ダヴィネス初期(2)遠乗り
カレンはダヴィネス城に来て、お気に入りの場所がいくつかできた。
図書室はもちろんだが、このお庭。
ストラトフォードの王都のタウンハウスや領地の庭は、色彩美学に基づいた完璧な作りの庭だった。
だがダヴィネス城の庭は、そこまで計算され尽くされていない。
あるべき姿に忠実に…とでも言えばいいのか。
広さはもちろん、木々の配置が絶妙で、庭…というより小さな森のような錯覚すら覚える。
王都やストラトフォードの領地より北なので植えられた植物も異なり、それもカレンの興味を引いた。
王城の庭などは、とにかくバラがメインで、バラの生け垣の迷路で幼い王女殿下とよく遊んだものだが、ここにはバラは少なく、代わりに見たこともない清廉な美しい花々が植わっている。中には爽やかな香りを放つものや、一見すると草のようなものもあり、その多様さに驚いた。
どこまでもダイナミックで自然が自然らしく在る様に、カレンは魅せられた。
もちろん各所にベンチやガゼボが配され、ゆったりと心地よく過ごすことができる。
カレンも天気の良い日は、ガゼボでお茶をすることもあった。
・
カレンが来てから小1ヶ月が過ぎようとしていた。
ジェラルドは領地内の視察が終わらず、タイミングが合えば食事をともにするが、落ち着いて接したことはまだなかった。
ジェラルドが不在時のカレンの様子は、逐一報告としてジェラルドの元へ上がってくる。
問題なく過ごしているようでジェラルドはホッとするが、婚約者としてはこの関わりの薄さはどうなのか、とも感じてはいた。
おそらく、ジェラルドよりも使用人達との会話の方が圧倒的に多い。
仕事の都合上仕方のないことなのだが…。
侯爵令嬢を迎えるにあたり、使用人達は緊張を強いられるのではないかと構えたが、当のカレンは我が儘など皆無で、自ら使用人とも打ち解けているらしい。
本人の好奇心が勝っているのかも知れない。
執事のモリスや侍女頭のエマ、料理長のオズワルドさえカレンの気さくさに驚き、すっかり馴染んだ様子だ。
城内で出くわす使用人や護衛達とも気軽に挨拶を交わし、皆カレンの魅力の虜になっているとも…
ただ、ジェラルドと食事の際はまだ緊張の色が濃く、侯爵令嬢然とした表情は崩さない。
ジェラルドへの頼みごとや相談などもなく、あらかたモリスやエマに頼んで過ごしているらしい。
ただひとつ、カレンの願いでジェラルドの許可を要することがある。
乗馬だ。
これはカレンが来たときからの申し入れとして預かっていたが、ジェラルドが落ち着いてから共に遠乗りを、と思っていたこともあり、まだ許可は出していなかった。
馬は領主の資産である以上、許可がなければ勝手には乗れない。
ましてや、ダヴィネスは軍馬も含む馬の生産地だ。
ストラトフォードでも馬は育てていたと聞くので、その意味がよくわかっていると言える。
婚約が決まった時、カレンの愛馬をダヴィネスへ持ち込むことも打診されたが、事前にカレンの行動力を聞かされていたため、警備上許可しなかった。
閉じ込めるつもりはさらさらないが、辺境の地は他とは理が違う。そのことも含めての決断だった。
すでに夜も更けた、ジェラルドの執務室。
「フリード」
「はっ」
「明日は何か予定はあったか」
フリードは手元の書類をパラパラとめくる。
「…いえ、午後から会議が1件だけですね」
そうか、と言うとジェラルドは少し考えた。
「明日、朝食後にカレンと遠乗りへ出掛けたい」
フリードは、おお、という顔をした。
「承知しました。準備します」
「頼んだ」
・
「お早うございます。カレン様」
身支度を整え、朝食へ向かおうとした時、モリスが来た。
「お早うモリス。今日はジェラルド様とご一緒に朝食よね」
「はい、さようでございます…カレン様、ジェラルド様が朝食の後、遠乗りをご一緒に、とのことでございます」
「…遠乗り」
「はい」
「ジェラルド様と…?」
「はい、さようでございます」
モリスはニッコリした。
カレンは聞き間違えたかと思ったが、確かに“遠乗り”だった。
やった。ついに許可が出た。
心のなかで小さくガッツポーズを取った。
…ジェラルド様と一緒…は、仕方ない。到底1人は許してはもらえないだろうとは思っていたから。
でも、馬に乗れるのは嬉しい。
カレンは上機嫌で朝食室へ向かった。
「お早うございます」
「お早う」
カレンが朝食室へ入ると、先に来ていたジェラルドが、すかさずエスコートのため近づく。
席に着くや否や、カレンは真っ先に
「ジェラルド様、乗馬のご許可をいただき、ありがとうございます」
と礼を述べた。
ジェラルドはきたか、と興味深くカレンを見た。
頬を上気させ、ライトブルーの瞳はキラキラと期待に満ちている。
まるで少女のようだ。
…こんな顔を見れるなら、もっと早くに許可するんだった。
ジェラルドはお茶を飲みながら、本気で悔やんだ。
侯爵令嬢の余裕の微笑みの裏に、こんなにも無防備な顔があるとはな…
ジェラルドはふっと笑みをこぼす。
「カレン、着替えたら厩舎まで案内させる」
「はい!」
カレンは明るく返事をするとパクパクと朝食を食べ、ジェラルドはその様子を楽しげに見守った。
・
かっちりとした乗馬服に身を包み、帽子まで被ったカレンは、ネイサンに伴われ、前に一度訪れたことのある厩舎まで来た。
そこには、乗馬服を着たジェラルド、軍服のフリード、アイザックの3人がそれぞれの馬とともにいた。
「カレン様はこちらの鹿毛にお乗りください。ダヴィネスの地形をよく知っているので安心です」
ネイサンが指示すると、馬丁が1頭の美しい馬を引いてきた。
すでに女性用の鞍が着けられたその鹿毛は、艶々しい毛並みと滑らかな曲線が美しい牝馬だ。
落ち着いた品のある顔をしている。
馬に触れるのはどれくらいぶりだろう。
カレンはためらいなく近寄り、タラッサと名付けられた牝馬に挨拶をする。
「初めましてタラッサ。カレンよ。今日はよろしくね」
鼻上や首筋を優しく撫でると、タラッサはブルルッと鼻を鳴らして嬉しそうにカレンを見つめた。
ジェラルドはその様子をじっと見つめる。
ふと見ると、ジェラルドの隣にいたジェラルドの愛馬である青毛のスヴァジルが、カレンに近寄り、鼻面をカレンの背中に擦り寄せている。
…珍しい。
ジェラルドは驚いた。
スヴァジルはいくつもの戦場を共にした骨太の軍馬で、プライドも高く、ジェラルド以外の人間には滅多に懐かない。
そのスヴァジルが、カレンには甘えている。
「あれ?あなたはジェラルド様の…スヴァジル…よね。ご主人様に似て立派ね、ふふ、いい子」
カレンは前と後ろを馬に挟まれ、一度に両手でそれぞれを撫でている。
その顔は満足そうで、幸せそのものだ。
「さすが、すごいですね、カレン様」
様子を見ていたフリードが横から呟く。
ジェラルドは黙って頷いた。
馬から好かれる者はいるが、ここまで瞬時に馬の心を掴む者はそういない。
リーダー馬のスヴァジルに影響され、フリードやアイザックの馬も、わらわらとカレンに近づこうとする。
「…おいおい、お姫様、求心力すごすぎない?」
アイザックが馬達の様子に呆れる。
これではいつまで経っても出発できない。
ジェラルドはやれやれ、とひとつため息を吐いた。
「スヴァジル、いい加減にするんだ」
スヴァジルは耳をピクリとさせると、素直に主に従い、惜しそうにカレンから離れた。
カレンは少し残念そうだ。
…なんというか、今までになく感情を露にするカレンから目が離せない。
馬相手だからか…?
考えても仕方ない。
「失礼」
ジェラルドはカレンの騎乗のため、細い腰に手を充てた。
ふわりと持ち上げられたカレンは危なげなくタラッサに乗った。
「大丈夫か?」
「はい」
答えたカレンは横乗りの姿勢を保った。
…実のところ、カレンは横乗りではなく、男性と同様に跨がっての騎乗で乗馬したかった。ストラトフォードの領地では、特製の乗馬服で男顔負けの乗馬をしていたが、さすがにここでは憚られる。
でもいつかは…
そんなことを考えているうちに、ジェラルド達も騎乗し、出発することになった。
ジェラルドが少し前を、カレンがそれに続き、後方をフリード、アイザック、ネイサンの3人が護衛する形だ。
馬場を横目に城門をくぐると、一気に開けた平原へ出た。
ジェラルドは少しスピードを上げた。
カレンもそれに倣う。
ジェラルドは、それとなくカレンを観察するにつけ、乗馬の腕前に感心した。
騎士と比べても全く遜色ない。それどころか、賢い馬を選んだとはいえ、即座に馬の癖を見抜き、的確な判断で走らせている。
しかも横乗りの状態ということに舌を巻く。
…これは、話に違わず、ということか。
「姫様、大した乗り手だな」
「まったくです」
「すぐにでも騎士になれそうですねー」
ネイサンの言葉に、フリードとアイザックが鋭く視線を投げる。
「…! 失礼しました!」
ネイサンの発言はその通りなのだが、カレンには正しくその役割を担ってもらわねばならない。
「でも、お二人、お似合いでいらっしゃいますね…」
ネイサンがしみじみと漏らす。
それは…その通りだった。
平原を走り、木立を抜け、木漏れ日の差す森を駆ける。
ダヴィネスの広大な風景に心を奪われる。
カレンはジェラルドの様子をチラリと見る。
人馬一体…とはたぶんこういうことを言うのだろう。
とにかく無駄がない。馬と余程の信頼関係がないと、ここまでにはならない。
“乗る”とか“乗られる”という次元を超えている。
カレンはこのような乗馬を初めて見た。
そして…その精悍で端正な横顔。
明るい日差しを浴びるその横顔が、なんだか眩しい。
少し長めのダークブロンドが風になびいている。
今日の乗馬服はカレンに合わせくれたのだろうか、軍服とはまた違い颯爽と紳士的な雰囲気だ。
カレンは乗馬を楽しんでいるが、ジェラルドのことも気になり心臓がうるさい。
森を抜けた先に小さな泉があり、休憩を兼ねて少し馬を休ませた。
相変わらず馬達がカレンの側へやって来て、甘えたがる。
カレンはたまらず嬉しくて、ジェラルドにも微笑みかける。
その屈託のない微笑みは、ジェラルドの心を捕らえるのに十分だった。
「ジェラルド様、帰りは勝負しませんか?」
カレンはいたずらっぽく、挑戦的な顔でジェラルドに言った。
「よかろう。で、何を賭ける?」
そうですね…
「…勝ったら考えます!」
言うとカレンは、ハッと声掛けして、タラッサの鐙に力を込めた。
…まいったな。
「お前達、遅れるな!」
3人への声掛けとともに、ジェラルドも負けじとスヴァジルを走らせた。
3人も慌てて馬を出す。
カレンは本気で勝てるとは思っていなかったが、何故だか突然、ジェラルドと勝負したくなったのだ。
馬達の蹄の力強い音が耳に心地よく、ダヴィネスの風景も新鮮で素晴らしい。
カレンは久しぶりの乗馬を満喫した。
…勝負の結果は…ジェラルドがカレンに勝たせた形だ。
「で、カレン、どうする?」
カレンをタラッサから降ろしながら、ジェラルドが聞いてきた。
勝たせてもらったのは分かっている。
我ながら辺境伯閣下に勝負を挑むなんて、開放感があったとはいえ大胆なことをしたと、カレンは少しばかり反省した。
「えーっと、勝たせていただいたので…」
「しかし勝負は勝負だ」
訳のわからない理屈だが、望みを言ってもいいらしい。
ジェラルドは、カレンが何を言うのか興味があり勝たせた節もある。
カレンはこほん、とひとつ咳払いをした。
「では、申し訳ありません。お言葉に甘えて…」
-自由に乗馬ができるご許可が欲しいです-
実に単刀直入な望みだった。
「…いいだろう、許可する」
カレンの顔が一気に明るくなる。
「但し」
「あ、はい」
「城内の馬場はいつでも一人で構わないが、城外へは必ずネイサンを伴ってもらいたい。これは譲れない」
「わかりました」
「あと…」
「?」
「…また私と共に遠乗りを」
ジェラルドの瞳が揺らめく。
カレンの心臓が跳ねる。
「もちろんです…ありがとうございます、ジェラルド様」
カレンは丁寧に礼を取り、迎えに来たニコルを伴って自室へと帰った。
ジェラルドはその後ろ姿を見つめ続けた。