2・2 不審なエメリヒ
エメリヒが書物に目を向ける。
「お前、例の件を自分で調べているのか?」
「当たり前でしょ。自分のことだもの」
「だから王宮に行っていないのか」
得心したようにうなずくエメリヒ。
以前私は、学校が終わったあとは毎日王宮に行っていた。王太子妃としての教育を受けたり、コンラッドが放棄している王太子の仕事を肩代わりしたりするために。
ときどき国王夫妻に呼ばれて、コンラッドの学園での素行の悪さを叱られる。婚約者としてもっと正せ、と。
だけど赤い糸が彼に繋がっていないとわかった日から、行っていない。代わりに一度だけ手紙を送った。
内容は『王太子にはもうお手上げ!』というもの。もちろん、オブラートに何重にもくるんである。
「違うわ。それとこれは別よ。婚約は解消する。調べ物をする」
エメリヒが息をのんで目をみはる。きっと婚約解消という言葉に驚いたのだわ。
「父に頼んだの。コンラッド殿下の態度にはもう限界だから、婚約を解消してほしいって」
王太子が私を軽んじるということは、つまりロンベル公爵家を軽んじているということだ。
だから父はずっと腹を立てていた。でも私がそれをなだめていたのよね。
「父と国王夫妻で話し合っているはずなのに、コンラッドは知らないのね。私はもう王宮に行かないわ。あなたは――」エメリヒの険しい目を見返す。「その調子だと、人任せにしているのね」
「仕方ないだろ。俺は騎士見習いとしての鍛錬がある」
そうだった。今の今まで忘れていたけど、知ってはいるわ。
エメリヒのギュンター公爵家は、武芸に秀でた者が多い。嫡男以外の男性の多くが騎士になっている。次男のエメリヒも例にもれず、学生と騎士見習いの二足のわらじでがんばっているのよね。
彼のことは嫌いだけど、この努力だけは称賛に値すると思っている。
「今日は鍛錬が休みだから、自分でも調べようと思って来たんだ」
「そう。がんばって」
休みの日は心身の休息に当てたほうがいいのではないかしら。けれど、私には関係のないこと。口出しをする必要はないわ。
目を書物に戻す。時間は有効に使わないとね。
「目を通したものを教えてくれ」
掛けられた言葉を脳内で繰り返し、それから再び彼を見上げた。
「どうして?」
「俺はそれ以外に目を通す。効率がいいだろ」
「そうだけど。あなたと関わりたくないわ。あなただって、同じでしょ?」
「だとしても、だ。一刻も早く糸を切りたい」
「……それは賛成ね」
広げた本の下から、チェック済み書物のタイトルを書いたものを引き出した。
「これよ」と渡すと、エメリヒが目を見張る。
「もうこんなに!?」
「速読は得意なの。王妃教育の合間にコンラッドに押し付けられた、膨大な書類に目を通しているから」
エメリヒが私をにらむ。
「アイツはお前が勝手に自分の仕事を取ると怒っている」
「知っているわ。周囲にはそう説明しているのよね。自分が怠惰だと知られると困るからよ」
コンラッドは王太子としての能力は十分にある。だけど怠け者だし、あいた時間をアドリアーナのために使っている。
私は彼の役に立てばいつかは私を大事にしてくれると思って、彼の嘘を否定せず、要求に黙って従ってきた。でもそれももう、終わり。
「あなたが信じても信じなくても、どちらでも構わないわ」一覧に手をかける。「必要でないのなら、返して」
「いや。少し借りる。これら以外の本を選んだら返す」
そう告げたエメリヒの視線が不自然に動く。赤い糸をたどったのだ。
「これ」とエメリヒが左手を動かすと、赤い糸が揺れた。「通説と違う意味の見当はついたか?」
「いいえ」
「俺もだ」
エメリヒは小さくため息を吐くと、一覧を持って書架の間に消えていった。
なんだかおかしな気分だわ。彼と普通の会話をしている。
エメリヒはきっと一刻も早く、赤い糸を始末したいのね。
そのためには手段選ばず、私のことも一時許容する――というところかしら。
この糸は、殺す者と殺される者を繋いでいるのだと教えたら、彼はどう反応するだろう。
驚くのか、納得するのか。
――納得する気がするわね。
彼が私に向ける目は、いつだって殺意を帯びているもの。
今日は少しだけ、眼光が和らいでいるような気はするけれど。
◇◇
閉館時間となり、何冊かの書物を借りて図書館を出る。
偶然タイミングが一緒になってしまったエメリヒも、一冊持っている。
目が合ったけれど、お互いになにも言わなかった。それにより、どちらも成果がなかったとわかる。
なかなかうまくいかないものだわ。
エメリヒと一緒に歩きたくないので、歩調を早めて先に行く。
図書館のエントランス前の大階段は、かなり長い。記憶を取り戻した今は、わかる。この建物はスミソニアン博物館を模している。
きっと『姫なな』の作者が好きだったのだろうけど、この階段は大迷惑なのよね。足をすべらせたら、絶対にケガをするもの。
「なんだ、まだいたのか」
背後から、コンラッドの不機嫌な声がした。
そっくりそのまま言い返したい。けれど、無視するのが一番。
「婚約者を無視するのか!」
ええ、そうよ。
「きゃっ!」
と、アドリアーナの可愛い叫び声がした。と思ったら、背中に重い何かが激突した。
体のバランスが崩れる。
――落ちる!
前に傾く体。足が浮く。
思わず目をつむった。
次の瞬間、軽い衝撃を感じた。だけど、痛くない。
誰かに抱きとめられているみたい。シトラスの爽やかな香りがする。
おそるおそる目を開けると、焦った表情のエメリヒと目があった。彼ががっしりと私を抱えている。
「エメリヒありがとう!」と叫ぶアドリアーナの声がした。「よかったあ!」
タタタッと階段を駆けおりてくる音がして、彼女が私の前に現れる。手に本を抱えている。
「ラウラ様、ごめんなさいっ! つまずいた拍子に一冊すっぽ抜けてしまって!」
振り返ると、確かに大型書物が一冊、階段に落ちていた。
「ケガは?」とエメリヒが訊く。「足をひねっていないか? 立てるか?」
「……大丈夫だと思う」
そう答えると彼は私から離れた。
彼が助けてくれたのだ、とようやく実感する。
顔から落ちていたら、酷い怪我を負ったのは間違いない。
心臓が破裂しそうなくらいにバクバクとしている。
でも嘘でしょ?
私を殺す予定の人が、私を助ける?
ものすごく私を嫌っているのに?
「ラウラ様、あの? 平気ですか?」
アドリアーナが心配そうに私の顔をのぞきこむ。
「……ええ」
「本当にごめんなさい!」
「アドリアーナ、気をつけろ」とエメリヒ。
「彼女は悪くない! つまづいただけだ!」とコンラッドが怒る。
アドリアーナ、コンラッドと視線をめぐらし、最後にエメリヒを見た。視線がかち合う。
「……ありがとう」
無言でうなずくエメリヒ。
でも、おかしいわよね。
本当にどうして私を助けたのかしら。
彼なら私が転落して動けないでいるのを、氷のような眼差しで横目で見ながら通り過ぎるのが通常の行動のはず。
だというのに、わざわざ助けた。
落下する前の距離的に、相当急がないと間に合わなかったと思う。
絶対におかしい。
赤い糸と関係があるのかしら?