8・1 友達へのランクアップ
学校図書館の定位置で魔法書を読んでいたら、左手小指の赤い糸が揺れた。
待つことなく、魔法書を抱えたエメリヒが姿を現す。
「ん」と彼が片手を上げる。
「お休みはね、休息にあてるものだと思うのよ」
私はそう言いながらも閲覧机の上に視線を走らせ、彼のスペースに私のものがはみ出していないかを確認した。
最初から置かないようにしてはいたけど、念のためね。
「家にいても居心地が悪い」と言いながら、彼はとなりにすわった。
数日前の園遊会での出来事を思い出す。ギュンター公爵とお兄様は、ありえないほどイヤな人物だった。お腹の底がぐつぐつと煮えたぎる。
「母上とお祖母様、使用人たちはいいんだけどな」
「そうね。公爵夫人は優しそうだったわ」
儚げで気弱そうではあったけど、エメリヒの味方なのは確かだったもの。
「で? 進展は?」
「特にないわ」
「俺もだ」
そう言うと、彼は椅子にもたれた。机の上には開いた書物。読む準備は整っている。でもまだ、取り掛からないらしい。
「アルバンは?」とエメリヒが尋ねた。「毎日だいぶ積極的みたいだが」
「そうなのよ。困ってしまうわ」
彼は日に何度も私の前に現れて、口説いてくる。あまりに熱心だから最近は、なにかに取り憑かれているとか、呪われてそのような行動を取ってしまうのではないかと、疑っているのよね。
「あちらの国に亡命か移住かと考えていたのよ」
そうすればきっと、殺される未来から逃れられるだろうから。
「でも、やめようかしら。なんだか裏がありそうで、怖いもの」
「そんな必要がないようにするって。俺もアドリアーナも」
「そうね……」
赤い糸を見る。今ではマンガと同じ状況にはならないと信じている。私はアドリアーナを殺そうとしないし、エメリヒはきっと問題無用で私を殺さないはず。
だけど世界の強制力があるかもしれないし、安心することはできないのよね。
この赤い糸の意味するところがわかれば、あるいは……。
「まだ、俺を嫌いか」
かけられた言葉にハッとしてエメリヒを見ると、久しぶりに最上級の殺意を宿した目で私を睨んでいた。
「無論、一方的にお前を悪女だと決めつけていた、俺が悪いのだが」
「私にも悪いところはあったもの」
鼓動が早い。そのせいなのか、うまく声が出せずに小声になってしまった。
「あなたを嫌いと言ったこと、謝るわ。私もあなたがイヤな人間だと決めつけていたの」
「もう嫌いじゃないか」
すみれ色の瞳にまっすぐに見つめられて、ますます鼓動が早まり、胸が苦しくなる。
がんばって、なんとか
「ええ」とだけ答えた。
エメリヒは、
「そうか」
と言って、表情を緩め、柔らかく微笑む。
やめて、どうしてそんな顔をするの?
もともとはイケメンなのだから、笑顔の破壊力は凄まじいのよ。自覚してよ。
そう言いたいのに、心臓がうるさ過ぎて声に出せない。
鼓動が限界を超えそうな早さだわ。
やっぱりエメリヒは私を殺しにかかっているのかしら。
「それなら、改めて」と彼が右手を出した。
その手を握りしめて、最近忘れがちの令嬢の矜持を振り絞り、
「今後はお友達としてよろしくね」と完璧に見える笑みを浮かべた。
なのに彼の顔は強張り、返事もない。
どうして?
「お友達にはなりたくないの?」
じわりと目に涙がにじむ。良い関係になれたと思ったのは、もしかして私だけだったの?
「改めての敵対宣言だった?」
「んな訳あるか!」
エメリヒが血相を変えて私を睨む。
「でも、男の人って簡単に気持ちが変わるもの」
「そんなのはコンラッドだけだ。一緒にするな」
つないだ手に、キュッと力をこめられた。
「……なんて言葉を返すか、迷っただけだ。――俺は次男だし」
「そんなことは関係ないでしょ」
「そうでもない。だが今はいい。改めて、よろしくな」
またも微笑むエメリヒ。
見慣れなくてドキドキしてしまうから、やめてほしい。
「よろしくね」と答えて手を離す。
大きくてゴツゴツとした手だった。きっと騎士になるため、私には想像もできないほどの努力をしてきたのだろう。
そういえばここのエントランスで助けてもらったとき、エメリヒはがっしりとした体躯だった。とても頼りになりそうな――。
「で、どうする?」
「なっ、なにが?」
思い返していたせいで、声が裏返ってしまった。顔が熱い。
「これだよ」そう言ってエメリヒが赤い糸をつまんだ。「切らなくてもいいと俺は思うんだ」
赤い糸をみつめる。俗説では運命の伴侶を繋ぐものとされている。私は最初は、殺す者と殺される者を繋いでいると考えた。
これの本当の意味はなんなのかしら。
「切りたいか?」とエメリヒが尋ねる。
「わからないわ」と正直に答えた。「良い意味のものならいいの。でも悪い意味があるのではないかと心配で」
「思い当たるものがなにかあるのか? それとも相手が俺だからか?」
その両方だけど、説明は難しい。前世で――なんて話を信じてもらえるとは思えないもの。
「赤い糸が見えるようになった前日にね、私は倒れてひどい状態だったの」
思い出すだけで、脂汗が浮かんでしまう。
「そのせいで悪夢を見たのよ。とても、怖い夢」
「それに俺も関わっているのか」
エメリヒの表情が、また険しいものに戻っている。その顔をみつめながら、うなずいた。
「目が覚めたら、赤い糸が見えたの。あなたはなにか、きっかけとか予兆とかはあった?」
「いや。俺はいつもどおりに朝目覚めたら、見つけた。夢も見ていない」
となると、私とは状況が違うのね。
「切る切らないはいったん置いておくにしても、意味は知りたいわ」
「そうだな。夢はどんな内容だったんだ」
なぜだか、知られなくない気がする。
「……言いたくないの」
エメリヒの眼光がますます鋭くなる。
「『信用しろ』と言えるような振る舞いじゃなかったしな」
「今のあなたのことは信用しているわよ」
「そうか。――じゃあ、調べ物は続行ということで」
エメリヒは少しだけ微笑んで、書物に向かった。
ほっと胸をなでおろす。
だけどその安堵がどこからくるのか、自分でもわからなかった。
彼が夢の内容を追及しなかったから?
慣れない笑顔をそらしてくれたから?
それとも、これからも一緒に図書館で調べ物ができるから?




