Ⅲ
窓を開ければあまり暑いとは感じず、ある程度過ごしやすくなったある日。朝のホームルームの前に斉藤が本を読んでいると、一人の男子生徒が話しかけてきた。
「斉藤君。少し前から阿見君のようすが変だけど、何か知らない?」
笑顔を浮かべている男子生徒の顔は、見覚えのある顔だった。彫の深い顔立ちに、学校の規則を真面目に守った短髪。同じクラスの人間だったと思うが、名前は思い出せなかった。
今まで話したことがないのに、いきなり話しかけてきたことに伊那のときと同じく不信感を持った。さらに斉藤が一言も言葉を発していないにも関わらず、人あたりの良さそうな笑みを浮かべているのが不気味で、理解が出来なかった。
何が目的で自分に話しかけてきたのだろう、と斉藤は思った。その理由を知りたいという欲求が斉藤の中で増殖していき、四足を支配し、体を動かした。
「斉藤祐也です。そっちは?」
伊那のときには失敗したが、斉藤の頭では、自己紹介以外に他人と握手する方法が浮かばなかった。手を前に出して握手を待つと、男子生徒は一瞬戸惑い、斉藤の顔を見てから握手をした。
「あぁ、名前か。小田隆で……」
サラリーマンのような営業スマイルを浮かべながら握手をした小田の動きは、話している途中で止まった。小田の意味の分からない作り笑いを見ていると、どうしてこんな笑顔を作っているのかが理解できなくて不安になる。しかし、これからその理由が分かると思うと、斉藤の心は安心感で満たされた。
自分の中に入ってくる他人の思考を感じながら、安堵した心に黒い何かが一滴垂れた。
(皆に平等に、そして礼儀を持って接しなければいけない。決して侮辱せず、全てを受け入れる巨大な器を持って接しなければいけない。それにも関わらず、阿見雄介。何なんだ、あいつは! 僕が全てを受け入れる巨大な器を目指していることを良いことに、自我、自我、自我と。ウザい! 邪魔だ! クソだ! 消えっちまえ! 斉藤裕也。お前なら分かるだろ! あいつがどれだけ邪魔で、クソな奴か。同意するだろう? さぁ、話そう! あいつはガラクタのように壊れた! お互いの共通する敵を非難して、楽しもう!)
小田の彫の深い顔に浮かんでいる優しい笑みに、斉藤は軽蔑の眼差しを向けながらナインの言葉を思い出した。
『人間は弱いな。自分ではない第三者の容認なしでは、自分という存在すら明確に確かめることすら出来ないとは……』
そんなにまで自分を認めてくれる存在が欲しいのか。自分で思ったことを、感じたことを、自分という存在を信じて貫くことが出来ないのか、と思い、斉藤は失望した。そして、願った。
(壊れてしまえ。僕を自分の肯定する道具だと思っているような奴は壊れてしまえば良いんだ!)
斉藤の願いと共鳴したように、握手をしていた手から小田の手が落ちるようにして離れた。小田のようすを見ると、定まらない視線でどこかを見ている。どこを見ているか分からない状態のまま、夢遊病の患者のように力なく斉藤から離れていった。
その日の放課後。斉藤は教室の掃除をしていた。斉藤のクラスの掃除当番は週ごとに変わり、当番の数名が教室の掃除をするというルールだ。斉藤はその週の掃除当番人だったため、掃除をしているのだ。
掃除が終わると、斉藤以外の他のメンバーはすぐに掃除用具を片付けて帰ってしまった。そのため、斉藤は教室で一人になってしまったので、教室の鍵を閉めなくてはいけなくなった。
斉藤が校門を通る頃には部活に入っている生徒は部活を始め、入っていない人はもう帰った時間になっていた。そのため辺りに生徒の姿はなかった。遠くから聞こえる運動部の掛け声を聞きながら校門を通ると、一人だけ世界から省かれたような気分になった。孤独を身にまとい歩き出したときだった。
「斉藤君……」
後ろから女子の声がした。誰にも会わないと思っていたので、斉藤は驚いて目を見開いたまま振り返った。すぐ後ろの校門の近くに伊那が一人で立っていたのだ。伊那の表情は以前見たような無邪気な笑みでもなければ、真面目な表情でもない。以前話したときには見られなかった表情だ。その表情が喜怒哀楽のどれを指しているのかは、斉藤には分からない。しかし、伊那の雰囲気が尋常ではないということだけは分かった。何かを決意し、体の奥深くにある巨大な力が体から滲み出ているような雰囲気だ。
「どうしたの?」
普段の斉藤ならば振り向いても言葉を続けなければ、すぐに歩いて帰ってしまっていただろう。だが伊那の雰囲気に怖気づき、平然を装って聞いてしまったのだ。
「ついて来て」
それだけを言うと伊那は斉藤の下校道とは違う方向に歩き始めた。斉藤がどうしようか迷っていると、伊那は少しだけ振り向き、呟くように言った。
「早くして。ナインに祝福された人」
僅かに見えた横顔には、握手を拒否したときのようないたずらな笑みが浮かんでいた。
「どうしてナインを!」
「……」
伊那は斉藤の言葉には反応せず、再び前を見て歩き始めてしまった。どうしてナインを知っているのかが分からず心が乱れた。ただ分かるのは、無理やりにでも手を交わらせて伊那の考えを知り、壊さねばならないということだった。
伊那の後を追いながら手を交わらせようと何度か思ったが、伊那から感じる何か強い意志のようなものに負けて実行に移すことが出来なかった。無言のまま伊那の後をついて行くと通学路から遠く離れた、人通りがほとんどない道まで来ていた。辺りの建物は老朽化が進み、外階段が歩くことが出来ないほど錆びたビルとシャッターが閉まっている店しかない。もはや誰も近づこうとしない場所にまで来ていた。
以前にこの場所は恐喝が起きたこともあるからあまり近づかないように、と先生が言っていた場所だったことを思い出した。
伊那はそんな治安の悪い場所であるにも関わらず、堂々とした態度で進んでいく。すると、周囲のビルに比べれば少しだけ大きい廃ビルと廃ビルの間の細道に入っていった。
左右を高い壁で囲まれているため、太陽が当たらないその道には空き缶やペットボトル、タバコの吸い殻などが散乱していた。そんな清潔感の欠片もない場所に来ると、伊那はやっと足を止めた。
「斉藤君、前に私が言った言葉を覚えている?」
今、斉藤の心の大部分を支配しているのは、伊那に対しての疑念だ。それ以外では今日知ることが出来た小田の考えの根本だけ。それ以外は頭の中にほとんどなく、質問への答えを思い出せず言葉に困った。
「その様子だと覚えてないんだね」
伊那は斉藤を見ると、呆れたようにため息をついた。そして、冷たい眼差しを向けた。
「人間関係が壊れた理由として、意見の相違とか、喧嘩とか、二人の間で起こったことが原因ならば問題ない。でも、もし何か違う要因があるのならば、それを取り除かなくてはいけない。そう言ったの」
言われてみれば、確かにそんなことを言われた気がした。だが、斉藤にはその話がなぜ出てきたのが分からなかった。
「確かにそう言われた気がする。だけど、その話では僕をここに連れてきた理由にならないよ」
伊那は肩を震わせながら一旦地面を見た後、顔を上げ、斉藤を睨んだ。
「あれは警告だったのに分からなかったんだ。阿部君と小田君の人格の崩壊。あれはナインの力を使ってあなたが行ったことでしょ? それが人間関係を壊した場合、取り除かなければいけない要素だってことが分からないの!」
伊那の言葉には斉藤への敵対心と理解できないものへの嫌悪感が混ざっていた。
斉藤だって二人の変化について少しは気にしていた。だが、自分のことを自己肯定の道具としていたことに罰が下ったと思い、納得していたのだ。
「奴らには罰が下っただけだ! それよりも来る最中にも聞いたが、お前はどうしてナインの知っている?」
伊那は憤怒の形相で答える。
「罰って……。ならば、斉藤君にも罰を下さないとね。私は肯定を司る者『然り(ヤー)』
の祝福を受けた者だから。あなたみたいに否定を司る者『否定』の祝福を受けた者とは違うの」
初めてナインに出会ったとき、確かに自分のことを讃嘆するように否定する者と呼んでいたことを思い出した。確かに否定する者を褒め称え、同意し、協力する姿は否定を司ると言っても問題はないように思えた。すると、ヤーというのは伊那のことを肯定する者と呼んで讃嘆したものなのだろう。
「ならばどうする? 否定者である僕をどう罰する?」
「斉藤君は他人の人格を壊す武器を与えられたみたいだけど、私の武器は肉体破壊。つまり死亡。私の正義に背いた者として死を持って清算してもらうしかないよね」
冗談のように聞こえたが、確固とした決断であるとき特有の安定した声音だった。
今まで斉藤が壊してきた二人の様子から、ナインの力を使えば人格を壊せることは分かっていた。そして、伊那はヤーの力を使い人間の肉体を破壊するということだ。ナインの力が真実であるのと同じく、きっとヤーの力も本物だ、と思った。
「正義ってなんだよ。どうやって正義に反するか決めるんだよ! そんな不確定な物のために殺されてたまるかよ!」
死という概念が脳の中でウィルスのように繁殖し、冷静さを脳から奪っていく。
「斉藤君が与えられた力がどんなものかは知らないけれど、私が与えられた力は視界に入った人物に対して、私の中に確固として存在する正義に反するか否か、それを判断する能力。だから、そこに不確定な要素はないよ」
その言葉に曇りはない。本当にヤーから与えられた武器を使い、斉藤を殺す気だ。斉藤が抑えておける冷静さは、もはや無いに等しかった。もう無理やりにでも手を交わらせて
、伊那を壊すしかないと決意した。作戦など何もなく、ただ恐怖を無くすという目的のために足を一歩踏み出した。もう片足を動かそうとしたとき、バン、と伊那が呟いた。すると、踏み出した片足の感覚が無くなり、力が抜けた。バランスを一瞬で失った体は、そのままゴミの散乱する地面に倒れた。何が起こったのかが分からず叫んだ。
「何をした!」
倒れたときに顔面を地面にぶつけてしまったため激痛が走っていたが、何をされたのかが知りたく顔を動かして伊那を見た。伊那は手をピストルの形にして斉藤に向けていた。出血をしているのではと思い、斉藤は恐る恐る感覚の無い片足を触った。血を触ったとき特有のぬる暖かい感覚を探して足を触り続けるが、見つからない。
「私の武器では外傷は出来ないから大丈夫だよ。ピストルの形にした手を向けて、バンと私が言うと、指が指していた体の部分が壊死するの。それが私に与えられた武器」
地面に倒れ込んでじっとしていると、飲み捨てられた缶やペットボトルと同じように、まるで人間に捨てられたゴミになった気分になる。伊那を睨みながら必死に腕を動かし、その感覚を薄めようとした。
一生懸命に地面を這いずりながら近づいて来る斉藤を嘲笑しながら、伊那はピストルの形にした手を斉藤の頭に向けた。
「それ以上動いたら撃っちゃうから、動かないほうが良いよ。頭を撃つと脳死だよ」
斉藤は射るような視線を伊那に送ったまま、腕の動きを止めた。
「肯定を司る然り(ヤー)に祝福されたというならば、僕という存在を肯定してくれ! 不安だったんだ。他人が何を考えて生きているのか分からないのが。だから知ろうとしたんだ。ただそれだけなんだ。存在を肯定する価値はあるだろう」
死を回避するためならば、どれだけ惨めでも関係なかった。ただ生を継続したい。その願いが四足だけでなく、斉藤の心までも支配したのだ。しかし、斉藤の目には僅かにだが刺すような視線が残っていた。
伊那は斉藤の言葉に声を出して笑った。少し経ってから笑いを必死に抑えると、斉藤を楽しそうに見ながら説明した。
「本当に何も知らないんだね。ヤーとナインが司る肯定と否定というのは、その言葉が意味する全てではないんだよ。自己肯定と自己否定だけを指しているんだよ」
その話がもし真実ならば、おかしいと斉藤は思った。斉藤は他人を理解できないから、それを知りたいという願いを持っていた。自身が持っていた願いを叶えたのだから、自分を否定してはいないと思ったのだ。
「他人の考えが理解できなくて不安だから、理解しようとする。理解して不安を無くそうとする。そのどこが自己否定に繋がるんだよ」
伊那は蔑むように斉藤を見た。
「他人をどうして理解しようとするの? どうして理解できないと不安なの?」
「相手のことを理解していれば、何を話せば良いか分かる。何をすれば良いのか分かる。分からないと会話が出来ないんだ。何を話せば良いのか、何をすれば良いのか、全然分からないんだよ!」
自分の中にある恐怖を吐きだした斉藤を見て、伊那の目に哀れみが混じり始めていた。
「相手に合わせて行動や発言に制限をかけるって、あなたは話し相手の奴隷? あなたは自分という個人を否定して、相手に合わせたご機嫌伺いをする、偽りの自分を作ろうとしている。そんな奴隷的な発想だからナインに祝福された」
自分が目指していたこと。それが奴隷的な発想だと言われ、斉藤は返す言葉を失った。
「私たち人間は自分という存在を信じ、定められたルールの中で、利己的に、刹那的に、能動的にあるべき存在なんだよ」
「僕の考えが奴隷的というのなら、どうして主人となる話す相手を壊す武器を持っていたの?」
「あなたの力は他人を理解すること。なら理解した相手に許せない何かがあったんだね」
斉藤は阿見と小田を壊したときの引き金となった共通点を思い出した。
「二人とも僕を自己肯定の道具としていた……」
それを聞くと、伊那は苦笑いを浮かべた。
「自分という存在を無意識の内に否定しているのに、そんな自分に依存されるのが嫌だったのね」
二人の間に短い沈黙が流れた。その間斉藤は目を瞑り、今まで伊那に言われていた言葉を心の中で再生した。目を開けると腕を動かし始め、伊那に近づこうとした。
ピストルの形にした手で斉藤の頭を指さしながら、伊那はまるで子供の遊びのような軽い言い方で斉藤に終わりを告げた。
「バン」
正義という言葉がありますが、それは人それぞれ中身が違います。
意志の弱い人は他者の正義に隷属し、自らの正義を捨ててします。
自分を否定して他者と同化しようとするものなど生きていないも同じだろ。
そんな感情で書かせていただきました。
小説を出すのは初めてですので、変な文というのが多くても気にせずに読んでいただけると
嬉しいです。