49. 気の早い“重い”問題(下)
キュリオスは妊娠してるからストラトフォードの領地までの長距離は走らせたくない。オーランドはここの子だし…当然馬車は使えない。
辻馬車を乗り継いでいったん王都まで出て、ストラトフォードのタウンハウス…あっという間に追いつかれるわね…
思いきって隣国の姉の所とか?
カレンはすでに逃亡を画策していた。
荒唐無稽だが、カレンは本気だ。
ダヴィネス城の広い図書室。
南から日の当たる閲覧机で、地図を広げる。
大きな期待を裏切る前に小さな期待を裏切る…馬鹿馬鹿しいとも思えるが、まだ婚約者の身なのだ。なんとでも言い訳はつく。
と、自分に言い聞かせる。
ジェラルド様は…がっかりするわね。
深緑の瞳を思い浮かべる。
揺らめく瞳、熱情を湛えた官能の瞳…カレンを包んで離さない瞳。
愛していることを忘れるな、といつもカレンの心配をしている。私だってジェラルド様を心から愛している。
離れて生きていけるのか、おそらく無理だろう。
…でも、それとこれとは別問題だわ。跡継ぎを生めない女と居ても、結局苦しむのはジェラルド様だもの。
もはやカレンの思考は暴走していた。
とにかく姉に鳩を飛ばそう。
図書室の文官に地図を借りることを告げ、自室へと急ぐ。
「何かよいご本がありましたか?」
待っていたニコルは、いつも通りだ。
カレンが手にした地図の入った筒を不思議そうに見ている。
…この子はここでも十分にやっていけるだろう。多少風当たりは強くなるだろうが、それはハーパーになんとかしてもらおう。
後ろからついてくる護衛のハーパーをちらりと見る。
「ニコル、鳩を飛ばすから…」
カレンは言いながら自ら扉を開けた。
ガチャリ
「!」
自室へ戻ると、カレンの書斎机の椅子にジェラルドが腰掛けている。
いつから居たのだろう、カレンとニコルが入ると、首をこちらに向けてきた。次いでカレンの持つ筒へと目線を下げた。
なんとなく決まりが悪い。
あまり目立たないように、そっと後ろへ隠す。
「ジ、ジェラルド様、お仕事は?」
まだ昼前だ。
いつもなら絶対に会わない時間帯だ。
「…仕事より重要だから」
そう言うと、目でニコルに人払いを促した。
少し声が低い。
ニコルは「失礼いたします」と言い、さっさと部屋を出る。
「座ってカレン」
ジェラルドはそう言うと自分も立ち上がり、ソファへ座る。
カレンは向かい合わせの一人掛けのソファへ座った。地図の筒は、座りながら背中側へ置いた。
「…それは地図?」
「…はい」
ジェラルドは短くため息を吐いた。
緊張の膜が張っている。
「どこに行く?カレン」
怒ってはいないが、明らかに機嫌は良くない。
「…隣国の…姉の所へ…」
カレンは小さな声で正直に答えた。
聞いたとたん、ジェラルドは手で額を押さえ、フリードの言ったとおりだ…と呟く。
「私を捨てて?」
そのまま深緑の瞳をカレンに合わせた。
「…」
カレンは言葉もない。
これから姉に鳩を飛ばすつもりだったのだ。
何も言わず、目も合わさないカレンをしばらく見ると、ジェラルドはいきなり立ち上がりカレンの手を取った。
「おいでカレン」
手を取られ、導かれるままカレンは立ち上がった。
そのまま部屋を出ると、ずんずんと廊下を歩き城塞の方へと進む。手は繋いだままだ。
すれ違う使用人や騎士達は、一旦止まり礼をしたり敬礼をするが、エスコートではなく手を繋ぎ、ぐんぐんと歩く領主とその婚約者の珍しい姿に、その目は「あれ?」と言っている。
回廊を渡り、鍛練場を抜け、兵舎まで来た。
鍛練場では木剣を奮う者達もおり、また昼前の兵舎は騎士や兵士の姿が多い。
ジェラルドの姿を認めると、皆驚いたように敬礼する。次いで手を引かれるカレンを見てさらに驚く。
ジェラルドは都度「ご苦労」と言いながら通り過ぎる。
「あ、あのジェラルド様」
カレンは、堪らず声を掛けた。
ジェラルドは歩きながら振り向くと、にこりとカレンに微笑んだ。
…キラースマイルだ。
カレンはドキリとする。
その顔に緊張感はなく、カレンは少しだけホッとする。
「ここからが近いから」と言い、兵舎の食堂を通る。カレンは初めて足を踏み入れた。
早めの昼食を取る騎士や兵士が、ジェラルドの姿を認めると一斉に起立する。そしてカレンの姿にザワザワと色めき立った。
「閣下!」「ジェラルド様」という声に混じり「レディ?」とザワザワが止まらない。
カレンの姿を初めて間近で見る者も多く、カレンは皆の視線が痛い。
「皆、気にするな」と、ジェラルドは構わず歩を進める。
恥ずかしいのだけれど…カレンは手を繋がれたまま、俯きがちに進む。
ざわめく食堂を突っ切ると、開けた屋外へと出た。
雪は避けてある。
目の前には石造りの壁があり、木の扉がある。扉の前には見張りらしき兵士がいた。
ふいにジェラルドが上を見たので、連られてカレンも上を見る。
「あ!」
これは尖塔だ。
カレンの部屋からも見える尖塔。石壁は尖塔の下の部分だ。近くで見るとその巨大さと遥か上まで続く高さに圧倒される。
「閣下!」
見張りの兵士は敬礼する。
「少し待っていて」
ジェラルドはカレンに告げると、兵士の側へ寄り話をした。兵士の視線がカレンへと注がれる。
「承知しました!」
兵士はジェラルドに返すと、木の扉を開けた。
「カレン、上まで登るぞ」
ジェラルドは再びカレンの手を取ると、尖塔の中へ入った。
…永遠に続くかと思われる螺旋階段だ。
カレンは足には自信があったが、途中息が上がり、休憩した。
「登れる?背負おうか?」
というジェラルドの心配からの気遣いは断った。
自室からも見える尖塔には登ってみたかったので、自分の足で頑張る。
ジェラルドも多少息は上がっているが、カレンほどではない。
手を引かれ、一歩ずつ登る。
おそらくカレンに合わせてゆっくりと登ってくれている。度々振り向き「あと少しだ」とか「頑張れ」と声を掛けてくれた。
広い背中、力強い歩み…カレンと繋がる温かな大きな手。
私はこの手を本当に捨てる気だったのか…
思うところはあるが、カレンは集中して一歩ずつ階段を登った。
「さあ、着いたぞ」
カレンはすでに疲労困憊だ。肩で息をしている。
目の前にはまた扉があり、ジェラルドが手を掛けるとギィと音を立てて外へ開いた。
「あ、閣下!」
「ご苦労、少し邪魔をする」
今日の見張り番の若い兵士は、ジェラルドとカレンを見ると、敬礼の後、螺旋階段へと消えた。
「……!……」
360度の眺望の広がる空間は、大人が10人程は立てるだろうか、想像よりも広い。
カレンはジェラルドと手を繋いだまま、石造りの手すりまで歩み寄る。
今日はよい天気だ。
尖塔の屋上からは、ダヴィネス城、城塞街、雪に覆われた平原…続く森、その先の先まで見渡せた。後ろには目前に切り立った雪の山肌が迫る。
二人はしばらく黙ったまま、景色を見入った。
風の音だけが耳を打つ。
螺旋階段を登り少し汗ばんだからか、カレンは急に寒くなり首を竦めた。
察したジェラルドがカレンを横から抱きすくめる。
いつものムスクウッディの香りに包まれる。
「…まだ子供の頃、私もここで見張りに立ったことがある」
ジェラルドはふいに話す。
「真夜中には闇の中に浮かんでいるようで恐ろしかったが…夜空の星が降るように美しかった」
カレンが見上げると、ジェラルドは遠い過去に思いを馳せるように、遠くを見ていた。
「見張りの職務を忘れて寝転んで星を見ていたな」
カレンを見下ろすと、いたずらっぽく笑った。
片手でカレンの頬を包み、顔を上に向かせる。
「カレン…跡継ぎは、どうでもいいんだ」
「?!」
何を言っているの?
という表情だったのだろう、ジェラルドがぷはっと笑う。
「笑わないでください…あなたがよくても、ダヴィネスの皆が許しません」
カレンが切実に言うと、ジェラルドは真面目な顔になり、続ける。
「聞いてカレン。辺境伯は完全な世襲制ではない」
「え?」
「私の祖先が数代前から継いではいるが、その前はいろいろだったと聞いている」
それ程安定しない地域だったということだな。
と、カレンの頬を親指で撫でる。
「今はたまたまダヴィネス家が続いているだけだ」
しかしカレンは納得がいかない。
「でも、たまたまでも、私はそのためにここへ来たので…私の役割の最も大きなものです」
「違うカレン、そうではない。あなたは自分の価値をわかっていない」
ジェラルドは真剣な眼差しをカレンに向けた。
「人生は長いようで短い。あなたがあなたの人生を私と共に…この地に留まっていてくれることがすべてなんだ」
カレンは、頬を覆うジェラルドの手を両手で持った。
ひとつずつ、ハッキリさせておきたい。
「…もし、私が男児を生まなかったら?女児しか生まれなかったら?」
ズバリと聞く。泣きそうになるのをグッとこらえた。
「ここには優秀な部下が何人もいる。私の祖先もそうやって辺境伯となった」
ジェラルドは、血縁へのこだわりは皆無だ。
「では、私が…子供を生まなかったら?」
「カレン、」
「私はあなたとともに人生を歩めますか?ジェラルド、あなたは苦しまないと言い切れる?」
カレンの瞳が不安と疑いの色で揺れている。
ジェラルドはカレンの思いの深さを知り、思わず強く抱き締めた。
「…すまないカレン、あなたを不安にさせた罪は重い…だがあなたが側にいてくれる限り、私が苦しむことはない」
これは絶対だ。
ジェラルドは強く言い切る。
カレンはその言葉を噛みしめた。
…信じよう
私の居場所はこの人の側なのだから。
ジェラルドの背に、ゆっくりと手を回す。
「…私、あなたに愛されてばかりで…ごめんなさい」
ジェラルドは黙って、カレンを抱き締める腕の力を強めた。
しばらくそうしていたが、ふいにカレンがくしゃみをした。
地上と違い、塔の上は風が強い。
「! 風邪を引く前に戻ろう」
ジェラルドが慌ててカレンの手を引き、元の螺旋階段へと戻ろうとした。
カレンは止まったままだ。
「? カレン?」
ジェラルドは振り向く。
「ジェラルド様、私、この景色を忘れません」
大きなあなたの手で、私の手を引き続けてくれたことも。
ジェラルドは、ライトブルーの潤んだ瞳に吸い込まれるように、カレンの口を塞いだ。
カレンはまたいつかここで、星降る夜空をジェラルドと共に見たいと思った。
・
登ってきた螺旋階段を降り地上に戻ると、フリードとウォルターが並んで待っていた。
「お帰りなさい、ジェラルド、カレン様」
二人の手を繋ぐ姿を見て、フリードはホッとした顔だ。
「…ああ、戻った」
「…お世話をかけました…」
カレンは恥ずかしくて、下を向いている。
ウォルターはカレンのそんな姿を見て、ぼーっとしている。
ごほんっとフリードが咳払いし、ウォルターを小突く。
「…ツーハンデッドソード」と、フリードがボソリと呟き、ウォルターはハッと我に返った。
「さあ、城に帰ろう」
ジェラルドは再びカレンの手を引き、来た道の兵舎の食堂ではなく外から帰ろうとした。
「あ、あの…」
カレンは、ジェラルドにあることを願い出た。
それは、来た時に通った兵舎の食堂で昼食を取りたいという内容だった。
とてもいい匂いがしていて、興味を惹かれたのだ。
「それは構わないが…」
兵士の食事は栄養とスタミナを考えたボリュームのあるもので、普段カレンの口にする食事とは全く異なる。
しかも兵舎の食堂となると…来たときの様子を思い出しジェラルドはしばし考える。
「ジェラルド、せっかくですしいいじゃないですか。今はさほど混んでませんし」
昼食時間のピークは過ぎていた。フリードの勧めもあり、カレンとジェラルド、フリードとウォルターはそのまま兵舎で昼食を取ることにした。
先にフリードとウォルターが食堂に行き、カレンとジェラルドがここで食事をする旨を厨房やその場にいる兵士達に伝え、カレン達の席を準備した。
厨房には緊張が走り、兵士達は騒ぐなというお達しはそっちのけでザワザワと落ち着きがない。
広い食堂には、長テーブルと長椅子が整然と並ぶ。
カレンとジェラルドは長テーブルのひとつを陣取った。ジェラルドと背中合わせでフリード達も座る。
カレンは何もかもが珍しく、キョロキョロと辺りを見回し興味津々だ。
逆に、兵士達は雲の上の存在のカレン…さながら殺風景な食堂に咲く一輪のバラのごとく…から目を離すのが難しい。
ジェラルドは兵士達の好奇な視線がカレンに注がれるのは許しがたいが、ここはグッと我慢している。目の前に楽しそうなカレンが居ることが大きい。
ほどなくして、カチカチに緊張したガタイの大きな料理長が自らランチを運んできた。
カレンの分は、あらかじめ量を半分にしてもらったが、それでもかなり多い。
今日のランチメニューは…
チキンレッグのビネガーソース
ポテトパイ
エンドウ豆と野菜のスープ
白パン
だった。
「ど、どうぞ、レディ」
「ありがとう」
カレンの笑顔に料理長は真っ赤になりながらも嬉しそうだ。
料理長は少し足を引き摺っている。
「料理長は元砲台長で、最前線で戦っていた」
ジェラルドがカレンに説明する。
カレンは神妙な顔で聞く。
兵舎の仕事は基本騎士や兵士の持ち回りだが、常駐の専門職は負傷した元兵士や退役軍人が担っているとのことだ。
カレンも城塞街で働く元軍人の店や職人のことは知っている。
すべて、カレンの知るべきことだ。
ふと、ジェラルドがチキンレッグを手掴みで食べていることに気づく。
普段、カレンとの食事の時はその内容にそぐう紳士然とした美しい作法だ。
どうやら兵舎では違うらしい…
カレンはそんなジェラルドの別の顔を見れたことも嬉しい。
真似をして、カレンも手掴みでチキンを頬張る。
ジェラルドは少し驚いたが、モグモグと口を動かすカレンを愛おしそうに眺めた。
「口に合う?カレン」
「はい、とっても美味しいです」
お世辞ではなく本当に美味しい。
特にチキンレッグはソースが絶妙と言えた。
カレンはストラトフォードの領地で使用人達の食事をつまみ食いしたこともあるし、祭の屋台料理も食べたことがある。濃い味付けは懐かしさも感じた。
ジェラルドはカレンの口の横にチキンのソースが付いているのに気づくと、自らのナフキンでそれを拭う。
「…レディが俺達と同じ物食べてる…」「尊い…」「目が眩みそうだ」「閣下優しいなぁ」
などと、遠巻きに見る兵士達のザワザワが止まらない。
ドン!!
机を拳で叩いたのはフリードだ。
!!!!
兵士達は一斉に大人しくなった。
「あれ?姫様ここでランチ?めっずらしー」
と、何も知らないアイザックと数名の騎士達が遅めの昼食を取りに現れた。
「ザック、余計なこと言わずにさっさと食べてください」
フリードは冷たく言い放った。
・
“チキンレッグの兵舎風”
以降、カレンのお気に入りとなった、ダヴィネス城のメニューだ。
約束事がひとつ
~それは必ず手掴みで食べるべし~
・
「ウォルター、隣国へのルートをすべて洗い出せ」
カレンを部屋まで送り、執務室へ戻るなりジェラルドがウォルターに命じた。
「はっ」
ウォルターは早速仕事にかかる。
「…やはり、そうでしたか」
フリードは訳知り顔の含み笑いだ。
「鳩を飛ばす直前だった。危なかった」
カレンの逃走ルートを押さえたジェラルドの顔は辺境伯のそれで、抜かりなく網を張る様に、ウォルターは隣国へのルートを提出したことを心の中で少し悔やむ。
「慣れろ」
ウォルターの顔を見たフリードは一言、鋭く言い放ったのだった。




