W1-6 "簒奪者"の宴
また別の国の首都にて。
この異世界の例に漏れず、極端に高層建造物が密集して建ち並んでいる。
ただしそれは文字通り地上に限る。
この国は過剰な人口増加に対処すべく、地下に巨大な空間を掘り、新たな居住区を強引に開拓している。
地上の高層ビルの密集地帯に住むのは、もちろん国の各界の要人。強引な開拓を手動したのは無論彼らだ。
地下の猥雑で粗末な建築物が詰め込まれた地下には、この空間を造らされた貧民たちとその子孫。
その子孫たちは、地上から派遣された監督たちによって、時間という概念をほとんど教えられないまま労働に従事している。
地下と地上をつなぐ巨大エレベーターの付近には、一際大きく、ネオンで妖しげに飾られている館があった。
これは地上の権力闘争で不調が続いている上流社会の端くれと、上に上がれば簡単に風で吹き飛んでしまいそうなくらいのあぶく銭だけはある下層民の癒やしの場――いわゆる娼館だ。
入口には、黒紙に金色マーカーの文字で、『本日、貸切のため休業』と断り書きが貼ってあった。
この館の最も広々として、最も精巧に作られたインテリアが集まり、最も香水の匂いが鼻を狂わせるくらい漂うVIPルーム。
そこで五十人ほどの男女が一糸まとわぬ姿で、ぐったりとして倒れていた。
そして部屋の最も奥に位置する、王が使うような天蓋つきのベッドには、この中にいる人と比較すると目立った魅力のない男が、大の字になって横たわっていた。
男はしばらく夢心地を噛み締めた後、本来の仕事を思い出す。
ベッドの隅に追いやられていた衣服類を掴み、Yシャツを着ながら、シャワーの流れる音がする方へ走る。
途中途中、この館の娼婦や男娼を踏んでいるが、それは特に気にしなかった。
すると、部屋に備え付けられた入浴室の出入口から、女性が出てきた。
冬の澄み切った夜空のように青く美しい髪、眉目秀麗、それでいて長身でスタイルの良い、まさしく麗人としか例えようのない女性だ。
彼女は男性がそばに寄ってきているのも気にもとめず、シャワーを浴びたばかりの艶やかな裸体を露わにしながら部屋を歩き、衣服を掛けていたラックの元へ寄る。
男は慌ててパンツを上げて、従業員としての意識に切り替えて、
「もうおかえりでしょうか、お客様」
女性は複雑な作りの衣服を器用に身に着けていきながら、
「ああ、もう全員楽しませてもらったからね。系列店とやらも含めて」
「ありがとうございます、お客様。まさか両店舗のキャストを全員ご指名なさるなんて、夢にも思いませんでしたよ。きっと私たちのオーナーも喜んでおります」
「そうかい。それを言われて僕も光栄だ」
「ところで、お客様、これはご来店いただいた方全員にお聞きしていることですが、どのキャストが一番お気に召したでしょうか?」
「うーん、そうだねぇ……」
女性はほぼ全ての衣服を着終えた状態で、目の前の男性を指さした。
「ええっ! 俺……あいや、私ですか!?」
実のところ、この男は娼館の従業員であるが、メインサービスを直接提供する役目はない。
途中、ルームサービスを持ってきた際に、この太客の女性により部屋へ引きずり込まれ、もろともとなったのである。
だからこうして男は、自分の立場を一瞬忘れるくらい、驚いたのである。
男は驚きのピークを過ぎた後、この部屋の間接照明と同じくらい顔を赤らめた後、
「ち、ちなみにですが、ど、どうして、俺、私が一番だったのですか? おたしはお客様にされるがままでろくにテクも使っていなかったですのに……」
「ああ、それはね。君は他の連中と違って、下地にある貧困さを過剰な化粧や香水やらで誤魔化していなくて、激しい行為を致していいか躊躇するほど痩せていなくて、一挙手一投足に反応して出る声がガサついていなくて、恐らくこの世界でも忌避すべきであろうクスリの気配がしなかったからさ」
と、女性は一息で感想を言い終えた後、最後の羽織を着て、男に背を向けた。
そして出入口のドアノブに手を掛けた瞬間、男へ振り返って言う。
「そうそう、今から一秒でも春を謳歌したければ、なるべく温かい場所と服装でいておくれよ」
太客の女性が去った後、男は十秒ほど首を傾げ、Yシャツにパンツと未完全な格好で棒立ちした。
(とりあえず、事務室に戻ろう……)
男は足元に散らかっていたズボンやベストを着直して、廊下へ出る。
しかしそこで三歩ほど踏み出したとき、男は足をすべらせて背中から転んだ。
上半身の大部分が、部屋の内側に敷かれていた毛質の良い絨毯に落ちてくれたのが不幸中の幸いだった。
男はしかめた顔を持ち上げ、自分が滑った理由を探ろうとする。そしてすぐ見つかった。
廊下のビニール張りの床が、冬の湖のように、一切の歪みなく凍りついていたのだ。
*
某国。地上にあるエレベーター乗降口にて。
「だ、誰だ貴さ……」
「乗降許可証を見……」
「乗降許可証? そんなもの持っているわけないじゃないか。行きは下水道からなのだから……ああ、もう話しても無駄か」
古代中国の皇帝のような衣服に身を包んだ女性は、氷像と化したエレベーターの見張りの頭をコツンとつつき、全身を木っ端微塵に砕いた後、乗降口から出る。
一切の淀みのない空気を吸いつつ、持ち主の強欲さの尺度のように巨大なビルを見上げる。
「大きければいい。光り輝けばいい。いつの時代でも、どの世界でも、半端な権力者の考えることは一緒か。」
ピーポーピーポー。と、まるで原理の想像がつかない、高い音が徐々に近づいてくる。
その音の奏者である、白と青に彩られた鋼鉄製の車が数台、こちらへ迫っていた。
『目標を確認しました! 応答願います!』
『身長は170cm弱、髪は青色、古めかしい衣装を着ています! 武装は現在確認できません!』
『ただちに包囲いたします! 支給応援を願います!』
その車たちは女性に近づくにつれ、散開し始め、彼女を鶴翼の陣の如く包囲するように動き出す。
「人や馬はおろか、驢馬すらも見当たらない。先ほど僕を持ち上げた籠といい、異世界というのは不可解な技術が多いものだな。
まぁ、僕の神業には敵わないだろうが」
女性は右足を弧を描くように地面に擦り付ける。その瞬間、女性の前方の地面が扇状に凍りつく。
この凍結地帯に入ったパトカーたちは例外なくスリップし、制御不能の横回転を起こしながら付近のビルに激突し、炎上していく。
だがその内の一台は、女性めがけてスリップしていく。
「これは僥倖か災難か、果たしてどちらかな? いや、どちらでもよいか」
女性は後方に両拳を縦に重ねた状態で向け、力を込める。
するとその手から白いモヤが漂い、続いて青い輝きが放たれる。
やがて青の輝きは、はっきりと実体を持った大剣に変わり、白いモヤはそれを媒体として漂い続ける。
そして女性は自分と十メートルまで距離を詰めてきたパトカーを見据え、
「そうだそうだ。お忙しいところ申し訳ないが、最期に一つ、僕の名を覚えておいてほしい……”簒奪者”だ」
大剣を振り上げ、パトカーを真っ二つに割った。
前後で分離したパトカーはしばらく宙を舞いながら、全体を青白い光で覆った後、簒奪者と名乗った女性の両脇に落ち、氷の破片となって消えた。
一仕事舞い終えたのもつかの間、次なるパトカーが十数台で束になって接近してくる。
しかし簒奪者はそれを気に留めず、凍りついた地面をつま先で三回つつき、耳を澄ましてその音色を聞く。
「そろそろ頃合いのようだ。ではさらばだ、この堕落という言葉を当てはめることさえはばかるほどの腐敗した都よ」
と、簒奪者が言い放った直後、この都市全土が揺れ動き、いたるところから緑や茶色に濁った氷のトゲが突き出る。
ここで一つ解説を入れるとしよう。
簒奪者が持つ特殊な能力は『氷と、それを生成する冷気を操る』ことのみ。
地面や人を凍らせたことと、無から大剣を作ったのはそれによるものだ。
今、都市に突如として乱立する氷のトゲは、地上の都市の地下――言い方を変えると、地下の空に張り巡らせた下水道を利用して炸裂させたもの。
簒奪者はこの国に来てすぐ、下水道に冷気を注いだ。
それが全体にじっくりといきわたるまでの間、地下で美男美女を愉しみ尽くして待ち、この時、策を発動したのである。
ちなみにあの娼館とその系列店を豪快に利用できたのは、コバヤシから出発時に支給された軍資金によるもの。
手渡された際にコバヤシは『有意義に使え』と言っていたので、簒奪者自身としてはその通りにしたまでである。
氷のトゲは誰にも止められることなく、都市の面積を半分ほど埋め尽した。
アスファルトやレンガで覆われた地面にいともたやすくヒビが広がる。
残り半分の面積にヒビが張り巡らされたその時、地面が崩れ、摩天楼が次々と地下へと沈んでいく。
まずは轟音と砂煙と少々の悲鳴、そして最期にこの国に残ったのは、
「地下空洞に埋められたかつての権威の象徴の残骸。皮肉なものだ、彼らは自分の墓を掘るつもりはまだなかったのだろうに。と、言い残してこの話は終わりとしよう」
簒奪者は、一本の氷の柱で支え、唯一崩れ落ちないようにした地面から、足元の壮絶な光景を眺めて、そう詩的に告げた。
直後、彼女は背中から龍の羽を模した氷塊を生やし、次の国へと渡っていく。
【完】