17. 手紙(下)
これで良かったのかもしれない。
カレンは、二の句を告げずに瞠目しているジェラルドを居間に残して自室へ去った。
手紙には“あのこと”が書かれていたのだ。
カレンは力なくベッドに腰掛け、そのままの姿勢で横へパッタリと倒れ込んだ。
∞∞∞
3年前、カレンが社交界デビューした年、何度目かの王家主催の夜会でのこと。
兄が少し目を離した隙に、第二王子がカレンに近づき、ナイフで脅して別室へ連れ込んだのだ。
当時14歳だった第二王子はすでにカレンに執着し、近づく機会を虎視眈々と狙っていた。
カレンにとっては、第二王子は相手にならない子供という認識で、大して気にも留めていなかったが、犯罪者紛いの汚いやり方を取ってきた。
まさか殺されはしないだろうとは思ったが、実際に刃物を突きつけられると、従うしかなかった。
カレンは両手を後ろ手に縛られ、ドレスの胸元をざっくりとナイフで切られた。
さらにコルセットの後ろ紐を切ろうとされ、怖さより怒りが勝ったカレンは危険を省みず体当たりし、第二王子が尻餅をついたところに、部屋に飛び込んできた兄に助けられた。
カレンの肩甲骨辺りには、その際にナイフで傷付いた痕がある。
貞操の危機はなかったが、かなり危ない状況だったことは確かで、兄は立場を忘れて第二王子に殴りかかった。
第二王子の歪んだ性格を認めていた王太子が友人であり臣下として信頼の厚い兄を庇い、咎めは何もなかった。
事件を知った陛下からも非公式の謝罪があり、第二王子は療養という名の謹慎処分を受けた。
父と兄はこの一件からカレンを守るため、あらゆる手段を用いて情報を操作し、カレンの名誉は傷つくことはなく噂も立たなかった。以降、カレンから第二王子を徹底的に遠ざけた。
当のカレンは、第二王子に対しては怖れよりも怒りと嫌悪の方が強く、会いたくはないが、もし会ったなら戦う気概は十分だった。
カレンと第二王子の関係は、表立っては幼なじみの延長で第二王子が追いかけている?かも?といった程度の話で周知されていた。
∞∞∞
カレンは先ほどのジェラルドの驚いた顔を思い浮かべた。
カレンがずばりと言ったことは、お互いを傷つけ、これまでの信頼を裏切るものだったに違いない。
騙されたと思ったかもしれない。
胸が締め付けられたように痛む。
事実はどうでも、箱入りの侯爵令嬢が実は傷物だった…なんて、笑い話にもならない。
…ここにはもういられないわ…
∞∞∞
「傷物を押し付けられたとお思いですね」
カレンは、声こそ感情は乗せていなかったが、蒼白な顔は悲しそうに、だがなぜか口許は薄く微笑していた。
ジェラルドは、一瞬なんのことを言っているのかわからなかった。
だが、カレンの口から発せられた言葉の乱暴さに二の句が告げず、結果、カレンを傷付けた。
追いかけることもできず…
私はいったい何が聞きたかったのか。いや、聞くべきではなかった。もはや事実などどうでもいい。
手紙の内容に神経を逆撫でされたとはいえ、まともに取り合ってはならなかった。
私に手紙を見せたカレンの厚意をも無にしてしまった。
カレンの冷えた瞳と悲しそうな微笑が頭から離れない。
ジェラルドは長く、長く深いため息を吐いた。
・
「ジェラルド、話してください」
執務室に戻ったジェラルドの顔を見て、フリードが告げる。
主のここまでの落ち込みようは見たことがない。
魂を抜かれたというか、ほぼ絶望している。
さすがにまずいと感じた。
ジェラルドは無言のまま、フリードに手紙を渡した。
「いいんですか?」
「信用している」
フリードはその印璽に眉を上げたものの、至って冷静に一読すると、
「戯れ言ですね」
バッサリ切った。
「ああ」
「で?」
促され、先ほどのカレンとのやり取りを話す。
最後の言葉まで。
聞き終えたフリードは、無言のままジェラルドを厳しい顔で見据えた。
「今から話すことは、あなたの年上の友の言葉として聞いてください」と言うと、フリードは自分の椅子に腰掛け、腕組みをした。
「あなたにしては悪手を打ったものです。嫉妬にかられたとはいえ」
そして、第二王子とカレンとの一件は知っていたと述べた。
「なんだと?」
「ウィリス卿から、知るべきカレン様のことはすべて聞いています。あなたの最も近くにいる者として。ただあなたの耳には入れなかっただけで」
気色ばんだジェラルドに動じることなく言い放ち、タイミングを見て話すつもりではいた、と続けた。
「決定的なことは何もなかった、それがすべてです。こんなふざけた手紙一通に踊らされて…あなたはカレン様の何を見ていたのですか」
フリードは珍しく怒りを隠さない。
ジェラルドは天を仰ぐと、片手で髪をくしゃりとした。
「ジェラルド、私はいや我ら臣下はあなたの幸せを心から願っています」
「…ああ」
「カレン様はあなたの隣に立つべきお方ですよ、間違いなく」
「…」
「ここからが正念場です。全身全霊でカレン様の信頼を取り戻してください。…それこそ死ぬ気で」
と、鋭い一瞥とともにフリードは締めくくり、静かに執務室を後にした。
ジェラルドはしばらく立ち尽くしていたが、おもむろに手紙を手に取ると、マントルピースに向かい長いマッチで火を着けた。
部屋の中に紙の燃える匂いが広がる。
窓の外は、冷たい雨が降り続いていた。