5・2 嫌いへのランクアップ
胸がドキドキとうるさい。
どうして?
エメリヒが私に初めて微笑んだから?
まさか。
貴重な表情だとは思うけど、鼓動が早まる理由にはならなくない?
「そういえば。お前はどうしてコンラッドを好きだったんだ?」と、もう険しい表情に戻ってしまったエメリヒが尋ねた。
「あなたに、彼を好きとは教えていないわ」
「『教えて』ね」
強調された言葉にハッとして、手で口を押さえる。また失言してしまった。『好きではない』と言わなければならなかったのに。
ちょっとばかり心臓がうるさかったせいで、調子が乱れたのだわ。
「なんで隠していたんだ。はっきり伝えたほうがよかったんじゃないか?」
エメリヒは真剣な表情をしている。からかっている訳ではないとわかる。
急に、もうどうでもいい、という気持ちになった。
だって繕う必要も、プライドを守る必要も、なくなったんだもの。
手をおろして、息を吐く。
「最初はコンラッドに『好き』と言うなと怒られていたの。『淑女が軽々しく口にする言葉ではないっ』って」
今にして思えば、そう告げられたのは、彼が私から離れ始めたころのこと。きっと、コンラッドは嫌だっただけなのね。
「入学前に彼が私を嫌っていると知ったの。そのあと彼はアドリアーナに夢中になって、私への態度はどんどん酷くなっていったわ。だから悲しくて惨めで、言えなくなってしまったの」
「なんだそれ」
まるで言葉を吐き捨てるかのような勢いだった。
胸がズキンと痛む。
他人には愚かに見えても、私には深刻なことだったのに。
視線を下げたら赤い糸が見えたので、目を閉じた。
「あいつ、底なしのろくでなしじゃないか」
え?
私に呆れたのではないの?
エメリヒを見たら、彼は普段よりも険しい顔で、中空を睨んでいた。
「俺らには、散々『自分は望んでいない婚約だ』『ラウラは王妃の地位がほしいだけの悪辣な女だ』と話していたんだ」
「王妃の地位なんてどうでもいいわ。コンラッドの伴侶にはなりたかったけれど」
エメリヒが私を見て首をかしげた。
「あいつのどこが良かったんだ?」
それは――
「私の目、金色でしょ?」
「ああ、満月みたいで綺麗だよな」
「……綺麗?」
私の瞳を褒めてくれるひとは、あまりいない。家族や使用人たちぐらい。
もしかして、聞き間違いかしら。
だけどエメリヒの顔がほんのりと赤くなった。
これって、本当に褒めてくれたのでは?
「いや、綺麗だろ。コンラッドはアレコレ言っていたが――、あっ」
と、彼は気まずげに口を閉じた。
でも、確かに彼は『綺麗』と言ってくれたのだわ。
コンラッドの言葉は想像がつく。
「『悪魔みたい』でしょ。彼がなんて揶揄していたかくらい、知っているもの」
「悪い。だが俺は本当に前から、瞳だけは――あっ。これも酷いな」
エメリヒは、失言を重ねたと思って動揺している。
いつも険しい表情ばかりなのに、焦ってアワアワとしている様子はすごく可愛い。
――可愛い?
私、本気? この人は私を殺す役割なのに、可愛いなんて思ったの?
また、鼓動が早くなっている。どうしよう。落ち着かない。
「ラウラ・ロンベル」
硬い声でフルネームを呼ばれて、いつのまにか落ちていた視線を彼に戻す。エメリヒはもう赤くもなければ焦ってもいない。普段通りの厳めしい表情をしている。
「許してくれとは言わない」
エメリヒは声まで硬い。それに許しってなんのことかしら。
「そんなことを頼む資格はないと思っている」と彼は続けた。「お前のことをなにも知らないのに、コンラッドの言葉を頭から信じて、悪女なのだと決めつけていた。すまなかった」
エメリヒが両手を体の脇につけ、きっちりと頭を下げる。
どうやら私は、謝罪されているみたい。
今まで理由もなく睨まれ、悪女だと断じられてきたあれこれが脳裏に浮かぶ。
とても辛かった。だけど――
「私にも悪いところはあったわ。アドリアーナに意地悪をしたのは事実だもの」
「だとしても、公平性がなかったことに二年半も気づかなかった」
「それは同意するわ。私はあなたたちに近づかせてもらえず、陛下に頼まれてしていた注意も聞いてもらえず、辛い二年半だった」
エメリヒの顔が余計に強張った。
「すまない」
「でも、もういいわ。もうコンラッドから自由になったのだもの。それにひとりだけ、理解者が増えたみたいだし」
左手をあげて、赤い糸を揺らす。
「これ。もしかしたら唯一の味方を知らせてくれるものかもしれないわね」
そうだったらいいな、と思う。
殺害する者とされる者を繋いでいると考えるより、よっぽど嬉しいもの。
それに状況が変わったのだから、エメリヒが私を殺す未来はなくなったはず。
そうよね?
「何度も助けてももらったわ。あなたのことは、いずれ許すわね」
「いずれ?」とエメリヒが不思議そうに繰り返す。
「私もアドリアーナに謝らないといけないもの。あなたの謝罪に相応しい人間になるまで、待っていてくれる?」
「……ああ」
「よかった。あと一つだけ伝えておくわね。私、あなたが大嫌いだったわ」
「過去形か?」
「ええ。今は『嫌い』くらいにランクアップしているの。助けてもらったもの」
エメリヒが目をすがめた。
「大嫌いのままのほうがよかったかしら」
私、調子に乗りすぎたの? 本心だったのだけど。
どのような理由があったにしろ、エメリヒは私を何度も助けてくれたから――
「いや『嫌い』でいい」
「そう。よかった」
ほっと胸を撫でおろす。
そんな自分に驚いてしまうけれど、今ではコンラッドよりずっと安全な攻略対象に思えるのだもの。
「じゃあ、俺は今度こそこれで」
エメリの言葉に『ええ』、と答えようとしたとき応接間に執事が入ってきた。
「ラウラ様にお客様です」
「彼以外にお約束はないはずだけど」
「はい」とうなずく執事。「突然のご来訪です。精霊姫シレア男爵令嬢アドリアーナ様でございます。いかがいたしましょうか」
意外な名前に、エメリヒを見る。
彼も驚いたような表情で、『知らない』とでもいうかのように首を横に振ったのだった。




