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勝てば官軍 弐 【呪術修正物語】  作者: 桜山 風
第一章 帰還
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第九話

 8月19日、午後4時。 


[真世界への道]の立ち上げからかかわっているという実績を認められて、津先は調教を免れた。義知の治療も済んだということで火傷を作る必要性もない。むしろ損傷部位がない状態での予防的投与は可能なのかということを試すために、彼は無傷で実験に参加する。犬田が掌で撫でると津先の目の下にあったクマは消え、不摂生な29歳の肌は赤子のように瑞々しくなった。


「こりゃ、女性たちが大喜びだぞ」


「兵隊さんたちの治療が済んだら、

 そっちの需要も求められるかもしれませんね」


「だが一日限りの夢だったら、

 ぬか喜びさせたといって御立腹になる。

 とにかく経過を見よう。

 檻の中には布団も入れたし、

 退屈しのぎ用の新刊雑誌も貸してやるから

 津先さんは自室に戻らず、ここにいてくれ」


「……」


「明日は様々な試料を取って、記録する。

 これは安全性を確かめるために必要な手順だ」


「……」


 陰気な顔で、津先はうなずいた。その様子を礼文は覗き穴から観察している。


(やはり、津先は後悔しているのかもしれないな)


 昨晩、犬田が罵られている最中に礼文は津先に耳打ちした。


『少年たちの指導役は千川に奪われた。

 研究所の事務管理も犬田が掌握している。

 ここで大きな手柄を立てなければ

 君の居場所が無くなってしまうぞ。

 それでいいのか?』


『どうすれば、神代細胞を改良できるかわからない? 

 大丈夫だ。私に任せろ』


『根拠? 

 あの犬田に原種の神代細胞を投与したのは私だ。

 そして彼は暴走を防げるように細胞を制御した。

 私が彼に事前指導を行ったからだ。

 今回も私が指導してやる。

 すでに方法は考案済みだ』


 などと煽られた結果、津先は志願したのだ。しかし、彼が承諾してから今に至るまで、礼文は指導など行わなかった。


(確かに私は改良法についてアイデアがある。

 だが、それは体に神代細胞が定着してからの話だ)


(あの四人の脳は神代細胞で覆われ傷ついた部位も補綴している。

 しかし、その割合が違う。犬田は右眼球と右手を復活させた。

 千川は抜けた八重歯と膝蓋骨の脱臼と皮膚の補修。

 根府川と辻堂は火傷治療と成長促進)


(一方、孤島に追放された翡翠は

 空間界面とやらを変形させたり、

 エーテルエネルギーの反応を増幅して感知できる石を開発する力がある。

 この事実を元にして

 私は神代細胞の体における割合が多いほど

 機能に干渉する能力が強くなるという仮説を立てた。

 翡翠は水晶の兄弟だから、

 脳をはじめとして全身に神代細胞がモザイク状に混ざっているからな)


(津先に神代細胞が定着したら、

 あちこち壊して修復させ、神代細胞の割合を増やす。

 そうすればバカ親父のお望みどおりに

 進化させることができるかもしれない)


 正直に言ったなら、苦痛を恐れて津先は拒否するだろう。だから事前指導などという嘘で騙したのだ。


(それが成功すれば良し。

 失敗して暴走のあげく犬田に始末させたとしても、

 私にとって損はない)


(津先を雇う意味はすでに無く、

 毎日食料を消費し排泄物に変換するだけの存在に成り下がっている。

 だが無駄だからといって、解雇したら機密が漏れるかもしれん。

 しかし、ただボーッとしているだけの無害な男を

 処刑するのもはばかられるからな。

 なにかしら大義名分が必要だ)


(しかし、それは明日以降の話となる)


 今日、礼文は[真世界への道]の合宿に参加する予定がある。これは前から決まっていたのだが、突如として義光がわがままな要求を突きつけたので、新しい実験を急遽行うことになってしまったのだ。


(銃を持つ私が外出してしまうのは少し不安だが……

 これまでの暴走は茅ケ崎だけ。

 それも、細胞自体が過剰繁殖したわけではなく、

 もともと反抗的だった少年が

 力を手に入れて調子に乗っただけにすぎない)


(千川、根府川、辻堂。彼らは暴走することなく適応した)


(ならば、津先も大丈夫だろう。

 もし暴れても、

 犬田に加えて三人も適応者がいるのだから、

 取り押さえることは別に困難ではな……)


 頭の芯に痛みを感じ、礼文の思考は止まる。


(そういえば、このごろ食欲も落ちてきているな)


 北国生まれの礼文にとって、気温と湿度が高い日本の夏は辛い季節だ。


(仕事も立てこんでいるし、

 疲れがたまったのかもしれない。

 しかし、今日は重要な議題があるから欠席できない。

 目的を達成したら今日は早めに帰って寝よう)


 礼文は隠し通路の扉を閉める。執務室にも施錠して公園脇支部へと向かった。



   ◆◆◆◆◆◆



 8月20日 午前7時。


 執務室のソファで目覚めた礼文は、顔をしかめた。


「まだ頭が痛い……」


 昨日から体調が悪いので、思い切って今日は半休を取ることにした。


 二度寝の後、シャワーを浴びたら少し症状が治まった。彼は調理室の当番に茶を入れるように命じ、図書室に向かった。義光の安楽椅子に腰かけ、背もたれに体を預けて一休みする。時刻は9時。


「そもそも、この国は暑すぎるのだ」


 文句を言いながら運ばれてきた茶を飲んでいると、手術室の方から怒号が聞こえた。それに応じているのか、複数の声が入り混じる。


 隠し通路は熱気がこもって不快だ。だから体が弱っている礼文は下見をせず、直接現場に向かう。



   ◆◆◆◆◆◆


「……?」


 ドアを開けて、礼文は絶句した。


 古い浴衣を着た津先を犬田は後ろから羽交い締めにし、塚元は身をかがめて接近しようとしている。千川はそのそばでオロオロしていた。


「なにを騒いでいる!」


 気を取り直して質問したが、二人は礼文の方を見ようともしない。


「だから、神代細胞が体外に排出されていないか、

 検体をとって調べるんだってば!

 これは接触感染の危険性がないか確認するための

 重要な検査なんだよ!」


「嫌だ! 嫌だあああ!」


 身をよじって、津先は絶叫する。暴れたせいで彼の浴衣はすっかり着崩れ、肩も足もむき出しになっていた。


「これまでの被験者は、全員提出したんだ! 

 あんただけ例外ってわけにはいかない!

 研究のためだ。協力しろ!」


「嫌だ! これは俺の尊厳の問題なんだああああ!」


 興奮しきっている二人から事情を聴くのをあきらめて、礼文は千川に問うた。


「なんの検査をしようとしているんだ?」


「そのう……精液です」


「!?」


「傷を治した兵隊が色町に行って、

 そこの女郎を抱いたときに

 精液を通じて感染させたらまずいってんで、

 先生は検体をとって

 中に神代細胞が含まれていないか

 安全性を調べようとしているんですよ。

 津先さんも唾液や汗と涙、尿に便などの提出には応じたんですが、

 最後の最後でああなりまして」


 千川の説明中も、二人のもみ合いは続いている。


「嫌だああ! 

 アレは俺自身の、自分だけの楽しみであって、

 人前にさらすようなものではないんだあああ」


「出してるところは見ないって言ってるだろう! 

 素直にハイと承諾してくれれば、

 俺は外で待っているから」


「今現在、

 あの行為をしていると他人に知られるのが嫌なんだあ!」


「どうしてもわかってくれないなら、

 さっき言った非常手段を実行するぞ!」


 それを聞いたとたん、津先の顔は引きつった。


「俺は獣医学部の知り合いから、前立腺刺激の方法を教わったんだ!

 あくまでも自分で出さないと言い張るなら、

 ケツの穴に指を突っ込んでやる!」


「やめろ! 俺は種牛たねうしじゃない!」


 礼文は真剣な表情で千川に問う。


「塚元先生が要求したものを

 全員提出したというのは本当なのか」


「え、ええ。まあ、みんな若いし、

 先生に本を貸してもらって、その、チョイチョイと」


 照れくさそうに話す千川の声を、すでに礼文は聞いていない。彼の脳裏には、犬田黒助がまだ新田音矢だったころの記憶が鮮烈に蘇っていた。



 椅子に拘束された音矢は、礼文に向けて言い放つ。


『あんたは今、自分の両親が裸で共寝しているところを想像した! 

 どんなありさまだった? 

 母が父に組み敷かれているところかな?

 それとも母が上になって父に(またが)っているところかな?』


『さぞかしステキな光景だろうなあ。

 僕も妄想してみたよ。

 このネタは大事にしまっておいて、夜ごとの喜びに使おう!』


『ああ、この右手さえ自由なら、

 今すぐあんたの目の前で

[健康な若者が好むところの行為]を見せつけてやれるのになあ。

 まったく残念だ! あはははは』


『僕はお前の母親を妄想内で夜な夜な凌辱し続けてやる。

 それが嫌なら、僕を殺せ!』



「貴様は! よくも! よくも!」


「「「「はい?」」」」


 突然の叫びに驚いた四人の男たちは、いっせいに声が発せられた方向を向く。


 礼文が腰に手を伸ばす動作を見て、真っ先に反応したのは津先だ。度重なる虐待で、礼文の殺気を感知する能力を彼は発達させていた。左右にもがくのを止め、肩が外れることも考慮せず全力でしゃがみこむ。


 犬田は唐突な動作についていけず、手を離してしまった。


 棒立ちになった彼を礼文は撃つ。


 右目から侵入した弾は頭部を貫通する。鮮血を撒き散らし、犬田は仰向けに倒れた。


「ひああああ!」


 津先は這いずって逃げる。


「おい、しっかりしろ! 傷は浅いぞ!」


 千川は犬田のそばに駆け寄り、ひざまずいた。


「わあ! 血が! 白いのも! これは脳か?」


 あたりに飛び散ったカケラを千川は片手ですくい、犬田の頭を傾けて後ろに空いた傷口に押しこむ。


「おい、そんなことをしても、元に戻りは……」


 塚元は途中で言葉を止めた。


「するのか?」


 銃弾を受けて破裂した眼球は破れた部分を巻きこむようにして、球形に戻っていく。


「裏側も見せろ!」


 千川の隣にしゃがみ、塚元は傷口を観察した。


 半透明で真珠色の輝きを帯びた細胞が銃創を埋め、頭蓋骨の穴を閉じ、筋膜が張り、皮膚がそこを覆う。髪の毛も生えてきた。


「あ、ああう……」


 わななきながら、津先は犬田の姿を見ている。


 右目も完全に再生した。それはグルグルと不規則に眼窩のなかで揺れていたが、やがて止まり、残っていた左目と同調して焦点を合わせた。


「ああ、びっくりした、痛かった」


 身を起こすと、犬田は両手を前に出し、握ったり開いたりする。一回目は左手の反応が鈍かったが、10回ほど繰り返すと左右同じように動くようになった。


「バケモノ! 

 頭を弾丸が貫通しても死なないなんて、お前はバケモノだ!」


「けんっ、けふけふ。

 そういう津先さんも、もう僕の同類ですけれどね」


 その言葉で津先は恐慌状態になった。


「びゃああああああ!」


「とりあえず、こいつを檻の中に入れろ!」


「落ち着いてくれよ。津先さん!」


 塚元の命に従って千川が取り押さえるが、


「放せ! お前も犬田の同類、バケモノだ! 俺に触るな!」


 津先はもがき続ける。


「早く、こっちへ!」


 犬田が開けた鉄格子の中に、津先は押しこまれた。


「いやだあ! きもちわるい! 

 この細胞を俺から出してくれえ! 

 俺はバケモノになんてなりたくない!」 


 激しく腕をひっかくと、傷口から細胞がにじんでムニムニと広がり、津先の体を修復しようとする。

 それをまた掻き落とすと、新しい細胞がにじむ。


「うわあああ!

 取っても取ってもきりがない、きりがないよおおおお!」


 檻の中で、彼は自傷行為を続ける。



   ◆◆◆◆◆◆



 犬田には着替えを、千川には血液を清掃するように命じておいてから、礼文は貴賓室に塚元を連れていった。


 先の騒動で精神的に打撃を受けた二人は義光と義知の椅子に座り、一息入れる。


「……そういえば、根府川は?」


 先に口を開いたのは礼文だ。


「自分自身のものはともかく、

 他人の行為に関与させるのは教育上問題があると思い、

 入室を禁じたのです。

 外見はともかく、彼は未成年ですから」


「それは良い判断だ。

 そして、今回のことで理解したろう。

 採取を強制すると、精神に悪影響を与える。

 これからはあくまでも要請にとどめ、

 拒否する者に無理強いしてはならない」


「はい……でも、あんな」


「この件については、もう終わりとする」


 塚元の発言を断ち切り、礼文は自分の要件を突きつけた。


「犬田は頭部を撃ち抜かれたのに死ななかった。

 原種を投与された患者は、

 脳を破壊することで活動を停止したのだが。

 その理由を知りたい」


「私も彼を射殺しようとした意図をお聞き」


「先に質問したのは私だ」


 礼文の手が背後に回る。そこにはまだ銃があることを塚元は思い出し、自分の疑問は飲みこんだ。


「ええ、おほん」


 咳ばらいをしてから、彼は考察を述べる。


「原種については研究レポートが火災で失われ、

 犬田の証言しかないので正確かどうかわかりませんが……

 旧暴走患者は、浸食が進んでいるとはいえ

 人類由来の脳細胞が主であったようです。

 一方、この研究から除外された研究者が犬田を調べた結果によると、

 彼は脳と脊髄がすべて神代細胞製になっているそうです。

 それが真実かどうか私も調べたかったのですが、

 義光さまの要請により過度な刺激を与えないために

 脳細胞の採取ができずにいました。

 ですが、(はか)らずも今日の騒動で実証できましたなあ」


「あいつはそこまで人間離れしていたのか」


 礼文は自分の思い違いに気づく。過去において、瀬野は翡翠が音矢のエーテルエネルギー反応を検査した結果を礼文に告げていた。だが、復讐心で頭がいっぱいになっていた礼文は、彼女の言葉を聞き流してしまっていたのだ。


「……彼を殺す方法はあるか?」


「神代細胞の親株を滅するなどもってのほかで、え?

 ……まあ、思考実験としては興味深いですな」


 礼文の右手が再び動いたのを見て、塚元は大急ぎで理論を構築する。


「では仮にガソリンをかけて焼いたとしましょう。

 犬田もそのようにして原種の患者を始末したことがあったようですし。

 しかし彼自身に行った場合、殺害は不可能。

 高熱を浴びた場合、

 脳と脊髄の周囲を結晶化した神代細胞が守ります。

 炎が消えてから生き残った細胞が活動を始め新しい体を作り、

 犬田は復活するでしょう」


「無から有を生じることはできない。体の材料がそろわなければ」


「別に、最初から人間の大きさと形にこだわることはありません」


 意趣返しとばかりに、塚元は礼文の反論を遮る。


「脳と脊髄合わせて約1,5㎏。

 それだけあれば一部を筋肉や骨に作り替え、

 ちょっと大きめのイタチくらいの生き物に化けることができますな。

 物陰に潜んで人間を襲い、

 体内に侵入して頭蓋骨や脊椎の中身と入れ替われば、犬田は復活します」


「そんな暇を与えないよう、人のいない海中にでも捨てれば」


「海には様々な生き物がいます。

 ヒトデにでも化けて貝やエビなどを捕食して成長しつつ、

 海底を這いずって陸に戻れば、

 そこにいる人を襲って犬田は復活します」


「土に埋め」


「モグラに化けてミミズやセミの幼虫などを食えばよろしい。

 あとは海の場合と同じです」


「……わかった」


 礼文は肩を落とし、うつむく。塚元は安堵(あんど)した。犬田の研究はまだ途中なのに、殺害されては困るからだ。


 頭部の貫通銃創だけでは致命傷にならない。たとえ生身の人間であったとしても、脳が部分的に損傷を受けた程度なら、止血して感染対策をすれば命は助かる。原種の暴走患者が死んだのは、脳を粉々に砕かれたせいだ。


 しかし、礼文はそれを同一視している。この発言から礼文が正確な医学知識を持っていないことを塚元は見抜いた。


 だから、屁理屈をこねて犬田が復活する事例をこじつけ、犬田抹殺計画を諦めさせたのだ。実際はそこまでの変形が可能だと彼は思っていない。


 もしも礼文がコンクリート詰めにするだのドライアイスで凍結させるだの溶鉱炉に放りこむだのと言いだしたら、さすがに屁理屈も追いつかないと彼は危惧していたが、幸いなことにそれはなかった。


「せめて……去勢することはできないか」


「生えてきますな」


 礼文が口にした最後の希望を塚元は否定した。


「ええ、剃るそばから新しいイチモツがゾロゾロっと」


 いつかラジオで聞いた落語のオチを連想し、塚元は笑みを浮かべた。


「なにがおかしい」


「いえ別に」


 冷たい目でにらまれ、塚元は真顔に戻る。


「手間を取らせたな。仕事に戻ってくれ」


「はい。津先の状況も気になりますし、失礼します」


 塚元がドアを閉めてから、礼文は椅子の背もたれに体をあずけ、力を抜く。


「うう……」


 ぶり返してきた痛みのせいで、頭がぼんやりする。そのせいで犬田の抹消方法を深く考察することができず、礼文は塚元の屁理屈をうのみにしてしまった。そして、神代細胞が多ければ機能に干渉する能力が高まるという自分の仮説が証明されたと思いこんだ。


(どうすればいいんだ。犬田を殺すことは不可能だと? 

 そして攻撃すればするほど奴は強くなる。

 今日、あいつは後頭部の壊れた骨や皮膚を

 神代細胞で補綴することによって、

 以前より能力を向上させてしまった) 


(いや、あの貸家で翡翠を攻撃せよと命じたとき、

 私に従うまで3発の弾を喰らわせた。

 その傷を神代細胞で修復し、奴はさらに強くなっていたのだ)


(そして精神も)


(大切にしていたスケッチブックを自ら破らせ、

 翡翠との友情も壊し、

 心を支えるものを奴は失ってヌケガラとなった。

 そう、ここに来た当初は完全なデクノ坊だった)


(しかし、すぐに復活し塚元との協力体制を作った。

 千川とも仲良くなった)


(調子に乗ったところで茅ヶ崎の暴走が起こり、

 私は塚元に犬田の調教を命じた。

 その結果、

 奴は裸で犬の真似をするほどの屈辱を受けても反抗しないようになった。

 ……と思ったが)


(あいつは宴会で積極的に滑稽な踊りを見せ、バカ親子を笑わせている)


(神代細胞は屈辱による魂の傷まで修復するのか? 

 いや、原種である水晶の精神は壊れたままだった。

 ならば、あいつが生来持っている性質なのか?)


(わからん……)


 思考に疲れた礼文は天井を見上げる。


 ひとたび空白になった心に、やがて疑問がわいてきた。


(……私は犬田を殺せない。しかし、犬田は私を殺せる……

 が、殺そうとしてこない。

 もし、立場が逆で、私があいつと同じ目にあわされたとしたら……

 絶対に自分の力を使って復讐する。

 茅ヶ崎は2発、ムメは弾を8発喰らわせて

 やっと動きを止めることができたが、

 今の犬田なら全弾打ちこまれても襲い掛かってくるかもしれない)


(なのに、あいつはヘラヘラ笑って、

 研究を進めるために身を粉にして働いている。

 根府川が重用されても嫉妬するどころか、

 自分の技能を惜しみなく教えて能力を向上させることを怠らない。

 あのバカ親父に道化役を求められても反発することなく媚びへつらい、

 茶坊主的な立ち位置を確保しようとしている)


(……あいつは何を考えているんだ? 

 すでに檻から出て、鎖からも解き放たれているにも関わらず、

 脱走を試みようともしないで

 私のもとにとどまり、服従を続ける理由は?)


(ううっ)


 頭にきりを刺されたような痛みを感じた。


(そういえば……瀬野から聞いたことがある。

 あいつが呉服屋に務めていたころの仇名あだな

 ……[頭痛発生器]……)


(まさにその通りの存在だ。

 ああ、犬田が私のそばにいる限り、この苦痛が続くのだろうか。

 とても耐えられない!)


 礼文は荒い息を吐く。


(……大丈夫だ……私はこれまでいくつもの困難を乗り越えてきた。

 だから、今回だって乗り越えられる……大丈夫……大丈夫……)


 昔は乳母の息子であるワーニャが彼を慰めてくれた。しかし、今の礼文には心を許せる友などいない。だから、彼は自分自身を独りで励ましていた。




  次回に続く


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