王都にて(下)
「さあできたわ、文句無しの淑女よ、カレン」
ジェラルドと共に出る夜会のドレスは、ストラトフォードの母が設えてくれた。
王都の最新流行のドレスだが、お腹周りは締め付けの無いようゆったりとしている。
膨らみはまだ目立たないので、一見すると妊娠はわからないくらいだ。
燕尾服で現れたジェラルドとカレンの並ぶ姿に、レディ ストラトフォードは感嘆の息を漏らす。
「あなた達、本当にお似合いだわね」
さあ、存分に見せびらかして楽しんでらっしゃい、という母や使用人達に送られ、二人はダヴィネスの家紋の入った馬車に乗り込んだ。
今日の夜会は上級貴族が多く出席するものでカレンの知り合いも多い。
一年ぶりの社交界に、カレンは少し緊張していた。
手を繋いだジェラルドにはカレンの緊張が伝わったらしい。
「カレン、私がついている」
何よりも頼もしい大きな手に力がこもる。
「はい、ジェラルド様」
「今日のあなたは…」
ジェラルドがカレンの全身に視線を走らせた。
「?」
「例えようが無いほど美しい」
野性味を帯びた深緑の瞳が揺らめいている。
「このまま連れ去りたいのを堪えているんだ」
カレンは顔が火照るのを感じる。
そう言うジェラルドこそ、眩しいばかりの美しさなのだ。
カレンはジェラルドの頬に手を充てた。
「…私などより…ジェラルド様の方が素敵です」
ジェラルドは一瞬驚いたように目を見開き、少し目線を下へ向けると、再びカレンを見つめた。
これはジェラルドが照れた時に見せる表情で、カレンは嬉しくなり愛しさが増す。
そのままジェラルドに顔を寄せ、口紅が移ってはいけないので軽めにキスを交わし互いに微笑み合う。
会場のアスター公爵邸の馬車寄せには、錚々たる家紋が施された豪華な馬車が並ぶ。
ジェラルドにエスコートされ、カレンは馬車から降りた。
アスター公爵邸は王族の血縁らしい豪奢な作りで、その夜会は王家主催の夜会に次ぐ華やかなもので知られていた。
カレンとジェラルドを認めた人々は、注目のカップルの登場に一斉に目を向け、ザワザワとした雰囲気となる。
カレンは覚悟はしていたが、ここまでの注目は予想していなかった。
今までも夜会では人の目にさらされることは常だったが、それとはまったく異なる種類の視線だった。
ふとジェラルドを見上げると、いつもと何ら変わらない顔で微笑みを湛えてカレンを見ている。
カレンもホッとして微笑みを返す。
今日は「体調がよくなかったらすぐに帰る」という条件付きの出席なので顔色の確認もあるが、惚れ惚れするような微笑みに周りの女性達からため息が零れている。
まあ、仕方ないわよね…。
私でさえこの微笑みには未だにドキドキするもの。
一方、辺境伯閣下の婚約者となり、久しぶりに社交界へ現れた“孤高の侯爵令嬢”カレンの存在も注目されていた。
その美しさに益々磨きがかかり、隣の婚約者を見る顔は以前の夜会などでは決して見せなかった艶やかな表情で、独身の令息達からは遠慮のない視線が注がれている。
当然ジェラルドは面白くないが、カレンにはわからないように不躾な目線を鋭い視線で制していた。
「カレン!」
「アリー!」
カレンは夫のミラー伯爵と現れた親友のアリシアと抱擁を交わす。
「やっと会えたわ!いったいいつ会えるかと思ってたのよ」
アリシアは冗談めかして苦情を言う。
「ごめんなさいアリー、改めてゆっくり会いたいと思っていたら、今になってしまったの」
「いいのいいの、今日は会えるかなって思ってたし…って、あのカレン、ご紹介していただける?」
アリシアはジェラルドをチラリと見た。
「あ、そうよね」
二人の様子を微笑ましく見ていたジェラルドが、アリシアに挨拶をする。
「レディ ミラー、初めまして。カレンの婚約者のジェラルド・ダヴィネスです。どうぞよろしく」
と、アリシアの手にキスをした。
その様子を見ていた周りのご婦人方から、またため息が漏れる。
カレンとアリシアは顔を見合わせて肩を竦めて笑う。
と、アリシアの隣で黙っていたミラー伯爵が、素早くアリシアの手を取り戻した。
「! ハリー様、閣下に失礼ですわ」
「これは失礼。閣下にはこの度の辺境東部の平定をお祝い申し上げます」
アリシアの夫のカーヴィル卿ことハロルド・ミラー伯爵は口調こそ恭しいが、いつもの氷のごとく読めない表情だ。
「ありがとう」
カーヴィル卿のクセの強さはよく知っているのだろう、ジェラルドは全く動じず、微笑みを湛えている。
「レディ カレン、ご体調はいかがですか?久しぶりの王都での夜会であまり羽目ははずされませんよう」
カレンとアリシアは、カーヴィル卿の言葉に顔を見合わせて笑い出した。
「いやだわカーヴィル卿。私、夜会で羽目を外したことなんてないわ」
「そうよハリー様、カレンは滅多にワルツも踊らなかったし」
カーヴィル卿は麗人と評される顔で、呆れたようにため息を吐いた。
「わかっていますよ、そんなことは。私が言いたいのは、今夜はあなた方お二人に注目が集まっているので…」
ここでカーヴィル卿は声を落とし、ジェラルドに目線を合わせた。
「滅多な動きはされない方がいいということです」
ジェラルドは眉を上げた。
「それは…ご忠告感謝申し上げる」
「?......あ」
カレンはピンときた。
「?、なあに?カレン?」
「う、ううん、何でもないわアリー」
カレンは記憶の向こうへ追いやっていた嫌なことを思い出した。
ここ、王都にはヤツがいるのだ。
「カレン、気にしなくていい」
カレンの憂いを察したのか、ジェラルドが囁く。
カレンは微笑んで頷く。
私にはジェラルドがいるもの。
と、ダンスの時間を告げる音楽が始まった。
「レディ カレン、お相手願えますか?」
すかさずジェラルドがカレンの手を取る。
「喜んで」
初めてのジェラルドとのワルツ。
ジェラルドはカレンの体を気遣いながら、実に巧みなリードだ。
すごいわ。これならずっと踊っていたい。
…このリードでは、どんな女性もイチコロだわね。
レディ カニングハムのことは納得したはずだが、こうも巧みなリードだと楽しまずにはいられない。
噂にも上るはずだわ…
「皆があなたに注目している」
ジェラルドは楽しげに踊るカレンに話しかける。
「まさか!注目されているのは…あなたです」
ジェラルドはふっと笑う。
「あなたは羽のように軽くて優美だ。ずっと踊っていたくなるが…体はなんともない?」
「ええ」
カレンは安心して身を任せ、久しぶりの夜会を楽しんだ。
曲が終盤に差し掛かると、カレンとジェラルドに近づくカップルに気づいた。
あ、お兄様!
お義姉様と一緒ね。
ウィリス卿こと、カレンの心配症の兄のショーンは、神妙な顔をしてこちらを見ている。
カレンはまったくもう…とため息を吐く。
「ウィリス卿が次のお相手かな?」
カレンの反応を見て、ジェラルドはからかうように話した。
「…ええ、おそらく」
曲が終わり、カレンとジェラルドは互いに礼をするが早いか、ショーンが義姉をエスコートして近づいてきた。
「久しぶりだな、カレン、閣下」
言いながら、ジェラルドからカレンの手を奪い、代わりに義姉の手をジェラルドへ預けた。
もう!お兄様ったら…
兄のせっかちな性分は知っているが、もう少し余裕を持って欲しい。
ジェラルドは苦笑している。
カレンの耳元で「兄上ならば安心だ。楽しんで」と呟き、礼儀正しく義姉をエスコートし、次にはじまるダンスに備えている。
私はジェラルドともう1曲踊りたかったのに…という言葉は飲み込んだ。
今夜のダンスは2曲だけ、とジェラルドに言われている。
音楽が流れ、ダンスがはじまる。
兄は妹の顔をじっと見た。
「…何?」
「…お前、踊って構わないのか」
くるりと緩やかなダンスを舞いながら、二人は会話をする。
「…構わないわ。安定期に入ってるもの。でも2曲だけってジェラルド様には釘を刺されたけど」
それは賢明だな、と兄は納得した。
カレンの元気な姿を見て安心したのか、ショーンは矢継ぎ早に話題を振った。
「お前、ヘレナを呼びつけたそうだな」と、少し前の話題にも触れる。
カレンもショーンも踊りながらの会話に慣れているので、逆に深刻にならずに話ができた。
「…もう陛下には謁見したのか」
「いえ、まだです」
「ヤツは未だに城の奥で蟄居の身の上だ。しかし知っての通りなんせ腹黒い。もうお前だけの体じゃないんだ。絶対に一人になるなよ」
最後の忠告はいかにも心配症の兄らしい。
しかし、用心に越したことはない。
「…わかっています」
曲終わりの挨拶と同時に、カレンは答えた。
目の端にジェラルドとお義姉様が見えた。
「レディ カレン、お久しぶりですね。次は私と一曲願えませんか?」
声の方を見て、カレンは「まぁ」と声をあげた。
「ウィンダム公、ご無沙汰しております」
「閣下、すまない。妹は休みたいようだ。エスコートしてもらえませんか?」
ショーンがすかさず割って入る。
「喜んで」
ウィンダム公は、洗練されたエスコートでショーンの手からカレンの手を預かった。
見ると、ジェラルドは断れない顔馴染みに声を掛けられたらしい。こちらに目線を向けるが、なかなか思い取りにはいかないものだ。
大きな夜会になればなるほど、辺境伯は忙しい。
ショーンは義姉を回収し、妹を誰かに預ける算段をした。
ウィンダム公はカレン達の年の離れた又従兄弟にあたる。独身主義の根っからの遊び人だが、兄の仕事仲間でもあり、カレンとも気安い仲なので兄はカレンのエスコートを任せてもいいと判断したのだ。
カレンも、とびきりの笑顔と話術で淑女達を籠落し続け、後腐れは全くない、憎めない又従兄弟が嫌いではない。
「辺境伯閣下は人気者だ。私達はあちらで少し休もう」
そうカレンに話す間も、女性陣からの視線を巧みに受け取り受け流し、実に如才ない。
「閣下は相変わらずの人気ですね」
カレンは可笑しくて笑いが込み上げる。
「それほどでもないよ…今夜の君達に比べればね」
と、カレンに親しみのある笑顔を向ける。
ウィンダム公にエスコートされ、カレンは軽食や飲み物が豪華に設えられた隣室へ移った。
「レディ カレン、シャンパン?ワイン?…確か君は…いつもワインだったね」と、冷えた白ワインの入ったグラスを渡された。
やっぱりこのお腹の膨らみ程度では妊娠はわからないのかしら。ドレスのお陰もあるけど。
カレンは改めてコーディアルをお願いするのも面倒なので、そのままワインのグラスを受け取り、口を付ける振りだけした。
隣同士で椅子に座る。
ウィンダム公はごく自然にカレンの背もたれに腕を回すと、自らのワインを一口飲んだ。
距離が近めの流れるようなエスコートだが、彼の流儀に慣れているカレンは気にならない。
離れて座るご婦人二人組は、その様子を見てコソコソと内緒話をしているが…カレンはそれも気にしないことにした。
「…それにしても、」とウィンダム公はカレンの顔を覗き込む。
「一年前とは美しさが違うね」
「え?どなたが?......まさか...私がですか?」
ウィンダム公は微笑みながら頷く。
「輝くばかりだよ。ダヴィネス閣下の君への溺愛ぶりは見ていればわかるが…正直今日は驚いたね。彼の瞳が物語ってる。あの印象的な瞳がね…愛されているね」
と、さも面白そうに語る。
カレンは気恥ずかしくなる。
「ただね…」と、ウィンダム公は長い人差し指をカレンの顎下へ沿わせた。
「君もよく知ってのとおり、ここ(王都)は口さがない連中が多い。もちろん妬みや嫉みもね。あと…一層美しさが増した君は特に注意しないと」
「……」
冗談めかしているようだが、ウィンダム公は真面目な顔をしている。
カーヴィル卿といい、ウィンダム公といい、第二王子の存在を仄めかして注意してくる。
そんなに危険な状態なんだろうか。
「…第二王子は監視されているのですよね?」
カレンは思わずズバリと聞いてしまった。
ウィンダム公は、カレンの顎から手を離すとうーんと唸った。
「彼自身は身動きは取れないとは思うけど、いろんな輩がいるからね、ココは。そこのところは君の父君や兄君が詳しいね」
まあ、王族相手だからなかなか難しい。
と、続けてワインを呷った。
政治的観点というやつね。
「なるべく早めにダヴィネスへ帰ることを薦めるよ、色男の婚約者殿と一緒にね」
と、ウィンクした。
「言われなくてもそうする予定です」
カレンの背後から、滑らかな低音が響いた。
! ジェラルドだわ。
やっと解放されたのかしら…と振り向いたカレンはギョッとした。
…怒っている。ものすごく。
「おっと、これは失礼。私は退散するとしよう。楽しかったよ、レディ カレン」
と言うと素早くカレンの手に口付け、またもや淑女達の視線を浴びながらスマートに立ち去った。
ジェラルドの冷たい怒気にも動じない(どころか、恐らく現れたことを少し前から知っていたのでは?)所は、さすがに長年王都で過ごす手練れといった対応で、カレンは呆気に取られながらも感心した。
ジェラルドはウィンダム公の去る様子を横目で確認すると、カレンへ近づくかと思いきや、飲み物の並ぶテーブルからコーディアルの入ったグラスを取り、カレンの手にあるワインのグラスと交換した。
さっきまでウィンダム公が座っていた椅子へ腰を下ろすと、ワインを半分ほど飲み、ふーっと息を吐く。
カレンはその様子を見て、自分も渡されたコーディアルに口を付けた。
「すまないカレン、待たせた」
気を取り直して…という感じでカレンに向き直り、ジェラルドは詫びた。
「いえ…お気になさらないでください。私なら大丈夫です」
ジェラルドは何か言いたげな顔でカレンをじっと見つめる。
カレンは少しいたたまれなくて、口を開いた。
「あの…ウィンダム公は又従兄弟で…」
「知っている」
ジェラルドの表情は硬い。
「…いつもあんな感じなのです…」
「……」
ダヴィネスでは、ウィンダム公の様な振るまいをカレンにする者はいない。皆命が惜しい。
しかしここは王都で、カレンの昔からの知り合いも多い。ダヴィネスとは理が違う。
それはわかっている。わかってはいるが…。
ジェラルドは腹の底からふつふつと怒りが湧くのを感じていた。
「ごめんなさい、ジェラルド」
カレンはジェラルドに手を重ねた。
「いや、あなたは何も悪くない」
カレンの申し訳なさそうな顔を見ると、罪悪感が募る。
そもそもは、仕方ないとはいえカレンを一人にした自分が悪いのだ。ウィリス卿の機転に感謝しなければならない。
ウィンダム公は気にくわないが、危険な輩ではない。
誰が味方で誰が敵か…王都での社交はこれがハッキリしているようで、実は曖昧な所もある。用心に越したことはないが、上手く渡らないと手酷い痛手を負う。
ウィンダム公は王族に近いが、明確な王太子派とは言い難い。しかし、ウィリス卿とは仕事仲間であり、第二王子を擁護している訳でもない。得てしてそのような輩は王都には多い。
日頃ジェラルドとは関わりはないが、いざ社交の場に出ると瞬時の判断を迫られる。
カレンを伴っている。無駄な争いはご法度だ。
正直、ジェラルドは直ぐにでもカレンを連れてダヴィネスに帰りたいが、立場が許さない。
しかし、カレンを伴っての王宮への登城を済ませたら、カレンだけでも先にダヴィネスへ帰したい、と心内では決めていた。