不幸A面/幸B面
死の順番は、いつだって良い人から訪れる。
「けが、なくて、よか、った」
掠れた女性の声が、未熟な耳に届く。
「だれ、か。だれか……!! 子供が、子供が──」
男の声。
絞り出すような、苦しい声。
それが聞こえると同時に、俺の意識は黒く塗りつぶされていった。
◆
浅い眠りから目を覚ました俺は、重たい不快感を拭うために洗面台へと向かった。
「……くそが」
もう何度見たか分からない夢。
そのせいで、俺は今でも苦しんでいる。
──十六年前。
俺の家族が乗っていた車が大破し、当時三歳の俺を除く全員が死んだ。
旅行中だったらしく、父、母、全員が乗っていた。
それが、俺の不幸の始まりだった。
祖父母は既に他界済みであったために、事故のあとすぐに孤児院に入った。
その時は──まあ、それなりに楽しい生活を送っていた。
──十年前。
火の不始末が原因で、孤児院は全焼した。
俺自身も顔に大きな火傷を負ったが、それでも助かった。
だが、職員含め、一緒に育ってきた兄弟たちは……。
本当に、くそみたいな人生だ。
俺に優しくした人間は、全員仲良く死んでいった。
今まで入ってきたいくつかの孤児院では、優しく接してくれた職員数人が死んだ。
里親に迎えてくれた老夫婦も、交通事故で死んだ。
──死、死、死。
それが常に付きまとい続けてきた人生だった。
最後の孤児院で、死神だなんだと陰口を叩かれ続けたのも知っている。
だが、そっちの方が楽だった。
誰も優しくない方が、誰も死なないから。
そうして、孤児院を出た俺は、すぐに働き始めた。
火傷のせいであまり良い眼は向けられなかったが、それでも、何とか食いつなげている。
毎日、スーパーで品出しやら何やらで金を稼ぎ、元々細かった腕がさらに細くなるほどの生活費で日々を暮らす。
世間一般の人間と比べたらあまり良い生活とは言えないが、人が死なないならそれで良かった。
不愛想だと、不気味だと思われても、何も感じなかった。
優しくされないことが、俺の幸福だから。
──ガチャリ。
鍵を閉め、ぼろぼろのアパートの階段を一段づつ降りていく。
誰も不快に思わないよう、慎重に、慎重に。
最後の一段を降り、ようやく少し息を吐く。
後は、いつもの道を辿るだけだ。
回りっぱなしのレコードのような生活、それが俺にとっての幸福だ。
針は摩耗しきって、音も鳴らなくなったレコード。
その上で時間を消費するだけの一生が、一番の幸福だ。
「ナーオ」
朝の重苦しい空気を切り裂くような、小さな鳴き声。
それが聞こえた方へと、ふと視線を向けると、そこには小さなトラ猫がいた。
「ナーオ」
何かをねだるように再び鳴いた猫。
何かをあげようにも、手元には何もない。
どうするかと迷った挙句、俺は猫のいる空き地を素通りした。
◆
「そろそろ閉めるぞ」
店長の声に振り向き、小さく頷く。
自分の方も、少し前に退勤準備が終わったところだ。
今日は特別忙しいという日でもなかったから、少しだけ気分がいい。
「お疲れさまでした」
店長に頭を下げ、ややゆっくりめの歩調で歩く。
背後から、シャッターの下りる音が聞こえた。
◆
帰路のおよそ七割を歩いた頃。
視界の上方に映る空は、雲と星が入り乱れ、中途半端な暗さをしていた。
この辺は街灯も少ないため、星が明瞭に見えると同時に、目の前の道が少しだけ不気味に見えてしまう。
「ナーオ」
小さな声だったため、一瞬だけ聞き逃しそうになった。
だが、昼間と同じように空き地の方へ視線を向けると、そこには悠々と一匹の猫が鎮座していた。
昼間と同じかどうかは判別がつかないが、とりあえず、またトラ猫だ。
「ナーオ」
腹が減っているのだろうか。
それは俺も同じだから、何も期待してほしくなどないのだが。
というか、猫も人を選べばいいのに。
俺よりも少しいい人を選ぶだけで、飯にありつけるかもしれないのに。
「…………」
家に、期限が近い鯖の缶詰があったはずだ。
半分くらいなら、分けてあげてもいいかもしれない。
「ナーオ」
繰り返しの鳴き声を背に、俺は少し歩調を速めて家へ向かった。
◆
期待通り、鯖缶はすかすかの棚の中に入っていた。
それの半分を素早く平らげ、俺はやはり速めの歩調で玄関を出た。
さっきよりも、雲の量が増えている。
もう少し、急いだほうがいいかもしれないな。
そんなことを考えながら、俺は例の空き地までの道を歩き始──
──ドンッ。
脳が揺れるほど大きな音。
手に持っていた丸皿が割れる小さな音。
それが聞こえたと同時に、俺の意識はどんどんと黒く消えていった。
「ナーオ」
一瞬だけ聞こえた、猫の鳴き声。
それを最期に、俺の意識はプツリと消えた。
マニュアルのプレイヤーでレコードを回したら、ずっと回りっぱなしだそうですね。
何かのきっかけでひっくり返さない限り、ずっと同じ音が流れるのでしょうか。
針の摩耗が心配ですが。