3 初めてのダンジョン
のろのろと三階まで上がったセルシオは、階段すぐそばにあるカウンターにいた人間に呼び止められた。
そこで二日分の料金を支払い宿手続きを行ったセルシオは、文字が読めないということで口頭で宿について説明を受けた後、第二大部屋の六番ベッドへと案内してもらう。
大部屋は二段ベッドが八つ並ぶ、寝るためだけの部屋であり、プライバシーはない。
今も十三人が使っており、そのうち十一人はダンジョン探索や街へ出ている。部屋にいる二人のうち一人は寝ていて、もう一人はリュックを探る手を止めて、案内されてきたセルシオを見ている。
その視線を無視して、枕元にリュックを置くとセルシオはすぐに眠る。上等なベッドとはお世辞にもいえないが、野宿よりもましですぐに寝息を立て始めた。
時刻は十四時過ぎ、疲れ果てていたセルシオは日が暮れても起きることはなく、目を覚ましたのは翌日の六時少し前だ。窓から見える空はまだ暗い。
起きたセルシオは空腹を感じてはいたが、寝る前までのだるさはなくなっていた。体力的な疲れは完全に取れていた。魔物に怯えずにすみ暖かな寝床は、精神的な疲れも癒してくれた。
部屋の者全員が寝ている中、リュックを持って部屋を出たセルシオは同じ階にある、食堂に向かう。
「駆け出し定食ってのください」
「あいよ」
宿の手続きを行っている時に聞いたお勧め定食を注文し、トレーを受け取る。
朝早いせいか、客はまばらで椅子はどこも空いていた。誰もいないテーブルにトレーを置いて、早速食べ始める。
駆け出し定食はお金のない挑戦者のために考え出されたメニューで、安い材料で量を多めに作ってある。味よりも量を優先しているが、保存食よりはましな味だ。ついでに昼食用のサンドイッチなどもついてくる。これで一食五十コルジという値段だ。
今日のメニューは硬く風味のないパンが二枚、チーズとかりかりに焼いたベーコンが二枚、屑野菜のスープといったものだ。昼食用には塩のおむすびが三つ、量を増やすためヒエやアワが混ぜられている。
空腹だったセルシオには満足できる味で、量的にも満足できるものだった。
おむすびをリュックに入れて、トレーを返したセルシオは一階まで下りて、売店に向かう。必須といわれた治癒薬と明かり粉を買うためだ。
早くから動くこともある挑戦者のため、売店も六時から開いている。
「いらっしゃい」
「小治癒薬と明かり粉一つずつください」
「兄ちゃんダンジョン探索は初めてかい?」
注文を受けた二つを取り出しつつ聞いてくる職員に、セルシオは頷きを返す。
「そうかい頑張ってきな! 一階の魔物は落ち着いていれば問題なく倒せるやつらばかりだからね。ほら注文の二つだ。二百五十コルジになるよ」
「ありがとうございます」
言葉少なく小さく一礼し去っていくセルシオに愛想のない奴だなと思い、在庫整理を始める。
出発の岩のある出発の間に来たセルシオは、魔物と戦うことに少し恐怖を感じ、岩に触れることに躊躇う様子を見せる。だがお金がなければ生きていくことができないと岩に触れる。
瞬時に景色が変わったことに驚きを隠せない。一瞬目を閉じたままなのかと思ったが、瞬きして違うとわかる。今セルシオは真っ暗な中にいるのだ。
「うわっ!? 明かり粉撒かないとっ」
こう暗くては動くに動けず、ポケットに入れていた明かり粉を使う。
粉をまいた次の瞬間、日暮れ直後の明るさまで、周囲の様子がわかるようになる。
今いるダンジョンは聞いたとおりの石造りのダンジョンだ。ところどころひび割れていて、古さを感じさせる。厳かというよりも、得体のしれなさが漂っている。
すぐにそばに帰還の岩があり、目の前と右に五メートルの位置に明かりの届かない通路が見える。
「出発の岩は帰還の岩から右だっけ」
アドバイスを思い出し、右に見える通路へとゆっくり向かう。音のないダンジョンに砂を踏む音だけが小さく響く。
先の見えない通路からなにが出てくるかわからない、そんな不安が心に湧き一歩一歩の歩みは遅い。冬真っ盛りの外と違って、ダンジョン内は春や秋と同じ気温で過ごしやすくはあるが、その暖かさは今の気分を楽にしてくれるものではなかった。
壁に手をついて警戒しすぎなほど慎重に進む。高まる緊張感に時間間隔もおかしくなっていく。
歩き出して十分弱経った頃だろうか、セルシオは自身の足音以外の音を聞いたような気がした。びくりと体を跳ねさせて、足を止めて周囲をきょろきょろと確認する。見える範囲ではなにもいない。
ほうっと息を吐いて、また歩き始める。数歩進んだところで、再び聞こえた。小さくペタンと。
一歩進むとペタン、もう一歩進んでペタン。先に進めば進むほど音が大きくなっていく。わからないものが暗闇の向こうから近づいていることにセルシオの心臓の高鳴りは早くなっていく。
悲鳴が漏れでそうになる口を両手で押さえて、暗闇の向こうを見通すが如くじっと見つめる。
やがて明かりが仄かに届く前方に、黒い塊が現れた。跳ねたそれは明かりに届く範囲に着地する。
見た目は柔らかそうな黄色い四角。膝下までの大きさで、セルシオはこれの特徴からジェリーイエローという魔物なのかなと思う。
職員から魔物の姿形を聞いてはいたが、どういった移動の仕方をするかまでは聞いておらず、恐怖するはめになった。職員も移動の方法を知らせるまでは気が回らなかったのだ。
正体がわかり、緊張に硬くなっていた体から力が抜ける。恐怖は鎮まり、胸の高鳴りは治まっていく。
そんな風に気を抜いているセルシオへとジェリーイエローは跳ねてぶつかってくる。
「あたっ!?」
魔物なのだ、攻撃してきて当たり前だ。ぼうっとしているセルシオが悪い。
「あ、倒さないと。剣っ剣っ」
鞘ごと手に持っていた剣を抜くまでに、ジェリーイエローはもう一度体当たりしてくる。
レベル差とそこまで勢いのない体当たり故に、ダメージはほとんどない。落ち着いていれば避けることも十分可能で、風人の職員や売店にいた職員の言うように苦労せず倒せるだろう。
剣を抜いたセルシオはジェリーイエローの動きをよく見て、跳ねて着地したところに剣を振り下ろした。真っ二つにはならなかったが、十分な深手を与えられたジェリーイエローは小さな魂稀珠へと姿を変えた。
「こんな弱いの?」
野犬と比べても強いとはいえないジェリーイエローに、こんな弱い魔物を怖がっていたのかと拍子抜けしたセルシオ。
地面に落ちている魂稀珠を腕輪に収納すると、少しだけ警戒心を解いて歩き出す。
「ここは十字路? とりあえず真っ直ぐかな」
右というアドバイスを守り、真っ直ぐ進むセルシオに耳に再びジェリーイエローの移動音が聞こえてくる。
正体がわかっているものを怖がる必要はないと、歩みを止めず進む。
そして移動音が近くなり、そろそろ現れると思った時地面にあるくぼみに気づかずこけた。そのタイミングで、ジェリーイエローは現れて、セルシオの頭に着地する。それなりの衝撃が後頭部に感じられ、一瞬くらりと視界が歪む。
ジェリーイエローを掴んで落としてから立ち上がり、頭を振るって意識をはっきりさせる。手には剣はない、こけた時に落としたのだ。
「このっ」
あの弱さならば蹴りでもどうにかなると蹴りを放つ。蹴られたジェリーイエローは壁にぶつかり、その場で震える。そこへもう一度蹴りを当てると今度は倒せて魂稀珠へと姿を変えた。
「この穴に躓いたのか」
振り返り、こけた場所を探るとするに三十センチ幅の浅い穴をみつけた。
これも罠の一つだ。きちんと注意を払っていれば引っかからないような罠だ。
「こんなのもあるんだ、気をつけないと」
剣と魂稀珠を回収したセルシオは、前だけを見ずに周囲に注意を払って再び右へと進む。
五十分ほど進み、三回ジェリーイエローとの戦闘を済ませたセルシオは大きめの部屋に到着していた。
明かり粉では部屋全体を照らせないほどの大きさで、ジェリーイエローが跳ねる音がいくつも聞こえてくる。
「どれくらいいるのかな? まあ、お金が稼げるんだからいいんだけど」
油断しなければジェリーイエローは雑魚でしかない。よほど大量に向かってこられなければセルシオにとってはカモだ。
明かりの範囲に現れたはしから斬っていく。五匹目を斬った時にセルシオの動きは止まった。
「これなんだろ?」
魂稀珠の横に現れたジェリーイエローの超小型版といった物体を摘む。ジェリーイエローと違って透明感のある黄色で、感触は硬い。
「材料アイテムってこれのこと?」
話を思い出し、思い当たるのは材料アイテムだけだった。
「おっと考えるのは後でいいか」
横から体当たりを仕掛けてきたジェリーイエローを避けて、拾ったものを胸ポケットに入れる。
この部屋では八匹のジェリーイエローを倒した。出てきた材料アイテムはあれ一個だけだった。
「少し疲れた」
一撃で倒せるのだが、動き回ったことで体力を使った。壁際に座って五分休憩を取ったセルシオは立ち上がり、再び右へと進む。
戦闘なしで三十分ほど進んだ時、セルシオはジェリーイエローではない魔物に強襲を受けた。
襲い掛かってきた魔物はビッグホップだ。天井にしがみついていたそれがセルシオ目掛けて突進を仕掛けたのだ。
天井への注意は散漫だったセルシオはまとも突進を受ける。それはジェリーイエローの体当たりよりも威力があり、一瞬息が詰まる。
げほげほと咳き込むセルシオはビッグホップから目を離す。その隙にビッグホップはもう一度突進を仕掛けて、成功させる。
またまともに突進を受けたセルシオはその場に転ぶ。
起き上がったセルシオへと三度目の突進を仕掛けるが、それは避けられ失敗した。
「大きなトノサマバッタ、ビッグホップだっけ」
姿を捉えたセルシオは特徴から、魔物の名前を口に出す。
頭からの突進という攻撃方法故に、頭部が硬くなっている。攻撃するなら胴体だという情報も思い出し、座り込んだまま腕を伸ばして胴を斬りつける。構えも体の使い方もなっていないそんな攻撃でもダメージを与えることはでき、三度連続して斬るとビッグホップは魂稀珠へと変化した。
「ふう……痛かったなぁ」
大きく溜息を吐いたセルシオは壁に寄りかかって、ステータスページを開き体力を確認する。
レベルに変化はなく、体力は240に減っていた。ジェリーイエローからのダメージは三前後で、ビッグホップからは十前後だ。三倍の威力があるのだから、受けた際の衝撃が違うのは当然だろう。
「これはまだ薬使わなくても大丈夫、だよね?」
わからないなりにまだたくさん余っているのだから大丈夫だろうと判断して、立ち上がる。
色々なところに注意して歩かないと駄目だなと学び、前後左右上下を気にしつつ歩き出す。
ダンジョンに入って三時間、時間感覚がなくなっているセルシオにはどれだけ時間が過ぎたかはわからない、ずっと右へと進み行き止まりに出くわした。
「二階への出発の岩は?」
壁を触っていろいろと探ってみるも何もない。もっと深いところには隠し部屋などがあったりするが、地下一階にはそんなものはない。
「教えてもらった情報が嘘だった?」
そんなわけはなく、情報では右方向にあるというだけで、ずっと右に行けば出発の岩があるとは言っていない。セルシオの思い込みだ。
お金払ったのになと、勘違いしたまま落ち込んでいる。
一分ほど前にあった十時路まで引き返し、行かなかった道のどちらへと進むか悩む。
「剣の倒れた方でいっか」
そう言うと刃先を地面に当てて、柄から手を放す。ふらりと傾いた剣は右へと音を立てて倒れた。
あっちかと呟いて剣を拾い進みだす。この時点でセルシオは失敗している。悪運はあるが、運は低い。そんなセルシオが運任せの方法で正しい道を選べるはずがないのだ。今回も左へと真っ直ぐ進めば二十分の距離に出発の岩があったのだ。
こうして突き当たるたび、剣で道を選んでいきセルシオは見事に道に迷った。目印になるような壁の傷を見つけていたり、石を積んで目印を作っておけば帰り道もわかったのだろうが、そんなことは一切していない。セルシオは方向音痴というわけではない。今回は初ダンジョン探索ということで進むことに意識を集中しすぎたのだ。
「岩はないし、道もわからないし、疲れてきたし」
大きく溜息を吐いて、その場に座り込む。とりあえず昼を食べようと、おにぎりを取り出す。
一つ二つと口に運んで、三つ目に噛り付いた時、突然明かりが消えた。明かり粉の効果が切れたのだ。
「え、暗っ!?」
持っていたおにぎりを落として、周囲を見渡すもなにも見えないことにかわりはない。
「なんで……あ、六時間経ったってこと? 明かり粉使わないと……って一つしか買ってない」
どうしようと呆然としても、明かりなしで動き回るしかなく、半泣き状態で荷物を持って歩き始める。
なにも見えない状態で、支えなく歩くというのは恐怖でしかなく壁伝いに進む。
こんな状況でも一つだけ運がいいことがある。それは魔物との戦闘がないことだ。多くの魔物は暗視を持っておらず、明かりを持っていないセルシオに襲い掛かることはできなかったのだ。
時々踏みつけた魔物に驚きつつ、またくぼみに足を取られて転び、泣きながら歩いていく。
どこか遠くから人の歩く音が聞こえてきたこともあり、そちらへ声をかけてみたが、反応はない。泣き声混じりだったせいで、きちんと発声できず警戒心を煽ってしまったのだ。
こんな状況に少しだけ希望が見えたのは、偶然ジェリーイエローを踏み潰した時だ。倒したのだから当然魂稀珠になる。その珠が少しだけ明かりを放ったのだ。
「うわぁ」
二時間ぶりの明かりに心底安堵した溜息を吐く。照らす範囲は一メートルもない。それでも真っ暗な状況よりはましだった。
十五分で消えてなくなることを覚えていたセルシオは出くわす魔物を斬っていき、明かりを確保し続けた。そういった作業が不安と恐怖を紛らわせたのか、目は赤いものの涙は止まっていた。
そうしてダンジョンに入り、十四時間が経過した時ようやく赤い岩つまり帰還の岩を見つけることできた。
ダンジョン管理所に戻ってこれたセルシオは、ダンジョン内よりも冷たい空気を感じることで帰ってこれたのだと実感を得た。
盛大に息を吐いて安堵するセルシオの様子を気にする者はない。誰しも帰ってくることができて安堵した経験はあるのだ。多くの者は魔物に追われてだとか、大掛かりな罠にはまって逃げることができたといった経験だが。一階で右往左往した者はそう多くはない。
「このままベッドに入りたいけど、換金しないと」
体力的にというよりも精神的に疲れ果てさっさと寝たかったが、お金がないと明日のご飯にも困るので売店へと向かう。
朝とは違う職員に魂稀珠の換金を頼む。
「あ、そうだ。これって材料アイテムってやつですか?」
精算している最中に、手に入れたもののことを思い出し、ポケットから取り出す。
「どれどれ、ああそうだよ。イエローゼリーって名前さ。買い取るかい? 一個五十コルジだよ」
手に乗せた物体を見て、職員は頷き拾った材料アイテムの名前と値段を言う。
これから傭兵ギルドにこれのことを調べに行くのも面倒だったセルシオは頷いた。
「だったら合計三百八十コルジだよ」
「明かり粉二つください」
一つじゃ足りないことがあると学び、二つ求める。
「あいよ」
明かり粉二つと、そのお金を差し引いた分が渡される。
お金を腕輪に入れて、食堂に向かう。朝と同じように一番安い定食を頼もうと考えたが、無事帰ってこられた祝いとして少しだけ贅沢をしようと七十コルジのシチューセットを頼んだ。シチューはセルシオの好物で、器から漂ってくる匂いを嗅ぐだけでも心が弾み出した。
早速食べようと、スプーンで鳥肉とニンジンを口に運ぶ。じっくりと煮込まれていたそれらは、少し力を入れると噛み千切れるほどに柔らかかった。
「美味いっ」
空きっ腹ということもあるのだろうが、満足できる味だった。ルーに溶け込んだ野菜と肉の旨みが舌に広がり、さらに食欲を刺激する。夢中になって勢いよくかき込んでいく。
スプーンですくえなくなると、つけあわせの柔らかなパンを使い、皿からシチューを残さずにとっていく。
綺麗になくなった皿を残念そうにみたセルシオは、残ったパンとサラダをさっさと食べて夕食を終えた。
そのまま部屋に戻って寝てもよかったが、空腹が満たされたことで少しだけ余裕が戻り、体の汚れを落としてから眠ることにする。
といっても入浴には別途料金を払う必要がある。お金がもったいないと、管理所の庭にある井戸で水を頭から被り、汚れを落す。寒い中での行水は辛いものがあったが、さっぱりしたかったので急いで済ませた。
部屋に戻る前に、新たに宿賃を払い、今日の利益は十コルジとなった。リンゴ一個分だ。明日の朝食を加えるとマイナスになる。もっと稼がなくてはと思いながら、毛布に包まって眠りについた。
今日一日でセルシオはいくつものことを学んだ。明かり粉は複数持っていくこと。武器は最初から抜いておくこと。注意は全方位に向けること。人の言うこと全てが正しいとはかぎらないこと。
体をはって覚えただけに今後も忘れることはないだろう。
だがこれらは事前に挑戦者について調べていればわかることだし、これ以上のこともわかる。
挑戦者の常識を一切知らずにダンジョンへと入ったセルシオの一日はこうして終わった。
これが伝説への第一歩と知る者は、誰一人としていない。