ベアトリス・モイエ伯爵夫人とレース
「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。ジェラルドの妹のベアトリスでございます」
まだ本調子ではないカレンの話し相手として、ベアトリス・モイエ伯爵夫人が見舞いがてら実家のダヴィネス城を訪れてくれた。
ジェラルドと同じダークブロンドの髪に深緑の瞳は、幾分ジェラルドよりも色が明るい。波打つ髪をゆったりと結い上げている。妊娠5ヶ月だというふっくらとしたお腹を柔らかなドレスに包み、モイエ伯爵夫人ベアトリスは、カレンに礼を取った。
「どうぞお掛けになってください」
ゆったりと腰かけてほしくて、クッションを多めに配した応接室の3人掛けのソファをすすめる。
お腹以外はほっそりと華奢で、とてもカレンより年上には見えない、小柄で可愛らしい印象だ。どこか親友のアリシアを彷彿とさせる。
「長居は無用だぞ、ビー」
「ご心配なくお兄様。カレン様を疲れさせるようなことはいたしません!」
「どうだかな…」
ジェラルドに窘められると、ぷぅと頬をふくらます仕草など、ほんの少女のようだ。
兄妹のやりとりは心安く、微笑ましい。
「カレン様、お加減はいかがですか?」
「ありがとうございます。見た目はごらんの通り元気です。ただ…この通り、まだ発疹は収まっていないので…」
と、両腕の内側をベアトリスに見せる。
それを目にしたジェラルドはつい…と眉をひそめる。
喉の腫れはほぼ治ったが、発疹はひつこく浮いていた。
「まぁ…なんてこと…お可哀想に…。私、なんだか悔しくて。私がお側についていたら、あの女狐の好きにはさせませんでした。本当ならカレン様がダヴィネスへ来られた時に、私がすぐにお側に来るべきでしたのに…申し訳ありません。体調が優れず伏せっておりまして…」
ダークグリーンの瞳を曇らせて、申し訳なさそうだ。
ここ数ヶ月、体調が思わしくなかったようだ。
それにしても、女狐…包み隠さないもの言いに、思わず吹き出しそうになる。
「お気になさらないでください。私の無謀さが招いたことです。それより、ご体調は?」
「もうすっかり元気です。食欲がありすぎて恐いくらい」
ふふふ…と微笑む、そのつやつやとした頬は健康的な赤みがさし、顔を縁取るダークブロンドの後れ毛がキラキラと眩しい。
「モイエは甘やかし過ぎだな。このままだとダヴィネス中の食べ物が無くなりそうだ」
「もう!そんなことあるわけないでしょ!お兄様、扉の前でフリード卿がウロウロしてますわよ!早くお行きになって!」
ジェラルドはやれやれ…という表情の後、カレンに微笑むとソファから腰を上げた。
「カレン、何かあれば…」「何も起こりません!」
ぷんぷんしながら、ベアトリスが畳み掛ける。
カレンを含め、その場にいたモリスやエマ、ニコルも堪らず吹き出してしまった。
裏表のないやりとりが本当に気持ちいい。
カレンは胸の中がサラサラと音を立てて爽快に透き通るのを感じた。
∞∞∞
「それにしても…お兄様のあのような顔を初めて見ましたわ」
ジェラルドが会議のために退室した後、モリスの入れてくれた体にいいハーブティのティーカップを傾けながらベアトリスは言った。
「あのような…?」
とたんに、ベアトリスの目が面白そうに変化する。
「カレン様を見る顔です…愛しげで、どこか嬉しそうで…心配で堪らないって言うか…」
「それは…」
それは、庇護の対象だからだと思う。さんざん世話を掛けたのだ。
なんというか、ベアトリスの想像するようなものではないとカレンは踏んでいる。
なんだか胸のあたりがチクチクするが、なんとなくベアトリスと目を合わせづらく、俯いてお茶を一口飲んだ。
そんな様子のカレンを慮ってか、ベアトリスはすこし畏まって続ける。手元には料理長オズワルド特製の焼き菓子だ。
「兄は辺境の地を継ぐ前から、真面目一辺倒でした。継いでからは辺境を危なげなく治めることに信念を傾けて…浮いた噂のひとつもありませんでした。あ、でも秋波を送ってくる令嬢は後を断ちませんでしたけど」
あの女狐もそのひとりで…と、小さく呟く。
「でも一切応じていなかったと思います。ザックなど、今に剣と結婚すると茶化していました。でも…」
ザックとは第一騎士団長・筆頭騎士のアイザック卿のことだ。兄妹とは幼馴染みと聞いている。
ジェラルドに浮いた噂がないというのは、意外だった。居合わせる女性の十人が十人、あの容姿と雰囲気、深緑の瞳に色めき立つのは想像に容易い。
それなりに深い仲の女性の一人や二人いてもおかしくはない。ベアトリスが知らないだけ、というのも大いにあり得る。
「ごめんなさいカレン様、私、兄が侯爵令嬢との婚約が決まったと聞いた時は、きっと陛下から逆らえない命令が下されて断り切れなかったのだと思ったのです」
まぁ、大きく外れてはいない。
急に焦った様子になったベアトリスは、申し訳なさげに続ける。手には次の焼き菓子がある。喋りながら器用にお菓子を摘まんでいる。
「辺境の田舎など鼻にも掛けない淑女が、兄と共にダヴィネスで生きていけるのか…当初は心配しておりました…」
王都の社交ではあり得ない、いっそ清々しいほどの本音だが、ベアトリスからは嫌な感じは一切感じない。
「でも、カレン様のご様子を聞いて、実際にお会いすると、その考えは誤っていたとわかりましたわ。話に違わず洗練されたお美しいお姿なのはいわずもながですが、城の者達にお心を砕かれていると聞いています。私からもお礼申し上げます」
皆に世話をかけてばかりだが…
話の矛先が自分に向けられて、少し居心地が悪いが、そのまま話を促す。
「なによりあの兄の顔!なんだか私、安心いたしました」
ニコニコと心底嬉しそうな顔だ。
真相は少し異なるが、ベアトリスの楽し気な様子が心地好いのであえて反論はしなかった。というかできない。
「ところでカレン様、お見舞いのお品と言ってはお恥ずかしい限りですが、ご覧になっていただきたいものが…」
と、伴ってきた侍女から手荷物を受けとる。
輝くようなサテン生地の小物入れからは、刺繍の施されたハンカチが数枚取り出された。
「お恥ずかしながら、私刺繍が趣味で、伏せっている間も気分のよい時は手慰みに刺しておりました」
と、はにかみながらもテーブルの空いたスペースに次々とハンカチを広げる。
どれも丹精込められた素晴らしい刺繍だ。感嘆とともに眺める…と、カレンはふとハンカチの縁に施された白のレース生地に目を止めた。
ハンカチをひとつ手に取り、レース部分を凝視する。
レースの裏からも手を当て、その透け具合や色味を確かめる。
これは…
ベアトリスには申し訳ないが、ハンカチ本体の刺繍よりも縁取るレースに釘付けとなった。
レースは、王都でもお目にかかったことのないほどの繊細かつ高級感溢れる代物だ。
「…カレン様、お気に召しまして?」
急に集中力を発揮したカレンに、ベアトリスは何事かと不思議そうだ。
「あの、ベアトリス様、ハンカチの刺繍はとても素晴らしくて…ありがたく頂戴してもよろしいのですか?」
「はい、もちろんです!」
「あと…この縁のレースは?」
「ああ、それは懇意にしている街の生地屋のものです」
「生地屋?」
「ええ、実はレースはダヴィネスの特産品なのですが…一度夫が王都での取引を試みて、その頃は安定供給が難しく、商いには至りませんでした」
ベアトリスの夫のモイエ伯爵は、ダヴィネス領の流通を担っており、一年の半分以上は王都にいるらしい。通常、夫に着いて回るが、身重となってからのベアトリスはダヴィネスに留まっているとのこと。
モイエ伯爵のかつての商い相手の目は節穴としか思えない。それほどに他に類を見ない素晴らしい出来のレースだった。
「…」
「カレン様?」
カレンは顎に手をやり、ハンカチもといレースを前に思案していた。
「あのカレン様、私、何かお気に障ることでも…?」
カレンははっと気づく。
「あ、いえそうではなくて…ごめんなさい。ベアトリス様、このレースのこと、もう少し詳しく伺ってもよろしいかしら…?」
「はい、もちろん」
ほっとしたベアトリスはカレンの質問を受けた。
∞∞∞
その夜、ディナーの席でしばし逡巡した後、カレンは切り出した。
「ジェラルド様にご相談があります。少しお時間をいただけますか?」
「もちろんだ」
ジェラルドが快諾したので、カレンはカトラリーを一旦置き、居住まいを正して話を続けた。
ベアトリスから見せられたレースのこと。
モイエ伯爵は残念ながら王都では商いには至らなかったこと。
そして、カレンの伝手で特産品であるレースを商いとして定着させたいこと…など。
すでにディナーを終えて、顎の前で両手を組んで話を聞いていたジェラルドは、瞠目した。
「驚いた」
「え?」
「あなたが私に相談したことに驚いた」
え?そこ?
しかし思えば、カレンがモリスやエマを通さず、直接ジェラルドに相談事をするのは初めてだ。
なにやらいたたまれない気持ちになる。
そんなカレンの様子を察したのか、ジェラルドは薄く微笑みを湛えた。
そしてその瞳の奥がいたずらっぽく揺らいだことに、カレンは気づいていない。
「デザートは場所を変えよう。モリス」
「はっ」
ジェラルドは近づいたモリスに二言三言耳打ちしながら、視線だけカレンに向けた。
いまだに深緑の視線には慣れず、ドキリとする。
話の続きは別の場所でってことよね。
カレンもほぼ食べ終わっていたので、ナフキンをテーブルに置いた。
ジェラルドにエスコートされ、ラウンジか居間にでも行くのかと思ったが、着いた先はカレンは初めて訪れるコンサバトリー(サンルーム)だった。
夜なのでガラスの向こうは暗闇だが、室内はランタンが数ヶ所置かれたり吊るされたりして、心地よい空間を創っている。
大きなソファとローテーブル、フットマンが2~3個無操作に置かれ、ローテーブルにはすでにカレンの分のデザートと、ジェラルドのためのワインが準備されていた。
ジェラルドの腕に促されてソファに座る。一人分ほど離れてジェラルドも横に座った。
横に座られるのは初めてで、それはそれで緊張するが、真正面から目を合わせないで済みそうでカレンは少しほっとする。
「素敵なコンサバトリーですね。落ち着きます」
侯爵家のコンサバトリーは、チェッカーのタイル床の華やかな作りなので、夜に包まれた隠れ家のようなこの空間が新鮮だった。
「気に入ったならなによりだ。いつでも来るといい。ここは寒がりだった母が作ったもので…しょっちゅう入り浸っていた」
「そうなのですね…」
ジェラルドの母は、数年前に亡くなったと聞いている。
「さあ、デザートだ」
少ししんみりした空気を覆すように、ジェラルド手ずからお茶を注いでくれた。
使用人の姿はなく、二人きりだ。
今日のデザートは、クレープにクリームの乗ったリンゴのコンポートが添えられたものだ。
ジェラルドは日頃からデザートは食べたり食べなかったりなので、カレンは遠慮なくデザートを食べた。
横からの視線を感じるが、早く食べてレースの話をしたい。
クレープとコンポートは大変美味で、コンポートにはお酒がよく効いている。クレープと一緒に頬張ると次々と新しい味わいが広がり、本当に美味だ。
「おいしい…」
カレンは思わず呟いた。
「そのリンゴはダヴィネスの特産品だな」
「王都でもとても人気で、私も毎年楽しみにしていました。でも、ここで食べると一層美味しいと感じます」
カレンは正直な感想を述べた。
それはよかった、とジェラルドはワインの入ったグラスを傾けた。
ゆったりと寛いだ様子でカレンを眺めている。
なんとなく面映ゆいが、カレンは構わずぱくぱくとデザートを味わい、お茶を飲んだ。
カレンが一息着いたのを確認すると、ジェラルドは話の続きをはじめた。
「それで、どうしたい?」
「はい、まずはベアトリス様を通じて、品物のサンプルをいくつか確認したいです」
「妹を通じて?」
「はい、ベアトリス様のご体調もありますので積極的に彼女が動く、というよりそういう事実を作りたいと思って…」
そう話すカレンの目を、ジェラルドはじっと見つめた。
「…そこまでモイエに気を遣うことはない」
やはり辺境伯閣下ともなると頭の回転が違う。父や兄とはまた違う鋭さを感じる。
いえ、私、今回は間違えたくなくて…と俯いた後、真っ直ぐにジェラルドを見て、カレンは続けた。
「この手の女性相手の商いは、当たるまでがすべてです。これは私の直感ですが、あのレースは後々、誰もが喉から手が出るほどのものになるはずです。だから、必ずダヴィネスに富をもたらすかと。私はその道筋をつけるお手伝いができればと思います。そのためにはまず、私が直接品質を確認したくて…」
ジェラルドは話を聞きながら、短い息を漏らした。
まったくこの娘には驚かされてばかりだ。
侯爵は一体どんな教育をしたのかと思うが…いやこれは“規格外”のカレンだからなのだろう。
間違えたくないと言ったのは、先日の栗の一件だろうが、結果的には煩いものを炙り出せた。…やり方は褒められたものではないが。
カレンの目的は前回も今回も、一点の曇りもなくダヴィネスを思ってのことだ。
婚約者の身でありながら、己の持つものを最大限領地に活かそうとする。
通常の上流界の令嬢のイメージとは大きく異なる有り様に、ジェラルドは感動すら覚えた。
しかし、何故だろう何かが引っ掛かる。
透き通った薄碧の瞳の輝きを受けて、ジェラルドは続けた。
「ことの次第はあいわかった」
カレンはわかりやすくほっと安堵した。
「それで、伝手とは?」
その言葉を受けたカレンは、ぱっと瞳を輝かせ、ふっくらとした唇に笑みを浮かべた。
ジェラルドはその顔が眩しく、目を掠める。
「王都の方は社交界を牽引する母です。あと、もうひとつの大口は…」
「?」
「あの…今はまだ秘密です。でもご安心くださいませ。きっとご満足いただけます」
自信満々に、いたずらっぽい表情だ。
ダヴィネスに来た当初からは想像できなかった表情の豊かさだった。
ジェラルドは衝動的に立ち上がりカレンに近づくと、その細い肩に手を置き屈んだ姿勢のまま、形の良い額にキスを落とした。
そのまま、ぱちりと大きく見開かれたカレンの瞳を覗く。
「よくわかった。お手並み拝見といこう」
∞∞∞
ちゃぷん
あの後、カレンは自室に戻り、今はバスタブに浸かっている。
おずおずとキスを受けた額に指をあてる。
…熱かった。
ジェラルドの唇の感触が残っており、まだ胸の高まりが収まらない。
栗のことで伏せっていた時は、手や頬を気遣わしげに触れられてはいたが、病人に対するそれだったと認識している。いまだに毎日手首を裏返して、発疹の治まり具合を確認されてはいるが。
でも今日のキスは…
ぶくぶくと湯船に潜る。
「…お嬢様、溶けちゃいますよ?」
介添えのニコルに注意される。
あれこれ考えると眠れなくなりそうだ。
今は目の前の成すべきことにことに集中しよう。
「うん、上がるわ」
ぱちんと両頬を手で挟むと、バスタブから立ち上がった。
∞∞∞
秋の日の午後、ジェラルドの執務室には、ジェラルド、カレン、モイエ伯爵夫妻とフリードにアイザック、控えたモリスとニコルが居た。
ニコルは木箱を持っている。
厳格な部屋の雰囲気にそぐわない、繊細なレースの品々がテーブルに広げられている。
コンサバトリーの夜から数日、ジェラルドが手続きに必要な文官を手配してくれたこともあり、カレンは着実に計画をこなしていた。
王都の母には、すでに数点のサンプルと手紙を送り、返事を待つばかりだ。
「皆さん、お忙しい中お集まりいただいてありがとう。時間は取らせません」
門外漢とばかりに、だが何が起こるのか興味深げなアイザックは眉毛を上げた。
もうひとつの大口…その正体を明かすべく、執務室には人が集められていた。
運良くモイエ伯爵が帰郷していたので、同席してもらえた。
「ベアトリス様、本当に申し訳ないけど、このレースを少し切り取ってもいいかしら?」
「もちろんです」
美しい生地に鋏を入れるのは気が引けたが、小さな生地の方が都合がよい。
カレンは生地を目の前に持ってくると、最も繊細に刺された部分を、小指の大きさほどに刺繍鋏で慎重に切り取る。
それと同じ大きさの紙を事前に準備していた。
その紙をジェラルドに見せる。
ジェラルドは吹けば飛ぶような小さな紙に視線を走らせた。
と、大きく目が見開かれる。
「隣国の王太子妃殿下か…!」
それを聞いた一同にどよめきが起こる。
小さな薄紙にはこう記されていた。
- お姉様のお気に召して? あなたのK -
カレンは微笑みながらジェラルドに頷くと、レースの切れ端と紙を重ねて、くるくると器用に小さく丸めた。
「ニコル」
「はい、お嬢様」
呼ばれたニコルは、木箱を持ってきた。
「まさか、鳩?」
フリードは驚きを隠し得ない顔だ。
「ええ、ストラトフォードのお家芸です」
カレンは木箱に手を突っ込んで、白い大きな一羽の鳩を取り出した。
鳩はキョロキョロと周りを見回し、クルックルッと鳴く。
鳩をニコルに持たせて、足にくくりつけてある小さな筒に、丸めたレースと紙を慣れた手付きで納めた。
ここから飛ばしてもいいかとジェラルドに聞くと、鳩を手に抱えバルコニーに出る。
「頼んだわよ」
と鳩に言い含め、その小さな頭にチュッとキスを落とした。
大きく下から振りかざすと、両手から鳩を放つ。
鳩はすぐさま羽を広げ、大きく羽ばたくと隣国のある方向へと飛び去った。
その姿が見えなくなるまで、カレンはバルコニーに佇んでいた。
その一部始終の様子を、ジェラルドは見守っていた。
斯くして、2週間も経たない内に、隣国から姉の使者がダヴィネス城を訪れたのだ。
王都から母の返事もあり、モイエ伯爵は一気に忙しくなった。
言うまでもなく、カレンの予想を遥かに上回り、ダヴィネスのレース産業は勢いを増した。