イシュタルパニック③
「よ、ようエレネ……」
晃は動揺を悟られぬよう笑顔でエレネを迎えた。
声が多少震えている気もするが大丈夫だろう……と思いたい。
「……どうしたの?」
エレネは怪訝な顔をした。
「まあいいわ。少し話がしたいのよ」
「そ、そうか。えっと、じゃあ外いこう!」
そう言って部屋から出て行こうとする晃の肩をエレネがむんずと掴む。
「いえ、別に大した話でもないし……ここでいいんじゃない?」
「いやぁ……それは……」
「……アキラ、なんか変よ?」
エレネは冷や汗を浮かべる晃の顔を覗き込んだ。ふと、何かに気付いたように片眉を上げ、部屋の空気を吸い込む。
「……なんか、良い匂いしない?」
「へ? そうかな?!」
「……ねぇ、今まで誰といたの?」
目を細め、抑揚の無い声でエレネは問いかけた。
「いや、誰ともいないけど」
引きつった笑顔で答える晃。
「ふーん……」
エレネは無機質な表情のままそう言うと、晃が止める間もなく部屋の扉をしめすたすたとベッドまで歩いて行き、その上に腰かけた。
(――っ?!)
心の中で悲鳴を上げる晃。心臓が飛び出る思いとはまさにこの事なんだなと悟った瞬間でもあった。
「……座りなさいよ」
「はい……」
有無を言わせぬエレネの雰囲気に思わず体が動いてしまう。
晃はエレネの横に座ると、チラ、と床に視線を落とした。
(やばい、これはやばい)
どうしようか頭をフル回転させるが空回りするばかりで名案は浮かばず、分かる事はと言えばこの場を乗り切るにはエレネの話をとりあえず聞き、帰ってもらうしかないという事だ。
「そ、それで話ってなに?」
「ヴォルフ達の容体……気になってると思って知らせに来たんだけど……」
エレネはジロリと晃を睨んだ。
「晃には必要なかったみたいね。さっそく部屋に女の子を連れ込んでるみたいだし」
「ばっ、何言ってるんだよ?!」
図星を疲れた晃は思わず大きな声を出した。その後で、ハッと我に返り、「ははは」と誤魔化し笑いをする。
「まったく、いきなり変な事言うからびっくりしたじゃないか」
「……図星?」
「いや……」
視線を合わせようとするエレネの目から逃れるように晃は天井を見上げた。
「ま、いいわ」
エレネはため息をつくと、晃にルノアール公やマンサナレスはともかくヴォルフと先生は数日のうちに全快する事を伝えた。
そして、ヴォルフと先生の回復を待って黒き竜討伐が行われる事も。
「だから、私もヴォルフと先生が回復するまでにできる事はやっておこうと思うの」
エレネはそう言うとニヤリと悪戯っぽく笑った。
「アキラも、それまでに強くなっておいた方がいいわ。少し貴方のとは違うけど、私が精霊術と剣術の稽古をつけてあげるから、明日から特訓しましょ?」
「え?」
「いいわね?」
ずい、と顔を寄せられ、晃は反射的に首を縦に振る。
「よろしい」
エレネは満足げに頷くと、懐から赤く、平たい丸い入れ物を取り出した。
艶やかで、見事な装飾の施されているそれは、容器からして明らかに高そうな代物で、蓋を開けると、フワ……と心安らぐような良い匂いが広がる。
エレネはそれを少し指につけると、おもむろに晃の首に塗り付けた。
「うわっ!」
冷たい感触にびっくりした晃は思わず飛び退く。
「なにすんだよ?!」
「アキラも、こう言うのつけた方がいいよ」
エレネはそう言って晃の手に容器を握らせると、
「あげる」
と言って立ちあがった。
「ちょっと! こんなのもらえないって!」
「いいから! お父様を助けてもらったお礼よ」
晃に反論する暇も与えず素早く部屋を後にするエレネ。
「行っちゃったよ……」
晃は貰った容器をまじまじと見つめ、
「まあ、いいか」と呟き机の上に置いた。
「……まったく、酷い目にあったわ……」
ベッドの下から出てきたイシュタルが手足についた土埃を払い、ため息を洩らす。
「それはこっちの台詞だよ……」
「それで、坊や何を貰ったの?」
「ん? いやちょっと……」
なんとなく、言ってはいけないような気がして言い淀む晃。
「……ちょっといい?」
イシュタルは急に真面目な顔になると晃の顔を両手ではさみこんだ。
「ちょ?! なにすんだよ?」
動揺する晃の抗議を無視して首に鼻を近づけ、香りを確認する。
次いで、机の上に置いてある容器を見やった。
「ふぅん……」
そして、目を細め、部屋の入り口の方を見て挑発的な笑みを浮かべる。
「あのお嬢ちゃん、見た目に寄らずなかなかやるじゃない?」
「あ、あの……イシュタルさん?」
「……アキラ」
イシュタルは両手で晃の顔を挟んだまま悪戯っぽい笑顔を見せると、
「やっぱり、逃げるのはやめ。面白そうだからまた会いに来るわね」
「……勘弁して下さい」
泣きそうな顔で晃は言い返した。
「じゃね」
その言葉を無視してウインクなぞかまし、部屋を出てゆくイシュタル。
一人になった晃は、へなへなとその場に崩れ落ちた。
「なんか、そのうち死にそうな気がする」
一方その頃。
「ははは……俺は世界一……」
「はいはい、もう寝ましょうね」
酔い潰れたヴァンをベッドに寝かせたアデーレは兄の体に布団をかけた。
「もう飲めねぇ……」
寝言を洩らす兄の顔を目を細め、愛おしそうに見つめる。
「お兄ちゃん……」
アデーレは兄の髪を優しく撫でた。
ヴァンはその手首を掴み、
「お姉ちゃん色っぽいねえ」
と言ってげへへとだらしなく笑う。
ピク、と額に青筋を浮かべたアデーレは兄の頭に手刀を落とした。
「ぐおおおお」
とうめき声を洩らすヴァン。
こうして、ルイーダの夜は平和に過ぎてゆく。