Ⅰ
斉藤祐也は高校からの帰路を虚ろな感覚で踏みしめ、自問自答を繰り返していた。
どうして僕らは他人と話をするとき、相手の考えを分からないまま、視覚と聴覚が感じるものを信じてからしか、動くことが、話すことが出来ないのだろうか。
この自問への答えはすでに決まっていた。
僕らはそう進化してしまった。そして、そうなったものはそうなるべくしてある運命だったのだ。
神によって自分たちの全てが決められていると考える運命論。
そんな考えを持ち出したら、自宅までの暇つぶしがすぐに終わってしまうということは分かっていた。それでも何も分からないまま続けられる会話や生活に抗いたいと望みながら、不可能と諦めていた斉藤には、運命論でも信じていなければ生きていけない思いだったのだ。
考えてもどうにもならない自問自答を続けていると、自宅に到着していた。両親が共働きのため家には鍵がかかっている。斉藤は玄関の鍵を開けると、そのまま自分の部屋へと直行した。
扉を開けて部屋へと入ったとき、見慣れた自分の部屋にいつもと違う何かを感じ、部屋の入り口に立ち止まったまま、部屋を見渡した。
自分の部屋という安住の地に潜む敵を探すように、殺気を前面に押し出し、注意深く部屋の中を見渡す。
飲み終わったペットボトルが机や床に散らばった部屋には、いつもと変わったところは何もない。ただ何かが違う。
目に見えないにも関わらず感じる異様な存在感はなんなんだ、と思いながらも、斉藤がほんの少し緊張を緩めようとしたときだった。
低く透き通る、荘厳な声が部屋中に響いた。
「否定を望む者よ! 定められた物事を否定する者よ! お前が望めば、お前を祝福し、お前の望む力を与えよう」
斉藤が驚きのあまり口を開けたまま、声の主を探してゆっくりと顔を動かした。
「ここだ。否定を望む者」
部屋中に響き渡る声がもう一度聞こえると、部屋の真ん中が真夏の日光に照らされたアスファルトのように揺らいだ。
斉藤は目を見開いてその光景を見る。すると揺らいでいる部屋の真ん中から、だんだんと黒い煙が出てきた。その煙は物を燃やしたときに出るような、灰色ではなく黒という単色だけで出来た煙だった。
部屋中がこの煙で満たされてしまうのではないだろうか? と斉藤は思った。煙の動きをじっくりと見るが、黒煙は部屋の真ん中から少し動く以外は動かない。まるで部屋の真ん中にだけ空気の流れが存在していないようだった。煙はどんどんと増えていき、部屋の真ん中が黒い煙で奥が見えないほど染められた。
斉藤が息を飲みながら煙が充満した中央を見ていると、真っ白い仮面が煙の奥から浮き出てきた。
仮面は目があるはずの位置に、刃物で削られたような傷が左右に一本ずつある。それ以外は何も模様のない真っ白な仮面だ。
「なんだよ……これ」
見慣れたはずの自分の部屋に起きた未知な現象。そして未知な存在に斉藤は恐怖を感じながらも、その目には憧憬の眼差しが混ざっていた。
「私はナイン。君の望む力を与えられるものだ」
ナインと名乗った仮面の周りにある黒い煙は、仮面を中心にゆっくりと回り始めた。
回っている煙を見ていると、まるで仮面を中心にした渦のようだ。黒い渦を巻く煙を見つめていると斉藤はその中に飲み込まれてしまうような感覚に陥った
「お前は……僕の望みを知っているの?」
震えながら聞いたその声に、ナインは瞬時に答えた。
「知っているとも。否定を望む者よ。君は知りたい。己のことのみでなく他者のことを。他者が何を考え、なぜ動くのかを。他者を知ることを禁じられているこの世界に生きながら。君はこの世界を否定してでも、それを知りたい。そうだろう? 否定を望む者よ」
嘲笑うように言われたその言葉を聞いたとき、斉藤の中にあった恐怖は消えていた。
他人と過ごす時に感じる、理解出来ない相手への不安。まるで先が見えない泥沼を進んでいるようなあの不安をなくすことが出来るというのだろうか?
斉藤は、白い仮面を中心に回っている黒い煙に吸い込まれるような錯覚に陥りながらも、そんなことを思う。
「出来るとも。君の望む通り、他人がなぜそのようなことを言うのか、なぜそのような行動をするのか。私の祝福を受けさえすれば、それらのことを理解することが出来るようになる」
言ってもいない言葉に対しての返答。その言葉が知識のある蛇の誘惑なのか、神の祝福なのか斉藤には分からない。
ただ、そんな力を持つことが出来るのならば欲しい、と斉藤は心の底から願った。
「良かろう! 君の名は?」
「斉藤祐也……」
緊張で震える斉藤の声を尻目に、ナインは家中に響き渡るほどの大声で言う。
「他者を知り、他者を理解しよとする者。知ることの出来ぬ世界を否定し、知ろうとする者よ。その者の名は斉藤祐也。私は彼を祝福し、奇跡を授けよう」
高らかな宣言のようなものが終わると、白い仮面を中心に回っていた黒い煙が斎藤の体を包み込んだ。
息をすると煙は体内に入り、血管を通って不快な感覚が全身に回った。朦朧とする意識の中、煙で何も見えない視界で必死に光を見ようと上を向いた。
斉藤の視界がやっと見えるようになると、水で濡れた衣服を着ているような不快と怠さを体に感じた。
まるで夢でも見ていたような感覚に襲われ、部屋の中心を見る。そこにはさっきまでと同じ、白い仮面とその周りを回る黒い煙があった。
「これで他人が理解できるの?」
体の不調はあるが、こんなことで本当に他人を理解できるのだろうか? とナインを訝しむような目で見た。
「然り(ヤー)。出来るとも。他人と手を交わらせば、他人のことを理解することが出来る」
「手を交じわらせる? 握手とかをするってこと?」
意味の分からない条件に、他人を理解できる力に対しての疑いと疑問が浮かんだ。
「そうだ。握手をした相手と、していない相手。その二人と会話をした場合、握手をした相手と会話をする方が、人は嘘をつかなくなるのだよ」
「それが他人を理解する力に関係あるのか?」
「他人を理解する場合、嘘の情報はノイズとなる。それに人を見れば、自動的に相手を理解できるようになったら、君が困るだろうからな」
体すら見えない仮面の奥に顔があるのなら、その表情は多分笑っていると思える声音だ。
「握手をしないと他人を理解できないなんて、面倒な条件をつけたな」
皮肉たっぷりに言うと、ナインから笑い声が漏れた。
「君は必ず感謝するよ。そして君は依存する。私の役目はここまでだ」
部屋の中央に固まっていた黒煙はだんだんと薄くなり始めた。
「最後に忠告だ。他人の正義と自分の正義は決して同じではない。それを覚えていてくれ……」
そう言い終わると、仮面も黒煙もなくなった。
斉藤はペットボトルが散乱した床に仰向けに倒れ込んだ。
「さっきまでのは……現実だったんだよな?」
呟きながら、電球に手を伸ばす。指の間から漏れる光が少し眩しかったが、無性に笑いたくなった。




