐにでも踵を返して、その場から逃げ出したかった。

 僕がティアラの手を引き、もう帰ろうよと言おうとしたとき。

「……」

 そっと僕の手を離したティアラは一歩前に出て、いじめっ子たちの前に立った。

 彼女が静かに手をかざすと、いじめっ子たちの手を離れたエアーガンが、ふわりふわりと宙に浮かび上がった。

「え――?」

 驚く間もなく、次の瞬間にはいじめっ子たちの体も宙に浮いていた。

「うわっ」「なんだこれ」「たすけてくれー」

 さながら、宇宙ステーションからの中継映像を見ているような気分だった。

 いじめっ子たちはしばらく空中を漂ったのち、やがてぷっつんと糸が切れたように落下、どすんと地面で尻餅をついた。僕はいじめっ子たちと同様、驚いた顔でティアラを見る。

 頭飾りの宝石がぼんやりと発光していた。

 風もないのに公園の木々がガサガサと枝葉を揺らし、ブランコがひとりでに動き出す。

 異様な雰囲気に恐れをなしたいじめっ子たちは、わぁと声を上げて蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。ティアラが手を下ろすと、途端に木々の揺れは収まり、ブランコは再び静止する。穏やかな夕暮れの風景が戻っていた。

 僕はおずおずと彼女の方を向いて問い掛ける。

「ねぇ、今の……ティアラがやったの?」

 ゆっくりと僕の方を振り返ったティアラは以降何とも答えず、なにやらキョトンとしていた。その表情からは、微かに驚きという感情が読み取れる。

恐らくそれは、つい今しがたまで泣きそうだった僕が、笑っていたからだろう。

「すごいね! もう一度みせてよ!」

 すっかり興奮した僕が手を取ってせがむと、ティアラは少々戸惑ったようにこくんと頷いた。

 彼女が僕の方に向けて手をかざす。

 瞬間、頭飾りの宝石が再び緩やかな光を放ちはじめ、僕の体が抗いようもなく浮遊した。

 なんとも不思議な心地だった。糸で吊るされているわけでもなく、僕は宙に浮いたのだ。

 たとえるならば、柔らかい綿で体全体を優しく包まれているような感覚。それが面白くて、楽しくて、悩みも忘れて笑う僕を、ティアラはなんだか不思議そうに眺めていた。

 ――それからというもの、僕はティアラによく話しかけるようになった。

 学校のこと、クラスメイトのこと、父さんのこと、母さんのこと。それ以外にも他愛のないことを、たくさん、たくさん喋った。

 とはいえ、態度が劇的に変化したのは僕だけであり、ティアラの方はやっぱり、最初のうちはほとんど反応を示してくれなかった。

 僕がいくら話しかけても、極稀に「そう」とか「いいえ」といった短い言葉をぽつぽつと呟くだけ。それでも、当時の僕はそんなことお構いなしだったのだ。

 誰かが側にいてくれる。自分の話を聞いてくれるという事実がただ嬉しくて、無視されても構わず、僕は彼女に話しかけ続けた。

 彼女と一緒にいると、ちっとも退屈しなかった。

 ティアラには、不思議な能力(ちから)があった。

 誰にも言わないと約束して、僕は色々見せてもらった。

 道具を一切使わずに、火や、電気や、風を起こしたり、何もないところから水を出したり、遠くの物を一瞬で目の前に移動させたり、キラキラとした光を出してあっという間に擦り傷を治してくれたこともあった。僕は彼女がその細い腕を振るう度、何が起こるのだろうといつもワクワクしながら目を輝かせていた。

 ティアラは感情表現にこそ乏しいものの、意図して僕を拒絶するようなことはなかった。

 たとえつまらないことでもじっと僕の話を聞いてくれたし、夜一人で眠るのが寂しいと言えば一緒の布団で寝てくれた。風呂嫌いな僕のために、一緒にお風呂に入って髪を洗ってくれたりもした。

 そうして少しずつだが、次第に彼女の感情が、僕にも分かるようになって来た。

 それは僕が彼女に慣れてきたということもあるだろうし、彼女自身が、人間らしい感情表現というものを身につけはじめたということもあったのだろう。

 そのうち十回に一回くらいは言葉を返してくれるようになり、やがて五回に一回、三回に一回と、その頻度は日に日に増して行き、それから半年が経つ頃には、彼女の方から僕に話しかけてくれることも別段珍しいことではなくなった。

 父さんが時々帰って来ては、その都度、ティアラの変わり様にえらく驚いていたっけ。

 …………。

 そして、二年が経った頃。

 ――ティアラはもうすっかり、普通のお姉さんになっていた。

 無口で無表情だった頃のことなど、まるで嘘のように口数は増え、表情は豊かになった。

 僕は小学校三年生になっていたが、相変わらずティアラにべたべたとくっついてまわって、すっかり彼女に依存しきっていた。

 ティアラはそんな僕のことを心配するようになり、僕はティアラさえいてくれればそれでいいと言ったのだけれど、彼女は僕がなんとかして友達を作れるように、色々と手間をかけてくれた。

 とにかく僕はコンプレックスが多かったので、まずはそれらを一つずつ克服して行くところからはじめようという話になった。

 成績のことで馬鹿にされることがないよう、毎日夜遅くまで必死で勉強した。

 体育の時間に恥を掻かないよう、日が暮れるまで鉄棒で逆上がりの練習をやった。

 傷だらけになりながら自転車に乗る訓練をしたし、市民プールへ行って何度も溺れかけながら二十五メートルを泳いだ。汗だくになりながら徒競走の練習もしたし、放課後の草野球に混ざれるよう、ティアラを相手にキャッチボールの練習をしたこともある。

 物分りが悪くて、飽きっぽくて、何事も諦めがちな僕はその都度挫折して、「もうやめよう」「どうせ無理なんだ」と駄々を捏ねたが、ティアラは僕が出来るようになるまで、本当に根気強く僕を励まし続け、最後まで付き合ってくれた。

 ティアラのおかげで、僕は本当に少しずつだが、自分に自信が持てるようになった。

 テストで百点とまではいかなかったが、毎回六十点をキープ出来る程度には成績も向上したし、体育の授業でも、取り立てて他の男子から運動神経の無さをからかわれるようなことはなくなった。友達も出来て、放課後や休みの日に遊びに誘われることも多くなった。

「行ってきます」と元気に出掛けて行く僕の姿を、ティアラはいつも嬉しそうに笑って、玄関から見送ってくれた。

 その頃の僕は本当に毎日が楽しくて、なんだか目の前がキラキラと輝いているようだった。

 いつまでもこんなときが続けばいいなと、そう思っていた……。



 ――月日は流れ、気がつけば、ティアラが僕の家にやって来てから、既に五年の時が経っていた。

 小学六年生になった僕は、いつしか、ティアラを避けるようになっていた。

 なんとなく、ティアラと一緒にいることが気まずかったのだ。

 彼女の方から何か誘われても、冷たく突き放すように断った。

 食事もわざと時間をずらして、別々に取った。

 同じ家の中にいても、なるべく顔を合わせないように、言葉を交わさないように気を遣って過ごしていた。別に怒っているわけでも、ティアラのことを嫌いになったわけではないはずなのに、何故か、彼女を前にすると不貞腐れたような態度を取ってしまう、そんな自分自身の心境に、僕は戸惑っていた。

 今だからこそ、わかる。――あれは思春期の入り口だったのだ。

 ティアラと一緒にいるところを友達に見られたり、あまつさえ翌日学校でネタにされるようなことがあれば顔を真っ赤にして怒った。そして家に帰ると今度はティアラに辛く当たった。

 男なら、きっと誰だって一度は経験があると思う。

 ちょうど小学校高学年に差し掛かった男子にありがちな青臭い感情。

〝女といるのは恥ずかしい〟と。

 これを過ぎて中学生くらいになると、今度は逆に自分から女の子に寄って行くようになるんだけど、そのときの僕は、まさにそんな状態だった。

 つまり僕はティアラのことを、女性として意識しはじめていたのだ……。

 いつからだったのだろう。姉のように思っていたティアラのことを好きになり始めたのは。

 確か小学校四年生くらいまでは、僕もまだ普通だったと思う。それが五年生の半ば辺りから少しずつ揺れ始め、六年生に進級する頃、彼女に対する想いを僕ははっきりと自覚した。

 そのとき僕は、自分の気持ちが恥ずかしくて仕方なかった。

 胸が苦しくて、なんだかすごくいけないことをしている気分になった。

 だから僕は彼女を避けることにしたのだ。けれど、言葉や態度では頑なに彼女を遠ざけつつ気づけばいつだってその姿を目で追っている自分がいた。

 ――絹糸のような白銀の髪に。――女性らしさを強調した曲線的な体つきに。――美しい横顔に。――長いまつげの透き通るようなブルーの瞳に。――僕は恋焦がれていた……。

 僕がそんなふうになってから、ティアラは哀しげな表情をすることが多くなっていた。

 きっと彼女には、微妙な年頃になった僕の心が理解できなかったのだろう。自分は嫌われたと、そう思い込んでいたに違いない。

 ティアラが一人で寂しそうにしている姿を見掛ける度、僕は酷く胸の内側を締め付けられた。

 どうして素直になれなかったんだと、振り返る度、今でも激しく後悔する。

 もっとたくさん話せばよかった。もっと一緒にいたかった。もっと優しくしたかった。

 本心ではぴったりと寄り添いあっていたはずなのに、僕とティアラは擦れ違い続けた。

 僕は本当に愚かで、どうしようもないくらい子供だった……。

 つまらない自意識から彼女を傷つけてしまい、彼女を傷つけるたび、自分自身も傷ついて。

 日々の暮らしはどんどん息苦しくなって、お互いに声をかけることも、顔をあわせることもなくなって。何か伝えることがあるときは、テーブルの上にメモを置くことで済ませた……。

 ――そして、僕が十二歳の誕生日を明日に控えたある日のこと。

 僕はティアラから買い物に誘われた。

 彼女と直接話すのは随分と久しぶりだった。内心では飛び上がるほどに嬉しかったけど、僕はまた例によって顔をしかめ、「行かない」と素っ気なく答えたのだ。

 いつもだったら、そこで話は終わりだった。けれど、その日のティアラはなんとなく雰囲気が違っていた。酷く儚げな笑みを浮かべ、心から訴えかけるように「お願いだから」と泣き出しそうな声で囁くのだ。すっかり気圧されてしまった僕は、不承不承の体を装ってティアラの買い物に付き合うことにした。

 ティアラと二人、並んで街を歩く。

「ゆーきとこんなふうに買い物するの、久しぶりだね」

「そうか?」

「うん……。こうして話すことだって、最近はほとんどなかったから……」

 なんとなくしおらしいティアラのことが気にかかりはしたが、そのときの僕はムスッとした顔で周囲に知り合いがいないかとか、そんなことばかり気にしていた。

 てっきり夕飯の材料を買いに行くだけだと思っていたが、ティアラは珍しく服屋に入ろうと言い出した。その頃の僕は洋服に興味なんてなかったから、早くしろよとつっけんどんに言って、一人店の前のベンチで待つことにした

 十五分ほどして、買い物を済ませたティアラが出てくると、開口一番「遅い」と文句を言った。ティアラはにこやかに「ごめんね」と謝って、今度はカフェに入ろうと言い出した。

 僕はなによりも同級生に見つかって冷やかされることを心配していたので、そんなのいいから早く帰ろうと言ったのだけど、笑顔のティアラから「たまにはいいじゃん」と促され、舌打ちをしながらふらふらと店に入った。

 席に着いて適当なソフトドリンクを注文したあと、ティアラは先ほどの店で買ったものを袋の隙間から覗いては小さく微笑んでいた。

「どんなの買ったんだ?」

 なんとなく気になった僕が尋ねると、ティアラはどことなく含みを持たせた笑みを浮かべ、「秘密」と答えをはぐらかした。

「ちぇっ、別に教えてくれたっていいじゃん。まぁ、興味ねーけど……」

 僕がむくれたようにそっぽを向いても、ティアラは何故だかくすくすと笑っていた。

 カフェを出たあと、僕は今度こそ帰ろうと言ったのだけれど、ティアラはまだもう少し色んなお店を見てまわろうよと言って聞かなかった。

 僕は面倒臭いという意思を込めて溜息を吐き、ポケットに手をつっこみながら歩き出す。

「ゆーきも今年で、小学校卒業だね。初めて会った頃はまだ一年生だったのになぁ……」

 妙に感慨深そうなティアラの言葉を聞き流しつつ、僕はまたまるっきり別のことを考えていた。なんだかこれってデートみたいだな、と。そう思った瞬間、顔から火が出そうになった。

「ねぇ、ゆーき。……手ぇ、繋ごっか?」

「なっ――!?」

 そんなことを考えていた矢先だったので、驚いた僕は思わず足をもつれさせて派手に転んでしまった。

「大丈夫?」

 差し伸べられるティアラの手を慌てて振り払い、僕は自力で立ち上がった。

「ちぇっ、お前が変なこと言い出すからだぞ……!」

「どうして? 前はいつも、ゆーきの方から手を握ってきたじゃない?」

「ばっか、そんなの昔の話だろ!」

「フフ、だけどこんななんにもないところで転んじゃうなんて、大きくなっても、ドジなところだけはなかなか治らないね?」

「うっせー。もうこれ以上余計なこと言ったら、俺は帰るからな!」

「ごめんごめん。――ほうら、行こう?」

 ティアラは素早く僕の手を取って、足取り軽やかに歩き出す。

「うわっ、バカ! 恥ずかしいだろ! やめろよー!」

 僕は大騒ぎでティアラに手を引かれながら、その後もあっちこっち連れまわされた。

 ふと雑貨屋に立ち寄った際、ティアラは可愛くデフォルメされたダルマの置物が妙に気に入ったみたいで、なかなかその棚の前から離れようとしなかった。

 ティアラがじっと見ているのは手のひらサイズの物で、指でつっついて倒すと、中に仕込まれた重石によって自然と起き上がってくるという仕組みになっている。

「なぁー、もう行こうぜー?」

 見かねた僕が声をかけても、ティアラは「うーん」と生返事。

 仕方なく袖口を引っ張ると、ティアラは僕の方を振り返り、なんだか甘えた声を出した。

「ねぇ、ゆーき。あれ買って?」

「はぁ? 何言ってんだよ。欲しけりゃ自分で買えばいいだろ」

 ティアラはううんと首を振り、

「ゆーきに買って欲しいの」

「……なんでだよ。全然、意味わかんねぇよ……」

「お願い。あの一番小さいやつでいいからさぁ?」

 しぶしぶと値札を見て、僕は今度こそきっぱりと首を横に振った。

「駄目だ」

「え~っ」

「だって千円もするじゃん」

 なんでなんでーと駄々を捏ねるティアラを尻目に、僕は改めてその置物を見た。

 癒し系マスコットとしてデフォルメされたダルマは、なんだか猿のようなひどく間の抜けた顔をしている。

「ふんっ、大体こんなののどこがいいんだよ……」

 僕が水を差すように言うと、ティアラは微笑みながらダルマの頭をちょんちょんとつついた。

「可愛いよぅ。この子、なんとなくゆーきに似てるもん」

「どこがだよッ!? ちぇっ! もう、いいから行くぞ!」

 頭に血が上った僕はそそくさと踵を返して歩き出す。しかしティアラは、なんだか物寂しげな目をして振り返ったまま、名残惜しそうにそのダルマを見つめていた。

「……」

 僕は深々と溜息を吐き、それからダルマの置物を手に取った。

「買って、くれるの……?」

 ティアラの問いかけを無視して、僕はさっさとレジまで進んでいく。

 お金を払って、綺麗に包装された袋をティアラにぽんと手渡した。

「ほらよ……」

 両手でそれを胸に抱えるように持ったティアラは、それからしばし茫然として。

「――……ありがとう」

やがて頬を赤らめながら、嬉しそうに微笑んだ。

「べっ、別に、千円ぐらい大したことねーし……」

「えへへ……。それでも嬉しい……」

 僕は照れくさくて、それからずっとそっぽを向いていた。


                 2


 街での買い物を終えたあと、ティアラが少し話したいことがあるというので、二人で近所の川原までやって来た。

 川縁のベンチに腰を下ろし、キラキラと陽光を照り返して流れる川面を見つめながら、僕はティアラが口を開くのを、内心ドキドキしながら待っていた。

「ゆーきに、伝えておきたいことがあるの」

「……な、なんだよ。そんな改まって……」

 僕の中では、さっきの出来事が未だに尾を引いていた。しかしティアラの表情は、そんな僕の浮ついた心とは正反対に、至極引き締まったものだった。

「これを知ったら、ゆーきは私を嫌いになるかもしれない。軽蔑するかもしれない。だけど、知って欲しい。これは私が、今までずっと隠してきたことだから……」

 僕は突然振って湧いたような只ならぬ雰囲気に戸惑いながらも、ゆっくりと頷いていた。

 ティアラは意を決したように、淡々と言葉をつむぎ出す。

「私は、この世界の人間じゃない。――こことは違う次元から来た、AIなの」

「A、I……?」

「Artificial Intelligence――人工知能。……私は、ゆーきや、ゆーきのパパとは違う。こう言った方がわかりやすいかしら。私は、機械なの」

 僕には彼女の言葉が俄かに信じられなかった。

 だって、そうだろう? 今まで何年も一緒に暮らして来た人が、――ましてや自分の愛する人が、実は機械だったなんて、いくら子供の僕でも、そんなの信じられるわけがない。

「意味わかんねぇよ……そんなわけないだろ!」

 僕はそう叫んで、咄嗟に彼女の手を取っていた。指をしっかりと絡ませて彼女の手をぎゅっと握り締める。恥ずかしさだとか、そんな感情を差し挟む余地はなかった。

 僕は必死になって、これが証拠だとティアラに訴えた。

「だってほら、こんなに温かいじゃないか! 肌の感触だって、何も僕と変わらない! ティアラは人間だよ! 機械じゃない!」

 ティアラは何もかも諦めたような表情で静かに首を振った。

「それでも、私は機械なの」

「嘘だ!」

「本当よ……。骨も、肉も、皮膚も、血も、目も、鼻も、口も、髪も、すべて、私の体はすべて人の手によって造られたものなの……。ぱっと見ただけでは、本物の人間と区別がつかないくらい精巧に出来ているでしょう? だけど、それでも偽物なのよ……」

「無理だよ。そんなの造れっこない!」

「この世界の技術では、たぶん無理ね……。だけど、私の元居た世界では、技術革新がここよりももっとずっと進んでいたの」

「ティアラが、元居た、世界……?」

 彼女は静かに頷き、ふと遠くを見つめながら話し始めた。

「ゆーきには、前に何度も見せたことがあるよね? 私の持つ能力(ちから)……」

 そのとき、僕はハッと息を呑んだ。

「――私の生まれた世界では、特殊能力者を開発する研究が進んでいて、私にはその研究のデータと特殊能力の根源を成す力がすべて搭載されているの。だけど、あるときクーデターが起きて、私の持つ能力を悪用しようとする人たちが現れた。だから私はその人たちの手を逃れてこの世界にやって来たの。五年に一度開かれるという、異次元世界へのゲートを潜って……」

 僕にはあまり難しいことはよくわからなかった。

けれど、彼女が嘘を言っているとも思えなかったのだ。

実際に僕は、彼女の言うとおり超常的な力をこの目で見ている。ここ数年はめっきり見る機会がなかったし、それ以前の僕は、ただ単純にすごいとか、不思議だとか、その程度の感想しか抱いていなかったけれど。確かにあれは、この世界では本来ありえない出来事だったのだ。

「そんな……」

 真実を知って、理解したあとでも、やっぱり信じられない。

 目の前で寂しげに笑う彼女が、機械だなんて……。

 もし仮に最初の頃の、無口で無表情なティアラから今の話を聴いていたら、僕ももう少しすんなり受け容れられたかもしれない。実際、僕もあの頃のティアラは機械のようだと思っていた時期があった。だけど、今の彼女は……どこからどう見たって人間にしか見えなかった。

「――人工知能には、他の機械製品と違って、学習能力があるの……。経験することで、色んな事を覚えて、どんどん新しいことが出来るようになる……。ゆーきがこれまで、空っぽだった私にたくさん話しかけてくれたから、今の私は限りなく人間に近くなったの。けれど、どれだけ人間に近づこうと、私は本物の人間にはなれない。それは、私が機械だから……。それだけはどうしたって動かすことの出来ない、事実なのよ……」

「……」

 僕の沈黙をどう受け取ったのか、ティアラは自嘲の笑みを浮かべながら独りでに言った。

「ごめんね。気持ち悪いでしょ、私……。機械のくせに、こんな、人間の振りをして……今までずっと、ゆーきのこと騙してたんだもん……。ごめん……。ごめんね……」

 ティアラは凍えるように自らの肩を抱いて、笑いながら小さく震えていた。

「――関係ないだろ、そんなこと……」

 僕の言葉に、ティアラが驚いた顔でこちらを見る。

「ティアラはティアラだから……。これまでも、これからも……。その……家族だと思ってる、からさ……。機械とか人間とか、そんなこと問題じゃないよ……」

 そうだ、どのみち僕の答えは最初から決まっていたんだ。

 彼女が今さら何と言おうとも、もう遅すぎた。

 嫌いな人を好きになることは出来る。だけど――一度好きになった人を、嫌いになるなんてことは、そうそう出来るものじゃあないのだから。――

 じわじわとティアラの瞳に溜まった涙が、不意に一滴、頬を伝ってこぼれ落ちた。

「うわっ、なっ、なに泣いてんだよ!?」

「ごめんっ……ゆーきは、優しいね」

 彼女からそんなことを言われた僕は、急に自分の言ったことが恥ずかしくなって、顔中がカーッと熱くなった。

「ばっ、馬鹿だな! ったく、大げさなんだよ!」

「え、へへ……ありがと」

 どうにもバツが悪くて、僕は彼女が落ち着くまでの間、ずっと唇を尖らせながら川の流れを眺めていた。そのうち、ティアラの手のひらがそっと僕の手の甲に触れてきたが、僕はあえて気づかない振りをしていた。


                 3


 その日は、久しぶりに二人揃って夕食を取った。

 長く失われていた僕とティアラの関係は、事ここに至って少しだけ修復されたらしい。

 夜、風呂から上がった僕は、ふと気になってティアラの部屋を覗いてみた。

 部屋の明かりはついておらず、窓からこぼれる薄い月明かりが、ベールのように彼女の背中を抱いていた。

 机の前に座ったティアラは、昼間僕があげたダルマの置物を、指先でちょんちょんとつつきながら一人遊んでいる。

 転んでは起き、転んでは起きを繰り返す滑稽なダルマを、ティアラは母のように優しく微笑みながら、飽きもせずにずっと眺めていた。一体何がそんなに楽しいのかと聞いてみたら、彼女はまたこのダルマが僕に似ていると言うのだ。ティアラ曰く、――

「ゆーきは初め、他の子たちと比べて色んなことが出来なくて、たくさん躓いたでしょう? だけどその度にちゃんと自分の力で起き上がって、少しずつ大きくなって行った……。だからね? この子を見ていると、なんだか躓いてばかりだった頃のゆーきを思い出すの」

 ティアラはそう言って、ダルマの頭をそっと指の腹でなぞった。

「ふぅーん……」

 僕はどうでもいいような素振りで相槌を打ちながら、密かに言葉を飲み込んでいた。

 本当は言いたかったのだ、ティアラのおかげだと。――僕が起き上がれたのは、ティアラがそばに居て支えてくれたからなんだよと。

 翌日、久しぶりに父さんが帰ってきて、ささやかに僕の誕生日会が開かれた。

 ティアラは盆と正月がいっぺんに来たような勢いで、料理の盛りつけられたお皿を次々とテーブルの上に並べていく。

「やけに張り切ってんのな?」

「だって、今日はゆーきのお誕生日だもん」

「にしたって、どんだけ作るんだよ。こんなに食えねーって」

「フフン、いいじゃない、せっかくのお祝いなんだし」

 そんな僕とティアラのやりとりを見て、父さんは快活に笑った。

「このあいだ帰って来たときは、二人とも妙に辛気臭い顔をしてたと思ったが、その様子だと無事に仲直りできたみたいだな。うんうん、よかったよかった」

 どうもご心配をおかけしました、と悪戯っぽく笑うティアラ。

 僕はなんとなく癪に障ったので父さんを無視した。

「――ふぅむ……。しかし、祐樹ももう十二歳か。早いもんだなぁ」

 父さんはワインの入ったグラスを傾けながら、しみじみとそんなことを言う。

「ティアラがうちにやって来たときが、ちょうど七つのときだったから、あれからもう五年も経ったのか……。祐樹も成長したが、ティアラもまた随分と見違えたもんだ」

 自分の話題になって、ティアラはなんだか照れたように苦笑した。それからグラスが空いていることに気づき、ボトルを手にとって父さんの方にそっと差し出す。

 父さんは上機嫌でティアラの酌を受けながら、優しい声で言った。

「君が望むのであれば、これからもずっとこの家に居て構わない。遠慮なんてしなくていい。僕はもう、ティアラのことも本当の娘のように思っているんだからね」

「……うん。ありがとう、パパ……」

 ティアラから心を込めて〝パパ〟と呼ばれた父さんは、思わず感激して涙を流し始めた。

 そういえば父さんは、ティアラがうちにやって来た当初から、自分のことは〝パパ〟と呼びなさいと、それはもうしつこく言い聞かせていたっけ……。

 父さんはぐずぐずと咽び泣きながら、もともとは息子ではなく娘が欲しかったという衝撃の事実を告白した。母さんとの間に生まれた子供(つまりは僕)が男の子だったので、内心ちょっとガッカリしていたという。そんなことを当の息子である僕に、しかも僕の誕生日を祝う席で話すなんて、どういう神経してるんだよ全く。こっちが泣きたいわ。

 ――――。

 夕食を終えた後は、家族三人でケーキを食べた。

「はい、ゆーき。お誕生日おめでとう」

 そう言ってティアラが差し出してきたのは、昨日買い物に行ったときに彼女が持っていた服屋の袋。中を開けてみると、男物のTシャツとジーンズが入っていた。あれは僕への誕生日プレゼントだったのかと、今さら気がつく。

「ゆーきの趣味に合うかはわからないけど、よかったら着て?」

 色も柄も、僕の好みにぴったりだった。

 きっとティアラは僕の事を考えながら、一生懸命にこれを探して選んだのだろう。

 それなのに僕ときたら、何も知らずにあんな態度を取ってしまって。

「ん……まぁ、いいんじゃねーの」

 罪悪感に苛まれつつも、ティアラを前にするとどうしても素直になれない僕である。

 ちなみに、父さんからはチベットの秘境で出土したという呪いの人形を貰った……。ホントにどういう神経してるんだ。


                 4


 年に一度の誕生日とはいえ、パーティさえ終わってしまえば、呆気ないほどいつもと変わらない日常の空気に引き戻される。

 明日からはまた学校だ。時間割表を確認しながら、ランドセルに教科書とノート、それから宿題も忘れずに詰め込み、風呂に入って、歯を磨いて、僕は就寝の準備を整えた。

 布団を敷いて、明日も早いしそろそろ寝ようかという頃、控えめなノックとともにティアラが僕の部屋を訪ねてきた。

「ねぇ、ゆーき。今日は一緒に寝ない?」

 無邪気な笑顔で臆面もなくそんなことを言うものだから、僕はまたついカッとなった。

「ななっ、なに言ってんだお前!? ふざけんな!」

「え~、いいじゃんたまには~」

 ちゃっかり枕と掛け布団を持参していたティアラは、油断も隙もなくさっさと僕の布団の上に寝転んでしまう。

「ばっ、バカッ! 自分の部屋で寝ろ! おい!」

 一人慌てている僕を上目遣いで見つめながら、ティアラは猫のようにころころと笑い、それから拝むように両手をすり合わせた。

「今日だけ、今日だけだから……ね? 一生のお願い」

 その仕草にすっかりあてられてしまった僕は、それ以上抵抗する気力も失って、ただ顔を背けるのみにとどまった。

「お前、なんか変だぞ……」

「ん~? そうかなぁ?」

「絶対変だ」

 やけくそに言って、僕はティアラの隣にどすんと身体を投げ出した。

「……明かり、消すね?」

 ティアラが電気のスイッチを押すと、深い暗闇が、一気に辺りを包み込んだ。

 衣擦れの音がやけに生々しく聞え、ティアラの柔らかい感触と体温がくすぐったい。

「お前、あんまりくっつくなよ……」

「フフ、たまにはいいでしょ? 一生のお願いだから」

「ったく、何回使う気だっつーの……」

 目が慣れてくると、窓から差し込む月明かりによって、薄っすらと部屋の中の様子が分かるようになってくる。

 ティアラが僕の方に顔を向けていると気づいたときは思わず声を上げそうになったが、寸でのところで堪え、僕は気づかない振りをしながらじっと天井を見つめた。

「ねぇ、ゆーき。少し話そうよ」

「……ん?」

 一瞬、昨日の話の続きかと考えたが違った。

 ティアラが囁くような声で語り始めたのは、何の変哲もない、僕との思い出話だった。

 あんなことがあった、こんなことがあったと、まるで他愛のない記憶を一つ一つ手にとって確かめていくように、ティアラは五年間の思い出を順繰りに紐解いていった。

 僕も時折茶々を入れながら聞いていたが、ティアラの声が、体温が、感触が、心地良くて、いつの間にかまどろんでいた。

「……」

 夢と現の境目で、彼女の手のひらが、僕の前髪を弄ぶように撫でていく――そんな感覚があった。この上ない幸福感に包まれて、僕はただただ、意識の底へと沈んで行く。

 そうして眠りに落ちる寸前、僕は最後に、彼女の声を聞いた。――

「おやすみ……」


 ――そして、別れは唐突に、非情なまでに断固として訪れた……。


「ん……――」

 僕がふと目を覚ましたとき、辺りはまだ夜も明けぬ暗闇に包まれていた。

 寝惚けた頭で考える。別に喉が渇いたわけでも、トイレに行きたいわけでない。

 眠たくてたまらないのだが――。

 おかしい。何かおかしい。

 ――部屋の中に誰かいる。それも一人や二人ではない、複数の人間の気配。

 一体なんだろうと首を捻り、僕はそこで、異変の正体に気がついた。

「――ッ!?」

 ヒトの形をした五つの黒い影が、忽然と、僕の枕元に立っていた。

 ぎょろっと蠢く目の玉が、じっと観察するように、こちらを見下ろしている。

 途端に背筋が凍りつき、鳥肌が立った。

 僕が思わず声を上げて起き上がろうとしたとき、すっと横から伸びてきた白い手が、僕の口元を塞ぐ。直後、頭の中に声が響いた。

〝声を出さないで。そのまま静かに、寝たふりをしていて〟

 ティアラの声だった。

 もうなにが何だかわからなくて、僕はとにかく彼女の指示に従った。

 寝たふりをしながら薄目を開けて、こっそりと五つの黒い影を観察する。

 暗くて顔まではよく見えなかったが、シルエットとその声から、大体の特徴は掴めた。

 ――坊主頭で、僧侶のような格好をした巨漢。

 ――アフロヘアーで、ラメの入ったパンタロンと厚底ブーツを履いたひょろ長い男。

 ――髪の毛をつんつんに逆立てた一見パンクロッカー風の男。

 ――フリルのついた日傘を差し、中世ヨーロッパのお姫様みたいな格好をした女。

 ――……そして、恐らくは彼らのリーダーであろう、真ん中に立った黒いスーツの男が、不意に口を開いて言った。

「探したぞ、アテーナー……」

 アテーナー? それは、ティアラのことだろうか。

「来ると思っていたわ」

 膝を折って立ち上がったティアラは、影のような五人の人物と対峙している。

 ティアラはこいつらを知っているのか? こいつらは一体、何者なんだ? ――様々な疑問が、僕の脳内を駆け巡る。

「……フゥム、しばらく見ンうちに、随分と様子が変わったようだな」

 坊主頭の巨漢が、ふと顎に手を当てながら興味深そうに言った。

「以前はもっと無機質で、冷たく澄んだ水晶のような佇まいであったと思うが……」

 ティアラは彼らを睨みつけたまま答えない。その表情には怒りと嫌悪が浮かんでいた。

「そりゃあ五年もあったんだもの。人間の真似事でも覚えたんじゃなくて?」

 アフロヘアーの痩せ男が、妙に腰をくねらせながら、気持ちの悪い女口調で嘲笑う。

「けっ、人形風情が! 俺たちを五年も待たせやがって! 帰ったらたっぷりとお仕置をしてやるぜェ……。クックック! なんなら今ここで、手足の一二本捥いでおくかァ? また逃げられたんじゃ、かなわねぇからよぉ?」

 つんつん頭の凶暴そうな男が、嗜虐的な声音でじゅるじゅるっと舌なめずりをする。

 お姫様のような女が、俄かに冷笑した。

「それよりも、そこで寝たふりをしている坊やを弄った方が、効果がありそうですわ?」

 凶々しく笑う女と目が合い、僕はゾッとして布団から跳ね起きた。

「……う、うわあぁっ!!」

「ゆーき!」

 ティアラが僕を庇うように両手を広げる。

「ティアラぁ!」

 僕は怖くて、震えながらティアラに縋りついた。

「あらあら、これはこれは麗しい人間愛だこと……クスクスクス!」

 女の冷酷な囀りを聞きながら、僕はそのときハッキリと理解した。

 ――こいつらは、敵だ。

 ティアラが振り返り、男たちに訴える。

「この子は関係ない! この子には手を出さないで!」

「それは貴様次第だ、女神(アテナ)よ」

 リーダー格の男が、冷静沈着な声で返答した。

「一応言っておきますけど、この期に及んで逃げようなんて考えは起こさない方が賢明ですわよ?」

 ひらひらとレースの傘を回しながら、女が優雅な口ぶりで警告する。

 坊主頭の大男が、むっつりと顔をしかめながら厳かに言った。

良心回路(ロゴス)に縛られた貴殿では、どのみち我々に傷一つ付けられん。いかにすべての能力を操ることが出来ようとも、我ら五人が相手では、万に一つも勝機はあるまい」

 アフロヘアーの男が、気色の悪い仕草で「ち・な・み・に♪」と付け加える。

「時間を稼いで、タイムアップを狙ってもダメよん?」

 つんつん頭の男が、鋭い犬歯を剥き出しにして醜く哂った。

「もしもゲートが閉じちまったら、そんときは次に扉が開かれるまでの五年間、俺たちはこの世界をぶっ壊す! もちろん、そのクソガキを真っ先に縊り殺してからなァ!?」

 ティアラは悔しさを噛みしめるように一度目を閉じ、リーダー格の男に向かって言った。

「私は逃げも隠れもしない……。だから約束して、この子には手出しをしないと……」

「いいだろう」

 男は頷き、ポケットから禍々しい装飾のついた金属性の小さな輪を取り出した。

「念のためだ。貴様の能力を封じさせてもらうぞ」

「ええ……」

 なんだ、あれは。――考える間もなく、男の手元から消えたそれが、いつの間にかティアラの首筋にがっちりと食い込んでいた。

「くっ……!」

 彼女は忌々しげな表情で架せられた首輪に手を触れ、それから男に言った。

「この子と、最後のお別れをさせて」

「……時間がない。早くしろ」

 ティアラは振り返り、しばし放心していた僕に目線を合わせた。

「ごめん、ゆーき。これでお別れみたい」

 彼女の言葉に、わけもわからず涙が溢れ出した。

 こんなのってない。こんなの納得できないと、僕は号泣しながら訴えた。

 しかし彼女は寂しげな表情で「ごめん」と繰り返すだけ。それ以上は、何も教えてくれなかった。

「ゆーきは、私のこと嫌いになっちゃったかもしれないけど……それでも私は、ゆーきのことが大好きだよ」

 ティアラの手が、泣きじゃくる僕の頭をくしゃくしゃと撫でる。

「大きくなったね、ゆーき……。私がいなくても、もう大丈夫……」

 僕は激しく首を振って、そんなことはないと叫んだ。ティアラがいないと駄目なんだよと。僕は最後の最後で、本当の気持ちを彼女に伝えた。だけど、もうすべてが遅すぎた。

 彼女の胸に抱かれながら、僕はただ、赤ん坊のように声を上げて泣いた。

 悲しみを、切なさを、悔しさを、やるせなさを、もどかしさを、腹の底からぶちまけて。

 背中に回されたティアラの腕が、宥めるように僕の肩を優しくさする。

「たくさんたくさん、泣いたらいいよ……。そうして流した涙の数よりも、一つだけ多く笑うの。一つ泣いたら、二つ笑って、二つ泣いたら、三つ笑う。――ゆーきは泣き虫だから、誰よりもたくさん、笑えるでしょう?」

 ティアラは目にいっぱい涙を浮かべながら、それでも美しく微笑んだ。

「私のこと、忘れないで……」

 ティアラの唇が――そっと僕の唇に触れて――離れる。

 握られた手のひらに、硬くて冷たい感触があった。

「……バイバイ、ゆーき。元気でね」

 痛切なまでに優しく慈愛に満ち溢れた笑顔。涙が一筋、彼女の頬を濡らす。

「時間だ」

 男が終焉を告げ、机の引き出しが開かれた。

 眩い光が溢れ出す。ティアラの背中が遠ざかる。

 どうにもならないと頭では分かっていながら、それでも手を伸ばそうとした僕は、どうしようもなく愚かだった。

「ティアラ!!」

 弾かれるように立ち上がった僕は、ティアラのもとに走り出した。

 光に包まれながら、彼女がはっとして振り返る。

「――ゆーきぃい! ダメぇええ!」

 どん、と頭を小突かれて、僕は床に転がった。目の前を見上げると、リーダー格の男が僕の前に立ち塞がっている。

「やめて! その子に乱暴しないで! お願い!」

 僕のもとに駆け寄ろうとするティアラを、つんつん頭の男が力任せに押さえつけた。

「チッ、てめぇ暴れんじゃねェ!! 殺すぞ、おらァ!!」

 やめろ、ティアラに乱暴するな。

「ゆーき! ゆーきぃいい!! いやぁあああ!!」

 僕の前に立ち塞がった男が、低く押し殺した声で背後の仲間たちに告げた。

「……先に行け」

 男の指示で、他の四人はティアラを連れ去り、光の中に消えて行く。

 僕は眼前の男を睨みつけ、力いっぱい拳を握り締めた。

「ティアラを返せ!」

 男は冷ややかに激昂する僕を見下ろしながら、言った。

「小僧。貴様も男なら、大切なものは力尽くで取り返してみろ。俺を倒し、あの光の中に飛び込めば、まだ後を追えるぞ?」

「このヤロォオオ!!」

 間髪入れず、僕は男に飛び掛った。握った拳で思い切り男の胸板を殴りつけ、足を蹴飛ばそうとした。だが、男の体躯は数百年の樹齢を誇る大木のようにビクともしない。

「現実を知れ」

 男の強烈な掌打を食らった僕は軽々と吹き飛び、押入れの戸にぶちあたって布団の上にぼとっと転がる。

「ガ、ァ……っ!」

 心臓が破裂しそうなほど早鐘を打ち、肺は痺れてもうろくに息を吸うことも出来ない。

 たった一発殴られただけで、僕はもう体に力が入らなかった。体格も、力も、技も、すべてにおいて僕とその男との間には、天と地ほどの開きがあったのだ。

 男が落胆したような表情で、倒れた僕の頭をぐりぐりと踏み躙る。

「貴様が何故、奪われるのか――教えてやろう。それは貴様が弱いからだ。どうしようもなく愚かだからだ。あまりにもちっぽけで、滑稽なほどに無智だからだ。弱者は強者に奪われる――それが世界の理だ。それ以上の道理など、今の貴様は知る権利もない」

 僕は己の不甲斐なさをひしひしと噛み締めながら、男からの蹂躙を甘んじて受け容れた。

「――欲しい物は相手を殺してでも奪い取れ。邪魔者は八つ裂きにしてでも排除しろ。それが出来ぬなら、望みを捨てろ。叶わぬ想いなどあるだけ無駄だ。すべてを捨てて、ただ蛆虫のように地を這い一生を過ごせ」

 そのとき階下から、父さんの声が聞えてきた。

「おい、祐樹。何かあったのか?」

 暢気に階段を上がってくる父さんの足音を聞きつけ、男は脱力したように呟いた。

「……フン、ゲームオーバーだな。ボーイ」

 僕は薄れゆく意識の中で、男が光の中に消えて行くのを見送った。

 光は弱まり、やがて収束する。彼女との思い出なんて、欠片も残さずに。

 僕は気絶する最後の瞬間まで、ティアラのことを、考えていた……。


                 5


 翌日、僕は病院のベッドで目を覚ました。顔を強く殴られた僕は脳震盪を起こしていたらしい。父さんは深刻な面持ちで僕に尋ねた。「一体、何があったんだ」と。

 僕はティアラから聞いた彼女の正体と、昨日起こった出来事のすべてを、ありのままに打ち明けた。話しているうちに忘れていた感情が込み上げてきて、僕はまた涙を流していた。父さんはそんな僕の話を、最後まで真剣に聞いてくれたあと、ふっと僕の方に手のひらを差し出した。

「気絶したお前が、ずっと握り締めていた物だ……。彼女が残して行ったんだろう……」

 そこには金色の大きな宝石がきらきらと輝いていた。

 もともとはティアラの頭飾りに付属していた物だったが、後年あれはちょっと目立ちすぎると感じたみたいで、彼女はこの宝石の部分だけを取り外し、いつも胸のところにブローチとして身につけていた。

 僕は父さんから受けとった彼女の名残を抱き締めて、もう一度、決別の思いを込めてさめざめと泣いた。泣いて、泣いて、泣き疲れて。――

 ――そして、決心した……。

 必ず迎えに行く。

 どんなことがあろうとも、必ずティアラを取り戻してみせると。

 僕は彼女の残して行った宝石の光輝に、心からの誓いを立てた。

 ――…………。

 あれから矢のように時が過ぎ、僕は高校二年生になっていた。

 背丈はぐんと伸び、顔立ちはすっかり大人びて、それなりに筋肉もついた。

 あの日、嫌というほど思い知った自らの無力さと悔しさをバネに、僕は己を変えようと努力した。僕がじっと塞ぎ込んだまま、いつまでも過ぎ去った過去を見つめながら生きてゆくようなことは、きっと彼女も望まないだろうと、そう思ったからだ。

 勉強も運動もたくさんやった。中学に入ってからは近くの道場に通い空手を習った。生来、運動神経が悪いものだからなかなか上達しなかったが、それでも今では街の不良を相手に一対一で勝てる自信くらいはある。

死ぬほど苦労して都立の進学校に入り、友達もたくさん出来た。

 だが僕の人生が順調に好転してゆくのとは裏腹に、彼女の行方は一向に掴めなかった。

 何しろ、手掛かりが少なすぎる。

 彼女は違う世界からこちらの世界に渡って来たと話していた――つまり、彼女を取り戻すためには、今度はこちら側からその世界に渡航しなければならないということだ。

 向こうの世界は、ここよりもずっと技術発展が進んでいたようなので、世界線移動など造作もないのかもしれないが、当然のことながら僕のいるこの世界ではそんなこと不可能である。そもそも、異次元世界が存在するということ自体、俄かには信じられない。

 唯一の手掛かりは、あの赤い鉱石だった。

 ティアラが現れたときと去ったとき、どちらも状況的に考えて、父さんから貰ったあの不思議な石が無関係でないことは、大方見当がついていた。

 そちらに関しては僕に手伝えることはあまりなく、父さんが骨を折ってくれた。

 専門的な機関に持ち込んで石を分析してもらったり、あれが出土したというギリシャのオリンポス山まで直に足を運び、現地で色々と情報を聞き込んでくれたり、兎に角ありとあらゆる手段を講じて、父さんは彼女の足取りに繋がるヒントを模索してくれた。

 しかし、結局、何一つとして成果は上がらないまま、気づけば既に、数年の時が経過していた……。

 それでも――まだ絶望というわけではない。

 ヒントは、僕の記憶の中に残されていた。

 一つ目はティアラの語った過去回想の一節。

 二つ目は、あの忌々しいつんつん頭の男が、ティアラを脅すために吐いた台詞。


〝――だから私はこの世界にやって来たの。五年に一度開かれるという、異次元世界へのゲートを潜って……〟


〝もしもゲートが閉じちまったら、そんときは次に扉が開かれるまでの五年間、俺たちはこの世界をぶっ壊す!〟


 ――五年……。

 そう、思い返してみれば最初にティアラが現れたのは、僕の七歳の誕生日。

 そして影のような男たちが現れ、ティアラを連れ去ったのが、僕の十二歳の誕生日。

 その間、どういうわけかピッタリ五年だ。

 ふとその仮説が脳裏を過ぎったとき、これほど単純で安易な考え方もあるまいと、思わず自嘲の笑みがこぼれたのを今でもよく覚えている。

 一体どのような仕組みによって異次元跳躍が可能なのか、その世界線の座標は一体どこにあるのか、そんなことは何一つとして解らない。

 ただ、僕は二人の僅かな証言をもとに、たった一つ、仮説を立てた。

 何らかの理由によって、異次元世界へと通ずる(ゲート)は、五年を周期に開かれるのではないかと……。

 はっきり言って根拠も何も無い、ただの希望的観測だ。

 しかもそれを証明できる機会は、五年に一度しか訪れないという制限まで付いている。

 それでも、思いつく限りの手管を尽くして、そのすべてが無駄に終わった今、最早そこに望みを賭ける以外、道は無かった。

 だから僕は待った。

 期待と諦念の板挟みに遭いながら、ただひたすらにその時を待ち続けた……。

 そして迎えた、十七歳の誕生日。――

 父さんと二人、厳かに夕食を取ったあと、僕はかつてティアラの私室としてあてがわれていた部屋に、ふと足を運んだ。

 部屋の内装は、五年前、ティアラが去ったときから、ずっとそのままにしてある。

 机と箪笥とベッドがあるだけの、殺風景な部屋。

 机の上には、いつか僕があげたあのダルマの置物が、場違いなまでに暢気な顔をして、今もぽつんとそこに座っている。

「……」

 ゲートが開くとしたら、それは恐らく今日の深夜ということだ。それまでには、まだもう少し時間がある。だが、僕はどうしようもなく不安になっていた。

 もしもこれで駄目だったら、もう彼女のことは、諦めるしかない……。

 明かりは付けずに、机に突っ伏し、僕は軽く指でダルマの頭をつっついた。

 こっくり、こっくり、前後に揺れるダルマを眺めながら、彼女のことを想う。


〝ゆーきは初め、他の子たちと比べて色んなことが出来なくて、たくさん躓いたでしょう? だけどその度にちゃんと自分の力で起き上がって、少しずつ大きくなって行った……。だからね? この子を見ていると、なんだか躓いてばかりだった頃の、ゆーきを思い出すの……――〟


〝たくさんたくさん、泣いたらいいよ……。そうして流した涙の数よりも、一つだけ多く笑うの。一つ泣いたら、二つ笑って、二つ泣いたら、三つ笑う。――ゆーきは泣き虫だから、誰よりもたくさん、笑えるでしょう?〟


「ティアラ……」

 ダルマの置物を頬に当たるまでぎゅっと引き寄せ、僕は祈るような気持ちで、ただじっと静謐の中に身を沈めていた。

 緊張で昨日の晩ほとんど眠れなかったツケが、今頃になってまわってきたのだろう。

僕はいつしか、浅い眠りに落ちていた。


                 6


「……っ!?」

 不意に、階下から僕を呼ぶ父さんの声が耳に届き、はっと我に帰る。

 壁にかかった時計に目をやると、既に時刻は深夜の二時を過ぎていた。

「祐樹! ちょっと来てみろ!」

 転がり落ちるように階段を駆け下りて、僕は父さんの書斎に飛び込んだ。

 そして思わず、息を呑む。

「――」

 あの赤い鉱石が、熾火のように燃えて、ゆらゆらと光っている。

信じられなかった。この五年間、常に手元に置き観察していたが、今まで一度だって光りを発した試しなどなかったのだから。

「発光現象は、つい今しがた始まったばかりだ」

 父さんが腕時計を確認しながら、そう報告する。

 僕はふらふらとその光に近づこうとして、もう一つ別の光源に目を奪われた。

「これは……!」

 胸のブローチが、まるで何か訴えかけるかのように光を放つ。

 言うまでもなく、ティアラが残して行った金色の宝石だ。

 僕はあれ以来、肌身離さずこれをブローチとして身につけていた。

 赤い鉱石の放つ光を、陽炎のように揺らめく原始の炎だと例えるならば、こちらはもっと人工的で、真っ直ぐに研ぎ澄まされた白金の輝き。

 それにしても、この部屋に来るまでは、確かに何も起きていなかったはずだが。

「……共鳴、しているのか」

 父さんの呟きからヒントを得て、僕は試しに一歩、二歩と、足を踏み出す。

 二つの石は、双方の距離が近づくにつれ、徐々にその光量を増して行った。

 そうしていよいよと、手が届く範疇にまで達したとき。――

「――くッ!」

 一瞬、静電気のような反発を感じたかと思えば、空間に僅かな歪みが出来ていた。

 静かな湖面に広がる波紋の如く、ぐにゃぐにゃと目の前の景色が捻じ曲がっている。

 僕はそれを見て、異次元世界へと通じる扉が開かれようとしていることを半ば直感した。

 発光現象がそう長く続かないだろうということは承知している。急がなければ。光が消えてしまっては元も子もない。

 殊更に逸る気持ちを抑えきれず、僕は思い切ってその石を掴み取ろうと、手を伸ばす。

「祐樹」

 父さんの声に、僕は動作を中断し、振り返った。

「……行くのか?」

 何を今更、そう口に出しかけて思いとどまる。

 そのときの、真っ向から僕を見つめる父さんの表情は、真剣そのものだった。

「お前には、あれから血の滲むような努力を積み重ねて手に入れた現在(いま)がある。もし仮に、お前が今の世界を受け容れて過ごす選択をしたとしても、俺は咎めない……。恐らくこの場にいれば彼女だって同じ事を言ったはずだ。無事向こうの世界に辿り着けたとしても、そこで彼女を助け出せるかどうかはわからない。どんな危険が待ち受けているかも未知数だ。……もしかしたら、お前はそこで一生を棒に振って過ごすことになるかもしれないんだぞ。――それでも、お前は行くのか?」

 その問いに答える義務が、僕にはあった。

 これは、僕自身への訓戒でもある。

 大きく息を吸って、吐き、僕は父さんと向かい合った。

「行くよ」

 明瞭な声で、ハッキリと告げる。

 そして、僕は父さんに向けて、にっこりと親愛の笑みを形作った。

「だって僕は……冒険好きな父さんの息子だから」

 その言葉に一瞬目を丸くした父さんは、直後にぷっと吹き出して「こいつは一本取られたな」と、小さく笑った。

 それから「ちょっと待っていろ」と言った父さんは僕に背中を向け、傍らにあった金庫から、何やら大急ぎで取り出してきた。

「こいつを持って行け」と。

 父さんから投げ渡された物を受け取って、僕は少しばかり驚く。

 それは――ホルスターに収まった回転式拳銃と、弾薬の入ったポーチだった。

「向こうでは何があるか分からんからな。護身用だ」

 父さんに手伝って貰い、僕はホルスターを肩から提げ、ポーチを腰に巻く。

 それから今一度父さんの方を向き直って、出発の挨拶をした。

「行ってきます!」

「ああ、気をつけてな。必ず帰って来い。もちろん、ティアラと二人でな?」

 優しく微笑む父さんに、僕は真っ直ぐな意志を込めて、最後にしっかりと頷いた。

 そして――。

 …………

 ……

 …


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