角界の魔王
第一章 土俵の底
九月の両国は、まだ夏が居座っていて、土俵の砂まで汗をかく。
九月場所十三日目、幕下二十八枚目の黒嶽は、立ち合いで当たり負けたまま後ろへ下がり、俵に踵をかけたところで呆気なく押し出された。行司の軍配が相手に上がるより早く、館内の客は弁当の蓋を開け直していた。幕下の取組を真剣に見ている者など、親兄弟と好角家のほんの一握りしかいない。
二勝五敗。七番相撲を終えて、黒嶽の場所は終わった。
花道を引き揚げながら、彼は自分の足音を数えた。一歩ごとに、廻しの結び目が背中で揺れた。黒の木綿の稽古廻しと変わらぬ締め込みである。関取になれば絹の締め込みが許され、色も選べる。十両に上がったら紺にする、と十五の春に決めた。それから十二年が経った。
支度部屋に戻ると、弟弟子の豊海が濡れ手拭いを差し出した。
「兄さん、お疲れさまでした」
十九の豊海は、まだ三段目の下の方にいる。丸い顔に汗の粒を浮かべ、何か慰めの言葉を探して唇を動かしたが、結局何も言わなかった。黒嶽はそれをありがたいと思った。
「髷、直しますか」
「いい。どうせ明日から休みだ」
手拭いで顔を拭うと、土俵の砂が頬にざらついた。砂の味は、子どもの頃に舐めた浜の砂とは違う。荒木田と呼ばれる粘りのある土に、塩と、何千人もの汗が沁みている。十二年舐め続けてきたその味が、今日はいつもより苦かった。
*
九月場所の千秋楽から、二日が過ぎた。
隅田川から一本入った路地に、鉄筋三階建ての部屋がある。一階が稽古場で、二階に親方と女将の住まい、三階が若い衆の大部屋だ。建物は昭和の終わりに建て替えたものだが、稽古場の土俵だけは明治の創設以来、同じ場所に築かれ続けている、というのが先代からの言い伝えだった。土を削り、盛り直し、また削る。その繰り返しのいちばん底に、初代が据えた土俵の名残が眠っている、と。
その夜、黒嶽は二階の居間に呼ばれた。
千鳥親方は、座卓の向こうで湯呑みを両手に包んでいた。現役時代は千鳥灘の四股名で関脇まで張った人だ。押し相撲一本で、突き放されても突き放されても前に出る取り口から「鎌倉の牛」と呼ばれた。いまは六十を過ぎ、首の周りの肉が落ちて、着物の衿がいくぶん浮いている。
「座れ」
黒嶽は正座した。膝の下で畳が軋んだ。
女将の静江が麦茶を置き、何も言わずに台所へ下がった。その背中を見送ってから、親方が口を開いた。
「お前、いくつになった」
「二十七です」
「十五で来たんだったな。下北の、あの寒い港から」
「はい」
「十二年か」
親方は湯呑みを置いた。
「九州が、最後だと思え」
言葉の意味が胸に落ちるまで、少し時間がかかった。十一月の九州場所で勝ち越せなければ、引退しろ、ということだ。いや、勝ち越したところで何が変わるのか。幕下二十八枚目から関取の座までは、まだ遠い。
「親方」
「誤解するな。お前が怠けたとは言ってない。誰よりも稽古してきた。俺は見てきた」
親方は目を伏せた。
「だがな、相撲は、稽古した者が勝つとは限らん。それはお前も分かってるだろう。体がな、もう一回り大きくならんかった。当たりが軽い。お前の当たりは、気持ちほど重くならなかった」
黒嶽は黙っていた。百八十センチ、百二十キロ。入門の頃は大きい方だった。だが十二年の間に、角界の体格はさらに膨れ上がった。百六十キロ、百八十キロの若者がごろごろいる。
「辞めたあとのことは心配するな。ちゃんこ屋をやってる兄弟子がいる。お前ならいい板前になる。料理の腕は部屋で一番だからな」
親方は笑おうとしたようだった。
「……はい」
「九州で、悔いのない相撲を取れ」
それで話は終わった。
居間を出て階段を下りかけたとき、台所の暖簾の向こうで、女将が洟をすする音がした。黒嶽は足を止めずに一階へ下りた。
*
稽古場の明かりを点けると、土俵が白く浮かび上がった。
十五尺の円。俵の上に、昼間撒いた塩が薄く残っている。黒嶽は浴衣を脱ぎ、稽古廻しを締め直した。誰もいない夜の稽古場で四股を踏むのは、入門以来の習慣だった。
右足を高く上げ、下ろす。左足を上げ、下ろす。
土が鳴る。
四股は、地を踏み鎮める所作だという。土の下に潜む邪気を踏みつけ、大地を清める。新弟子の頃、教習所の講師にそう教わった。だから横綱の土俵入りは神事なのだと。
百回を超えたところで、汗が顎から滴りはじめた。二百回。三百回。太腿が震え、膝が笑う。それでも止めなかった。止めれば、親方の言葉が戻ってくる。
――お前の当たりは、気持ちほど重くならなかった。
四股を止め、鉄砲柱の前に立った。稽古場の隅に据えられた太い檜の柱だ。何十年も力士たちに突かれ、腰の高さのあたりが黒光りしている。黒嶽は両手を交互に突き出した。右、左、右、左。掌の皮が柱にこすれる。
父親の顔が浮かんだ。
下北半島の北の端、津軽海峡を望む小さな漁港で、父は烏賊を獲っていた。無口で、酒が入ると少しだけ饒舌になる人だった。黒嶽が十二の冬、父の船は時化の海に出たまま戻らなかった。三日後に浜へ打ち上げられた船板には、父の名前が書かれていた。
葬式のあと、母は一人で網の繕いの仕事を続けた。凍える指に息を吹きかけながら。
中学で相撲を始めたのは、体が大きかったからだ。県の大会で三位になり、千鳥親方がスカウトに来た。母は反対しなかった。ただ、上京の朝、港の駐車場で一言だけ言った。
「剛。関取になったら、迎えに来てけろ」
関取になれば、母を東京に呼べる。給料が出る。付け人がつく。母に、凍えない冬を与えられる。
十二年。
右、左、右、左。
掌の皮が剥けた。それでも突いた。血が柱に赤い筋を引いた。腕が上がらなくなるまで突いて、黒嶽は柱から離れ、土俵の中央へよろめき出た。
膝をついた。
両手を土に突いた。剥けた掌から血が流れ、仕切り線のあいだの土に、ぽたり、ぽたりと落ちた。
土俵の中央には、場所前の土俵祭で鎮め物が埋められる。勝栗、昆布、洗米、するめ、塩、榧の実。神への供物を土に納め、土俵に神を迎える。部屋の土俵でも、年に一度、親方が同じことをする。今年の正月にも、黒嶽はその穴を自分の手で埋めた。
血が、そこに沁みていく。
「……勝ちてえ」
声に出していた。
「一度でいい。勝ちてえ。関取になりてえ。母ちゃんを迎えに行きてえ」
稽古場の蛍光灯が、ちりちりと音を立てた。
それは最初、遠い海鳴りのように聞こえた。
土の下から、低い音が這い上がってくる。膝の下の土俵が、かすかに震えている。地震かと思った。だが、壁の番付表も、上がり座敷の座布団も、まったく揺れていない。揺れているのは、土俵の中だけだった。
――勝ちたいか。
声だった。
耳から入ってきたのではない。掌から、膝から、土に触れている皮膚のすべてから、骨を伝って頭の中へ響いてきた。
黒嶽は顔を上げた。誰もいない。蛍光灯の一本が明滅している。
「誰だ」
――お前の血は、ずいぶん塩辛い。海の血だ。
仕切り線のあいだの土が、黒く湿っていく。血の量ではありえないほど広く。その黒い染みが、ゆっくりと形を変えた。輪郭のない影が土から滲み出し、黒嶽の前で人の背丈ほどに立ち上がった。
顔はなかった。だが、目があることは分かった。影の奥の、さらに深い暗がりから、何かがこちらを見ていた。
――俺は、長いことこの下にいた。百と幾十年。人が土を盛り、塩を撒き、供物を埋め、俺の上で足を踏み鳴らす。鎮めのつもりでな。
影の声には、笑いが混じっていた。
――だがな、四股は鎮めるばかりではない。呼ぶのだ。地の底のものを、呼び起こすのだ。お前はこの十二年、毎晩、俺を呼んでいた。
黒嶽は後ずさろうとした。体が動かなかった。掌が土に貼りついたように離れない。
「何者だ」
――名はいくつもあった。人は俺を、禍土と呼んだ。
まがつち、と黒嶽は口の中で繰り返した。
――明治の頃、俺は一人の力士に宿った。鬼門という男だ。お前と同じように、勝てずにこの土俵の上で泣いていた。俺はあいつを大関にしてやった。あと一歩で綱だった。
「……それで」
――あいつは、途中で怖気づいた。代価を払い渋った。だから俺は、あいつの心の臓を貰った。土俵の上でな。それからあいつの親方が、俺をこの下に封じた。供物と塩と、毎年の祭でな。
影がゆらいだ。
――だが、お前の血が封を解いた。
黒嶽の喉が鳴った。逃げろ、と頭のどこかが叫んでいた。だが、同じ頭のもっと深いところが、別のことを考えていた。
――大関にしてやった。
「……俺を、勝たせられるのか」
自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。
影の奥で、目が細まった気がした。
――勝たせてやる。十両にも、幕内にも、三役にも。お前が望むなら、その先にも。
「その先」
――綱だ。
横綱。
その言葉は、黒嶽にとって山の名前のようなものだった。見上げることはあっても、登ることなど考えもしない高みの名前。
「代価は」
――賢いな。鬼門は最初、それを訊かなかった。
影が、黒嶽の顔のすぐ前まで寄ってきた。潮の匂いがした。冬の海の、骨まで凍らせる匂い。父の船が沈んだ海の匂い。
――お前が土俵で倒した者から、一つずつ貰う。
「何を」
――その時々だ。膝かもしれん。肩かもしれん。運かもしれん。名誉かもしれん。初めのうちは俺が選ぶ。だが、いずれはお前が選ぶようになる。
「俺が、選ぶ」
――そうだ。お前が、自分で選ぶ。誰から何を奪うかを。
黒嶽は、影の奥の目を見つめた。
相撲は勝負だ。勝てば相手は負ける。負けた者は番付を落とし、給金を失い、いずれ廻しを外す。自分がこの十二年、ずっとそうされてきたように。勝つということは、もともと誰かから何かを奪うことではないのか。
そう思った瞬間、自分が何を考えたのか、黒嶽は気づいていなかった。
「……やる」
――聞こえんな。
「やる。勝たせてくれ」
影が笑った。土俵全体が笑ったように感じた。
――契りの印だ。土を食え。
黒嶽は、血に濡れた土を掌ですくい、口に運んだ。
砂の味がした。塩の味がした。鉄の味がした。それから、十二年間一度も味わったことのない味がした。甘かった。熟れすぎた果実のような、腐る寸前の甘さ。
飲み下した瞬間、影が崩れ、黒い水のように黒嶽の口へ、鼻へ、目へ流れ込んできた。
息ができなかった。胸の中で何かが膨れ上がり、肋骨を内側から押し広げた。背骨が軋んだ。両腕の筋肉が、皮の下で生き物のようにうねった。
黒嶽は土俵に倒れ伏し、そのまま意識を失った。
*
「兄さん! 兄さん!」
揺り起こされて目を開けると、豊海の丸い顔があった。窓の外が白んでいる。朝稽古の始まる前の、まだ誰も起きてこない時刻だ。
「なんで土俵で寝てるんすか。風邪ひきますよ」
黒嶽は身を起こした。体が重い。いや、重いのではない。詰まっている。昨日までの自分の体に、何か別のものがぎっしりと詰め込まれている。
「手、どうしたんすか」
豊海の視線を追って、黒嶽は自分の掌を見た。
血はついていなかった。剥けたはずの皮も、元通りになっていた。ただ、両の掌の真ん中に、黒い痣が一つずつ浮かんでいた。墨を落としたような、丸い痣。
「……なんでもねえ」
黒嶽は立ち上がり、土俵の中央を見下ろした。
仕切り線のあいだの土は、何事もなかったように乾いていた。血の跡も、黒い染みもない。夢だったのかもしれない、と思った。疲れ切って倒れ、夢を見たのだ。
――夢ではない。
頭の内側で、声がした。
黒嶽は凍りついた。
――稽古をしろ。いつも通りにな。そして見ていろ。お前の体が、何をするか。
「兄さん?」
豊海が首を傾げている。
「……豊海。今朝、胸を出してやる」
「え、ほんとっすか!」
弟弟子の顔がぱっと明るくなった。黒嶽が胸を出す、つまりぶつかり稽古の受け手になってやると言うのは、珍しいことではない。だが、今朝の豊海の嬉しがりようは、いつもより大きく見えた。あるいは、黒嶽の目が、いつもより多くのものを見ているのかもしれなかった。
朝稽古が始まった。
申し合いで、黒嶽は部屋頭の幕下上位、鶴ヶ浜と組まされた。鶴ヶ浜は百六十キロの巨漢で、来場所の関取昇進が噂されている。黒嶽はこれまで、十番取って一番勝てるかどうかだった。
仕切った。
立った。
ぶつかった瞬間、黒嶽は自分の体の中で何かが爆ぜるのを感じた。
鶴ヶ浜の巨体が、浮いた。
百六十キロの肉の塊が、まるで米俵を担ぐように、黒嶽の胸の上で浮き上がった。黒嶽はそのまま前へ出た。一歩、二歩。鶴ヶ浜の足が俵を越え、上がり座敷の手前の板の間まで吹き飛んだ。
稽古場が静まり返った。
上がり座敷で茶をすすっていた千鳥親方が、湯呑みを宙に止めたまま、こちらを見ていた。
「……もう一丁」
鶴ヶ浜が、顔を赤くして戻ってきた。
二番目も同じだった。三番目も、四番目も。十番取って、十番とも黒嶽が勝った。鶴ヶ浜は最後には肩で息をし、膝に手をついて、化け物でも見るような目で黒嶽を見上げた。
「お前……何食った」
黒嶽は答えなかった。答えられなかった。
土を食った。
稽古が終わり、皆がちゃんこの支度に散ったあと、親方が黒嶽を呼び止めた。
「黒嶽」
「はい」
親方は、しばらく黙って黒嶽の顔を見ていた。それから、ぽつりと言った。
「目の色が、変わったな」
「……そうですか」
「ああ。悪い意味じゃない。勝負師の目だ」
親方は、少し間を置いて付け足した。
「九州、楽しみにしてる」
親方が階段を上がっていく足音を聞きながら、黒嶽は自分の掌の黒い痣を握りしめた。
――楽しみだな。
頭の中で、禍土が笑った。
その日の昼、黒嶽はちゃんこ番の当番で、いつものように鍋の支度をした。白菜を切り、鶏の骨で出汁を取り、つみれを丸めた。手は勝手に動いた。十二年間、数え切れないほど繰り返してきた手順だ。
だが、味見をしたとき、黒嶽は箸を取り落としそうになった。
味がしなかった。
出汁の旨みも、塩気も、生姜の辛みも、何も感じない。口の中にあるのは、ただの熱い水だった。
――言い忘れていたな。
禍土の声が、楽しげに言った。
――俺が宿った体は、人の食い物では満たされん。お前が味わえるのは、これから一つだけだ。
「……何だ」
――勝利だ。
鍋の湯気の向こうで、豊海が茶碗を並べながら鼻歌を歌っていた。九州場所まで、あと二か月だった。
第二章 九州へ
味のしない食事というものが、これほど人を疲れさせるとは思わなかった。
千鳥部屋のちゃんこは、女将の静江が若い頃に先代の女将から受け継いだ塩味が自慢だった。鶏ガラを半日煑詰め、昆布と干し椴茸を足し、最後に下北から送られてくる焦がし塩をひとつまみ落とす。その塩は、黒嶽が入門した春から、母が毎年秋に送ってくるものだった。息子が世話になっている礼だといって。女将はそれを、「黒嶽の塩」と呼んで、特別な日にだけ使った。
十月の初め、その塩が届いた。
「今日は黒嶽の塩よ。九州に向けて、精をつけなさい」
女将がそう言って、黒嶽の丼に汁をなみなみと注いでくれた。黒嶽は頭を下げ、汁をすすった。
湯の熱さだけが、舌を焼いた。
塩の味も、焦げの香ばしさも、母の手の匂いも、何もしなかった。黒嶽はその丼を飲み干し、もう一杯を求め、それも飲み干した。女将は嬉しそうに笑った。やっぱりお母さんの塩は特別ね、と。
黒嶽は、笑い返すことができなかった。
――食え。食えるだけ食え。
禍土は、食事のたびにそう言った。
――味はしなくても、肉にはなる。器は大きいほどいい。俺が入るには、お前の体はまだ狭い。
九月の終わりに百二十キロだった体重は、十月の半ばには百三十五キロを超えた。十二年、何をどう食べても増えなかった体重が、まるで尺度を壊したように増えていく。それでいて、体は重くならなかった。四股の足は前よりも高く上がり、すり足は前よりも低く、速くなった。
部屋の力士たちは、それを「黒嶽の遅咲き」と呼んだ。親方に引退を勧められ、尻に火がついたのだと。親方自身も、そう信じているようだった。「人は、追い込まれないと変わらんもんだ」と、親方は後援会の社長に電話で話していた。あいつも二十七で、ようやく追い込まれたんですよ、と。
*
十月の半ば、黒嶽は初めて、一門の大きな部屋へ出稽古に行った。
北辰部屋。関取を六人抱え、幕内上位の力士もいる。千鳥部屋には関取が一人もいないから、幕下の上位を目指す者は、時々こうして胸を借りにいく。それでも、十二年のあいだ、黒嶽が北辰部屋の土俵で関取と申し合いをさせてもらえたことは、一度もなかった。申し合いは、勝った者が次の相手を指名する。幕下二十八枚目の力士を指名する関取など、いない。
その朝も、黒嶽はしばらく土俵の外で立ち尽くしていた。関取たちが申し合いを繰り返し、幕下の若い衆がその周りで入れ替わり立ち替わり手を上げる。黒嶽は手を上げなかった。上げても、指名されないことは分かっていた。
――手を上げろ。
禍土が言った。
「指名されねえよ」
――される。上げろ。
黒嶽は、右手を上げた。
土俵の上で、今しがた一番を取った十両の力士が、息を切らせながら周りを見回した。十本を超える手が上がっていた。その視線が、黒嶽の上で止まった。本人にも、なぜそこで止まったのか分からないという顔だった。
「……おい、そこの、千鳥の」
土俵に入る。仕切る。
立ち合いでぶつかった瞬間、黒嶽は、相手の体の中が「見えた」。
そうとしか言いようがなかった。目で見るのではない。胸が触れ、廻しを取った手から、相手の体の形が、水が滲みるように頭の中に広がってくる。右の足首に古い捻挫があること。左の肋骨が、先場所から痛んでいること。寝不足で、昨夜、例の女と電話でもめたこと。何もかもが、手に取るように分かった。
黒嶽の体は、右足首の方へ相手を振った。それだけで、十両の力士は腰から崩れ、土俵に手をついた。
稽古場が、少しだけざわついた。
「もう一丁」
十両の力士は、顔を赤くして指名し直した。二番目も、三番目も、同じだった。四番目には、上がり座敷で見ていた北辰親方が、幕内の力士を黒嶽に当てた。前頭六枚目。黒嶽が十二年、テレビの中でしか見たことのない男だった。
その男にも、黒嶽は勝った。五番取って、三番。
二番負けたのは、禍土がそうさせたからだった。
――ここで全部勝てば、噪が立つ。本場所で幕下の力士が幕内をことごとく転がしたという話は、稽古場から稽古場へ飛ぶ。俺は、九州の初日に、誰にも気づかれずに土俵に上がりたい。初めての食事は、静かにとるものだ。
帰り道、黒嶽は禍土に尋ねた。
「稽古場の土俵でも、お前は取れるのか」
――取れる。だが、取らん。稽古で取るのは、つまみ食いだ。腹を空かせておけ。その方が、本場所の一口目がうまい。
「……鶴ヶ浜からは、取ったのか」
禍土は、すぐには答えなかった。
――少しだけだ。あの朝は、俺も腹が減っていた。百何十年ぶりの食事だったからな。
「何を取った」
――自信だ。あいつはもう、自分の当たりを信じられん。
黒嶽は、電車の吊革を握る手に力を入れた。
鶴ヶ浜は、九月場所を五勝二敗で勝ち越し、九州では幕下三枚目まで上がるはずだった。新十両を目前にして、部屋で一番の期待を背負っている。その鶴ヶ浜が、あの朝以来、稽古場で一度も黒嶽を指名しない。いや、黒嶽だけではない。申し合いそのものを、できるだけ避けているように見えた。
「返せないのか」
――返す?
禍土は、何か珍しいものを見るように繰り返した。
――食ったものを、どうやって返す。お前は、食った飯を、米に戻せるのか。
*
十一月の初め、九州への移動を三日後に控えた夜、黒嶽は部屋の台所で、一人で大根を剥いていた。翌日のちゃんこ当番の下ごしらえだった。
足音がして、鶴ヶ浜が入ってきた。水を飲みに来たのだろう。黒嶽に気づくと、一瞬、引き返すような素振りを見せ、それから思い直したように、流し台の前に立った。
しばらく、蛇口から水が落ちる音だけがしていた。
「……黒嶽」
鶴ヶ浜は、コップを持ったまま、こちらを見ずに言った。
「お前、あの朝、何をしたんだ」
「……何もしてねえよ」
「嘘だ」
鶴ヶ浜は、コップを流し台に置いた。
「俺はな、お前には十番やって九番は勝つ。それが俺とお前の差だった。悪いとは思ってない。お前が努力してるのは知ってた。でも、差は差だ。部屋で一番稽古する男が、部屋で一番強いわけじゃない。それが相撲だと思ってた」
鶴ヶ浜の声が、少し震えた。
「あの朝、お前と当たった瞬間な、俺は、海に突っ込んだんだと思った。冷てえ、底の見えねえ海に。体が浮いて、どっちが上か下か分からなくなって。――それから俺は、誰と当たっても、その海のことを思い出しちまうんだ。立ち合いで、足がすくむんだよ」
黒嶽は、大根を剥く手を止めなかった。止めれば、鶴ヶ浜の顔を見なければならない。
「疲れてんだよ。場所前だから」
「……そうかな」
鶴ヶ浜は、笑ったようだった。そして、台所を出ていく前に、一度だけ振り返った。
「お前の後ろに、何かいたような気がしたんだ。あの朝。変な話だけどな」
台所に一人残された黒嶽は、剥き終えた大根の皮を、いつまでも見つめていた。
――気にするな。あいつはもう、お前の相手じゃない。
禍土が言った。
――これからお前が上がっていく土俵には、あいつは一生上がってこられん。そういう者のことを、いちいち覚えておく必要はない。
黒嶽は、大根の皮を生ゴミ入れに捨てた。そして、女将が棚に大事そうに置いている、母からの塩の袋を、しばらく眺めていた。
袋の口を開け、一つまみ、舌に載せた。
砂のようなものが、舌の上でざらりと溶けた。それだけだった。
十一月の風が、台所の小さな窓を鳴らした。下北ではもう、初雪が降った頃だろう。母は今夜も、港の上の坂の家で、網を繕っているのだろう。
黒嶽は、塩の袋の口を、丁寧に閉じた。
三日後、千鳥部屋の一行は、新幹線で福岡へ向かった。窓際の席で、黒嶽はずっと、流れていく景色を見ていた。隣の席で豊海が、駅弁を三つ平らげ、兄さんも食べますか、と弁当の蓋を開けて差し出した。黒嶽はそれを受け取り、食べた。甘辛く煮た牛肉の味は、もちろんしなかった。
「うまいですよね、これ」
豊海が言った。
「……ああ、うまいな」
黒嶽はそう答えた。それが、黒嶽がついた最初の嘘だったのかどうか、あとになって思い出しても、よく分からなかった。
第三章 白星の味
十一月の福岡は、都心よりも風が柔らかい。
九州場所の初日、黒嶽は幕下三十四枚目の土俵に上がった。秋場所で負け越して六枚落ちた番付である。対戦相手は若狭灘という二十二歳の若者だった。高校相撲の強豪から入門し、三年でここまで上がってきた。踏み込みが鋭く、右四つになれば上位にも引けを取らない。
塩を撒いた。その塩が、土俵に落ちる前に、ことごとく黒い粒に変わったように見えた。瞬きをすると、ただの白い塩だった。
――緊張するな。体は俺が動かす。お前はただ、前を見ていればいい。
仕切り線に拳をつく。若狭灘の目が、真っ直ぐにこちらを見ていた。右の膝に、白いテーピングが巻かれている。古傷なのだろう。
――あの膝だ。
禍土が言った。黒嶽が何かを思うより早く、行司の軍配が返った。
立ち合い、若狭灘は頭から当たってきた。黒嶽の体はその当たりを胸で受け、一歩も下がらなかった。右の差し手が、自分のものではないような速さで相手の左脇に滑り込んだ。掛けた。捨てた。
捨てる瞬間、若狭灘の右足が、土俵の砂に縫いつけられたように止まったのを、黒嶽は見た。体は回っているのに、膝から下だけがついてこない。
乾いた音がした。小枝を踏み折ったような音だった。
若狭灘は土俵に転がり、右膝を抱えて声も出さずに体を丸めた。勝負審判が立ち上がり、呼出が駆け寄った。黒嶽は所定の位置に戻り、蹲踞して勝ち名乗りを受けた。
その瞬間だった。
口の中に、甘さが広がった。
蜂蜜よりも濃く、熟した柿よりも柔らかい。舌の根元から喉の奥へ、胃の底へ、そして指の先まで、暖かい甘さが染みわたっていく。二か月のあいだ、何を食べても砂を噛んでいるようだった体が、乾いた土が水を吸うように、その甘さを飲み干した。
黒嶽は蹲踞したまま、目を閉じそうになった。
若狭灘は担架で運ばれていった。花道の奥へ消えていくまで、右膝を押さえた手が震えていた。
――前十字靱帯だ。あの膝はもう元には戻らん。
禍土が、元力士の解説者のような口調で言った。
――どうだ。白星の味は。
黒嶽は答えなかった。答えられなかったのは、口を開けば「うまい」と言ってしまいそうだったからだ。
*
二番相撲の相手は、立ち合いで左肩を脱臼した。三番相撲の相手は、土俵下に落ちたときに手首を折った。
どれも、相撲ではよくある怪我だった。百キロを超える体がぶつかり合い、投げ合う。一場所に何人もの力士が担架で運ばれる。休場届を出す者も珍しくない。幕下の取組で誰かが怪我をしても、翌日の新聞の片隅に名前が載るかどうかだ。
だから誰も気に留めなかった。黒嶽以外は。
四番相撲の前夜、宿舎の寺の風呂場で、黒嶽は湯船に肩まで浸かりながら、取組表を思い出していた。
錦龍。
同じ年に入門した男だった。熊本の山奥の出で、新弟子教習所では隣の席だった。二人とも田舎訛りが抜けず、互いの言葉が半分も分からなかったが、初めて一緒に食べたちゃんこの味は同じように分かった。錦龍は三年前に結婚し、去年娘が生まれた。幕下の力士には給料がない。場所手当と、女房のパートで食いつないでいると、去年の巡業で笑いながら話していた。
――あいつは左の腰だな。古い分離症がある。少し捕まれば、二度と四股は踏めん。
「やめろ」
湯船の湯が、黒嶽の声で小さく波立った。
――何をだ。
「錦龍からは、取るな」
――契りを忘れたか。倒した者から一つずつ貰う。例外はない。
「じゃあ、負ける」
禍土はしばらく黙っていた。それから、ひどく優しい声で言った。
――負けてみろ。できるものなら。
翌日、黒嶽は土俵に上がった。錦龍が向かいの仕切り線で、照れたように少し笑った。こんなところで当たるとはな、という顔だった。
立ち合い。
黒嶽はわずかに腰を浮かせ、当たりを弱めた。錦龍の左が上手を取る。そのまま出し投げを打たせればいい。体を預ければ、それで終わる。
体が、動かなかった。
いや、動いていた。黒嶽の意志とは関わりなく。腰が後ろに落ち、両足が地に根を張り、右の手が錦龍の左の廻しを掴んだ。錦龍の出し投げは空を切り、その勢いをそのまま利用して、黒嶽の体は上手投げを打っていた。
錦龍の左腰が、不自然な角度でよじれた。
土俵に叩きつけられた錦龍は、しばらく起き上がらなかった。やがて腕を突いて身を起こそうとし、崩れ、もう一度試みて、呼出の肩を借りてようやく立ち上がった。一礼をして土俵を降りるとき、錦龍は黒嶽を振り返らなかった。
甘さが、口いっぱいに広がった。
昨日よりも、一昨日よりも濃かった。友のものは、友でない者のものよりも甘いのだと、黒嶽はそのとき知った。
支度部屋の隅で、黒嶽は手拭いを顔に押し当てた。豊海が、心配そうにそばに立っていた。
「兄さん、錦龍関、病院行ったそうです」
「……そうか」
「兄さんのせいじゃないですよ。あの人、腰、前から悪かったんですから」
豊海の声は優しかった。その優しさが、黒嶽には針のように刺さった。
――分かったか。
禍土が囁いた。
――お前の体は、もう負け方を知らん。土俵に上がれば勝つ。勝てば取る。それが契りだ。俺にも変えられん。
*
七戦全勝。
幕下三十四枚目の黒嶽は、幕下の優勝決定戦で幕下二枚目の元十両を一瞬で土俵の外へ突き出し、幕下優勝を果たした。優勝者掲額のない幕下の優勝は、表彰式も千秋楽の幕内取組の前にひっそりと行われる。客席は半分も埋まっていなかった。それでも、表彰状を受け取る黒嶽に、幕下の力士たちが拍手を送った。二十七で花を咲かせた苦労人に。
その七人の対戦相手のうち、六人が場所中に休場したことを、拍手をした者たちは知らなかった。優勝決定戦の相手を含めれば、八人中七人。残る一人は、年明けに父親が事業に失敗し、引退して郷里に戻った。
――運もまた、力のうちだ。
禍土はそう言った。
千秋楽の夜、部屋の打ち上げで、千鳥親方は美しそうに酒を飲んだ。親方は、後援会の男たちに向かって何度も同じ話をした。こいつは十五で来たんですよ、あの寒い下北から。十二年だ。十二年、誰よりも稽古した。それがようやく報われたんだ、と。
黒嶽は、勧められるままに酒を受けた。味はしなかった。酒はただの冷たい水で、熱燗はただのぬるい湯だった。無味の苦痛というものがあるのだと、黒嶽はこの二か月で学んでいた。山盛りの米を喰らっても、胃が膨れるだけで満たされない。寝ても疲れが取れない。ただ土俵で勝った瞬間だけ、あの甘さが、体の隅々までを潤す。
宴の片隅で、携帯電話が鳴った。
母だった。
「剛か。テレビで見たと、漁協の人が教えてくれた」
幕下の優勝など、ニュースの最後に一秒映るかどうかだ。それを漁協の誰かが見つけて、母に知らせてくれたのだ。
「えらかったな。えらかった」
母はそれしか言わなかった。受話器の向こうで、海鳴りが聞こえた。母の家は、港のすぐ上の坂にある。冬の風が、窓を鳴らしているのだろう。
「母ちゃん」
「ん」
「もう少しだから。もう少しで、関取だから」
「うん。無理すんな」
電話を切ったあと、黒嶽はしばらく庭に立っていた。宿舎の寺の庭には、古い墓石が並んでいた。月がそれを青白く照らしていた。
――無理はしていない。お前は、何も無理をしていない。
禍土が言った。
――無理をしているのは、お前に倒された者たちだ。
*
年が明け、一月場所の番付が発表された。
幕下五枚目。
幕下三十四枚目の全勝優勝でも、一気に十両とはいかない。幕下の十五枚目より上で全勝した者が十両へ上がる、というのが角界の慣例だ。だが五枚目なら、勝ち越せば十両が見える。五勝でも、恐らく。
一月場所の両国国技館で、黒嶽は六連勝した。
七番相撲の前日、支度部屋の入口で、黒嶽は一人の女に呼び止められた。
「黒嶽関、ですよね。東都スポーツの三枝と申します」
三十前後だろうか。黒いパンツスーツに、スニーカーを履いている。後ろでひとつに束ねた髪に、白いものが何本か混じっていた。取材証が首から下がっている。
「関取じゃないですよ」
「すぐになりますよ。先場所から十三連勝ですもの。教えてください。二十七歳で、何が変わったんですか」
女の目が、真っ直ぐに黒嶽を見ていた。好奇心と、そうでない何かが混じっている目だ。
「稽古です」
「稽古。そうですか」
三枝は手帳に何かを書きつけた。それから、何気ない口調で言った。
「それにしても、黒嶽関のお相手は、よく怪我をされますね」
黒嶽は、何も答えなかった。
「先場所が七人中六人。今場所が六人中五人。偶然だとは思いますけど、私、数字を拾うのが癖で。何か心当たりはあります?」
――この女は、鼻が利くな。
禍土の声が、低くなった。
「相撲は、怪我をするもんです」
黒嶽はそれだけ言って、支度部屋の暖簾をくぐった。背中に、女の視線がいつまでも張りついていた。
翌日、七番相撲。対戦相手は十両十四枚目の大野瀬川。十両と幕下の入れ替えを懸けた一番だった。
立ち合い、大野瀬川は黒嶽の当たりを受けた瞬間、土俵の外まで飛んだ。黒嶽は蹲踞し、勝ち名乗りを受け、口の中の甘さを味わった。その甘さの奥に、何かしら苦いものが混じっているような気がした。
翌々日、大野瀬川は引退届を出した。理由は公表されなかった。ただ、両国の飲み屋では、取組のその夜から右目が見えなくなったらしい、という噂が流れた。
一月場所後の番付編成会議で、黒嶽の十両昇進が決まった。
部屋の稽古場でその知らせを受けたとき、豊海が泣いた。女将が泣いた。千鳥親方は泣かなかったが、黒嶽の肩を一度だけ強く叩いた。
「紺だったな。締め込みの色。十五のときに言ってただろう」
親方は覚えていたのだ。
「……はい」
黒嶽の目からも、涙が一筋だけ落ちた。それが喜びの涙なのか、そうでないものなのか、自分でも分からなかった。
――泣くな。ここからが始まりだ。
禍土が言った。
――関取の土俵は、十五日ある。十五人から取れる。
第四章 関取
紺の締め込みは、後援会の会長が贈ってくれた。
鎌倉の水産加工会社の社長で、千鳥親方の現役時代からの贔屓だという。下北の漁師の息子だと知ると、社長は自分のことのように喜んだ。化粧廻しも作ろう、何がいい、海がいいか、と訊かれ、黒嶽はしばらく考えてから答えた。
「山がいいです」
「山?」
「恐山です。下北の」
恐山は、死者の魂が集まる山だという。硞黄の匂いが漂う灰色の岩場に、風車が回り、石が積まれ、宇曽利湖が不自然なほど翠色に光っている。父の葬式のあと、母に連れられて一度だけ行った。イタコの口寄せを頼むかどうか、母は長いこと迷って、結局頼まずに帰った。父ちゃんの声は、俺が覚えてるからいい、と言って。
社長は少し戸惑った顔をしたが、やがて笑った。いいじゃないか、霊場を背負う力士というのは強そうだ。
三月場所、大阪。黒嶽は、灰色の山と黒い湖を織り出した化粧廻しを締めて、初めて十両土俵入りの列に並んだ。客席から、ため息ともつかぬどよめきが上がった。美しい化粧廻しではなかった。だが、目を離せない何かがあった。
十両での初場所、黒嶽は十四勝一敗で優勝した。
一つの黒星は、五日目に喫したものだった。相手は、引退を表明したばかりの三十六歳の元小結。この場所が最後だと、新聞にも書かれていた。立ち合いで黒嶽の体は相手を土俵際まで運び、そこでふいに力が抜けた。元小結の弓なりが決まり、黒嶽は土俵の外に身を投げ出した。
――死にかけの獣を喰う趣味はない。
禍土はそう言った。それが慈悲なのか、ただの好みなのか、黒嶽には分からなかった。ただ、その夜、黒嶽は宿舎の布団の中で、空腹に似た飢えに一晩中苦しんだ。勝てなかった日は、甘さがこない。甘さがこなければ、体は乾く。喜びの前に、勝利はもう食事になっていた。
*
十両優勝でも、十両の番付が低ければ、入幕は即座には叶わない。五月場所、黒嶽は十両三枚目にいた。ここで大きく勝ち越せば、名古屋では幕内だ。
その場所、十両の優勝争いを引っ張っていたのは、若潮という力士だった。
幕内で前頭上位まで張ったことがあり、右肩の手術で十両に落ちていた。二十九歳。綺麗な相撲を取る力士で、女性ファンが多く、花道ではいつも拍手が起きた。十一日目を終えて、黒嶽と若潮はともに十勝一敗。一枚しかない幕内への切符を、二人で争う形になった。
十二日目の朝、宿舎の部屋で、黒嶽は禍土に訊いた。
「若潮とは、当たるのか」
――当たる。千秋楽だ。優勝も、入幕も、そこで決まる。
「勝てるのか」
――勝てる。だが、大事なことを一つ教えてやろう。
禍土の声が、少しだけ改まった。
――俺は、土俵の上でしか取れん。相手が土俵に上がらなければ、俺には手が出せん。そしてお前も、土俵の外ではただの人だ。
「……何が言いたい」
――若潮には、穴がある。
黒嶽は黙った。
――お前はこの場所、若潮と一度、巡業で稽古をしただろう。胸を合わせた。俺はそのとき、あいつの中を覗いた。
地方巡業の公開稽古で、一度だけ申し合いをしたことがある。若潮の当たりは柔らかく、それでいて芯があった。
――あいつは、野球賭博の胴元に借金がある。年の瀬後で三百万。後輩の力士を二人、引き込んでもいる。その一人の名前も、胴元の電話番号も、俺は知っている。
十数年前、角界を揺るがした野球賭博事件があった。関わった力士や親方が大勢解雇され、場所の生中継が中止された。それ以来、角界は賭博に関しては、一切の寛容を捨てた。
――それを、しかるべきところに教える。あいつは千秋楽の土俵に上がれなくなる。お前は不戦勝で優勝し、入幕する。
「不戦勝じゃ、お前は何も取れないだろう」
――その通りだ。
禍土が笑った。
――だから、これは俺のためではない。お前のための話だ。土俵で若潮に勝てば、俺はあいつから何かを取る。右肩かもしれんし、もっと大事なものかもしれん。だが土俵の外で片をつければ、あいつが失うのは、あいつが自分で掘った穴の分だけだ。
黒嶽は、窓の外を見た。大阪の宿舎は商店街の奥の公民館で、窓からは幼稚園の園庭が見えた。子どもたちが、砂場ですもうを取っていた。小さな体がぶつかり、転び、笑いながらまた立ち上がる。
――言っただろう。いずれお前が選ぶようになる、と。
黒嶽は、携帯電話を取り出した。
後から思えば、そのとき黒嶽の指を動かしたのは、禍土ではなかった。禍土は土俵の外では体を動かせない。それは、本人がそう言っていた。
黒嶽は、公衆電話を探しに宿舎を出た。携帯電話を使わない程度の知恵は、自分で回った。
*
十三日目の夕方、ある週刊誌の電子版が、十両力士の野球賭博疑惑を報じた。記事には、力士の名前を伏せたまま、胴元とのやり取りの内容が詳細に記されていた。誰であるかは、角界の人間なら一読して分かった。
十四日目の朝、日本相撲協会は若潮に事情を聴取し、若潮は休場した。その日の対戦相手が不戦勝となり、千秋楽の黒嶽との対戦は組まれなかった。黒嶽は十四日目、千秋楽と勝ち、十三勝二敗で十両優勝を飾った。
場所後、若潮は解雇处分となった。引き込まれた後輩の二人も、幕下と三段目の力士だったが、引退勧告を受けた。
若潮が部屋を去る日、断髪式もなく、理容室で髪を切ったという話を、黒嶽は支度部屋の噂で聞いた。その噂をしていた十両力士たちは、若潮もバカだよなと言い、でも誰がタレ込んだんだろうなと言った。誰かの後輩が、引き込まれたことを息んだんじゃないか。そういうことになった。
黒嶽は、彼らの話を黙って聞いていた。
甘さは、こなかった。
土俵の外での勝利には、何の味もなかった。ただ、胸の奥に、冷たく硬い石が一つ、置かれたような感触があった。その石は、何日経っても溶けなかった。
――それが、お前自身の味だ。
禍土が言った。
――覚えておけ。それにも、いずれ慣れる。
*
五月場所の千秋楽の夜、部屋に戻ると、玄関に三枝沙織が立っていた。
「優勝、おめでとうございます」
彼女は頭を下げた。それから、頭を上げないまま言った。
「若潮さんの件。週刊誌の記者に、知り合いがいるんです。ネタ元は、大阪の公衆電話からの匿名の電話だったそうです」
黒嶽の後ろで、荷物を持った豊海が立ち止まった。
「公衆電話なんて、今どきもう少ないですよね。場所も、だいたい分かるそうです。商店街の、公民館のそばの」
「……何の話ですか」
「千鳥部屋の大阪場所の宿舎、公民館でしたよね」
三枝が、ようやく顔を上げた。笑ってはいなかった。
「記事にするつもりはありません。証拠は何もないし、若潮さんがやったことは事実ですから。ただ、私は知りたいんです。幕下で七年勝てなかった人が、半年でここまで来た理由を」
――この女を、土俵に上げられればな。
禍土が、心底惜しそうに言った。
「稽古です」
黒嶽は、一月に答えたのと同じことを言った。そして、三枝の横を通り過ぎ、玄関の戸を閉めた。
閉めた戸の内側で、豊海が荷物を抱えたまま、黒嶽を見ていた。
「兄さん……」
「何だ」
「いえ。あの記者、嫌な感じですね」
豊海はそう言って、笑った。無理に笑っているのが、黒嶽には分かった。
大阪場所の十二日目の夕方、宿舎を出ていく黒嶽に、「どちらへ」と声をかけたのは、付け人の豊海だった。散歩だ、と黒嶽は答えた。そのとき豊海がどんな顔をしていたか、黒嶽は覚えていなかった。
名古屋場所の番付で、黒嶽は前頭十三枚目に名前を載せた。新入幕。二十八歳の誕生日を迎えて、一週間後のことだった。
第五章 幕内
幕内の土俵入りは、十両のそれとは空気が違う。
花道の奥で列を作り、行司の先導で一人ずつ土俵に上がる。四股名と出身地と所属部屋が場内放送で読み上げられ、客席からそのたびに拍手とかけ声が飛ぶ。土俵を円く囲んで外向きに立ち、最後の一人が上がると、一斉に内向きになって拍手を打ち、化粧廻しを少し持ち上げ、両手を上げる。
七月場所初日、名古屋。前頭十三枚目、黒嶽。青森県下北郡出身、千鳥部屋。
恐山の化粧廻しが、天井の照明を青白く跳ね返した。十か月前、両国の館内で、黒嶽は幕下二十八枚目の土俵から、誰にも見られずに引き揚げたのだ。
客席の一角に、「黒嶽」と紺地に白く染め抜いた手拭いを広げている一団がいた。後援会の社長が、鎌倉からバスを仕立ててきたのだ。そのすぐ後ろの席で、三枝沙織がノートを開いていた。
*
新入幕の場所を、黒嶽は十二勝三敗で終えた。
三つの黒星は、いずれも自ら土俵を割ったものだった。一つは引退間際のベテラン。一つは、稽古場で親指を痛めていると禍土が見抜いた若手。そして最後の一つは、千秋楽に当たった同郷の青森出身の力士だった。その力士は七勝七敗で千秋楽を迎え、勝ち越しをかけていた。
――甘いな。
禍土は不満そうに言ったが、その声にはどこか面白がる響きがあった。
――俺が取る相手を、お前が選んでいる。分かっているのか。それもまた、選ぶということだ。
黒嶽は答えなかった。負けを選んだ日の夜は、飢えで眠れない。それでも、十五日のうち三日だけは、自分が自分であると確かめる日が欲しかった。
敢闘賞を受けた。表彰式で小さなトロフィーを受け取るとき、客席で千鳥親方が拍手しているのが見えた。親方は審判委員でも役員でもないから、客席で見ているしかないのだ。親方の拍手は、他の誰よりも長く続いた。
場所後の夏巡業で、黒嶽は初めて「天翔」と同じ支度部屋に入った。
天翔。本名は天城翔。青森県弘前市の出身で、東京の大学で学生横綱になり、幕下付出で角界入りした。それからわずか四年で大関に昇進し、いまは二十六。大関として一度優勝し、次の横綱に最も近いと言われている。山のような体に、少年のような笑顔。日本中が、彼を好いていた。
そして黒嶽は、彼を知っていた。
十五年前。青森県の中学相撲大会の準決勝。中学三年の黒岩剛を、一学年下の天城翔が、下手投げで土俵に転がした。黒岩は三位、天城は優勝。その大会を見に来ていた千鳥親方が黒岩に声をかけたのは、優勝した天城が進学を選んだからだ。親方自身が、後に酒の席で口を滑らせたことがある。
支度部屋の奥、大関の席で、天翔がふと顔を上げた。そして、黒嶽を見つけて、立ち上がった。
「黒岩さんですよね。下北の」
大関が前頭に自分から歩み寄るのは、異例のことだった。支度部屋の力士たちが、ちらちらとこちらを見た。
「覚えてますか。中学の県大会で、一度だけ当たったんです。あのときの黒岩さんの立ち合い、すごかった。俺、怖くて下に潜るしかなかったんですよ」
天翔は、本当に嬉しそうだった。
「入幕、おめでとうございます。ずっと番付、見てたんです。いつか上がってくるって思ってました」
「……どうも」
黒嶽は、それだけ言うのがやっとだった。
天翔の前に立っていると、体の奥で禍土が身じろぎしたような気がした。いや、身じろぎではない。身を縮めたのだ。炭火に近づけられた蛇のように。
天翔が立ち去ったあと、禍土が低く言った。
――あいつには、守りがある。
「守り?」
――締め込みの内側に、紙を一枚縫いつけている。俺にはそれが、火のように見える。大和の古い社の、磐座の御幣だ。
「御幣……」
――その社の名は、俺も昔から知っている。俺のようなものを、何度も土に戻してきた家だ。そこの息子が、今の横綱だろう。
第七十九代横綱、不動岳。奈良県の山あいの古い神社の、社家の三男だという。三十四歳。横綱在位七年、優勝二十一回。肩と膝に持病を抱え、送り込みはもう長くないと言われながら、土俵に上がればいまだに誰も寄せつけない。天翔は不動岳と同じ一門で、出稽古でよく胸を借りている。
――横綱が、弟分に持たせたのだろう。あの御幣があるかぎり、俺はあいつに触れられん。あいつと土俵で当たれば、お前はただのお前で当たることになる。
「ただの俺で、……天翔に」
――そうだ。幕下で七年くすぶっていた、ただのお前で。
*
九月場所。黒嶽は前頭三枚目まで番付を上げた。上位と総当たりの地位だ。
初日に小結、二日目に関脇を破った。三日目、初めて大関と当たった。豪剛山。三十一歳、大関在位三年。右四つの寄りには定評がある。
立ち合い、豪剛山は素早く左上手を取った。それを引きつけ、寄ってきた。黒嶽の踵が俵にかかる。そこで、黒嶽の体が、またあの、自分のものではない動きをした。俵の上で左に回り、豪剛山の寄りの力を、そのまま土俵の外へ流した。うっちゃり。豪剛山は土俵下に一人で落ちていった。
大関からの初白星。甘さは、これまでで一番深かった。
――俺は、あいつの「前に出る心」を貰った。
禍土が満足そうに言った。
豪剛山はその場所、そこから七連敗した。立ち合いで当たれなくなった。引いて、いなして、土俵際で疲れを抱えたかのように姿勢を崩す。解説者は「気持ちが切れている」と言い、新聞は「大関の諸野」を書いた。豪剛山は負け越して角番となり、翌場所も大きく負け越して関脇に陰落した。そして三場所後に引退した。
引退会見で、豪剛山は「土俵に上がるのが怖くなった」と言った。何が怖いのかと記者に訊かれ、彼はしばらく考えてから、分からない、と答えた。ただ、仕切り線の向こうが、とても暗く見えるようになったんです、と。
*
九月場所十日目。黒嶽はここまで八勝一敗。その一敗は、五日目に横綱不動岳に喫したものだった。
不動岳との一番は、一瞬だった。立ち合いで当たった瞬間、黒嶽は、体の中から禍土が消えたような感覚を味わった。水を抜かれた魚のように、体が空っぽになった。そこを、横綱の左のおっつけが軽く押した。黒嶽は、自分でも信じられないほどあっけなく、土俵の外に出ていた。
土俵下で一礼をして顔を上げると、不動岳がこちらを見ていた。
細い目だった。憐れみでも、怒りでもない。ただ、遠い山の稜線に上がる煙を見るような、静かな目だった。
そして十日目、大関天翔。
支度部屋で、禍土は一言も喋らなかった。黒嶽は、久しぶりに自分だけの頭の中の静けさを味わった。それは安らぎではなかった。空家のような、空っぽの静けさだった。
土俵で仕切りを重ねる。天翔は、子どものように楽しそうな顔をしていた。一度、黒嶽と目が合うと、小さく頷くような仕草をした。やっと当たれますね、という顔だった。
時間一杯。
立ち合い。
黒嶽は、中学三年のあの日のように、頭から当たった。それしかできなかった。天翔の胸は、崖のように分厚かった。それでも前に出た。一歩、二歩。天翔の踵が俵にかかる。
そこで天翔の左が、黒嶽の右脇の下に潜った。
十五年前と同じだった。下手投げ。黒嶽の体はゆっくりと宙を回り、土俵の真ん中に背中から落ちた。
天井が見えた。吊り屋根の四隅に下がる房が、青、赤、白、黒と揺れていた。館内が沸いた。天翔が手を差し伸べていた。
「……強くなりましたね、黒岩さん」
天翔は、息を切らせながら、小声で言った。
「でも、変わりましたね。俺、中学のときの黒岩さんの相撲の方が好きでした」
黒嶽はその手を取らずに立ち上がった。
土俵を降り、花道を引き揚げながら、口の中が乾いていくのを感じた。甘さはない。黒嶽自身の味も、もうしない。ただ、砂の味だけがした。十二年間の、あの土俵の砂の味だけが。
――悪かったな。
花道の出口で、禍土が戻ってきて言った。その声には、初めて苛立ちが混じっていた。
――あの御幣さえなければ、あいつの膝は今ごろ俺のものだ。
黒嶽は立ち止まった。
「……御幣さえなければ、か」
――そうだ。
「それがなければ、天翔に勝てるのか」
――勝てる。
黒嶽は、花道の後ろを振り返った。土俵の上では、天翔が蹲踞して勝ち名乗りを受け、懸賞金の束を手刀を切って受け取っていた。その大きな背中を、黒嶽は、しばらく見つめていた。
十五年前も、同じ背中を見た。優勝の賞状を受け取る小さな背中を。三位の黒岩剛は、体育館の壁際に立ち、拍手をしながら、それを見ていた。
あのとき、自分は何を思っていたのだろう。いつか勝ちたい、とだけ思っていたのだろうか。それとも、あいつさえいなければ、と思っていたのだろうか。
どちらだったのか、黒嶽にはもう思い出せなかった。
*
九月場所を、黒嶽は十一勝四敗で終えた。横綱、大関天翔、そして終盤に二つ。殊勲賞と敢闘賞を受け、九州場所での新三役、小結昇進が確実となった。
千秋楽の夜、東都スポーツの紙面の片隅に、小さなコラムが載った。署名は三枝沙織。タイトルは「対戦相手の故障率」。
「ここ一年、ある力士と対戦した力士が、その場所中に休場、もしくは翌場所を全休した割合は六十二パーセントにのぼる。幕内平均の約八倍だ。もちろん、取口の激しさを示す数字とも読める。筆者はこの力士の名を、ここには記さない。数字はただの数字である。ただ、数字は嘘をつかないとも言う」
黒嶽は、その記事を、部屋の大部屋で豊海が隠すように読んでいるところで知った。豊海は黒嶽に気づくと、慣てて新聞を畳み、笑った。
「こんなの、言いがかりですよね。兄さんの相撲が強いから、相手が無理するんですよ」
「……そうか」
「そうですよ」
豊海は、新聞を背中に隠したまま、大部屋を出ていった。その背中が、入門したばかりの頃より一回り大きくなっていることに、黒嶽はそのとき初めて気づいた。豊海はこの場所、三段目で六勝一敗だった。幕下が見えている。
――いい体になってきたな。
禍土が言った。
「あいつには手を出すな」
――出すも何も。俺は土俵の上でしか取れん。本場所であいつとお前が当たることはない。同じ部屋だからな。
禍土は、そこで少し間を置いた。
――本場所では、な。
稽古場の土俵も、土俵だ。黒嶽はそのことに、そのときはまだ気づかなかった。いや、気づいていたのに、気づかないふりをしたのかもしれない。一年前の九月のあの朝、鶴ヶ浜と十番取ったあと、鶴ヶ浜は九州場所で負け越し、今も幕下の下の方でもがいている。関取を目の前にしていたはずの男が。
あの朝以来、黒嶽は部屋の稽古場で、一度も申し合いをしていなかった。四股と鉄砲とすり足だけをし、稽古の相手は外の部屋に出稽古で求めた。親方には、部屋には胸を借りる上位がいないから、と説明した。親方は納得したような顔をした。
納得したような顔をしていただけだと、黒嶽が知るのは、十一月に入ってからのことだった。
第六章 親方
九州場所を一週間後に控えた夜、福岡の宿舎の寺で、千鳥親方が黒嶽を本堂に呼んだ。
去年、黒嶽が錦龍のことを考えながら湯船に浸かった、あの寺だった。本堂の奥に、古びた阿弥陀如来が座している。美しいとも恐ろしいとも言えない、ただ古いだけの仏だった。
親方は仏の前に正座していた。その膝の前に、紐で綴じた古い帳面が置かれていた。
「座れ」
一年あまり前、秋場所の後に呼ばれたときと同じ言葉だった。だが、声が違った。
黒嶽は正座した。本堂の板の間が、冷たかった。
「これは、初代の親方の日記だ」
親方は、帳面に手を置いた。
「先代から受け継いだ。俺も一度、若い頃にぱらぱらとめくっただけで、ずっと仏壇の引き出しにしまってあった。明治の崩し字で、読めたもんじゃない。だが、この一か月、女房の知り合いの大学の先生に頼んで、読んでもらった」
親方は、帳面の一箇所を開いた。黒嶽には、墨の跡が虫のように絡み合っているとしか見えなかった。
「明治三十九年。部屋に、鬼門という大関がいた」
黒嶽は黙っていた。体の奥で、禍土も黙っていた。
「幕下で長くくすぶっていた男で、ある年から急に勝ち始めた。対戦相手が次々と怪我をした。初代は最初、喜んでいた。だが、ある夜、鬼門が稽古場の土俵で、誰もいないのに誰かと話しているのを見た。それから、初代は調べ始めた」
親方は頁をめくった。
「土俵の底に禍あり。この地、古くは刑場なりしか、あるいは大火の死人を埋めし地なりしか。土に沁みたる恨み、稽古の血を吸いて形を得たり。――そう書いてあるらしい」
――嘘だ。
禍土が、小さく吐き捨てた。
――俺はもっと古い。刑場も大火も、俺にとっては昨日のことだ。
「鬼門は大関になり、横綱を目前にして、稽古場の土俵で死んだ。心の臓が止まっていた。初代はその後、土俵を一度掘り返し、底に特別な鎮め物を埋めた。普通の土俵祭の鎮め物のほかに、もう一つ。――鬼門の髷だ」
本堂の蛍光灯が、ちりちりと鳴った。一年あまり前の、あの夜と同じ音だった。
「取りつかれた者の髪を供え、毎年の土俵祭で祝詞をあげ続ければ、禍は起きぬ。ただし、土俵に血を注ぐべからず。特に、勝ちたいと願う者の血を。――そう書いてある」
親方は、帳面を閉じた。
そして、黒嶽の顔を見た。
「黒嶽。一年あまり前の九月の夜、お前、稽古場で何をした」
黒嶽は答えなかった。
「豊海が、女房に話したんだ。あの朝、お前が土俵の真ん中で倒れていたと。鉄砲柱に、血の跡があったと。それなのに、お前の手には傷一つなかったと。あいつは、ずっと気にしていた。それから、夜中にお前が、誰もいないところで誰かと話しているのも、何度も聞いたと。若潮の件もだ。大阪の宿舎でお前が出ていった日のことも、あいつは覚えていた」
親方の声が、わずかに震えた。
「あいつは泣きながら話したそうだ。兄さんが悪いことをするはずがない。でも、兄さんが兄さんじゃなくなっていく気がする、と」
黒嶽は、仏を見た。古い仏は、半眼でどこでもないところを見ていた。
「……親方は、信じるんですか。そんな話を」
「信じたくない。だがな」
親方は、懐から一枚の紙を取り出した。新聞の切り抜きだった。三枝沙織のコラム。
「六十二パーセントだそうだ。この記者は、俺のところにも来た。俺は追い返した。だが、あとで一人で数えてみた。鶴ヶ浜のことも数えた。あいつは、お前と十番取ったあの朝から、稽古で一度も前に出られんようになった」
親方は切り抜きを帳面の上に置いた。
「黒嶽。俺はお前を十五で拾った。お前のおっかさんに、息子さんをお預かりしますと頭を下げた。だから、俺がやらなきゃならん」
「……何をですか」
「土俵祭だ」
親方は立ち上がった。膝が悪いのだろう、仏壇の縁に手をついた。
「九州が終わったら、東京に戻ってすぐにやる。初代のやり方でな。土俵を掘り返して、お前の髪を供える。引退しろとは言わん。髪はまた伸びる。伸びるまで、ざんばらで土俵に上がればいい。それで勝てなくなっても、それはお前の相撲だ」
――この男を、土俵に上げろ。
禍土の声が、頭蓋の内側を引っかいた。それはもう囁きではなかった。叫びだった。
――土俵祭だと? この男は土俵に上がる。祖主としてな。土俵の上で俺を封じようとする。分かるか。この男は、自分から土俵に上がるんだ。
黒嶽は、立ち上がった親方の背中を見た。
小さくなった背中だった。「鎌倉の牛」と呼ばれた男の背中は、十二年前、下北の港の駐車場で黒嶽を迎えたとき、山のように大きかった。その山が、いつの間にか、こんなに小さくなっていた。
「親方」
黒嶽は言った。
「……分かりました」
親方は振り返った。そして、少しだけ笑った。
「そうか」
その笑顔を、黒嶽はその後の人生で、一度も忘れることができなかった。
*
九州場所を、新小結の黒嶽は十一勝四敗で終えた。
場所中、黒嶽は一度も禍土と口をきかなかった。禍土もまた、土俵の上で黒嶽の体を動かし、勝ち、取り立てる以外には、何も言わなかった。その沈黙が、黒嶽には恐ろしかった。獲物を待つ獣は、吼えない。
千秋楽の翌日、一行は東京に戻った。
その夜、千鳥親方は稽古場の土俵に、一人で座っていた。
土俵祭は本来、行司が祖主を務め、神主の装束で祖詞を奈上する。だがその夜、親方は行司を呼ばなかった。白い着物に、紺の袋。初代の日記に記されていた通りの、古い形の礼装だった。土俵の四隅に御幣が立てられ、中央には新しい穴が穿たれていた。穴の働に、三方に勝栗と昆布と塩と、そして白い半紙に包まれた何かが乗っていた。
女将は二階にいた。若い衆は、親方が十時以降は稽古場に入るなと言い渡していた。豊海だけが、階段の上で膝を抱えて座っているのを、黒嶽は通りしなに見た。
黒嶽は、稽古場に入った。
「来たか」
親方は、土俵の中央、穴の向こう側に正座していた。
「座れ。穴のこちら側にな。土俵の中に入れ」
黒嶽は、俵をまたいだ。
足が土俵の土を踏んだ瞬間、体の中で何かが、弓の弦を引くように張りつめた。
「髪を切る前に、一つだけ訊く」
親方が、鋏を手に取った。断髪式で使う、金色の鋏だった。
「お前は、勝ちたかったのか。それとも、関取になりたかったのか」
黒嶽は、すぐには答えられなかった。
「……同じじゃないんですか」
「違う。関取になりたい男は、稽古をする。勝ちたいだけの男は、何でもする」
親方は、鋏を膝の上に置いた。
「お前は十二年、稽古をした。だから俺は、お前が関取になりたい男だと知っている。俺はそっちのお前を、取り戻したい」
――終わりだ。こいつは土俵の上にいる。
禍土の声が、地の底から響いた。
――選べ。こいつに封じられ、幕下の底に戻るか。それとも、こいつを倒すか。
「……親方」
黒嶽は、立ち上がっていた。
親方が、黒嶽を見上げた。その目に、驚きはなかった。こうなることを、どこかで分かっていたような目だった。
「……そうか」
親方も、立ち上がった。白い着物の裾をからげ、袋の紐を締め直した。そして、穴を挟んで、仕切り線の後ろに腰を落とした。
「来い。一番だけ、胸を出してやる」
六十二歳の元関脇は、拳を土についた。その姿勢は、何十年経っても崩れていなかった。首を肩に埋め、背を丸め、前だけを見ている。鎌倉の牛。突き放されても突き放されても前に出た男。
黒嶽も、拳をついた。
穴が、二人のあいだで黒く口を開けていた。
立った。
親方の頭が、黒嶽の胸に入った。重かった。六十二歳の、百キロにも満たない体とは思えないほど重かった。黒嶽は、一歩だけ下がった。十二年間、この男の胸に当たり続け、一度も動かせなかった日々が、その一歩に詰まっていた。
だが、一歩だけだった。
黒嶽の体が、前に出た。親方の踵が、穴の縁にかかり、そこで止まった。親方の腕が、黒嶽の胸を突いた。一度、二度。そのたびに、黒嶽の胸に、十五の春の自分が受けた突きの痛みが蘇った。
――取れ。
禍土が言った。
――お前が選べ。何を取る。
初めてだった。禍土が、取るものを黒嶽に委ねたのは。
黒嶽は、親方の顔を見た。汗に濡れた額。食いしばった歯。そして、何かを叫ぼうとしている口元。この口が、もう一度開けば、祖詞が唱えられる。この口が、もう一度開けば、女将に、豊海に、三枝沙織に、何もかもが語られる。
「……声だ」
黒嶽は、そう答えていた。
突き落とし。
親方の体が、左に崩れた。土俵に右の肩から落ち、穴の働の三方を倒した。勝栗が転がり、塩が散らばった。白い半紙の包みが穴の中に落ちた。
親方は、起き上がろうとした。左の腕だけが動いた。右の腕も、右の足も、もう動かなかった。口が開いた。何かを言おうとしていた。だが、そこから出てきたのは、壊れた笛のような、かすれた息の音だけだった。
口の中に、甘さが広がった。
それは、これまでのどの甘さとも違った。稽古場の土の匂い、古い寺の線香、十五の春に初めて食べた、ちゃんこの鍋の湯気。親方が十二年かけて黒嶽にくれたものの、すべての味がした。それが、喉を通り、胃に落ち、体の隅々に染みわたっていった。
黒嶽は、何も考えられなかった。ただ、その味を味わっていた。味わい尽くしていた。
――穴を埋めろ。
禍土が言った。
――それから、あの帳面を燃やせ。それから、女将を呼べ。親方が倒れたと。土俵祭の最中に、一人で倒れたと。
黒嶽は、その通りにした。
半紙の包みを穴の底から拾い上げ、開いた。中には、黒い髪の束が入っていた。百年以上経っても、つやを失っていない髪。鬼門の髪だ。親方は、初代が埋めたものを、一度掘り出して、黒嶽の髪と一緒に埋め直すつもりだったのだ。
黒嶽は、その髪を、台所のコンロで帳面と一緒に燃やした。燃える髪は、砂浜で焦げる海藻のような匂いがした。
それから、階段を上がり、女将を呼んだ。階段の上で、豊海が膝を抱えたまま眠っていた。その寝顔を跨ぐとき、黒嶽は、豊海が本当に眠っているのかどうかを、確かめなかった。
*
千鳥親方は、脳梗塞と診断された。命は取り留めた。だが、右半身に麻痺が残り、言葉を失った。医師は失語症だと説明した。話すことも、書くことも、難しいでしょう、と。
年が明け、千鳥部屋は部屋付きの浦風親方が師匠を代行することになった。元前頭の浦風親方は、人はいいが気の弱い男だった。部屋のことは、女将と部屋頭の小結黒嶽とに相談して決めるようになった。いや、実際には、黒嶽が決め、二人が頷いた。
千鳥親方は、二階の奥の部屋で、介護用のベッドに横たわって過ごした。黒嶽は毎朝、稽古の前にその部屋に入り、親方に頭を下げた。親方は、動く左の目だけで、黒嶽を見た。その目に何が浮かんでいるのか、黒嶽は、一度も確かめようとしなかった。
女将は、一度だけ、黒嶽に言った。
「あの人、ね。倒れる前の日、黒嶽はいい子だから大丈夫だって、そう言ってたのよ」
黒嶽は、頭を下げた。女将はそれを、感謝の印だと受け取ったようだった。
あの夜以来、口の中に残った親方の味は、何日経っても消えなかった。そして、その味を思い出すたびに、黒嶽は、もう一度それを味わいたいと思っている自分に気づいた。
――それでいい。
禍土が言った。
――それが、俺たちの味だ。
第七章 大関取り
大関への昇進には、明文化された規定がない。
三役で三場所、合計三十三勝。それが目安だと、新聞もテレビも口を揃えて言う。だがそれはあくまで目安であって、最後に決めるのは審判部だ。審判部が理事長に臨時理事会の招集を要請し、理事会が昇進を決める。審判部が要請しなければ、三十四勝しようが三十五勝しようが、大関にはなれない。
年が明けた一月場所、黒嶽は関脇に昇進し、十二勝三敗で準優勝を果たした。優勝は十三勝の天翔。黒嶽はこの場所も、天翔と不動岳にだけは、まるで大人と子どものように転がされた。それ以外の力士には、一つを除いてすべて勝った。
九州場所の十一勝と合わせて二場所で二十三勝。三月場所で十勝すれば、三十三勝に届く。
千秋楽の翌日、審判部長の鷲尾親方が、記者たちの前でこう話した。
「黒嶽は、数字はもちろんだが、内容も見なきゃいかん。それにねぇ、ちょっと怪我人が多すぎるよ。本人に悪気があるとは言わんが、大関には品格というもんが要る。相手を壊す相撲を、俺は大関の相撲とは言わん」
翌日のスポーツ紙は、「鷲尾部長、黒嶽の大関取りに苦言」と書いた。いくつかの新聞は、九月に三枝沙織が書いた「対戦相手の故障率」を引き合いに出した。あのコラムは、二か月のあいだに、片隅の小さな記事から、角界の誰もが知るものになっていた。
――あの女の一矢が、小さく届いたな。
禍土が言った。
部屋の大部屋で、黒嶽は新聞を閉じた。窓の外で、雪が降りだしていた。東京の雪は、水を含んで重い。下北の雪は、乾いて、砂のように横から吹きつける。
「鷲尾親方は、何を持ってる」
黒嶽は、一人言のように尋ねた。
――それを訊くようになったか。
禍土の声には、笑いが混じっていた。だがその笑いは、以前のような嘲りではなかった。弟子の上達を喜ぶ師匠のような、どこか身内めいた笑いだった。
――お前は先場所の八日目、鷲ノ海と当たっただろう。鷲尾部屋の部屋頭だ。俺はあいつから、左の肩を貰った。そのついでに、中も覗いた。
鷲ノ海は八日目に黒嶽に引き落とされ、土俵に手をついた瞬間に左肩を脱臼した。九日目から休場し、三月場所も全休が決まっている。
――鷲ノ海は、師匠の使い走りをしていた。十年前、鷲尾が年寄株を手に入れたときの金の出所を知っている。師匠が現役時代に、どの取組で、誰と、いくらで白星を買ったかもだ。鷲尾は大関になれなかった男だ。関脇で大関取りに挑んだ場所の千秋楽、彼は、ある大関に百万を渡している。それでも大関にはなれなかった。その大関は金を受け取りながら、本気で取ったからだ。
黒嶽は、窓の外の雪を見ていた。
――品格だそうだ。笑わせるな。
*
二月の初め、赤坂の料亭の奥座敷で、黒嶽は鷲尾親方と向かい合った。
鷲尾親方は、会うこと自体を渋った。関脇が審判部長と、しかも大関取りの直前に、二人きりで会うなど、あってはならないことだった。だが、黒嶽が代議士秘書を通して送った手紙には、十年前のある日付と、ある金額が書かれていた。それだけで、親方は来た。
代議士秘書は、後援会長の社長の紹介で知り合った男だった。黒嶽が関取になってから、そういう男たちが、席を設け、酌をし、名刺を差し出すようになっていた。黒嶽はその名刺を、一枚も捨てずに取っておいた。
「何のつもりだ」
鷲尾親方は、祈りのように組んだ手の向こうから言った。六十九歳。元関脇。審判部長としては、厳しいが公平だという評判だった。
「何のつもりも、ありません」
黒嶽は、酒を注いだ。味のしない酒を。
「ただ、親方が、内容を見るとおっしゃったので。内容というものについて、ご相談をしたかったんです」
鷲尾親方の顔から、血の気が引いていった。
「……誰から聞いた」
「土俵からです」
「ふざけるな」
「ふざけていません。親方。俺は三月、十勝します。それで三十三勝です。審判部が、臨時理事会の招集を要請すれば、それで終わる話です」
「……それを、俺に頼むために、こんなものを」
「頼んではいません」
黒嶽は、杯を置いた。
「俺は、勝ちます。親方は、それを見ていてくださればいい。それだけです」
鷲尾親方は、長いあいだ黒嶽を見ていた。その目が、何かを尋ねようとして、やめた。
「……俺はな、黒嶽」
親方は、組んだ手をほどいた。
「あのとき、金を渡した大関に、押し出されたんだ。金を受け取っておいて、あいつは本気で取った。土俵下で、あいつは俺にだけ聞こえる声で言ったよ。『大関は、金じゃ買えん』ってな」
親方は、乾いた笑い声を立てた。
「その金を、あいつは翌日、郵便で俺に送り返してきた。紙一枚も添えずにな。俺はそれ以来、公平であろうとしてきた。それがせめてもの償いだと思ってきた。――だが、償いなんてもんは、結局、自分のためにやるもんだな」
鷲尾親方は、座布団から立ち上がった。
「十勝しろ。そしたら、俺は要請する」
「ありがとうございます」
「礼を言うな」
親方は襖に手をかけ、そこで振り返った。
「一つだけ教えてくれ。下北から出てきた、あの粗朴な若いのは、どこへ行ったんだ」
黒嶽は、何も答えなかった。答えがなかったのではない。その問いが、自分に向けられたものだと、一瞬、分からなかったのだ。
*
三枝沙織が、部屋の前で豊海を待ち伏せている、という話を黒嶽が聞いたのは、二月の半ばだった。
教えてくれたのは、女将だった。豊海が、周りによく小立ちで話し込んでいる、このあいだは喫茶店に入っていくのを見た、と。女将は心配そうだった。あの子は何でも喛っちゃうから、と。
黒嶽は、豊海には何も言わなかった。
代わりに、鷲尾親方に一本電話をかけた。
三日後、日本相撲協会の広報部から東都スポーツに、一通の文書が届いた。貴社記者が、協会の許可なく若い力士に接触し、部屋内部の事情を聴取している。取材のルールに反する。過去に掲載された特定の力士を暗に中傷する記事についても、協会として重大な懸念を抱いている。以上を踏まえ、今後の記者クラブ加盟社としての取材のあり方について、ご検討いただきたい。
東都スポーツは、三枝沙織を相撲担当から外した。三月から彼女は、競馬の担当になった。
彼女が最後に両国を訪れたのは、二月の最後の日だった。千鳥部屋の前で、稽古を終えて出てきた黒嶽を、彼女は待っていた。
「競馬になりました」
彼女は、笑ってそう言った。
「馬はいいですよ。怪我をしても、誰のせいだとも言わない。ただ走れなくなるだけ。それで、消えていくだけ」
黒嶽は黙っていた。
「豊海くん、何も話してくれませんでしたよ」
三枝は、笑顔のまま続けた。
「毎回、兄さんはいい人だって、そればっかり。喫茶店でも、クリームソーダを飲みながら、兄さんは十二年も頭張ったんだ、だから今があるんだって。――あの子、兄さんを守ろうとしてたんですよ。私から」
彼女の笑顔が、そこで崩れた。
「その子を、あなたは協会に売ったんですね」
協会の文書には、「若い力士に接触し」とあった。その若い力士が誰かを、協会は部屋に問い合わせていた。豊海は浦風親方に呼ばれ、厳重に注意された。その場には、黒嶽も同席していた。豊海は黒嶽に向かって、泣きながら何度も謝った。すみません、兄さん。俺、兄さんのこと、悪くは一言も言ってません。
知っている、と黒嶽は言った。だからもう、会うな。
「あなたが何をしているのか、私には分かりません」
三枝は言った。
「でも、数字は嘘をつかない。私は競馬の担当になっても、数え続けます。あなたが倒した人の数を。壊した人の数を。いつか、それを全部、本にします」
――いい女だ。
禍土が言った。その声には、本当に感心している響きがあった。
――土俵に上げられないのが、心底惜しい。
「そうしてください」
黒嶽は、そう言った。それは強がりでも、皮肉でもなかった。自分でも驚くほど、素直な声だった。誰かが数えていてくれる。そのことが、なぜか、一筋の救いのように感じられた。
三枝は、一瞬、何かを言いたそうな顔をした。それから踵を返し、両国駅の方へ歩いていった。
*
三月場所。黒嶽は、十一勝四敗だった。
四つの黒星のうち二つは、天翔と不動岳だった。残る二つは、黒嶽自身が選んだ。一つは、引退をかけた平幕のベテラン。もう一つは、黒嶽自身にも理由の分からない一番だった。相手は二十歳の新入幕で、子どものような丸い顔をしていた。立ち合いでその顔を見た瞬間、黒嶽は、力を抜いていた。
――豊海に似ていたか。
あとで禍土がそう言い、黒嶽はそれを否定しなかった。
三場所合計、三十四勝。
千秋楽の弓取式が終わったあと、審判部は臨時理事会の招集を要請した。要請を発表する鷲尾部長は、記者に「内容はどうですか」と尋ねられ、「数字が全てだ」とだけ答えた。その声がひどく小さかったことを、その場にいた記者の何人かは覚えている。
鷲尾親方は、その年の秋に審判部長を退いた。健康上の理由だと発表された。
第八章 口上
大関昇進の伝達式は、三月場所後の水曜日、大阪の宿舎で行われた。
宿舎は、一年前と同じ商店街の奥の公民館だった。広間に金屏風が立てられ、その前に紋付き羽織袴の黒嶽が座った。右に、紋付きの女将。左に、浦風親方。そして女将の隣に、車椅子に乗った千鳥親方がいた。
親方を宿舎まで連れてくると言い出したのは、黒嶽だった。医者は渋ったが、女将は泣いて喜んだ。親方がどう思ったかは、誰にも分からなかった。親方は、動く左目で、金屏風の前の黒嶽をじっと見ていた。
下座には、部屋の力士たちが並んだ。豊海はその一番後ろにいた。この場所、幕下上位で勝ち越し、十両が目の前に迫っていた。だがその顔には、以前のような屈託のない明るさはなかった。三枝の件以来、豊海は黒嶽の付け人を外れ、別の若い衆がついていた。黒嶽がそう決めた。
そして、部屋の力士たちの列の端に、小さな老女が一人、正座していた。
黒岩キヨ。下北から、生まれて初めて新幹線に乗って来た。
黒嶽が関取になったとき、母は東京には来なかった。迎えに行くと言った黒嶽に、電話口で、俺はここでいい、父ちゃんの墓もあるし、と言った。給料の仕送りも、半分は銀行に手をつけずに残してあるらしい。その母が、伝達式にだけは来ると言った。
抱えて来た風呂敷の包みを膝の上に置き、母は、金屏風の前の息子を見ていた。
午前十時。協会の使者として、理事と審判委員が到着した。審判委員は、鷲尾部長ではなかった。部長は体調不良のためということだった。
「本日の番付編成会議、詳しくは理事会におきまして、関脇黒嶽の大関昇進が満場一致で決定いたしました。ここにお伝えいたします」
使者の口上が終わると、黒嶽は両手をついて、深く頭を下げた。そして、何日もかけて考えた口上を述べた。
「謹んでお受けいたします。大関の名に恥じぬよう、土俵の底まで踏み押さえる覚悟で、一番一番、勝ちにこだわって精進いたします」
広間が、一瞬、静まり返った。
大関昇進の口上には、「精進」「不屈不撓」「誠心誠意」といった四字熟語が入るのが慣例だ。それが何を意味するのかを、翌日の新聞が解説する。「土俵の底まで踏み押さえる」という言い回しは、誰も聞いたことがなかった。
翌日の新聞は、それを「土俵に生きる覚悟」「四股の精神」と好意的に解説した。だが、その場にいた何人かは、「勝ちにこだわって」という結びに、ひどく生々しいものを感じた。口上というものは、本来、大関としての心構えを述べるものだ。勝ちを述べるものではない。
車椅子の千鳥親方の左目から、涙が一筋、流れた。
女将がそれをハンカチで拭い、よかったね、あんた、と小声で言った。
――泣いているな。
禍土が、楽しげに言った。
――喜びの涙か。それとも別の涙か。尋ねてみればいい。ああ、そうか。この男はもう、何も答えられんのだったな。
黒嶽は、親方の左目から目をそらさなかった。そらさないことが、自分に課したただ一つの罰だと、黒嶽は思っていた。だが、それが罰になっているのかどうか、もうよく分からなかった。親方の涙を見ていても、胸の奥の石は、冷たいまま動かなかった。
*
伝達式が終わり、記者会見と写真撮影が終わり、黒嶽はようやく母と二人きりになった。
公民館の裏の、幼稚園の園庭が見える小部屋だった。一年前、黒嶽が若潮のことを考えながら、窓の外を眺めていた部屋。今日は平日で、園庭では子どもたちが鬼ごっこをしていた。
母は、風呂敷の包みを解いた。中から出てきたのは、干した烏賊と、手編みの腹巻きと、小さな布の御守りだった。
「烏賊は、漁協の人たちからだ。みんな、おめのこと、自分のことみてえに喜んでる」
「……うん」
「腹巻きは、俺が編んだ。関取には要らねえべけど」
「……うん」
母は、最後に御守りを手に取った。白い布に、墨で「恐山菩提寺」と書かれていた。
「これは、今年の正月に、山さ行ってもらってきた」
母は、それを黒嶽に差し出さなかった。自分の掌の上に置いたまま、じっと見つめていた。
「剛」
「ん」
「おめ、目が、父ちゃんと違うな」
黒嶽は黙っていた。
「小さいころは、父ちゃんそっくりだった。海ばっかり見て、何考えてるか分かんねえけど、優しい目だった」
母は、御守りの紐を、指に巻きつけた。網を繕うときのような、慣れた手つきだった。
「……さっき、金屏風の前でおめが頭下げたときな。おめの後ろに、何かいた」
園庭で、子どもが叫んだ。鬼だ、鬼が来たぞ、と。
「海の底みてえな、黒いもんだ。父ちゃんが沈んだ、あの冬の海みてえな」
母は、顔を上げた。その目は、恐ろしいほど澄んでいた。
「剛。おめ、誰だ」
――恐山の女は、これだから厲介だ。
禍土が言った。その声に、笑いはなかった。
――その御守りを受け取るな。受け取れば、お前の体はその場で崩れる。俺がこの二年で積み上げたものが、全部、一度に帰ってくる。幕下の底に戻るのではないぞ。幕下の底より、もっと下だ。
「……俺は、俺だよ、母ちゃん」
黒嶽は、笑ってみせた。笑い方を、自分がまだ覚えていることに、少し驚きながら。
「疲れてるんだ。大関取りで、三場所、ずっと気が張ってたから。目も変わるよ。入門したときのような目じゃ、ここまで来られない」
母は、何も言わなかった。
長いあいだ、息子の顔を見ていた。それから、御守りをゆっくりと、自分の左の袖の中にしまった。
「そうか。そうだな。疲れてんだな」
「……うん」
「そんでもな、剛」
母は、立ち上がった。小さな体だった。正座した黒嶽の肩までしか届かない。その小さな体が、大関の頭を、両腕で抱いた。
「疲れて、もうだめだって思ったら、帰ってこい。大関でも、横綱でも、幕下でも、何でもいい。俺は、おめが帰ってきてくれれば、それでいいんだ」
母の体は、潮の匂いがした。
父の船が沈んだ海の匂いではなかった。港の、干した網の、冬の日だまりの匂いだった。網を繕う母の横で、小さな剛は、よくその匂いを嗅ぎながら居眠りをしたものだった。
黒嶽は、動けなかった。
――振りほどけ。
禍土が言った。
――左の袖だ。御守りが、お前の首に触れている。振りほどけ。今すぐ。
首筋が、熱かった。焼けた火箸を当てられているような熱さだった。そしてその熱さの奥から、何かが蘇ってきようとしていた。十五の春の駐車場。初めてのちゃんこの湯気。錦龍と並んで座った教習所の机。親方の笑顔。親方の――
黒嶽は、母の腕を、そっと外した。
外した。振りほどかなかった。それが、黒嶽にできる精一杯だった。
「……大丈夫だよ、母ちゃん」
母は、何も言わずに頷いた。そして、風呂敷を包み直し、御守りを袖に入れたまま、部屋を出ていった。
その日の夕方の新幹線で、母は下北に帰った。駅まで送ったのは、豊海だった。黒嶽は、後援会の祝賀会に出なければならなかった。
祝賀会から戻ると、宿舎の自分の部屋の座卓に、干した烏賊と腹巻きが置いてあった。その横に、豊海の不揃いな字で、一枚のメモがあった。
「お母さんから伝言です。御守りは、父ちゃんの墓に置いておく。いつでも取りに来い。だそうです。 豊海」
黒嶽は、そのメモを、烏賊と一緒に風呂敷で包んだ。烏賊は、食べなかった。食べても、味がしないことは分かっていた。味がしないことを、確かめたくなかった。
*
同じ夜、豊海が黒嶽の部屋の戸を叩いた。
付け人を外れてから、豊海が自分から黒嶽を訪ねてくるのは、初めてだった。
「兄さん。ちょっとだけ、いいですか」
豊海は、敷居の外で正座した。
「お母さん、新幹線の中で、ずっと窓の外見てました。俺、ホームから次の駅まで、一緒に乗っていったんです。兄さんのこと、よろしく頼むって、言われました」
豊海は、頭を下げた。
「俺、もう一度、兄さんの付け人、やらせてもらえませんか」
黒嶽は、豊海の丸い頭のてっぺんを見ていた。ちょん髷を結った頭。来場所、十両に上がれば、大銀杏を結える。
「……お前、十両が目の前だろう。付け人なんかしてる場合か」
「十両に上がるまででいいんです。それに俺、兄さんのそばにいないと、だめな気がするんです」
豊海は、顔を上げた。
「それに。俺、兄さんの役に立ちたいんです。俺、天翔関の付け人の佐竹ってやつと、高校が一緒なんですよ。宮崎の。このあいだも、巡業で一緒にラーメン食いました。天翔関の稽古のこととか、体のこととか、あいつ、結構喛るんです。兄さんが綱を取るには、天翔関に勝たないといけないでしょう」
――ほう。
禍土が、息を吸うような音を立てた。
黒嶽は、しばらく黙っていた。
幼稚園の園庭は、もう暗かった。砂場に、子どもたちが忘れていった小さなバケツが、街灯に照らされていた。
「……明日から、頭、やってくれるか」
豊海の顔が、入門したばかりの頃のように、ぱっと明るくなった。
「はい!」
頭をやる、とは、髷を結う床山の前に、髪を洗い、油をつけ、整えることだ。付け人の仕事の中でも、もっとも近くにいるものの仕事だった。
豊海が出ていったあと、禍土が言った。
――御幣は、締め込みの内側だ。締め込みは、本場所中、宿舎で干される。干すのは、付け人の仕事だ。
「……分かってる」
――そうか。分かっているか。
禍土は、それ以上何も言わなかった。言う必要がなかったのだ。黒嶽が自分で考え、自分で選んだ。禍土が一年半前の九月の夜に予言した通りに。
その夜、黒嶽は、大関になって初めての夢を見た。
冬の港の夢だった。母が網を繕っている。その網の網目から、黒い水が滴り落ちている。網はいくら繕っても、繕ったところからほどけていく。母はそれでも、黙って繕い続けている。小さな剛はその横で、母の体の潮の匂いを嗅ごうとする。だが、何の匂いもしない。味がしないのと同じように、匂いも、もうしない。
目が覚めると、枕が濡れていた。それが涙なのか汗なのか、黒嶽には分からなかった。
第九章 綱への道
新大関の五月場所を、黒嶽は十二勝三敗で終えた。優勝は十四勝の不動岳。天翔は十一勝だった。
三つの黒星のうち二つは、またしても不動岳と天翔だった。新聞は「黒嶽、二つの壁」と書いた。この一年、黒嶽は横綱と天翔に、一度も勝っていない。その二人以外には、ほとんど負けない。その極端な偶々を、解説者たちは「相性」という言葉で片付けた。
十一日目の天翔戦のあと、花道の奥の通路で、黒嶽は天翔の付け人とすれ違った。日焼けした丸い顔の、幕下の若者だった。天翔の締め込みの替えを、大事そうに布に包んで抱えていた。
すれ違う瞬間、禍土が、炭火に触れたように身を縮めた。
――あれが佐竹だ。
佐竹は、黒嶽に気づくと、布の包みを抱えたまま、壁に背中を付けて道を開けた。そして、深々と頭を下げた。大関に対する、当然の礼だった。
*
七月場所の前、名古屋の宿舎で、黒嶽は豊海に頭をやらせながら、話をした。
話は、何日もかけて組み立てておいたものだった。口上を考えたときと同じように。
「豊海。お前、天翔関の締め込みのこと、佐竹から何か聞いてるか」
櫛を動かしていた豊海の手が、止まった。
「締め込み、ですか」
「内側に、何か縫いつけてあるだろう」
「……ああ、御幣のことですか。横綱からもらったっていう。佐竹のやつ、締め込みを干すときも、絶対にそこには触るなって言われてるらしいです。天翔関、それがないと土俵に上がれないって。意外と担ぎ屋なんですね」
豊海は笑った。黒嶽は笑わなかった。
「あれは、担ぎじゃない」
「え?」
「不動岳関の家は、奈良の古い社だ。俺も最近、人から聞いた。あの御幣は、守りの符じゃない。命じ符だ」
黒嶽は、鏡越しに豊海の目を見た。豊海の目は、丸く見開かれていた。
「千鳥部屋と、不動岳関の一門は、明治の頃から因縁がある。初代の頃に、千鳥部屋に大関がいた。鬼門という。その大関が横綱になりかけたとき、あちらの一門は、あの社の符を使った。鬼門は稽古場で死んだ。心の臓が止まってな」
嘘と本当の境目を、黒嶽はもう気に留めなかった。本当のことを混ぜて織った嘘は、本当よりも本当らしく聞こえる。
「親方が倒れたとき、親方は土俵祭をしていた。それを、お前も知っているだろう」
「……はい」
「親方は、気づいていたんだ。俺が天翔関と不動岳関にだけ勝てないのは、何かがあるからだと。だから、初代のやり方で、土俵を清めようとした。そして、倒れた」
豊海の手から、櫛が落ちた。
黒嶽は、それを拾わなかった。
「俺は、不動岳関を恨んでいない。天翔関もだ。あの人たちは、何も知らないんだろう。古いしきたりを、ただ守っているだけだ。だが、俺は一度でいいから、あの人たちと、何もない土俵で取りたい」
それは、半分だけ本当だった。いや、半分も本当ではなかったのかもしれない。何もない土俵など、黒嶽にはもう、どこにもなかった。
「千秋楽だけでいい。一日だけ、あの御幣を外してもらえないか」
豊海は、長いあいだ黙っていた。
「……佐竹に、頼むんですか」
「佐竹には言うな。あいつは付け人だ。自分の関取を裏切れとは言えない」
「じゃあ、俺が……」
豊海は、そこで言葉を切った。
黒嶽は、何も言わなかった。ただ、鏡の中の弟弟子の顔を見ていた。言う必要はなかった。豊海は、自分で考え、自分で選ぶ。黒嶽がそうだったように。
「……俺、やります」
豊海は、櫛を拾い上げた。その手が、震えていた。
「兄さんに、何もない土俵で、取ってほしいです」
――いい子だ。
禍土が、しみじみと言った。
――本当に、いい子だ。
*
七月場所十四日目の夜、豊海は佐竹を訪ねて、天翔の部屋の宿舎に行った。同郷の後輩が差し入れに来たと、佐竹は喜んだ。宿舎の裏庭には、本場所で使った締め込みが物干し竿に掛けられていた。締め込みは洗わない。干して、汗を飛ばし、また締める。天翔の紺色の締め込みが、夜風に重たく揺れていた。
佐竹が、引き揚げた同部屋の者たちに善哉を運ぶため、十分だけ席を外した。
十分で、足りた。
宿舎に戻った豊海は、黒嶽の部屋の敷居の前で、片手を差し出した。その掌の上に、小さく折り畳まれた白い紙が乗っていた。絹糸で縫いつけられていた跡が、紙の縁に小さな穴となって残っていた。
「代わりに、同じ大きさに折った半紙を縫っておきました。糸も、同じ色のを。俺、裁縫は得意なんです」
豊海は、笑おうとした。笑えなかった。
黒嶽は、その紙を受け取らなかった。受け取れなかったのだ。紙が近づいただけで、黒嶽の指先は火に烙かれたように痛んだ。
「……台所のコンロで、燃やしてくれ」
豊海は、黒嶽の指先を見た。赤く脹れ上がった指先を。そして、何も尋ねずに、台所へ行った。
台所の方から、紙の燃える匂いが漂ってきたとき、禍土が、黒嶽の体の中で長い溜め息をついた。それは、満足の溜め息だった。
*
七月場所千秋楽。
不動岳は六日目から右膝の故障で休場していた。十四日を終えて、大関天翔と大関黒嶽が、ともに十三勝一敗。結びの一番が、そのまま優勝決定戦となる。
名古屋の暑さは、館内にまで入り込んでいた。満員御礼の垂れ幕の下で、一万人の客が団扇をあおいでいた。そのうちの何割かは、「天翔」と書かれた団扇だった。「黒嶽」と書かれたものは、紺の手拭いを広げた後援会の一角にしかなかった。
結びの一番の呼び上げが始まると、館内のどよめきが、潮が引くように静まった。
仕切りを重ねる。
天翔は、いつものように楽しそうではなかった。一度目の仕切りで、何かを確かめるように、自分の締め込みの前立てに手を当てた。二度目も。三度目に、天翔は黒嶽を見た。その目に、一年前の「やっと当たれますね」という光はなかった。
天翔には、分かっていたのだ。何がとは言えないが、何かが欠けていることが。山で、背後で枝が折れる音を聞いたときのように。
――見えるぞ。
禍土が、黒嶽の体の中いっぱいに膨れ上がっていた。
――あいつの中が、全部見える。右の膝だ。学生の頃に一度痛めている。前十字も後十字も、半月板も。全部、美しいほど丈夫だ。――だからこそ、壊し甲斐がある。
時間一杯。
塩を撒く。その塩が、土俵に落ちる前に黒く変わるのを、今度は黒嶽は、はっきりと見た。そして、それが気のせいではないことも、もう分かっていた。
立ち合い。
天翔は、頭から当たってきた。大関になってから、天翔が頭から当たることはほとんどなかった。受けて立って、ゆったりと得意の左を差すのが、この男の相撲だった。それが今日は、何かに追われるように、頭から飛び込んできた。
黒嶽の体は、それを胸で受けた。一歩も下がらなかった。
天翔の左が、黒嶽の右脇を狙って潜ってくる。十五年前と同じだった。去年の九月と同じだった。そして今日、黒嶽の右腕は、その左腕を、上から抓んでいた。関節を極めるように。
小手投げ。
天翔の巨体が、弧を描いて宙に浮いた。その瞬間、天翔の右足だけが、土俵の砂に縫いつけられた。二年前の九州で、若狭灘の膝がそうだったように。体は回っているのに、膝から下がついてこない。
音がした。
小枝ではなかった。太い竿を膝で叩き折ったような、鳴り物のような音だった。それは、一万人の客の悲鳴よりも先に、土俵の周りにいた審判たちの耳に届いた。
天翔は、叫ばなかった。
土俵に横たわったまま、天井を見ていた。吊り屋根の四隅の房を。青、赤、白、黒。そして、ゆっくりと首を回し、黒嶽を見た。
天翔の口が動いた。声は、出ていなかった。だが、黒嶽にはそれが読めた。
――黒岩さん。
口の中に、甘さが、溢れた。
それは甘さというより、光だった。十五年前の県大会の体育館の、高い窓から差し込んでいた冬の日差し。学生横綱の表彰式の、フラッシュの光。大関伝達式の金屏風の光。天翔という男が、生まれてからずっと浴び続けてきた光の、すべてが、黒嶽の喉を流れ落ちていった。
黒嶽は、勝ち名乗りを受けるために蹲踞したまま、目を閉じた。閉じずにはいられなかった。
一万人の客が、息を呑んでいた。拍手は、起きなかった。一人も。後援会の一角でさえ、紺の手拭いは持ち上げられたまま、動かなかった。
天翔は、担架で運ばれていった。花道の奥へ消える直前、担架の上から、天翔はもう一度だけ黒嶽の方を振り返った。その顔に、怒りはなかった。ただ、わけが分からないという顔だけがあった。
十四勝一敗。大関黒嶽、初優勝。
表彰式で、黒嶽は天皇賜杯を受け取った。重かった。三十キロを超える銀の杯は、今までに抱えたどの力士よりも、ずっしりと重かった。
優勝インタビューで、アナウンサーが訊いた。結びの一番、天翔関が怪我をされましたが、いかがですか。
黒嶽は、答えた。
「相撲は、怪我をするもんです」
一年半前、支度部屋の入口で、三枝沙織に答えたのと、同じ言葉だった。館内に、小さなどよめきが走った。それは拍手にはならず、やがて、崩れるように沈黙に変わった。
天翔は、右膝の前十字靱帯と後十字靱帯の断裂、内側半月板の損傷と診断された。全治一年。土俵に戻れるかどうかは、分からないと医師は言った。大関の地位は、二場所全休すれば失われる。
*
九月場所。綱取り。
大関で二場所連続優勝、もしくはそれに準ずる成績。横綱審議委員会が横綱に推薦するための内規だ。だがその内規には、もう一つ、数字では測れない条件がある。品格力量抜群。
場所前の稽古総見で、横審の委員長は、記者たちにこう話した。
「優勝すれば、それはもちろん議論になります。ただ、横綱というのは、勝てばいいというものではない。勝ち方も、勝ったあとのことも、全部が見られる地位です」
千秋楽の優勝インタビューの一言は、新聞やテレビで何度も繰り返され、「横綱にふさわしくない」という声が、小さくないうねりになっていた。
九月場所を、黒嶽は十三勝二敗で終えた。優勝は、右膝の故障から復帰した不動岳の十四勝。
二つの黒星のうち、一つは不動岳だった。もう一つは、初日に、引退を表明したばかりの元小結に黒嶽が自ら土俵を割ったものだった。その一番ののち、二日間、黒嶽は飢えで一睡もできなかった。もう、自分が自分であることを確かめるための黒星にも、大した意味はなかった。それでも、黒嶽はそれをやめられなかった。習慣のように。あるいは、祈りのように。
十三日目の不動岳戦は、五十秒を超える激しい相撲だった。右四つに組み、土俵の中央で動かなくなった。黒嶽の体は、禍土が完全に退いた、空っぽの体だった。それでも、五十秒、その体は横綱と組み合った。十二年、四股を踏み、鉄砲を突いてきた体が。
最後は、不動岳の寄り切りだった。
土俵下で、黒嶽は息を切らせながら、自分の掌を見た。黒い痣が、少しだけ薄くなっているように見えた。それは、一瞬のことだった。
花道の奥の通路で、不動岳が待っていた。
横綱が、大関を待つ。ありえないことだった。付け人たちは遠ざけられ、通路には二人しかいなかった。
不動岳は、細い目で黒嶽を見た。一年前の九月、土俵の上から黒嶽を見下ろしたのと同じ、遠い山の稜線に上がる煙を見るような目だった。
「天翔の御幣、どこへやった」
低い声だった。怒ってはいなかった。
黒嶽は答えなかった。
「縫い目が、先場所の十四日目と千秋楽で違う。糸は同じ色だが、縫い方が丁寧すぎる。佐竹は不器用な子でな。あいつは、自分がやったんじゃないと泣いていたが、天翔の部屋の親方は引退させた。共犯がいるな。縫い物の得意な」
――この男を、土俵に上げられないのが、俺は一番惜しい。
禍土が、身を縮めたまま、虚勢を張るように囁いた。
不動岳は、一歩、黒嶽に近づいた。
「その黒いもの、いつまで飼う気だ」
黒嶽は、初めて横綱の目を正面から見た。
「……飼ってなんか、いませんよ」
不動岳の細い目が、わずかに見開かれた。
「そうか。――そうか。もう、そこまで来ているのか」
横綱は、それ以上何も言わずに、通路を去っていった。その背中は、千鳥親方の背中にも、天翔の背中にも似ていなかった。ただ、ひどく疲れているように見えた。
*
九月場所後の横綱審議委員会は、黒嶽の横綱推薦を見送った。優勝に準ずる成績とは認められない、というのが表向きの理由だった。委員長は、会見の最後に一言だけ、付け加えた。「次は、誰もが納得する形で」。
部屋に戻ると、稽古場の上がり座敷の端で、豊海が正座していた。
豊海はこの場所、幕下二枚目で六勝一敗。九州場所での新十両が、来週の番付編成会議で決まるはずだった。本来なら、部屋中が沖き立っているはずの夜だった。だが、豊海の周りには誰もいなかった。
「兄さん」
豊海は、顔を上げなかった。
「佐竹が、郷里に帰ったそうです。宮崎に。今日、電話がきました」
黒嶽は、上がり座敷の前で立ち止まった。
「あいつ、言ってました。天翔関の締め込みの紙が、千秋楽の朝にはもう、ただの白い紙になってたって。自分は何もしてないのに、誰も信じてくれないって。――俺には、何も言えなかったです」
豊海の膝の上で、握りしめた拳が、白くなっていた。
「兄さん。あれは、本当に、命じ符だったんですか」
黒嶽は、答えなかった。
豊海は、ゆっくりと顔を上げた。その丸い顔に、二年前の九月の朝、土俵の上で黒嶽を揺り起こしたときの、あの心配そうな表情は、もうなかった。
代わりにあったのは、恐れだった。
黒嶽に対する恐れではなかった。黒嶽の肩越しに、何かを見ている目だった。
第十章 弟弟子
豊海陽太は、宮崎県の日南という港町で生まれた。
入門して最初の年の九州場所の宿舎で、豊海は黒嶽にそう話した。俺も港なんですよ、兄さん。こっちは鰹ですけど。それから、頭を下げて言った。兄さんの付け人、やらせてください。幕下の力士に付け人はつかない。それでも豊海は、勝手に黒嶽の支度を手伝い、勝手に黒嶽の茶碗を洗い、勝手に黒嶽の後ろを歩いた。
なぜ自分なのかと、黒嶽は一度だけ尋ねたことがある。
兄さんは、夜中に一人で四股を踏んでますよね、と豊海は言った。俺、最初の夜、寂しくて眠れなくて、下に降りていったんです。そしたら兄さんが、誰もいない稽古場で、一人で、ずっと四股を踏んでた。三百回まで数えて、そこから先は数えられなかった。あのとき、俺、この人についていこうって決めたんです。
その豊海が、今、上がり座敷の端で、黒嶽の肩越しに何かを見ていた。
「……兄さんの後ろに、いるんですね」
豊海の声は、かすれていた。
「ずっと、気のせいだと思ってました。兄さんが夜中に誰かと話してるときも、土俵の上で兄さんの影が、兄さんより大きく見えるときも。でも、今は見える。兄さんの肩の上に、黒いものがいる。――それ、笑ってますよね」
――見えるようになったか。
禍土が、感心したように言った。
――俺のために汚れた手は、俺を見るようになる。一度、俺の仕事を手伝えばな。この子は今、俺の身内だ。
「兄さん」
豊海が、立ち上がった。
「俺、全部話します。三枝さんに。天翔関に。協会にも。佐竹は何もしてないって。俺がやったんだって。――兄さんに頼まれてやったんだって」
黒嶽は、何も言わなかった。
「そしたら、俺も兄さんも、終わりです。俺は十両にはなれない。兄さんは横綱にはなれない。でも、それでいいんです。俺は、兄さんに戻ってほしいんです。夜中に一人で、三百回も四股を踏んでた、あの兄さんに」
豊海の涙が、稽古場の板の間に落ちた。
黒嶽は、その涙を見ていた。そして、自分がその涙に何も感じていないことに、気づいていた。いや、何も感じていないのではなかった。感じているものが、もう悲しみでも罪悪感でもないことに、気づいていた。
それは、飢えだった。
この子から取ったら、どんな味がするのだろう。
そう思った自分を、黒嶽は、もう恐ろしいとも思わなかった。
「……豊海」
「はい」
「胸を出してやる。来い」
豊海の顔から、血の気が引いた。
豊海は、知っていたのだ。親方が倒れた夜のことを。階段の上で膝を抱え、眠ったふりをしていた、あの夜のことを。稽古場から聞こえてきた、立ち合いの音と、そのあとの、壊れた笛のような息の音を。
それでも、豊海は逃げなかった。
浴衣を脱ぎ、稽古廻しを締めた。二年、黒嶽の稽古廻しを締めてきた手で、自分の廻しを締めた。そして、俵をまたいだ。
「俺が勝ったら、兄さん、全部やめてください」
豊海は、仕切り線の後ろに腰を落とした。
「俺が負けたら、――俺から、好きなものを取っていいです」
――聞いたか。
禍土が、黒嶽の体の中で、震えていた。喜びに。
――自分から差し出したぞ。自分からだ。百何十年、こんなことは一度もなかった。
黒嶽は、俵をまたいだ。
二年前、血を注いだ土俵。親方が倒れた土俵。鬼門が死んだ土俵。その底に、禍土が百何十年眠っていた土俵。
拳をついた。
立った。
豊海の当たりは、重かった。二年前とは比べ物にならなかった。新十両の当たりだった。いや、それ以上だった。豊海は、黒嶽の胸に頭をつけたまま、前に出た。一歩、二歩。黒嶽の踵が俵にかかる。
――選べ。
禍土が言った。
――膝か。肩か。声か。それとも、もっと大事なものか。この子が自分から差し出したものの中で、一番大事なものは何だ。お前には分かるはずだ。
豊海の頭が、黒嶽の胸を押していた。その頭のてっぺんのちょん髷を、黒嶽は見下ろしていた。その髪を、この子は毎朝、黒嶽の髪を洗った後で、自分で結っていた。兄さんが先です、と言って。
黒嶽は、分かっていた。
この子から何を取れば、この子が何も話さなくなるのかを。声ではない。声を取っても、この子は書くだろう。書けなければ、三枝沙織の前で、何度でも首を振ってみせるだろう。この子に何も話させないためには、この子が話したいと思う理由そのものを、取らなければならない。
「……俺だ」
黒嶽は、言った。
「この子の中の、俺を取れ」
上手投げ。
豊海の体が、土俵の上でゆっくりと回った。そして、土俵の中央、二年前に黒嶽が血を注いだその場所に、背中から落ちた。
甘さが来た。
それは、甘さと呼ぶには重すぎた。二年分の朝と夜の味だった。宮崎の港の鰹の話。洗った茶碗の湿った感触。支度部屋で差し出された濡れ手拭い。兄さんのせいじゃないですよ、という声。兄さん、兄さん、兄さん。その声のひとつひとつが、熟した果実のように黒嶽の喉を流れ落ち、胃の底に積もっていった。
黒嶽は、土俵に膝をついた。そして、吐いた。
何も出てこなかった。胃の中には、何もなかった。ただ、体が拒んでいた。いや、拒んでいたのではない。溢れていたのだ。一度に入りきらないほどの甘さが。
土俵の砂に額をつけたまま、黒嶽は震えていた。
――美味いだろう。
禍土の声が、優しかった。
――それが、お前が人から愛された味だ。自分の身には、決して味わえない味だ。味わえるのは、それを奪うときだけだ。
しばらくして、豊海が起き上がった。
背中の砂を払い、土俵の外へ出て、一礼した。そして、黒嶽を見た。
「大関。胸を出していただいて、ありがとうございました」
丁寧な声だった。部屋の若い衆が、部屋頭の大関に、稽古の礼を述べる声。それ以上でも、それ以下でもない声。
「……豊海」
「はい」
「お前、今、何の話をしてた」
豊海は、少し首を傾げた。
「すみません。俺、なんでこんな時間に稽古場にいたんでしたっけ……。大関が稽古をつけてくださったんですよね。ありがとうございます。十両に上がっても、大関のようになれるように、精進します」
豊海は、頭を下げた。
そして、稽古場を出ていった。階段を上る足音が、一度も止まらずに、三階の大部屋まで続いていった。
黒嶽は、土俵の真ん中に、膝をついたままだった。
――大丈夫だ。
禍土が言った。
――あの子は、何も失っていない。膝も肩も声も、全部ある。十両にも上がる。ただ、お前がいなくなっただけだ。あの子の中の二年が、きれいに抜けただけだ。御幣のことも、佐竹のことも、親方の夜のことも、あの女記者のことも。全部、お前につながっていたからな。
黒嶽は、土俵の砂を握りしめた。
砂は、何の味もしなかった。
*
九州場所で、豊海は新十両として土俵に上がった。日南から、豊海の両親と親戚が大勢やってきた。客席には、「豊海」と書かれた横断幕が掛かった。
豊海は十五日間、土俵に上がり、六勝九敗だった。
相撲は悪くなかった。当たりも強かった。ただ、どこかで、勝ちたいという気持ちが押し切れなかった。稽古場でも、支度部屋でも、豊海はよく、何かを忘れた人のような顔をして、ぶらりと立ち止まった。どうしたと訊かれると、いえ、何か大事なことを忘れてる気がするんですけど、と笑った。
九州場所の十日目、宿舎の寺の前で、三枝沙織が豊海を待っていた。
競馬担当になった彼女が、なぜ福岡にいたのかは分からない。休暇を取って来たのかもしれない。彼女は、豊海が部屋の者たちから離れて一人になるのを待ち、声をかけた。
そのやり取りを、黒嶽は寺の本堂の縁側から見ていた。一年前、親方が初代の日記を開いてみせた、あの本堂の縁側から。
三枝は、何かを話しかけていた。豊海は、丁寧に頭を下げ、それから、困ったように首を傾げた。三枝の顔が、ゆっくりと強ばっていった。彼女はもう一度、何かを言った。豊海は、もう一度、すまなそうに首を振った。
豊海が寺の中に入っていったあと、三枝は長いあいだ、山門の前に立ち尽くしていた。それから、本堂の縁側の黒嶽を見た。
距離は二十メートルもあっただろう。それでも、彼女の目に浮かんでいるものが、黒嶽にははっきりと見えた。
それは怒りではなかった。恐れでもなかった。
哀れみだった。
彼女は、何も言わずに踵を返した。そして、それが彼女が黒嶽を直接見た、最後の日になった。
――数えているな。
禍土が言った。
――あの女は、今日のこれも数えたぞ。だが、証を立てる者はもういない。数字は嘘をつかんが、数字は語りもしん。
*
九州場所。不動岳は初日から休場した。右膝と、加えて腰の持病の悪化だった。天翔は二場所連続の全休で、大関から関脇への陰落が決まっていた。
横綱不在、大関一人。黒嶽は十四勝一敗で優勝した。一つの黒星は、十日目、三枝沙織が寺の前で豊海を待っていた日の取組だった。その日、黒嶽は、立ち合いで何もしなかった。ただ立って、押され、土俵を割った。その一番について、解説者は「気の緩み」とだけ言った。
大関で二度目の優勝。ただし、前の場所は十三勝の準優勝。横綱審議委員会は、今回も推薦を見送った。ただし、会見で委員長は明言した。
「一月場所で優勝すれば、それはもう議論の余地はないでしょう。横綱を倒しての優勝であれば、なおのことです」
年の瀬、不動岳は記者会見を開いた。
「一月場所に、土俵人生をかけます。結果が出なければ、それまでです」
それは、事実上の引退表明と受け取られた。だが、会見の最後に、不動岳は、記者たちの誰も意味が分からない一言を付け加えた。
「土俵を、清めてから、去りたいと思います」
部屋のテレビでその会見を見ていた黒嶽の体の中で、禍土が、初めて、身じろぎもせずに黙り込んだ。
第十一章 千秋楽
一月場所十四日目の夜、両国の雪は、下北の雪のように乾いていた。
十四戦全勝の横綱不動岳と、十四戦全勝の大関黒嶽。全勝同士の千秋楽相星決戦は、五十年ぶりのことだと新聞が書いた。それをわりとどうでもいいことのように、黒嶽は読んだ。
夜の十時。不動岳の付け人が、千鳥部屋を訪れた。横綱がお待ちです、とだけ言った。どこで、と尋ねると、野見宿禰さんです、という答えが返ってきた。
野見宿禰神社は、両国の路地の奥にある小さな社だ。相撲の祖とされる野見宿禰を祀り、境内には歴代横綱の名を刻んだ石碑が立っている。新しい横綱が生まれると、その石碑に名が刻まれ、この社で土俵入りが奉納される。
雪の積もった境内に、不動岳は一人で立っていた。紋付き羽織袴ではなかった。白い浄衣に、浅黄の袋。神主の装束だった。
「来たか」
千鳥親方と同じ言葉だった。
不動岳は、石碑の前に立っていた。初代から七十九代までの名が刻まれた石の上に、雪が薄く積もっていた。
「八十代も、いずれここに刻まれる」
不動岳は、石の空白に指を当てた。
「明日、お前が勝てば、それはお前の名になるだろう。だから、その前に話しておきたいことがあった」
――聞くな。
禍土が言った。その声は、ひどく遠かった。この社の境内では、禍土は黒嶽の体の一番奥、背骨の底にしがみつくようにして、縮こまっていた。
「土俵というものは、本来、神を降ろす場所だ」
不動岳は、静かに言った。その息が、白く凍っていた。
「土俵祭で神を迎え、十五日間、力士たちはその神の上で取る。千秋楽のあと、神送りの儀で、行司を胴上げして神を天に帰す。それが、本場所というものだ。だが、土俵に降りてくるものが、いつも神とは限らん。土の下から上がってくるものもある」
不動岳は、黒嶽を見た。
「そういうものを土に戻すのが、俺の家の仕事だった。千三百年、ずっとな。――そして、横綱というものが何なのかも、俺の家は知っている」
不動岳は、自分の腰に手を当てた。そこに綱はなかった。だが、その手つきは、綱に触れる手つきだった。
「綱は、注連縄だ。神社の拝殿に張られているものと、同じものだ。注連縄を張られたものは、もうただのものではない。依代だ。神が宿る器だ。横綱が綱を締めて土俵入りをするとき、その体は社になる。四股を踏むたびに、その社に宿ったものが、地に染み、国中の土俵に広がっていく」
不動岳の細い目が、雪の中で光った。
「お前の中のものは、それを欲しがっている。大関も、優勝も、あいつにはどうでもいいことだ。あいつが欲しいのは、注連縄だ。依代だ。禍を秩めるための社に、禍そのものが入る。――そうなれば、もう誰にも土に戻せん。あいつは神になる」
黒嶽は、黙っていた。
雪が、二人のあいだに降り続けていた。
「……それで、俺はどうなるんですか」
「社には、心は要らん」
不動岳は、答えた。
「鬼門は、それに気づいたから、払いを渋ったんだろう。俺の曾祖父が、千鳥部屋の初代に頼まれて、鬼門を見た。曾祖父の日記に、そう書いてある。鬼門は、自分で自分の心の臓を、あいつに差し出した。そうしなければ、自分が社になると分かったからだ」
――嘘だ。
禍土の声が、背骨の底から、かすかに届いた。その声には、初めて聞く響きがあった。焦りだった。
――嘘だ。あいつは怖くなっただけだ。自分のやったことに。弱かっただけだ。
「黒嶽」
不動岳が、一歩前に出た。
「明日、俺に負けろ」
黒嶽は、横綱を見た。
「土俵の上で、お前が自分から負ければ、あいつはお前から離れる。そういう契りのはずだ。勝たせることが契りなら、勝たせられなければ契りは破れる。それも、あいつに触れられない俺に対して、お前が自分の意志で土俵を割ればな。離れたものは、俺が受ける。俺の家のやり方で、土に戻す」
「……横綱は、どうなるんですか」
不動岳は、少しだけ笑った。
「分からん。曾祖父は、鬼門の一件のあと、三年で死んだ。――だが、俺はもう三十五だ。膝も腰も、もう長くは持たん。どうせ綱を外すんなら、最後に一つくらい、家の仕事をしてから外したい」
黒嶽は、石碑を見た。七十九人の名。その一つ一つが、秩められた社だったのだと、不動岳は言う。
そして、黒嶽は思い出していた。十五の春、新弟子教習所の講師が言ったことを。四股は、地を踏み鎮める所作だ。だから横綱の土俵入りは神事なのだ。
あのとき、黒岩剛は、いつか自分もその神事をするのだと、一瞬だけ夢想した。そして、すぐに笑って打ち消した。山の名前だと思った。登るものではなく、見上げるものだと。
その山が、今、あと一番のところにあった。
「……横綱」
黒嶽は、言った。
「俺は、十二年、稽古しました」
「知っている」
「そのあとの二年半も、稽古はしました。四股も鉄砲も、一日も休まずに」
不動岳は、黙っていた。
「俺は、横綱にだけは、一度も勝てていません。あいつが横綱には触れられないからです。だから、俺が横綱と取るときは、いつも、俺だけで取ってきた」
黒嶽は、自分の掌を見た。黒い痣が、雪明かりの中で、墨のように光っていた。
「明日も、俺だけで取ります。俺だけで、横綱に勝ちます。――それで勝てなかったら、そのときは、横綱の好きにしてください」
不動岳は、長いあいだ、黒嶽を見ていた。
「……そうか」
そして、一年あまり前の千鳥親方と同じように、少しだけ笑った。
「それもまた、契りの一つの形かもしれんな」
*
一月場所千秋楽。両国国技館。
結びの一番の呼び上げで、館内が割れるような拍手に包まれた。「不動岳」の声が、「黒嶽」の声の何倍もあった。それでも、紺の手拭いの一角は、今日は少しだけ広がっていた。その中に、小さな老女が一人、座っていた。母だった。後援会の社長が、下北まで迎えに行ったのだと、あとで知った。
審判席には、新しい審判部長が座っていた。鷲尾親方の姿はなかった。客席のどこかに、三枝沙織がいるのかどうか、黒嶽には分からなかった。十両の土俵入りの列に、豊海の姿はなかった。九州で負け越し、幕下に落ちた豊海は、この場所の後で引退すると、もう浦風親方に申し出ていた。理由は、豊海自身にもうまく説明できないようだった。なんか、相撲を取る理由を、どこかに落としちゃったみたいで、と豊海は笑ったそうだ。
土俵に上がる。
四股を踏む。塩を撒く。
不動岳が塩を撒くと、土俵の空気が、山の朝のように澄んだ。黒嶽が塩を撒くと、その塩は土俵に落ちる前に黒くなった。それが見えているのは、館内で二人だけだった。
仕切りを重ねる。
禍土は、黒嶽の体のどこにもいなかった。不動岳の前では、いつもそうだ。背骨の底の、そのまた底に、小さく縮こまって息を殺している。
体が、軽かった。いや、空っぽだった。空っぽの体に、十五年分の四股と鉄砲だけが、骨のように残っていた。
時間一杯。
立ち合い。
二人は、頭から当たった。
黒嶽の額が、横綱の額とぶつかり、館内に乾いた音が響いた。山と山がぶつかる音だと、翌日の新聞は書いた。
右四つ。不動岳の得意の型だった。黒嶽は左の上手を引きつけ、横綱は右の下手を走らせた。土俵の中央で、二人は動かなくなった。
十秒。二十秒。
黒嶽の肩に、横綱の顎が乗っていた。その顎から、汗が滴っていた。横綱の息が、耳のすぐ後ろで荒かった。膝が悪いのだ、と黒嶽は思った。右の膝が、弾くたびにわずかに震えている。そこを攻めれば、と、一瞬だけ考え、その考えを捨てた。それは、禍土の考え方だった。
三十秒。四十秒。
横綱が寄った。黒嶽は俵で踏ん張った。踵が、俵の上で一寸だけ滑った。客席から悲鳴が上がった。そこから、黒嶽は当たり返した。
当たり返したのは、十五の春の自分だった。千鳥親方の胸に当たり続け、一度も動かせなかった十二年の、すべての朝だった。あの寒い港から出てきた、粗朴な若いのだった。
五十秒。
横綱の踵が、俵にかかった。
六十秒。
寄り切り。
不動岳の体が、土俵の外に出た。ゆっくりと、山が崩れるように。そして、土俵下の砂に、両膝をついた。
館内が、一瞬、音を失った。
それから、崩れるような拍手が起きた。座布団が舞った。紺の手拭いが、一斉に持ち上がった。その後ろで、小さな老女が、両手で顔を覆っていた。
口の中に、甘さは来なかった。
代わりに、何か別のものがあった。砂の味だった。塩の味だった。それから、もう一つ。黒嶽が二年半のあいだ忘れていた味。幕下二十八枚目で、十番に一番だけ勝てた日の、あの、わずかな、本当にわずかな、自分の勝ちの味。
黒嶽は、土俵の上で立ち尽くしていた。
土俵下で、不動岳が立ち上がった。膝を引きずりながら。そして、土俵に上がり、所定の位置に戻って、一礼した。
一礼を終えた横綱は、すれ違いざま、黒嶽にだけ聞こえる声で、言った。
「お前の勝ちは、お前のものだった」
細い目が、黒嶽を見た。遠い山の稜線に上がる煙を見るような、あの目で。
「それが、一番、哀しい」
不動岳は、花道を引き揚げていった。その背中に、一万人の拍手が降り注いだ。その拍手は、勝った黒嶽へのものよりも、ずっと長く、ずっと温かかった。
――よくやった。
花道の奥に横綱の姿が消えた瞬間、禍土が、背骨の底から這い上がってきて、言った。
――本当に、よくやった。お前は俺を守ったぞ。あの男に負けていれば、俺は土に戻されていた。お前は自分の力だけで、俺を守ったんだ。
黒嶽は、何も答えなかった。
口の中の、わずかな勝ちの味が、禍土の声と一緒に、ゆっくりと溶けて消えていった。
その夜、不動岳は引退を表明した。記者会見で、彼は言った。土俵を清めることができなかった。それだけが、心残りです、と。記者たちは、それを横綱らしい謙遜だと受け取った。
翌日の横綱審議委員会は、全会一致で、大関黒嶽を第八十代横綱に推薦した。
第十二章 綱
横綱昇進の伝達式は、両国の千鳥部屋の稽古場で行われた。
土俵の上に緋毛氈が敷かれ、金屏風が立てられた。その緋毛氈のちょうど真下に、二年あまり前の九月の夜、黒嶽が血を注いだ場所があることを、その場にいた者は、黒嶽と、車椅子の千鳥親方しか知らなかった。
「謹んでお受けいたします。横綱の名に恥じぬよう、土俵と一つになる覚悟で、生涯、土俵を務めてまいります」
口上を考えたのが自分だったのかどうか、黒嶽にはもう、はっきりとは分からなかった。前の夜、付け人が届けた五つの案を、黒嶽はどれも使わなかった。そして伝達式の最中、口を開いたら、その言葉が出てきた。
広間ではなく稽古場だったせいか、大関のときのような静寂は訪れなかった。「土俵と一つになる」という言い回しは、翌日の新聞で「土俵に生き、土俵に死す」の意だと解説され、少なからず好意的に受け取られた。
車椅子の千鳥親方は、今度は泣かなかった。口上が終わると、動く左の首だけをゆっくりと回して、稽古場の隅の鉄砲柱の方を見た。そして、そのまま、一度も黒嶽の方を見なかった。
女将が、あんた、綱よ、うちの部屋から横綱よ、と、親方の左手をさすりながら繰り返していた。親方の左手は、握り拳のまま、開かなかった。
*
綱打ちは、その二日後に行われた。
横綱の綱は、部屋と一門の力士たちが、手で結い上げる。麻を米糠でよく揉み、白い木綿で包み、芯に銅線を通して、三本を縒り合わせる。紅白の紐を鉢巻きにし、白い手袋をはめた力士たちが、綱の両端と真ん中に取りつき、「いち、にの、さん」の掛け声で、綱をねじり上げていく。
稽古場には、五十人を超える力士が集まっていた。古い角界の風習だ。一門の他の部屋から、若い衆が大勢手伝いに来る。新しい横綱のために綱を打つことは、力士にとって名誉なことだとされている。
その五十人の中に、豊海がいた。
一月場所を最後に引退した豊海は、三月の断髪式まで、部屋に残っていた。ちょん髷のまま、白い手袋をはめ、綱の真ん中あたりに取りついて、掛け声に合わせて体をよじっていた。その丸い顔が、嬉しそうに紅潮していた。
「いち、にの、さん!」
豊海の声は、五十人の中でもとりわけよく通った。
綱打ちの合間に、豊海は黒嶽の前を通りかかり、そこで立ち止まって、深々と頭を下げた。
「横綱、おめでとうございます。俺、最後に横綱の綱を打てて、本当によかったです。宮崎に帰っても、自慢できます」
黒嶽は、豊海を見た。
「……宮崎で、何をする」
「親父の船、手伝います。鰹です。俺、港の生まれなんですよ」
豊海は、初めて話すことのように、そう言った。
「横綱も、たしか港町のご出身でしたよね。下北の」
「……ああ」
「じゃあ、同じですね」
豊海は笑って、もう一度頭を下げ、綱の方へ戻っていった。
――いい綱になる。
禍土が言った。その声は、二年あまり前の九月の夜よりも、ずっと近かった。頭の中からではない。黒嶽自身の喉の奥から、黒嶽自身の声とほとんど区別がつかない響きで、その声は聞こえていた。
――お前を愛した者の手で打たれた綱だ。これ以上の注連縄はない。
綱は、夕方には結い上がった。重さは十五キロ。前で結ぶと、綱は大蛇のように黒嶽の腰を一周し、背中で輪を作った。
試しに締める。稽古場にいた五十人の力士が、一斉に拍手をした。
その瞬間、黒嶽の腰が、焼けた。
熱いのではなかった。綱が触れているところから、体の中の何かが、外へ外へと流れ出していく。そしてその代わりに、足の裏から、土俵の土を通して、別の何かが這い上がってくる。
――まだだ。
禍土が、息を弾ませて言った。
――まだ、わけがない。ここは、俺が百何十年眠っていた土俵だ。俺の床の上で綱を締めても、何の意味もない。宮だ。神の庭で、綱を締めて四股を踏む。そのときだ。
*
土俵入りの型は、二つある。
雲竜型と不知火型。せり上がりのとき、左手を脇腹に当て、右手を差し伸べるのが雲竜型。両手を広げてせり上がるのが不知火型。不知火型を選んだ横綱は短命に終わる、という俗説があって、それを気にする親方もいる。
黒嶽は、不知火型を選んだ。
浦風親方は少し渋ったが、女将が、うちの人は現役の頃、不知火型が好きだったのよ、と言って、それで決まった。
不知火型のせり上がりは、攻めと守りを兆すのだという。両手を広げ、天と地の間のものをすべて受け止めるように。
――両手を広げる。
禍土は、嬉しそうに繰り返した。
――迎え入れるための型だ。よく選んだ。
黒嶽は、それを自分が選んだのかどうか、分からなかった。
*
明治神宮での奉納土俵入りの三日前、下北から手紙が届いた。
母の字だった。鉛筆で、一字一字、力を入れて書いたと分かる字だった。
「剛へ。 よこづな、おめでとう。 漁協の人たちが、みんなでよろこんでいます。 このあいだ、山さ行ってきました。 ゆきで、だれもいなかったけど、むりいって、あけてもらいました。 父ちゃんに、おめのこと、たのんできました。 いたこには、たのまなかった。 父ちゃんのこえは、おらがおぼえてるから。 これも、前にいったな。
おまもりは、まだ、父ちゃんのおはかにおいてあります。 はるになったら、うみがしずかになります。 つかれたら、かえってこい。 いつでも、かえってこい。 母」
黒嶽は、その手紙を、一度だけ読んだ。
それから、畳んで、稽古廻しの縁に挟んだ。なぜそうしたのかは、自分でも分からなかった。ただ、そうしているあいだ、禍土は一言も喋らなかった。
*
二月の初め。明治神宮。
午後の空は、下北の冬のように高く澄んでいた。拝殿前の砂利の広場には、五千人を超える人が集まっていた。「第八十代横綱 黒嶽」と書かれた幟が、風にはためいていた。
客の中に、三枝沙織がいた。
彼女は、取材証を持っていなかった。東都スポーツは、年末に辞めていた。競馬の担当は、嫌いではなかった。だが、彼女の手帳の後ろの頁には、競馬とは関係のない数字が、二年分、びっしりと書き込まれていた。その数字を、いつか本にすると約束した相手が、今日、綱を締める。
太鼓が鳴った。
拝殿の前に設えられた仮の土俵に、行司が先導して、露払いと太刀持ちを従えた新横綱が現れた。
三枝は、息を呑んだ。
美しかった。
それが、彼女には一番恐ろしかった。純白の綱が、冬の日差しを受けて、それ自体が光っているように見えた。恐山の化粧廻しの灰色の山と黒い湖が、綱の白さを、いっそう際立たせていた。そして新横綱の顔には、二年前に支度部屋の入口で彼女が見た、あの少し戸惑ったような、札幾な苦労人の面影は、もうどこにもなかった。ただ、静かだった。社のように。
新横綱が、土俵の中央に進む。柏手を打つ。両手を広げ、掌を返す。塵手水。この手には何も持っていないという、古い証。
そして、四股。
右足が、高々と上がった。その足が土俵に下ろされた瞬間、五千人の客が、声を揃えた。
「よいしょ」
黒嶽の足の裏で、何かが割れた。
土俵の土ではなかった。その下の、もっと下の、神宮の森の土の、さらに下の。この国の土という土が、一枚の薄い膜でつながっていて、その膜が、黒嶽の足の裏で、破れた。
左足。
「よいしょ」
破れ目から、黒いものが吹き出してきた。それは黒嶽の足を登り、膝を登り、綱に触れ、そこで渦を巻いた。綱は、それを拒まなかった。注連縄は、届いたものを、ただ祀る。それが何であるかを、問わない。
せり上がり。
腰を落とした姿勢から、ゆっくりと、体を起こしていく。両手を広げて。
両手を広げた瞬間、黒嶽には、すべてが見えた。
この国の、すべての土俵が見えた。両国の国技館の土俵。大阪の、名古屋の、福岡の土俵。四十を超える相撲部屋の稽古場の土俵。大学の、高校の、中学校の土俵。小学校の校庭の隅の、雑草の生えた土俵。村の神社の境内の、奉納相撲のための土俵。下北の、あの小さな港町の、小学校の体育館の裏の、黒岩剛が初めて四股を踏んだ、あの土俵。
そのすべての土俵の底に、鎮め物が埋まっていた。勝栗、昆布、洗米、するめ、塩、榧の実。そのすべてに、黒いものが染みていくのが見えた。一つずつ、ゆっくりと。墨が和紙に染みるように。
――ありがとう。
禍土の声がした。
それはもう、黒嶽の体の中からは聞こえなかった。国中の土俵の底から、同時に、ひとつの声として響いていた。そして、その声は、黒嶽の声だった。
――これで、俺は神になる。お前はその社だ。社には、心は要らん。
黒嶽は、両手を広げたまま、せり上がっていた。
体の中から、自分というものが、足の裏を通って、砂に水が吸われるように流れ出していくのが分かった。親方の笑顔が、流れていった。錦龍と並んだ教習所の机が。初めてのちゃんこの湯気が。幕下二十八枚目の、十番に一番だけの白星の味が。
だが、一つだけ、流れないものがあった。
稽古廻しの縁に挟んだ、紙一枚の重さだった。
化粧廻しの下、綱の下、腰の左の、ちょうど母が御守りをしまった袖のあたりに触れていた、その一枚。つかれたら、かえってこい。いつでも、かえってこい。その紙の角だけが、流れ出していく自分の、最後の紐のように、腰のあたりに引っかかっていた。
――それも、寄こせ。
どこからでもない声が言った。それが禍土の声なのか、自分の声なのか、黒嶽にはもう区別がつかなかった。
黒嶽は、せり上がりを終え、両手を広げたまま、拝殿を振り仰いだ。
冬の空が、高かった。
下北の空に似ていた。父の船が出ていった朝の、あの空に。
黒嶽は、右足を、もう一度高々と上げた。
「よいしょ」
五千人の声が、神宮の森を揺らした。
その声の中で、三枝沙織だけが、声を出さなかった。
彼女は、砂利の上を見ていた。新横綱の影を。冬の日差しが、新横綱の影を、土俵から砂利へと長く伸ばしていた。その影が、影としてはありえないことに、拝殿の方へ、日差しとは反対の方へ、ゆっくりと、墨が滲むように広がっていくのを。
彼女は、手帳を開いた。そして、震える指で、二年分の数字の一番下に、新しい数字を書き込んだ。
「八十」
それが、何の数なのか、彼女自身にも、よく分からなかった。第八十代横綱の八十なのか。それとも、この二年半で、あの男が土俵で倒し、何かを奪った者の数なのか。彼女は、一人ずつ数えてきた。そして今日、その数は、ちょうど七十九だった。
八十人目は、今、土俵の上で両手を広げている男だと、彼女は思った。
終章 魔王
二年が経った。
この二年で、第八十代横綱黒嶽は、十二場所のうち十一場所で優勝した。黒星は二年間で四つ。その四つが、なぜ、誰に対して喟したものなのかを、角界の誰も説明できなかった。いずれも、引退を目前にしたベテランか、入幕したばかりの、子どものような丸い顔の若者だった。
対戦相手の故障は、止まらなかった。横綱と取った幕内力士の三人に二人が、その場所中か翌場所に休場した。引退した者は、この二年で十七人。そのうちの何人かは、怪我ではなく、「土俵が怖くなった」とだけ言い残した。
角界の中だけではなく、外でも、奇妙なことが起きていた。全国の学生相撲で、怪我人が増えた。小学校の校庭の土俵で、理由の分からない地割れが起きた。村の神社の奉納相撲が、いくつも中止になった。それらを一つに結びつけて考える者は、ほとんどいなかった。ほとんどは。
週刊誌は、横綱黒嶽を「角界の魔王」と呼ぶようになった。最初は揶揄だった。やがて、それはただの通り名になった。横綱は、その呼び名について尋ねられても、何も答えなかった。怒ることも、笑うこともなかった。ただ、静かに、記者の目を見た。その目を見た記者は、二度と同じ質問をしなかった。
*
三枝沙織が宮崎を訪れたのは、二年目の秋だった。
日南の港は、魚市場の氷の匂いがした。鰹の置き竿を揚げた船が、岸壁に並んでいた。その一つの船の上で、日に焼けた大柄な若者が、網を干していた。髪は短く刈られ、大銀杏もちょん髷もなかった。
豊海陽太は、三枝を覚えていなかった。
だが、彼女が東京から来た相撲の記者だと名乗ると、豊海は港の自動販売機で缶コーヒーを二つ買い、一つを彼女に差し出した。そして、岸壁の縁に並んで腰を下ろした。
「俺、十両に一場所だけいたんですよ」
豊海は、少し誇らしげに言った。
「六勝九敗で、すぐ落ちちゃいましたけど。でも、横綱の綱も打ちました。黒嶽関の。俺、同じ部屋だったんです」
「……そう。どんな人だった?」
三枝は、缶コーヒーを両手で包んだまま、尋ねた。
豊海は、しばらく海を見ていた。
「それが、よく覚えてないんですよ。変ですよね、同じ部屋だったのに。口をきいたことも、ほとんどない気がする。でもね」
豊海は、缶コーヒーを一口飲んだ。
「俺、時々、夢を見るんです。夜中の稽古場で、誰かが一人で四股を踏んでる夢。俺は階段のところから、それを見てるんです。一、二、三って数えて、三百までいくと、もう数えられなくなる。その人の顔は、見えないんですけど」
豊海は、笑った。笑ったまま、日に焼けた頬を、涙が一筋、流れた。
「その夢を見ると、なんでか、泣いちゃうんですよね。変でしょう」
三枝は、何も言えなかった。
帰りの飛行機の中で、彼女は手帳を開いた。そして、八十という数字の下に、新しい行を書き足した。
千鳥親方、昨年の春に死去。最後まで、言葉は戻らなかった。
不動岳、引退後、奈良の実家の社に戻る。昨年の秋、心不全で死去。三十六歳。
鷲尾親方、協会を退職。所在不明。
錦龍、熊本の実家で農業。左腰に障害。娘、小学二年。
豊海陽太、日南で漁師。夢を見る。
そして、その下に、彼女はしばらく迷ってから、もう一行書いた。
天翔、幕内復帰。
*
天翔は、三段目からやり直した。
右膝の手術から一年半。大関から関脇、平幕、十両、幕下、そして三段目。番付を滑り落ち、二十八になった元大関は、金屏風の前に座った日から数えて三年ぶりに、絹ではなく木綿の廻しを締めて土俵に上がった。客席は半分も埋まっていなかった。それでも、その半分の客が、彼が花道を引き揚げるとき、立ち上がって拍手をした。
天翔は、一年で十両に戻り、半年で幕内に戻った。かつてのような、受けて立ってゆったりと差す相撲ではなかった。立ち合いから頭で当たり、当たり続け、前へ前へと出る。右膝に分厚いサポーターを巻いて。
そして、二年目の九州場所。前頭筆頭の天翔は、十四日を終えて十三勝一敗。横綱黒嶽は、十四戦全勝。
千秋楽の結びの一番で、二人は組まれた。天翔が勝てば、優勝決定戦になる。
千秋楽の朝、福岡のホテルの喫茶室で、三枝は天翔に会った。フリーのライターになっていた彼女の取材を、天翔は自分から受けたいと申し出ていた。彼女が一年前に雑誌に書いた短い記事を、病院のベッドで読んだのだという。「対戦相手の故障率 その後」という、数字だけを並べた記事を。
「御幣は、もうありません」
天翔は、穏やかに言った。
「不動岳関が亡くなる前に、会いに行ったんです。もう一度御幣をいただけないかって。そしたら、もう効かないって言われました。社に入ったものには、符は効かない。あれはもう、神として祀られてしまったって」
天翔は、右膝をさすった。
「それから、こう言われました。あれを土に戻せるのは、もう、あの男自身だけだ。土俵の上で、あの男が、自分から負けを選ぶことだけだって。でも、そのためには、あの男の中に、自分というものが、まだ少しでも残っていなければならないって」
三枝は、天翔の目を見た。そこには、恐れも懎しみもなかった。中学の体育館で、一学年上の、ものすごい立ち合いをする少年に向かっていったときの、そのままの目のように見えた。
「俺は、今日、黒岩さんに、会いに行きます」
天翔は言った。横綱とは、言わなかった。
「中学のときのあの人が、まだどこかにいるなら。俺は、その人と取りたいんです」
*
九州場所千秋楽。福岡国際センター。
三枝は、向正面の客席の後ろの方にいた。
横綱土俵入り。不知火型。両手を広げてせり上がる横綱に、館内から「よいしょ」の声が上がった。その声は、二年前よりも、わずかに小さかった。観客の中には、横綱の土俵入りを、目をそらしてやり過ごす者もいた。理由を尋ねられたら、彼らは、よく分からない、と答えただろう。ただ、なんとなく、と。
結びの一番。
天翔が塩を撒く。山の朝のような、澄んだ塩ではなかった。ただの、白い塩だった。横綱が塩を撒く。その塩が、土俵に落ちる前に黒くなるのが、今は三枝にも見える気がした。気のせいだと、彼女は自分に言い聞かせた。
仕切りを重ねる。
天翔は、横綱の顔を見ていた。一度も目をそらさなかった。
横綱は、天翔の顔を見ていなかった。天翔の右膝を見ていた。
時間一杯。
最後の仕切りで、横綱の拳が土俵についた瞬間、天翔が、仕切り線の向こうから、小さな声で何かを言った。その声は、三枝のいる席までは届かなかった。だが、彼女には、その唇の形が読めた。
――黒岩さん。
横綱の顔が、上がった。
初めて、天翔の顔を見た。
立ち合い。
天翔は、頭から当たった。横綱は、当たらなかった。
立ち遅れたのだ。二年間で一度もなかったことだった。横綱の体は、立ち合いの瞬間、ほんのわずかに、何かに引き止められたように遅れた。あるいは、何かを思い出そうとしたように。
天翔の頭が、横綱の胸に入った。横綱が、一歩、下がった。二歩、下がった。天翔は、前へ、前へと出た。右膝のサポーターが、土俵の砂を押し込んだ。中学三年のあの日の、黒岩剛のように。千鳥親方のように。鎌倉の牛のように。
横綱の踵が、俵にかかった。
館内が、割れるような声に包まれた。三枝は、自分が立ち上がっていることに気づかなかった。
俵の上で、横綱の体が止まった。
三枝には、そのときの横綱の顔が、はっきりと見えた。向正面の後ろの席からでは、見えるはずのない距離だった。それでも、見えた。
横綱は、迷っていた。
四年近く前、支度部屋の入口で、彼女が「何が変わったんですか」と尋ねたときの、あの少し戸惑ったような、札幾な苦労人の顔が、ほんの一瞬、そこにあった。稽古です、とだけ答えた、あの顔が。
もう一歩だった。あと一歩、天翔が前に出れば。あるいは、あと一寸、横綱が踵の力を抜けば。
――負けてみろ。できるものなら。
三枝には、聞こえるはずのない声が、聞こえた気がした。それは、横綱の声だった。横綱自身が、自分に向かって言っている声だった。
横綱の体が、俵の上で、左に回った。
天翔の寄りの力が、そのまま土俵の外へ流れた。うっちゃり。三年前の九月、大関豪剛山から初めて白星を奪った、あの技だった。天翔は、一人で土俵下に落ちていった。
館内が、静まり返った。
天翔は、土俵下の砂の上で、しばらく動かなかった。それから、ゆっくりと起き上がった。右膝も、左膝も、動いていた。肩も、腰も。天翔は土俵に上がり、所定の位置に戻って、一礼した。
そして、横綱を見た。
三枝には、天翔の顔が、ゆっくりと、何かを失っていくのが見えた。痛みでも、悔しさでもなかった。その顔から、少年がいなくなっていくのが見えた。中学の体育館で、一学年上の少年のものすごい立ち合いに怖がりながら、それでもその少年を好きになった少年が。
翌日、天翔は引退を表明した。
右膝は全く問題ないと、彼は会見で言った。ただ、相撲を取る理由が、もう見つからないんです、と。
*
その夜、両国の千鳥部屋の稽古場には、誰もいなかった。
九州場所の一行は、まだ福岡にいた。留守を預かっているのは、今年の春に入門したばかりの、十五歳の序ノ口の少年だけだった。北海道の、海沿いの町の生まれだという。体が小さく、新弟子検査にもようやく合格した少年は、初土俵から三場所、まだ一つも勝ち越せていなかった。
少年は、稽古場の隅の、黒光りした鉄砲柱の前に立っていた。
右、左、右、左。
小さな掌が、柱を叩いていた。その掌の皮が剥けても、少年はやめなかった。血が柱に赤い筋を引いても、やめなかった。
やがて少年は、柱から離れ、土俵の中央へよろめき出た。
膝をついた。
両手を土に突いた。剥けた掌から血が流れ、仕切り線のあいだの土に、ぽたり、ぽたりと落ちた。
「……勝ちてえ」
少年は、声に出していた。
「一度でいい。勝ちてえ」
稽古場の蛍光灯が、ちりちりと鳴った。
階段の上に、大きな影が立っていた。
少年はそれに気づかなかった。福岡にいるはずの、この部屋の誰よりも大きな影が、そこに立っていることに。たとえ気づいたとしても、少年には、それが人の影なのか、何か別のものの影なのか、分からなかっただろう。
影は、一段ずつ、階段を降りてきた。足音はしなかった。
一段降りるごとに、影は、何かを思い出そうとするように立ち止まった。稽古廻しの縁に挟んだままの、もう字も薄れた紙の角のようなものを。下北の港の、冬の日だまりの匂いのようなものを。そして、それが何だったのか、どうしても思い出せないまま、また一段、降りた。
影は、稽古場の入口に立った。
土俵の真ん中で、小さな少年が、血の滲む土を握りしめて泣いていた。
その土の味を、影は知っていた。砂の味。塩の味。鉄の味。それから、腐る寸前の果実のような、あの甘さ。
影は、口を開いた。
そこから出てきたのは、低い、海鳴りのような声だった。その声は少年の耳からではなく、土に触れている掌から、膝から、骨を伝って、少年の頭の中へと響いていった。
それが、かつて黒岩剛という名の男の声だったことを、もう誰も知らない。その声の主自身も。
――勝ちたいか。
(了)




