5・1 エメリヒの微笑み
床に伸びた赤い糸をたどるかのように廊下を進む。
一向に消える様子も、指からほどける気配もない赤い糸。
こんなにはっきり存在しているのに、誰にも見えていない。私とエメリヒを除いては。不思議だわ。
応接室に入ると、私に気がついたエメリヒが長椅子から立ち上がった。糸は変わらず彼の左小指に繋がっている。
放課後になってまだ間もないのに、エメリヒは私服を着ている。ということは、彼も学校を休んだのかもしれない。
「加減は?」と挨拶もなしにぶっきらぼうに尋ねるエメリヒ。
『問題ない』と答えようとしたものの、開きかけた口を閉じた。それは公爵令嬢として、もしくは王太子の婚約者としての答えだわ。私自身としては――
「まあまあといったところね」
どうして正直な気持ちを口にする気になったのか、自分でもわからない。だけど、そういう気分だったのよ。
「あれほどの状態だったのだからな」と、エメリヒが険しい表情でうなずく。「訪問して悪いな。例の品を届けたら帰るつもりだったんだが」
「おかしいわ。お礼のお礼だなんて」
昨日私を助けてくれたお礼を、お父様がギュンター家に贈った。予定どおりの茶葉セット。
そうしたら、また彼のお母様が返礼品を用意してくれたらしい。エメリヒはそれを届けに来たと聞いている。
私は今日は学校を休んだ。昨日の時点では、そんなつもりはなかったのだけど。
キンバリー先生の回復薬は、そうとう強力だったらしい。
効果が切れたとたんに全身が痛み始めて、私は微熱を出して寝込んでしまったのよね。
一晩明けたらだいぶ良くなったものの、登校できるほどの状態ではなかった。
エメリヒと私は、卓を挟んで向かい合ってすわる。
おかしな気分だわ。
前世を思い出す前も後も、彼とこのような席に着くことは絶対にないと思っていた。
なのに対面でお茶を飲んでいるのだから。しかも、我が家の応接室で。
「あなたこそ大丈夫なの?」
なぜ彼まで欠席したのか。学校に行きづらかったのか、親に止められたのか。どちらなのかしら。
「俺も、まあまあだ」と彼は答えてから、「コンラッドは昨日のうちに謝罪に来たんだって?」と話題を変えた。
エメリヒの言うとおり、驚いたことに昨晩、コンラッドが我が家に謝罪に来た。
もちろん心から反省したという訳ではない。事態の収拾をはかるために陛下に命じられての、渋々の謝罪だった。その内容は――
彼が私を攻撃したのは、カッとしたせいで意図的なものではない。だから責任はない。
彼がクラスメイトの前で騒ぎ立てたのも、悪意はない。
事実と違う発言をしたのは、不義をした私とエメリヒをこらしめたかったから。
総じて、コンラッドに過失は少ない。すべて状況に問題があった――というもの。
呆れ果てたわ。
陛下ご夫妻はもっとまともで丁重な謝罪文をくれた。私が予想したよりはずっと重く、事態を捉えてくれたらしい。だけど本人がこれではね。
お父様はあまりの酷さに『カッとして、意図的にではなく攻撃術を発動』してしまい、コンラッドを氷柱に閉じ込めた。
でも仕方ないわよね。怒らせた方が悪いのだもの。彼の理論によればね。
結果として、陛下ご夫妻は私たちの婚約解消を認めてくれた。コンラッドの謝罪の様子を魔道具で見て、もう私たち父子を引き留めるのはさすがに無理だと悟ったらしい。
氷から解放されたコンラッドは、呆然としていた。彼の魔術のレベルはかなりのもので、学校では常にトップだ。それなのに反撃する間もなくあっさり敗北したのだもの。
彼のプライドは粉々になったみたい。きっと私たち父子に関わるのはイヤになったはずだわ。
エメリヒに昨晩のことをすべて話し終えると彼は、
「よかったじゃないか。受けた痛みには全然釣り合ってはいないが、婚約解消は勝ちとれたんだからな」と言った。
思わず首をかしげる。
私を嫌っているはずなのに、まるで私の側にいるかのような発言だわ。
昨日だって私を保健室に運び、コンラッドから庇ってもくれた。
もしかして私がゲーム展開から逸脱した行動をとっているせいで、
「あなた、私を好きになってしまったの?」
彼の顔がカッと赤くなった。
「まさか!」
「そうよね。あんまりあなたが親切だから、どうかしちゃったのかと思ったわ」
「俺はそんな単純じゃない。コンラッドがあまりに人でなしだから、気の毒に思えただけだ」
「あなたたちはもともと、アドリアーナを挟んでライバル関係でもあるものね」
「……」
エメリヒは口を開いたものの、なにも言わなかった。
ふと、マンガで私が殺される場面を思い出した。
場面は卒業を祝う記念パーティー。悪役令嬢ラウラは突然アドリアーナを魔法で攻撃しようとする。
だけど、それを察したエメリヒが剣で私を刺し殺す。
アドリアーナはとなりにいたコンラッドに防御魔法で守られていて、怪我ひとつない。
エメリヒが帯剣しているのは、近衛騎士に就職が決定している生徒には、それが許されているからだったはず。
だけどラウラがどうしてあの場面でアドリアーナを殺そうとしたのか、わからない。詳しい説明はなかったと思う。
マンガの内容をすべて明確に覚えているわけではないから、忘れているだけかもしれないけれど。
それに完結まで読んでもいない。たぶん、前世の私が死んだときは連載中だった。動機が語られる場面はもっと先だったのかもしれない。
それにしてもコンラッドはマンガのイメージとはずいぶん違う。だいぶろくでなしでイヤなヤツだわ。
「そうだ、あなたも今日は欠席したの?」
ティーカップに口をつけていたエメリヒが、私を見た。視線は鋭い。けれど、以前ほど殺気はないような気がする。気のせいかしら。
「断っておくが、状況に怖気づいたわけではないぞ」
「そんなことは思っていないわ」
「なら、いい」と彼は息を吐いてティーカップをソーサーに戻した。「そんな噂がもう立っているらしい」
「発生源はコンラッド?」
「いや、さすがに大人しくしているみたいだ」
エメリヒは、同じクラスの守りびとフランツ・レーゼルからの情報だと続けた。フランツはわざわざ手紙で知らせくれたそうだ。
「俺が休んだのは、近衛騎士隊長から呼び出しがかかったからだ」
昨日の件が隊長の耳に入り、あれこれ確認をされたという。特に念入りに尋ねられたのが、王太子殿下の婚約者を奪ったのかという点だったとか。
「それから、近衛騎士になる意思はあるのかの再確認だ」
「王族と不和ではまずいからね?」
エメリヒは黙ってうなずいた。
「本当に巻き込んでごめんなさい」
彼のことは嫌い。でも、エメリヒは自分で身を立てなければならない立場だ。就職に不利になってしまったのは、申し訳なく思う。
「……俺がなりたいものは騎士だ。道義にもとることはしたくない」
「私を悪女だと思っているのに?」
エメリヒがまばたく。
「意地悪な質問だったわね。答えなくていいわ。誰だって矛盾を抱えていたり二面性をもっているものだもの。コンラッドみたいに」
それから、私も。エメリヒのことは、前世の記憶がよみがえる前から大嫌いだった。そもそもコンラッド以外の守りびと全員が嫌いなのだけど、その中でも群を抜いて嫌いだったのよ。
だというのに、こうやって彼と会話をすることが自然とできている。
嫌悪もさほど感じない。
たぶん、今の私は彼を信頼しているのだわ。
でも、それはダメ。
彼は私を嫌い。助けてくれたのは、たまたまのはずだもの。
「この赤い糸だが」と、彼は糸を右手でつまんだ。
「なにかわかったの?」
「昨日の件。アレについて、『騎士の矜持に基づき、ラウラ・ロンベルを助けろ』という意味があったのではないかと考えたんだ」
彼の手から伸びる赤い糸を目でたどる。途切れることなく私に続く。
「だがそれなら、もう消えてもいいはずだ」
「そうね」
だってこれは、殺す者と殺される者とを繋ぐ糸だもの。
でも……。
エメリヒが本当に私を殺すのかしら。
コンラッドとの婚約は解消になる。私がアドリアーナを殺したくなる理由もない。
もう、未来は変わったのではないかしら。
「じゃあ、俺はこれで」とエメリヒが立ち上がる。「明日は登校するか?」
「ええ」
「ならば、また明日」
「待って」と、私も立ちあがる。「まだ近衛隊長との話し合いがどうなったのかを、聞いていないわ」
最初に今の状況は『まあまあ』とは聞いたけれど、それではなにもわからない。
エメリヒの菫色のひとみが私に向けられる。
「来週から一般の騎士団に移籍する」
息をのんだ。
近衛騎士団と王立騎士団は別物で、身分も将来性も給金も、なにもかもが近衛のほうが上なのだ。
「今回のことで、コンラッドを守る騎士にはなれないと感じたからな」
「でも」
「お前の責任じゃない」
エメリヒは強い口調でそう言うと、
「気にするな」と微笑んだ。
ほんのかすかな笑みだった。
けれど、彼が私に笑いかけるのは、初めてだわ……。




