9・3 恋はしたくない
就寝前の身支度の時間。
メイドのリタが鏡台前に座った私の髪を、ゆっくり丁寧にくしけずってくれている。彼女の手つきは優しくて、とても心地いい。幼いころから大好きなひとときなのよね。
「今日はようございましたね」と鏡の中のリタが微笑んでいる。「サプライズお誕生会は大成功でしたもの」
「そうね」
エメリヒは終始、喜んでいた。プレゼントを気に入ってくれただけじゃない。私が作ったケーキを『美味しい』と蕩けるような笑みで褒めたたえ、一口ごとに幸せそうな表情をしてくれた。
思い出すと、胸が高鳴ってしまう。
あれね、ギャップ萌えというやつ。
いつも険しい表情ばかりのエメリヒが、あんな顔をするから私の心臓が落ち着かなくなってしまったのよ。
「お顔が真っ赤ですねえ」
リタの言葉に、鏡の中の私を見る。確かに耳まで真っ赤だった。
「リタも遠目に拝見しましたけど、ギュンター公爵令息様は、とても素敵な方のようですね。礼儀正しいし、お嬢様にも紳士的で」
「そ、そんなことはないわ。ふたりきりのときは、結構ズケズケとものを言うのよ。――私もだけど」
ふふっとリタが笑った。
「つまり仲良しさんなのですね」
「それは、そうね。お友達だもの」
鏡の中の私の顔が、ますます赤い。見ていられなくなり視線を落とすと、今度は左手の小指に結ばれた赤い糸が目に入った。今もこれはエメリヒに繋がっているはず。
そう思うだけで、鼓動がさらにうるさくなる。
「『お友達』ですか」とリタ。
「そうよ」
リタが無言で櫛を優しく動かす。多くの人に奇異の目を向けられる黒髪の、もつれを解いて美しさを保つために。
私はエメリヒに喜んでもらいたくて、ケーキを作った。満足がいく出来になるまで、何度も何度も。今日だって早起きをして登校前に作ったのよ。ケーキに合わせる茶葉だって、何日もかけて真剣に選び抜いた。
エメリヒが微笑むと胸が高鳴るし、とても嬉しい。心が浮き立って落ち着かなくなってしまう。
顔に熱が集まり、自分がきちんとした令嬢らしく振る舞えているのか、心配になる。
そんなことをすべて、リタはわかっているのよね。
「お友達なのよ」
赤い糸を視界のすみに捉えながら、リタに伝える。
「だってそれが一番いいでしょう? 好きになったら、また辛い思いをすることになるかもしれないもの」
もしも。
考えたくないけれど、もしもエメリヒがコンラッドのように態度を変えたら。お前みたいな黒髪金瞳の女なんて気持ち悪いと言い出したら。
私はきっと耐えられない。
そんな苦しい思いはもうしたくない。
その上――
「彼がほかの令嬢とお付き合いを始めたら、私はまた嫉妬で意地の悪いことをしてしまうかもしれない」
それでますます彼に嫌われたら?
「だから私はエメリヒを好きにならないの。お友達がいいの」
先日の下校時のことを思い返す。彼は私の手を握りしめて、
「騎士になる者としての誇りにかけて、俺はラウラを守る」
と言ってくれた。
真摯な菫色の瞳、大きく力強い手をいまでもはっきり覚えている。
初めて『ラウラ』と名前を呼んでもくれた。
エメリヒとはずっと良い関係を保ちたい。
「お嬢様」
いたわるような声音に、鏡の中のリタを見る。
「お嬢様はもう、恋敵に意地悪はなさいません。それがよくないことだとご自分で気づいて、止めることができたのですからね」
「でも――」
「お嬢様に十三年仕えたこのリタが保障しますよ」
それは私の力ではないわ。前世を思い出したからだもの。
「それと、リタは思うんです。しないで後悔するより、して後悔するほうがいいって」
「どういうこと?」
「辛い思いをしたくないからと好きな気持ちを諦めるのは、気持ちを認めて辛い思いをするよりずっと苦しいですよ」
鏡の中のリタが微笑む。
「年の功です。お嬢様より十年も長く生きておりますからね。恋のひとつやふたつ、したことがありますし、それが成就していないのはご覧のとおりでございますよ」
振り返り、直接彼女を見る。
「辛いことはなかったの?」
「もちろん沢山ありましたよ」
「知らなかったわ」
「仕事に支障をきたすわけにはまいりませんからね」
リタはふたたびにっこりと笑うと、「さあ、続きをさせてくださいな」と櫛を掲げた。
座りなおして、鏡の中の彼女を見る。
「もちろん、無理をすることはありませんよ。お嬢様は何年も苦しまれたのですもの。でもだからこそ、幸せになっていただきたいとリタは思うのです」
「私も幸せ――というか穏やかに生きたいわ」
だからこそエメリヒとは友達でいたいと思うのよ。
両手をひざの上で重ねる。そしてそっと、赤い糸に触れた。




