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恋愛小説のはずでした

私の婚約者と結婚する親友へ。花嫁の付き添いは、お断りします

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/10/28

「親友なんだから、花嫁の付き添いはあなたがいいわ」


 セシルは、私の目が腫れていることには触れなかった。

 応接室の窓際に座り、膝の上の手袋を揃えて、六週間後の婚礼の話をしている。花は白を中心に、少しだけ淡い桃色を混ぜたいのだという。私の庭で咲く薔薇を見ながら言うので、摘んでほしいと頼まれるのかと思った。

 違った。欲しかったのは、私だった。


「付き添い?」

「ええ。支度の間も一緒にいて、礼拝堂へ入るときには隣を歩いてほしいの。祝宴のお席も、私のすぐ隣にするわ。知らない方ばかりでは、緊張するでしょう?」


 知っている方ばかりでも、緊張する結婚式はあると思う。

 花婿が、六日前まで自分の婚約者だった場合などは。


「レオン様も、あなたに頼むのが一番いいって」


 カップの取っ手にかけていた指を離した。

 あの日、レオンはセシルを連れてきた。私と結婚できない理由を、彼女の手を握って説明した。二人は私たちの婚約中から会っていて、もう離れられないのだという。

 私が彼からの手紙を待ち、彼の好みに合わせて髪を結い直していたころ、二人は私に隠れて会っていた。セシルへ、最近レオンがよそよそしいのだと相談したときにも、私は何も知らなかった。


 婚約の解消については、両家で話がついた。

 母は私を抱き締めて泣き、父は先方へ出す返事を何度も書き直した。私自身も、あんな二人の姿を見たあとで結婚したいとは言えなかった。

 だからといって、六日で眠れるようにはならなかった。二年の間に楽しみにしてきたことは、婚約がなくなったと知らせれば、きちんと順番に消えてくれるものではない。


「私に、あなたの花嫁姿を一番近くで見てほしいの?」


 セシルの微笑みが強張った。私の声が、彼女の思っていた調子と違ったのだろう。


「……まだ、辛いのは分かっているわ。でも、お式は先よ。今すぐ笑ってとは言っていないでしょう」

「六週間後なら、笑えると思っているのね」


 聞くと、セシルは困ったように眉を下げた。

 よく知っている顔だった。寄宿学校で夜更かしを見つかったとき、刺繍糸を買いすぎたとき、焼き菓子を私より一つ多く食べたとき。そういう顔をされると、たいてい私は笑ってしまった。

 今日は笑えなかった。


「あなたとは約束したじゃない。どちらが先に結婚しても、必ず付き添いをするって。十五のとき、同じ髪飾りを買って……」


 覚えている。白い小花を連ねた、子供には少し大人びた髪飾り。二人で小遣いを持ち寄って、店先を三度も行き来して買った。

 いつか素敵な人に出会ったら。その人の話を真っ先にしよう。結婚式の日には、支度をしながら、出会ったときの話をもう一度聞かせて。

 そう言って笑った。私はセシルの婚礼で、泣いてしまうかもしれないと思っていた。


「その人がレオンだとは、思わなかったわ」


 セシルの唇が動き、言葉にならずに閉じた。

 私は膝の上で指を組んだ。手が震えていた。怒っているところを見せたくないのではない。今にも泣きそうなのが、悔しかった。


「付き添いはしません。結婚式にも、行かないわ」

「カティア。私たちの友情までなくすことはないでしょう。レオン様を好きになったことは、謝ったわ」


 謝られた。二人で訪ねてきた日に、セシルはごめんなさいと言った。彼の手を離さず、泣きながら。

 私はあの日、どこを見てよいのか分からなかった。彼女の涙を拭っている手を、私は結婚したら毎日見るはずだったのだ。


「謝ったら、付き添いを頼めるの?」


 自分の声が大きくなった。

 廊下の向こうで足音が止まったが、セシルから目を逸らさなかった。


「あなたが幸せになるために、どうして私が隣で笑わなければいけないの。レオンと結婚するあなたを見て、よかったわねと言わなければいけないの」

「そんな言い方をしないで。あなたが来てくれなかったら、私……」


 そこで続きを待ってしまった。

 十年間の癖だった。セシルが言葉に詰まれば、私は聞いた。嬉しい話も、不安な話も、もう聞き飽きたほど繰り返す小さな失敗の話も。

 この続きを聞いたら、また彼女がどれほど困っているかを知ることになる。私が嫌だと言った話は、まだ一つも聞いてもらえていないのに。


「今日は、帰って」


 卓上の呼び鈴を鳴らすと、セシルは初めて慌てた。


「分かったわ。今は無理に決めなくてもいいのよ。少し落ち着いてから、また話しましょう」

「私は決めたわ。付き添いも、出席もしません」


 侍女のマルタが戸口に現れた。私はセシルを玄関まで案内するよう頼んだ。

 立ち上がったセシルは、まだ何かを言いたそうだった。それでも、私が椅子から動かないと分かると、白い手袋を握って部屋を出ていった。

 庭の薔薇のことは、最後まで頼まれなかった。


 馬車の音が遠ざかったあと、私は自分の部屋へ戻った。

 鏡台の引き出しに、青い小箱がある。開けると、白い小花の髪飾りが薄紙の上で光った。片側にほんの小さな傷がある。買った日に私が落として、セシルが自分のものと取り替えようかと言ってくれたときの傷だ。

 その申し出が嬉しくて、私は取り替えなかった。これを見るたびに、セシルがそう言ってくれたことを思い出せるから。


 箱を閉じようとして、うまくできなかった。

 薄紙が蓋に挟まっている。それだけのことなのに、指で押し込むうちに涙が落ちた。

 レオンと結婚できなくなった。私の知らないところで、二人は私の話をしていた。どうしてこんなことになったのか、誰かに何度でも聞いてほしかった。

 セシルに話したかった。


 そう思ってしまったのが、何より悲しかった。

 泣きながら箱を閉じ、いちばん下の引き出しへしまった。今は、見たくなかった。捨てるかどうかまで、今日決めたくはなかった。


* * *


 夕方、リゼが大きな旅行鞄を二つ持ってやってきた。

 寄宿学校で隣の部屋だった友人で、王都へ来るときは我が家へ泊まることが多い。今回の約束も、ひと月前からしていた。

 玄関で私を見るなり、彼女は手にした包みを背中へ回した。


「どうしたの、その包み」

「……お祝いに、テーブルクロスを縫おうと思って。柄を選んでもらおうと、布の見本を持ってきたの」


 もう一度泣いてしまいそうだった。

 けれど、リゼが鞄と包みと手袋を持ったまま、本気で困っているのを見て、せめて荷物を置いてもらおうと思った。


「相談は、なくなったわ。お茶は飲める?」


 彼女は頷き、自分で包みを鞄へしまった。

 客間へ案内してから、私はレオンとセシルのことを話した。話は前後した。いつ二人が会っていたかという説明の途中に、セシルと買った髪飾りの話が混じった。

 リゼは何度も何かを言いかけて、それでも私が続けると口を閉じた。私が手巾を探したときだけ、自分の清潔な手巾を差し出した。


「今日、付き添いに来てほしいって言われたの。断ったけれど、聞いてくれた気がしない」


 最後まで言うと、リゼはカップを受け皿へ置いた。


「私は、あなたが結婚するのを楽しみにしていたのよ。あなたが嬉しそうに話すから。二人にあんなことを言われて、どんなに辛かったかと思うと……腹が立つわ」


 その声まで少し震えていて、私はまた泣いた。

 リゼはセシルを罵る言葉を探すのではなく、私の手を握った。しばらく、どちらも何も言わなかった。

 やがてお茶が冷えきったころ、私は自分から彼女の鞄を見た。


「ところで、二つとも服なの?」

「片方は帰りに入れるもののためよ。空で来たの」


 思いがけない返事に顔を上げると、リゼは少しだけ得意そうになった。


「朝市にね、鳥の帽子を売る店が出るんですって。大きな羽根じゃなくて、小さい鳥そのものがついているの。前に来たとき買えなくて、今度こそと思って」


 手で鳥の大きさを作って見せる。小さいと言ったわりには、大きい。

 私は鼻をかんで、その両手の間を見た。


「それ、箱が一つ要るわね」

「だから空けてきたのよ。明日の朝、一緒に選んでくれない? 自分でかぶると、頭の上は見えないでしょう」


 私は返事をしかけ、時計を見た。

 この数日、朝方にようやく眠くなる。明日も目が覚めるまで寝ていたかった。誰かと出かける支度をして、笑う顔を鏡で確かめることを、まだしたくなかった。


「明日の朝は、寝ていたいわ。一緒には行かない」


 言ったあとで、リゼの顔を見た。

 彼女は少し残念そうに眉を上げたが、それから空の鞄へ目をやった。


「じゃあ、一人で見てくる。後ろからも見えるように、鏡をもう一枚お借りするわ。起きる前に戻ったら、部屋へ行かずに待っているから」


 それで話が終わった。

 手を握ってくれていた人が、今度は鳥の色を真剣に悩んでいる。私は青い鳥が好きだと言い、リゼは服に合わせやすいのは白だと反論した。

 結局、実物を見なければ分からないという、ごく当たり前の結論になった。

 その夜は、薄紙を押し込んだ箱を開けずに寝台へ入った。


* * *


 翌朝、私が食堂へ下りたとき、朝食の時刻はとうに過ぎていた。

 マルタが温めた牛乳とパンを運んできてくれた。母は外出しており、父は仕事へ出ていた。リゼもまだ戻っていない。

 誰かを待たせていると思わずに食べる朝食は、久しぶりだった。パンを半分に割り、片方へ杏のジャムを多めに塗った。牛乳を飲み終えるころ、玄関からリゼの声がした。


「カティア、起きている? 見てもらいたいのだけれど」


 食堂の戸口に、白い鳥が現れた。

 その下に帽子のつばがあり、さらに下にリゼの顔があった。小鳥は細い針金の脚で留められているらしく、彼女が歩くたびに首を前へ揺らす。


「随分、丁寧にお辞儀をする鳥ね」

「そうなの。買うときには、ここまで動かなかったのよ。帰りの馬車で気づいたわ」


 リゼが帽子を押さえて礼をすると、鳥は彼女より深々と頭を下げた。

 笑ってしまった。彼女が顔を上げたら、鳥も遅れて起き上がる。その真面目な顔が、ますます可笑しい。


「これなら、私が礼をし忘れても安心ね」

「鳥ばかり評判がよくなったら、どうするの」

「次のお招きが鳥にだけ来たら、あなたに相談するわ」


 パンを持ったまま笑っていたら、リゼも我慢できなくなったらしい。帽子を脱ぎ、椅子に座って、二人でしばらく笑った。

 昨日、朝市に行かないと言ったことは、それきり話題にならなかった。

 彼女は自分の欲しい帽子を買ってきた。私は眠って、少し遅い朝食を食べた。それから同じ食堂で、同じ鳥を見て笑っている。


「帽子屋の方は、海辺でかぶるのにもいいと言っていたわ。つばが広いから、日差しを遮れるって」

「風が吹いたら、お辞儀だけでは済まなそうね」


 私が言うと、リゼは窓のそばへ帽子を持っていった。

 少し開いた窓から風が入り、鳥が横向きに揺れた。二人で顔を見合わせ、また笑った。


 その日の昼過ぎ、オディールから手紙が届いた。

 共通の友人で、セシルとも私とも寄宿学校の卒業後まで付き合いが続いている。封を切ったときは、先ほどの笑いがまだ胸のあたりに残っていた。

 最初の数行を読んで、それが冷えた。


『昨夜セシルから、あなたが花嫁の付き添いを快く引き受けてくれたと伺いました。レオン様とのことも、お二人で納得して解消なさったのですね。何も知らず、心配してしまってごめんなさい』


 読み違えたかと思い、もう一度読んだ。

 続きには、明日の午後にベルナール家へ集まり、婚礼の花や席の相談をすることが書かれていた。私も一緒だと聞いたので楽しみにしている、と。

 指が紙を強く押し、折り目が白くなった。


 昨日、私は断った。

 帰り際にも、付き添いも出席もしないと言った。聞こえなかったはずはない。セシルは私が呼び鈴に手を伸ばしたことにまで気づいていた。

 なのに、彼女は昨夜、人に私の承諾を話した。


 マルタに便箋を持ってきてもらい、私は卓上へ手紙を置いた。

 最初にオディールへ書いた。私は付き添いを引き受けていない。婚約中の二人の交際を知って解消したのであり、二人の結婚を祝福してもいない。昨日セシルへ断ったばかりだ、と。

 書き終えると、手が少し痛かった。


 もう一枚の紙には、セシルの名前を書いた。

 明日の相談へ行く、と書いてから、一度ペンを止めた。そこだけ読んで、やっぱり来る気になったのだと思われたくなかった。

 付き添いを断った私の名前を、承諾したことにして使わないでほしい。その件を、直接話しに行く。

 最後まで書き、二通ともその日のうちに届けてもらった。


 夕食のあと、リゼに手紙のことを話した。

 彼女は私が見せたオディールの手紙を読み、しばらく黙っていた。


「明日、出かけるのね」

「ええ。私が言ったことを、あの人の都合で違う話にされたままにはしたくないの」


 怒りで声が硬くなった。

 昨日までは、もう会いたくないと告げるのが怖かった。セシルに嫌われるのが怖いのか、自分が彼女を嫌いになったと認めるのが怖いのか、うまく分からなかった。

 けれど、私が黙っているところで、私の笑顔が用意されている。

 そこへ顔を差し出すつもりはなかった。


「帰ったら、話を聞いてもらえる?」


 リゼは頷いた。


「聞くわ。何も話したくなくなったら、お茶だけでも。明日は鳥を部屋に置いておくから、真剣な話の邪魔はしないはずよ」


 鳥が真面目な顔でお辞儀をするところを思い出して、少し笑えた。

 私は明日着る服を選び、早めに灯りを消した。目を閉じても眠れなかったけれど、言いたいことがなくなるまで寝台の中で言葉を繰り返すのはやめた。

 伝える相手は、明日そこにいる。


* * *


 ベルナール家の応接室には、白い花の見本が三つ並んでいた。

 セシルが窓際に、レオンがその隣に座っている。オディールは向かいの椅子から立ち上がり、私を見ると静かに会釈した。


「お手紙を読んだわ。今日は私も、あなたのお話を聞いてからにしたいと思って」


 彼女の声に、いつもの華やかさはなかった。

 私は礼を言って、空いている椅子へ座った。セシルは花の見本を少し端へ寄せ、真ん中に置いた紙をこちらへ向けた。


「ちょうど、入場の順番を考えていたの。あなたはここで私の花束を持って、それから一緒に――」

「その話の前に、私の名前を消して」


 入場順の欄には、セシルの名前の一段下に、カティア・レーヴェンと書かれていた。その横には、祝宴の席の図もある。

 その文字を見たら、ここへ来るまでに考えていた穏やかな切り出し方が、全部どこかへいった。


「私は付き添いを断ったわ。昨日も、そのことを手紙に書いた。どうして、ここに名前があるの」


 セシルは紙に目を落とし、それからオディールを見た。


「まだ話の途中だったからよ。あなたが悲しんでいるのは分かっていたけれど、私たちが昔した約束まで、本気でなくしたいとは思わなくて」

「本気で言わなければ、あんなことは言えないわ」


 セシルが息を詰めた。

 あの日、自宅で呼び鈴に手を伸ばすだけでも、どれほど辛かったか。十年来の友人を、玄関まで送らず帰した。寝室で髪飾りをしまいながら、私はそのことも泣いていたのだ。

 あれを、しばらく拗ねているだけで片づけられたくなかった。


「私が嫌だと言ったことを、嫌ではないことにしないで。オディールへの説明も訂正してほしいの。私は二人の結婚を喜んで、あなたの付き添いを引き受けたのではないわ」


 オディールは手元の手紙を膝へ置いた。セシルから聞いていた話を、私に確かめる必要があるのだろう。


「レオン様との解消は……先に、決まっていたのではなかったのね」

「ええ。八日前、二人から交際していると聞いた日まで、私は彼と結婚するつもりだったわ」


 言ってから、レオンを見た。

 彼は反論しなかった。座り直して、セシルの肩へ手を置いた。


「君を傷つけたことは悪かったと思っている。ただ、私たちは結婚する。いつまでも周囲に誤解されたままでは、セシルが辛い思いをするんだ」

「何を誤解されているの?」


 聞き返すと、彼の指がセシルの肩で止まった。


「……君から私を奪ったように言う者がいる」


 私は二人の顔を順に見た。

 言う者がいるのは知らなかった。けれど、その人たちに私が何かを頼んだことはない。


「婚約中だと知って、二人で付き合っていたでしょう。その結果、私は婚約を失ったわ。それと違う話をしてほしいのなら、お断りします」

「だからこそ、君が付き添ってくれれば、皆も納得するんだ。君たちの友情が続いていると分かれば、余計なことを言わなくなる」


 花束を預ける人が必要なだけではなかった。セシルの緊張を和らげるためだけでもなかった。

 私が二人の隣で笑えば、二人を責める人に、本人も許していると言える。祝宴の席で私が花嫁の手を握れば、傷つけたことも済んだ話にできる。


「それで、私の気持ちはどうなるの」


 レオンは答えなかった。

 私は彼と別れる日に、次々と用意された説明を聞いた。仕方がないことなのだと、気持ちは変えられないのだと。そのときには、私の言う言葉はもう二人に届かないのだと思った。

 今日も、理解してもらえるまでここに座り続けるつもりはない。ただ、私が承諾したという嘘は、この場で取り消したかった。


「私はレオンとやり直すつもりはないわ。二人が結婚することも止めません。でも、私は祝福しません。付き添いも、出席もしません。その名前を消してください」


 セシルの目に涙が溜まった。

 レオンは私を睨み、卓上の紙を少しだけ自分の方へ引いた。まだ消す気はないらしい。


「カティア、少し落ち着いてくれ。ここまで言う必要があるか。セシルは、君にも幸せになってほしいと思っているんだ」


 その言葉で、腹の底が熱くなった。

 私は、幸せになることを願ってもらうために来たのではない。二人の幸せの証拠として、私を使わないでくれと言いに来たのだ。


「それなら、私がしたくないことをやめさせて。あなたと別れたあとも、あなたのために笑わなければいけないの? セシルと結婚するなら、彼女に向き合って。私に手伝わせないで」


 レオンが口を開きかけたが、セシルが彼の袖を引いた。

 白い花の向こうで、彼女は涙を拭った。私を見て、子供のころからの呼び方で名前を呼んだ。


「カティ。私、あなたとは友達でいたいの。レオン様のことがなかったら、こんなふうにはならなかったでしょう」


 胸が痛んだ。

 その呼び方をする人は、今まで、世界に一人しかいなかった。熱を出して寄宿舎の寝台に寝ていた私へ、窓の下から菫を投げてくれた人。紙に包んだ菫は窓まで届かず、寮監に二人揃って叱られた。

 あのとき笑ったのも、この人だった。


「レオンが勝手に、あなたのところへ来ただけだと言うの?」

「そうではないわ。でも、好きになってしまったのよ。あなたに言ったら悲しませると思って、どうしても言えなくて」


 私が彼の態度を相談したとき、セシルは、忙しいのではないかと言った。男の人は手紙が苦手なのだとも言った。

 私を悲しませないために、私を何度も待たせたのだろうか。

 その間に二人で会って、私がまた彼を信じようとしているのを知りながら。


「言えなかったことまで、私のためにしないで」


 言葉の最後が震えた。

 セシルの顔を見ているのが辛かった。けれど、目を伏せたままでは言えない気がした。


「私は、あなたが好きだったの。レオンが優しくしてくれた話も、寂しかった話も、真っ先にあなたにしたかった。婚約がなくなった日でさえ、あなたに聞いてほしいと思ってしまったのよ」


 セシルの唇が、泣く形に歪んだ。

 私も泣いていた。手巾を出すのがもどかしくて、先に言葉を続けた。


「でも、話せなかった。あなたが彼の隣にいたから。私がどんな気持ちになるか知っていて、それでも会い続けていた人だから」


 セシルは顔を覆った。

 レオンの手が彼女の背へ回り、私は、自分の手巾で自分の頬を拭いた。

 オディールは黙っていた。ここで何かを言ってもらいたくはなかった。私とセシルの十年の話を、まだ私がしていたかった。


「……あなたは、私が困ったら助けてくれたでしょう」


 やがて、セシルが顔を上げた。


「私の家の舞踏会がうまくいかなかったときも、試験に落ちそうだったときも。最初は怒っても、最後には一緒に考えてくれたわ。だから、今回も少し時間があれば……」


 私は手巾を握り直した。

 舞踏会で伴奏の人が来られなくなったとき、セシルと二人で楽譜を探した。試験の前夜には、一緒に覚え歌を作った。あまりにも変な歌になったので、翌日の教室で思い出して笑いそうになった。

 楽しかったのだ。疲れていても、好きな友人と何かをすることが。


「好きだったからよ」


 セシルは、許される言葉を待つようにこちらを見た。


「あなたが困っていて、私にできることがあって、一緒にうまくいったら嬉しかった。私は、あなたに何も言えないから助けていたのではないわ。あのとき楽しかったことまで、私が最後には折れる人だから、で片づけないで」


 セシルは返事をしなかった。

 私は椅子の背へ体を預け、息を吸った。言葉を続けるのに、思っていたより力が要った。


「私が、あなたの花嫁姿を楽しみにしていたのは本当よ。髪飾りを買ったとき、あなたがどんな人と結婚するのか、早く知りたかった。でも、その話を聞かせてもらうはずだった私に、あなたは嘘をついたわ」

「これからは、つかないわ。お式が済んで落ち着いたら、また二人でお茶をしましょう。レオン様の話はしないから」


 私は首を振った。

 少し前まで、どこかにそんな方法があるのではないかと考えていた。セシルとレオンのことだけを別の場所へ置いておけば、私たちはまだ笑えるのではないか。

 彼女が彼を選んだ日と、私へ菫を投げた日を、同じ人のしたこととして抱えなくても済む方法を探していた。


 けれど、セシルは私が断った返事まで、都合のいい話に変えた。

 レオンの名前をお茶の席から取り除いても、私の話を聞かなかった人は、そこに座ったままだ。


「もう、二人でお茶はしないわ」


 セシルの顔から、表情が抜けた。


「……お式にも?」

「行きません。その先も、あなたとは会いません」


 口にすると、胸の中にあったものが一度に崩れた気がした。

 十年を、一言で片づけたかったわけではない。さっき話した思い出の一つ一つを、また一緒に笑えたらと思う気持ちは、今もある。

 それでも私は、この人の前で嫌だと言った自分を、もう置き去りにはできなかった。


「親友だったのに」


 セシルは、私にだけ聞かせるように言った。

 私は頷いた。頷きたくなどなかった。こんな言葉を、終わりの場面で交わしたくはなかった。


「親友だったから、こんなに悲しいのよ」


 セシルが俯き、肩を震わせた。

 レオンは彼女の名前を呼んだが、今度は私を責めなかった。彼が卓上の紙へ視線を落とすと、セシルは彼の前から紙を引き寄せた。

 ペンを持ち、私の名前の上に線を引いた。


 カティア・レーヴェン。

 入場順の紙から、私の名前が消えた。祝宴の席の図でも、セシルの隣の小さな文字に線が引かれる。

 私はその二つを、最後まで見た。


「私が承諾したと、もう誰にも言わないで。既にそう伝えた方には、訂正して。私も、知った方には自分で話します」


 セシルは小さく頷いた。

 そこでようやく、レオンが口を開いた。


「付き添いは、ほかの人に頼もう。まだ日数はある。入場の段取りも、変えればいい」


 彼は、さっきまで私へ求めていたことを、紙の上で自分たちへ引き戻し始めた。

 セシルが彼を見た。泣いたあとで赤くなった目が、もう一度私へ向き、それからオディールへ移った。


「オディール、あなたなら……」


 呼ばれた彼女は、驚いた顔をした。

 紙も、ペンも受け取らなかった。


「今、私にそう言われても、お引き受けできないわ。今日は、花の相談をするつもりで来ただけなの」


 セシルは唇を噛んだ。

 少し前まで当然そこにいるはずだった付き添いは、一人の名前を別の名前に書き換えれば用意できるものではなかった。

 レオンは白い花の見本をどけて、線の引かれた紙を自分の前へ置いた。セシルに、二人で考え直そうと言った。その声には、私を引き留める余裕はもうなかった。


 私は立ち上がった。

 オディールへ会釈して、扉へ向かった。足が少し頼りなかったので、急いで歩こうとはしなかった。


「カティ、待って」


 扉の前で足を止めた。

 この呼び方を聞くのは、これで最後になるのかもしれない。振り返ると、セシルは私の方へ片手を伸ばしていた。


「私、本当に……あなたが、いなくなるとは思わなかったの」


 その手を、何度握っただろう。

 知らない人ばかりの部屋へ入るとき。試験の結果を見るとき。私の婚約が決まって、二人で飛び跳ねたとき。

 今、握れば、きっと少しだけ安心した顔をする。


「私は、ここにいたわ。一昨日も、婚約をなくした日も」


 レオンの手を握っていたセシルを思い出した。

 あの部屋にも私はいた。二人が選んだことを、目の前で聞いていた。今日も私が何を言っているか、何度も聞いてもらおうとした。


「さようなら、セシル」


 私は扉を開けた。

 背後でレオンが椅子を引く音がした。セシルの名を呼ぶ声も聞こえた。けれど、振り返らずに廊下を歩いた。

 玄関で待っていた我が家の馬車へ乗り込むと、膝の上で組んだ指が、まだ震えていた。


* * *


 家へ帰ると、リゼは約束どおり鳥の帽子を部屋へ置いてきていた。

 応接室にいたのは、いつもの顔の友人だった。その顔を見たとたん、喉の奥が痛くなった。


「もう、会わないって言ったわ」


 リゼは立ち上がり、私のそばへ来た。

 よく言えたとも、これでよかったとも言わなかった。私が彼女の肩へ額を寄せると、そのまま背に手を置いた。


「もう、一緒にお茶をしないの。十年も、してきたのに」


 声が幼くなった。

 私はセシルが嫌いだった。どうしてこんなことができるのかと思った。顔を見たくなかった。それでも、もう会わないと決めて家へ帰ってきたら、セシルのいないこれからが急に長くなった。

 リゼの服を濡らしてしまうと分かっていたのに、しばらく離れられなかった。


 少し落ち着いてから、二人でお茶を飲んだ。

 ベルナール家で話したことを、思い出せる順に話した。途中で言葉が出なくなると、リゼは自分のお茶を飲んで待った。私は窓の外の薔薇を見て、続きを話した。

 花嫁の隣で笑うことは断れたのに、家へ帰ったら大声で泣いた。そう話したら、リゼは私の冷めたカップに新しいお茶を注いだ。


「今日は、泊まっていてくれてよかった」

「私もよ。帰る鞄には、まだ余裕があるし」


 言ってから、彼女はしまったという顔をした。


「今のは、もう一つ帽子が欲しいという意味ではないのよ」

「本当に?」


 聞くと、リゼは少し考えた。


「欲しくないとは、言い切れないわね」


 笑うと、目の端が痛んだ。泣きすぎたせいだった。

 私は濡れた手巾を畳み直して、明日なら一緒に見に行けると思う、と言った。リゼはすぐに店の場所を説明し始めた。今度は朝市ではなく、大通りにある帽子屋だという。

 その話の途中で、私はもう一度鼻をかんだ。


 翌日から、必要な手紙を書いた。

 私が付き添いを引き受けたと聞いていた人には、その話が事実ではないと伝えた。オディールからは、勝手に納得して手紙を書いたことを詫びる返事が来た。彼女が知り合いに話した分も、訂正すると書いてあった。

 私は、知らせてくれたから分かったのだと返した。誰にとっても気持ちのいい話にはできなかったが、そのために嘘を残すつもりはなかった。


 セシルからも、一度手紙が来た。

 昔の思い出と、もう一度会いたいという願いが書かれていた。読み終えてから、しばらく返事を出せなかった。知らない字なら、ここまで迷わなかったと思う。

 数日後、会うつもりはない、これ以上の手紙も受け取らないと書いた。

 送ったあとで泣いた。返事を書かなければよかったとは、思わなかった。


 セシルの来訪から六週間が経ち、二人の婚礼の日になった。

 私は王都から離れた海辺の町で、靴に入った砂を出していた。


「だから、こちらの道を歩きましょうと言ったのに」


 石段の上でリゼが笑っている。

 彼女の帽子では、白い鳥が海風に向かって深々とお辞儀をしていた。海辺でかぶるのに向くという店の言葉は、半分くらい当たっていたらしい。つばは頼もしく、鳥は忙しかった。


「近くまで行ってみたかったのよ。水が、あんなに透き通っているから」


 私は片足で立ち、もう片方の靴を逆さにした。

 この旅は、私から誘った。窓辺で風に揺れる鳥を見た日から、本当の海風ならどうなるかと、何度か考えていた。遠くの海まで思い浮かべるうち、私自身がその景色の中に行きたくなった。

 母に話すと、宿の心当たりを教えてくれた。リゼと日程を決め、二泊分の荷物を詰めた。今朝、宿の食堂で日付を見たときは、少し胸が詰まった。


 セシルの婚礼で使うはずだった髪飾りは、家の引き出しにある。

 今日つけるものではない。それだけは、もう迷わなかった。


「午後は、船に乗ってみない?」


 靴を履き直してから言うと、リゼが港へ目を向けた。

 湾をひと巡りする小さな帆船が、桟橋で客を乗せていた。白い帆の下から子供の笑い声が聞こえる。


「乗りたいわ。でも、この帽子は宿に置いてきましょう。鳥だけ飛んでいきそう」

「一度だけ飛んで、帰ってこない鳥になるわね」


 彼女は帽子を押さえ、私も手を伸ばした。

 ちょうど強い風が吹き、二人でつばを掴んだまま笑った。通りかかった老婦人まで鳥を見て笑い、リゼは今度は自分で丁寧に礼をした。

 泣いた日を数えるのを、やめられたわけではない。思い出したくない場面は、まだ勝手に浮かんでくる。

 それでも、今、船に乗りたいと思った。


 昼食を食べてからでも船は出ると聞いて、私は港で見つけた店へ寄ろうと誘った。焼いた魚に、好きなだけ檸檬を搾っていいのだという。帽子を宿へ戻すのは、そのあとでも間に合う。

 リゼは賛成し、白い鳥の名誉のために、昼食には同行させようと言った。

 私は笑って、隣を歩く友人の腕に自分の腕を絡めた。


 午後の船に乗るころには、鳥は宿の寝台で休んでいた。

 帆が膨らみ、船が桟橋を離れる。陸で見たよりも濃い青色の海が広がって、私はリゼの腕を軽く引いた。水面の下に小さな魚の群れがいた。二人で身を寄せて覗くと、銀色の光が船の影を横切っていった。


「見えた?」

「ええ。もう向こうへ行ってしまったわ。あなた、見つけるのが早いのね」


 私は得意になって、次の群れを探した。風で髪が乱れても、今は直すのが惜しかった。リゼが違う方を指差して、私はそちらへ顔を向けた。

 花嫁の隣を歩く約束は、果たさなかった。

 今日は、この人と海の上で笑っている。

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