いざ、ダヴィネスへ
辺境へと立つまでの日々はあっという間に過ぎた。
とんぼ返りで領地へも赴き、使用人達への挨拶も済ませたが、領地での生活を愛したカレンにとって最も辛い別れとなった。
兄と一緒に王宮へも登城した。
両陛下には幼い頃から目をかけていただき、王女殿下の遊び相手をしていたこともあって、両陛下と王太子殿下、王女殿下への挨拶も済ませた。
途中、第二王子に遭遇しないかと内心ヒヤヒヤしたが、如才ない兄がそんな下手をするわけもなく、王都を去ることを惜しまれつつも穏やかな別れの場となった。
カレンは今、辺境への馬上の人となっている。
辺境の地、ダヴィネスへは馬車で約2週間の旅程だ。
長時間馬車に揺られることは初めてなので、カレンの体調を慮ってゆっくりとした日程で進む。
侯爵家の最上級の馬車なので乗り心地は良く、カレンは存外にも人生初の長旅を楽しんでいた。
胸の内の心配事は、いったん脇へ置くことにしたのだ。
カレンの運命は急速に動き出したが、あれこれ考えてもこの先どうなるかなどわからない。
今の自分にできることをしよう、と。
ただ、たまに深緑の瞳とその持ち主を思い出し、言い様のないやるせなさがよみがえることはある。
しかし自分のすべきこととは、いったん切り離すことにした。
辺境の地で、半年の婚約期間が設けられている。
通常、貴族の婚約期間は短くても1年だ。
半年は厳しい冬を越した先の春までの期間で、他とは全く異なる辺境に、カレンが馴染めるかどうか…つまり試用期間と言っていい。
なので、まだ具体的な結婚式の日取りは決まっていない。
努力はしよう。でなければ自分のために動いてくれた人々に申し訳が立たない。
しかし一方で、半年で馴染めなかったらそれはそれで仕方ないわよね、と思い至った。
ひょっとしてこっそりストラトフォードの領地に引っ込めるやも…などと思いついたのだ。
まったくの浅慮だが、今のカレンにはその逃げ道が一種の安定剤になっていた。
「お嬢様、街の灯りが見えます」
ストラトフォードの家から連れてきた侍女のニコルが、窓から外を見ている。
今日到着予定と聞いていたが、すでに夕暮れになった。
景色は切り立つ山々に囲まれ、山肌に夕焼けが映えている。話に聞く辺境の様相を呈してきた。
……!……
ニコルが促す景色の先に、城塞が見えた。
ーダヴィネス城ー堅牢にして壮麗。
もはや一国と言われる辺境の要。
近づくにつれ、その大きさと存在感に圧倒される。
夕暮れ時の街中を抜け、至る所に篝火が焚かれたダヴィネス城へと馬車は進む。
・
「どうぞ」
差し出された大きな手は、辺境伯閣下ジェラルド・ダヴィネスのものだった。
カレンは指輪を嵌めた左手を乗せ、下車した。
顔を上げると、篝火に照らされ、ほの暗く影を落とした精悍な顔とあのダークグリーンの瞳がある。篝火のせいだろう、瞳が少し揺らめいて見える。
「遠路よく来られた」
「ありがとう存じます」
どきりとしたがすぐに目を伏せ、令嬢らしく謝辞を述べた。
左手はそのまま辺境伯にエスコートされた形となった。
ふと顔を巡らすと、屈強な体躯の騎士達が、玄関までの両脇に整列している。
「わぁ…」
思わず声に出ていた。
これは…壮観だわ。
「皆あなたを歓迎している」
ジェラルドは口の端に笑みを浮かべた。
エスコートされるまま、ゆっくりと騎士達の道を歩み、大きく放たれた扉へと向かう。
扉の前の階段には、城の使用人達がずらりと並び、平伏の礼を取っている。
ずいぶんと人数が多いが、これでもまだ半数ほどだという。
やはり規模が違う。
側近、家令、執事、侍従長、侍女頭、軍の上層部といった、関わる機会の多いものから紹介されていく。
「お世話になります」
一度で顔と名前を覚えることは嗜みとして心得ているので、都度、声を掛ける。
玄関ホールに一歩足を踏み入れたカレンは、その荘厳な豪華さに驚いた。
吹き抜けの天井は高く、凝った装飾のマントルピースの巨大な暖炉が印象的だ。
圧倒的な重みと歴史を感じる。落ち着いた色合いのソファや机もどっしりとした作りのものが多く、木製の家具は磨き抜かれた輝きを放っている。
ストラトフォード侯爵家のタウンハウスや領地のカントリーハウスも家名に違わぬ豪華な作りだが、ここは次元が違う。
カレンは改めて別世界へと足を踏み入れた実感が湧く。
毛足の長い絨毯を歩き、2階へと案内される。
カレンの自室として通された部屋は、淡いラベンダーの色調で整えられた、どこか馴染みのある空間でホッとする。
カレンより一足先に届いていた荷物も、すべてクローゼットやチェストに収められ、部屋の主を待つばかりだった。
しかも全体的に、真新しい雰囲気を感じる。
「少し手を加えた」
キョロキョロと見回すカレンに、ジェラルドが説明を足す。
「そうなのですね…ありがとう存じます、閣下」
「…私のことは、ジェラルド、と。カレン」
急に顔を覗かれて、ドキリとする。
「…はい、承知しました…ジェラルド様」
ジェラルドは満足そうに微笑して頷く。
「夕食はここへ運ばせる。ゆっくり旅の疲れを癒してほしい」
と言うと、エスコートしていたカレンの左手に、触れないキスをして退出した。
「お嬢様、ひとまずお着替えを」
侍女のニコルが促す。
「そうね…お願いするわ」
カレンは旅装のまま、ふんわりとしたソファへ腰掛けた。
今日からここが私の家なのね…。
ふとカレンはさっきまでエスコートされていた左手へ目線を移した。
薬指には指輪が光っている。
辺境伯閣下、ジェラルド・ダヴィネス…。
大きくて温かな手だった。
・
ジェラルドはカレンの部屋から出ると、仕事のために執務室へ向かった。
扉の前に立つ護衛の兵士へ「ご苦労」と声を掛け、部屋へ入る。
「ジェラルド…! レディのお相手はもういいんですか?」
側近のフリードが驚いている。
「ああ、長旅で疲れているだろうし、あまり緊張させてもな」
と、執務机の椅子へ腰掛ける。
「…確かに。何もかも侯爵家とは違いますからね。でもさすがに立ち居振舞いは見事な淑女でいらっしゃいますね」
「…そうだな」
ジェラルドは机の上の書類を捲りながら答える。
フリードは、なんらいつもと変わらない反応のジェラルドを横目で見る。
…食事も一緒に取らないとは…珍しく慎重だ。
幼い頃からジェラルドの傍に居るフリードは、ここ数週間のジェラルドの様子を思い返していた。
王都から帰ってからは、ウィリス卿と連携しながら、レディの部屋の改装が急ピッチで進められ、采配を奮っていた。
レディをお迎えする準備はつつがなく終え、あとはレディ本人を迎えるばかりとなっていた。
…普段となんら変わらない様子ではあるが、レディにまつわる事柄を話す時は、どことなく雰囲気が明るい。
これはいつも側にいるフリードしかわからない変化だったかも知れない。
ジェラルドも大人だ。そうそう感情は表には出さない。
しかし、レディを迎えた今日は朝から様子が違ったのは確かだ。
どことなくソワソワとして落ち着きがなかった。
レディの馬車がダヴィネス領に入った、と第一騎士団のアイザックらから連絡が来てからは、目に見えて落ち着きがなくなった。
予定より到着が遅れたのも理由のひとつかも知れない。
本人は気づいていないだろうが、玄関先で右へ左へと歩いていた。
部下達の手前、少しまずいと思ったフリードは、
「ジェラルド、熊みたいに歩くのは止めてください」
とコッソリ諌めたのだ。
しかしいざレディが到着し、馬車まで迎えに行くと、落ち着き払って紳士然とした振る舞いを通していた。
ジェラルドの瞳は嘘を吐けない。
ジェラルドをよく知る者は、それをわかっている。
レディを見るジェラルドの瞳は、明らかに…狙っている。
フリードは、女性に向けられるジェラルドのあの瞳の変化は見たことがないので、内心驚いていた。
様子見ではあるようだが、さて、これからどうなるのか…。
「フリード、手が止まってるぞ」
ジェラルドは書類から顔を上げずに言った。
フリードはひとつ短くため息を吐く。
「……」
我が主、辺境伯閣下の思いはどうなるか…
「さっさと終わらせましょう」
フリードは仕事を再開した。