気の早い“重い”問題(上)
「まさか、嘘でしょう???」
ダヴィネス城の馬場で、カレンは唖然とした。
根雪も深いダヴィネスの冬、ストラトフォードから来た愛馬のキュリオスを馬場で少し走らせ、違和感を感じた。
下馬してキュリオスの首筋を撫で、そのまま艶のある横腹へ手を伸ばす。
???
キュリオスの顔を見ると、いつもの優しい目を向けてくる。
「…キュリオス?」
カレンは更に、慎重に下腹あたりに手を伸ばした。
嘘でしょう?妊娠してるわ…!
すぐに馬丁頭を呼び、確認する。
馬丁頭もキュリオスの腹を撫で、信じられないという顔をした。
「…レディ、わしも経験ありませんが…確かにキュリオスは身籠っとります」
通常、牝馬の発情期は春から夏にかけてだ。今は冬。普通ならば考えられなかった。
ふと視線を感じた。
馬場には数頭の牡馬も出ている。
視線の主は…黒い巨体のスヴァジルだ。じっとりとキュリオスとカレンを見ている。
「!」
馬丁頭も牡馬達の方へ目をやり「スヴァジルめ、やりおるな…」となぜか少し誇らしげなのがカレンは気にくわない。
油断も隙もあったもんじゃないわ…!
カレンは悶々とした気持ちで馬場を後にする。
・
今、ダヴィネス城には、出産での里帰り中のベアトリスが滞在している。
2週間ほど前にベアトリスは無事出産を終えた。
母子ともに健康で、生まれたのは玉のような男児だった。
ダヴィネス城での赤子の誕生は実にベアトリス以来で、そのベアトリスの初産とあって、使用人も含め皆喜びに包まれた。
カレンも赤ちゃんを抱かせてもらい、その小ささ可愛らしさにノックアウトされた。兄の子供の甥や姪も抱いたことはあるが、それとはまた違う感激だった。
カレンの贈った特製のレースがあしらわれたおくるみに包まれた男児は、ベアトリスと同じ瞳と髪色で面差しも彼女に似ている。そのダークブロンドはジェラルドとも通じていた。
ジェラルドも妹の無事出産と甥の誕生に顔を綻ばせた。
ジェラルドが赤子を抱く姿は堂に入っており、カレンは不思議な気持ちでその姿を眺めた。
ベアトリスの出産から数日後のある日の午後、カレンは今夜のディナーのメニューについて料理長のオズワルドに言い忘れたことがあり、直接伝えたくてキッチンまで降りた。
ダヴィネス城の厨房は広く清潔で、いつ行っても複数の料理人やキッチンメイドがそつなく働いている。
オズワルドと相談をしている時、キッチメイドのお喋りが、ふとカレンの耳に入った。
「男の子がお生まれで、モイエ家も安泰ね」
聞いた時は、そうね、とカレンは気にも止めなかった。
オズワルドとの話が終わり、厨房から自室へ帰る階段を昇る。
地下から一階へ、一階から二階へ…
階段を一歩ずつ昇るにつれ、なぜか先程のキッチメイドの言葉が頭に甦ってくる。
ー 男の子がお生まれで、モイエ家も安泰ね ー
カレンは意図せず、心に生まれた針の先ほどの冷たさを感じた。
無意識に階段を昇る足を止める。
「お嬢様?」
後ろから着いてきていたニコルが不思議そうに声かける。
「…! なんでもないわ」
また階段を昇る。
そう言えば、私…
カレンはベアトリスの出産直後、男児誕生の報告を受けた時、ホッとしたことを思い出した。
初産にしては安産で母子ともに健康だったことに対する安堵。
もうひとつの安堵は、カレンも気づかなかったが、男児誕生の安堵だ。
くしくも、キッチメイドの言葉でそれに気づいた。
“跡継ぎの男児を生むこと”
これは継承貴族に嫁入りした者なら逃れられない重圧だ。
カレンも今の今まで当たり前と思っていた。…ただ、それは他人事に過ぎなかった。
愚かにも、現実問題として自分の身に置き換えたことはなかったのだ。ジェラルドとベッドをともにしているにも関わらず。
単純に、ジェラルドの子供ができたら可愛いだろうな、程度の思いだった。
昨年の兄嫁の出産から続く、近しい者達の出産(春にはアリシア、夏の終わりにはレディ・パメラ)は、カレンに現実を突きつける。
特に今回のベアトリスの男児の誕生は、カレンの頭上に“跡継ぎを生む”重責をずっしりと実感させた。
カレンは自室に戻ると、書斎机の椅子に座り腕組みをした。
…おそらく、ジェラルドはカレンが男児を生もうが女児を生もうが喜ぶだろう。しかし、もし男児を生まなかった場合、周りは黙ってはいないことは予想するに容易い。
“辺境伯閣下の跡継ぎ問題”
カレンは、うーんと唸ってしまった。
考えを巡らせる。
最近は正当な手続きを踏めば女性でも爵位を継げる、という話を聞いたことがある。しかし軍を率いるこの辺境伯に、それは当てはまらない。
もしカレンが男児を生まなければ…
1、生まれた女児の婿養子が継ぐ
2、縁戚の養子を取り、継がせる
3、別の女性に跡継ぎを生ませる
近頃あまり聞かないが、跡継ぎを生むことができなかった者を離縁する、といったことも悲しいかな、現実にはまだある。
…すべてはジェラルドの考え次第、という気がする。
3や離縁はあり得るのだろうか。
わからない。
カレンは一気に暗い気持ちになった。
子供は授かり物なのだ。考えても仕方ないことなのはわかっている。
わかってはいるが…
カレンは自分の覚悟の甘さを感じていた。
やっぱり…まだまだなのよね…私。
ふぅとため息を吐く。
ジェラルドと子供の話をしたことはない。ベアトリスの赤ちゃんを抱いた時でさえ、そんな話はしなかった。
カレンは、ふとある考えを思い付く。
子供を…男児を生むだ生まないだと考えるから、跡継ぎ問題にたどり着く。ならばいっそのこと“子供ができない”環境ならば、当面は跡継ぎ問題から逃れられるのではなかろうか。
無駄な悪あがきかも知れないが、ベアトリスの赤ちゃんを見るたびに、カレンの中に芽生えてしまった「生じるか生じないか不明の跡継ぎ問題」に頭を悩ますことはなくなるはずだ。
タイミングよく、今は月の物の都合でジェラルドとは抱き合って眠るだけだ。これを長引かせたり、体調不良でのらりくらりとかわすことはできないだろうか…
カレンは本気で考える。
到底ジェラルドが了承するとも思えないが、それでも今のカレンにとっては至極重要なことのように思えた。
「お嬢様、今日はキュリオスに乗られるのでは?」
考え込むカレンに、ニコルが話し掛ける。
あ!そうだわ
余りに思考にはまりすぎて、あやうく忘れるところだった。
一旦思考を手放し、慌てて特製の乗馬服に着替えて馬場へ向かった。
・
馬場から帰る道すがら、カレンはキュリオスの妊娠に驚き以上にショックを受けていた。
なんでキュリオスまで…?
本来おめでたいことなのに、喜べない自分にもショックだ。
そのカレンにさらに追い討ちをかけたのは、各部屋を掃除するハウスメイド達のたわいないお喋りだった。
「ジェラルド様がお生まれになった時は、ダヴィネス城に旗が掲げられたんだよ」
「えー!」
「そりゃそうさ、未来の辺境伯閣下の誕生だよ、ダヴィネス中の教会が鐘を鳴らしてさ、お祭り騒ぎだったよ」
「すごーい!」
「…」
年嵩のいったメイドと若いメイド達だった。
カレンは足早に通り過ぎた。
…旗…鐘…お祭り騒ぎ…
つまり裏を返せば、期待に応えなければダヴィネス中をがっかりさせるということで…
カレンは陰鬱な面持ちで自室へ戻った。
・
「キュリオスの妊娠のことを聞いた」
ディナーの席でジェラルドが笑みを浮かべて話す。
「…はい。驚きました」
ジェラルドはカレンの予想外の反応に困惑した。
明らかに喜んではいない。それどころか沈んだ面持ちだ。
「カレン、嬉しくない?」
「いえ…あの、信じられなくて」
ジェラルドはふむ、と考える。
「私は相性の良い馬同士だと、ごく稀にある、と聞いたことがある」
「相性…」
「スヴァジルの一目惚れかも知れない」
ジェラルドは意味ありげに、面白そうに話す。
馬同士の相性は確かにあるかも知れない。しかも、スヴァジルほどの馬はそういない。キュリオスも心を許したのだろうか…
カレンはそんなことをぼんやりと考える。
「カレン?」
ジェラルドはいつもと調子の違うカレンが心配になり、指をカレンの頬へなぞらせた。
「!」
カレンの肩が大げさにピクリと反応する。
「?!」
その反応にジェラルドも驚く。
数秒、二人は黙って目を合わせた。
先に目を逸らしたのはカレンだった。
「申し訳ありません、ジェラルド様、少し気分が優れず…失礼してもよろしいですか?」
カレンは素早くナフキンを口に充てると席を立とうとした。
「カレン?」
ジェラルドは怪訝な顔だ。
ジェラルドには答えず、また席を立つ許可も得ず、カレンは自室へと去った。
ジェラルドは一旦立ち上がったが、訳がわからぬまま、茫然とカレンを見送った。
ジェラルドはとりあえずそのまま席に座り、考える。
ディナーでの話の内容を思い返しても、カレンが何か引っ掛かることは…
キュリオスか?
確かに妊娠を喜んではいなかった。
…スヴァジルが相手だから?
ジェラルドは首を振る。
いやそれはないだろう。スヴァジルは名馬だ。
通常の繁殖時期ではないことには驚いているようだったが…
体調うんぬんは、明らかに席を立つための方便だ。
「…」
ジェラルドは再び立ち上がるとカレンの部屋へと向かった。
「お嬢様は体調が優れず、今日はこのままお休みになられるとのことです」
鍵を掛けた扉の向こうから、ニコルが応える。
「完全拒否」だった。
「鍵をお持ちしますか?」
モリスが心配そうに聞いてくる。
「…いや」
鍵を開けることも可能だが、ジェラルドはそれはしなかった。
カレンがここまでの拒絶を見せるのは初めてで、ジェラルドは正直なところ途方に暮れた。
何が原因かまったくわからない。
とりあえず明日、顔を合わせた時に聞くことにした。
だが翌日、カレンは朝食に現れなかった。
聞くと、自室ですでに朝食を済ませた後、ベアトリスの部屋へ行っているらしい。
悶々と一夜を明かしたジェラルドは、急ぎ妹の部屋へ行く。
「あらお兄様、おはようございます」
ベアトリスはソファで朝食を取っている。
カレンは揺りかごで眠る甥を見ていたらしく、ジェラルドが現れると立ち上がった。
顔色は悪くない。
ただ、表情は芳しくない。
「…ああ、おはよう」
「今ね、カレン様と話してたの。この子の顔、お兄様に似てるわねって」
「…そうか」
カレンは再び座り、甥の様子を見守っている。
ジェラルドも揺りかごの側へ行く。
「カレン様がわかるみたいで、ご機嫌なのよ」
そういう所もお兄様に似たのかしらね、とベアトリスは屈託なく笑う。
甥は、カレンの長い人差し指を握っている。
カレンは甥を見つめるが、その表情からは何も読み取れない。
「…お二人も、早く子供が欲しくなったかしら?」
うふふ、とベアトリスはお茶を飲んだ。
カレンは、揺りかごの側に立つジェラルドを見上げた。
その瞳はいつもと変わらない澄んだライトブルーだが、どこかジェラルドを責めるようで、笑みはない。
二人は言葉なく、見つめ合う。
と、ノックの音とウォルターの「ジェラルド様、朝儀の時間です」の声とともに、沈黙は破られた。
ジェラルドはそのまま部屋を出た。
「…カレン様、兄と何かありまして?」
去り際にカレンにキスもしない兄を訝しんで、ベアトリスが聞く。
「いいえベアトリス様、なんでもないのよ」
産後間もないベアトリスに心配を掛けてはいけない。
カレンがにっこり笑うと、ベアトリスはほっとした顔になった。
・
「おはようございます、ジェラルド」
ジェラルドの執務室には、数人の部下とともにフリードも居た。
「来ていたのか、フリード」
フリードはひとつきの休みの間は一切顔を見せず、その後、都合がつけばダヴィネス城に登城していた。主に副官ウォルターの仕事のチェックのためだ。
パメラとの結婚の約束をきっちり取り付け、来月には挙式の予定だ。さすがの切れ者は予想以上に仕事が早かった。
パメラも安定期に入り、今はパメラの邸から登城している。仕事の落ち着いた時期であることから、ジェラルドはフリードの自由出勤を許していた。
「…以上。各自持ち場に戻れ」
「はっ」
朝儀を終え、各自の仕事を始める。
「…わからん」
ジェラルドは書類をパラパラと捲りながら呟く。
「…は?」
ウォルターは何が?という顔だ。
書類に手落ちがあったか。
フリードは焦るウォルターを見やり、無言で違う違うと首を横に振った。
「…ジェラルド、何かありましたか」
フリードは書類をまとめながらなに食わぬ顔で聞く。
「カレンが…」
と言い掛け、ちらりとウォルターを見る。
フリードはやっぱり、という顔だ。
「私は外しましょうか」
ウォルターが気遣う。
「いや、居てくれ」
ジェラルドはウォルターの仕事振りを認めていた。今やフリードと比べても遜色ない働きだ。だが、側近の仕事は主の公私に亘るのだ。話してもいいと判断した。
「それで、カレン様がどうされましたか」
フリードが問う。
「何を考えているのか、さっぱりわからない」
ジェラルドは髪をかき上げ、困惑した顔だ。
「話は聞きましたか」
「いや、とりつく島がない」
「…珍しいですね、」
フリードは腕組みをした。
「我ら男にはわかりませんが、女性は突如不機嫌になることがあります。だいたいはたわいもないことが原因だったりするんですが…しかしカレン様に限っては…」
と不思議そうだ。
二人の様子を、ウォルターは摩訶不思議な気持ちで見ていた。
…これはまるで恋愛相談ではないか。しかも領主のそれだ。側近の仕事はこんなことまで含まれるのか?と内心混乱していた。
しかし、フリードの言うことは恋愛経験の乏しいウォルターにも納得できた。レディ・カレンは別次元の存在だ。ちまたの女性とはワケが違うだろう。
「カレン様の身の回りで、最近何か変わったことは?」
フリードが聞く。
「…いや、特には」
ジェラルドが精悍な顎に手をやり、思案する。
「…ベアトリス様が里帰りでご出産を」
突如、ウォルターが口を開く。客観的なことならばウォルターにもわかる。
「ふむ…あとは?」
フリードはウォルターの方を見る。
「昨日、カレン様のキュリオスの妊娠が明らかになりました」
なるほど…カレン様の馬好きは周知の事実だ。しかもこの時期の馬の妊娠は珍しい。
「あ!」
「なんだ?」
ウォルターは突然思い出したように声を上げた。
ウォルターは、昨日馬場から帰るカレンを見た。
ウォルターも廊下を歩いていたが、ある部屋の前でカレンは足を止めていた。
扉を開け放した部屋の中ではハウスメイド達が仕事をしながら喋っており、確か内容は…
ジェラルド様が生まれた時は、云々。旗がどうとか鐘がどうとか…お祭り騒ぎ?…ウォルターは何も思わなかったが、その後、レディは顔を曇らせて足早に去ったのを見た。レディのそんな顔を見たのは初めてだったので、よく覚えていた。
「それだ」
ウォルターの話を聞いたフリードは言い切った。
そしてジェラルドに向き直った。
「“貴族令嬢の重圧”ですよ、ジェラルド」
聞いたジェラルドは、まさかと思った。
今の今まで、カレンと子供について話したことはない。体を繋げているのでその可能性は十分にあるが、それはそれで何の問題もないはずだ。だが…
「跡継ぎのことか…」
ジェラルドは、ため息を吐く。
「これは逃れようのないことです…ですがジェラルド、あなたの考えをきちんとカレン様に話すべきです。でないとカレン様は…逃げるやも知れませんよ、すべてを捨てて」
なんせ驚異の行動力ですから、とフリードは続けた。
ジェラルドは天を仰ぎ、ウォルターは開いた口が塞がらなかった。