一夜三件 ――眠そうな学園生と十三番窓口の、ある夜のこと
お読みいただきありがとうございます。
連載中の「一体契約のテイマーと十三番窓口」の番外編です。本編を読んでいなくても、この一話だけで読めます。時期でいうと、本編の第6話から第8話のあいだの出来事です。
「――アルクス。起きろ。三度目だ」
教官の声で、リオは顔を上げた。
午後の教室。窓から入る春の光が、机の上でぬるくなっている。前の席のセナが振り向いて呆れた顔をした。隣のカイルは、笑いを噛み殺している。
「……起きてます」
「今、起きたんだろう」
否定はしなかった。事実だったからだ。
アルフェン高等技能院。王都で一番の名門校で、テイマー科の推薦生リオ・アルクスは、今日も居眠りで教官に目を付けられていた。
推薦生、というのは肩書きだけではない。テイマー科の推薦生は入試を免除される代わりに、入学の時点で「一芸」を持っていることが条件になる。剣術科なら剣。魔法科なら術。テイマー科なら、魔物を従える腕。
だからテイマー科の推薦生は、たいてい自慢の相棒を一体は連れて入学してくる。
リオは連れていない。
一体も、いない。
「アルクス。実技だ。今日こそ何か連れてこい」
「……そのうち、連れてきます」
「その『そのうち』が、入学からずっと続いてるんだが」
教室に小さな笑いが起きた。悪意のある笑いではない。みんな、もう慣れている。手ぶらの推薦生。テイマーなのに魔物を一体も連れていない、少し変わったやつ。それが、この教室でのリオの立ち位置だった。
放課後、カイルが肩に腕を回してきた。
「なあ。お前、今日もバイトか」
「多分」
「多分ってなんだよ。……なあ、いっぺん聞きたかったんだけどよ。お前、なんで魔物、連れてねえの。推薦で入ったんだろ?」
「……連れられないんだ」
「連れられない」
「一度に、一体しか契約できない。それが、俺の体質でさ」
カイルは少し考える顔をした。考えて、あっさり言った。
「一体いりゃ、いいじゃねえか」
「……そうなんだけどな」
一体いればいい。その通りではある。だが、その一体をリオは学園には連れてこない。連れてこられない事情が、リオの夜の側にある。
それをカイルはまだ知らない。教室の誰も知らない。
◇
夕方、学園の裏門を出たところで頭上から羽音がした。
鳩である。
灰色の、どこにでもいる街の鳩。それがリオの肩に降りて、脚に結んだ小さな紙筒をくちばしで差し出した。
「……ありがとう」
リオが紙筒を外すと、鳩は一度だけ首を傾げて夕空へ飛び去った。
紙には几帳面な字でたった一行。
――今夜、三件。日暮れに来い。
署名はない。この字を書く人は、王都に一人しかいないので、要らない。
リオは紙を畳んで、ポケットに入れた。
これが、リオの「バイト」である。
王都の西三番街、その裏路地の突き当たり。真鍮の小さな板に「13」とだけ彫られた戸口。
十三番窓口。
表向きは何の看板もない。裏ではこう呼ばれている。表に出せない厄介ごとを、静かに片付ける相談所。人の斡旋はしない。仕事は請ける。名前は売らない。それがこの窓口の決まりだった。
リオは、その窓口の下働きをしている。
昼は居眠りの学園生。夜は、裏路地の窓口の下働き。
「――遅いぞ」
戸を開けると、燭台の灯りの向こうで机に肘をついた男が言った。
グラント。この窓口の主任である。几帳面な字の主で、帳面と算盤と湯呑みが机の上の全てだった。年の頃は五十前。腕組みが似合う、いつも少し不機嫌そうな顔。
「日暮れ、って書いてあったので」
「日暮れの、少し前が日暮れだ。……座れ。今夜は忙しい」
帳場の隅の、いつもの席に座る。
厨房の方から、鍋の匂いがした。薬草の匂いも、どこかから混ざってくる。この帳場には、グラント以外にも人がいる。
番号を持った人たち、と呼ばれている。
一番から十番まで。表の顔は、街の名士だったり、工房の親方だったり、劇場の座長だったりする。裏の顔は、それぞれの道の化け物である。声ひとつで千人を泣かせる人がいる。開かない扉を必ず開ける人がいる。毒を味見で見分ける料理人がいる。腕っ節で剣聖を崩した人がいる。そういう人たちが、夜の街のあちこちで番号を背負って仕事をしている。
主任のグラントは、その一番。帳の主と呼ばれている。
リオはまだ番号を持っていない。
持っていないから、下働きをしている。番号を持った人たちの仕事を時々手伝う。それだけである。
「三件だ。全部、今夜のうちに片付ける。順に言うぞ」
グラントは帳面を開いた。
「一件目。東の市場裏の路地で、婆さんが指輪を落とした。亭主の形見だ。日暮れ前に憲兵が探したが、見つからん。路地は狭くて暗い。……お前なら、見つけられるな」
「多分、なんとかします」
「二件目。北の橋で、荷馬車の馬が暴れて動かねえ。橋を塞いで、もう二刻になる。御者がどうにもできん。馬は、ウォーホースだ。魔物馬だぞ」
「……大きいですね」
「三件目は、まだ分からん。西門の衛兵から、妙な報せが入ってる。壁の外の畑に、でかいのが出たとか出ないとか。詳しいのは、後で入る」
グラントは帳面を閉じた。
「一件目と二件目は、急げば間に合う。三件目は、二件目の後に、様子を見に行け。……分かってるな。結んだら、次の前に解け。順番を、間違えるな」
「はい」
リオは覆面を顔に着けた。
最近、窓口の仕事では覆面を着けるようになった。学園の知り合いに万が一見つかっても大丈夫なように、と主任が用意させたものである。覆面ができる前は素顔でやっていて、それで困ったことは一度もないのだが、用意されたからには着ける。声を変える布も、覆面とひと揃いだった。
燭台の灯りの中で、覆面の少年が立ち上がった。
「行ってきます」
「三件、全部だぞ」
「全部、やります」
◇
東の市場の裏路地は、日が落ちると本当に暗い。
建物の間の細い道に、生ゴミの匂いと猫の匂いがこもっている。老婆は、路地の入口で手提げを抱えて震えていた。
「……あの。あなたが」
「窓口の者です。指輪を、探しに来ました」
覆面の少年に老婆は一瞬怯えて、震える声で言った。
「この路地で……籠を落として。中身を拾って、家に帰ったら、指輪がなくて。亭主の……」
「分かりました。少し、待っていてください」
リオは路地の奥に一歩入った。
暗い。憲兵が松明で探したという跡はあるが、松明では路地の隙間までは照らせない。
だが、路地には路地の目がある。
リオは目を閉じた。
見えない糸を、一本そっと伸ばす。
テイマーの糸である。魔物と契約を結ぶための糸だが、リオの糸は少し違う。契約を結ばなくても、ただ触れるだけで獣と話ができる。命令はできない。頼めるだけ。
屋根の上に猫が一匹いた。
――こんばんは。
猫は屋根の縁からこちらを見た。
――なんだ、人間。
――探し物をしてる。小さい、金色の輪。今日の夕方、この路地で落ちた。
――知らん。
――君じゃなくていい。この路地の猫で、見た子はいないか。
猫はしばらく黙っていた。それから、屋根の向こうへ一声鳴いた。
応えるように、あちこちから鳴き声が返ってきた。
路地の猫は、一匹ではなかった。屋根の上、樽の陰壁の隙間。路地の暗がりには、路地の数だけ猫がいて、猫の数だけ目がある。
やがて、一匹の小さな三毛が樽の陰から出てきた。
――光るもの。あの隙間。転がった。
三毛が、壁と壁の間の指も入らないような隙間を鼻で示した。
リオはしゃがんで隙間を覗いた。
奥に小さく光るものがあった。
指は届かない。だが、三毛の前足なら届く。
――取ってくれるか。
――いいけど。お前、変な人間だな。
三毛は隙間に前足を突っ込んで、二度、三度、掻いた。
かちん、と小さな音がして、金の指輪が路地の石畳に転がり出た。
リオはそれを拾い上げて、ポケットから干し魚を一切れ出して三毛の前に置いた。
――借りは、その場で返す主義なんだ。
――……ありがとよ。
三毛は干し魚をくわえて樽の陰に消えた。
路地の入口で、老婆が指輪を受け取って声もなく泣いた。
リオは何も言わなかった。言うことはなかった。
一件目。契約は結んでいない。頼んだだけだ。
頼むだけで済む仕事なら、契約は要らない。結んで解けばいいだけの話ではあるが、結ぶ手間は軽くないし、獣の側にも負担がある。頼めるものは頼む。それがリオのやり方だった。
◇
北の橋は、遠くからでも様子がおかしいのが分かった。
橋の真ん中に、荷馬車が一台斜めに止まっている。その前で、大きな影が前脚で石畳を掻いていた。
ウォーホース。
魔物馬である。普通の馬より一回り大きく、蹄は鉄より硬い。荷を引かせれば普通の馬の三倍働くが、気性が荒く、手綱を握るのは熟練の御者に限る。その御者が、橋の欄干にしがみついて震えていた。
「……もう、駄目だ。二刻も、こうだ。手綱を引けば暴れる。放せば橋の真ん中で動かん。憲兵は槍を持ち出すって言い出すし……」
「槍は、やめてください」
リオは覆面越しに言った。
「馬が暴れてる理由を、まだ誰も聞いてないでしょう」
「聞くって……馬に?」
「はい」
御者は、覆面の少年を正気を疑う目で見た。
リオは橋の真ん中へ歩いた。
ウォーホースが、こちらを向いた。鼻から、白い息を吹く。前脚が石畳を掻く。目が血走っている。
一件目の猫とは、違う。頼むだけでは、この馬は聞かない。怯えて、荒れて話が届く状態ではない。
だから、結ぶ。
リオは足を止めた。
糸を太く撚った。一本の、太い線。契約の線である。
その端を馬の心の前にそっと置いた。
結ばない。受けるかどうかは、そちらが決める。
ウォーホースは、線を見た。見て、鼻を鳴らして咥えた。
どん、と胸に重さが来た。
契約が結ばれた。
同時に流れ込んでくる。この馬の、二刻ぶんの恐怖が。
――火。
橋の向こうの街灯。日暮れに点いた、油の火。その油の匂い。
この馬は、昔、厩の火事で仲間を失っている。油の匂いと揺れる火。それが橋の向こうに並んでいる。だから、渡れない。渡れないのに、後ろには荷車。動けない。動けないから、暴れる。
御者が知らない理由が、糸の向こうに全部あった。
――分かった。
リオは糸の向こうへ言った。
――火は、渡らない。橋を、戻る。それでいい。
馬の前脚が止まった。
リオは御者を振り返った。
「橋の向こうの街灯を、五つ、消してもらえますか。それから、荷車を後ろへ。……この馬は、火が怖いんです。油の火が」
「火……」
「昔、厩で火事に遭ってます。誰も、聞かなかっただけで」
御者は口を開けたまま、しばらく動かなかった。
動かなかった後で、走った。橋の向こうへ街灯を消しに。
五つの火が消えると、ウォーホースはゆっくりと前脚を下ろした。
リオは馬の首筋に掌を置いた。
――もう、いい。
そして、糸をほどいた。
契約を、解いた。
ウォーホースが、不思議そうにこちらを見た。結んだと思ったら、もう解かれた。そういう顔をしている。
――次があるんだ。……ありがとう。
契約は、一度に一体。
この馬と結んだままでは、三件目に行けない。だから、解く。結んで、聞いて片付けて返す。
その繰り返しが、リオの夜の仕事になる。
橋の欄干で、御者が呆然と呟いた。
「……あんた、今、馬と……」
「聞きましたよ。……テイマーですから」
当然のことを言った顔で、リオは橋を後にした。御者にとっては、当然ではなかったらしい。
◇
西門に着いた時には、月が高かった。
門の外の畑に、衛兵の松明が十ばかり並んでいる。その真ん中で隊長らしい男が、怒鳴っていた。
「――囲め! 畑から出すな! 槍を、構えろ!」
松明の輪の中にいた。
大猪である。
肩の高さが人の胸ほど。牙は腕ほど。灰色の毛を逆立てて、畑の畝を踏み荒らしながら松明の輪を睨んでいる。
グレートボア。山の魔物で、本来なら王都の壁の外に出てくることのない大型が、なぜか畑に迷い込み、衛兵に囲まれて退路を失っていた。
「……窓口の者です」
リオが声を掛けると、隊長が振り向いた。覆面の少年を見て眉をひそめる。
「窓口? ああ、あの裏路地の。……今は無理だ。見ての通り、討伐の最中だ」
「討伐じゃなくて、帰せます」
「帰す? 大猪をか?」
「はい。山へ」
隊長は笑わなかった。笑う余裕が、なかったらしい。
「馬鹿を言え。大型の魔物と契約するには、テイマーでも年単位で通い詰めるんだ。今ここで、どうこうできるものじゃ――」
リオは聞いていなかった。
松明の輪の中へ、歩き出していた。
「――おい!」
衛兵の誰かが叫んだ。リオは止まらなかった。
大猪がこちらを向いた。
鼻を鳴らす。前脚が畝を掻く。あと三歩で突進の間合いに入る。
リオはその三歩手前で、止まった。
そして、糸を撚った。
太い、一本の線。今夜二度目の、契約の線である。
その端を大猪の心の前に置いた。
結ばない。受けるかどうかは、そちらが決める。
一呼吸。
二呼吸。
大猪は線を見た。松明の輪を見て、槍を見て、それから目の前の覆面の小さな人間を見た。
三呼吸目に咥えた。
どん、と胸に来た。
大型の重さである。ウォーホースの比ではない。山の斜面を丸ごと背負ったような、重く荒い獣の意識。
その奥に理由があった。
――子供。
この大猪は雌だった。山で、子供とはぐれた。子供の匂いを追って、山を下り畑まで来た。畑には子供の匂いはなかった。あるのは、松明と、槍と、囲む人間だけ。
帰りたいのに、退路がない。
――分かった。
リオは糸の向こうへ言った。
――道を、開ける。山へ帰れ。子供は、山にいる。
そして隊長を振り返った。
「西側の松明を、三つ、下げてください。槍も。……道を開ければ、自分で帰ります」
「開ける? 突進されたら――」
「されません。この猪は、子供を探しに来ただけです。人を襲う気は、最初からない」
隊長はリオの顔を見た。覆面で、顔は見えない。だが、声は落ち着いていた。年単位で通い詰めるはずの大型の前で、三呼吸で契約を結んだ人間の、落ち着いた声だった。
「……西側、下げろ」
隊長が低く言った。
松明が三つ、下がった。槍が下がった。
大猪はしばらくその隙間を見ていた。
それから、ゆっくりと歩き出した。畑を踏まないように、畝の間を選んで。松明の隙間を抜けて壁の外の闇へ。
闇に消える寸前、大猪は一度だけ振り返った。
リオは糸をほどいた。
――子供に、会えるといい。
返事はなかった。ただ、闇の向こうで鼻を鳴らす音が一つ聞こえた。
畑が静かになった。
衛兵たちが松明を持ったまま、誰も動かなかった。
隊長がようやく口を開いた。
「……お前、名前は」
「窓口の者です」
「名前を聞いてる」
「窓口の、覆面の者。……それで、通ります」
リオは頭を下げて畑を後にした。
背中で、衛兵たちがまだ何か言っているのが聞こえた。大型の魔物と三呼吸で。あの覆面は何者だ。窓口とは何だ。
噂はこういう夜から始まる。
◇
帳場に戻ると、グラントはまだ帳面を開いていた。
「三件」
「三件、済みました」
リオは、覆面を外していつもの席に座った。
座った途端、眠くなった。
三件で、契約が二回。結んで、解いて、また結んで、解いた。リオの夜は、そういう夜になる。枠が一つしかないから、一つを何度も使う。
グラントは帳面に、几帳面な字で三行書き付けた。
『指輪の捜索 一件』
『魔物馬の鎮静 一件』
『大猪の送還 一件』
品目と、勘定と日付。それで、仕事は終わる。
「……大猪とは、どのくらいで結んだ」
「三呼吸、くらいで」
「三呼吸」
グラントは筆を止めてリオの顔を見た。
見て、何も言わずにまた筆を動かした。
言わないのが、この人の流儀である。だがリオは、この人が大型と三呼吸で結ぶことの意味を、この街の誰よりも分かっていることを知っていた。
「……グラントさん」
「なんだ」
「俺、なんで一体しか結べないんでしょうか。……普通のテイマーは、何体でも結べるのに」
グラントの筆が、また止まった。
止まって、しばらく燭台の灯りを見ていた。
「……その話はな」
湯呑みを取る。
「長くなる。お前が今日、眠くなさそうな顔をしてる日に、してやる」
「今日は」
「今日は、駄目だ。もう半分、寝てる」
図星だったので、リオは黙った。
厨房から、料理人が握り飯を二つ持ってきて机に置いた。何も言わずに厨房へ戻った。薬草の棚の方から、鼻歌が聞こえた。
この帳場には、番号を持った人たちがいる。
リオはまだ持っていない。
持っていない下働きの夜は、今夜も握り飯二つで終わる。
◇
翌日の教室で、リオは四度目の居眠りを注意された。
「アルクス。……昨日の夜、何をしていた」
「……バイトです」
「どんなバイトだ」
「配達とか、雑用とか」
嘘ではない。指輪を届け、馬を鎮め猪を返した。配達と、雑用である。
隣でカイルが、また笑いを噛み殺している。前の席のセナが振り向いて、リオの顔をじっと見た。
「あなた、今日も手ぶらね」
「……ああ」
「本当に、一体も、いないの」
リオは少し考えた。
昨夜、二体と結んで、二体を返した。今、手元には一体もいない。
「いない。……今は」
セナはそれ以上聞かなかった。聞かない代わりに、少しだけ首を傾げて前を向いた。
窓の外では王都の昼がぬるく続いている。
その裏側で、今夜も鳩が飛ぶ。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
この番外編は、連載中の本編「一体契約のテイマーと十三番窓口」の、序盤の一夜を切り取ったものです。
リオがなぜ一体しか契約できないのか。十三番窓口とは何なのか。番号を持った人たちとは誰なのか。手ぶらの推薦生の噂は、学園でどう転がっていくのか。――そのあたりは、本編でゆっくり書いています。
面白いと思っていただけましたら、本編の方も覗いてみてください。




