第八話
すっかり元気を取り戻した義知は上体を起こした。3,4秒ほど額を押さえていたが、やがて手を放してそれを見つめる。
「寝たきりだったから、
起きたらそうとう眩暈を感じると思ったけど、
すぐ治まったな……あ」
彼は両手でパタパタと顔や口、喉をなでる。
「すごい、しゃべっても顔の皮膚がひきつれない。
舌も唇も声帯も正常に動く。
呼吸の調節も乱れていない」
ベッドに手をついて体を回し、床に足を置いて義知はゆっくりと立ち上がった。
「寝たきりで拘縮した関節も衰えた筋肉も、もとどおりだ!」
そのまま彼はしゃがんだり立ったり、片足立ちをしたりしてから歩き出す。
「ずっと働いていなかった三半規管も正常に機能している。おりゃ!」
その場で跳ねたが、転ぶことはなかった。
「万歳! なにもかも回復したぞ」
「……問診で聞こうとしたことを全部言われてしまった……」
憮然とする塚元に
「それはそうだよ。
義知ちゃんは帝都帝大医学部大学院生だもの。
医学知識ならだれにも負けないよ」
義光は自慢する。
「よう……ございました……ねえ」
犬田は力なくベッドの横にうずくまっている。その頬はやつれ、首も病人のように細い。彼の右手は肘から先が溶け、腕まくりをした袖口からは、丸い断面だけが現れていた。
「その声は、オレを治してくれた人か?」
「そうだよ。犬田くんって言うんだけど、
なんでそんなになったの?
さっき見たときは両手ともあったのに」
「……広範囲の火傷と関節や筋肉などの……
補修に……自分の神代細胞を使ったからです。
予想より大量に必要でした……」
「ありがとう!」
義知は腰を下ろし、犬田の左手を取った。
「君はオレの恩人だ! なにか願い事があったら言ってくれ!」
「なんと、もったいないお言葉……かたじけないです……」
犬田は顔を伏せたが、涙は流れなかった。
「恩を返せなければ、オレは人でなしになる。
だからなにかを君にしてあげたいんだ」
「では、お言葉に甘えて……
タンパク質とミネラルの多い食べ物をください。
それを消化吸収して新しい細胞を作ります」
「えーっと、どんなのがいいかなあ?」
「ここにはニボシや煎り大豆が備蓄してありますので
……それをください。あと、水も……」
義知は礼文の方を向いて命令する。
「すぐ持ってこい!」
「はい」
返事はしたが、礼文の目くばせを受けて走り出したのは根府川だ。
「オレも何か食べたい……あ」
義知は飾り棚に並べられたワインに目をとめた。
「そうだ! 快気祝いに宴会をやろうよ! ここにいる皆でさあ!」
「え、平民も混じってるよ」
「パパ、オレ、ずっと病床で苦しみ続けてきたんだ。
ベッドの横にいる人たちの会話を一方的に聞くだけで……
自分のことを話したくても声が出なくて」
「ううっ、義知ちゃん、かわいそう」
「だから、平民とかそういうのはいいからさ!
パーッと騒ぎたい気分なんだ、今のオレは!」
「誠に心の広いお方ですなあ。ご子息様は」
好機とみた塚元は、義光をおだてる。
「しかし、お望みどおりに盛大な宴会を開くには、
酒とツマミが足りませんな。
ワインを一口ずつ回し飲みして終わりでは味気ない。
買い出しが必要です」
「まあ、そうだよね」
「島口さんは研究所の外で待機してますから、
私が伝令を務めましょうか?
ここは野原の中ですが、車なら最寄りの商店街まで一走りですよ」
「じゃあ、お願いするね。
義知ちゃんが満足できるくらい買い出してくるようにって」
「あ、あの!
この実験には、大勢の少年たちが協力しているんです!
その子たちにも、なにか」
千川の訴えに義知はうなずいた。
「そうだね。人数分の御菓子も買ってきてもらおうか」
「了解しました!」
ウキウキした足取りで、塚元は去った。
◆◆◆◆◆◆
身分にこだわる義光の主張で、雇用主である富鳥親子はテーブルと椅子を据えて着席し、ワインを飲む。ツマミはワインと一緒に持ちこんだナッツやクラッカーだ。
被雇用者たちは絨毯の上にアグラをかいて、盆の上に置かれた乾き物と日本酒に手を出すという形式になった。礼文はその集団の上座に座るが、飲食はしない。貴族の生まれである自分が平民の中に入れられたことが不満だからだ。
しかし、彼以外の参加者は久しぶりの酒宴に喜んでいるので、スネている彼を慰めたりしない。
「いや、うまいうまい」
「腸に染みますなあ」
塚元と千川だけでなく、
「……焼酎よりましだな」
騒ぎを聞きつけた津先も端に座って陰気に酒を飲んでいた。
「せっかく義知ちゃんがひらいた宴会なんだから、なにか芸をしてよ」
スポンサーの要請を聞いた一同が、それぞれ互いの出方をうかがっている隙をついて
「では、僕が一番槍を!」
犬田は身軽に立ち上がった。
「はああ、かっぽれかっぽれ」
片足立ちになり、両手をスイスイと振る。買い出しを待つ間に栄養を補給し、その体は元通りになっていた。
「はい、洋式かっぽれでござい」
「うふふう」「ぷぷっ」
チャップリンのガニ股歩きを取り入れた踊りを見て、親子は笑う。
「今度はキートン風、次はロイド風をごらんあれ」
その喜劇俳優たちの無表情や大げさな動作をまねると、親子はさらに笑う。
しかし、絨毯の上に座っている者たちは、白けた表情を浮かべていた。
◆◆◆◆◆◆
8月11日、午後5時。
「今日の仕事はそろそろ切り上げて、身支度を整えよう。
もうすぐ富鳥さまたちがいらっしゃるからな」
塚元はペンを机に置き、椅子に座ったまま伸びをした。
「今回から、お前も宴席に加わることが許された。
そこで研究の成果を見ていただくんだ」
「はい!」
根府川は誇らしげに答える。
彼の背丈は伸び、細かった体もたくましい。顔も成人男性のものに近くなっている。
根府川は自分が未成年だということで宴席に加われなかったことを非常に悔しく思った。だから神代細胞を使って通常より早く大人になりたいと請願し、礼文はそれを認めた。傷の治療だけではなく、肉体強化も軍から求められているので、そちらの研究も進めなければならなかったからだ。
幸い、千川の顔のように根府川の体が後戻りすることはなかった。本来の形をゆがめることなく、自身に備わった成長因子をそのまま促進したからではないかと、塚元は推測している。
「犬田は自分がエーテルエネルギーを注いで育てたから
根府川はこんなに立派な体になったとアピールするかもしれないが、
それはほっておけ。
成長促進はお前のアイデアだし、
失敗を恐れずにお前は自らの体を実験に差し出した。
これこそが大和魂の発露だと、俺が後ろ盾になって主張してやる」
「ありがとうございます」
根府川は頬を染め、深々と頭を下げた。
◆◆◆◆◆◆
宴会は前回と同じく、富鳥親子はワインなどを乗せたテーブルに、それ以外は絨毯に腰を降ろすという配置になっている。乾杯の後、あらためて根府川を紹介された義光は目を丸くした。
「ああ、あの時の子かあ! それが一週間でこれだけに?
すごいね、義知ちゃん」
「いやあ……オレは自分の体ばかり見ていて、
根府川くんの姿をよく覚えていないんだ。だから、比較が」
「事前、事後の体格を記録しておきました」
差し出された二枚の写真を親子は見る。目盛りをつけた紙テープを垂直に貼った壁の前で、根府川は気をつけの姿勢をとっていた。
「なるほど、一日で10センチも伸びたのか」
「この程度の写真なら、部外者の写真館に現像を頼めますからね。
子供と青年、それぞれの顔が似ていても兄弟だと誤解するでしょう」
「ああ、これまでの報告についていたのが全部イラストだったのは、
そういうわけもあるんだな」
「孤島にあった旧研究所では現像の技術者も雇われていたよね。
陸軍の戸山ヶ原科学研究所でもそうなのかな?」
「はい、暗室があったし、専門の技師も雇われていましたよ。
私もカメラを持っていますが
現像まではできないので、そこに頼んでいました」
「だよね。
こないだも義知ちゃんをスケッチしてたけど、
あれが撮影だったら大騒ぎになるよ。
関係ない写真館の人が現像して、
焼けただれた皮膚が写ってるってわかったら、
そしてケロイドにもならずに回復している有様が次々とあらわれたら、
一体何事かって驚くよ。
それを近所の人に話したら、研究内容が世間にバレちゃうもんねえ」
「でも、学会に発表するときはちゃんとした写真にしたいなあ」
「え? それはどう」
「礼文、[真世界への道]に写真屋さんはいない?
信者だったら、
自分が現像した写真に変なものがあっても
外部に情報を漏らさないだろうし」
塚元の発言を遮って、義光は別の質問をする。
「いえ、いません。
以前からの会員はきちんと職場の住所まで記入させていますが、
その中に写真館はありませんでした。
最近の入会者は恒星学園大学と菫青女子大学の
国文学を専攻する学生たちが主ですから、やはり写真館に務めてい」
「私立大学に通えるくらいのお金持ちの子だったら、
カメラが好きで
現像まで自分でやってしまう趣味人がいるかもしれないじゃない!
そういう人は?」
「……もうしわけありません。趣味までの把握は……」
詫びながら、礼文は犬田に目をやる。その視線に彼は気づいた。
「さすがに僕も、そこまで手を広げてはいませんよ」
「でしゃばるな。お前になど聞いていない」
「はいです」
犬田は頭を下げた。好機とみた塚元は、それた話題を元に戻す。
「へえ、成長促進は根府川くんの考えからなの?」
義光の思考は塚元が望んでいる方向に導かれた。
「神代細胞の働きはまだ未知数なのに、
研究を進めるため自分を犠牲にする覚悟を決めたのか。
すごいね。
しかも、義知ちゃんの体を治せると先生が確信できたのは、
君が熱湯をかぶって広範囲の火傷を作り、
実験用に差し出したからなのか。なんて勇敢な子供なんだろう」
「お言葉を返すようですが、自分はもう子供ではありません!
肉体は成長しましたし、
中に入っている魂も[真世界への道]の教義で鍛えられ、
世間にはびこる俗人たちよりも
高度な域に達していると自負しております!」
頬を真っ赤にして彼は主張した。
他の大人たちは暖かい目でそれを見る。根府川の発言は、いかにも背伸びした少年らしいものだったからだ。
「つきましては、さらなる改良を求めます!
現在の体格ならば
乙種合格は間違いありませんが、
甲種には身長と筋肉が足りません。
千川指導員どののように、大きく強くなりたくあります!」
「現状に満足せず、遥かな高みを目指して進む。
それでこそ人類は進歩するんだよ。
兵の体格向上ができれば軍人さんも喜ぶだろうしね。
明日からそっちの方向も研究してみて」
「了解しました」
塚元は一礼して答える。
「では英気を養うために、今日はパーッと[無礼講]だよ!」
義光と根府川以外の表情が、一瞬で曇った。この場合の[無礼講]がどんなものかを彼らは知っているからだ。
だが、そのなかで最も早く犬田は明るい笑顔を浮かべた。
「それでは、口開けに[お国自慢、ご当地かっぽれ]をば!」
身軽く立ち上がり、
「まずは北海道、ヒグマのシャケ狩りとござい!」
上体を倒し、手を大きく振って川からシャケを弾き飛ばしたところを演じてみせる。ビタビタ跳ねる架空の鮭を抱え、バランスを崩しながらも片足立ちで踊ろうとするさまを見て、義光は腹を抱えて笑った。
義知も微笑むが、やがてその目は自分の腕時計に向けられる。
前回は、平民組が各自の隠し芸を披露したのちに義光の演説が始まった。私語を発すると叱責されるので、一同はちびちびと酒を飲みながら黙りこくって演説を拝聴するしかない。それが2時間ほど続いた。
今回もそうなるだろうとあきらめて、義知はワインを口に含んだ。しかし、彼の予想は外れる。
義光の演説は3時間に至った。
◆◆◆◆◆◆
8月18日、午後7時。
「なんだ。失敗かあ」
貴賓室で義光は四枚の写真を順番に見る。
「根府川くんの願い通り
181センチまで伸びて筋肉も盛り上がったけれど
一晩寝たら167センチに戻ってたのか。
で、同じ実験をした辻堂くんも同じ。
増えた分の細胞は、
初期化したうえで毛穴から体外に出て塊になった、と」
二人の少年を対象として体格の向上をもくろんだが、今回は千川のように一時的な変化だった。
「これは、犬田の作る[恒常石]に問題があるとみております」
塚元は解説する。
「神代細胞の暴走による変形を防ぐために
人体に備わる恒常性、
つまり状態を一定に保つという働きを彼は強化した。
それで、外傷は元通りに治しますが
もともと備わっている成長因子以外の変化は
受けつけないのでしょう」
「まあ、試作品としてはそこそこの性能じゃない?
とりあえず義知ちゃんの体を治すには役立ったし。
だけど、技術というのは進歩していかなければいけないよ。
その点からみると、
元から決まった枠内にしかとどまれないというのは大きな欠点だね。
そしてもう一つ言いたいことがある」
ここで義光は咳ばらいをする。
「君の子株は孫株を作る力がないじゃないか。
日本中の傷痍軍人を君の前に一列に並べたところを想像してごらんよ。
どれだけの長さになることやら……
増殖能力が、まったく足りていないんだね。
負傷者の治療にあたるなら
孫株がつくれる衛生兵を一師団あたりに
2、30人くらいは配属しておかないと有事に役立たないよ」
「おっしゃる通りです。申し訳ありません」
犬田は頭を下げる。
「それにぼくは、
神代細胞を使って海のなかでも溺れたり
低体温になったりすることなく
長時間行動できるイルカのような兵隊を作りたかったんだ。
でも、君の[恒常石]ではどれも不可能なんでしょ。
だったら新しい機能をつけた石を作ってよ。
そして増殖能力も向上させてね」
「恐れながら……できるかどうか、わかりません」
「やりもしないうちに、あきらめるな!」
「できもしないことを大言壮語するのは、僕の信条に反す」
「お前の信条なんか、どうでもいい!
ワシはやれといっているんだ!」
怒りのあまり、義光から[優しいパパ]でありたいという意識が吹き飛んだ。
本来の自分に戻った彼は、平身低頭して詫びる犬田を怒鳴り、罵り続ける。
「げほっ」
30分ほどして、声が枯れてきた義光はワインで喉を湿した。雇用主に隙ができたところで、
「……あの……」
おずおずと津先は挙手する。
「総裁どののお考えはまことに立派なもので……人類のために……」
グズグズと当たり障りのない言葉を垂れ流す彼に義光が新たな怒りを爆発させようとしたとき、いきなり津先は姿勢を正した。
「私がやります。
犬田よりも優れた進化を目指し、
義光さまの御要望にお応えできるよう、粉骨砕身努力いたします」
「これだよ、これ! そういう答えをぼくは待ってたんだ!」
膝をパシパシ叩き、彼は笑顔を浮かべる。
「自分もやります!」
立ち上がろうとする根府川の肩を塚元は押さえた。
「お前と辻堂、そして千川は
義知さまに先行して犬田の細胞を投与された。
だから経過観察のために保存しておく」
「でも」
不服そうな根府川を、礼文もなだめる。
「人にはそれぞれ役割があるのだ。
あれもこれもと手を出さず、自分の責務を果たすことに集中しろ」
「……はい……」
「津先さん、見直したぜ! あんたは男の中の男だ!」
バン
「げふ」
千川に背中を叩かれ、津先はつんのめる。
「よし、これで研究の方針が決まったから、[無礼講]だよ!」
「ふう」
父の機嫌が直ったと理解し、義知は肩の力を抜いた。
「犬田くん、なんか面白い芸をしてよ。
その程度のことなら君でもやれるでしょう?」
しかし怒りは根深かったようだ。義光は犬田にイヤミったらしい口調で絡む。
「は、はい」
「あ、でもかっぽれは無しね。飽きたから」
得意技を封じられても慌てることなく、犬田は作業服のズボンの裾をまくり上げ、スネを出した。
「それでは、祖父から習ったステテコ踊りをば」
これは、明治の中頃に流行した踊りだ。
「あんよを叩いてしっかりおやりよ。あ、ステテコ、ステテコ」
足を交互に突き出しながら、犬田は鼻をちぎって投げる仕草をする。
「うふふう。
これはまた古いものを持ち出してきたねえ。うふふう」
懐かしい芸を見せられて、義光は微笑んだ。
次回に続く