第四話
礼文の前で、根府川は頬を赤らめている。
「もしや……犬田ではなく、お前がかいたのか?」
「はい」
うなずく少年の肩を塚元が叩く。
「礼文さんに伝言した後、
こいつが顕微鏡描画に興味を示したので、
ためしにやらせてみたんだ。
仕上がるまでの速度は犬田より遅いが、
それはこれから成長するだろう。
と、いうわけで研究助手として根府川をくれ」
人事面に口出しをされて腹が立ったが、礼文はあることに気づいた。
(犬田の仕事を奪えば、塚元が厚遇する理由が無くなる)
(そうすれば当初の予定通りに、
犬田を檻の中で飼われる哀れな実験動物に堕とすことができる)
「こちらとしても異存はない。すきなように使ってくれ」
「ありがとうございます!」
根府川は深々と頭を下げた。
「大したものですね。
僕より5歳も下なのに画力が同等、
いや、それ以上かもしれないなんて。
親御さんに、絵画を習わせてもらったんですか?」
「いえ、正規の教育は小学校の図画工作の時間くらいで、
ほとんど独学です。
親は……おれが絵をかくことを嫌っていました」
根府川は涙ぐんで、過去を語る。
「この世にあるものは、常に変化しています。
だから美しい光景を最高の状態でとどめておきたければ、
なにかに記録するしかない。
でもカメラは子供の持ち物ではないし、
親のを借りるにしても、出来上がるのは白黒の画像。
だから、おれは頑張って、
できるだけ正確に姿と色合いを写し取れるように努力して……
でも、親はおれの趣味を理解してくれなくて……」
「芸術家によくあるエピソードだな」
「それでも絵をかきたいという情熱を燃やし続けるなんて、
立派ですねえ」
塚元と犬田は素直に感心する。しかし、礼文は彼を手放しで称賛する気にならなかった。根府川が興味を示していた対象を知っていたからだ。
(こいつは動物の腹を裂き目をえぐり皮を剥ぎ、
血が滴る死体を絵にしていたのだ)
(最初は野生のカエルやトカゲだった。
だが、次第に獲物は大きくなり、
罠にかかったネズミやノラネコ、ノライヌを
残酷な方法で殺すようになった。
これでは周囲の人間が嫌悪するのも当然だ。
しかし叱られ、禁止されても
根府川は己の趣味をやめなかった)
(ついには
貧民街から連れ出した幼女を切り裂きそうになったところを
発見されたため、
彼は親から見捨てられ[真世界への道]に遺棄されたのだ)
礼文の回想は塚元に邪魔される。
「収容されている子供たちは毎日[真世界への道]の教義を学び、
教練をして体を鍛えているそうだが、
それ以外のいろいろなことをやらせてみてくれないか?
絵画だけではなく、他にも埋もれた才能を発掘できるかもしれない」
「うまい話がそうそう続くことはないだろう」
「わかっているさ。
だが、やってみなければわからない。
わからないままだと、
なんだか落ち着かないのが研究者の性分ってやつだ。
ないならないであきらめがつく」
「……千川に申し付けておこう」
「ありがとう」
「それでは犬田から道具を取り上げ、
さらに念を入れて拘束を」
「なにを言っているんだ?
こいつには標本の採取と固定、
そしてプレパラート作成を教育する。
これからもっともっと検査数が増えるというのに、
人手が全然足りていないんだよ。
だから、手先が器用なやつを子供たちの中からも探すんだ」
「!?」
期待を裏切られ、礼文は絶句した。
「それだけじゃない。調理もやらせたい。
なんだ、あの飯は。
昨日は俺が早く来すぎたせいで
準備が間に合わなかったのかと思ったが、
朝も昼もカンパンじゃないか。
あれでは俺の体力を回復できない。
日本人は、最低でも一日一食は米を食わねばならんのだ。
研究を進めるために、食生活の改善を要求する」
「しかし、料理人を補充するあてなど」
「犬田がいる」
「なに?」
礼文に睨まれて、犬田はあとずさった。
「おい、おびえるな。さっき言ったことをもう一度言え。
この塚元医学博士の命令だ」
「は、はい。
僕が昔働いていた店では主人一家と奉公人、
合わせて30人ほどの食事を用意するために
飯炊き爺さんが雇われていました。
その人があるときギックリ腰になったので、
僕が助手を務めることになり、
炊飯のコツを習ったんです。
ですからここにいる18人分の米くらいなら炊けますし、
助手のついでに調理場の手伝いもしていたので
一汁一菜くらいのオカズなら作れますよ」
「まだあるだろう」
「はい。
そもそも既製品を相手の言い値で仕入れるだけでは
高くつきます。そして……」
「礼文さん、ここの経理はどうなっている?
きちんと帳簿をつけているのか?」
犬田が言いにくいであろうことを塚元は代弁してやった。
「それは……まあ。状況に合わせて、その場の判断でだなあ……」
言葉を濁す礼文を塚元は批判する。
「人数が少ないうちならまだしも、
これから実験台を増やしていこうというのに
ドンブリ勘定では困る。
そのせいで、
予算を早々と使い切り必要な時に必要な薬品が買えなくなったら
研究が頓挫するではないか!
資本を提供してくださる富鳥氏のためにも、
経費の使途を明確にした帳簿をつけ、
それを分析して冗費を削減しなければならない!」
「だが、事務員を補充するには……」
先ほどと似たような言い訳をしようとしたが、塚元は再度はねつける。
「犬田がいる」
「なんだと?」
「……僕が店で働いていた本来の仕事内容というのが
帳簿つけなんです。
その経験をもとに、
最近の僕は自身の向上を目指して計理士になるべく勉強していました。
ですから複式帳簿と損益計算書なら作成できます。
それに加えて在庫管理も学びました」
「というわけで、
子供たちの中からソロバンが得意なやつも選抜してくれ。
犬田が作った表に出金入金を記入して
合計を出すくらいならできるだろう。
もちろん検算は犬田自身にやらせる」
「千川にそう申し付けよ、う?」
礼文は気づいたことを口にする。
「これで、犬田は実験台だけではなく、
研究助手と調理員と経理係の四役を務めることになるわけだな」
「そういえばそうだ。
……よく考えたら、そうとうな激務になる。欲張りすぎたか」
「でしたら、それぞれの仕事について手順書を作らせてください。
作業の段取りや注意点を書き記した文書を見れば
誰でも仕事を回せるようにします。
属人化は組織の運営に支障をきたしますからね」
「できるのか? そんなこと」
「せんに働いていたところでも作りましたから、自信はありますよ」
「いや、問題はそこではない。
そんな使いやすい手順書を作るのは
相当な時間と手間がかかるだろう。
直接指導するよりよっぽどきついぞ。
しばらく徹夜続きになるかもしれん」
「いえ、大丈夫です!」
犬田の目は清く輝いていた。
「富鳥氏の御子息は、
重度の火傷で苦しんでいらっしゃるそうです。
でも、僕の体にある細胞を使えば、傷を治すことができる。
いえ、御子息だけではなく、
この世で苦しんでいる怪我人たちすべてを
僕の細胞で救うことができるんです!
その研究を進めるためならば、
仕事がきついとかつらいとか言ってられません!
遠慮なく僕をお使いください!」
「お前……」
「犬田さん……」
塚元と根府川は感動した。
しかし、礼文は悪寒を覚える。犬田黒助の前身である新田音矢は、いかにも善人というふりをしておいて良からぬことを企み、礼文の大切なものを冒涜したからだ。
バシッ
衝動的に、彼はステッキで犬田を打った。
「礼文さん! 何をするんだ!」
詰め寄ろうとする塚元を犬田は止める。
「いいんです。
僕はとんでもない悪事を働いた罪人なんですから、
なにをされようと文句は言えません。
むしろ、罰を受けることで少しでも罪を償わせていただけて、
ありがたいくらいです」
「いったい何をやらかしたんだ」
「それさえも覚えていないくらい、僕は無責任な男なのだそうです」
「礼文さんが、そう言ったのか?」
「はい」
「これは別の話だが、
お前の脳が神代細胞に入れ替わる過程で、
記憶の取りこぼしがあった可能性も否定できないんだよな」
「は、はい」
「…………」
無言だが、不信感をあらわにして塚元は礼文を見る。
(虐待することを正当化するために、
犬田の記憶が一部失われたのを好機ととらえ、
ありもしない罪をでっちあげた。
塚元は私の行動を、そのようにとらえているようだ)
(冗談ではない。こいつの罪は明白なのだぞ)
しかし、真実を訴えるには新田音矢の発言を再現せねばならず、そうすれば冒涜的な内容を塚元に知られてしまう。
だから、礼文は沈黙を守るしかない。
(これではまるで、私のほうが悪者のようではないか)
腹が立ったが、また犬田を殴れば塚元の推測を補強することになる。
だから礼文は方針を変えた。
「犬田、手を出せ」
「はい」
ポケットから出した鍵で、礼文は手錠を外した。
「え」
「足は自分でやれ」
「はい!」
「おい、いいのか?」
急な方針変換に、塚元は戸惑ったようだ。
「身体の拘束は労働の妨げになるからな。
これだけ仕事があれば、よからぬことをたくらむ暇もあるまい。
自らの罪を償うために、粉骨砕身努力しろ」
「はい! ありがとうございます!」
礼を言う犬田に背を向けて、礼文は執務室に向かう。
鍵を閉めてから、彼は仮眠をとった。夜に備えるためだ。
◆◆◆◆◆◆
7月24日。
夕暮れ時、礼文は銀座の事務所から富鳥邸の離れに帰ってきた。といっても、あの義知が使っていたチューダースタイルの建物ではない。それは火事で燃え尽きた。しかし、住処を失った礼文が母屋に移ることはできなかった。リューシャ人を父に持つ彼はその日本人離れした容貌のせいで、他の奉公人から気味悪がられていたからだ。
替わりにあてがわれたのは、長い間放置されていた空き家だった。それは富鳥家の長男の娘、千代子が小学校に入学した際に、祖父からプレゼントとして贈られた家だ。
日本の平均的な庶民が暮らす住宅よりも設備は良い。和洋折衷形式の平屋で、水洗トイレもシャワーも完備した5LDKの広い間取りを備えている。
主寝室のベッドは子供用だが、来客用として副寝室には大人サイズの布団もある。礼文はそこで寝ればいいと言われた。
子供の背丈を越す生垣の角を曲がるとその住宅はあった。[童話に出てくるお菓子の家]をモチーフとする外観は、義光が自らデザインしたものだ。
土台は普通の木造家屋だが、外壁や屋根には派手なペンキで塗装されたドーナツやジンジャーマンクッキー、プリン、キャンディーなどの飾りがこれでもかとばかりにみつしりと盛り付けられている。その姿は、日本に流布している子供向けのメルヘンを越えていた。義光は意図せずに本来のグリム童話に潜む闇と狂気を表現してしまったようだ。
竣工早々の状態でも千代子は怖がっていたが、やがて飾りのペンキが剥がれて不気味さが増してからは、まったく近づこうとせず、母屋にある自分の部屋で暮らしていた。
孫娘が雨の日でも外遊びができるようにと義光が配慮し、玄関には広い屋根つきポーチが設置されている。礼文はそこに置かれた台車を見た。柳行李の上に折詰があった。これは礼文の夕食だ。行李の中にはクリーニングされた礼文の背広とワイシャツなどの衣服が入っている。
礼文はもともと義知の御相手役として雇われた。その主人が重傷を負い入院中なので、富鳥邸における彼の立場は危ういものとなっている。
一応、離れ担当の執事である島口は礼文の衣食住を賄ってくれてはいるが、それは同情からではない。富鳥家に仕えるものが栄養失調になったり不衛生な身なりをしていると体面にかかわるという、ただそれだけの理由だった。
だから、以前のように離れ専属の小間使いが配属されるようなことはない。お茶くみや掃除などは銀座で事務所の管理をするうちに慣れてはいたが、どうしても風呂場の排水溝と便器の清掃だけは不潔で屈辱的に感じられた。
だから礼文は洗濯された衣類を持参して研究所に泊る。夜が明けて、少年たちが朝食をとっている間に風呂場でシャワーを浴び、身支度を整えてから汚れた衣服を柳行李にまとめて富鳥邸まで行き、それから出勤するのが常だった。
研究所の門を自分で開き、礼文は駐車場に停車する。台車は刺し掛け小屋に準備されているので、それに柳行李を乗せて執務室に向かう。折詰は捨てた。彼を嫌う富鳥邸の奉公人たちが地味な嫌がらせとして異物を混入しているであろうと、礼文は考えたのだ。もちろん衣服も針などが刺さっていないか確認してから身にまとう。
調理室からカレーを煮る匂いが漂ってきた。礼文は食欲を覚える。くやしいが、塚元の提案が研究所の生活を向上させたことは事実だ。しかし、礼文はその危険性を読み取り、それに対応すべく準備を怠っていない。
少年たちは脱走を防ぐために全員が倉庫に監禁されて朝まで過ごす。しかし、塚元が来てから夕食の後片付けのあとは食堂に残り、就寝時間まで自由時間が与えられるようになっていた。トランプや将棋などで遊ぶことで、少年たちが健全な精神を発達させることを塚元は望んでいた。
だが、その配慮は裏目に出る。
◆◆◆◆◆◆
午後8時半。夏の日が完全に沈んだ闇の中を、便所の窓から抜け出した少年が足音を殺し歩いていた。
彼は炊事場横に積まれた薪を三本抜くと、ポケットから出した紐で端を巻いた。それを開くと三本足の台となる。さらに紐を交錯させて固く結び、ぐらつきを押さえた。素早くもう一つを作ってから、そっと壁際によって台を重ねる。毎日のトレーニングで鍛えられた脚は、踏み台を蹴って垂直に飛んだ。
ぎりぎりのところで指が高い壁の上にかかる。収容された当時の少年だったならば、ここで滑り落ちていただろう。しかし、今では彼の握力も腕の力もはるかに向上していた。
「お……」
祈り、そして気合を入れる声が彼の口からもれる。
「お、か、あ……さん!」
頭が、そして左腕が塀を越えた。遠くで輝く町の明かりが、彼を歓迎しているように見える。
「待ってて、いま」
パァン
銃声が響く。
両腕が力を失う。彼はそのまま塀の中に落ちた。
◆◆◆◆◆◆
手術台に横たわっているのは茅ヶ崎だ。彼の背から腹に抜けた銃創は一応縫合されている。しかし出血は完全に止まっていない。
塚元の専門は細菌学。大学院に上がってから修練を続けて標本作りなどの技能は向上したが、臨床外科の技術は学生時代に習得したときのまま進歩が止まっていた。
包帯巻きなどは、軍で応急手当を習得した千川のほうがうまいくらいだった。
「う……うう」
苦しそうにうめく茅ヶ崎の、額に浮いた汗を千川はぬぐってやる。
「み、水を……」
「ごめんな。
腹を撃たれたときは、水を飲ませてはいけないんだそうだ」
大量出血で意識が朦朧とした茅ヶ崎は千川の声も耳に入らないようで、
「み、ず……」
繰り返し喉の渇きを訴え続ける。
犬田が手術室に戻ってきた。炭火の入った七輪と、園芸用のスコップ、そしてロープを彼は手にしている。
「なんだ? それは」
「たぶん、必要になると思いまして」
七三に分けた髪も、チョビ髭も、もう見慣れてきた。しかし千川は犬田の様子に、なにかほの暗いものを感じ取る。
それを問いただす前に、二人分の足音が手術室に近づいてきた。礼文と塚元だ。
部屋に入るなり
「……予定より早いが、神代細胞投与試験を開始する」
青ざめた顔の塚元が、宣言した。
「富鳥氏にも許可を取った。
脱走の責任問題はその後で検討するそうだ」
対照的に、礼文は晴れ晴れとした表情を浮かべている。かねがねから彼は、塚元が甘いので少年たちの信仰心が揺らいでいると義光に讒言を続けていた。その結果として脱走事件が起きたが、自分は油断せず警戒していたので未遂に終わらせることができたのだと、礼文は報告した。この手柄のおかげで自分が再び研究所の総指揮を任せられたことを彼は喜んでいる。
「犬田、お前の細胞を分けてやれ」
「はい。でもその前に」
「貴様、口答えを……?」
とがめようとした礼文は、犬田の足元にある園芸用スコップと七輪に疑問を抱き、途中で止める。それはいかにも場違いに思えた。
次回に続く