Ⅱ
ナインと出会った翌日の朝。
蝉しぐれを全身に浴びながら、斉藤は席に座って本を読んでいた。
時間が経つにつれて教室が騒がしくなるのを感じると、あと少しで自分の元に来る友人のことを考え、心に嫌悪感が泉のように湧いた。
「昨日、部活の先輩が意味分かんないんだよ!」
話しかけてくるなり、同じ部活でもないのに部活の先輩の愚痴を話し始めたのは阿見雄介だ。肩にかかっているほど伸びた髪は整えられておらず、ぼさぼさ。それにも関わらず前髪だけは気になるらしく、青色の髪留めを使って分けている。以前髪を切ることを勧めたら、金がない、と言われたので、それ以来髪の話はしなくなった。漫画が好きで月に十冊以上の漫画を買っているらしい。そのお金を髪の毛を切るのに使えば良いものを、と斉藤は思っていた。
阿見は斉藤が何も言っていないにも関わらず、部活の先輩の愚痴を言い続けている。
話を聞いていると、所々言い方が普通とは違っていて、阿見の頬が微かに動くときがある。たぶん自分が面白いと思っている話なのだろう。面白くはなくても、こちらが頬を無理やり釣り上げると、阿見は満足そうにどうでもいい話を続ける。
阿見の話は、だいたいが部活の先輩の愚痴と自分が読んだ漫画の批判だ。話の大半は理解できず、ただ黙って聞いて時々笑うぐらいしか出来ない。理解できない愚痴や批判を淡々と聞かされ続ける日々は、自分を偽り続けるようで心を削られた。
どうしてそんな話を続けるのだろうか、と斉藤はずっと疑問だった。ナインの力が本物ならば、反吐が出るような不快な会話の原因が分かる。原因さえ分かれば、抗える。この怠惰で心を削られるだけの会話から解放される。
斉藤は自分の体が興奮で熱くなるのを感じながら、震える声で阿見の話に割り込んだ。
「手の大きさを比べないか?」
自分の話に割り込まれたことに気を悪くして、阿見の眉間にしわが寄った。
斉藤はそれに気づいていないふりをして、右手を自分の胸の辺りに持って行った。
「はぁ?」
自分の話を遮った話の内容がどうでも良いことだったことに、怒りを覚えたのだろう。いつもどうでも良いことばかり言っているのに、それを自分にやられると怒るとは、自分の話にどれだけの自信を持っているのだろう、と斉藤は疑問に思った。
「なぁ、良いだろう?」
緊張で震える頬に力を入れて、満面の作り笑いを浮かべながら阿見の手が重ねられるのを待った。
阿見は数単語が聞こえるか、聞こえないかぐらいの小さな声で独り言をぶつぶつと呟いた。視線は斉藤の右手や顔、足など色々なところに泳いでいる。いつもは自信たっぷりに自分の話をしている阿見の挙動がいつもとは違うことに、斉藤の心は恐怖と緊張で支配された。
「早くしろよ!」
震えだしてしまいそうな体を必死に抑えていると、声は大きくなり、乱暴な言い方になっていた。
普段は物静かな斉藤が声を荒げたので、阿見は急いで手を斉藤の右手に重ねた。
手の大きさは斉藤の方が少しだけ大きかったが、そんなことはどうでも良かった。斉藤は悪魔のような笑みを浮かべ、阿見の指の間に自分の指を絡ませた。
手を交わらせれば力を使えるのならば、これでもナインの力が使えるはずだ。祈るような思いでそう願った。
指をいきなり絡ませたにも関わらず、阿見が手を無理やり解こうとはしない。不思議に思い斉藤が視線を手から阿見の目にやると、阿見は驚いたように目を見開いたまま動かなくなってしまった。周りの音が聞こえなければ、時が止まってしまったと錯覚してしまうほど、阿見は微動だにしない。
静止してしまった阿見を見ていると、斉藤の中に自分の思考とは全く違う思考が頭の中に現れた。
(不安だ。ただ不安なのだ。俺という存在がここに確かにいるのか、違うのか。誰でも良い……。俺の存在を肯定し、俺を否定する者を否定する存在が欲しい。斉藤祐也、彼は良い。俺の話を否定せず、沈黙という肯定を持て接してくる。どうしてだ! なぜ、部活の先輩は俺を否定するのだ! 奴らはおかしい! そうだ、奴らはおかしいのだ。俺は肯定されている存在なのだから、奴らがおかしいのだ)
自分を受け入れないものを否定する思考回路。これがナインの言う通りなら、他人を理解することだ。つまり阿見の考えだということだ。
吐きだしたい。自分の中に泥のようにたまった不満を大声と共に吐きだしたい。阿見を罵り、奴の考えを否定して、自分を肯定するための道具とした阿見を壊したい。
頭が二つに割れるのでは、と思えるほど頭の中がガンガン揺れる。気分が悪く、吐きだしたい思いを必死に抑えていると、ナインの声がヘッドホンをした時のような、耳の周りで跳ね返る音で聞こえた。
「人間は弱いな。自分ではない第三者の容認なしでは、自分という存在すら明確に確かめることすら出来ないとは……」
姿が見えないことに驚いたが、初めて会ったときも最初は姿が見えなかったことを思い出すと冷静になれた。
静止したままの阿見を睨みながら、頭の中でナインへの疑問を言った。
(ナイン。あの考えを知ることが、阿見を理解するということなのか?)
「そうだとも。自分を否定する強い者を悪とし、自分を肯定する者を正義とする。価値観の転換。それを強固なものとするための第三者の容認をもらうこと。それが彼にとっての最重要事項であり、生きる目的であり、彼の根本なのだよ」
阿見の考えを知った斉藤は一つのことを願った。
(こんな腐った考えしか持っていないのなら、そんな考えは壊れてしまえ……)
「然り(ヤー)。人間は平和的であり、利他的であるべきだからな。お前の願いに答え。それをお前の武器としよう」
(武器?)
武器という言葉に疑問が浮かんだが、ナインからの返事はない。仕方なく阿見のようすを見ると、静止していた阿見はゆっくりと腕を動かした。
何をするのだろう? と思って見ていると、阿見は前髪を止めていた髪留めを外した。手に髪留めを持つ力が無いようで、髪から外された髪留めはそのまま床に落ちた。
髪留めから解放された前髪は、阿見の視界に割り込むが気にする様子はない。阿見はぼさぼさの髪型のまま、席に向かってしまった。