第五話
「この際ですから、広範囲の火傷が治療できるかどうか、
うまくいくならばどの程度の早さで回復するのか、
いっしょに実験しましょうよ。
富鳥さまだって、お待ちかねでしょうし」
「それもそうだな」
礼文が口を開く前に、塚元が同意してしまった。ここで反対したら、義知の治療を妨害したことになる。だから礼文は成り行きにまかせた。
「では、ちょいと準備を」
犬田は手早くロープで茅ヶ崎の手首と足首を手術台に縛った。そのような用途に使うための特殊な金具が、この手術台には取りつけてある。続いて犬田は園芸用スコップを七輪の火で炙った。
「お、おい。何をする気だ」
塚元が怯えた声をあげる。
「何って、広範囲の火傷を作ろうとしているのですが」
「作る……って」
「お前、人様の体を焼こうって言うのか!」
塚元は絶句し、千川は怒った。
「おいおい。いまさら実験をやめようというのか?
それでは富鳥さまの御意思に背くことになるぞ」
別に犬田を助けるつもりはないが、塚元と千川を非難する機会を礼文は見逃さなかった。
「前の職場をしくじった医学博士と
警察から追われている逃亡犯を拾ってくださった、
そんな御方を裏切るつもりなのか? あきれた恩知らずだな」
「いや、その」「俺は……」
気まずそうに言葉を濁す二人を見て、礼文はこれまでの溜飲を下げた。
「さあ、やれ。犬田」
「はい」
犬田の表情は、日々の仕事をしているときと変わらなかった。料理をするようにスコップを炙っては、それを茅ヶ崎に押し当てる。
「ぎゃあああああ!」「うがあああああ!」
悲鳴を聞き流し、犬田は作業を続けた。
毛髪と皮膚と肉の焼ける匂いが立ちのぼる。それを嗅いで、礼文は故国の首都にある広場で革命が起きた日のことを思い出した。彼にとっては懐かしい薫りなのだが、塚元と千川には悪臭らしい。それぞれ自分の手で鼻を覆っている。
やがて、悲鳴は止まった。苦痛のために茅ヶ崎は気絶したようだ。さらに作業を進めた犬田は確認をとる。
「息子さんは、上半身を火傷したんですよね。
そして頭部と手先がとくにひどい、と……
こんな状態でしょうか? 塚元先生」
無言で医学博士はうなずいた。
「僕は治療に集中しますから
神代細胞を投与する過程の観察をお願いします。
そうだ。根府川くんも呼んで絵をかいてもらいますか?」
塚元より先に礼文が止めた。
「いや、ダメだ。
銃声を聞いて、
そして茅ヶ崎が戻ってこないことで彼らは動揺している。
まだ事態が呑みこめないでいるうちに
千川の誘導で倉庫に全員を監禁できたが、
今開けたら暴動を起こすかもしれん」
「ごもっともでございます。
それではとりあえず、命にかかわりそうなところを優先して」
包帯を解いて茅ヶ崎の傷口を露出させてから、犬田は自分の右掌を見つめた。そこから真珠色の輝きを帯びた粘体がジワジワと滲み出てくる。
そっと腹の傷口に右手を当てる。左手は背中側に滑りこませた。
「トンネル状の傷を通過するように、
反対側からエーテルエネルギーで誘導しています」
「ほう」
塚元は真剣なまなざしで傷を見つめ、メモを取っている。
「5分経過」
医学に詳しくはないが、自分も実験に参加していたと後から義光に主張するため、礼文は腕時計を使って時間の計測係を務めることにした。
「……届いた」
両手を離して様子を見る。音矢の細胞に覆われた傷口はゆっくりとうごめき、異物である縫合糸を排除しようとしている。奥からは細かい黒い粉が上がってきた。これは銃弾についていた煤だろう。
「出血は止まりましたね」
「これを差しこんで、内部を調べてみろ」
塚元は犬田に細い金属棒を手渡した。
「……とくに引っ掛かりもない、
すべすべした壁がトンネルを覆っているようです」
「抜いてみろ」
二人は顔を寄せて金属棒を観察する。
「刺激しても新たな出血はない。
傷はふさがったとみていいだろう」
「それじゃあ! 水をやってもいいんですかい?」
千川の質問に塚元は答える。
「もちろんだ。血液の主成分は水だからな。
失われたのと同じ量を補給しなければならない。
……いや、単なる水だけを飲ませたら電解質のつり合いがとれなくなる。
カリウムとナトリウムを……」
「庭にはトマトがあります。
あれにはカリウムが含まれているのでは?」
「よし、それを四つくらいもいできて、
細かく刻んでサラシ布巾で小鍋に絞れ。
その汁へ、トマト一つに塩を一つまみの割合で入れろ。
そしてヤカンには普通の飲み水を汲んで持ってこい。
患者の様子をみながら濃さを調整して飲ませるんだ」
「了解です!」
千川は駆け足で手術室を飛び出していった。
彼を見送ってから、
「その間に、こちらは火傷を治していきましょう」
自分が焼き尽くした顔、頭部を犬田は右手で撫でていく。掌が通り過ぎた部分を半透明の細胞が覆った。焦げた部分はじわじわと剥がれて外に押し出され、むき出しになった肉は細胞で保護される。それにつれて苦痛のうめき声が少しづつ収まっていく。
「10分経過」
礼文が腕時計を読んだ。
手も治療し終え、犬田は塚元からもらったスケッチブックと鉛筆をとり、クロッキーで次々と患部の様子を写した。
「15分経過」
「皮膚が形成され始めていますよ!」
「そして毛根も再生した!
抜けた睫毛も眉毛も髪の毛も、
元の姿を取り戻そうとしている!」
犬田と塚元は歓声をあげた。
「……よかったなあ……」
両手に荷物を持った千川は涙ぐみながら、手術室に入ってくる。
「とりあえず、トマト汁1に水5くらいで飲ませてみよう」
塚元の指示通りにビーカーに注ぐと、千川の手が止まる。
「そうだ、吸い飲みがない。起こしてやらないと」
「いや、急に頭を上げると目を回すぞ。
血圧計の上に置いてあるチューブを使え。
ちょいとゴム臭いがストロー替わりにする。
長すぎるようだったら切ってもいい。どうせ消耗品だ」
「了解」
千川はビーカーの高さとチューブの長さを調整しつつ、横たわったままの茅ヶ崎にくわえさせてやる。最初は少しむせたが、やがてコツをつかんだようだ。茅ヶ崎は薄赤い液体をゆっくりと飲んでいく。
「20分経過」
「唇の色も紫から桜色に変わったぞ! ずいぶん早いな!」
「内部に浸透した細胞が、
蓄えていた鉄分を使って赤血球を増産したんでしょう!
造血細胞のある骨髄に僕の細胞が進攻していますから!」
「なんでそんなことがわかる?」
「僕の右目は丸ごと神代細胞で作られているから
エーテルエネルギーの反応が見えるんですよ!」
「なるほどな。お前の目で見える変化は他にもあるか?」
「もともと損傷の無かった脳にも細胞は付着しつつあります。
これはエーテルエネルギーを補給するためでしょう」
「は、ああ……あ」
チューブから口を離した茅ヶ崎は首を左右に振ってあたりを見回した。
「おお、酸素がまわって意識がはっきりしてきたようだな。
痛みはあるか」
「……」
茅ヶ崎は無言で手足を動かす。しかし拘束されているので、わずかに関節が曲がっただけだ。
「おっと、いけない」
犬田は作業服のポケットからチリガミを出し、それにくるまれていた二つの石を塚元に見せた。大きさは米粒ほどだ。光に当たると白い表面が虹色に輝く。
「僕の細胞から作った石です。
肉体の恒常性を保つ機能を入れてありますから、
暴走しないように取り付けておきましょう」
耳たぶに針で穴をあけ、その中に一つを押しこんだ。反対側も同じようにする。
「25分経過」
「俺は……どうなってしまったんだ。
撃たれたはずなのに、すごく痛くて苦しかったのに、
もうなんともない。あれは夢だったのか?」
茅ヶ崎の疑問に、塚元が答えた。
「夢ではない。神代細胞のおかげで治療できたんだ」
「では……顔と手を焼かれたのも、現実?」
「そっちも完治した。自分で見てみろ」
「え、ちょっと」
犬田が止めに入ろうとしたが、塚元は彼を押しのけてロープをほどく。千川も手伝った。
「鏡がないけれど、ほれ、これに映る」
塚元が差し出したのは金属製の膿盆だ。これはソラマメのような形をした器で、手術の際に切除した肉片などを置いておくのに使う。
「焼かれた形跡なんて、まったくないだろう?
本当にすごい発見だ。これで息子さんは治るぞ!」
「よかったですねえ」
塚元と千川は素直に喜ぶ。
「ああ……これは……良かったと言っていいのかな」
茅ヶ崎も喜ぶが、その表情には毒が含まれていた。
「つまり、俺は犬田のように
撃たれてもすぐ回復するような体になったわけだ」
「まあ、そうだな」
「ありがとうよ!」
手にした膿盆を、茅ヶ崎は千川に叩きつける。ひるんだ隙をついて、さらに殴りかかった。
「よくも、俺を追い抜いて指導係になったな!
新参者のくせに! 禊もしてないくせに!
よくも、俺をみんなの目の前で殴って、恥をかかせたな!
この! この!」
両腕で体を防御しながら、千川は弁解した。
「俺だって嫌だったけれど、
能力を認めてもらって自分の居場所を確保するためには、
やるしかなかったんだ。
そして団体生活の秩序を確立するには、
上下関係を体に教えこむことが必要なんだ。軍で習ったんだよ」
「それなら、俺が上だってことを逆に教えてやる!
俺は不死身なんだぞ!」
「うん。
それはわかっているけれど、やっぱり俺のほうが強いんだ」
千川は茅ヶ崎の右手をつかみ、体勢を入れ替えてひねりあげる。
「ぎゃう!」
肩関節を極められて、茅ヶ崎は苦痛の声をあげた。
「これ以上暴れると脱臼する。
それでもすぐ治るだろうけど、肩が外れたらすごく痛いぞ。
だから、落ち着いてくれ」
「いや、抑えこまれたまま治癒したら、
変形したまま固まって動かせなくなる。
関節付近のゆがみを元に戻すにはもう一度脱臼させなければ……
二度も激痛を味わいたくないだろう?
そういうわけで、抵抗をやめろ」
喧嘩は苦手な塚元は、千川を言葉で援護する。
「畜生! 畜生! くそったれ!」
諦めきれないのか、もがきながら顔をゆがめてわめくが茅ヶ崎の体が解放されることはなかった。
「僕の細胞と恒常石は
暴走を防ぐことを目的として生まれたものだから、
超人的な怪力とかは出せないんですよ。
それは二人がかりで僕を捕えて
さんざん殴ったご自分がよくお判りでしょうに」
犬田の愚痴を聞いて茅ヶ崎の動きが止まった。
暴れ疲れたのだと判断した礼文は、権威を持ち出して説得にかかる。
「神代細胞は、
秘密の首領さまが[真世界への道]に授けてくださったもの。
私たちはこれを研究し、
実用に値するものに仕上げ、
現在の医学では手が付けられなかった重い傷を治す。
そうして人類を救済するのだ。
お前は栄えある実験台1号に選ばれた。感謝するがよい」
「選ばれた?
俺は脱走しようとしたところを撃たれただけなのに……」
「お前は自由意思で脱走を試みたと思っているようだな。
だが、その発想を得たことこそが秘密の首領さまのお導きなのだ。
そして、すべては神の計画通りに進んだ。
もしも便所に他の者がいたら、
そこで一連の事象は止まっていただろう。
そのうえ、窓から抜け出すところも見られず
薪で大雑把に作った足場も崩れず、
お前は塀に登ることができたな。
これは言い逃れのできない脱走未遂だ。
規律違反をわざと犯させることで、
秘密の首領さまは私に発砲の大義名分を与えてくださった。
いくら私でも、咎無き者は撃てないからな。
そうして、治癒実験開始をわざと先延ばしする
塚元先生の背中を押したのだ」
「え……?」
茅ヶ崎への説得だと思って聞き流していた医学博士は、突然自分の内心を言い当てられ、驚いて礼文を見た。
「出会ったときにはすでに神代細胞と同化していた犬田と違い、
これからの実験台は塚元先生の監督下で不可逆の変異を起こす。
失敗すれば死、あるいは予後不良の障害を負うかもしれない。
そんな責任の重さにためらい、
基礎研究の重要性を言い訳に、神代細胞投与をなかなか行わないでいた。
隔離三日目くらいには
接触感染の危険性はないと証明されていたにも関わらず、な。
しかし、貫通銃創という重傷を前にして躊躇している余裕はない。
結果として実験は行われ、見事に成功した。
秘密の首領さまは見事に御意思を果たされたのだ」
「あ……あああ。すごい、まったくその通りだ……」
「うへえ。秘密の首領さまは、そこまでお見通しなんですかい……」
塚元と千川は頭をたれて祈りをささげた。
「……す……すばらしい……けふけふ……お言葉……けんっ」
犬田に至っては礼文に向かって土下座し、しゃくりあげるように肩を震わせている。
「秘密の首領さまが……俺の意思を……いし?」
少し間をおいてから、茅ヶ崎の左手が上がった。
「そうか。だったら、この試みが成ればそれも御意思だよな」
すばやく自分の両耳から石をむしり取り、投げ捨てる。
「つまり、暴走を防ぐ物がなければ
超人的怪力が出るんじゃないのか?」
「お、おい! 大人しくしろ!」
ひねりあげられていた腕が、千川の関節技を力ずくでほどこうとしている。当然、肩が外れて茅ヶ崎は苦痛のうめきをあげるが、抵抗はやめない。むしろ、よりいっそう全身をくねらせて拘束から逃れようとする。
「わあっ! なんてことを! 僕の苦労が台無しだ!」
「どどど、どういうことだ!
暴走するってことは、まさか、
あのアルバムの写真みたいになるんじゃないだろうな!」
塚元が叫ぶのとほぼ同時に、千川は茅ヶ崎に片腕で投げ飛ばされた。
「見よ、力こそ正義だ!」
外れた肩関節を押しこむと、高らかに彼は叫ぶ。
「俺は力を秘密の首領さまにさずかった!
だから俺の成すことはすべて正しいんだ! 俺は強い! 俺は偉い!」
「ああ、典型的な暴走患者の言い草だよ……でも」
仁王立ちになって吠える茅ヶ崎を見ながら、犬田はつぶやく。
「エーテルエネルギーは発生しているけれど
脳への侵食はそれほど進んでいない。
ということは、細胞のせいで酩酊しているわけではなくて、
もともとの人格の悪いところが、
思いがけなく怪力を得たことによって表面に出てきたのかな?
いや、まてよ……
14歳の女の子でさえ両親が詰まったグランドピアノをぶん投げたのに、
茅ヶ崎くんは千川さんと戦うので精いっぱいだ。
これは、神代細胞がもたらす怪力というより、
自分の体が壊れることを恐れずに筋力を100%解放しているだけなのかな?
やはり僕の細胞では人の限界を超えた腕力は出ないんだろう」
「ノンキに分析している場合か! なんとかしろ!」
塚元は檻の陰に隠れて叫ぶ。
「なんとかと申されても……
もっと具体的に命令していただけないと、僕としても動きようが、
あっ!」
茅ヶ崎に襲い掛かられて、犬田はあやうく身をかわした。
「さっきは、よくも! 俺の顔を、手を焼いたな!」
「さっきと言わず今だって、
茅ヶ崎くんの行動には[手を焼いて]いますけれどね。けんっ、けふけふ。
おとなしくしてくださいよ」
手術台を挟んで右に左にと避ける犬田を茅ヶ崎は追う。
「ふざけるな! 貴様!」
「そっちだって僕のことをさんざん殴ったでしょうが。
お互い様ですよっ、と」
だが動きを読まれてしまい、どうしても敵のところにたどり着けない。
「おっしゃあ!」
犬田に気を取られている隙をついて、千川は茅ヶ崎の背後に回り、首に腕をかけて締めあげた。酸素の供給を断たれ、少年の体から力が抜ける。
「ふ、かまえました……」
投げられたはずみに顔面を打ち、千川の八重歯は折れ、鼻もつぶれ、唇が腫れあがっている。そのせいで言葉は不明瞭だ。
「えぶんさん、どうしま……ええ?」
彼の上司の姿はない。
「とりあえず、檻に閉じこめろ!」
替わって塚元が指示を出した。
「ふぁい」「はい!」
千川が両肩を、犬田が足を持って運ぼうとした。だが、首から手が離れたので茅ヶ崎の意識が瞬時に戻る。
だらりと下がっていた彼の右手が、すばやく背後の千川の臑をつかみ、ひねる。そのため膝の皿が外にずれた。それと同時に自分の爪先で犬田の顔面を蹴りつけ、彼は駆けだす。
「どけ! 俺は家に帰る!
そのために秘密の首領さまは俺に力を授けてくださったんだ!」
茅ヶ崎がドアから出た瞬間。
パァン パァン
「ぎゃっ!」
二発の銃声が響き、彼は廊下に倒れる。
「犬田。茅ヶ崎を処刑せよ。
茅ヶ崎は秘密の首領さまの御意思をでっちあげて、
自分の身勝手な行動を正当化している。
これは許しがたい冒涜だ。死をもって償わせなければならない」
礼文の声が遠くから聞こえた。
「けんっ、けふけふけふけふ」
咳きこむような声をあげつつ、犬田は立ち上がる。その手には園芸用シャベルがあった。
「銃創が回復するまでは約10分。
それだけの時間をくれてやる。ありがたく思え」
犬田に味方するのがよっぽど嫌なのか、礼文の声は苦々しい。
「……こんな、きず、すぐに」
身を起こそうとする茅ヶ崎の耳を、犬田は思い切り蹴りつける。昏倒する彼の上に馬乗りとなり、目と目の間にシャベルの先端を突き刺した。
「ぐわっ!」
続いて両こめかみも刺す。この三個所は頭蓋骨の中でも特に脆い部分だ。
割れ目ができたところで、犬田はシャベルをもう一度目と目の間に刺すが、今度は角度を変えて眼球の下に滑りこませる。尖った先端は、豆腐のように柔らかい脳幹を切り裂いた。延髄から脊髄へと流れる神経信号が途絶し、茅ヶ崎の体は無目的な痙攣をおこす。
「今のうちに」
犬田は脚をつかんで手術室に引っ張りこみ、アルコールランプ用の三脚を取るとその縁を茅ヶ崎の頭に叩きつけた。水平に一回りヒビを入れてから、ハサミで両目の脇の皮膚と肉に切り目を入れる。そして頭の後ろに回ってから眼窩上縁をしっかり掴み、全力で頭蓋骨を剥した。
すでに下部を切断されていた脳は、頭頂骨の中にコロリと落ちる。
「よし。うまくいったぞ」
左手で脳がこぼれないように支えつつ、残っていた皮膚と肉をハサミで切り離した。
「よいしょ。けっこう重いな」
脳の重量は約1,4キロだ。それを毛の生えた容器ごと犬田は捧げ持って、塚元に差し出す。
「神代細胞が融合した脳の標本が採れましたよ。
さっそく処理しま、
わあっ、と!」
塚元の口から噴出する吐瀉物を、犬田は横っ飛びに交わした。そのまま尻もちをつく博士を彼は見下ろす。
「ご気分が悪いのですか? 千川さん、介抱を……ありゃ」
大男は、すでに気絶していた。それを避けて犬田は廊下に出る。
「礼文さま……」
声をかけられた男はすでに執務室の前に移動していた。彼は振り返り、
「後始末をしておけ」
言い捨ててドアを閉める。
「とほほ」
犬田はぼやく。
「脳は痛みやすいから先に
……いや、僕の細胞は勝手に逃げないようになっているはずだけど、
もしもということがある。安全確認を最優先にしよう。
茅ヶ崎くんから神代細胞を回収して、
次に千川さんの応急手当をして、
脳を処理して汚物の清掃と……
ああ、今夜は徹夜になるなあ。やれやれ」
彼が予想した通り、作業は夜明けまで続いた。
次回に続く